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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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長期的

 我々は,自分たちの身体能力は,競合する相手がいる中で周囲の状況に適応していく長い過程の結果だと教わっている。長期的に見て生き残る可能性が大きくなるような属性の集まったものが増えるのだ。ここで「長期的」というのは,人類とその先駆けを含む歴史の全体で,何億年にもわたっている。人類の最近の歴史は,驚異的な速さの進歩をとげているとはいえ,時間の海原の中にあってはほんの一瞬にすぎない。我々は人間の頭脳の合理的な産物——科学,テクノロジー,数学,コンピュータ——のことばかり考えるが,そういうものは最近のまだ目新しい活動である。人間のそれらに対する適性は,遠い昔,環境が今とは多くの点で全く違っていたかもしれない頃に,当時他にありえた選択肢よりも生き残る可能性を大きくしたから心が所有することになった,他のもっと基本的な能力の副産物と考えなければならない。進化論的変化が人類に生じる速さはあまりにゆっくりなので,記録の残っている歴史をカバーする期間(9000年かそこら)で生得の能力に大きな変化をもたらすことはありえない。

ジョン・D・バロウ 松浦俊輔(訳) (2000). 科学にわからないことがある理由 青土社 pp.154
(Barrow, J. D. (1998). Impossibility: The limits of science and the science of limits. Oxford: Oxford University Press.)
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飛躍

 複合的な構造物には,そこを越えると突然複合度が飛躍するようなしきいがあるらしい。人の集団を考えてみよう。1人の人間でも多くのことができる。そこにもう1人加われば,さらに関係ができる。しかし徐々に少しずつ人が増えると,複合的な相互関係の数は膨大になる。経済システム,交通システム,コンピュータ・ネットワーク,どれもすべて構成する部品の間にできるつながりの数が増えるとともに,それらの特性に突然飛躍が生じる。意識は,脳のような連結した論理ネットワークで非常に高度な複合性に達したときに飛躍的に発現する,最も特異な特性である。

ジョン・D・バロウ 松浦俊輔(訳) (2000). 科学にわからないことがある理由 青土社 pp.126
(Barrow, J. D. (1998). Impossibility: The limits of science and the science of limits. Oxford: Oxford University Press.)

進歩

 進化は,生物界が完成品だという考え方を廃止したということがわかる。それによって進歩(あるいは退歩)という考え方や,世界は将来どんなふうになるかという思弁に道が開かれる。こうした考え方は,生命科学者にとってはあたりまえになる。自然界の数理的法則を研究する物理学者は,その法則が不変だという性格を強調する。20世紀になる前は,そうした法則が最もうまく応用できたのは月や惑星の運動だった。天文学の世界で見られる変化は,生物界で見られるものよりも遅く,単純で,予測しやすい。20世紀になってようやく,天文学は星や銀河の起源や進化についての根本的に新しい理論とつきあうようになり,宇宙が拡大することも発見される。

ジョン・D・バロウ 松浦俊輔(訳) (2000). 科学にわからないことがある理由 青土社 pp.76
(Barrow, J. D. (1998). Impossibility: The limits of science and the science of limits. Oxford: Oxford University Press.)

変化と改善

 進歩があたりまえという思い込みは,比較的最近になってからのものである。それは長生きして,しかもあわただしく生きるようになった結果である。昔の生活はもっとゆっくりとしていた。通信もしにくく,変化もなかなか促しにくかった。それをもたらせる人もずっと少なかった。たいていの人にとっては,変化と改善の間には何の相関もなかった。人生は単調な繰り返しで,得るものはほとんどなく,すべては失われていく。

ジョン・D・バロウ 松浦俊輔(訳) (2000). 科学にわからないことがある理由 青土社 pp.71
(Barrow, J. D. (1998). Impossibility: The limits of science and the science of limits. Oxford: Oxford University Press.)

