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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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教育の立ち遅れ

 しかし一方,中国の教育制度はこの頃の欧米に比べていちじるしく立ち遅れていることは議論の余地がなかった。中国の教育制度は今から千年ほども前の宋代を頂点とし,以後はだんだん下り坂となって,衰退の一路を辿るのみであった。明清時代になって,中央に太学,地方の府県に国立学校が設けられたが,有名無実でなんら実質的な教育を行なわなかった。教育を民間に任せ放しの実情であったので,次第に時代おくれのものになり,社会の進歩に取り残されてしまった。
 その民間の教育をともかくも継続させたのは科挙が存在するからであるが,この科挙が本当に役に立つ人材を抜擢するには不十分であることは,中国でも古くから指摘されていた。経学のまる暗記や,詩や文章がいったい実際の政治にどれだけ役立つであろうか。それは単に古典的な教養をためすだけにすぎない。官吏として最も大切な人物や品行は,科挙の網ではすくいあげることができない,というのが古来の科挙反対論であった。
 しかしそれならどうすればよいかという段になると,他に適当な方法が見つからない。科挙は昔から行なわれてきたもので,科挙の及第者の中から立派な人物も多く出ているから,これでいいではないかという常識的な現状維持論が勝利を占めるのである。そして中国が東亜における唯一の強国として羽振りをきかしていた間はまだそれでもよかった。
 ところがヨーロッパに産業革命以後の新文化が起こり,その圧力が遠く東亜に波及してくると,もう安閑としてはおれなくなった。新しい世界情勢に対応するには新しい知識,新しい技術の習得が必要である。この形成を見てとっていち早くそれに順応し,成功したのは東亜諸国の中では日本である。維新政府は1872年,学制を発布し,次々に学校をたてて欧米にのっとった新教育を始めた。以後の急速な日本の発展はこの新教育制度に負うこと多大である。

宮崎市定 (1963). 科挙:中国の試験地獄 中央公論社 pp.203-204
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人間的

 そもそも世の中の常として人一倍やる気を出し,努力して,結果を出した人を称賛する。たとえば益川・小林両博士などのノーベル賞受賞者は,日本の人たちからだけでなく世界中の人々から尊敬を受け,その高い学問的功績をもたらした並はずれたやる気や努力が賞賛される。しかし,正直にいえば,強いやる気は,それほど美しく称賛に値するものばかりであろうかという疑問も私の中には時々頭をもたげてくる。事実,数年前,韓国ではノーベル賞候補といわれ,多くの研究費を得ていた人の研究データが捏造されたものであったことが発覚した。日進月歩の科学の世界,学問の世界では産業界と同様,一日,一刻を争う激しい競争が展開されている。そこで戦う人たちを動かしているやる気はただ美しいものというよりは,むしろ血や汗がにじんだ見苦しい姿に変貌することがある。だが,それは最も人間的なものであることは間違いない。やる気のあり方をもとめてうごめく人間の魂そのものであるように思われる。

速水敏彦 (2012). 感情的動機づけ理論の展開:やる気の素顔 ナカニシヤ出版 pp.3-4

教育抜きの制度

 科挙の特徴は,何よりもそれが教育を抜きにした官吏登用試験であるという点にある。歴代の王朝は金のかかる教育をすっかり民間に委譲して,民間で自然に育成された有為の人物を,ただ試験を行なうだけで政府の役に立てようというのである。これははなはだ虫のいいやり方であるが,試験の精神そのものには異議を挟む余地はなく,また試験制度そのものは長い時間の経験を経て世界に類の無いほど完備した外形をとるようになっている。
 官吏を採用するに試験を行なうということは,ヨーロッパなどではつい最近まで考えられなかったことである。そこには封建的な風習が長く根強く残っており,官吏は家柄によって採用されたり,あるいはもっと原始的な売官制度が行なわれ,官吏の地位を落札で行なうようなことが長く続いていた。民主主義の最も進んだイギリスにおいて官吏任用に試験を用いるに至ったのは,1870年以後のことであり,アメリカはさらにおくれて1883年のことであった。以後各国がみなこれに倣ったが,実はかかる官吏登用試験制度の開始は中国の科挙の影響を受けたのだという見方が有力である。

