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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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クックの航海

 1492年,コロンブスがアメリカ大陸を発見したことを契機に,西ヨーロッパは大航海時代に突入した。その後,スペイン,オランダ,フランス,イギリスによって数々の太平洋探検が行われたが,とりわけ重要なものが,イギリスのジェームズ・クックによる航海である。クックが1768〜1780年にかけて行った3度の航海は,伝説の南方大陸(テラ・アウストラリス)の探索と,太平洋における大英帝国の領土拡大をねらったものであったが,目的は略奪行為ではなく,海図製作と,自然や天然資源,そしているのであれば先住民の気質や文化の調査であった。
 クックは南方大陸が実際には存在しないことを示し,さらに北から南まで太平洋全域を探検し,その海図を作り上げた。そしてタヒチやハワイを含む無数の島々を発見したのだが,それと同時に,驚くべきことにどの島にも人が暮らしていることを知った。島の住人たちは,文字をもたず石器を使っていたが,独自の大型カヌーを操る優れた航海者であった。クックは,タヒチのツピアという青年が,130ほどの島の方角と距離を頭に入れていたことを,驚きをもって記録している。つまり,ヨーロッパ人が近代航海術をもってはじめてたどり着いた太平洋地域を,彼らより先に知っていた人々がいたのである。しかもその人々は,この広大な海域を駆け巡り,ほとんどすべてといってよい島々をすでに発見していた。これは大袈裟な話ではない。リモート・オセアニアにはもちろん無人島もあるが,そうした島にもたいがい人が訪れた痕跡がある(ポリネシアに多いこのような無人島は,ミステリー・アイランドと呼ばれている)。

海部陽介 (2005). 人類がたどってきた道:“文化の多様化”の起源を探る 日本放送出版協会 pp.295-296
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複数の要因

 つまり農耕の発生直前には,複雑化した定住的な狩猟採集文化というものが存在していた。濃厚は無から突然産み出されたものではない。おそらくどの地域の祖先たちも,農耕を行うだけの潜在的知性は最初から持ち合わせていた。しかし実際にそれが実現に至るまでには,いくつもの自然や歴史の条件が整っている必要があったのである。
 農耕が起こるには,まず有用植物が土地に豊富に自生している必要がある。初期の農耕に適した有用植物の分布には,地域的偏りがあると指摘されている。実が大きく短期の成長予測が可能な1年生のイネ科植物の種類は,西南アジアでは特に豊富だった。次に人々の目が植物に向くような自然環境や,人口密度が高いといった歴史的環境が必要であった。これらの条件の中で,人々は植物の生育に関する知識を,自然に蓄積していった。そして最後に栽培という積極的行為に手を出すには,やはりその手間とリスクを補って余りある経済的な動機が必要であった。そうした動機は,自然環境,人口密度の過密化,社会の複雑化,定住傾向の促進といった,複数の要因が絡み合った結果として,はじめて生じたものと思われる。

