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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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シンボルを扱う

 個人の記憶や概念をシンボルに置き換え,個人の脳の外に出すことにより,これを保存し,仲間で共有し,次世代に伝えていくことができる。シンボルを用いて知識を伝達すれば,現場での直接体験がなくても,多くのことを学べるようになる。よく考えてみれば,私達が用いている言語も,シンボルを用いる能力の上に成り立っている。もちろん,今あなたが目で追っている文字もそうである。私達の社会が文字を必要とするひど複雑化したのは,かなり後の時代のことであるが,私たちが話しているような複雑な言語は,シンボルの操作能力の進化とともに現れたというのが,最近の研究者たちの一般的な見方だ。そしてこの能力さえあれば,文字の利用はいつでも可能であったと考えられる——現代においても文字を使えない人々がいるが,それは教育の問題であることは,私たちの誰もが知っている——。つまり文字の発明自体は,知的能力の進化によるものではない。おそらくシンボルの操作能力の進化こそが,重要であったのである。
 こう整理すると何となくわかってくると思うのだが,シンボルを自由に操る能力に基づいた知識伝達の力は,はかりしれない。現在に至る私たちの文化の爆発的な発展は,間違いなくこの能力に基づく高度な情報伝達によって下支えされた。

海部陽介 (2005). 人類がたどってきた道:“文化の多様化”の起源を探る 日本放送出版協会 pp.67
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分かること,分からないこと

 遺伝人類学が現代人のDNAを分析して解明することができるのは,基本的に,各地の現代人集団の類縁関係や,祖先集団の大まかなサイズなどである。DNAデータの新たな解析法が考案され,最近ではホモ・サピエンスが旧人と混血した可能性などにも言及されるようになってはいるが,遺伝人類学から過去の人類の姿形や,行動の詳細を知ることはできない。一方,何万年か何十万年前の人類化石が発見され,年代学者によってその年代が調べられ,形態学者によってその形態の比較分析が行われることによって,どのような姿形をした人類が,どの地域にどの時代にいたかがわかる。化石を調べることによって,過去の人類集団の系統関係を推定することもできるし,骨格形態の変化として検出されるものであれば,病気や生活習慣などについてもある程度のことはわかる。しかし,先史時代の祖先が,どのような道具を用いて何を行ない,どのような食物をどのように集め,どのような暮らしを送っていたかを知りたいのなら,考古学の研究の進展を待たねばならない。

海部陽介 (2005). 人類がたどってきた道:“文化の多様化”の起源を探る 日本放送出版協会 pp.55-56

DNAを調べると

 古い人類の化石からDNAを取り出して,現代人のものと比べ,化石人類の系統を探ることは可能なのだろうか。夢のようなこのアイディアを実現するには,まず長い時を越えて化石中にDNAが壊れずに残っていることが必要で,さらに分析の過程で周囲から外来のDNAが混ざらないよう極めて慎重な手続きをとる必要がある——最も危険性が高いのは分析者本人のDNAが混ざってしまうことだ——。そもそもDNAを取るためには貴重な化石を壊さなくてはならないので,これは簡単にできる話ではない。周到な準備のもと,こうした条件をクリアーして成し遂げられた最初の成功例は,1997年に報告された。ドイツとアメリカの研究グループが,1856年にドイツで発見されたネアンデルタール人の化石から,ミトコンドリアDNAを抽出することに成功したのである。研究チームの巧妙な分析手法はもとより,どうやらドイツの寒冷な気候がDNAの保存に有利に働いたようだ。これを現代人のDNAと比較した結果では,ネアンデルタール人と現代人が60万年も前に枝分かれしたことが示された。
 その後さらに別のネアンデルタール人化石でも成功例が報告され,彼らのミトコンドリアDNAが現代人とはずいぶん違うことがはっきりしてきた。このことは,ホモ・サピエンスとネアンデルタール人が混血した可能性までは否定するものではないが,ヨーロッパのネアンデルタール人がホモ・サピエンスの祖先ではないことを明らかにした。

