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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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自由で純粋

 一般の人が「アーティスト」(ジャンルを問わない)に抱いてきたのは,金儲けや業界的策略とはかけ離れたイメージであろう。芸術家は世俗的な計算とは無縁な,“自由”で“純粋”な存在。独立独歩。孤高。反逆。我道をいく。一匹狼。できればそうあってほしいという願望がどこかにあったはずだ。つまり,「アート」も「アーティスト」も,プラスの価値に満ちた言葉だった。それもかなりカッコいい,ちょっとやそっとでは手に入らないプラスの価値。これは「シンガーソングライター」という言葉と比べてみるとわかる。「シンガーソングライター」に言葉以上の意味はない。「アーティスト」にはある(ように思わせる雰囲気がある)。

大野左紀子 (2011). アーティスト症候群:アートと職人,クリエイターと芸能人 河出書房新社 pp.39
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いつからアーティスト?

 日本のミュージシャンに対して,いつ頃から「アーティスト」という呼び方をするようになったのだろうか。私の記憶では,80年代前半あたりからちらほらとその傾向があった。またしても80年代。その頃の対象は,70年代にニューミュージックのシンガーソングライターとしてデビューした人や,その流れを汲む歌手やロックバンドである。彼らは歌手兼作詞・作曲家だから,アーティストと言えるんじゃないかという意味と幾分のリスペクトを込めて,音楽ライターなどが雑誌でそう呼ぶことがあった。
 80年代はアイドル歌謡全盛の時代だったので,アーティストとアイドルの違いは比較的はっきりしていた。たとえばアーティストにルックスは必ずしも求められないが,アイドルはルックス命。アーティストに年齢制限はないが,アイドルにはある。アーティストはわがあままでも許されるが,アイドルは素直が一番。アーティストはテレビに出なくてもいいが,アイドルはお茶の間で親しまれてナンボ。アーティストは「生き様」のリアリティを必要とするが,アイドルは虚像で十分。そして,アルバムが確実に売れていくのがアーティストで,シングルが一発ヒットして売れるのがアイドル……といった具合。

大野左紀子 (2011). アーティスト症候群:アートと職人,クリエイターと芸能人 河出書房新社 pp.36-37

アーティストです

 美術畑でアーティストを自任する人が,自分を浜崎あゆみと同格だと思っていることはまずない。たとえ世間的知名度や収入で圧倒的に負けていても,「本来のアーティスト(芸術家)はこっちであって,比べるほうがおかしい」と思っている(はずだ)。そう,アート=美術こそは芸術の代表格。レオナルド・ダ・ヴィンチを見よ。アンディ・ウォーホルを見よ。アーティストは常に,時代の先端に立ってきたではないか。美術畑の人がバイトしながら売れない作品を作っていたとしても,職業を聞かれて「アーティストです」と誇らしげに答える時,そういう先達の栄光が瞬間的に頭の中をよぎっている(はずだ)。

大野左紀子 (2011). アーティスト症候群:アートと職人,クリエイターと芸能人 河出書房新社 pp.19

遺伝への反感

 フランスでは「性格ができる原因は遺伝にある」と言うと,聞いている人の反感を買うことがある。それは次の4つの理由による。
 ——<ユダヤ教とキリスト教の伝統から来る理由>。ユダヤ教やキリスト教では,罪を犯すことについて,あるいは善を行うことについても,人は皆,自由な意思を持っていると考える。だが,性格が遺伝によるものであれば,この考えと衝突する部分が出てくる。すなわち,人間の行いは性格によって生まれた時から方向づけられていることになり,たとえほんの少しであっても,自由な意志が否定されるからである(といっても,<才能>に関する『新約聖書』のたとえ話を読めば,聖書だって遺伝的な不公平を認めていると思うのだが,まあ,それは言わないことにしよう)。
 ——<共和国としての伝統から来る理由>。この理由で反発する人は,次のような論理を展開することが多い。すなわち,「フランスでは伝統的に<機会の平等>と<教育の価値>が重んじられている。ところが,遺伝によって最初から与えられているものがちがうということになれば,その平等の意味が揺るがされ,教育の価値が減じられてしまう」という論理である(個人の能力に遺伝の影響があるということと教育が重要であるということとは別に矛盾しないはずであるが,ともかくそういった論議になってしまうのだ)。
 ——<精神分析の伝統から来る理由>。精神分析では性格の形成について,特に幼児期の体験を重要視する。したがって,「性格は遺伝によるものだ」と言うと,精神分析に携わる人のなかには自分たちの存在意義を疑われたと考える人もいるのである。
 ——<忌まわしい過去の記憶から来る理由>。第二次世界大戦の時にナチス・ドイツが<遺伝の理論>を持ち出してユダヤ人の虐殺を行ったことは,恐ろしい思い出としていまでも人々の記憶に焼きついている。もちろん,その理論には科学的な根拠はなく,ここで問題にしている遺伝とは別のものだが,<遺伝>という言葉を聞くだけで,その時のことを思い出し,激しい反応を示す人がまだ大勢いるのである。