海部陽介 (2005). 人類がたどってきた道:“文化の多様化”の起源を探る 日本放送出版協会 pp.283-284

広がりきったから

 これまでに述べてきたように,大型動物の絶滅の原因には,気候変動とホモ・サピエンスの活動の双方が影響したと見るのが,理にかなっている。絶滅の規模は,それまで人類のいなかった地域ほど大きい傾向がはっきりと存在する。人類との付き合いの長いアフリカの動物は,この二本足で動き回る動物が警戒すべき存在であると,DNAに刻みこまれたのだろう。おそらくそのために,アフリカの動物たちは,一部の例を除いてホモ・サピエンスの登場による打撃をあまり受けていない。しかしオーストラリアやアメリカでは,ホモ・サピエンスの恐ろしさを知らない動物たちが,それを理解する猶予もなく絶滅に追いやられた可能性が高い。ユーラシアの各地でも,新しい環境を利用すべく数々の技術を発達させたホモ・サピエンスの活動と,温暖化に伴う生息地の縮小が,マンモスやケサイといった動物たちを絶滅に追いやったようだ。ホモ・サピエンスなら,環境が変化しても文化の力で新しい環境に適応できたが,ほかの動物たちはそのような術をもたなかった。
 この動物の減少は,祖先たちの生活に大きな影響を与えたと考えられる。それまで大型動物の狩猟に強く依存していた彼らは,このとき小型の動物,海産物,鳥,各種の植物など,もっと多様な食資源に目を向けなければならなくなった。つまり,それぞれの土地に特有の生態系をもっと強力に活用する,新しい生活スタイルを模索する必要が生じたのだ。加えて温暖化に伴って環境が大きく変化した地域では,人々は狩猟活動だけでなく採集活動の変更も迫られたであろう。
 各地の人口密度が高まる前の時期であれば,人々は活動域を広げたり,違う土地へ移動したりして問題を解決しようとしたかもしれない。しかしこのときは,もう状況がそれを許さなかった。すでにホモ・サピエンスは5つの大陸のほとんどの地域に広がっており,多くの集団は自分たちのテリトリーの中で問題を解決する以外,道はなかったのである。それでも祖先たちは,(間違いなく相当の試行錯誤の末に)それぞれの土地環境に見合った新しい文化的適応戦略を発達させ,食物の不足する乾季などを乗り越え,土地に定着するだけの知識と技術を身につけていった。後期旧石器時代の後,農耕がはじまる新石器時代まで数千年間続いたこの時期を,ヨーロッパでは中石器時代,西南アジアでは終末期旧石器時代,北アメリカ大陸では古期と呼んでいる。

海部陽介 (2005). 人類がたどってきた道:“文化の多様化”の起源を探る 日本放送出版協会 pp.278-279

農耕は手間がかかる

 それでは,なぜホモ・サピエンスの社会で食料生産がはじまったのだろうか。まず単純な質問からはじめよう。あなたが1万2000年前の社会に生まれ,狩猟採集と農耕・牧畜のどちらかの生活を選べるとしたら,どうするだろう。1か所に定住して農耕や牧畜を行うのは,知性豊かな人が着想した高尚で素晴らしいアイディアであり,そのような選択肢に気づいた集団はすぐさま狩猟採集生活をやめた,というのが100年前の研究者たちの考え方であった。しかし,農耕という新たな選択肢があることに気づいた最初の人々を想像してみたとき,果たして本当にそれが素晴らしいものに見えるだろうか。決断される前に,ふつう農耕・牧畜の方が狩猟採集より格段に手間がかかること,天災に対して不安定な生活スタイルであることを申し添えておこう。

海部陽介 (2005). 人類がたどってきた道:“文化の多様化”の起源を探る 日本放送出版協会 pp.276

やはり人類が

 アリゾナ大学のポール・マーティンは,1970年代に,アメリカ大陸における大絶滅の原因をホモ・サピエンスに求める有名な仮説を発表した。それまで考古学者たちは,先史時代を通じて,アメリカ先住民は少しずつ増えてきたとイメージしていた。しかしマーティンはそうではなかったと考えた。彼の考えでは,移住者たちは人間を恐れない動物たちをさしたる苦労なしに狩り続け,結果として人工を爆発的に増加させたのだ。これだけではただの空想に過ぎないので,彼は理論的に自説が可能であるかどうかを,シミュレーションを行なって確かめようとした。小さな集団からスタートした祖先たちが,動物を大量に狩り続け,かつテリトリーを急速に広げていくには,拡散の前線でどんどん人口が増えていく必要がある。人口が増えないと,一定量の狩りを行いながらテリトリーを広げるという前提が破綻してしまうからだ。シミュレーションの結果,年間16キロメートルの前進速度と,1.4〜3.4%程度の人口増加率を想定しさえすれば,当初100人程度の小さな祖先集団でも,人口を増やしながら1000年ほどで南アメリカの南端にまで広がりうることが示された。
 マーティンのモデルには,様々な批判がある。設定された人口増加率が高すぎるというものや,人々が移動を続けている前線での人口は常にそれほど多くはなかったろうというものなどだ。実際に遺跡証拠からは,最初のアメリカ人の集団が,人口密度の高い前線を保って南下したという証拠は得られていない。しかし先に述べたように,環境変動だけでは,やはり絶滅を十分に説明しきれない。さらに第7章で触れたように,最近ではオーストラリアにおいても,大型動物の大絶滅にホモ・サピエンスが関与していた可能性が高まっている。マーティンのモデルの細かい点が妥当かどうかは別として,私たちの祖先が大絶滅の原因をつくったと認めるほうが,おそらく現実的なのだろう。新天地にいた逃げ出さない動物たちを相手に,祖先たちは必要以上の狩りを行ったのではないだろうか。祖先たちが自然の恵みに限りがあることに気づいたのは,おそらく私たち現代人の場合と同じで,得られるものがなくなってきてからだったのかもしれない。

