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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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悲しみのピーク

 死別を経験していない人の中には,遺された者の悲しみは,死別の直後か葬儀のときにピークに達し,葬儀の終了とともに少しずつ減っていくと思う人がいます。ところが,悲しみの波は,葬儀が終わり,ほかの人たちが日常の生活に戻っていったあとに,むしろ強まってくるのです。何かちょっとしたことがきっかけになって,それまで抑えられていた悲しみが,待ちかねていたようにあふれ出てきます。悲しみが湧き上がると,身体のさまざまな部分が,とくに胸のあたりが重く感じられて,時には痛みさえ感じます。喉も締めつけられる感じがします。涙があふれて泣いてしまうこともあります。

相川 充 (2003). 愛する人の死,そして癒されるまで:妻に先立たれた心理学者の“悲嘆”と“癒し” 大和出版 pp.41-42
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選択された死ではない

 そこで,「人には自殺する権利がある」とはやばやと結論を下す前に,自殺につながりかねないこころの病について正しい知識を持って,少しでも自殺によって命を失う人の数を減らすことができればと私は考える。
 自殺はけっして選択された死などではなくて,さまざまな理由から自殺しか選択肢がない状況に追い込まれた,いわば強制された死であるというのが,精神科医としての私の持論であるのだ。

高橋祥友 (2003). 中高年自殺:その実態と予防のために pp.105

自殺報道の特徴

 さて,わが国の自殺報道の特徴を詳しく見ていくと,次のような点に気づかれる。
 [引責自殺や親子心中を特にセンセーショナルに報道する]そもそも引責自殺といった概念自体が諸外国にはないのだが,ある種の政治・経済的スキャンダルの渦中で起きた自殺についてわが国のマスメディアは非常に大きく取り上げる。また,親子心中についてもセンセーショナルに取り上げ,同情的な色彩の報道も多い。
 [極端な一般化]因果関係について極端に単純化して解説される傾向がある。とくに最近では長期にわたる深刻な不況と結びつけて,「不況」「中年」「自殺」がキーワードとして頻用されて,短絡した説明が目立つ(子どもの自殺の場合は,最近では「いじめ」がキーワードになる。20〜30年ほど前は,青少年の自殺というと,「受験苦」や「試験地獄」などが頻用されていたのと対照的である)。
 確かに,わが国が未曾有の不況に見舞われていることは否定しようもないし,真剣に取り上げなければならない問題である。しかし,不況だけが自殺を説明する唯一の原因であるかのように報道されるのは問題である。
 自殺の問題を考える時には,背景に存在する可能性のある精神疾患,環境因(過程や職場での問題),不適応を起こしがちな性格傾向,直接の契機などを総合的に判断すべきである。自殺はある出来事をきっかけにして起きたように見えることがあったとしても,ただひとつの問題だけが原因で生じていることはごく稀である。「不況→自殺」といった短絡的な解説が,自殺の危険を内在している他の多くの人々に影響を及ぼす危険を認識すべきである。
 [過剰な報道]マスメディアは自殺直後の短期間に過剰なまでに同じ報道を繰り返す。そして,自殺した人が著名人であったり,その時代を象徴するような事件の最中で起きた自殺であればあるほど,一時期,どのメディアもその自殺報道一色になってしまう。また,画像の持つ衝撃は想像以上に大きい。連日のように犠牲者の写真が載せられ,関係者に対する執拗なまでのインタビューが繰り返される。
 [ありきたりのコメント]自殺をセンセーショナルに報じた最後に,識者と称する専門家の「戦後の教育のつけ」「会社社会の犠牲者」「個を無視し,集団優先社会の当然の結果」「不況の抜本的対応を先送りにしてきた政府の責任」などといった,ごく当たり前のコメントが添えられる。
 ところが,群発自殺の渦中で実際にどのような手立てを取ったらよいのかといったことには,全く触れていない。どのような人に注意を払い,どのようなサインが危険で,どう対応すべきか具体的に解説しているものはほとんどない。
 [短期間の集中的な報道]自殺直後の数週間は過剰なまでに集中的な報道が繰り返されるのだが,長期的な視点に基づく問題提起がほとんどない。そして,他に大事件が起きると,とたんに自殺報道は終わってしまう。それまでは過剰な報道合戦をしていたマスメディアが,天災や他の政治スキャンダルやテロといった大事件が起きると,自殺の問題をぱったりと取り上げなくなってしまう。自殺は,長期的な取り組みが必要なのだが,マスメディアの対応は短期的かつ集中的なものに終始している。
 [自殺の手段を詳しく報道する]群発自殺では,最初の犠牲者と同様の方法を用いる傾向が強いすでに述べたように,1986年にアイドル歌手の岡田有希子が自殺した後の群発自殺では,ほとんどの青少年が同じようにビルから身を投げて亡くなった。
 1994年や1995年のいじめ自殺報道後の群発自殺ではほとんどの子どもが首を吊って死亡している。マスメディアはこの事実を知ってか知らずか,最初に自殺した子どもが首をくくった自宅のバスケットボールのゴールポストを繰り返し大写しで報道する。
 また,1998年2月に新井将敬代議士がホテルの一室で溢死したが,その際に,空調の送風口に紐をかけて自殺した。その1週間後に3人の会社社長が国立市のホテルで同時に自殺した時にもまったく同じ方法を用いていたのも単なる偶然ではないだろう。すでに述べた2003年の「ネット自殺」では一酸化炭素中毒が用いられた。このように,本来自殺の危険の高い人に,自殺方法の鍵を与えるような具体的で詳細な報道は避けるべきなのだ。
 [メンタルヘルスに関連する啓発記事が極端に少ない]とくに欧米と比べて,わが国では自殺そのものの報道が繰り返されるばかりであり,自殺をどのように防ぐかという啓発記事がきわめて少ない。
 自殺がどれほど深刻な事態になっているのか,統計的な事実を取り扱う報道も少ない。また,自殺が迫る危険のある人の特徴,自殺の危険因子,直前のサインを解説する報道もほとんどない。自殺につながりかねない精神疾患についての解説や,それらの疾患には有効な治療手段が現在では各種あることを教育するような報道もない。
 自殺してしまった人の背景について微に入り細に入り報道するにもかかわらず,自殺の危険を実際に克服したような実例について報道されることはほとんどないのだ。
 [危険を乗り越えるための具体的な対処の仕方を示さない]アメリカでは報道機関に対して,自殺報道の最後に相談機関のリストを掲げるという提言を行なっている。電話相談,精神科医療機関などの連絡先を掲げておくというのだ。日本でもごく一部の新聞で,いのちの電話,警察の電話相談,人権擁護団体などの電話のリストが掲げられたことがあるが,このような配慮は他の多くのメディアも見習ってほしい。

