読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。
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世界で最初の大規模な強制収容所は,ロシア帝国などの侵略に対して立ち上がったポーランドの愛国組織「バール連盟」(1768~72年)の反乱の参加者を収容したものといわれる。ロシアに敗れはしたものの最後まで抵抗し,捕まった約5000人が家族とともにポーランド・リトアニア共和国の三ヵ所の収容所に押し込められ,最終的に多くがシベリアの強制収容所に送られた。
石弘之・石紀美子 (2013). 鉄条網の歴史:自然・人間・戦争を変貌させた負の大発明 洋泉社 pp. 96
自衛隊が使っている「野戦築城」の訓練教本にも登場する,それによると,鉄条網の主な用法は「陣地鉄条網」「自衛鉄条網」「補足鉄条網」がある。陸上戦の「対人障害」の重要な一翼とされている。「陣地鉄条網」は,敵から見えにくいようにジグザグに張り,「自衛鉄条網」は施設をぐるりと取り巻くように張る。その外側にさらに補強する目的で設置するのが「補足鉄条網」である。
石弘之・石紀美子 (2013). 鉄条網の歴史:自然・人間・戦争を変貌させた負の大発明 洋泉社 pp. 93
この戦闘で特筆すべきは,ソ連軍が鉄条網の使用にさまざまな工夫を凝らしていたことだ。たとえば,日本の戦車部隊が悩まされた「低張鉄条網」である。直径40~50センチほどの輪状や格子状にした鉄条網を地面に敷き詰めたものだ。
そこに,日本軍の戦車が突っ込むと,キャタピラーを動かしている起動輪や転輪に絡みついて動きが取れなくなる。とくに,草原に隠すように幾重にも設置された場合には効果は絶大で,立ち往生したところをしばしば速射砲で撃破された。
反撃ができずに切羽詰った日本軍は,爆弾を抱いて戦車の下に潜り込む肉弾攻撃を仕掛けたが,ソ連軍は戦車を鉄条網で覆って防御したためうまくいかなかった。
石弘之・石紀美子 (2013). 鉄条網の歴史:自然・人間・戦争を変貌させた負の大発明 洋泉社 pp. 91-92
大戦の初期は,フランス軍の塹壕は浅くて塹壕と塹壕をつなぐ連絡線もなく,塹壕の前面の防衛線もなかった。攻撃や退却途上の一時的な避難場所でしかなかった。一方,開戦後間もなくドイツ軍は恒久的な塹壕を掘り,塹壕の前にワイヤーを張りめぐらせていた。これはすぐにフランス軍が追随するところとなった。
石弘之・石紀美子 (2013). 鉄条網の歴史:自然・人間・戦争を変貌させた負の大発明 洋泉社 pp. 74
城壁,要塞,砦などの恒久的な防御用建築物と異なり,塹壕は一時的な施設である場合が多い。17世紀までは,歩兵や騎馬の地上戦で決着がついたから,こうした防御施設はほとんど意味をもたなかった。塹壕は銃砲の普及とともに発達してきた防御法だが,とくに重要性を帯びてきたのは,機関銃をはじめとする高速ライフルや長距離砲など銃砲の進歩によるところが大きい。
欧州大陸中央部からはじまった塹壕は,両軍が互いの塹壕の裏側に回り込もうと,戦場に沿って北へ掘り進められ,開戦二ヶ月にして北の端は北海にまで達した。塹壕の全長は700キロにおよんだ。
石弘之・石紀美子 (2013). 鉄条網の歴史:自然・人間・戦争を変貌させた負の大発明 洋泉社 pp. 73-74
開戦はしたものの,両陣営ともに「クリスマスまでには戦争は終わるだろう」という空気が支配的だった。せいぜい半年間の短期戦を予想していた。この背景には,多くの人びとの抱いていた戦争のイメージが,ナポレオンの戦争当時のままだったことがある。後方から大砲を打ち合い,機をみて騎兵や歩兵が突撃するという戦法だ。当時は戦争を支える兵力にも軍需産業にも限りがあり,長くつづける「体力」はなかった。
だが,戦場に送られた両軍の兵士はすぐさま,これが容易ならざる戦闘であることを知った。はじめは少数しか配備されていなかった機関銃が,その威力が証明されるにつれてしだいに数を増やし,ついには戦場の主役の座を占めるまでになった。突撃する兵士たちに機関銃の弾が降り注ぎ,死傷率もそれまでの戦争と桁違いに高くなった。