海部陽介 (2005). 人類がたどってきた道:“文化の多様化”の起源を探る 日本放送出版協会 pp.269-270

貧弱な時代

 「我々は,動物学的に言えば,極めて貧弱な時代に生きている」と,ダーウィンとともに生物進化のメカニズム解明に貢献したウォーレスは述べている。現在のアメリカ大陸の動物相(ある地域に生息している動物の種類)はアフリカに比べて貧弱だが,過去にはそうでなかった。クローヴィス人たちは,現在でもいるバイソン,オジロジカ,トナカイ,イワヤギ,オオカミなどのほか,ゾウ(マンモスとマストドン),ウマ,ラクダ(キャメロプス),剣歯ネコ(スミロドンなど),クマ(アークトドゥスなど)などがいる環境に暮らしていた。そして南アメリカにも,ゾウ(マストドン),ウマなどのほか,オオナマケモノ(ミロドンやメガテリウムなど),巨大アルマジロ(グリプトドンなど)などがいた。ところが北アメリカでクローヴィス文化が終焉を迎えた1万3000年前,そして中央・南アメリカでもおそらく同じころに,こうした大型哺乳動物たちが,姿を消してしまうのである(ただし一部の動物たちは1万年前ごろまで生き残っていた)。北アメリカでは,実に31属の大型草食動物が絶滅したとされている。

海部陽介 (2005). 人類がたどってきた道:“文化の多様化”の起源を探る 日本放送出版協会 pp.268

ボトルネック効果

 一方,アメリカ先住民の一部の特徴には,他の集団と異なっていて独特なものがある。例えば彼らの顔つきは,全般的にアジア人と似ているとはいえ,同一ではない。こうした独自性が生じた背景には,以下のようなものが考えられる。まず,彼らは長期間にわたってほかの世界と交流をもたなかったために,わずかながらも独自の方向への進化が生じただろう。こうした通常の変化に加え,移住の際にボトル・ネック効果が働くと,変化はもっと劇的なものになりうる。例えば,南アメリカの先住民は,圧倒的にO型の血液型が多く,A型やB型はごく少ない。これは,彼らが移住していく過程で一時的に集団サイズが小さくなり(これをボトル・ネックつまり瓶のくびと表現している),そのときたまたまO型の遺伝子をもつ個体が多かったために,後の子孫たちもほとんどO型になったと説明される。このように集団サイズが小さくなると,偶然に変異の偏りが生じやすくなり,集団の様相は大きく変化しうる。

海部陽介 (2005). 人類がたどってきた道:“文化の多様化”の起源を探る 日本放送出版協会 pp.257-258

バイソン狩り

 北アメリカの西部地域に広がる大平原には,大きな群れで異動するバイソンを狩猟する,ブラックフットなどがいた。彼らのバイソン狩猟の歴史は長く,例えばコロラド州のオルセン・チュバック遺跡では,約9000年前に,バイソンの群れの追い落とし猟が行われていた跡が見つかっている。ここでは崖の下から約200頭もの折り重なったバイソンの骨が見つかっており,人々が共同で,おそらく数日かけてバイソンの群れを誘導し,崖へ誘い込んだと考えられる。大平原のバイソン狩猟民は,白人入植者たちがフロンティア(開拓前線)で接触する機会が多かったため,アメリカ先住民のステレオタイプとなってしまった。しかし大平原は,あくまでも数あるアメリカ大陸の文化領域の1つに過ぎない。

