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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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大農場

 ひとつのプランテーションが使いものにならなくなれば,新たにまた別の農場が開かれた。それは農場全体を一から作りあげる大事業だった。土地を開梱し,鉄道を敷設し,電線も延長しなければならず,労働者用の住まいや学校,病院も建設しなければならない。また,バナナを運ぶロバや食用の家畜のための放牧場を設け,製材所や機械工場,水上輸送システム,発電所などのインフラも整えることになる。会社の幹部が利用するさまざまな施設も,それまでのプランテーションにおけるのと同様に建設する必要があり,ときには以前の建物を解体し,それをふたたび新しいプランテーションで組み立てることもあった。こうしてどのプランテーションにもゴルフコースや教会,レストランが建造され,独身幹部向けには,しばしば年端のいかない娘たちを集めた売春宿も設けられた。それらはバナナ会社の幹部たちが,母国では絶対に手の届かない,あるいは絶対に許されることのないライフスタイルを楽しむための施設だった。ユナイテッド・フルーツの幹部たちが住むこの小さな居留地(コロニー)は,白人にとってけっして住みやすいとはいえない熱帯地方に,有能な管理者を惹きつける大きな誘因になっていた。

ダン・コッペル 黒川由美(訳) (2012). バナナの世界史:歴史を変えた果物の数奇な運命 太田出版 pp.152-153
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さらにバナナの病気

 パナマ病の抑制策がどれも無駄な努力に見えたのは,この病気の伝染力が強すぎたからだけではない。バナナ生産者はまもなく別の問題も心配しなくてはならなくなったからだ。1935年,バナナを枯らす別の病原菌が出現した(南太平洋のフィジー島にある川にちなみ,フィジー語で名づけられた“シガトカ病”は,30年以上にわたってラテンアメリカ全域に広がりつづけてきた旧知の菌よりも,さらに恐ろしい病気となる)。パナマ病同様,この新たな病気もバナナを完全に枯らしてしまうが,感染の兆候が目で確認できないほど早い時期に収穫されると,輸送中にも被害が出てしまうのだ。なんの異常もない状態で出荷されても,市場に着いたときには実が柔らかくなるとか,ひどく変色するといった腐敗が進み,味も臭いも不快なものになっている。さらに悪いのは,シガトカ病は靴や農具,土や水によって広がるわけではないことだった。
 この病原体は空気感染するのだ。つまり,パナマ病よりさらに速いペースで広がることになる。ホンジュラスのひとつのプランテーションで発生したシガトカ病は,恐るべきスピードで,この地域のすべてのバナナに広がっていった。避けられないことではあるが,それぞれがお互いのクローンであるバナナは,病気によって一斉に被害を受けやすい。各バナナ会社はこのころ,パナマの太平洋岸に,パナマ病に未感染の地域を開拓し,大規模なプランテーションの運営を開始していた。このプロヘクトは順調に進み,数年たってもパナマ病感染の兆候は見られなかった。だが,代わりにシガトカ病が出現するや否や,この地域一帯のバナナはわずか数週間で全滅してしまった。

ダン・コッペル 黒川由美(訳) (2012). バナナの世界史:歴史を変えた果物の数奇な運命 太田出版 pp.145-146

バナナの病気

 1950年代,ウォードローは仲間の研究者とともに,1931年に実施した調査を再開した。このころには胴枯れ病は世界じゅうに拡大し,感染した国はアジアで8カ国,太平洋沿岸部で5カ国,アフリカで12カ国にのぼり,西インド諸島を含めた南北および中央アメリカでは22カ国に感染していた。米国もその例外ではなく,フロリダでは,バナナ栽培を始めたばかりのいくつかのプランテーションが感染し,すみやかに閉鎖された。だがおそらく,これらのプランテーションは菌の攻撃があってもなくても,いずれは失敗しただろう。なぜなら,どのケースでも,バナナ会社が適切な検疫や隔離という手順を実施しなかったことが感染を助長させていたからだ。
 バナナ業界の大手企業のトップは,パナマ病のことをちゃんとわかっていたし,それがどのような被害をおよぼし,感染がどう広がるのかもわかっていた。それでも彼らは,その知識を活用して改善策をとり,事態を好転させようとはしなかった。それはまるで,ユナイテッド・フルーツ社も競合企業も,バナナ消費国と生産国の運命を大きく変えた“バナナの魔力”にすっかり惑わされてしまったかのようだった——そのため,バナナがもたらす悲惨な結果や,従来とは異なるほかの運営法には目もくれず,ただ熱に浮かされたように,次々と熱帯地方に押し入っていった。自然はそうした彼らのやり方に応酬したのだ。しかしバナナ会社の耳に自然の警告は届かなかったらしく,彼らは混迷のなかにいた。