問題科学

 科学者だけが科学の将来の歩みを定めるわけではない。彼らの活動が高価になり,国家の技術や軍事に直接結びつかなくなれば,科学者を引き続き支えるかどうかは,社会が当面している他の大問題によって決まることになる。気候の問題があれば,気象学者や宇宙科学者の方が,素粒子物理学者や金属学者よりも,政府の資金提供部門から有利なはからいを受けることになる。将来,「問題科学(プロブレムサイエンス)」と呼ばれるようなもの——人類の生存と福利を危うくする環境,社会,医療などの大問題を解決するのに必要な研究——が発達して,注目の的になり,豊富な資源を割り振られることになるかもしれない。人類の歴史全体を通じて,戦争の脅威があり,また実際に戦争が存在したことが,科学や数学の特殊な領域に緊急性と注目をもたらした。将来はその緊急性の焦点が,我々の過去の行動の副産物や,自然界における気候や生態のやっかいな傾向の影響に向くかもしれない。非常に長い目で見れば,危険度の低い災害は,それに対してつねに防御していなければ,ほぼ確実に起きる。

ジョン・D・バロウ 松浦俊輔(訳) (2000). 科学にわからないことがある理由 青土社 pp.58
(Barrow, J. D. (1998). Impossibility: The limits of science and the science of limits. Oxford: Oxford University Press.)

知らないことで

 全知の欠如によって保証される限界は,否定的にばかり見るべきではない。誤りや不首尾は学習する過程においては大きな役割を演じている。不首尾にぶつかったときは,その状況を全体として再評価し,立てた仮定を再検討する。この点について,人工知能が人間のすることをどの程度真似できるか,まだまだ不明である。進化の途上のある段階で,人間は想像力という機能を発達させるようになった。それによって人間は,可能なこととともに不可能なことについても学習できるようになった。それによって,世界のことを理解するという能力は,格段に領域が拡大し,速度も上がった。なかでも見逃せないのが,ありえない事物を考えられるという点である。実は,たいていの人々が,ありえないことであっても,それがありうると思うだけでなく,現実のものだと信じて日々の暮らしを送っている。たいていの人は,ありえないことよりもありうることに関心がある(この姿勢はプラグマチズムと呼ばれることもある)。しかし一部の人々は,ありえないことの方に関心を向ける。だからといってそういう人々がただの観念論者であり空想家だということではない。空想による文学や芸術というのはすべからく,言語的・視覚的にありえないことによって立てられる課題に発しているのである。

ジョン・D・バロウ 松浦俊輔(訳) (2000). 科学にわからないことがある理由 青土社 pp.32
(Barrow, J. D. (1998). Impossibility: The limits of science and the science of limits. Oxford: Oxford University Press.)

全知の欠如

 全知の欠如によって保証される限界は,否定的にばかり見るべきではない。誤りや不首尾は学習する過程においては大きな役割を演じている。不首尾にぶつかったときは,その状況を全体として再評価し,立てた仮定を再検討する。この点について,人工知能が人間のすることをどの程度真似できるか,まだまだ不明である。進化の途上のある段階で,人間は想像力という機能を発達させるようになった。それによって人間は,可能なこととともに不可能なことについても学習できるようになった。それによって,世界のことを理解するという能力は,格段に領域が拡大し,速度も上がった。なかでも見逃せないのが,ありえない事物を考えられるという点である。実は,たいていの人々が,ありえないことであっても,それがありうると思うだけでなく,現実のものだと信じて日々の暮らしを送っている。たいていの人は,ありえないことよりもありうることに関心がある(この姿勢はプラグマチズムと呼ばれることもある)。しかし一部の人々は,ありえないことの方に関心を向ける。だからといってそういう人々がただの観念論者であり空想家だということではない。空想による文学や芸術というのはすべからく,言語的・視覚的にありえないことによって立てられる課題に発しているのである。

ジョン・D・バロウ 松浦俊輔(訳) (2000). 科学にわからないことがある理由 青土社 pp.32
(Barrow, J. D. (1998). Impossibility: The limits of science and the science of limits. Oxford: Oxford University Press.)

