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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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臨界点

 ほとんどの感染症には,集団のサイズにおいて臨界点がある。つまり,集団内の個体数と密度がある点よりも低い場合は病気が蔓延しつづけることはないのである。典型例は麻疹(はしか)だ。通常,麻疹は子どもに感染し,約10日間は感染力を保ちつづける。一度かかった人には,生涯,麻疹に対する免疫ができる。麻疹が生き延びるためには,麻疹ウィルス(パラミクソウイルス)はつねに,罹患したことのない人,つまりもっとたくさんの未感染の子どもを見つけなければならない。だから,麻疹は人口密度の高い大きな集団でのみ存在し続けることができる。集団が小さ過ぎても,ばらけすぎていても(ごく近くに住んでいる人々が50万人以下の場合),麻疹ウィルスに触れたことのない子どもがどんどん生まれてくるわけではないので,ウィルスは死に絶える。ということは,少なくとも私たちが今日知っている型の麻疹は,農耕がはじまる以前には存在しえなかったということだ。地球上のどこにも,それほど大きく密集したヒト集団はなかったのだから。水痘ウィルスの場合は事情が異なる。このウィルスは神経系に居座り,のちになって再度,耐えがたい痛みを伴う帯状ヘルペスという形で症状があらわれることがよくあるからだ。子どもたちは祖父母から水痘をもらうこともある。「命は巡る!」のである。水痘の臨界集団サイズは100人未満なので,水痘は長いあいだヒト集団に存在していたのだろうと疫学者は考えている。

グレゴリー・コクラン,ヘンリー・ハーペンディング 古川奈々子(訳) (2010). 一万年の進化爆発:文明が進化を加速した 日経BP社 pp.110-111
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糖尿病

 オーストラリア先住民や多くのアメリカ先住民など,農業をまったく行っていなかった,あるいは行っていたとしてもその期間が短い集団は,西洋の食事をとるようになった今日,特有の健康上の問題を抱えている。現在,中でももっとも重大な問題は,II型糖尿病の罹患率が高いことである。運動不足がこの問題に関与していることは確かだが,遺伝的素因のほうが重大である。ナヴァホ族のカウチポテトのほうが,ドイツ人や中国人のカウチポテトよりもはるかに成人発症型糖尿病にかかりやすいのである。ナヴァホ族の糖尿病罹患率は,ヨーロッパ系アメリカ人の約2.5倍であり,オーストラリア先住民の場合は,他のオーストラリア人の約4倍も多い。私たちはこれを高炭水化物食への適応が低い結果だと考えている。興味深いことに,ポリネシア人も糖尿病にかかりやすい(およそヨーロッパ人の3倍)。彼らは農業を行っており,ヤムイモ,タロイモ,バナナ,パンノキ,サツマイモなどといった作物を栽培して育てているのだが。しかし私たちは,このケースでも不完全な適応仮説で説明できると考えている。ポリネシア人は,集団のサイズが比較的小さいため,適応が限られており,予防的な突然変異発生率も低かったのだろう。加えて,定住が難しかったこと,広い面積にちらばっているポリネシア諸島では島どうしの接触が限られていたことが,望ましい変異が確かに生じていたとしても,それが広がるのを妨げたのだろう。 グレゴリー・コクラン,ヘンリー・ハーペンディング 古川奈々子(訳) (2010). 一万年の進化爆発:文明が進化を加速した 日経BP社 pp.103