フランソワ・ルロール&クリストフ・アンドレ 高野 優(訳) (2001). 難しい性格の人との上手なつきあい方 紀伊國屋書店 pp.304-305
(Lelord, F. & Andre’, C. (1996). Comment gérer les personnalités difficiles. Paris: Editions Odile Jacob.)

頑張れ

 「もっと自分からやる気を出せ」「やろうと思わないからできないんだ」「ともかく,がんばれ」……。そういった言葉は,人類の歴史と同じくらい古くから,抑うつ性の性格の人々に浴びせられてきたものである。だが,それだけ繰り返されているということは,効果がないということでもある。そういったことを言われると,抑うつ性の性格の人々は,表面的にはあなたの説得を受け入れたようで,心のなかでは自分が理解されず,見捨てられたような気持ちになる。そうして,なおいっそう自信を失ってしまうものなのである。

フランソワ・ルロール&クリストフ・アンドレ 高野 優(訳) (2001). 難しい性格の人との上手なつきあい方 紀伊國屋書店 pp.207
(Lelord, F. & Andre’, C. (1996). Comment gérer les personnalités difficiles. Paris: Editions Odile Jacob.)

タイプAの場合

 タイプA行動パターンの性格の人は怒りっぽい。だが,ほかの<難しい性格>の人とちがうところは,その怒りがすぐに消えてしまうことである。この性格の人にとって,怒りはきわめて日常的な感情なのだ。したがって,あなたがいつも冷静であまり怒りを表さない性格なら,気をつけたほうがいい。というのも,確かに,あなたにとって怒りを表すということは,めったにない特別なことで,場合によっては決定的な破局を意味することだろう。だが,タイプA行動パターンの性格の人にとってはそんな意味は持たない……。その結果,あなたの側からすれば,相手の怒りの意味を読み違えるということになりかねないからだ。特に相手があなたの上司である場合は,こういった読みちがえをして,事態を深刻に考えないほうがいい。

フランソワ・ルロール&クリストフ・アンドレ 高野 優(訳) (2001). 難しい性格の人との上手なつきあい方 紀伊國屋書店 pp.186
(Lelord, F. & Andre’, C. (1996). Comment gérer les personnalités difficiles. Paris: Editions Odile Jacob.)

孤独

 もともと孤独に向かう性向があるだけに,分裂病質の性格の人は,放っておくと<隠者>のような生活を始めることがある。いや,<隠者>というのは決して誇張ではない。たとえば,つい20年ほど前までは,研究所をねぐらにして,そこから一歩も出ないという研究者は珍しくなかったが,おそらく,そういったことをする研究者は分裂病質の性格の人であったろう。また,現代のように高度に発達した情報社会になると,直接,人と顔を合わせなくても,仕事を含めてたいていのことができるようになる。そうなったら,分裂病質の性格の人々はますますひきこもりがちになる可能性がある。
 したがって,もしあなたの身近に分裂病質の性格の人がいるなら,やたらと話しかけて相手を疲れさせないようにするいっぽうで,時々は訪ねていったり,家に招待したり,あるいはパーティに連れていったりなど,相手があまり孤独のなかに閉じこもらないよう適度な刺激を与えたほうがよい。そうすれば,マリーヌの夫マルクのように,だんだんそういった状況に慣れてきて,人づきあいが楽になってくるということもある。人とつきあう能力を高めるには,ある程度の訓練が必要なのである。

フランソワ・ルロール&クリストフ・アンドレ 高野 優(訳) (2001). 難しい性格の人との上手なつきあい方 紀伊國屋書店 pp.161-162
(Lelord, F. & Andre’, C. (1996). Comment gérer les personnalités difficiles. Paris: Editions Odile Jacob.)