高橋祥友 (2003). 中高年自殺:その実態と予防のために pp.97-101

役割自己愛

 最近のわが国のマスメディアは,一般的に言って,以前ほど自殺をセンセーショナルに報道しなくなった(もちろん,相対的な意味であって,私のような自殺予防に関心を持つ精神科医の目にはまだまだ改善してほしい点が多々ある。これは後に詳しく取り上げる)。しかし,たとえば,著名人の自殺,連鎖自殺,そして,社会的なスキャンダルの渦中でその関係者が自殺した場合には,かなり大々的に報道される。一般の自殺記事では事実がありのままに淡々と記載されるのとは対照的に,この種の事件では,自殺直前の行動や自殺の手段などが微に入り細に入り,センセーショナルに報道される。そして,行為そのものが責任を取る手段であったかのように報道される傾向もある。また,驚くほど各マスメディアの切り口も同じものになってしまう。
 真相の究明には不可欠な情報を知りうる立場の人物が,スキャンダルの渦中に自殺する。「私はけっしてやましいことはしていないが,この件で組織に迷惑をかけたので(自殺することで)その責任を取る」といった遺書が残されることなども多い。
 文化人類学者のドゥ・ボスは,他者から与えられた役割や,帰属集団への過度の自己同一化を「役割自己愛」と呼んだ。要するに,集団への帰属意識が極端なまでに強すぎるために,その集団が解体してしまったり,指導者の社会的役割が抹殺されてしまう事態を想像することそのものが不可能になり,この種の自殺が生ずる文化的な背景が成立することを指摘している。
 故人の独自性を重視する西欧文化では,この種の自殺のように,集団へのあまりにも強い帰属性から生ずる自殺は全く存在しないとは断言できないまでも,一般的には理解するのが非常に難しいようである。
 自己の正当性を訴えるならば,真に責任のある人を告発したり,裁判の場で自己の身の潔白を証明すべきであると考えるのだろう。彼らにとっては,日本人が受け入れるような「引責自殺」を理解することは非常に難しいことらしい。そもそも,此種の自殺の形態に対して社会が強い関心を払うこともないし,あるいは存在すら認めない文化圏では,統計も入手できず,日本の引責自殺との比較もできない。