ダン・コッペル 黒川由美(訳) (2012). バナナの世界史:歴史を変えた果物の数奇な運命 太田出版 pp.140

バナナと国家問題

 コロンビアの問題をすべてバナナ産業のせいにするのはフェアではない。だが,コロンビアをはじめとするラテンアメリカの国々では,バナナ関連の問題で軍事介入が行なわれた結果,常に国家体制が脆弱で,真の民主主義と適正な経済政策が根づくのが阻害された,という指摘は重要である。ラテンアメリカの政府が,一般の国民ではなく外国の民間企業に下支えされる伝統は,ユナイテッド・フルーツ社がもたらしたものだ。
 こうした傀儡政権を擁する国家には名前がつけられた。中央アメリカの謎めいた架空の国を舞台にし,1905年に発表されたO・ヘンリーの「キャベツと王様」という短編のなかで初めて使われた言葉だ。しかし,O・ヘンリーが創作したこの言葉は,コロンビアの虐殺事件のあと,1935年に<エスクワイア>誌が,ラテンアメリカで米国が繰り広げた暴挙を年代順に記録した記事が発表されるまで,一般に広まることはなかった。この記事ではそうした行為を「非人間的」と書き,果物会社や米国政府にやすやすと従う小国家のことをO・ヘンリーと同じく「バナナ共和国(リパブリック)」と呼んだのだ。

ダン・コッペル 黒川由美(訳) (2012). バナナの世界史:歴史を変えた果物の数奇な運命 太田出版 pp.129-130

ユナイテッド・フルーツ社

 1920年代後半までにユナイテッド・フルーツ社の企業価値は1億ドルを超えていた。6万7千人の従業員を抱え,650万ヘクタールの土地を保有し,32カ国で事業を展開し,教会からクリーニング店までありとあらゆる施設を経営していた。5千6百キロメートルにおよぶ電報線と電話線を張りめぐらせ,船と陸を結ぶ通信システムを整備していた。それは,貨物船が入ってきたとき,波止場の荷積みの準備ができているか確認するために開発されたものだ。傷みやすい果物にとって,時間はきわめて大切な要素である。合図を受けた作業員は,最長で72時間ぶっとおしで,収穫と積み荷の作業を続ける。さらに遠くパリにまでバナナを輸出し,砂糖,カカオ,コーヒーの市場でも最大のシェアを獲得しつつあった。活躍の場はフルーツ産業にとどまらず,アンドルー・プレストンは2つの銀行,保険会社1社,製鉄会社1社の代表の座についた。一方,多大なる影響力をもつユナイテッド・フルーツ社のマイナー・C・キースは,人々から“中央アメリカの王冠なきキング”と呼ばれた。

ダン・コッペル 黒川由美(訳) (2012). バナナの世界史:歴史を変えた果物の数奇な運命 太田出版 pp.109-110

バナナの皮

 歴史家のヴァージニア・スコット・ジェンキンズによると,バナナの持ち運びのしやすさと関係するこの難点は,販売業者が“衛生的な包装紙”と呼ぶバナナの皮が,気軽に道端に捨てられてしまうことだった。捨てられたバナナの皮はたちまちドロドロの物質に変わる。実際にそれを踏んですべり,転んで怪我をする人まで出はじめた。私たちが映画のなかのギャグだと考えている事態が,現実に頻発し,1909年のセントルイスの市議会では,公道や歩道にバナナの皮を投げ捨てることを禁じる条例を成立させた。また,英国ボーイスカウトのコミッショナー,ローランド・フィリップスは,団員たちに宛てた1914年の手紙で,青少年の日々の善行は「歩道からバナナの皮を拾うことにある」という提言もしている。