イライラさせる

 自己愛性の性格の人はその自信たっぷりな言い方でまわりの人をイライラさせることがある。したがって,まわりの人のほうは苛立ちをあらわにして,自己愛性の性格の人が言ったことにいちいち反対して,相手のプライドを傷つけたくなる。だが,そんなことをしたら,関係はますます悪くなるばかりだ。自己愛性の性格の人はどうしてそんなことをされるのか理解できず,自分に異を唱える人間を敵だと考えるだろう。自己愛性の性格の人を相手にする時には,まず何よりも<機会があるたびに褒めて,批判は最低限にする>こと。このことをもう一度,繰り返しておこう。

フランソワ・ルロール&クリストフ・アンドレ 高野 優(訳) (2001). 難しい性格の人との上手なつきあい方 紀伊國屋書店 pp.138
(Lelord, F. & Andre’, C. (1996). Comment gérer les personnalités difficiles. Paris: Editions Odile Jacob.)

成功者の共通点

 テレビなどで,いわゆる<成功した人>のインタビューを見ていると,そういった人々にはいくつかの共通点があることに気づく。すなわち,自分に自信があり,自分の業績を誇らしげに語って,相手の賛辞を当然のことのように受け入れる,という共通点である。
 <いや,その人は成功したのだから,そうなるのはあたりまえだ>と,もしかしたら,読者の皆さんはそう思うかもしれない。だが,<その人はもともと自分に自信があり,ほかの人より優れていると思っていた——つまり自己愛性の性格をしていた。だからこそ,成功したのだ>と,そのようには考えられないだろうか?実際,そのことを裏づける研究もある。
 もしそうなら,能力が同じであれば,自己愛性の性格の人のほうが成功する確率は高いと言える。また,自己愛性の性格の人は競争を厭わず,何かをする時にも失敗を恐れない。自分を売りこむのもうまい。自分の能力に自信があって,人に負けないと思っているからだ。したがって,競争が必要な状況,あるいは,思いきった決断が要求される状況では,多少なりとも自己愛性の性格の特徴を備えているほうが有利だと言える。
 また,このことに関連して,企業の経営者に話を聞くと,優れた営業マンは自己愛性の性格をしていることが多いという。というのも,自己愛性の性格の人は相手の気持ちを動かすのがうまく,断られても傷つくことが少ない(自分のせいではないと考えるからだ)。また,成功したいという気持ちが強いため,困難な状況にも耐えられるというのである。

フランソワ・ルロール&クリストフ・アンドレ 高野 優(訳) (2001). 難しい性格の人との上手なつきあい方 紀伊國屋書店 pp.129-130
(Lelord, F. & Andre’, C. (1996). Comment gérer les personnalités difficiles. Paris: Editions Odile Jacob.)

悪口

 人の悪口を言うことにはいくつかの利点がある。一緒に誰かの悪口を言うことによって,その場にいる人たちの連帯感が強まることがあるからだ。また上司などの悪口を言って鬱憤を晴らせば,ストレスの解消にもなる。
 だが,もちろん,悪口を言うことには欠点もある。悪口を言うというやり方であまりにも安易にストレスを解消してしまうと,率直に意見を言って,問題を根本から解決することができなくなってしまうからだ。同僚の悪口を言うくらいなら,直接本人に意見をぶつけたほうがいい場合がたくさんある。
 とりわけ相手が妄想性の性格の人の場合は,その人の悪口を言うことは大きな危険を冒すことにつながる。妄想性の性格の人は,誰かが自分に悪意を持っているのではないかとつねにアンテナを張っている。したがって,悪口を言ったりすれば,必ずわかってしまうのだ。そうなったら,今度はあなたのほうがあることないこと悪い噂を流されるのを覚悟したほうがよい。

フランソワ・ルロール&クリストフ・アンドレ 高野 優(訳) (2001). 難しい性格の人との上手なつきあい方 紀伊國屋書店 pp.77-78
(Lelord, F. & Andre’, C. (1996). Comment gérer les personnalités difficiles. Paris: Editions Odile Jacob.)