神らしい行動

 古代の権威者たちは,神らしい行動と神にふさわしくない行動とを細かく区別しようとして,後者は神という属性をもった存在にとって論理的に不可能なのだと見た。しかしこの区別も,現代の目から見ると,かなりあぶないように見える。奇蹟を擁護する人々の中には,この宇宙においてありうることについての我々の知識が不完全であることを強調し,神の行動を自然界の法則に対する例外ということで折り合いをつけようとしてきた人もいるし,初期条件が少しでも違えばその後の進行が大きく変わるような状況については未来がどうなるかはわからないということで,それを説明しようとしてきた人々もいる。
 ユダヤ教やキリスト教の宗教的伝統を見ると,人間には「不可能な」ことが神にはできるというのが決定的な特徴である。その昔の17世紀,トマス・ブラウンが論じたように,「ありうることだけを信じたのでは信仰にならない。それは単なる哲学だ」。この特徴も,神と人類との決定的な違いの1つを定めるのに使える。人間の限界は,神と人類の間の大きな溝を固定するものである。たとえば,呪術師や巫女が出てくると,彼らは,奇蹟と見える力を示し,他の者にはできないことを演じる能力によって,自分の地位を認めさせようとした。宇宙の階層構造では,行動に対する限定が少ないほど,その限定が弱いほど,身分が上がるという見方を推奨したのである。

ジョン・D・バロウ 松浦俊輔(訳) (2000). 科学にわからないことがある理由 青土社 pp.27-28
(Barrow, J. D. (1998). Impossibility: The limits of science and the science of limits. Oxford: Oxford University Press.)

経験=編集

 人間の経験は,現実すべてについての記述を何らかの形で編集するものである(「我々はあまりにたくさんの現実には耐えられない」)。我々の感覚は,提示されている情報の量を切りつめる。目はきわめて狭い範囲の振動数の光を感じ取り,耳が感じる音の音圧と振動数はある範囲のものに限られる。我々の五感にかかる世界についての情報を何から何まですべて集めていたら,感覚器官はつぶれてしまうだろう。遺伝子の資源は乏しいので,捕食者から逃げる,あるいは食物となるものを捕らえるための情報を取ってくる量が少ない器官は犠牲にして,必要な情報を収集する器官に偏って集中することになるだろう。環境についての完全な情報というものは実物大の地図をもつようなものである。地図が役に立つとすれば,実地の中からもっとも重要な側面を簡約し,要約して封じ込めていなければならない。情報を短く圧縮しなければならないのである。脳はそうした短縮を行えるものでなければならない。またこのような簡約が,ある幅の時間や空間にわたって可能になるためには,環境の側も,それなりに単純でそれなりの秩序を示すものでなければならない。

ジョン・D・バロウ 松浦俊輔(訳) (2000). 科学にわからないことがある理由 青土社 pp.20-21
(Barrow, J. D. (1998). Impossibility: The limits of science and the science of limits. Oxford: Oxford University Press.)