宮崎市定 (1963). 科挙:中国の試験地獄 中央公論社 pp.203

試験の限界

 どうも試験というものには,その効果に一定の限界があるらしい。あまりに競争が激しくなってくると,もう厳密に答案の出来不出来の差等をつけることができなくなり,合格してもまぐれあたり,落ちるのは不運ということになって,そこに不正のつけこむ隙もでてくるのである。しかしながら,ほかに適当な方法がないとすれば,できるだけこれを公正に行なうように努力しながら守りたてて行くよりほかに道はない。中国歴代の政府は,少なくも天子自身はあくまで試験の公正を守り通したかったのである。そして世間の方でもとやかく非難しながらも,科挙に多大の関心を示し,社交界第一の話題に取りあげたのは,天子の公正な態度に一縷の期待を寄せていたためにほかならないのである。

宮崎市定 (1963). 科挙:中国の試験地獄 中央公論社 pp.197-198

公平性

 次に科挙がもつ優れた利点としては,それがきわめて公平に行なわれる点にある。答案審査は姓名を見ずに,座席番号だけで行なわれるのもその一例である。さらに郷試,会試においては,答案そのものには審査員が手をふれず,ただその写しを見て採点するというようなやり方は,現今の世界においてもその比を見ない。そして世間が科挙に期待し,その合格者を尊敬するのも,この科挙の公平さを信じてのことである。
 しかしこれにも限界があり,科挙はしばしば受験生,および当事者自身の手によって,その公正が歪められる事実が起こった。いったい試験の競争があまり激しくなると,受験生の方ではなんとしても受かりたい一念から,つい安易な不正手段に頼ろうとする。そして一度不正が成功すると,やらぬ方が損だという気になり,次第に不正手段が蔓延しだすのである。豆本を試験場へ持ちこむことはおろか,ひどいのは絹地の肌着にいちめん,四書五経の本文を書きこんで入場する。まさにランニングシャツではなくカンニングシャツだと駄じゃれをいいたくなる代物である。もっとひどいのは替え玉である。これはあとで多額の報酬にありつくらしく,優に商売として成り立つといわれた。優秀な答案書きの選手が現れて,何人分も請け負うのである。清朝の末年,19世紀の後半になって特にこの弊害がはなはだしく,中でも南京の郷試に盛んで,全国的に名の通った代理屋が繁盛した。その風がやがて北京にも伝染し,劉某なる者は会試の際に自分のほかに二人分の答案を書いて,それがみな合格したのみか,一人は第一番の会元になったという。そんな風聞があとで殿試の審査員の耳にも入り,審査員らはきをつけてよい点を与えぬよう用心し,みな三甲に落としてしまった。そして劉某は筆跡が美しく,本来ならば翰林院官になれるところを,わざと退けて政府の小役人に用いたという。これはさんざんもうけすぎた罰であろう。

宮崎市定 (1963). 科挙:中国の試験地獄 中央公論社 pp.195-196

先進性

 このように見ると,科挙が万人の門戸を解放するという看板には掛け値があることになる。確かにそうなのだが,これも時代と比較してから批評しなければ片手落ちになる。なにしろ時代は今から千年も前のことである。ヨーロッパにはまだ封建制度が幅をきかしていた時代である。家柄も血筋も問わず,力のあるものはだれでも試験を受けることができるという精神だけでも,当時の世界でその比をみない進歩したものであったといえよう。そして中国は宋代以降,つい近頃に至るまで,社会構成の本質はあまり変わらず,金持と貧乏人との距離がはなれたままで続いてきたために,科挙の制度も,ほとんど宋代のままで受けつがれてきたのだった。これをヨーロッパの社会に比較すると,その当時においては非常に進んでいたものであったが,後世になると,すっかり時代遅れの制度になっていたのである。

宮崎市定 (1963). 科挙:中国の試験地獄 中央公論社 pp.

