実際のところ,論理に基づく真に明示的な推論はおそらく,進化によって得られるものではないのだろう。人間が形式論理を操るという意味において合理的であると言えるとするなら,それは私たちに生まれつきそのような能力が備わっているからではなく,私たちが推論規則を学べる(いったん学べばその真偽を認識できる)ほどに賢明であるからに過ぎない。正常な人間はすべて言語を獲得するが,形式論理を使って信念を形成し,あるいは信念を検討する能力は,進化というより文化の所産であるように思われる。進化によって可能にはなるが,必ず保証されているわけでもなさそうなのである。形式的な推論があると仮定しての話だが,それは主として文字を持つ文化に見受けられ,文字を持たない文化で見つけることは難しい。ロシアの心理学者アレクサンドル・ルリアは,1930年代末に中央アジアの山岳地帯に赴き,原住民に次のような三段論法をどう思うかと尋ねた。「シベリアのある町では,クマはみんな白い。あなたの隣人がその町でクマを見つけた。そのクマは何色か」。答えた人はまるで理解を示さなかった。典型的な答えはこうだ。「なんで私に分かる?どうして先生そいつに直接訊かないんだい?」20世紀にさらに行われた研究によってこの結果は再確認された。無文字社会の人びとはおおむね,三段論法に関する質問に対して理解できない様子だった。このことからは,こうした社会の人びとが形式論理を学べないということは言えない——一般的には,少なくとも子どもなら可能だ——が,抽象的な論理の獲得が言語習得のような自然で自動的な現象でないことは言える。したがって,逆にこうも言えることになる——信念について推論するための道具である形式論理は,進化によって獲得されるのと同時に学習によって身につけるものであり,(人間は生まれつき理性的であるという考えを信奉する人が考えるように)生得の能力ではないのである。
ゲアリー・マーカス 鍛原多恵子(訳) (2009). 脳はあり合わせの材料から生まれた:それでもヒトの「アタマ」がうまく機能するわけ 早川書房 pp.93-94
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