高橋祥友 (2003). 中高年自殺:その実態と予防のために pp.89-91

母子心中

 多くの場合,背景に精神疾患が存在しているという事実を一般の人が知っているかどうかは別にして,わが国では母子心中が起きると,苦況から脱出する方法として自殺しか思いつかなかった母親に対して社会の同情が寄せられることはあっても,その母親が非難されることはまずない。
 このような苦況に追い込まれた母親の心の中では,自分と子どもが一体になっていて,もはや自分の死後に子どもが生き残ることなどおよそ信じられなくなってしまっている。子どもの生命を断つことは,けっして完全な他者を殺害することとは考えられていない。自己の一部を抹殺することと同義になっていて,他者を殺害するといった意識はなかったと考えられる。自分が亡くなった後に,子どもだけが生き残ることなどおよそ想像できなかった母親の気持ちをわが国の社会もある程度受容する。むしろ,子どもを残して自分だけが自殺するといった場合のほうが,故人は非難されかねない。
 社会一般の風潮と一致して,法曹界も精神医学界もこの種の拡大自殺の概念をある程度認めているといってもよいだろう。母子心中を図ったものの,母親だけが生き残ったような場合,ほとんどの例で,精神科治療の対象となることはあっても,厳罰に処せられるようなことは稀である(当然のことながら,最近のように,保険金を得ることを目的に母子心中を偽装するなどというのは,厳しい処罰を受けるべきである)。
 たとえ同じ現象が起きたとしても,このように文化によって解釈が異なってくるのだ。とくにアメリカ社会はこの種の「他殺・自殺」を引き起こした親に対しては非常に厳しい態度で臨む。子どもであっても,個別の意思と尊厳を有する存在として認めることがアメリカ社会の大前提であることを反映しているのだろう。
 なお,ごく一般的に言って,ヨーロッパでの理解はアメリカと日本の中間との印象を抱いている。ある程度,母子心中についてのわが国の社会のとらえ方に対して理解を示してくれる。さらに,アジア(とはいえ,私の経験は,中国,韓国,フィリピン,インド程度に限られるので,アジアと一般化するのは危険かもしれないが)では,私たちの考えにかなり近いようだ。

高橋祥友 (2003). 中高年自殺:その実態と予防のために pp.82-84

自殺率

 さて,自殺率は,年間に人口10万人あたりに生じる自殺者数によって表される。1990年代半ばまでは日本の自殺率は人口10万人あたり17〜18であった。この率はドイツよりもやや高く,フランスよりもやや低いというものだった。要するに,ヨーロッパ諸国と比べると,ほぼ中位の率を示していたのだ。「自殺大国日本」の固定観念をいだいて取材にきた欧米の特派員の取材の際に,このような事実を指摘すると,意外な事実に驚くといった場面によく出くわしたものである。
 ところが,1990年代末から我が国の自殺者数が急増し,2001年には自殺率は人口10万人あたり約24になった。ヨーロッパ諸国に比べて,上位国の一角と肩を並べるほどになったのだ。
 とはいえ,日本よりはるかに高い自殺率を示す国があることも事実である。たとえば,リトアニア,ラトビアといったバルト三国,ロシア,ハンガリーなどの自殺率は,人口10万人あたり40前後を示している。自殺率は社会の不安度を示す指標でもある。社会体制や社会的価値の急激な変化が起きている国で自殺率の激増が認められることが知られている。旧ソビエト連邦から独立を果たしたものの。社会的な安定を十分に果たしていないバルト三国が高い自殺率を示していることなどは,この点を象徴的に表していると考えられる。