海部陽介 (2005). 人類がたどってきた道:“文化の多様化”の起源を探る 日本放送出版協会 pp.48

極北集団と熱帯集団

 さて,ネアンデルタール人の四肢が短く,現代の極北集団のようであることに最初に気づいたのは,アメリカの人類学者カールトン・クーンであったが,皮肉にも彼は,ネアンデルタール人がクロマニョン人に進化したという説の主唱者であった。当時はその事実のもつもう1つの意味は気づかれないままであったが,後にクロマニョン人の四肢は長く,ネアンデルタール人より熱帯に適応したタイプであることがわかったのである。今よりも気温が低い氷期のヨーロッパにあらわれたクロマニョン人が,ネアンデルタール人より熱帯に適応した身体つきをしている事実は,連続進化説ではどうにも説明がつかない。

海部陽介 (2005). 人類がたどってきた道:“文化の多様化”の起源を探る 日本放送出版協会 pp.44

アフリカ起源説

 ホモ・サピエンスのアフリカ起源説は,過去十数年にわたる論争を経て,今ではまず間違いなく正しいと認識されるようになっている。詳細については研究者によって多少考えが違うところもあるが,そのおおよそのシナリオは,以下のようなものである。
 アフリカ起源説は,世界中のすべての現代人の起源は,20万〜5万年ほど前のアフリカにあるとする。厳密に広いアフリカの中のどこで誕生したのかはまだ明らかではない。しかしいずれにせよ,私達の共通祖先が約20万年前にアフリカの旧人から進化し,その後しばらくしてから世界中へ広がった結果,各地の現代人集団が成立したのだ。
 ホモ・サピエンスがアフリカからユーラシアへ進出したとき,この大陸の中〜低緯度地域には,旧人の集団(一部地域では原人の集団)がいた。ヨーロッパにはネアンデルタール人がおり,東アジアには,中国のマパ,ターリー,ジンニュウシャンなどの化石に代表される,別の旧人集団がいた。そしておそらくインドネシア地域には,旧人と呼べる段階までは進化していなかったジャワ原人の最後のグループがいたと考えられている。ホモ・サピエンスの到来とともに,これらの原始的な人類はいなくなる。何が直接の原因で,実際にどのような過程を経て彼らが消えていったのかは,まだ十分にわかっていない。ともあれネアンデルタール人にせよ北京原人やジャワ原人の子孫にせよ,ユーラシアにいた古いタイプの人類は最終的に絶滅し,私たちの直接の祖先とはならなかったのである。

海部陽介 (2005). 人類がたどってきた道:“文化の多様化”の起源を探る 日本放送出版協会 pp.40-41

ネアンデルタール人のこと

 やや単純化すると,次のように状況を説明できるかもしれない。1つの証拠というものは,いくとおりかに解釈しうることがある。そのとき,そのあいまいな証拠から考察を膨らませて何らかの結論を導くということが,しばらく前までよく行われていた。例えば20世紀初頭に活躍したフランスのマルセラン・ブールが,ネアンデルタール人のことを「野蛮」で「獣のような」と形容したのは,彼が研究したネアンデルタール人の骨格形態が,,彼が美しく高尚と信じるホモ・サピエンスとずいぶn違っていたことに起因したようだ。骨格形態だけから野蛮であると,はたしてどこまで言えるのだろうか。現代の研究者たちは,たとえネアンデルタール人の脳の形——頭骨の内面の形状からおおよそわかる——が我々と違っていても,それが知能の違いを意味するかどうかはわからないという慎重な立場をとる。少々欲求不満を誘うような話ではあるが,私たちが事実を知ることにこだわりたいとするのなら,これがあるべき姿勢である。そして「科学」とは,そのような厳密に事実を追究する姿勢のことを指すのだと理解してよい。