ネット社会の危険性

 情報時代と言われる現代,子どもたちにとって情報を見つけるのはたやすい。ところが,それを解釈する段階になって問題が生ずる。(本書ですでに触れた)「まずは信じて,後で質問する」という私たちの性癖は,インターネット時代においては危険きわまりない。なにしろ今は,何の資格もなくとも誰でも公開できる世の中なのだ。ところが,研究に次ぐ研究が,ティーンエージャーはインターネットで読む情報をしばしば額面どおりに受け取ると示している。たいていの生徒はウェブページを書いた人が誰であるか,その人物はどのような資格でそれを書いているのか,その情報を他の情報源が認めているか否かを確認することはほとんどないか,あってもときどきという程度だ。ウェズリー・カレッジの研究者2人によれば,「学生はたいてい,情報の正確さにはほとんど注意を払わずに,インターネット情報を主たる情報源として活用している」。これは大半の成人にしても同じである。あるインターネット調査によれば,「平均的な消費者は[ウェブ]サイトの内容より,視覚的キューなどの見かけの特徴に注意しがちだった。例を挙げれば,調査の対象となった消費者総数の半分近く(46.1パーセント)が,サイトの信頼性をレイアウト,モーション・グラフィックス,フォントサイズ,配色といった,サイト全体の視覚的デザインの訴求力にもとづいて判断していた」
 だから私たちはウィキペディアとインターネット接続だけでなく,学校を必要とするのである。もし私たちが生まれつき思考に秀でており,何事も鵜呑みにせずに疑念を抱き,バランス感覚に優れているならば,学校など無用の長物だ。

ゲアリー・マーカス 鍛原多恵子(訳) (2009). 脳はあり合わせの材料から生まれた:それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ 早川書房 pp.251-252

目的の言い換え

 「減量する」とか「期日の前にこの論文を書き終える」といったはっきりしない目的を守るのは難しい。それにただ目的を具体的にすれば(3キログラム痩せる)いいというものでもない。心理学者のピーター・ゴルヴィツァーの研究によれば,目的を具体的な予備案——「XならばYである」というif-thenの形(「フレンチフライを見たら,避ける」)——に書き直すだけで,成功率を著しく改善できるという。
 私たちのクルージ性を見つめれば,反射的な祖先型システムに継ぎ足された最近の熟慮型システムが,脳の舵取りをする機会が少ないわけは一目瞭然である。情報という情報はほとんどすべて古い祖先型・反射型システムを通らねばならないからだ。だから抽象的な目的を祖先型システムが理解できる形(すべての反射作用の基本であるif-then形式)に変換すれば,具体的な予備案によって脳の限界を回避できる。古いシステムの言語で話してやれば,目的達成の可能性を増やせるのである。

ゲアリー・マーカス 鍛原多恵子(訳) (2009). 脳はあり合わせの材料から生まれた:それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ 早川書房 pp.243-244

擬似相関

 あなたは信じないかもしれないが,アメリカ国民を見る限り,靴のサイズと一般常識のあいだには高い相関がある。小さいサイズの靴を佩いている人に比べると,大きいサイズの靴を履いている人のほうが歴史や地理の知識が豊富なのだ。かといって,大きな靴を買えば賢くなるわけではない。いや,脚が大きいからと言って賢いわけでもない。じつは,たくさんの相関がそうであるように,この相関は思うほど重要なものではない。なぜなら,私たちは相関と因果関係を混同しがちだからである。私が述べたばかりの相関は真実だが,ここではある要素が別の要素を引き起こしているという,私たちがついついしてしまいがちな判断は間違いである。靴のサイズの例で相関が見られる理由は,小さな足(したがって小さな靴)を持つ人はこの地球の新しい住人,すなわち乳幼児で,まだ歴史の勉強をするには幼過ぎるだけなのだ。私たちは成長するに連れて学ぶが,成長そのものが学習につながるわけではない。

ゲアリー・マーカス 鍛原多恵子(訳) (2009). 脳はあり合わせの材料から生まれた:それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ 早川書房 pp.241

自制心を失う理由

 正常な人がときとして自制心を失うのは,次のような,私たちの認知にかかわる数々のクルージが相俟って作用するのが原因である。(1)不器用な自制心装置(一時的な怒りに任せて反射型システムに支配権を渡してしまう)。(2)確証バイアスの狂気(自分がいつでも正しい,またはほぼ正しいと私たちに思わせる)。(3)確証バイアスの邪悪な従兄弟である「動機づけられた推論」(たとえ間違っていたとしても,自分の信念にしがみつく)。(4)記憶の文脈依存性(誰かに腹を立てていると,過去にその人に腹を立てた別の理由を思い出す)。要するに,これらの理由で「熱い」システムが「冷たい」理性を支配するままにおかれるのである。