機関銃の製造は当時,英国のヴィッカース社と米国のホチキス社が独占していた。ヴィッカース社の機関銃は,1分間に745発も発射することができた。
石弘之・石紀美子 (2013). 鉄条網の歴史:自然・人間・戦争を変貌させた負の大発明 洋泉社 pp. 71
鉄条網による防御をさらに強固にしたのが機関銃の配備だった。鉄条網と機関銃はほぼ同時期に実用化された。陣地の前面を鉄条網で固め,その隙間から機関銃で攻撃するというこの2つの組み合わせは最強の守りとなった。
機関銃のアイディアは古くからあったが,はじめて実用化されたのは1861年に米国のリチャード・ガトリングが発明した「ガトリング砲」である。六本の方針を束にした多銃身で,ハンドルで回転させて連続射撃した。当時としては,毎分350発という驚異的な発射速度を誇った。「砲」とよばれるが,口径20ミリ未満を「銃」と呼ぶ慣例からすれば,銃である。
ガトリングは発明の動機を「この砲による大量殺戮の恐怖から,戦争を止めさせることができる」と,ダイナマイトを発明したノーベルと同じようなことを語っていた。間もなく最強の殺戮武器として各国が競って装備するようになった。
石弘之・石紀美子 (2013). 鉄条網の歴史:自然・人間・戦争を変貌させた負の大発明 洋泉社 pp. 64
1937年から大統領のよびかけで,大平原各地に大規模な防風林を植林する運動も開始された。1935~41年には,土壌侵食を止めるために,日本から7300万のクズの種子が運ばれて播かれた。秋の七草の一つにも数えられるツル性の植物で,地面を這うことから侵食防止には最適とされた。ただ,その後野生化して猛烈な繁殖力で南部諸州に広がり,現在ではいたるところを覆い,高速道路にツルが這い出して車のスリップ事故を誘発し,「害草」として持て余しものになっている。
石弘之・石紀美子 (2013). 鉄条網の歴史:自然・人間・戦争を変貌させた負の大発明 洋泉社 pp. 55-56
翌1931年は中西部から大平原南部の農牧地で局所的な干ばつに見舞われ,「黒いブリザード(吹雪)」とよばれる砂塵が舞った。1932年は,しだいに砂嵐の発生回数が増えて,全国で14回が記録された。
1933年には砂嵐は38回を数え,さらに干ばつの被害は拡大した。この年ローズベルト大統領はニューディール政策を発表して,深刻の度を加える大恐慌と大干ばつの対策に手をつけた。労働史上最大規模の農業労働者のストを抑えるために,農業牧畜への緊急融資,価格維持のための家畜の大量処分,余剰生産物の貧困者への無償配布などの政策を矢継ぎ早に打ち出した。
1934年に入ると,干ばつは27州,全米の75%の地域に拡大した。5月には,モンタナ州で発生した砂嵐が,東西2400キロ,南北1500キロにもおよび,36時間もつづいて推定3億トンの砂塵を巻き上げた。
石弘之・石紀美子 (2013). 鉄条網の歴史:自然・人間・戦争を変貌させた負の大発明 洋泉社 pp. 49-50
グリッデンは,長さ五センチほどのワイヤーの両側を斜めに切って鋭くしたトゲ(これをバーブ barbという)をワイヤーに固定する技術を確立した。バーブをワイヤーの上に等間隔でならべておき,コーヒー挽き器の原理を応用してワイヤーにバーブを二重に巻きつけて,バーブの先端が両側から1~2センチはみ出すようにした。
だが,これだけではバーブがワイヤーにしっかり固定できないで,位置がずれてしまう欠点があった。そこで,バーブを巻きつけたワイヤーにもう1本のワイヤーを添えて,二本を撚り合わせることでバーブを固定することに成功した。量産できる機械も発明した。これが,今日の鉄条網製造の原型になった。今日でも「グリッデン型鉄条網」とよばれている。
この利点は,二本を撚り合わせると強度が増して夏の猛暑でも緩みがでなかったことと,丈夫なために家畜が二度と破ろうとはしなくなったことだ。
石弘之・石紀美子 (2013). 鉄条網の歴史:自然・人間・戦争を変貌させた負の大発明 洋泉社 pp. 21-22