高橋祥友 (2003). 中高年自殺:その実態と予防のために pp.67-69

磁気

 怪我や病気の治療に磁石を利用しようとする発想は,周期的におとずれる流行のようだ。天然磁石または磁鉄鉱は,16世紀初頭,名だたる錬金術師でもあったスイスの医学者パラケルススによって利用された。当時,まかふしぎと思われていた磁石の遠隔作用には,強い力が秘められていた。その力とは,もちろんプラシーボ効果である。この磁石治療は,1世紀後,ロバート・フラッド——第1章で登場した,永遠に稼働する製粉機を発明しようとした医師——によりイギリスに紹介された。フラッドの製粉機はうまくいかなかったが,たしかに磁石にはある程度のプラシーボ効果が認められた。ところがフラッド医師は,「磁石を適切に使用すれば,あらゆる疾患に効果がある」と大きくでたのだった。
 磁気治療に利用した「マグネタイザー」としてもっともよく知られているのが,フランツ・メスマーである。メスマーは1778年,この技術を広めようとウィーンからパリに移住し,パリ上流社会の人気者となった。派手な衣装を身にまとったメスマーは,「磁化された」水を満たした大きな桶のまわりに患者たちを座らせた。患者たちには,桶から突き出た「磁化された鉄の棒」を握らせ,メスマーは魔法の杖を振りまわし,患者の治療にあたった。やがて,メスマーは磁化棒がなくても効果があることを発見し,その後は,ただ手だけを振り動かすようになった。メスマーはこれを「動物磁気」と読んだ。

ロバート・L・パーク 栗木さつき(訳) (2001). わたしたちはなぜ科学にだまされるのか:インチキ!ブードゥー・サイエンス 主婦の友社 pp.126-127

引用者注:ここでのメスマーは「メスメル」と呼ばれることもある。また,この出来事が「催眠術」「催眠治療」の始まりである。

病的科学

 1932年に分子膜の研究でノーベル賞を受賞した偉大な化学者,アーヴィング・ラングミュアは,1934年,デューク大学の心理学者J.B.ラインのESP(超感覚的知覚)研究の論文を読んだ。ラングミュアは,自身が呼ぶところの「病的科学——事実でないことがらの科学」に,ESPがあてはまることに興味をおぼえた。
 「ESPの実践者はウソつきではない」とラングミュアは論じた。「かれらはただ,自分自身をだましているだけだ」と。ラングミュアにとって,ESPはまぎれもなく病的科学の典型であった。
 ラングミュアは,病的科学の特徴として「証拠としてあげられたデータが,つねに検出可能な限界ぎりぎりの微量でしかない」ことを指摘した。これはどういう意味かというと,カクテルパーティのたとえ話を思い出してもらいたい。「検出可能な限界ぎりぎりの微量」とは,周囲が騒がしく相手がなにをいっているのかほとんど聞きとれない状態で聞きとった話を指す。そうした状況では,相手がいったことを簡単に誤解してしまう。
 「コインに思いをこめてトスすれば,オモテが出るかウラが出るかを左右できる」と主張する人間がいるとしよう。報告書に記されている成功率は,50パーセントでなく51パーセントであろうことは容易に想像がつく。
 そうした単なる偶然による平均値との差が,予想された範囲にすぎないことを合理的に納得するためには,気が遠くなるほど何回もコインを投げる実験をくりかえさなければならない。だが,そこでまた新たな問題が生ずる。実験に設計上の欠陥があるとすれば——コインのオモテとウラがわずかに非対称であったため,オモテのほうがでやすかったら——多数の実験をおこなった結果はまったくちがうものになる。実験をなにより重視する実験主義者が,51パーセントという成功率を測定したら,まず実験の不備を疑うだろう。実験手順のどこかに欠陥があったにちがいないと,必死になってミスをさがそうとするだろう。しかし,実験を軽視する人々は,51パーセントという実験結果をそのままうけいれ,実験の欠陥をさがそうとはしない。そして,「人は意志の力でコインの裏表を決定できる」という結論をだす。だからこそ,わずかな統計上の賽に基づいた科学的主張にはなんの重みもないのである。