ゲアリー・マーカス 鍛原多恵子(訳) (2009). 脳はあり合わせの材料から生まれた:それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ 早川書房 pp.226

先延ばし

 人には休むことも必要だし,私はそのことに文句を言っているわけではない。それにしても物事を先へ先へと送る性向は,私たちの認知「デザイン」における根本的な欠陥を浮き彫りにしている。すなわち,目的を設定する装置(オフライン)と果たすべき目的を選ぶ装置(現在はオンライン)のあいだにギャップがあるのだ。
 後回しにしたくなる仕事は,一般に2つの条件を満たしている。それが私たちにとっても楽しくないこと,今すぐする必要がないことである。少しでも機会があれば,私たちは嫌なことを先延ばしにし,楽しいことをする。その結果,いつかは払うことになる代償については考えないことが多い。要するに,先延ばしとは将来を度外視する悪癖(現在より将来を軽んじる傾向)であり,快楽をお手軽だが当てにならない羅針盤として使うことである。
 私たちは集中力を欠き,無精を決め込み,ごまかす。人間であることは,自制心を求める生涯をかけた戦いなのだ。なぜか?進化は私たちに理にかなった目的を設定する知性を与えてくれはしたが,それを完遂する意思を授けてはくれなかったからだ。

ゲアリー・マーカス 鍛原多恵子(訳) (2009). 脳はあり合わせの材料から生まれた:それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ 早川書房 pp.216-217

失敗を表す言葉

 ヒトの脳も脆弱であることは疑う余地がない。脳はこれまで述べてきたような認知エラーを始終起こすし,小さな不具合やときには重大な故障も起こす。もっとも経度の不具合はチェスの達人がへまと呼ぶ類のものであり,私のノルウェー人の友人はこれを「脳の放屁」と揶揄する。理性や注意が一時的に機能を停止するわけだが,これは時に,「しまった!」と叫ぶような後悔や交通事故にすらつながることがある。そんな馬鹿はしないはずなのに,ほんの一瞬気が緩む。私たちは一生懸命でも,脳は私たちの望むとおりには働いてくれない。誰一人これから逃れる術はない。タイガー・ウッズですら,やさしいパットを沈められないこともある。
 当然と言えば当然だが,適切にプログラムされたコンピュータなら,こうしたへまはやらない。私のコンピュータは複雑な演算の途中で一桁繰り上げるのを忘れたり,(私にとっては残念なことに)チェスの途中で「ぼんやりして」クイーンを守るのを忘れたりはしない。よく言われるのとは違って,エスキモーは実際は雪に関する単語を500以上も持ってはいないが,英語を母語とする私たちは,短絡的な認知に関する単語を実にたくさん持っている。「mistake(ミス)」「blunder(へま)」「fingerfehler(手違い)」(チェスプレーヤーのあいだでよく使われる英語とドイツ語の混種語)はもとより,「goof(しくじり)」「gaffe(失態)」「flub(失策)」「boo-boo(どじ)」「slip(掛け違い)」「howler(間違い)」「oversight(過失)」とじつに多彩だ。言うまでもなく,私たちはこれらの語を使う機会には事欠かない。

ゲアリー・マーカス 鍛原多恵子(訳) (2009). 脳はあり合わせの材料から生まれた:それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ 早川書房 pp.210-211