こんな切実な状況から,安価で効果的に大面積を囲う柵が切望されていた。これは世界共通の悩みでもあり,多くのアイディアが登場した。その先覚者はまずフランスに現れた。1860年代初期に,鉄線にトゲを巻きつけ二本の鉄線を撚り合わせて鉄条網を作る方法が考えられた。
しかし,ほとんど実用化しなかった。
石弘之・石紀美子 (2013). 鉄条網の歴史:自然・人間・戦争を変貌させた負の大発明 洋泉社 pp. 19-20
プリンストンで驚いたのは,3年に一度の頻度でサバティカルが取れる制度が機能していることだった。3年教えれば1学期間は有給のサバティカルをとる権利が生じ,無給でよければ1年間の権利を手にできる。研究費を確保すれば3年ごとに研究に専念する時間を確保できるわけだ。若手の場合はそれ以上の頻度で優遇される場合もあるという。何冊も本を出している教授がいるのは,まさにサバティカルが頻繁にとれるという制度のおかげなのかもしれない。
佐藤 仁 (2017). 教えてみた「米国トップ校」 KADOKAWA pp. 165
1996年,スタンフォード大学でコンピュータ科学を専攻していた二人の大学院生が取り組んでいたのは,当時「スタンフォード・デジタル図書館技術プロジェクト」という名で呼ばれていた研究だった。いまでは終了しているこのプロジェクトの目標は,本の世界とワールド・ワイド・ウェブとを結びつけた将来の図書館のあり方を構想することにあった。彼らが取り組んだのは,図書館の蔵書を自由に検索してサイバースペース内で次から次に本を歩猟できるようにするためのツールの開発だった。しかし,当時はこのプロジェクトには無理があった。利用可能なデジタル書籍の数がかなり少なかったからである。そこで,彼らは文書から別の文書へと進んでいくという自分たちのアイデアと技術を利用して,ビッグデータの跡をワールド・ワイド・ウェブの中で追うことにした。こうして,彼らの取り組みは小規模な検索エンジンに転化した。彼らはそれを「グーグル」と名づけた。
エレツ・エイデン ジャン=バティースト・ミシェル 坂本芳久(訳) (2016). カルチャロミクス:文化をビッグデータで計測する 草思社 pp. 30
日本と米国の教員たちの研究環境を比べるうえで,入試業務の有無は大きな違いである。私は東大の教員になってはじめて,センター試験の監督が大学教員によって担われていることを知った。気の毒なことに,定年を控えた大先生も駆り出されることが多い。朝8時に試験会場に集合し,秒単位で時計を合わせ,監督リボンを胸につけて,お茶をすする。1月末の大学校舎はどこも寒い。「どうか怪しい動きをする受験生がいませんように」「機材などが正常に作動しますように」と祈りつつ教室に向かう。
そこから丸1日もしくは2日間,もくもくと監督業務をこなし,「答案が足りない」などトラブルで足止めにならないことだけを祈って解散の声を待つ。
監督業務は大学教授でないとできない仕事ではないし,入試にある種の威厳が必要であるとしても,受験生の大部分は監督が教員であることを知りもしない。出題や採点の担当になればもっと拘束される。
入試以外でも,たとえば留学生や訪問研究員を海外から受け入れる際など,大学教員にはさまざまな業務がある。図書館にどのような雑誌を入れるとか,どの雑誌を購読中止にするか。各種の競争資金への応募書類の作成,学会投稿論文の査読,学生の論文審査や推薦状の作成など,案外バカにならない作業が累積して研究にあてるべき時間を奪っていく。
佐藤 仁 (2017). 教えてみた「米国トップ校」 KADOKAWA pp. 156-157
学部教育を重視するプリンストンは,まだよいほうかもしれない。2005年に実施された米国トップ校における学部生の満足度調査では,ハーバードが何と27位の低位にあることが判明した。その大きな理由が,教員が直接学部生を教える機会が少なく,授業のほとんどが大学院生や博士研究員(特にポストドクターと呼ばれる1~2年間の契約研究員)に「外注」されているから,というものであった。教育よりも研究を重視するというのは,トップ校にみられる一般的な傾向である。