海部陽介 (2005). 人類がたどってきた道:“文化の多様化”の起源を探る 日本放送出版協会 pp.36-37

狭義のホモ・サピエンス

 現在一般化しつつある定義は,「狭義のホモ・サピエンス」と呼ばれるものである。この立場では,現代人および現代人とほぼ同様の骨格形態を示す過去の人類を,ホモ・サピエンス種とする。これは,人類を猿人,原人,旧人,新人の4段階に分けたときの新人に相当する。日本の縄文人はもちろん,ヨーロッパのクロマニョン人などの人骨は,事実上,現代人と区別できないので,彼らはホモ・サピエンスの仲間ということになる。他方,ネアンデルタール人には,現代人には見られない独特の特徴がいくつもあるので,この定義ではホモ・サピエンスとは別の種(ホモ・ネアンデルターレンシス)ということになる。

海部陽介 (2005). 人類がたどってきた道:“文化の多様化”の起源を探る 日本放送出版協会 pp.25

人種

 「人種」という紛らわしい言葉があるため,現代人は3〜5程度の種に分類されると,しばしば誤解されている。しかし見かけこそ違え,世界中の現代人は遺伝子の類似性が極めて高く,生物学的にただ1つの種,ホモ・サピエンスに属している。「人種」というのは,ホモ・サピエンス種の中にいくつかの地域集団を指す言葉で,生物学的な種を意味するものではない。アジア人もアフリカ人もヨーロッパ人も,みなホモ・サピエンスで,現在地球上にいる人類の中に,ホモ・サピエンス以外の種はいない。
 しかし過去には,当然,ホモ・サピエンスとは異なる種の人類が存在した。ホモ・エレクトスやアウストラロピテクス・アファレンシスといった学名のついた連中が,それである。人類の化石が発見されると,人類学者はそれについて様々に検討し,どの種に分類するかを判断する。その際,それぞれの種をどう定義するかが問題になるが,ホモ・サピエンスという種の定義にもいくつかの異なる考えがある。

海部陽介 (2005). 人類がたどってきた道:“文化の多様化”の起源を探る 日本放送出版協会 pp.24-25

異常事態

 現在,陸地であれば世界中のほとんどどこへ出かけても,私たちの仲間に会うことができる。人種という紛らわしい言葉があるためにしばしば誤解されているが,世界のすべての現代人は,ホモ・サピエンスという1つの生物学的種に属している。一種の生物がかくも広く分布しているのは,4000種いる哺乳動物の中でも極めて異様なことである。もちろん生物界全体の中でも異様だ。

海部陽介 (2005). 人類がたどってきた道:“文化の多様化”の起源を探る 日本放送出版協会 pp.15

クリスマスプレゼント…

 そう,クリスマスにモノをプレゼントしろなんて聖書に書いてない。今のようなクリスマスプレゼントの習慣は,もともとMacy’sっていうニューヨークにある世界一デカいデパートが,年末に商品が売れ残ってると税金がかかっちゃうっていうんで,だったら年末にクリスマスセールをやれば大儲けできるということから,クリスマスにプレゼントしましょう!イベントを盛り上げ始めたんですよ。100年くらい前の話ですけど。そこから始まったんですよ。

町山智浩・松嶋尚美 (2010). 松嶋×町山 未公開映画を観る本 集英社 pp.200

ガンコな人

 よくメディアからの取材で聞かれる。
 「結局のところ,結婚出来ない男性って,『低スペック』な人なんですか?」
 その場にいたオーネットの熟練アドバイザーが即答。
 「条件面じゃありません。ガンコな人」