両面

 第一に科挙はだれでも受けられる,開放的な制度であることがその特長だといえる。ただし若干の例外は,たとえば祖父,父,自身の三代が特定の賤業に従事した者であってはならないなどの制約はある。しかしこれはきわめて特別の場合であって,またそれにはそれなりの理由があるので,この点をしばらく除外すれば,科挙は士・農・工・商を問わず,だれでも応ずることができるから,非常に民主的な制度だといわなければならない。
 ただこれを実際に受ける方の立場からいえば,万人が等しく科挙に応ずる権利を行使できるとはかぎらない。そこには経済的な問題があるからである。科挙は長い連続した試験の積み重ねであり,その競争もはげしいから,20代の始めに進士の栄冠をえる者はよほど運のいい方であり,30代でもそれほど遅い方とはいえない。とするとその間,絶えず勉強し続けるためには,それだけの経済的なバックが必要であって,貧乏人には到底それだけの余裕がない。また,個々の試験については別に受験料はとらないが,それに附帯した入費が大へんである。ことに田舎に住んでいる者は,郷試を受けるために省の首府へ出る往復の旅費,宿賃のほかに,試験官には謝礼,係員には祝儀がいり,宴会費や交際費も欠かすことはできない。それが進んで会試,殿試のために都まで出ていくことになると,一層費用がかさむのである。明代の後半,16世紀にはこの費用,大約銀600両であったというが,当時の銀1両で米を買うなら,今の日本の金にして1万円ほども使いでがあったであろうから,実際,当時中国の奥地から北京へ出てくることは今の世界一周ほどの大旅行であったのである。これはとても貧乏人にできることではない。いかに科挙の受験料が無料でも,あるいは少々の旅費が出ても,所詮一般人には高嶺の花で手が届かなかったわけである。
 しかしこれもまた別の見方をすることができる。いったい世の中は始めから不公平にできているので,なにも中国の科挙ばかりを咎めるわけにはいかない。教育の機会均等の原則が認められている現在でも,日本ばかりでなく世界各国で,国民一人残らず平等に教育が受けられるところなどありはしない。しかも教育は直ちに就職につながるので,あながち科挙試験に金がかかることのみを責めることはできないであろう。

宮崎市定 (1963). 科挙:中国の試験地獄 中央公論社 pp.192

教育は金がかかる

 このように学校制度がせっかく設けられながら,科挙制度を圧倒して完全にこれに代わることができなかったのは,何といっても経済的な事情からであろう。教育は,元来,金のかかるものなのである。南宋に入ると,太学は規模の点では北宗に比べてずっと縮小されている。政府はえてして教育のような,すぐ目前に効果の現れない仕事には金を出したがらないものである。
 以後,中国の歴史は教育に関しては,時代の進展に対して逆方向をとった。明清時代には,中央には太学,地方には府学,県学があったが,それは名ばかりで実際の教育を行なわなかった。学校制度はかえって科挙制度の中に組み込まれてしまい,学校試は科挙の予備試験として利用されるのが実情であった。だから実際には,学校がなくなって科挙だけに還元されてしまったといっていい。科挙も金がかからぬことはないが,学校教育に比べるとずっと安くつく。非常にイージー・ゴーイングな政治が,せっかく北宗時代に芽ばえた学校教育制度をおしつぶしてしまったのである。