ダン・コッペル 黒川由美(訳) (2012). バナナの世界史:歴史を変えた果物の数奇な運命 太田出版 pp.99

バナナ・スプリット

 1904年,ペンシルベニア州ラトローブのドラッグストアで働く,見習い薬剤師でソフトドリンク係のデイヴィッド・ストリクラーは,半分に切ったバナナで3種類のアイスクリームを両脇から挟んだデザートを提供した。値段は10セントで,この大型サンデー用にボート形をした器を特別に作らせている(彼のレシピは,バニラ,チョコレート,ストレベリーのアイスクリームを一列に盛り,縦半分に切ったバナナを左右に一片ずつ添え,チョコレート,パイナップル,ストレベリーのソースをかけ,ナッツを散らし,ホイップクリームを絞ってチェリーをトッピングするというものだった)。
 3年後,およそ450キロ離れたオハイオ州ウィルミントンに住むE.R.ハザードは,自身が経営するレストランで似たようなデザートを出していた。ハザードはそれを“バナナ・スプリット”と名づけた。この2つの町はいま,どちらもこのデザートお発祥地だと主張している。同じような主張はオハイオ州コロンバス(1904年),アイオワ州ダベンポート(1906年)からも出ている。議論は続いているが,ペンシルベニアの町には,いちばん先に発案した証拠として,デイヴィッド・ストリクラーが特別注文したボート形の器の請求書兼送り状があると報じられた。ただし,これを書いている時点では,その書類は紛失しているようだ。

ダン・コッペル 黒川由美(訳) (2012). バナナの世界史:歴史を変えた果物の数奇な運命 太田出版 pp.97-98

刺激的な形状

 南北戦争が終結するとすぐに,米国でもバナナが手に入るようになった。とはいえ,初めはぜいたく品で,キャビアと同じように,味を楽しむというよりは社会的地位を示すために消費されることが多かった(ただし,料理用のバナナのプランテーンはスペインの植民地時代から,ずっと南アメリカで主食として親しまれていた)。北アメリカで食されていたバナナは1本10セント——現在の約2ドルで,すでに皮をむかれてスライスされ,アルミフォイルに包まれた状態で売られていた。『バナナ,あるアメリカ史』の著者ヴァージニア・スコット・ジェンキンズによると,フォイルに包んであったのは,バナナのやや刺激的な形状によって,ヴィクトリア人のナイーヴな感受性を刺激しないためだったそうだ。皮をはがれ,熟しきって,大事に包装されていたバナナが,世界にこれほどまでに広がる日が来ようとは,当時は誰も思わなかっただろう。

ダン・コッペル 黒川由美(訳) (2012). バナナの世界史:歴史を変えた果物の数奇な運命 太田出版 pp.81-82

バナナの種類

 アジアからアフリカに向かったバナナの種類は,初め数百種類におよんだが,数千年にわたる農業上の試行錯誤の末に,その数はわずか十種から二十種にまで絞りこまれた。アフリカに到達するころには,遺伝子プールはひと桁台になっていた。この二千年では,アフリカン・プランテーションと東アフリカのハイランドバナナがこの大陸におけるたった二種類のバナナだ。
 もしそのまま事態が変わっていなければ,アメリカ人のシリアル・ボウルに甘いバナナが加わらなかった可能性は充分にある。しかし,西暦650年ごろ,3番目のバナナがアフリカに登場した(ちなみに,4番目のアフリカのバナナは前世紀ごろにもたらされた新しいタイプであるため,ここでは論じない)。最初の2つのバナナは長い年月にわたって根を下ろしているあいだに独自の遺伝的特徴を獲得したが,3番目のバナナは,中東からマレーシアにかけての,インド洋沿岸で見られるバナナに特徴がよく似ている。なかには海を渡ったものもあるかもしれないが,商人が陸路で運んできた可能性が高いと考えられている。7世紀から第1次世界大戦が始まる直前まで続いていたアラブ諸国と北アフリカ間の奴隷貿易の副産物として,多くの果物が伝わった。地域によっては,バナナはぜいたく品だった。10世紀に活躍したイラクの詩人アリ・アル=マスーディは,アーモンド,蜂蜜,バナナで作る菓子“カタイフ”のレシピにバナナを列記していた(カタイフは現在でも食べられているが,ふつうのレシピではバナナを材料にはしていない)。
 アフリカで3番目のバナナは,ようやくこの果物に気づいたヨーロッパ人が,当時形成しつつあったアフリカの植民地(大西洋沿岸のギニアやセネガル,カナリア諸島など)に持ちこみ,最終的にそれが(二千万人のアフリカ人奴隷とともに)大西洋を越えてアメリカ大陸に渡ったのだ。この第3波のバナナを示す専門用語は,“インド洋コンプレックス(IOC)”だが,これには別の名前があり,中東の商人が大陸から大陸に移動するバナナとともに広めていった。分類学者のリンネはアラビア語の“mauz”を借りて,“Musa”をその属名とした。しかし,一般の人々には,誰もが好むこの果物を表わす言葉として,別のアラビア語のほうがなじみが深かったので,そちらがより頻繁に使われるようになった。その言葉とは,英語に翻訳すると「指」を意味する“banan”である。

