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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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人種と人工内耳

 1999年に,ガロデット大学が人工内耳を装着している子どものいる家庭439世帯について調べたところ,アフリカ系アメリカ人の家庭は全体の4パーセントにすぎないことがわかった。アフリカ系はアメリカの全人口の12パーセントを占めているので,明らかにこの数値は低すぎる。同じく全人口の12パーセントを占めるヒスパニック系の家庭も,全体のわずか6パーセントだった。この調査結果を見て,マイノリティの子どものほうが聴覚障害者の割合が低いのではないかと考える人がいるかもしれないが,実態は逆である。むしろ彼らのほうが聴覚障害の発生率は高い。ガロデット大学が聴覚障害をもつ学生4万2361人について行った調査によれば,全体の16パーセントがアフリカ系,23パーセントがヒスパニック系だった。その理由ははっきりしている。栄養状態が悪く,まともな医療サービスを受けることができず,妊娠中の母体管理も不十分なせいだ。この調査結果からは,きちんとした医療を受けられない家庭のほうが手厚い医療サービスを必要とする子どもをたくさん抱えているという厳しい現実が垣間見える。アメリカでも国民皆保険制度を導入すべきだとの声が上がるのは,こうした状況があるためだ。
 ガロデット大学が実施したそのほかの調査でも似たような結果が出ている。ある調査で,人工内耳手術を受けた高度難聴児816人と,手術を受けていない高度難聴児816人を比較したところ,手術を受けたグループでは,アフリカ系とヒスパニック系の割合は,それぞれ5パーセントと8パーセントにすぎなかった。それに対して,手術を受けていないグループでは,アフリカ系とヒスパニック系の割合がそれぞれ16パーセントと21パーセントに達した。
 白人の子どもに比べて,人工内耳手術を受けるマイノリティの子どもがこれほど少ないのはなぜだろうか。障害者の研究を専門とするスタンフォード国際研究所の社会学者,ホセ・ブラッコービーにこの質問をぶつけてみたところ,「陰謀じゃないかと勘ぐる人がいるかもしれないけれど,陰謀説をとらなくてもこうした数値の説明はつくんですよ」という答えが返ってきた。残念なことに,アメリカでは,アフリカ系やヒスパニック系=貧しいという等式がしばしば成立する。そして,経済的に貧しければ,人工内耳手術に頼らず,どのような種類の医療サービスでも受けるのが難しくなる。彼らには,こうした悲しい現実があるのだ。

マイケル・コロスト 椿 正晴(訳) (2006). サイボーグとして生きる ソフトバンク クリエイティブ pp.205-206
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補聴器と人工内耳

 実は,聾者の世界が2つに分裂する事態が長く続いてきた。一方では,耳の不自由な子どもたちは手話を第一言語として学ぶべきだと考える人たちがいる。手話こそ,そうした子どもたちが自由に使いこなせる唯一の言語であり,手話を身につければ,結束の固い聾社会のメンバーになれるというのがその理由だ。それに対して,耳の不自由な子どもたちには手話ではなく,読心術と英語を教えるべきだと考える人たちもいる。そうすれば子どもたちが聾社会よりも広く大きな世界に参加できるからだ。こちらの考え方は,「口話主義」と呼ばれている。
 補聴器は,この議論の行方を左右する要因とはならない。なぜなら,まったく耳の聞こえない人が補聴器を使用しても,やはり何も聞こえないからだ。ところが,人工内耳は,何も聞こえない耳を聞こえるようにすることができる。言葉を聞き話す能力が正常に発達するためには,生後4,5年のうちに聴覚皮質に言語情報がインプットされる必要があるので,人工内耳が先天的に耳が聞こえなかった成人に与える影響は限定的である。しかし,聾の子どもが人工内耳手術を受ければ,その子の将来が大きく開ける可能性がある。子どもの場合,生後なるべく早い時期に音声情報を得られるようになれば,聴者と同等の会話能力を身につけることができるかもしれないからだ。2004年に発表された調査結果によれば,生後12〜18ヵ月の間にインプラントを埋め込んだ子どもたちの3分の2が,半年後には健康な耳をもつ子どもたちと同じ言語運用能力レベルに到達したという。もちろん,レベルと言っても幅があり,彼らの言語運用能力はその下限に近かったわけだが,とにかく一定の範囲内には収まっていた。

マイケル・コロスト 椿 正晴(訳) (2006). サイボーグとして生きる ソフトバンク クリエイティブ pp.184-185

サイボーグとロボットの混同

 要するに,ハリウッドは,サイボーグとロボットを著しく混同しているのだ。1984年に,『ターミネーター』のシリーズ第1作が公開されたとき,サイボーグとはロボットであり,それゆえモンスターであるという印象が人々の心に強烈に焼きつけられた。ターミネーターに命を狙われているサラ・コナーに,彼女を守るために送り込まれたカイル・リースは,こう説明する。「理を説いてわかるような相手じゃないし,交渉するのも無理だ。やつが誰かに情けをかけるとか,自分の行動を後悔するとか,何かに不安を感じることなんてありえない。それと,絶対に途中であきらめないんだ。絶対に。君を殺すまで」
 それにしても,ターミネーターとはいったい何者なのだろうか。リースは説明しながら,ロボットという単語とサイボーグという単語を慎重に区別している。