ロバート・L・パーク 栗木さつき(訳) (2001). わたしたちはなぜ科学にだまされるのか:インチキ!ブードゥー・サイエンス 主婦の友社 pp.89-90

自分らしさのこだわり

 若者の「自分らしさ」へのこだわりは,個性重視の風潮の中で育ってきたゆえのものである。さらに,人並みに働いても先は知れていると思い知らされると,「好きなことだけ」したいという欲求が生まれるのは,ある意味当然のことだろう。テレビをつければ,素人に毛の生えたような歌手がアーティスト扱いされている。デザインの雑誌には,自分にも描けそうなイラストが掲載されている。カメラ付携帯電話で撮った写真をちょっとフォトショップで弄って友人に送ったら,「スゲーカッコいい」と絶賛された。これなら楽勝じゃん。ささやかなことから,だんだん「自分流」に対する自信も醸成されてくるのである。「自分流」は,文脈によって2つの意味に解釈される。1つは基本をきちんと押さえねばならないのに,そこは適当にお茶を濁して自己流でやって失敗した,といった場合。もう1つは「俺には俺の流儀がある」という積極的で自信に満ちた自己流である。
 多いのは,物事の見通しが甘い前者だが,その失敗の原因は往々にして後者にある。基本という誰もが通らねばならない道をバカにし,「俺には俺の流儀がある」と自信過剰になっているから足をすくわれるのである。基本をマスターした上で自然と出てくるもの,自分では意識しないが滲み出てくるのが正真正銘の「自分流」だろう。しかし「自分流」好きな人は,そこんところがわかっていない。基本を軽視するのは,プロセスが面倒臭いからである。コツコツやるより,早く結果が欲しいのだ。コツコツやろうという姿勢が元からあったら,そもそも「下流」で甘んじてやしない。でも自己流の人にそういう発想はない。そんな地味なことをじっくりやっていたら,すぐジジイになってしまうじゃないか。オヤジのように。それなら「自分流」でショートカットだ。

大野左紀子 (2011). アーティスト症候群:アートと職人,クリエイターと芸能人 河出書房新社 pp.226-227

マズローから言うと

 さて,これを仕事に当てはめてみよう。
1 生理的欲求——普通に生活できるだけの報酬が約束されている
2 安全の欲求——3K(危険,汚い,キツい)ワークではない
3 親和(所属愛)の欲求——身分の保証があり安定している
4 自我(自尊)の欲求——世間体のいい職種である
5 自己実現の欲求——自分の能力や才能を発揮できる創造的な仕事である
 マズローの理論に従えば,「自己実現できる仕事」とは,1から4までが満たされた上で手に入るという,大層贅沢なものになる。
 いったいどれだけの人が,そんな仕事に就けているだろうか。おそらく労働者全体の1割にも満たないのではないかと思われる。3までクリアしていれば御の字で,1の条件を満たす仕事にありつくだけで精一杯,それすらままならない人も最近は少なくないだろう。
 ところが,アーティストという仕事だけは違うのだ。他の何よりも優先されるのは,5の自己実現の欲求である。
 つまり「アーティストになりたい」と思う人は,普通の人が順番に辿るとされる欲求の段階をすっとばして,いきなり5の「自己実現の欲求」に至っているわけである。マズロー博士もびっくりの欲求の飛び級。
 アーティストは,「食い扶持を稼ぐための仕事」をしている人とは違う。学歴も資格も経験も関係ない。毎日会社に行ってタイムカードを押す必要もない。上司におべんちゃら言う必要もない。営業先で頭を下げる必要もない。自分に合わない部署で苦労する必要もない。残業もない。いや「好きなこと」をやっているのだから残業大歓迎。
 自分と同じようなレベルの他人と競いながらあくせく働き,永遠に満たされないであろう5の欲求不満に悩むより,アーティストになって「自分流」に生きたほうが,よほど自尊心を満足させられそうに思えてくる。

大野左紀子 (2011). アーティスト症候群:アートと職人,クリエイターと芸能人 河出書房新社 pp.223-224

アートの意味

 アート(art)の語源はラテン語のアルス(ars)で,技術,才能などを意味したが,さらにその語源を辿るとギリシャ語のテクネ(techne)に行き着く。テクネは,「内在する原理を正しく理解した上で何かをする(ものを作る)能力」,あるいは「金細工師が持っている実用以上の装飾能力,技術」という意味で使われた。つまり,アートにはずっと昔,「物事の原理の理解」と「装飾技術」という2つの意味が含まれていたのである。それは,アーティスト(芸術家)と呼ばれる人が出現する前,アルチザン(職人)と呼ばれる人々のものだった。それを受け継いだルネサンスの芸術家の作品にも,「装飾」性ははっきりとあった。美術史に残っていない作品には,キレイなだけの壁に飾る「花」みたいな絵もごまんとあっただろう(今もあるが)。アートも元は,花のデコレーションや凝った髪型や化粧と同様,ストレートな美と贅沢に関わるものだった。
 装飾的なだけで創造性のない作品,新しい視点を提供していない作品は,アートと言われないことになったのは,近代以降である。意匠性,装飾性はデザインや工芸の十八番であって,アートにとっては二の次だ。デザイン,工芸にとって重要な商品の流通性も,アートにとっては二の次。そうした“狭義のアート”を指して,私達はアートだと認識している。そうでないとアートの輪郭が曖昧になってしまうからだ。