敵とみなすと

 これは特に職場でのことになるが,もし妄想性の性格の人があなたのことを敵だと確信してしまったらかなり面倒なことになる。というのも,厭いてはあなたのしていることを注意ぶかく観察し,あなたが少しでもミスを犯そうものなら,大喜びでそれを利用して,あなたを非難する材料に使おうとする可能性があるからだ。したがって,そういった状況に陥ったら,失言はもちろん,あげ足をとられないように言葉の端々にまで気を配らなければならない。妄想性の性格の人とつきあうことは,言葉を慎重に選び,失言を避けるいい訓練にもなるのである。

フランソワ・ルロール&クリストフ・アンドレ 高野 優(訳) (2001). 難しい性格の人との上手なつきあい方 紀伊國屋書店 pp.77
(Lelord, F. & Andre’, C. (1996). Comment gérer les personnalités difficiles. Paris: Editions Odile Jacob.)

分類の意味

 だが,このように人々を分類することに意味があるのだろうか?読者のなかにはあらためてそう問う人がいるかもしれない。人間とは多様な存在であり,世の中にはひとりとして同じ人間はいないのだから,分類という<檻>のなかに入れることが意味を持つのか,と……。
 この疑問に対しては,気象の比喩で答えたい。毎日の空模様は,ひとつとして同じものはない。風や雲の動き,太陽の位置は刻々と変化していくので,空の状態がまったく同じになることはほとんど不可能だと言ってよい。しかし,だからといって,空の様子を分類することには意味がないだろうか?たとえば,気象学では雲の種類を積雲,乱雲,絹雲,層雲の4つの基本形とその複合型(積乱雲等)の合計十種類に分けているが,これなどは分類としては簡単なものである。だが,雲が出ている空の状態を説明するということであれば,この十種で十分こと足りるのだ。もちろん,同じタイプに分類された2つの性格がまったく同じではないように,同じように積雲が出ている2つの空はまったく同じではない。しかし,それでも分類することは可能だし,それなりに意味のあることなのだ。
 もう少し気象の比喩を続けよう。雲を分類する知識があるからといって,素晴らしい空に感動する能力が失われるわけではない。それと同じように,性格を分類する知識を持ったからといって,いつでも友人を分類するはずもなく,ましてや豊かな交友関係が結べなくなるはずもない。むしろその反対に,雲についての知識があれば,これから天気がどうなるか予想することができるように,性格についての知識があれば,ある種の状況においては人とうまくやっていくことができるようになるのである。

フランソワ・ルロール&クリストフ・アンドレ 高野 優(訳) (2001). 難しい性格の人との上手なつきあい方 紀伊國屋書店 pp.21-22
(Lelord, F. & Andre’, C. (1996). Comment gérer les personnalités difficiles. Paris: Editions Odile Jacob.)

言語とメタ言語

 論理が使える範囲の限界を特定し,真理の概念がどういうことかを特定しようとするなら,言語とメタ言語との区別は重大である。この区別がないと,論理は混乱に陥り,自分が立てようとするどんな命題でも「真」になる。大地は平らだということを証明したいとするなら,次のような文を考えるだけでいい。