 サラ 「機械なの?つまり,ロボットみたいな」
 リース「ロボットじゃない。サイボーグだ。サイバネティック・オーガニズム」
 サラ 「でも……血を流していたわ」
 リース「わかった。説明しよう。ターミネーターには血液が流れている。一部が人間,一部が機械なんだ。内部は,完全武装を施された超合金製の胴体で,マイクロプロセッサーによって制御されている。とても頑丈だ。ところが,外側は,人間の生体組織でできている。肉,皮膚,髪……血。つまり,サイボーグ用に培養された生体組織をかぶせてあるということだ」

 あらゆる世代の映画ファンにとって,ターミネーターの攻撃に遭い,弾雨のなかでリースがサラに語った言葉がサイボーグの権威ある定義となった。しかし,彼がターミネーターをサイボーグと呼んだのは完全な誤りだ。たしかに,ターミネーターの皮膚は人間の生体組織だけれども,それは彼が機械であることを隠すための偽装にすぎない。金属製の骨格をむき出しにするために皮膚が燃やされる場面を見ればわかるように,ターミネーターは,皮膚がなくてもまったく問題なく機能できるロボットである。ターミネーターは,人間の皮膚はあっても,人間性はない。
 1960年にサイボーグという言葉をつくったマンフレッド・クラインズが,この映画を観たときにあきれ返った理由もそこにある。彼は,サイボーグを「自動制御型マンマシンシステム」と定義したが,ターミネーターは人間ではない。インタビューの中で,クラインズは次のように抗議している。

 最近公開された,アーノルド・シュワルツェネッガー主演の『ターミネーター』という映画は,サイボーグという概念から人間性を奪ってしまった。この作品は,我々が提唱した真の科学的概念を曲解している。それは風刺にすらなっていない。モンスターではないものからモンスターを創造しているのだから,もっと悪い。身体機能を拡大強化された人間をモンスター化するというのは……。

 クラインズが憤慨するのは当然だ。ぼくだって腹が立つ。ロボットとサイボーグの違いは明らかなのに,よくものがわかっているはずの学者も含めて,多くの人たちがこれら2つを置き換え可能な同義語として用いている。

マイケル・コロスト 椿 正晴(訳) (2006). サイボーグとして生きる ソフトバンク クリエイティブ pp.149-151

サイボーグとは

 世間では,体に人工物を装着している人をサイボーグと呼ぶことが多い。だが,はっきり言ってそれは間違いだ。たとえば,人工股関節置換手術を受けた人はサイボーグではない。なぜなら,人工股関節はその人の行動を制御したり,選択したりするわけではなく,あくまでも立つ,座る,歩くといった動作を補強するための機械装置にすぎないからだ。入れ歯,人工角膜,人工膝関節についても同じことが言える。それらは材料科学と外科手術がもたらした成果だが,サイボーグの技術ではない。サイボーグのサイボーグたるゆえんは,もしも……ならば……,そうでなければ……という決定を下し,人体を制御してそうした決定を実行するソフトウェアがあることだ。

マイケル・コロスト 椿 正晴(訳) (2006). サイボーグとして生きる ソフトバンク クリエイティブ pp.73

子どもが障害を持った時

 わが子に障害があることを知った親は,大変なショックを受ける。人の子の親となれば誰しも,わが子が初めて歩けるようになる日,入学式,卒業式,初デート,成人式,結婚式といった人生の節目となる出来事を思い浮かべ,子どもがすくすくと成長していくことを心から祈るものだ。そして,漠然とした遠い将来のことではあるが,子どもより先に墓に入りたいといったことまで考える。ところが,子どもの目や耳が不自由であったり,子どもが身体障害のために歩けなかったりすると,こうした楽しみな将来が消えてなくなってしまう。彼らは,自分の子どもが健康で自信と誇りに満ちあふれた大人になることを想像できなくなり,代わりに車椅子,白い杖,補聴器,たどたどしい発話,一生誰かに頼って生きていかなければならないことなど,マイナスのイメージを頭に浮かべてしまうのだ。ぼくの両親は,絶望的な気持ちになり,何日間も悩み続けた。
 だが,生まれつき耳が不自由な子どもにとって,教育熱心な親をもつことは大変なプラスになる。ぼくの母は,大学で視覚障害教育を専攻した。乳は児童心理学者だった(今もそうだ)。彼らは,聴覚障害の専門家を探し,残存聴力を補強するための手段について学び,どのような選択肢があるかを調べる作業に取りかかった。ぼくに手話を習わせることも検討したが,結局,ほかの選択肢がすべてうまくいかなかったときの最後の手段とすることにした。両親は,ゆくゆくはぼくに特殊教育ではなく通常教育を受けさせ,ぼくが普通の暮らしを送れるようにしようとした。なんとかして普通に英語を話せるようにすることはできないか,聞き話す能力をもつ人たちに開かれているチャンスをつかめるようにすることはできないかと,真剣に考えてくれたのだ。