ダン・コッペル 黒川由美(訳) (2012). バナナの世界史:歴史を変えた果物の数奇な運命 太田出版 pp.71-72

あれはバナナの葉!?

 リンネがつけた属名“Musa”が,バナナを示すアラビア語“mauz”から来ている。アラビア語で書かれたイスラム教の聖典,コーランにも聖なる園にバナナが登場するので,この解釈は納得がいく。コーランでは,エデンの禁断の木は“talh”と呼ばれ,これは通常,「楽園の木」と訳されるアラビア語である(あるいはもっと直接的に「バナナの木」と訳される場合もある)。このイスラム教の聖典によると,その木は「長く生い茂った葉の陰で,果実は重なるように実をつけ……季節を選ばず,その実りが途絶えることはないだろう」と記されている。確かにこの描写は,房になった同心円状のバナナが次々と実っていくさまと符合している。
 ここでふたたび旧約聖書に話を戻そう。西欧諸国におけるエデンの神話では,裸であることに気づいたアダムとエバは,「イチジクの葉」で体を覆ったとされている。だが,イチジクの小さな葉では,かろうじて大事な部分が隠れるか隠れないかといった程度だろう。それに比べて,バナナの葉は実際に,現代でも多くの地域で衣服(のみならずロープ,寝具,傘など)を作るときに使われる。となると,この場合は,エデンのもうひとつの果実を示す単語は誤訳されたのではなく,すっかり誤解されたということになる。以来,古代史においてバナナはイチジクと呼ばれてきた。インドでバナナを初めて見たアレクサンドロス大王は,これをイチジクと記し,新世界のスペイン人探検家たちも同じことをした。
 決定的とも言うべき証拠は,古代ヘブライ語にある。古代ヘブライ語は「モーセ五書」(創世記を含む旧約聖書の初めの五書)が記された言語であるが,シュネイア・レヴィンによれば,禁断の果実を示す言葉ははっきりこう翻訳される——「エバのイチジク」と。

ダン・コッペル 黒川由美(訳) (2012). バナナの世界史:歴史を変えた果物の数奇な運命 太田出版 pp.26-27

あれはバナナ!?

 西洋でエデンの果物と言えばリンゴ,というのは当然のことと思われていたので,私はこの本を書くための取材を通じ,ヘブライ語やギリシャ語で書かれた最初期の聖書で,その果実がリンゴに特定されているわけではないと知り,少なからず驚いた。いま常識となっている解釈は,聖ヒエロニムス(340年ごろ〜420年。考古学者や学徒の守護聖人)が,以前からあったさまざまな聖書のテキストをラテン語に統一し,ヴルガータ聖書を作った紀元400年前後に定まったようだ。教皇に命じられ,ローマで行なわれたヒエロニムスのこの翻訳作業が契機となり,聖書はより多くの人に読まれるようになった。それから600年のあいだに,ほかの言語でも聖書が翻訳され始める。その後,1455年,ヨハネス・グーテンベルクが活版印刷を考案してから,聖書は初めて大量に印刷されるようになった。グーテンベルク聖書は,千年前に編まれたヒエロニムスのラテン語を忠実に写したものである。

ダン・コッペル 黒川由美(訳) (2012). バナナの世界史:歴史を変えた果物の数奇な運命 太田出版 pp.23

待つ科学

 私が,あえて何か主張するとすれば,それは,知能を導き出す「心の科学」は「待つ科学」であり,待つ科学は,あってよいのかもしれないということです。
 心の科学では,観察対象に「未知の状況」を与えます。これは,多くの場合,対象の待つ適応的行動が,適応的に機能しない状況になっていますので,対象にはある程度負荷がかかります。ただ,その目的は,もちろん対象を再起不能にさせるためでも,どの程度負荷に耐えられるかを見るためでもありません。そうではなく,対象がその負荷を「使って」,予想外の行動を発現させられることを示すことが目的です。