宮崎市定 (1963). 科挙:中国の試験地獄 中央公論社 pp.190

科挙の欠点

 ただし唐代の科挙にはまだ実際幾多の欠点がみられる。まず第1に,その採用数がはなはだ少ないことである。これは当時の中国の文化普及の範囲がきわめて狭かったことから起こる必然の結果である。まだ印刷術が実用的になっておらず,書物は手で写さねばならなかった関係上,非常に希少であると同時に高価なものであり,したがって学問に従事できる者はきわめてかぎられた範囲に止まっていたのである。
 当時の官僚政治はまだ成立したばかりであり,歴史も経験も浅いために,必ずしも常にスムースに運営されたとは限らず,時に官僚間に激烈な派閥争い,党争が展開されたのであるが,科挙そのものがその原因をなしている事実も指摘される。これが第二の欠点である。前にも述べたように,科挙では試験のたびに試験官を座主と称し,合格者がみずから門生と称えて親分子分の関係を結び,また同期の合格者が互いに同年とよびあって相互扶助につとめるが,その結合があまりに強すぎると,ここに派閥が発生する。この際,試験管たる者は労せずして多くの子分を獲得することができるので,その地位がまた奪いあいになる。こうして試験官を中核とした無数の小さな派閥が出来上がるが,もし進士以外の,立場のすっかりちがう勢力が出現すると,進士らは大きく団結してこれに対抗しようとする。事実,そういう党派争いがもちあがって,政権争奪を繰り返すこと40年の長きに及んだものである。進士党が天下をとれば,非進士党はことごとく中央から退けられ,非進士党が天下をとると,今度は進士党がみな中央から追い出される。そういうことを何回か繰り返し,そのたびに内治も外交もこれまでの方針をどんでん返しにするので,結局は中央政府の威厳を損ずるばかりであった。遂に当時の天子,文宗をして,外部の盗賊を征伐するのは何でもないが,朝廷内の派閥を除くのは不可能だ,と嘆息せしめたものである。

宮崎市定 (1963). 科挙:中国の試験地獄 中央公論社 pp.185-186

目的

 今から1400年も前の隋代に最初に科挙を行なった目的は,これによって前代の世襲的な貴族政治に打撃を与え,天子の独裁権力を確立するにあった。それ以前のいわゆる六朝時代(3世紀から6世紀まで)は貴族勢力の黄金時代であり,世上に特権的な貴族がはびこって中央,地方の官吏の地位を独占していた。この貴族政治はある点では日本の藤原時代に似ており,ある点では日本の封建時代にも似ている。もっとも,日本の藤原時代は藤原一門が上層の官位を独り占めにしていたが,中国の六朝には世上に無数の貴族があり,それがおよそ4段階くらいにわかれてそれぞれの格式を守っていた。また封建制度下にあっては父が死ねば子がそのまま父の地位を継承するが,六朝の貴族はそうでなく,貴族子弟はその初任の地位と最後に到達しうる限界とが家格によっておおよそ定まっていただけで,子がいきなり父の死んだときの地位を受けつぐことはなかった。これらの点で両者はちがっていたのである。
 しかしそういう状態だと天子の管理任用権ははなはだ狭いものになり,才能によって人物を自由に登用することができない。もし天子が従来の慣例を破って人事を行なうと,貴族出身の官僚群から手ひどく反撃を食うのである。そこで隋の初代の文帝は内乱を平定して権勢の盛んなのを利用し,従来貴族がもっていた特権,貴族なるゆえに官吏になれるという権利をひと思いに抹殺してしまい,改めて試験を行なってそれに及第した者のみを官吏有資格者とし,多数の官僚予備軍を手元に貯えておき,必要に応じて中央,地方の官吏の欠員を補充する制度を樹立したのである。これが中国における科挙の起源であった。