海部陽介 (2005). 人類がたどってきた道:“文化の多様化”の起源を探る 日本放送出版協会 pp.252-253

人類がやったようだ

 オーストラリアが有袋類の国であることはすでに述べたとおりだが,実は,5万年以上前のこの土地の光景は,現在と同じではなかった。このころオーストラリアには,もっと多様な野生動物がおり,その多くは現生の種よりも大型であった。有袋類としては,体長3メートルを超える草食動物のディプロトドン,体高が2メートルにもなるジャイアント・カンガルー,体長1.6メートルという大型のウォンバットなどが徘徊し,ほかにも体長5〜7メートルにもなる超巨大トカゲや,体重100キログラムに達する飛べない鳥もいた。ところがこうした動物たちは,氷期が終わる以前に絶滅し,姿を消してしまった。専門家の推計では,100キログラムを超えていた19種のすべて,そして38いた10〜100キログラムの種のうち22が,このときまでに絶滅したという。
 大絶滅の原因としては,環境変動と人間の関与という2つの可能性があり,双方の見解の支持者の間で激しい論争がなされてきた。環境変動説では,例えば2万1000年前頃の最終氷期の最寒冷期へ向けて降雨量が減り,乾燥化が進んだことが大型動物に不利に働いたと説明している。人の関与の中で最も直接的かつ影響が大きいのは,もちろん狩猟活動であろう。一方,アボリジニが行っていた野焼きが,絶滅の部分的な原因になった可能性も問われている。しばらく前まで,動物の絶滅と人の渡来のどちらの年代もあいまいであったため,環境か人間かの論争は膠着状態にあった。しかし最近の研究で,絶滅の年代と背景が少しずつはっきりしてきている。
 1999年,アメリカとオーストラリアの研究グループが,興味深い論文を発表した。オーストラリア南東部で出土した前述の巨鳥の卵の殻700点以上を年代測定したところ,この鳥が10万年以上前から存在し,約5万年前(測定誤差はプラスマイナス5000年ほど)に絶滅したことがわかったのである。続いてオーストラリアを中心とする別の研究グループが,ニューギニアを含むサフル各地に散らばる28地点において,絶滅動物化石の年代を調査するという大規模な研究の結果を,2001年の『サイエンス』誌に報告した。これによれば,絶滅の年代は約4万6000年前(測定誤差はプラスマイナス5000年ほど)で,多数の大型動物たちはこのころ,急激に消え去ったらしい。
 これらの研究成果は,サフルにおける大型動物の絶滅の背景に,ヒトの活動があったことを強く疑わせるものである。絶滅の年代が5万〜4万6000年前だったのであれば,2万1000年前ごろにピークを迎えた寒冷化が原因という考え方は,もはや成り立たない。新しく報告された絶滅年代は測定誤差が大きいので,仮にサピエンスの渡来が4万5000〜4万年前であったとしても,絶滅年代を下方修正すればシナリオは成り立つ。サフルの動物たちは,それまでホモ・サピエンスという動物を全く知らなかった。突然現れた侵入者に対して警戒心をもたなかったことが,この動物たちにとって命取りになったのであろう。