高血圧

既存の遺伝的バリエーションのほとんどは,各遺伝子のいくつかの中立な変異という形をとっていたに違いない。そうした変異どうしには,それほど顕著な違いはない。中立な対立遺伝子は何か働きをもつとしても,すべて同じことをする。私たちは,そうした中立な遺伝子の多くが,のちにユーラシアの農耕民が直面する問題の解決策だったという状況は考えにくいと思っている。おそらく,既存の機能的なバリエーションのほうがもっと重要だったはずだ。たとえば,ある遺伝子の祖先型は,ヒトが体に塩分を保持するのを助ける。ヒトは地球上に誕生してからの大部分を暑い気候で暮らしてきたので,一般にこの変異は役に立った。しかし今日,アフリカ系アメリカ人にこの先祖型の対立遺伝子が高頻度にみられることが,おそらく彼らの高血圧の高いリスクに関係しているのだろう。事実,熱帯アフリカでは,ほどんとの人がこの遺伝子の先祖型をもっている。ユーラシアでは,北へ行くにしたがってヌル変異(遺伝子が働かなくなる変異)の割合が増えていく。おそらく,塩分保持を促すこの遺伝子の働きは,人々があまり汗をかかない寒い地域は,血圧上昇を引き起こすため,有害なのだろう。

グレゴリー・コクラン,ヘンリー・ハーペンディング 古川奈々子(訳) (2010). 一万年の進化爆発:文明が進化を加速した 日経BP社 pp.92-93

*see also アフリカ系アメリカ人が塩分に弱い理由
**see also 奴隷制度と高血圧説とその批判

人種差別主義的?

 ネアンデルタール人が現生人類に競争の上で劣っていたという考え方に対して,まことにばかばかしい批判がなされることがある。いわく,そのような考え方は人種差別主義的である,と。なぜか,50万年前に現生人類と分かれた集団(現生人類とは異なる種であると一般に考えられている)が,なんらかの生物学的弱点をもっていたと主張することは言語道断というわけだ。私たち現生人類が現代まで生き延び,ネアンデルタール人は生き残れなかったにもかかわらず,である。さらに言えば,私たちがもついくつかの遺伝子は旧人類に由来するものだという考えは人種差別的だと言う人がいる一方で,人がネアンデルタール人の遺伝子を受け継いでいないという考え方は人種差別主義的だと論じる人もいるのである。

グレゴリー・コクラン,ヘンリー・ハーペンディング 古川奈々子(訳) (2010). 一万年の進化爆発:文明が進化を加速した 日経BP社 pp.39

遺伝的差異間の相関

 わかったことは,こうした遺伝的な差異のあいだの相関関係が重要であるということである。もしも集団間の遺伝的な差異が,特定の方向に向かいがちであるなら,つまり,ある傾向が有利になる流れがあるなら,そうした差異が合わさって,大きな効果を生むこともありえる。たとえば,イヌでは,成長に影響する遺伝子が確かにたくさんある。そうした遺伝子の変異体の中には,成長を促進するものもあれば,逆に成長を妨げるものもある。グレートデーンとチワワの両方で,成長を促進する遺伝子変異も成長を妨げる遺伝子変異も見つかるとしても,傾向は異なっているに違いない。成長を促す変異は,グレートデーンに多く見られるはずだ。中にはある遺伝子の成長阻害変異をもつグレートデーンもいるかもしれないし,逆に成長促進変異をもつチワワもいるだろうが,グレートデーンでは,多くの遺伝子の効果の総和は,ほぼ間違いなく成長促進方向に向いていると言って差し支えないだろう。というのも,私たち知る限りでは,グレートデーンの成犬よりも大きいチワワの成犬は一匹もいないからだ。同じように,ハワイ州のヒロよりもニューメキシコ州のアルバカーキのほうが降水量の多い日はあるだろう。しかし,一年を通して見た場合,ヒロのほうが,雨が多いことはほぼ確実である。そしてこれは,気象記録が残っている範囲では,毎年のことだ。

グレゴリー・コクラン,ヘンリー・ハーペンディング 古川奈々子(訳) (2010). 一万年の進化爆発:文明が進化を加速した 日経BP社 pp.25

浅い変化

 いわゆる進化的に浅い変化というものがある。ほとんどが,機能の喪失,あるいは機能の強調と再方向づけに関係するものだ。この種の変化で,エラやソナーが出現することはないだろうが,驚くべきことが起こることもある。イヌは全部がひとつの種にくくられるが,すでに見てきたように,他のいかなる哺乳動物よりも形態学的に品種間の差が大きく,また,学習能力など,多くの一風変わった能力を発達させてきた。イヌは品種によって,学習の速度と能力に著しい違いがある。新しい命令を学ぶのに必要な反復の回数は,品種によって10倍以上の開きがある。平均的なボーダーコリーは,5回の反復で新しい命令を学び,95%の確率で正しく反応することができるのに対し,バセットハウンドは,80〜100回繰り返し学習させても,正しい反応が得られるのは25%程度である。