宮崎市定 (1963). 科挙:中国の試験地獄 中央公論社 pp.181-182

武術の科挙

 武進士らはその成績に応じてそれぞれの武職に任命されるが,世間でも,また軍隊の中でも武進士はあまり重んじられない。戦争は政治とは違って,試験にうまく及第したからといって,それが本当に役立つとはかぎらないからである。文進士はいろいろな非難を浴びせられながらも,その中から有名な政治家や学者が数多く輩出したが,武進士で実際に戦功をたてたものはほとんどいない。
 軍隊ではばがきくのは,何といっても兵卒から叩きあげ,実践で手柄をたてた将軍である。軍隊というところは一種特別な社会であり,始めからそこで苦労をつまないと兵卒の心理もわからないし,軍隊のかけひきのこつも会得できないのである。いざという時に軍隊で一番たよりになるのは兵卒上がり,行伍出身の将軍である。兵卒から信頼されなくては,どんな部隊長でも思いきった戦争はできない。結局,武進士は,内地の平穏な場所で部隊長を勤めて定年まで平凡無事にすごせばよい方で,これでは世間が一向もてはやしてくれないのも当然だということになる。

宮崎市定 (1963). 科挙:中国の試験地獄 中央公論社 pp.174

行いのせい

 これが本当ならまことに恐るべきことである。閻魔さまや天帝は,その部下を使って世界中にアンテナを張りまわし,人間の善事悪事をキャッチして,それに相応する賞罰をあたえる。人間は寸時も油断できないのである。これが中国で普遍的に行われる道教の実践道徳の根底に横たわる思想なのである。
 こういう立場からすると,試験審査官の少々のの不公平も,実は,受験生自身の宿業だということになってしまう。試験の成績発表があるごとに,世上にはいろいろの取り沙汰が行なわれる。やれ何番目の合格者は賄賂の結果だ,やれ何番目は文章が下手で有名な男だ,やれ何番目は品行のよくなかった男だ,どうのこうのと非難が起こりやすい。すると別の見方をする側では,いや最初の場合は先祖代々陰徳を積んだ家だ,第二の場合は親孝行な男だ,第三番目の場合は人知れずこっそりと善事を行なっていた男だ,などと弁護する人間も現れる。

宮崎市定 (1963). 科挙:中国の試験地獄 中央公論社 pp.161-162

大盤振る舞い

 科試の成績は歳試と同じように6等に分かち,1,2等の優等生は問題なく郷試に赴く資格を与える。もっともこの資格はただ1回かぎりのものである。第3等は上位の5名ないしは10名だけ郷試に応ずる資格を与えるが,それ以下は不合格である。しかし郷試の直前に,学政がもう1度彼らを集めて補欠試験を行ない,各府ごとに前の合格者とほぼ同数の者を通過させる。ただしこれは試験場の収容可能人員をにらみ合わせた上である。
 郷試に赴く資格を認められた生員を挙子という。挙子の数は,郷試に合格を予定された定員1名につき,その54倍ないしは88倍と定められているが,もし試験場に余裕があればさらに挙子をふやすことができる。これを大収,大盤ぶるまいと称した。結局合格者1人につきおよそ100倍の挙子が郷試に赴くことになるのが常である。

宮崎市定 (1963). 科挙:中国の試験地獄 中央公論社 pp.56

学校と科挙

 学校制度と科挙制度とはがんらい異なった性質をもつものであって,これを混同してはならない。学校は生徒を教育する機関であり,そのために教官が配属されているのであるが,本来,学校に長い間在学し,何度も学力試験をうけると,その優秀な者は学校を出て直ちに官吏になる試験を行なって官吏の資格を与える制度であった。そしてその試験官には臨時に任命された委員がなったのである。
 しかるに後世この両者が混同され,官吏となるには科挙によるのが最も早道であり,科挙を受けるためには学校の生員でなければならぬから,ただ科挙の前段階として学校へ入る入学試験を受けるようになってきたのである。しかもその希望者が多いので,政府はこの入学試験を何段階にも分けてふるい落とさざるを得なかった。こうして入学試験がだんだんむつかしくなると,それがあたかも科挙の予備試験のようになってしまった。
 しかし本来の制度は制度としてそのまま続いてきているのである。そして学校の教育的立場から実施する歳試という学力試験があるが,これこそ学校試の本体であったのだが,それが選抜試験でなく,単なる学力試験であるために,段々とその存在が無視されることになったのである。