海部陽介 (2005). 人類がたどってきた道:“文化の多様化”の起源を探る 日本放送出版協会 pp.198-200

アボリジニ

 アボリジニについてのイメージや宣伝文句には,的外れのものが少なくない。旧石器時代の生活を今でも続ける人々,砂漠に暮らす先住民,現存する人類最古の文化……,どれもオーストラリアの先史文化のダイナミズムを見誤っている。
 アボリジニは,5万年ほど前にオーストラリアへやってきたと考えられている。そして土器を作らず,農耕や牧畜をはじめることなく,ごく最近まで狩猟採集生活を続けていた(一部集団は今でも意図してそうした暮らしを続けている)。しかし後で述べるように,この間,彼らの文化が不変であったわけではない。アボリジニの祖先たちは半砂漠環境へもチャレンジし,文化的適応を果たした。しかしすべてのアボリジニが,好んで乾燥地帯に暮らしていたのではない。彼らはもともとオーストラリア全土に広がっていたが,1788年にイギリスがシドニーに入植して以来,過ごしやすい土地を追われたのだ。アメリカ先住民などの例と同じで,現在の彼らの分布は本来のものではない。

海部陽介 (2005). 人類がたどってきた道:“文化の多様化”の起源を探る 日本放送出版協会 pp.190-191

優れているかどうか

 世界のどの集団にも多かれ少なかれユニークな身体特徴があり,身体の進化が最も進んでいるのはどの集団とはっきり言えるわけではないが,いくつか指摘できることもある。これまで述べてきたように,北方モンゴロイドの身体的特徴の特殊化が南方モンゴロイドに対して際立っており,しかもこれが寒冷地への適応として比較的最近生じたことに異論はない。
 しかしこのように理解した上で,北方モンゴロイドが南方モンゴロイドより進化した分だけ“優れている”と考えることはできない。進化を進歩と捉える誤解は,ダーウィンが進化理論を発表した直後から現在まで絶えないが,生物進化の実例を見ていけばそれが単純な誤りであることは誰にでもわかる。

海部陽介 (2005). 人類がたどってきた道:“文化の多様化”の起源を探る 日本放送出版協会 pp.182

日本人の起源

 その要点を述べると,まずアイヌはモンゴロイドの一員であり,コーカソイドではない。アイヌは,日本列島に縄文時代あるいはそれ以前からいた人々の系譜を強く受け継いでいるようだ。一方,アイヌ以外の日本人も決して均一な集団ではない。弥生〜古墳時代の西日本に,大陸から稲作と金属器文化を携えた北方モンゴロイド系集団の移住があり,この渡来集団と在来の縄文系集団との混血のもとに,現在の日本人が形成された。この混血の程度は,地域,個人によって様々である。琉球列島の人々も縄文人の系譜を強く受け継いでいるという考え方があるが,九州,台湾,大陸との長い接触の歴史の中で,状況は複雑であった可能性が高い。
 このように日本人とは,(南方モンゴロイドと関連づけられるかもしれない)縄文人と,大陸からやって来た北方モンゴロイド系の渡来集団との二重構造性をもっているのである。ただし現時点では,いくつか未解決の大きな問題も残されている。その1つは,縄文人のそもそもの故郷はアジア大陸のどこなのかというものだ。縄文人は,身体的特徴の上では南方モンゴロイドと近いのだが,遺伝学的,考古学的には,むしろアジアの北方地域との関連が深いようだ。もしこれらのどの観測もが正しいとするのなら,縄文人の祖先は北アジアにいた北方モンゴロイドに特殊化する前の段階の集団,ということになるのだろうか。謎が解けるよう,今後の研究の進展を待ちたい。

海部陽介 (2005). 人類がたどってきた道:“文化の多様化”の起源を探る 日本放送出版協会 pp.181

人種分類の問題

 このような人種分類につきまとう問題は,各々の人種は互いに明確に異なった独立の存在であるという誤解を与えることだ。人種を定義する基準とされる身体形質には様々なものがあり,そのそれぞれに集団内でも大きな個人差が存在するので,実際には人種とはかなりとらえどころのないあいまいな概念である。さらにどこの地域でも,となり合う小集団間に見られる身体的違いは概して連続的で不明瞭なものであり——この違いの地理的連続性のことを専門用語でクライン(勾配)と呼んでいる——,その連続的な違いが積み重なって遠い集団どうしの違いが明瞭に認められるにすぎない。このため,人種分類が招く誤解と差別を嫌う現代の研究者たちの間には,「人種という生物学的実態のない言葉の使用を止めよう」という主張もある。しかし身体形質の地理的変異を把握することは,私たちが知るべき歴史の解明に役立つ。さらに身体形質に基づく人種分類を直視しなければ,これを人々の内面や知性と無理やり関連づけて差別を正当化させた過去の虚偽をあばけない。このため本書では,人種分類の不確定性を強調した上で,適宜伝統的な人種用語を使うことにした。