大野左紀子 (2011). アーティスト症候群:アートと職人,クリエイターと芸能人 河出書房新社 pp.175

ヘア・アーティスト

 「最近,ヘア・アーティストって呼び方してるよね」と友人の美容師に聞いてみると,「ああ多いね,そう名乗っている人が」と若干顔を顰めて言われた。「技術職なんだから美容師でいいと思うんだけどね」。彼女の若い頃パリのサロンで修行し,非常に凝ったヘア・ショーも開いているベテラン美容師の一人なのだが,美容師仲間と作っているグループは「アルチザン」と命名している。あくまで職人としてスペシャリストであることにこだわりつつ,「カリスマ」や「アーティスト」という呼び名で妙に底上げされている現象を,醒めた目で見ているようだった。

大野左紀子 (2011). アーティスト症候群:アートと職人,クリエイターと芸能人 河出書房新社 pp.171

なんでもクリエイター

 デザイン専門学校が学生にアピールしているキーワードは,やはり「デザイナー」「クリエイター」である。そしてここ十年くらいは「クリエイター」が大人気である。「クリエイター志望集まれ」「技術とセンスを伴ったクリエイターの時代」「将来を担うクリエイター集団の育成」……。学校によっては,ビジュアルデザイナーをビジュアルクリエイター,インテリアデザイナーをインテリアクリエイター,ウェブデザイナーをウェブクリエイターと,何でもかんでもクリエイターをつけて,言葉のイメージに弱い若者のおびき寄せに必死である。アーティストはやはり天分がないとなれないと,みんな思っている。だいたいデッサンがこんな下手クソでは,アーティストなんて無理だろうと。それに,よほど好きで仕方ない人でない限り,食べていける見通しがほとんど立たないようなことに,今の若者は手出しをしない。まずそれで生活できるかどうかである。それを考えると,クリエイターという職業は彼らにとって魅力的に映るらしい。

大野左紀子 (2011). アーティスト症候群:アートと職人,クリエイターと芸能人 河出書房新社 pp.147-148

クリエーター

 ところが,職人になりたいという若者が目立って増えているかというと,アナウンスの徹底不足なのかそういう話はあまり聞かない。「アーティストになりたい」は憧れの言葉であることが多いが,「職人になりたい」はどちらかというと覚悟の言葉だから,おいそれとは口に出すことはできないのである。どちらも修行や修練は必要だが,職人修業のほうが厳しく辛いというイメージがある。親方に怒鳴られながら歯を食いしばって薄給に耐え忍び日々是鍛錬……古典的過ぎるがそんな見習いの姿も思い浮かぶ。
 かといって,一方のアーティストの需要は,職人以上に少ない。それを目指しても,実際なれる人は一握りだし,職人以上に生活の糧を得る見通しは暗い。では,アーティストでもなし,職人でもなし,でも何かモノ作りに関わりたい……という人が目指すのは何だろうか。
 クリエイターである。

大野左紀子 (2011). アーティスト症候群:アートと職人,クリエイターと芸能人 河出書房新社 pp.144

埋没したくない

 つまり,「(職人ではなく)アーティストになりたい」とは,この社会に埋没したくないという欲求である。職人のように,社会の歯車になりたくない。どこまでも「自由」でありたい。あまりにも青臭い発言なので,こんなことは世間知らずのナイーブな中学生でもない限り,誰も口にしない。実際,世捨て人にでもなって一人で山に籠ったりするのでなければ,そんな「自由」な生き方は無理なのだ。誰しも,この社会のどこかに身を置き,税金を払い,人間関係を作り,何らかのしがらみに囚われて生きていくしかないわけだから。アーティストとて例外ではない。
 だからこそ,アーティストにとって,社会にどっしり腰を据えてモノを作り,それで着実に生活の糧を得ている職人は,無視できない怖い存在でもある。目に見えない自由だの創造性だのより,日々の生活の中では目に見える確かな技術がものを言う。それで充分人々を満足させ,幸せにすることができる。だとしたら,自分が社会の中で実質的にできることは何なのか,自分は作品によって人々にいったい何を提供しているのか。このことを深く考え込んだことのないアーティストはいないだろう。