西口 敦 (2011). 普通のダンナがなぜ見つからない? 文藝春秋 pp161

二律背反

 女性はよく口にする。
 「誠実で」「私思いで」「浮気をしない」「そういう人なら,他はどうでもいいんです」
 しかし,実際にデートをすると,「会話が続かない」「ずっと黙っている。こちらから話すのを止めたら黙ったまま不忍池を一周してしまった」「何も決めてくれない」……。
 これは,二律背反な難題を求めているということに気づかないといけない。
 一般に肉食系と呼ばれる男性は,初対面でも会話の切り出し方や続け方がスマート。でも,あなたとの初対面の会話がうまくいくということは,彼は他の女性ともうまくいくのである。したがって,当たり前にモテる。よほど倫理観が強くなければ,こういう男性にある程度のヒマと金があれば浮気は避けがたい。

西口 敦 (2011). 普通のダンナがなぜ見つからない? 文藝春秋 pp.117

税率変更

 私見だが,個々の独身者の行動を大きく変えるには,イベント開催よりも,独身よりも結婚したほうが得になるよう税制を変更することが最も効果があると思っている。
 税率自体を変えるのか,結婚した人たちや子どものいる人の控除率を大幅に上げるのか,異論はさまざまにあろうが,事は差し迫っている。このまま既婚率が下がると,今は横ばいの「出産子ども数」が現象に転じよう。なぜなら初婚年齢が上がってきて,産みたくても実際に2人,3人産める可能性が低くなるから。

西口 敦 (2011). 普通のダンナがなぜ見つからない? 文藝春秋 pp.94-95

批評会の罪

 さらに,合コンの後,女子だけで批評会をするのだが,これがよくない。
 女性陣の感想は,「ありえなくない?」「なんか微妙だったね」というものがほとんど。こっそり「あの人,ちょっぴち気になるなあ……」と思っていても,周りにケチョンケチョンに言われたら,自分も一緒になって「そーよねー,ダメダメよねー」なんてつい,言ってしまい,結局,動けなくなってしまう。人は自分で言ったことや一度取った行動に縛られてしまうという,社会心理学でいう「認知的一貫性」のワナにはまってしまうのである。

西口 敦 (2011). 普通のダンナがなぜ見つからない? 文藝春秋 pp.61-62

必需品から嗜好品へ

 国民が一定程度の豊かさを手にすると,女性の高学歴化や社会進出が進んだり,「結婚」というものが,生きていく上で不可欠な「必需品」から,なくても過ごせる「嗜好品」に変化するかもしれない。
 若者の未婚率や初婚年齢の上昇は,東アジアに目を向けても共通現象になっている。たとえば経済成長が順調に進む台湾の初婚年齢は,もう日本を超えるような水準まで上がってきており,2009年では男性が31.6歳,女性は28.9歳という高さ(台湾内政部)。「敗犬女王」(負け犬の意!)というテレビドラマがヒットした。主人公は33歳の出版社の敏腕女性編集者で,8歳下のイケメンフリーター男性と恋に落ちるというラブストーリー。日本で同じ設定のドラマがあっても,まったく違和感がない。
 韓国の初婚年齢もほぼ台湾と同じで,男性31.6歳,女性28.7歳(韓国統計庁)。出生率も日本を下回るほどの低水準である。

西口 敦 (2011). 普通のダンナがなぜ見つからない? 文藝春秋 pp.42

条件付き確率

 次のページに,面白いグラフがある。これは,年収のレベル(ヨコ軸)と,既婚か独身か(タテ軸)で切ってみて,それぞれの面積の広さで人数の比率が一目でわかるという便利場グラフである。ここでは,30〜34歳の男性のデータを拾ってみた。
 右の端のほうには,600万円以上,800万円以上の高年収,さらには右端にはわずかながら1000万円以上の人たちもたしかに存在する。ここまでは想像どおりであろう。
 が,既婚か独身かで既婚に色を着けてみると,右のほうはほとんどが既婚となっていることもわかる。1000万円以上の人たちで見ると(そもそも30代前半で年収1000万円を稼ぐ人は少ないので0.7%しかいないが),その8割はすでに結婚しているのである。
 なので,30代前半で1000万円以上稼ぎ尚且独身である男性は,
 0.7×0.2=0.14%しか残っていないのだ。
 30〜34歳の独身男性は数字としては大勢いる。が,実はそれは200〜400万円,あるいは200万円以下のゾーンに偏って存在しているのだ。
 この方たちは残念ながら,女性がよく言う結婚相手としての「普通」ではないのかもしれない。しかし,人数のボリュームで言うと,むしろ過半数,すなわち「普通」なのである。
 こうなると,これら「普通」の男性は入り口段階で結婚の対象から外されてしまう人が多くなる。