海部陽介 (2005). 人類がたどってきた道:“文化の多様化”の起源を探る 日本放送出版協会 pp.172

能力はあったが

 この事実をどう解釈すべきなのだろうか。東ユーラシアの遺跡では,壁画も彫刻も保存が悪く,残らなかったのかもしれないし,この地域では,岩壁や石や骨ではなく,木の幹や自分の身体や地面に絵を描いていたのかもしれない。しかし本当にそうなのだろうか。もし実際に,東ユーラシアで絵や彫刻といった,芸術らしい芸術が行われていなかったとしたら,私たちは,認めたくないことを認めなくてはならなくなるのだろうか。すなわち,旧石器時代の東ユーラシア人の祖先は,芸術を創造する能力において,ヨーロッパ人の祖先より劣っていたと。
 しかし,現代人的な行動能力はアフリカの共通祖先において進化したことが明らかになってきた現在,そのような考えは短絡的であると自信をもって言える。おそらく東ユーラシアの祖先たちは,私たち現代人と同様の芸術創造力をもっていたが,その潜在能力を単に行使しなかったか,または遺物として残るようなかたちではそれを表現しなかったのだ。考えてみれば,新石器時代そして青銅器時代に入れば,独創的な芸術文化が突如として現れる。圧倒的な存在感を示す古代中国の青銅器文化,岡本太郎のアーティスト魂を震わせたというエネルギッシュな装飾をもつ日本の縄文土器……,まるで旧石器時代の静寂がうそであったかのようにである。ヨーロッパのクロマニョン人たちが盛んに芸術活動を行った背景には,むしろ特殊な環境要因があったのかもしれない。第5章で述べたように,一部の研究者たちは,ネアンデルタール人の存在が当初西アジアにいたクロマニョン人の社会に緊張をもたらし,芸術を含む上部旧石器文化の誕生を刺激したと考えている。
 絵や彫刻だけでなく,音楽,ダンス,詩など,芸術は,すべての現代人集団に普遍的なものである。このようなホモ・サピエンスの芸術を創造する能力は,きっとアフリカの共通祖先が備えていたものなのだろう。東アジアでの芸術活動の証拠は,確かに全部覚えてしまえるほどの数しかないが,存在したことは確かだ。そして新石器時代以降に,集団の大規模異動の証拠なしに各地で芸術文化が湧き起こったことは,旧石器時代の祖先たちが,私たち現代人と同様の芸術創造力を潜在的にもっていたことを示唆している。

海部陽介 (2005). 人類がたどってきた道:“文化の多様化”の起源を探る 日本放送出版協会 pp.168-169

孤島の人類

 さて,この原稿を執筆中の2004年の10月に,誰も予想していなかったとんでもないニュースが飛び込んできた。インドネシアのジャワ島からはるか東方の海上に浮かぶフローレス島から,身長1メートルほどの小型の人類の化石が発見されたというのである。オーストラリアのピーター・ブラウンらが化石の形態を吟味した結果,どうやらこの人類は,ジャワ原人が孤島に渡って矮小化してしまったものらしいことがわかった。孤島では大型動物が矮小化し,小型動物が大型化する傾向があることが知られている(これは食資源の乏しい環境で動物たちが適度な大きさに収斂する現象と理解できる)。フローレス島にも,体長1メートルほどに縮小してしまったゾウの仲間,ピグミー・ステゴドンがいた。おそらく原人も同じ進化の道を歩んだのだろう。この発見は,少なくとも次の3つの点で驚きであった。まずは原始的な人類がある程度の距離の海を渡って島へたどりついたという事実,そして人類の系統でここまで劇的な進化が生じたという事実,さらに化石の年代が2万1500年前とごく最近のものであった事実である。2万1500年前というと,私たちの祖先がこの地域に姿を現わし,オーストラリアにまで到達していたときである。ホモ・サピエンスは,フローレス島をこの時点まで発見できなかったのだろうか。両者は,ある時点で遭遇したのだろうか。何が起こったのか,今後の調査の進展に期待したい。ホモ・フローレシエンシスと名づけられたこの新種の人類の発見は,人類史の中の特異な出来事として特筆に値するものである。