グレゴリー・コクラン,ヘンリー・ハーペンディング 古川奈々子(訳) (2010). 一万年の進化爆発:文明が進化を加速した 日経BP社 pp.20

瞬きする間

 スティーヴン・J・グールドは,5万年や10万年は「まばたきする間」でしかなく,「進化的差異」が生じるには短かすぎるという立場をとっているが,それは正しくない。自然選択がもっと短い時間に大きな変化をもたらした例はいくらでもある。しかも,ものすごく短い時間内に起こることもしばしばあるのである。飼い犬からトウモロコシの粒に至るまで,最近の進化がもたらした産物はたくさんある。

グレゴリー・コクラン,ヘンリー・ハーペンディング 古川奈々子(訳) (2010). 一万年の進化爆発:文明が進化を加速した 日経BP社 pp.12

岡本先生の苦言

 大学院倍増計画のひずみは本書の所々で指摘した。取材過程でも,20年前ならとうてい入学できない層が,博士課程に入ってしまっている例もしばしば耳にした。
 あるいは,広島大学大学院教育学研究科(発達臨床心理学)教授である岡本祐子氏のように,「……ちょっと広島大学の恥を申し上げるようですが,私達教員は院生を手とリ足とり論文を指導し,投稿論文の修正対照表までチェックしてやり,こちらが手とリ足とり学位を取らせてあげるというのが実情です。そういう意味で,私達は院生のレベルが非常に下がってきたということは実感しているわけです」という指摘もある。

櫻田大造 (2011). 大学教員採用・人事のカラクリ 中央公論新社 pp.229

超平等主義社会

 学会で高く評価される論文を書いたり,学会賞をもらうような著書を刊行しても,それが直接的な経済的利益に結びつかないのが,通常の文系大学専任教員の世界なのである。理系の一部の教員のように,すごい発明,特許,産学共同研究などによって,儲かる(?)ことも文系ではまずない。教育的創意工夫があって,人気のゼミを運営していても,あるいは,まったく人気のないゼミとなっても,給与体系には影響はない。場合によっては,博士号や学術的単著(本)がなくて,学会や業界や社会での一般的評価が高いとは言い難い教員にもかかわらず(なので?),“長”と付く,(一応)管理職を喜々として拝命している人の話も耳にする。ビジネスの世界とは比べものにならないくらいの,“超平等主義社会”が賃金面で該当するのが現在の大学業界となっている。

櫻田大造 (2011). 大学教員採用・人事のカラクリ 中央公論新社 pp.190-191

大学業界に向いているのは

 まとめると,大学業界に向いている性格は,人を蹴落としてまでえらくなりたくないという人である。「教授以上の職階はない」と見なしてもかまわないし,学部長や「◯◯長」という役職は,同業者によって「すごい」とか「立派」とか必ずしも思われないのである。人によっては,教授になるのすら,雑務が増えて嫌う者もいよう。
 ヘタに教授に昇格してしまったり,「◯◯長」の付く役職に奉られると,むしろ,「大変やな」とか「ようやるな」とか,同情されるかもしれない。それよりも学会や社会での活動に精を出していたり,優れた研究をまとめたりするほうが高く評価される場合も多々あるのである。この点が,民間企業や官公庁などと著しく異なる。弘兼憲史のマンガ『島耕作』のように,係長→課長→部長→取締役→常務→専務→頂点の社長と“出世”しなくても,給与体系にすごく大きな差がつくわけでもなく,大学内ではまったく問題ない。それが大学教授の世界なのである。