宮崎市定 (1963). 科挙:中国の試験地獄 中央公論社 pp.46-47

不当な行為集

 院試は入試最後の本試験なので,最も厳格に実施されねばならぬとされている。多数の童生を一緒に集めるため,互いに静粛を保たせ,また不正行為を防止しなければならない。そのために学政は十個の異なった印を用意し,童生に不当な行為ありと認めた時は,直ちにその場にきて答案紙の上にその内容に応じてそれぞれの印を押すのである。十個の印とは,
<移席> 自己の席を離れること。童生は1回かぎり,飲茶及び出恭(小用)のために座席を離れることを許されるが,その時には答案用紙を係員のもとに提出しておき,用が終わった後に受領して書き続ける規定になっている。しかし童生はその手続きがめんどうである上に時間も惜しいので,多くは不浄壺を持ちこんで座席の下において用を足すという。もし無断で座席を離れたときには,直ちに係員が来て,答案の書きかけのところへこの印をおす。
<換巻>両人が互いに答案紙をとりかえること。あらかじめ共謀し,学力ある者を頼んで代作してもらおうとしたのではないかとの嫌疑がかかる。
<丟紙>答案紙,または草稿紙を地面におとすことはそもそも不謹慎な行為である上に,常に換巻の機会をつくることが多い。
<説話>話しあい。
<顧盼>四方八方を見まわして他人の答案をのぞきこむこと。
<攙越>他人の空席を見つけて割り込むこと。
<抗拒>係員の指図にしたがわないで反抗すること。
<犯規>答案作成上におかした規則違犯。
<吟哦>口の中でぶつぶついうこと。特に詩を作る時に韻をととのえるためにやることが多いが,これは他の童生の迷惑になることおびただしい。
<不完>日没になっても答案が未完成の場合は,その最後のところへこの印をおす。いつのまにか,誰かが書きたしておかぬともかぎらないからである。
 答案の上にこのような印が1つでもおされたからといって必ずしも直ぐ不正が行われた証拠とはならないが,試験官の心象を害すること多大であり,まず落第は免れない。ほかにいくらでも優秀な答案が出ているからである。

宮崎市定 (1963). 科挙:中国の試験地獄 中央公論社 pp.38-39

学政

 清代,中国本部の各省には最高行政官たる総督と巡撫がおかれていたが,なおこの外に学政なる高官が任命されていたことを忘れてはならない。学政とは提督学政の略で,また提学ともよばれていた。これは教育行政長官の意味である。
 教育は原理としては最も重要視され,教育行政は他の行政と切り離してこの学政の手中に委ねられていた。学政の官位は概して総督,巡撫よりも低い者が任ぜられるが,彼は決して総督,巡部の属官ではなく,これと対等の権限を有する。というのは,学政は3年の任期を定めて天子から直接,各省に赴任せしめられたもので,総督,巡撫が天子に直属するのと同じように学政も天子に直属するからである。もし総督,巡撫の行為が不適当だと思えば,これを天子に対して弾劾することもできる。

宮崎市定 (1963). 科挙:中国の試験地獄 中央公論社 pp.35

糊名

 提出された答案は,表紙の姓名を記した部分を糊ではりつけて封じる。これを糊名といい,採点の際,座席番号だけしか見えないようにするためである。
 もし答案の中に,多数の者がほとんど同一の文章を書いた時には,これらは朝廷で禁止している模範答案集でにわか勉強をしたに相違ないとし,これを雷同と称して全部を落第にする。替え玉受験もしばしば行われるが,これは答案審査員が答案を見ただけでは分からない。あとで密告,または後の試験における筆跡の照合などによって発覚した時には,重い処罰を受ける。