海部陽介 (2005). 人類がたどってきた道:“文化の多様化”の起源を探る 日本放送出版協会 pp.150-151

サポートの記録

 部族内での個人間の関係はどうだったのであろうか。ネアンデルタール人たちが傷ついた仲間を介護していたという考えは,すっかり定説となっている。彼らの骨には多くの怪我の痕跡があるが,重傷なものでも治癒傾向の認められる場合が多い。つまり怪我してすぐに息を引き取ったのではなく,しばらくの間は生きていたのだ。有名なのは,イラクのシャニダール洞窟で見つかった男性だ。左眼は失明していたかもしれず,右腕の肘から先を失い,右足は引きずって歩くような状態であったにもかかわらず,この男性は40歳ぐらいと,ネアンデルタール人としては例外的に長生きをした。通常の野生動物であれば,こうはいかない。仲間からサポートを受けていたと考えるのが,最も自然である。ただしこのような仲間のサポートという行為は,もっと古く,彼らよりも100万年以上前の原人のころから存在していた可能性も示唆されている。

海部陽介 (2005). 人類がたどってきた道:“文化の多様化”の起源を探る 日本放送出版協会 pp.121-122

ネアンデルタール人はヨーロッパで

 今では,ネアンデルタール人はヨーロッパで進化した種であると,自信をもって言える状況となってきている。スペインのアタプエルカ,ドイツのハイデルベルグ,フランスのアラゴ,ギリシャのペトラロナなど見つかっている50万〜30万年前の化石に,部分的ながらもネアンデルタール人的特徴が認められるからである。
 ネアンデルタール人は,寒いヨーロッパの氷期を生き抜いた人類である。そして,彼らの身体特徴の一部は,寒さに適応した構造となっていた。彼らの大きな鼻は,乾燥した冷たい空気を吸い込むとき,鼻の内部の粘膜から適度な湿気を与えるのに都合がよかったと,一般に考えられている。彼らの前腕(肘から手首までの部分)と下腿(すねの部分)は短かったが,これは,現代人の中でもシベリアの北方民族などに認められるもので,同じグループの動物で寒冷地に住む集団ほど四肢の遠位端(人間の前腕と下腿に相当する部分)が短くなるという,アレンの法則と合致するものだ。寒い地域では,四肢を短くしたほうが身体の体積あたりの表面積が減り,体熱を失いにくい利点があるのである。一方のクロマニョン人は,前腕と下腿が長く,体熱を放散するのに適した身体つきをしていた。これは,彼らが熱帯地方からやってきた集団であったことを物語っている。