森山 徹 (2011). ダンゴムシに心はあるのか:新しい心の科学 PHP研究所 pp.213

知能の存在

 アリやヤドカリ,そしてダンゴムシには,身近にある対象をとっさに道具として用いて,問題解決を図る能力,すなわち知能があるようです。そもそも,外骨格という鎧を着けた彼らは,普段からその鎧を道具的に用いているのかもしれません。
 とにもかくにも,知能の存在を裏づける道具使用や問題解決という現象は,人間やチンパンジーなど大きな大脳を持った動物にしか見られないとは,もはや言えないことは,確かなようです。

森山 徹 (2011). ダンゴムシに心はあるのか:新しい心の科学 PHP研究所 pp.142

心とは

 これまで述べたように,心とは,行動する観察対象における,隠れた活動部位です。その働きは,状況に応じた行動の発現を支えるために,余計な行動の発現を抑制することです。しかし,未知の状況では,自律的にある行動の抑制を解き,その余計な行動を自発的に発現させる逆の働きも持つようです。これらを総合すると,心の働きとは,「状況に応じた行動の発現を支えるために,余計な行動の発現を『潜在させる』こと」と言いかえる必要がありそうです。
 余計とされる行動は,発現を抑制されるだけで,消されてしまうわけではありません。すなわち,覆いをかけられるだけなのです。それはまさしく「潜在」している状態です。未知の状況では,「予想外の行動」として自発的に発現させられるのです。

森山 徹 (2011). ダンゴムシに心はあるのか:新しい心の科学 PHP研究所 pp.54-55

自己賛美と自己表現

 ナルシシズム流行病は,2つの考え方が文化の中心をなしたことに端を発した。「自己賛美は非常に重要だ」と「自己表現は個の確立に不可欠だ」の2つである。ナルシシズム流行病の広まりを減速させるには,この2つの価値観を修正しなくてはならない。
 1つの可能性は,文化的独我論とも言うべきものに対抗することである。人は自分を賛美する必要はないし,自分を表現して存在をアピールする必要もない。しかし,いまや確立されたこの2つの価値観を直接に攻撃しても,激しい抵抗に遭うだろう。特別な人などいないという私たち著者の主張を,多くの人は信じようとしない。この話になると感情的になってしまうので,いきなり自己賛美の重要性に異を唱えても無駄な場合が多い。親として子供にはただ愛情を伝えるだけのほうがいいのだと言えば耳を傾けてもらえるが,その場合でも,子供は自分を好きだと思えなくてはいけない,そうでなければ辛い思いをすることになると反論される。この考え方はアメリカ文化にしっかりと根づいているので,これに立ち向かうのは並大抵のことではない。言ってみれば,ズボンをはかなくてもいいのだと教えるのに等しいのだ。
 同様に,自己表現の重要性も文化に定着している。美術の授業,独創力,選挙の話になると,これらの活動は「自己表現」という枠のなかで語られる。これは過去になかった現象である。芸術は歴史的に見ても自己表現ではないし,独創力も選挙もそうだが,この話から自己表現を取り去ると反発されるのだ。トマス・エジソンは独創力とは1パーセントのひらめきと99パーセントの汗であると言ったが,現在の文化では,50パーセントのひらめきと10パーセントの汗と40パーセントの自己表現なのである。アメリカ人は自分を表現できるのがうれしくてたまらないので,本当はそうする必要はないことを納得させるのは至難の業だ。

ジーン・M・ドゥエンギ/W・キース・キャンベル (2011). 自己愛過剰社会 河出書房新社 pp.345-346
(Twenge, J. M., & Campbell, W. K. (2009). The Narcissism Epidemic: Living in the Age of Entitlement. New York: Free Press.)

新聞上の言葉の変化

 北欧文化の伝統が変わったことは,わずかな数の学校銃乱射事件に表れただけではない。最近のある研究は,ノルウェーの主要な全国紙に現れる言葉を調査した。1984年から2005年までのあいだに,「共同/共通/共有」「義務/責任」「平等」といった集団志向の言葉は使用頻度が下がり,「私」「選択の自由」「権利/特権」といった個人主義を表わす言葉の使用頻度が上がった。かつては集団の重要性を重んじていた社会にまでナルシシズムの言語が広がっているのだ。この調査を実施した研究者らが説明しているとおり,この結果は文化が極端な個人主義へ向かって動いている確かな兆候である。

ジーン・M・ドゥエンギ/W・キース・キャンベル (2011). 自己愛過剰社会 河出書房新社 pp.314
(Twenge, J. M., & Campbell, W. K. (2009). The Narcissism Epidemic: Living in the Age of Entitlement. New York: Free Press.)