宮崎市定 (1963). 科挙:中国の試験地獄 中央公論社 pp.23

鬚さえなければ

 まだ戸籍というものがない時なので,年齢はしばしばいつわって書き込まれることがある。というのは,受験資格に年齢の制限はないのであるが,ただ15歳を境にして,14歳以下は未冠,すなわち元服以前,15歳以上は己冠,すなわち元服以後として,取扱いに区別を受けるからである。古来14歳までは童子であり子供扱いをうけるが,15歳になると冠礼という元服式をあげて成人になったことを祖先の廟に報告し,以後冠をかぶって一人前の大人扱いをうけるのである。
 学校試は童試といわれるように,もともとは童子,つまり14歳以前のものを対象に行う試験なので,それに対しては平易な問題を出し,また採点にも手心を加える。
 ところが,そこへすでに冠をつけた老童生が割りこんでくると,それに対してはことさらに難問題を出して戸惑わせたり,あるいは辛い点をつけたりして差別待遇をする。それではたまらないと受験する童生の方は年齢をごまかして若く書きこむ。ひどいのになると,40歳,50歳になっても,まだ元服前の14歳だと称して受験する。黒々とした鬚があっては邪魔だから,きれいに剃りおとして子供に化けるのである。ほとんど皆が皆といってよいほど年齢をいつわるので,受け付ける方でも,どこを境にして法規を励行していいか分からないので,鬚さえなければどんなに顔に皺がよっていても見逃してくれる。かくして4,50歳の老童生までが14歳以下の童子で通るのである。

宮崎市定 (1963). 科挙:中国の試験地獄 中央公論社 pp.20-21

早熟なだけ

 ときに非常によく物を覚える子があるもので,数える片はしから覚えこんで,千字文がすむと「蒙求」という歴史ものにとりかかり,それがすむと今度は学校に入ってから習うはずの「四書」「五経」まで,ずんずん進んで行く。そのなかでもよくできる子は,これはえらい天才が現れたという評判が立ち,だんだん噂がひろまって天子の耳にまで入ることがある。すると天子は特別に童科,つまり子供の科挙を開いて試験し,及第すると童子出身という肩書をあたえることがあった。
 しかし童子出身者はいたずらに早熟なだけで,それ以後どうも大成した者がない。結局大人のおもちゃにされたのが落ちということが多い。童科は宋代に大いに流行したが,後世その弊害に気づいてだんだん廃れて行われなくなった。

宮崎市定 (1963). 科挙:中国の試験地獄 中央公論社 pp.12

受験地獄の必然

 科挙の始まった6,7世紀の頃からのち数百年間は,官吏となる以外に利殖の道が少なく,下って明代頃から商売に身をいれれば,らくに暮らせるような世のなかになったが,しかし商人では肩身がせまい。その上,大商売をしようとすればどうしても身を卑下しつつ官辺と連絡をとらねば不便なので,そんな屈辱をしのんで金をもうけるよりも,官吏そのものになって堂々と好運をつかむのが一番賢いやり方なのである。
 そこで世人が争って科挙の門をめがけて殺到するから,広い門もだんだん狭くなる。競争が激しくなればなるほど,それに打ちかつには単なる個人の才能よりも,個人をとりまく環境が大いに物をいうことになる。もし同程度の才能に生まれついていれば,貧乏人よりは金持が有利,無学な親をもつよりは知識階級の家に生まれた方が有利,片田舎よりも文化の進んだ大都会に育った方が有利だということになる。その結果として文化が地域的にいよいよ偏在し,富もまたいよいよ不公平に分配されるようになる。
 中国は土地が広く人口も多い。そのなかから,最も環境に恵まれ,才能に富んだ人たちが集まって必死の競争を展開するのだから,科挙はますますむつかしい試験になる。試験地獄がもし起こらなかったら,その方が不思議であろう。

宮崎市定 (1963). 科挙:中国の試験地獄 中央公論社 pp.7

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