海部陽介 (2005). 人類がたどってきた道:“文化の多様化”の起源を探る 日本放送出版協会 pp.109-110

世界地理を知らずに

 祖先たちは世界地理を知らなかったことも,指摘しておきたい。現在の私たちは,地球上の陸地の位置や形を知っていることを,当たり前と思っている。しかし,そもそも世界地図のようなものが作られはじめてから,まだ数百年しかたっていないのだ。私たちだって,もし地図を見たことがなければ,自分が地球上のどの位置にいるのかを意識することはできない。同じように祖先たちがアフリカの外へ広がり,はじめてユーラシアの土を踏んだとき,彼らがそれを歴史的な出来事と思ったはずがない。1万2000年ほど前に南アメリカ大陸の南端へたどりついた集団が,自分たちがアフリカにはじまるホモ・サピエンスの壮大な拡散史の終着点の1つ今達したのだとわかっていたら,彼らはたいへんな興奮を味わうことができたろうが,残念ながら彼らはそれを知らなかった。祖先たちは,行く先に何があるのかはあまり知らずに,何しろ行けるところまで行ったのだ。そしてある時点で,幾世代も前の彼らの祖先たちがもっていた,古い土地の記憶を失っていったことだろう。地球上のすべての陸地がホモ・サピエンスで埋め尽くされていく歴史は壮大なものだが,以上のような意味において,これは現代のいわゆる冒険物語とは少し違うのである。

海部陽介 (2005). 人類がたどってきた道:“文化の多様化”の起源を探る 日本放送出版協会 pp.101

文化的変化

 ホモ・サピエンスの起源をめぐる一連の動きは,私たち現代人の成立を考えるにあたって極めて重要な1つの考え方を生んだ。アフリカ起源説が受け入れられるにつれ,人類学者たちは,アフリカの共通祖先以後現在に至るまでの私たちの技術的・社会的発展は,知力の進化によるものではなく,文化的な変化であったと認識するようになってきたのだ。アフリカのMSAにおける進化の様式をめぐって激しく論争している研究者たちも,この点においては一致している。
 この考えは,2つの点において新しい。最初のポイントは,すべての現代人集団が共有する基本的能力というものの由来が,説明しやすくなった点にある。世界中の現代人集団は,培ってきた文化こそ違うが,みな「世代を超えて知識を蓄積し,置かれた環境に応じて,それまでの文化を創造的に発展させていく能力」をもっている。もし多地域進化説が正しく,各地域集団が基本的に各地の旧人から進化したものだとすると,こうした共通性の由来が説明しにくいものになってしまう。しかし私たちが比較的最近に1つの集団から分かれたのであれば,共通点をその祖先集団に求めればよい。
 もう1つのポイントは,こうした基本的能力が進化したおおよその時期を絞り込めるうようになったという点だ。ホモ・サピエンスの知力が,過去数万年間に世代を追って少しずつ向上してきたという考えは,今でも一般の人々の間で広く信じられている。3万年前の祖先が舟を使って50キロメートルの海を往復していたとわかれば,ホモ・サピエンスはその時点でそれだけの知力を進化させていたのだ,と受け取られるわけだ。これには,逆に言えば,彼らに現代の造船技術を教えても全部理解するのは無理だという含みがある。しかしアフリカ起源説が示唆するのは,私たちの基本的な能力は,はるか昔の5万年以上前のアフリカの共通祖先の時点で確立していたという可能性なのである。

海部陽介 (2005). 人類がたどってきた道―“文化の多様化”の起源を探る 日本放送出版協会 pp.92-93

現代人リスト

 現代人的行動のリストに取り上げる最重要の条件は,2つある。1つはホモ・サピエンス以前の旧人には認められないこと,そしてもう1つは各地の現代人集団に共有されていることである。例えば,言語,信仰,音楽,美術を創造する能力などは,世界各地のどの現代人集団にも共通して見られるので,アフリカの共通祖先の時点で,すでに存在していたと考えるのが合理的だ。これらが旧人になく,アフリカの初期ホモ・サピエンスに存在すれば,リストの項目として申し分ない。
 現代人的行動のリストの最初のものは,ヨーロッパのクロマニョン人の活動をネアンデルタール人のものと対比する目的で作られた。そいてこれをベースに,様々な修正が加えられ,これまでにいくとおりかのリストが提案されている。ここではその中で,前出のマクブレアティとブルックスの考えを要約して紹介することにする。彼女らは,まず現代人的能力には以下のような要素があると仮定した。

 抽象的思考
 優れた計画能力
 行動上,経済活動上,技術上の発明能力
 シンボルを用いる行動

海部陽介 (2005). 人類がたどってきた道:“文化の多様化”の起源を探る 日本放送出版協会 pp.85-86

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