特別扱いが当然

 最近の学生は特別扱いされて当然だと思っているという大学教授の不満をよく耳にする。2007年に,ハーヴァード大学の教授がこんな話をしていた。20年前は「病気で試験を受けられなかったごくわずかな学生は……非常に悔やみ,追試を受けさせてもらえただけで感謝していたものだ。最近は,ほかに用事があるなら試験を欠席してもかまわないし,追試の日は自分で決められると思っている」。まるでAの成績は実力でもらうものではなく当然与えられるものであるかのように,「この講座はAでないと駄目なんです」と言う学生もいれば,授業料を納めているのだからよい成績が取れるものと思っていて,教職員に「あたしのために仕事してるんですよね」とまで言う学生もいる。特権意識がとくに強い学生は,「Aをくれるまで先生の部屋を動きません」などとごねれば成績が上がると思い込んでいる。

ジーン・M・ドゥエンギ/W・キース・キャンベル (2011). 自己愛過剰社会 河出書房新社 pp.277
(Twenge, J. M., & Campbell, W. K. (2009). The Narcissism Epidemic: Living in the Age of Entitlement. New York: Free Press.)

ナルシシズムが教育される

 残念なのは,こうした人格教育プログラムの多くが自尊心も教えることだ。そして,「私は特別だ」というかたちでナルシシズムが教育される。これらのプログラムは,自信のある子供はルールを守り,ずるをしたり嘘をついたりしないという誤った前提にもとづいている。しかし,特別な人間ならルールに従う必要がなく,だからナルシシストは攻撃的になりやすく,また不正をしないどころか人よりも不正をしやすいのである。

ジーン・M・ドゥエンギ/W・キース・キャンベル (2011). 自己愛過剰社会 河出書房新社 pp.252
(Twenge, J. M., & Campbell, W. K. (2009). The Narcissism Epidemic: Living in the Age of Entitlement. New York: Free Press.)

自己愛と不正

 不正は学生のあいだでも横行し,しかも増加している。不正をしたことがあると答えた高校生は,1992年は61パーセントだったが,2002年には74パーセントになった。1969年にまでさかのぼると34パーセントで,2002年の半分以下である。2008年にティーンエイジャーを対象に行なわれた大規模な調査では,3分の2が不正を,3分の1近くが万引きをしたことがあると答えた。それにもかかわらず,93パーセントが自分はモラルがあると考えていた。現実と自己概念が一致していない。典型的なナルシシズムである。不正行為は大学に入ってもやまない。2002年のテキサスA&M大学の調査では80パーセント,2007年の12大学の調査では67パーセントの学生が不正を認めた。よい成績をとるための競争が激しくなったことが増加に拍車をかけた可能性はあるが,行動の変化に伴って考え方も変わっている。2万5000人の高校生を対象にした2004年の調査では,男子の67パーセントと女子の52パーセントが「実社会の成功者は,世の中で不正と考えられることであっても,成功に必要なことをして成功した」と考えていた。

ジーン・M・ドゥエンギ/W・キース・キャンベル (2011). 自己愛過剰社会 河出書房新社 pp.247-248
(Twenge, J. M., & Campbell, W. K. (2009). The Narcissism Epidemic: Living in the Age of Entitlement. New York: Free Press.)

特別と愛情はちがう

 子供を愛すること,それを子供に伝えることは,おまえは特別だと言うのと同じではない。愛情は子供の安全な基地になり,いつでも頼れる深い絆をつくる。一方,おまえは特別だと言えば,子供は孤立し,深い絆は生まれない。こうしてナルシシズムが芽生えていくのである。愛情をそそげば,子供は安全な基地から世の中に踏み出していく。そこにデメリットはない。

ジーン・M・ドゥエンギ/W・キース・キャンベル (2011). 自己愛過剰社会 河出書房新社 pp.231
(Twenge, J. M., & Campbell, W. K. (2009). The Narcissism Epidemic: Living in the Age of Entitlement. New York: Free Press.)

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