ハイパーノーマル刺激

 より一般的に言えば,現代生活は進化心理学者が「ハイパーノーマル」刺激と呼ぶ,普通の生活ではあり得ない「完全無欠な」刺激に満ちている。解剖学的にあり得ないプロポーションのバービー人形,エアブラシで補正されたモデルの顔写真,ポップでテンポのよいMTVの画面転換,ナイトクラブの人工的なドラムビート。こうした刺激は祖先の世界にあったどんなものより純粋な喜びをもたらしてくれる。ビデオゲームがもっともいい例だ。私たちがゲームを好むのは,それが自分が何かを支配しているという感覚を与えてくれるからだ。難しいゲームも難関をクリアできる限りにおいては好ましいが,その感覚が消えたとたんに興味は失われる。公平に思えないゲームが面白そうでないのは,自分が進歩したという感覚をもたらしてくれないからだ。ゲームはレベルが上がるごとに満足感が強まるようにつくられている。ビデオゲームは支配欲にかかわるだけではない。その強化にかかわっている。この,技巧を習得すると報酬を与えるという自然過程のハイパーノーマル版は,習熟度に応じてできるだけ頻繁に快楽を与えるようにデザインされている。ビデオゲーム(業界がその開発・製造に年間数十億ドルをかける)が一部の人にとって実生活より楽しいと感じられるものにまでなったなら,それは遺伝子にとって死活問題だ。これらのゲームは快楽を見つける私たちのメカニズムに生得的な隙があることを利用しているからである。

ゲアリー・マーカス 鍛原多恵子(訳) (2009). 脳はあり合わせの材料から生まれた:それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ 早川書房 pp.192-193

言葉の変化の理由

 コンピュータ言語の単語は,1つに定まった意味を持つ。だが人間の言語では単語の意味がつねに変化している。ある世代では「bad」は「悪い」を意味するかもしれないが,次の世代の「bad」は「いい(グッド)」を意味する。なぜ言語はこれほど速く変化してしまうのか。
 答えの一部は,言語を持つ前の私たちの祖先がどう世界を見ていたかにある。彼らは正確さを尊ぶ哲学者でも数学者でもなく,つねに先を急ぐ動物だった。完全な解決策より「間に合わせ」の解決策で我慢することがしばしばだったのだ。
 セコイアの森を散策中に樹の幹を見たとしよう。あなたはおそらく木を見ていると考える。その幹が高くて,上に葉が生い茂っているかどうかわからないにしても。不完全な証拠(葉も根も視界になく幹が見えるだけでも,私たちは自分が木を見ていると結論づける)に基づいて瞬時の判断を下すやり方は,「部分一致」と呼ばれる。
 むろん,このやり方の論理的なアンチテーゼは,全体を見るまで待つことである。これは「完全一致」と呼ばれる。おわかりのように,木全体を見るまで待つ人は間違いを犯すことはないが,たくさんの木を見逃す危険を冒すことになる。進化は素早い決断を下す者に報い,気難しい者を好まない。
 よくも悪くも,言語はこのシステムをそっくり受け継いでいる。あなたは,椅子が四本の脚,背当て,座るための平らな面を持つ物体と考えるかもしれない。しかし哲学者のルードヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン(1889〜1951)が指摘したように,これほど厳密に定義された概念はこの世にそれほど多くはない。ビーンバッグチェアはやはり椅子の一種と考えられていても,背当てや脚はない。

ゲアリー・マーカス 鍛原多恵子(訳) (2009). 脳はあり合わせの材料から生まれた:それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ 早川書房 pp.161-162