 この文全体が偽であるか,大地が平らであるか,いずれかである。

 この文は真か偽かいずれかである。それが偽だとすれば,それが言っているところによって,大地は平らでなければならない[両方とも成り立つか,両方とも成り立たないか,いずれかになるが,前提から前半が成り立つ以上,後半も成り立つ]。真であれば,最初の命題「この文全体が偽である」か,第二の命題「大地は平らである」のいずれかが真でなければならない。ところが今は文全体が真であると仮定しているので,第1の可能性は排除され,したがって第2の可能性の方が真とならなければならない。したがって,大地は平らなのだ。さらにすごいことに,「大地は平らである」の代わりに,何でも好きな命題を入れることができ,同じ推論によって,その好きな命題が真であることが証明できる。
 ポーランドの数学者アルフレッド・タルスキーが,1939年,やっとこの気がかりな状況に方をつけた。特定の論理的言語で表された命題は,その言語の外に出て,そのメタ言語の1つを使わないことには,真とも偽とも呼べないのである。世界についてのある命題が真であると言いたければ,メタ言語を使わなければならない。タルスキーは,ある命題が「真」だと言われるのはどういう意味なのかということを決定する明瞭な方法を唱えた。「大地は平らである」という命題が真であるのは,大地が実際に平らな場合であり,その場合に限るとした。それはつまり,「 」でくくった地球についての文が真であるのは,その文にある「大地」という言葉を,意味を変えることなく実際のこの惑星に置き換えることによって,大地が実際に平らであることを示すことができる場合であり,その場合に限るということである。そうすると,「 」にくくった文を論じ,それが真であるかどうかを論じ,地理的な証拠と付き合わせることができるが,それを「 」にくくらないメタ言語において行なうまでは,「 」でくくられた文は意味を持たない。
 この細かい区別は,「この文は偽である」などの昔からある言語上のパラドックスを一掃してしまう。それは言語とメタ言語とを混同しているだけだということがわかる。先の「この文全体が偽であるか,大地が平らであるか,いずれかである」という例にも同じ欠陥が存在する。それは命題と命題についての(メタ)命題とをごっちゃにしているのである。やはり大地は平らではない。
 この安心できる結論には,さらに驚くべき副産物がある。絶対の真理というのはありえないのである。ある言語の内部で行える,その体型内部で真と言って意味することを定めるような演繹(証明)はあるが,その上にそびえるメタ言語の階層にはきりがなく,それぞれにそれぞれで真と言われるものの一定の領域がある。タルスキーが示したのは,真や偽について形式的な定義は立てられないということである。真はそれを表現するために用いられる言語と同じ次元において厳密に定義することはできず,メタ言語においてしか定義できないのである。

ジョン・D・バロウ 松浦俊輔(訳) (2000). 科学にわからないことがある理由 青土社 pp.317-319
(Barrow, J. D. (1998). Impossibility: The limits of science and the science of limits. Oxford: Oxford University Press.)

不満があっても

 規則や規制に不満はあっても,我々はそれを好む。人間の文化には,自ら課した制約がいくらでもある。ゲームをしたりパズルを解いたりするのが好きであり,厳格な形式についての規則に制約される音楽を作る。芸術は伝統的に,定められた素材を用いて限られた空間や時間の領域という限界を探っている。時おり,どこかの芸術家が新しい舞台を創始し,これみよがしに古いしきたりの拘束を破ったりするが,ふつうその後には,少し広くなった領域の探求があらためて始まり,そこには,異なるとはいえ独自の規則がある。

ジョン・D・バロウ 松浦俊輔(訳) (2000). 科学にわからないことがある理由 青土社 pp.310
(Barrow, J. D. (1998). Impossibility: The limits of science and the science of limits. Oxford: Oxford University Press.)

文明の段階2

 文明がその周囲の大規模な世界を操作する能力を考えることによって,文明の「タイプ」を立ててきた。これはなかなか難しい操作である。膨大なエネルギー資源を必要とするし,間違ったことになっても後戻りしにくい。どうしても重力がかかるし,例外なくすべてに作用する自然界の力として知られているのはそれだけなので,そのスイッチを切ることもできない。そこで,実用的には,世界の操作は大きい方ではなく小さい方に広げた方が,費用対効果はずっといいということがわかった。今度は,テクノロジー文明の分類を,小さな存在を制御する能力に従って,タイプI-,タイプII-というように,下に向けて行ない,タイプΩ-まで広げてみよう。これらの文明は,次のように区分される。

