現場指紋に無頓着であったのはむしろ,指紋法の父とでも言うべき,ゴルトンの方だった。「手の圧力がガラスや金属のつるつるした表面に潜在的なイメージを残すことは良く知られている」。ゴルトンが1892年の著作『指紋』において現場指紋に言及するのは,フランスのルネ・フォルジョ(Rene Forgeot, 1865-1916)による潜在指紋の浮かび上がらせ方を紹介しながらこのように述べた前後の,わずか1頁強のことにすぎない。指紋の遺伝については,丸々1章を割いて,20頁以上にわたって詳述されているのとは対照的である。翌年彼は『不鮮明な指紋の解読』と題した小冊子を刊行するが,そこにおいて検討されているのも,過去に採取された不鮮明な指紋の解読の仕方であって,犯罪現場などに偶然残された指紋が問題とされていたわけではなかった。指紋の分類法について論じた1895年の『指紋論』を最後に,指紋についての積極的な発言を行なわなくなったゴルトンは,結局のところ現場指紋の問題に一度も本格的に取り組むことはなかったのである。ゴルトンにとって指紋とはあくまで,犯罪記録を分類するための指標であるか,さもなければ種や遺伝の研究をするための手掛かりであり,後者の利用法に可能性が乏しいことが分かると,指紋の研究はゴルトンにとって「片手間(spare time)」に行なうべきものにすぎなくなってしまう。
橋本一径 (2010). 指紋論:心霊主義から生体認証まで 青土社 pp.141-142