もちろん,教員と学生の距離は学部の規模にも大きく影響されるだろう。学生に人気のない学部・専攻では,規模の小ささゆえに教員との距離も近づくに違いない。だが,私がプリンストンで所屬する公共政策学部では,学生から「教員が会ってくれない」「論文にコメントをもらえない」といった不満がよく聞かれた。経済学部や公共政策学部の教員は,大学以外の仕事,たとえば政府機関の委員やコンサルタントを務める機会が多い。その分,学生と接触する機会も減るということなのだろう。
佐藤 仁 (2017). 教えてみた「米国トップ校」 KADOKAWA pp. 111-112
私の経験からいうと,あからさまに成績へのこだわりを露出し,教員に働きかけようとするのは,最優秀グループの学生ではない。成績至上主義に染まってしまうのは,その下に位置する二層目の学生たちだ。そもそも,A(優)をとる方法を教員に聞かなくてはいけないという時点で,自分で考えることを放棄してしまっている。こういった学生たちは自分の学力にある種のコンプレックスを感じているのだろう。
佐藤 仁 (2017). 教えてみた「米国トップ校」 KADOKAWA pp. 104
米国トップ校で「できる」学生は,どこか余裕があって,高性能のポルシェが時速40キロくらいでゆっくり走っているような感じだ。好奇心が強く,鋭い問いを繰り出して,与えられた課題であっても自分の問題として引き受ける馬力がある。一方,「できない」学生は,全体としてエネルギー量が少なく,プリセプトでもほとんど発言しない。課題も,どうにかこなしてはくるものの,基本的な作文能力を欠いている,あるいは課題の意味を十分につかみ取っていない場合が多い。
東大は学力のみで選考されるため,基礎学力の面では粒がそろっている。私の教えてみた実感からしても,東大生の場合,勉強へのやる気はかなりムラがあるが,基礎学力という点で底堅い印象があるし,与えられた課題をこなす際に減点が少ないという印象である。
佐藤 仁 (2017). 教えてみた「米国トップ校」 KADOKAWA pp. 88
受験競争が激化すれば,大学側も異才をとる余裕がなくなり,オールラウンドな学生の割合が増える。勉強もでき,スポーツもでき,リーダーシップがあって,誰からも好かれるような温厚な人物。受験生も,必要なチェック項目に漏れがないように,全力でオールラウンドを目指す。「自分も人と同じ」という空気を作ることで社会を安定させてきた日本とは異なり,米国では「人とは違う」ことを重要な価値として推し進めてきた。そんな米国にあって「みんな似ている」というのは,米国のエリート教育にとって皮肉であるだけでなく,致命的ではないかとさえ思う。外見では実に多様な人を集めることに成功してきた米国のエリート大学生の頭の中は,外見ほど多様ではないという印象を私はもつようになってきている。
佐藤 仁 (2017). 教えてみた「米国トップ校」 KADOKAWA pp. 68-69
2017年1月17日のニューヨーク・タイムズ紙が報じたところによれば,プリンストンの場合,所得階層で最も多いのが18万6000ドル(約2046万円)で,しかも,72%が所得上位20%の出身者である。東大も上位2割程度は年収1250万円以上の富裕層の出身であるが,プリンストンの状況に比べれば圧倒的に「庶民的」な大学になっていることがわかる。
佐藤 仁 (2017). 教えてみた「米国トップ校」 KADOKAWA pp. 64
9割以上の受験生が不合格になる米国トップ校の受験争いでは,テストや内申点の点数ではほとんど差がつかない。そこで決め手になるのがエッセイと推薦状である。エッセイで強調しなくてはいけないのが「卓越性」である。特に教室の外でどのような卓越を表現してきたか,すなわち社会貢献という側面での卓越はトップ校が「人格(character)」という評価軸で求める一大要件である。
佐藤 仁 (2017). 教えてみた「米国トップ校」 KADOKAWA pp. 45