西口 敦 (2011). 普通のダンナがなぜ見つからない? 文藝春秋 pp.26-27

求めるもの

 非正規雇用で自分で稼いでいく当てのない女性は結婚相手に心強い経済力を求めるし,キャリアを持つ女性であっても,自分が出産などでキャリアリスクが生じた際にも生活水準を下げずにすむように,相手に自分の1.5〜2倍くらいの収入を求めている。
 明確に経済条件を口にしない女性であっても,「やっぱり『尊敬』できる人がいい」という言い方で,事実上の社会的・経済的成功者を求めていたりする。

西口 敦 (2011). 普通のダンナがなぜ見つからない? 文藝春秋 pp.25

確率計算

 1つ1つが「普通」というからには確率50%とする。ところが,この条件をすべて満たす人ということになると,
 会話普通50%×ルックス普通50%×身長普通50%×清潔感普通50%×ファッションセンス普通50%×学歴普通50%×年収普通50%≒0.8%

 なんと,すべての普通を同時に満たす人は100人に1人もいないといううすら寒い結果になるのである。
 たしかにそれぞれの条件では決して高望みしてはいない。しかし,女性が言う「普通」とは,通常,いくつもの項目の普通を「同時に」満たすことを求めている。つまり,0.8%の確率を追い求めているわけである。

西口 敦 (2011). 普通のダンナがなぜ見つからない? 文藝春秋 pp.16

#引用者注:この計算は,要因間の相関が0のときに成り立つものである。

モンスター

 単一の視点をもつということは,モンスターになるということだ。ハリウッドはこの点をよく心得ている。ハリウッド映画に登場する悪役のロボットやサイボーグは,ほぼ例外なく片目しかない。ターミネーターが負傷して皮膚がはがれるとき,観客の視線はむき出しになったロボットの目に釘付けになる。『スタートレック』に登場するボーグはいつも片目を隠している。ロボコップは,ヘルメットをかぶっており,黒く細長い1枚のレンズ越しにものを見る。ロボコップは正義の味方だが,見ていて恐ろしくなるくらい非情で,容赦なく敵を殺す。彼が思いやりのある人間となるのは,ヘルメットを脱いで,2つの目(もちろん人間の)があらわになるときだけだ。人間と機械の融合体であるサイボーグの混成性は,単一的な視点を民衆に押しつけない政治を象徴する。アメリカ聾者協会が2000年に発表した人工内耳の有効性を認める声明は,人間と機械の融合ならびに言語の多様性を受け入れたという点で,文字どおりサイボーグ政治のひとつの結晶だった。

マイケル・コロスト 椿 正晴(訳) (2006). サイボーグとして生きる ソフトバンク クリエイティブ pp.231

時計の数

 時計をひとつ持っている人は何時だかわかるが,時計を2つ持っている人は正確な時間がわからない。しかし,時計を2つ持っている人のほうがおもしろい人生を送れるのではないだろうか。そういう人は,人間の知識など不確かなものだし,常に仮のものでいる変わってもおかしくないと知っている。両耳で音を聞くことができれば,現実についての多様な視点をもつことから自由が生じると直感的にわかる。それは,片耳しかないぼくには本来できない芸当なのだが,3種類の音声処理ソフトを使うことにより,3通りの視点で現実をとらえることができた。

マイケル・コロスト 椿 正晴(訳) (2006). サイボーグとして生きる ソフトバンク クリエイティブ pp.229-230

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