櫻田大造 (2011). 大学教員採用・人事のカラクリ 中央公論新社 pp.180-181

40人と知り合え

 良いコネがあるほど将来的には就活に有利になる。これは洋の東西を問わない。実際,アメリカの大学就活ハンドブックによると,ほとんどの分野には100名程度の有力研究者がいて,その100名とコネを作ることを積極的に勧めている。それら100名とは,専門的な本を書いたことがあり,(IFの高い,著名な)学術論文を出版している,学会(学界)活動を活発にやっている研究者だとされている。 
 分野にもよるだろうが,この教えは,日本の大学業界にも当てはまる。100名がムリなら,アメリカと日本の人口比からしても40名程度の有力者と懇意にしていると,大学業界の中で将来が開けよう。

櫻田大造 (2011). 大学教員採用・人事のカラクリ 中央公論新社 pp.110

単独執筆

 要するに,「一国一城の主」的色彩の濃い,文系大学教員の研究業績評価はなんといっても,「論文・本・報告書などがどのくらい書けるか」ということにある。そこでは理系と違って,共同執筆よりも単著とか単独での研究が圧倒的に多い。そのために,大学教員になっても,(必ずしも学術論文だけでなくても)自分の研究成果を単独でまとめられるという能力を示せれば,ポイントはグンと高まるのだ。

櫻田大造 (2011). 大学教員採用・人事のカラクリ 中央公論新社 pp.81-82

大学採用人事

 一般化すると,大学採用人事は,学部卒採用人事と正反対である。すなわち,民間企業などでの新卒一括採用方式は,学部生の潜在力に注目して,採用後の社内研修やオン・ザ・ジョブ・トレーニング(OJT)により,社風や職種に合う人材を,ある程度の期間をかけて育成していくというものである。それに対して,大学業界では,新卒にまったくこだわらない(むしろ新規の大学院修了者や博士号取得者は就活で不利になる!)反面,「即戦力」になる人材が求められる。たとえば,定年65歳の大学で「教授職」で新しい採用人事をする場合,年齢も35〜60歳くらいまでの幅での採用が可能となる。そのことが就職に有利に働く場合と不利になる場合があろう。

櫻田大造 (2011). 大学教員採用・人事のカラクリ 中央公論新社 pp.43

自慢話はきつい

 その一方で,採用する大学側が教職歴にこだわる理由はわからないでもない。僕自身,大学教授に転身してから思うことだが,授業というのは説明の上手い下手だけで判断できるものではない。また,どれだけ貴重な経験をした実務家でも,経験だけで1学期の授業15コマをもたせることは非常に難しい。1コマ=90分の間,サラリーマン時代の自慢話を聞かされる学生も辛い。

中野雅至 (2011). 1勝100敗!あるキャリア官僚の転職記:大学教授公募の裏側 光文社 pp.176

先行研究

 ところが,ここにも落とし穴がある。人類が誕生してから何万年も経過しているのに,あなたが職場で思いついた仮説を今まで誰も思いつかなかった,なんて言い切る自信はあるだろうか?
 僕はよく真夜中に,役所や公務員に関する仮説を思いついては「こんなアイディアを思いつくのは俺だけに違いない,一刻も早く,論文にして発表しなければ……」と思ったものだが,そのアイディアのほとんどは,他の誰かがすでに手をつけていた。
 何を言いたいかと言えば,研究のアイディアでは「本邦初」なんていうものは少ないということだ。珍しい!と思ったものでも,過去に誰かがやっていることの亜種であることが大半だ。つまり,研究や論文には先祖がいるということなのだ。その先祖のことを「先行研究」という。

中野雅至 (2011). 1勝100敗!あるキャリア官僚の転職記:大学教授公募の裏側 光文社 pp.134

勘違い

 これは僕の偏見が入っているとあえて断っておくが,一般学生の中には論文や書籍を書かない人間が多い気がした。これはもちろん大学院のレベルにもよるが,全般的に,偉い先生やや他人の論文ばかり読んでいて,自分の論文を仕上げない。研究者を読書家と勘違いしている人間が多い気がしたのだ。