言語の冗長性と多義性

 言語は時に冗長性を持ち(カウチとソファはほぼ同じものを意味する),不完全なこともある(微妙な匂いをきちんと表現できる言語はない)。申し分なく筋が通っているにもかかわらず,表現するのがひどく難しい考えがある。「Whom do you think that John left?(ジョンが別れたのは誰?)」(正しい答えは彼の最初の妻メアリーということにしよう)という文は文法的には正しいが,一見したところ同じに見える「Whom do you think that left Mary?(メアリーと別れたのは誰?)」(答えはジョン)は正しくない(この現象を説明しようと試みた言語学者が何人かいたものの,この非対称な現象がそもそもなぜ存在するのか説明するのは難しい。こうした例は数学やコンピュータ言語には見られない)。
 さて,この多義性は例外事項ではなく諸言語に普遍的に見受けられるようだ。「run」には「走り」や「ストッキングの伝線」,「野球の得点」などの意味が,「hit」には「ひっぱたく」や「ヒット曲」などの意味がある。もし私が「I’ll give you a ring tomorrow.」と言った場合,私は指輪をあげると言っているのだろうか,あるいは電話するよ,と言っているのか。短い単語も明確でない場合がある。ビル・クリントンのこんな有名な言葉がある。「それは『is』という語の意味次第だね」。さらに,個々の単語の意味は明快でも,文全体としてはそうではないこともある。「Put the book on the towel on the table」は,タオルの上にある本をテーブルの上に置く,そしてテーブルの上にある本をタオルの上に置く,の2通りの意味がある。

ゲアリー・マーカス 鍛原多恵子(訳) (2009). 脳はあり合わせの材料から生まれた:それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ 早川書房 pp.142-143

本能に従う

 当然,祖先型システムが下すにふさわしい決断があり,状況によってはこのシステムでなければ無理な場合すらある。瞬間的な決断をせねばならない場合を考えよう。ブレーキを踏むか,隣の車線に移るかを決めねばならないとき,熟慮型システムでは,いかにも遅すぎる。同様に,多くの変数がからんでいるときは,意識を持たないシステムのほうが,一定の時間を与えれば,意識ある熟慮型システムより優れた決断をすることがある。目の前の問題がスプレッドシートを必要としそうならば,統計に秀でた祖先型システムの出番かもしれない。マルコム・グラッドウェルは近著『第1感「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい』でこう論じる。「瞬時の決断は,意識して考えた末の決断と同じくらい有効なことがある」
 それでも,むやみやたらに本能を信じてはいけない。私たちが瞬時の決断を下せるのは,同様の問題について豊富な経験を有しているからである。一瞥して贋作をそれと見抜いたという学芸員など,グラッドウェルが挙げる事例の大半は,素人ではなく専門家のエピソードだ。オランダの心理学者アプ・ダイクステルハイスは,世界でも有数の直観に関する研究者である。彼の弁によると,私たちの最良の直観は,長年の経験に支えられた,意識を経由しない思考の末に得られたものであるという。効果的な瞬時の決断(グラッドウェルの「ひらめき」)は多くの場合,時間をかけて丁寧に焼き上げたケーキに,最後にほどこす砂糖掛けのようなものにすぎない。これまで経験したことのあるものとはかなり異なった問題に直面したときには特に,もっとも頼りになるのは熟考推論である。

ゲアリー・マーカス 鍛原多恵子(訳) (2009). 脳はあり合わせの材料から生まれた:それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ 早川書房 pp.135-136

聞く,受け入れる,評価する

 ここでの順序の違い(「聞く,受け入れる,評価する」と「聞く,評価する,受け入れる」)は一見些細なことであるように思えるかもしれないが,重大な結果を招く。ラジオ・パーソナリティーのアイラ・グラスが毎週ホストを務める《ディス・アメリカン・ライフ》という番組で最近話題になった話をご紹介しよう。生涯を通じて政治活動家として活躍し,ニューハンプシャー州の民主党議長の最有力候補だった人物が,児童ポルノのビデオを大量に所有しているとして告発された。告発した同州選出の共和党議員は何も証拠を提供しなかったにもかかわらず,告発された人物は選挙戦からの離脱を余儀なくされ,彼の政治生命は絶たれたも同然となった。2ヵ月にわたる捜査では証拠は一切挙がらなかったものの,すでに彼の名声は地に落ちていた。司法の世界には「疑わしきは罰せず」の原理が厳然として存在するが,私たちの心はそのようにはできていない。

ゲアリー・マーカス 鍛原多恵子(訳) (2009). 脳はあり合わせの材料から生まれた:それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ 早川書房 pp.97-98

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