 タイプI- 身の丈程度の大きさの対象を扱える。構造物を築き,鉱石を掘り,個体を結合したり壊したりできる。
 タイプII- 遺伝子を操作し,生物を作り替えたり開発したりし,自身の部分を移植したり交換したりし,自分の遺伝子コードを読み取り,操作することができる。
 タイプIII- 分子と分子結合を操作し,新しい素材を創造できる。
 タイプIV- 個々の原子を操作して,原子規模のナノテクノロジーを創出し,複合的な形態の人工生命を創出できる。
 タイプV- 原子核を操作し,それを構成する核子を操作できる。
 タイプVI- 根本的な素粒子(クォークとレプトン)を操作し,素粒子の集団に組織だった複合性を創出できる。

 最終的には

 タイプΩ- 空間と時間の基本構造を操作できる。

ジョン・D・バロウ 松浦俊輔(訳) (2000). 科学にわからないことがある理由 青土社 pp.222-223
(Barrow, J. D. (1998). Impossibility: The limits of science and the science of limits. Oxford: Oxford University Press.)

文明の段階

 1960年代,地球外知的生命体(ETI)を探索するというアイデアは,潜在的には天文学的観測の新技法がたくさん使えたものの,まだ新奇なものだった。ロシアの天文物理学者ニコライ・カルディシェフは,進んだETIを,そのテクノロジーの能力に応じて,タイプI,タイプII,タイプIIIの3つに分類することを唱えた。この文明の段階は,おおまかに言うと,次のように分かれる。

 タイプI 惑星を造りかえたり惑星環境を変えたりすることができる。今の地球文明が用いているのと同じエネルギーを通信に用いることができる。
 タイプII 太陽系を造りかえることができる。今の太陽と同等のエネルギーを恒星間通信に用いることができる。
 タイプIII 銀河を造りかえることができる。我々の知っている法則を用いて観測可能な宇宙全体にわたって信号を送ることができる。今の天の川銀河と同等のエネルギーを,恒星間通信に用いることができる。 

ジョン・D・バロウ 松浦俊輔(訳) (2000). 科学にわからないことがある理由 青土社 pp.215-216
(Barrow, J. D. (1998). Impossibility: The limits of science and the science of limits. Oxford: Oxford University Press.)

人類の大きさ

 我々の大きさは,いろいろな意味で興味深い。人類が進化していくうちに,だんだん大きくなったらしい。大きく見れば,天文学的領域と原子より小さい世界とのちょうど真中にいることがわかる。地球上で考えると,地球にいる生物の大きさの範囲内ではごく平凡な位置になるものの,二足歩行するものとしては最大であるという点が目立っている。その大きさは,我々がたどってきた社会的・技術的発達のパターンにとっても重大だったらしい。我々がこの大きさだからこそ,個体における分子結合を切るだけの力が出せる。つまり石を砕いたり彫ったり,燧石のような硬い素材を研いだりすることができる。金属を曲げて加工できる。十分な運動エネルギーで石を投げ,棒をふりまわし,他の動物だけでなく,同類を殺すこともできる。こうした能力は,我々がずっと小さかったら当然なかったものであるが,我々が進化する上では重大な役割を演じているものである。それによって初期のテクノロジーが発達できた。しかしそれによってすぐ命を奪えるような力を振るえる危険な好戦的種にもなった。急速な進歩を可能にしたが,進歩をすべて終わらせる手段をももたらしてしまった。

ジョン・D・バロウ 松浦俊輔(訳) (2000). 科学にわからないことがある理由 青土社 pp.206-208
(Barrow, J. D. (1998). Impossibility: The limits of science and the science of limits. Oxford: Oxford University Press.)

衰え

 科学者がアイデアを出すのにいちばん脂がのっている時期にあり,新しい結果がどんどん出てくるとすると,その黄金期が終わるなどとは思いたがらず,終わることはありえないと思うことになるだろう。自分が中心的な役割を果たしている新しい急速な変化の時期が,旧理論の放棄から出てくる直接の結果である場合には,その思いは強められるものだ。逆に,科学者の想像力が衰えつつあれば,自分の能力の衰えをいちばん合理化し安心させてくれることは,その分野全体がもう成果があがらなくなりつつあり,新しい発見という収穫が着実に減りつつあり,いつかすべて枯渇してしまうかもしれないと思うことである。自分の人生のパターンが科学全体の歩みの鋳型であると想像することはたやすい。奇妙なことに,この傾向は,科学における創造的活動のレベルと相関している必要はない。実際,負の相関になっていることもある。かつて活動的だった研究者は,自分の力が衰えているという現実を,その分野が他の人々によって活発に推進されているときにこそ強く感じることがある。ある分野のかつての指導者には,この前進の方向全体に強く反対するという形でその前進に反応する傾向がある。彼らがかつて科学界の世論に逆らって進むことで重要な前進をなしたとしても,これまでと同じことを続けたいと思う傾向が必ずあって,それは証拠の力とはほとんど無関係である。