中野雅至 (2011). 1勝100敗!あるキャリア官僚の転職記:大学教授公募の裏側 光文社 pp.122

限界

 役所自身,90年代以降は不祥事を起こしまくっているので,偉そうに言える立場にはないのだが,マスコミに叩かれても,政治家に踏みつけられても,役所や官僚が手を抜かずに仕事をこなしていたのは「何だかんだと言っても,政策の原案を作るのは俺達だから,主導権は俺達にあるんだ」という思いがあったからだろう。
 偉そうな大臣や族議員に「お前ら馬鹿か」「たかだか役人が……」と言われても,若造の二世議員に踏んづけられても官僚が文句を言わなかったのは,ここに理由があったのだろう。厚生労働省にも,そういう考えでかろうじて自分のプライドを保っている官僚は沢山いた。
 しかし,僕から言わせれば,それもそろそろ限界に近づきるるあるように見えた。いくら「君達が政策の原案をつくって主導権を握っているんだよ」と言われても,そのために過労死になるような長時間労働を余儀なくされたり,政治家に公衆の面前で罵倒されたり,マスコミにバッシングされたりする中で,イニシアティブを握るために犠牲にしているものが上回り始めて,若手官僚を中心に役所を辞める者も増え出していたからだ。

中野雅至 (2011). 1勝100敗!あるキャリア官僚の転職記:大学教授公募の裏側 光文社 pp.35-36

役所のコピー文化

 電子政府,電子自治体と言いながら,役所はコピーが大好きだ。僕が役所で最も学んだことは「コピーのとり方」だと言っても過言ではない。コピー機にはどういう機能がついているかなどは入省半年もすれば,完全に把握できる。その上で,いかに効率的にコピーするかということを覚えていくのである。
 役所がいかにすさまじい量のコピーをするかは,倉庫に大量のコピー用紙が積まれていることからわかる。また,役所のコピー機はリースなのだが,定期的にコピー機の点検にやってくるリース会社の人が「これほどすさまじくコピー機が使われている職場はない」と絶句するほどである。

中野雅至 (2011). 1勝100敗!あるキャリア官僚の転職記:大学教授公募の裏側 光文社 pp.30-31

こだわりが

 公務員は政治家が決めたことを淡々とやるだけでいい。あるいは,政治家の言うことに逆らうことは,極端な話として,自衛隊などに対するシビリアンコントロールを否定するのと同様に反民主的だと言われることもある。しかし,どんな職業でもそうだが,仕事というものは一生懸命にやればやるほど,自分の信念やこだわりが出てくるものだ。

中野雅至 (2011). 1勝100敗!あるキャリア官僚の転職記:大学教授公募の裏側 光文社 pp.30

知の遺産仮説

 これまでの研究の蓄積から,ホモ・サピエンスは,20万年前ごろにアフリカで進化したとみなせる。しかし生物集団としての種の確立(つまり旧人の系統から独立しかつ1つの種として特徴的な形態が確立したこと)と,今日の私たちに備わっている文化を創造的に発展させていく能力の進化は,必ずしも同期していなかっただろう。この能力がどのように進化したのかまだはっきりしていないが,これまでに説明してきたように,祖先たちの世界拡散がはじまるおおよそ5万年前までに確立していた可能性が高い。ここでもう一度,カバーにあるブロンボス遺跡の抽象模様を見て欲しい。アフリカ大陸南端にある小さな洞窟の中に,7万5000年間埋もれていたこの模様は,私たちの遠い祖先が文化を大きく発展させていく能力をすでに進化させていたことを示唆している。
 本書で「知の遺産仮説」と呼んだ,この考えの意味するところは大きい。つまり現代人は,その内面において30万年前の旧人や20万年前の祖先(つまり最初期のホモ・サピエンス)とは違うが,世界へ拡散しはじめた5万年前の祖先とはほとんど同一だということなのだ。過去5万年間に私たちの内面が全く進化しなかったかと言えば,そうではなかったかもしれない。しかしそうだとしても,その程度はわずかで,本質的なものではななかったろう。

海部陽介 (2005). 人類がたどってきた道:“文化の多様化”の起源を探る 日本放送出版協会 pp.315-316

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