大野左紀子 (2011). アーティスト症候群:アートと職人,クリエイターと芸能人 河出書房新社 pp.138-139

職人とは違う

 これまでにないアイデアやイメージが生まれてくることが,アートにはいつも期待されてきた。いかにうまく描けているかではなく,何を描いたか,どんな見方で描いたかが重要だった。それがアートの創造性と呼ばれるものだった。だからアーティストにとって,職人並みの技術を持っていることはプラスではあるが,作品がそれに依存していると看做されることは,明らかにマイナスなのである。「器用なだけの作家は,しょせん職人だ」という,職人の人が聞いたらムッとしそうな意見は,こうしたところから出てくる。高い技術を身につけ,それを作品に生かしている人ほど,「職人とは違うんだ」という自負を持っている。なんだかんだ言って,アーティストのプライドは高い。

大野左紀子 (2011). アーティスト症候群:アートと職人,クリエイターと芸能人 河出書房新社 pp.129-130

何がアートか

 エジプトの神殿もヴィーナスの彫像もポンペイの壁画もメソポタミアのレリーフもローマのコロセウムもゴシックの教会も,美術,アートという独立した概念,ジャンルのない時代の宗教的,政治的な制作物であるが,必ず美術史の本に登場し,「鑑賞」の対象にされる。この調子でいくと百年後くらいの美術史の教科書には,東京タワーも「シンプルでエレガントな線が美しい」などと記述されているかもしれない。
 何がアートなのか。なにを美術として(も)見るか。それは常に現在の視点から語られ,更新されるのである。アートというカテゴリーが誕生し,あらゆる既存の制作物を「アートとして見,鑑賞する」という見方を知ったから,印象派の画家達は日本の浮世絵を「発見」し,そのエッセンスを作品に取り入れた。ピカソにとってのアフリカの仮面しかり,岡本太郎にとっての縄文土器しかり。

大野左紀子 (2011). アーティスト症候群:アートと職人,クリエイターと芸能人 河出書房新社 pp.121-122

他者の評価

 自分の作品がアートとして誰にどのように評価されるのか,それはすべてのアーティストにとって重要なも問題である。しかるべき場でしかるべき人に評価され,その評価がより多くの人々に共有されて初めて,自分はアーティストであるとの自己確認を得ることができるのだから。作品への高い評価を通じて,「優れたアーティスト」「注目に値するアーティスト」という社会的認証を得たい……この気持をまったくもたないアーティストはいないだろう。

大野左紀子 (2011). アーティスト症候群:アートと職人,クリエイターと芸能人 河出書房新社 pp.98

アートだと言うと

 料理上手やグルメ,旅行好き,スポーツマン/ウーマンぶり,各種のオタク趣味などをアピールしている芸能人は少なくない。歌手やタレントや俳優としての固定化したイメージに,別種の親しみやすさや意外性などの魅力を付け加えてファンサービスする。あるいはファンを増やす。それは芸能活動の一環である。画家,アーティスト活動のアピールも,基本的には同じだと思う。
 スポーツならよほどやりこなしていないと自慢できないし,料理やオタク趣味もハンパではバカにされるものだ。にも拘らず,アート方面となるとどういうわけか,評価が甘くなる傾向がある。アートだと聞かされると,周囲も「才能があるんだ」となんとなく一目置く雰囲気になる。そう大した内容でもないのに,メディアも持ち上げる。アートだという理由だけで。

大野左紀子 (2011). アーティスト症候群:アートと職人,クリエイターと芸能人 河出書房新社 pp.92-93

自分の世界

 “自分の世界”があるのが,そんなに偉いのかと思う。自分で書いて自分で歌うというだけで,アーティストなのか。中途半端なオリジナリティで「アーティストです」などという顔をされるのは,そろそろみんなうんざりしていないか。ルックスがよくて詩の書ける女の子(男の子)の歌に感心したいのか,質の高い音楽が欲しいのかどっちなんだろう。だってJ-POPをネット配信で聞きながら,アーティストのアート作品を体験してるなんて誰も思っていないわけでしょ?そんな疑問をよそに,若者の間では「どんなアーティストが好き?」は,「どんなシンガーソングライターが好き?」とほぼ同義となっている。言葉と存在の妙な捩れへの違和感は,そこにはない。この調子でいくとそのうち,かつて「アーティスト」にどれほどのプラスの価値が読み込まれ,そこにどのような願望が込められていたのか,知る者はいなくなるかもしれない。

大野左紀子 (2011). アーティスト症候群:アートと職人,クリエイターと芸能人 河出書房新社 pp.47

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