ジョン・D・バロウ 松浦俊輔(訳) (2000). 科学にわからないことがある理由 青土社 pp.193
(Barrow, J. D. (1998). Impossibility: The limits of science and the science of limits. Oxford: Oxford University Press.)

たどり着けない

 情報をプールする相互につながった知性と処理能力がこれからどうなるか,しっかり考えなければならなくなるのは,知識を処理する人間の能力がどんどん拡大することについて,また別の心配が突きつけられているためでもある。我々が知識を獲得する今の速さを単純に延長すれば,人間の能力は危機に向かうことになるらしい。現時点では,中等教育には6年ほどかかり,理系の学生が数理科学の先端がどうなっているかがわかりはじめるだけのものを身につけるまでには,さらに3年の大学教育が必要になる。自力で知識への貢献ができるようになるには,ふつうさらに2,3年はかかる。この教育の道筋は,もちろん,科学研究用に最適化されているわけではない。それは万人に合うようになっていなければならない。当然,人間の理解のいろいろな最先端の1つに達するまでには相当の時間と努力が必要だ。たいていの学生はとてもそこまでは達しない。知識が深まり,広がれば広がる分,先端に達するために必要な時間も長くなる。この状況は,専門化を進めることによって対処して,先端として目指される部分をどんどん狭くするか,教育訓練の時間を長くするか,いずれかによってのみ対処できる。いずれの選択肢も完全にそれで満足できるというものではない。専門化が進めば,この<宇宙>についての理解が分断される。予備訓練の期間が長くなれば,創造力があっても,成果のはっきりしない長い道のりに踏み出すのが遅れる人が多くなる。何と言っても,自分が研究者としてやっていけないということがわかる頃には,他の職業に移るには遅すぎるということもあるだろう。さらに深刻なのは,科学者として生きる最初の創造的な期間を,わかっていることを消化し,研究の先端にたどりつくために費やすことになるという可能性ではないか。

ジョン・D・バロウ 松浦俊輔(訳) (2000). 科学にわからないことがある理由 青土社 pp.182-183
(Barrow, J. D. (1998). Impossibility: The limits of science and the science of limits. Oxford: Oxford University Press.)

完璧ではない

 我々の心と体が有している能力はもともと,今はもうない環境によって課せられる問題に対する答えだったという点を,きちんと認識することが重要である。その過去の環境との適応関係には今も残っているものがあるが,多くはもうない。それらが最適である必要はないということを認識するのも大切である。分別があってしかるべき科学者も含め,多くの人々が,生物の有する適応の驚異的な緻密さに心を奪われ,それが完璧な適応であると思い込んできた。しかしこれは真相からは遠い。人間の眼は見事な光学的装置ではあるが,ありうるものの中で最善とは言えない。蜜蜂は材料を有効に利用して蜂の巣を作るが,数学者はもっと効率的なものがありうることを知っている。別に驚くことではない。環境条件に完璧に適応するとなると,無理なほど高価につくかもしれない。資源をじゃんじゃん使って完璧な適応に投入すれば,別の部門ではより不完全な適応で甘んじなければならない。あたりまえに乗る車のために,100年はもつきわめて高価な点火プラグを買うことにどんな意味があるだろう。まったく意味はない。点火プラグ以外の部分は100年に遠く及ばないうちに故障してしまうだろう。

ジョン・D・バロウ 松浦俊輔(訳) (2000). 科学にわからないことがある理由 青土社 pp.155-156
(Barrow, J. D. (1998). Impossibility: The limits of science and the science of limits. Oxford: Oxford University Press.)

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