マイケル・コロスト 椿 正晴(訳) (2006). サイボーグとして生きる ソフトバンク クリエイティブ pp.53-54

ふと耳にする

 難聴だったことも,ぼくがコンピューターにのめり込んだ理由のひとつだ。ぼくは成長の過程で,人間関係の潤滑油になるような気配りや言葉かけを身につけるのが異常なくらい遅かった。社交術は一種の社会規範であり,社会規範とは本来誰かから教えられるものではなく,ふと耳にするなかで自然に覚えていくものだ。ところが,難聴だと,この「ふと耳にする」ということができない。ほかにどれほどすぐれた能力をもっていても,これだけは絶対に無理だ。ぼくは,世間の人たちが週末になるとパーティに出かけるということを,高校生になるまで知らなかった。仲間付き合い?異性との交際?どちらもぼくにはさっぱり縁がなかった。

マイケル・コロスト 椿 正晴(訳) (2006). サイボーグとして生きる ソフトバンク クリエイティブ pp.33

どうすればいいかわからなくなる

 仕事は文章を書くことが中心なので,まだどうにかなる。だが,出席者がぼく以外に2名いる会議があると,本当に困る。どちらかが発言するたびにそちらへ顔を向けるわけだが,内容を理解しようにも首を回すのが追いつかなくなるのだ。最初のうちは,彼らもなんとかしてぼくを話し合いに参加させようと努力するのだが,あきれ返るくらい手間隙がかかるので,まもなくいつもどおりのやり方に戻る。つまり,健康な耳をもつ人を相手にするというときと同じように話すということだ。そういうときの彼らは,決して非人情なふるまいをしているわけではない。彼らには,それ以上どんなことができるのかがわからないだけだ。ついでに言えば,それはぼくにもわからない。

マイケル・コロスト 椿 正晴(訳) (2006). サイボーグとして生きる ソフトバンク クリエイティブ pp.25

想像は難しい

 人間というのはすべての情報を二進法で表すデジタルな生き物ではない。こちらが単音節のイエスかノーか,1か0かという簡潔な答えを要求したとしても,たいていの人が幼い頃から社会的コミュニケーションの重要性をたたき込まれているため,まず間違いなく返事にはお世辞,ジョーク,世間話など,よけいな文句がついてくる。これはもう人間の習性というか,本能みたいなものだろう。ぼくの耳の状態をよく知っている言語聴覚士でさえ,ぼくの耳から取りはずした補聴器を自分の手に持ったまま,ぺらぺら話しかけてくることがある。そういうとき,ぼくは顔に寛大な笑みを浮かべて手を差し出し,彼にストップをかけなければならない。健康な耳をもつ人たちにとって,まったく何の音も聞こえない状況というのは想像できないようだ。目が不自由で何も見えない状況は,アイマスクをしたり,目を閉じたりすれば簡単に疑似体験できる。しかし,どれほど密閉性の高い耳栓をしたところで,聴者が周囲の音を完全にシャットアウトすることはできない。聴覚は常時働いており,いつだって周りの世界と結びついている。

マイケル・コロスト 椿 正晴(訳) (2006). サイボーグとして生きる ソフトバンク クリエイティブ pp.15

人気の理由

 人は富の由来を訊ねないから,ヤクザの親分は庶民の人気を博す。ヤクザの親分を賞賛する伝統的な歌には,「線が太くてこせこせしない」「今の時代は大きな腹で,よいも悪いも呑み込むほどの力なければ訳には立たぬ」といった文句が並ぶ。

溝口 敦 (2008). 細木数子 魔女の履歴書 講談社 pp.220

ビデオテープではない

 人間心理の「真実」を明らかにするために,科学は優れた方法を次々と発展させてきたけれど,世間一般には相変わらず記憶はビデオテープのようなものだというイメージが根強く残っている。しかし,自分の記憶について振り返ってみるだけでも,記憶がビデオテープのようなものではないことがわかるだろう。私が非公式に行ったメールによる調査に協力してくれた回答者のなかには,頭のなかのスクリーンにはっきりと映し出された記憶が,事実ではなかったことに気づいた人もいた。ただし,直感的に気がついたわけではなく,よくよく考えてみたところあり得ないことに気がついたのだ。その人は英国の片田舎で,家族で飼っていたラブラドールと遊んでいる父親の姿を覚えているけれど,本当はそのとき父親はエジプトに行っていて,そのまま帰ってこなかったことが判明している。そうだとわかっているけれども,いまもその記憶があるのだ。
 そんなことにおかまいなく私たちは,法廷やプレイルームで子どもに何を覚えているか質問し,その質問に対して子どもが答えた内容を正確な記憶であるかのように受けとめる。少なくとも,子どもの記憶が正しいかどうかを判断するときの基本姿勢は,子どもの話に耳を傾け,それを信じることから始まる。おそらくは,記憶内容の矛盾に突き当たることではじめて,記憶が間違っている可能性を考え始めるのだ。
 残念なことに,まだまだ先は長い。幼い子どもから事情を聞きとる警察官やソーシャルワーカーのなかにはいまだ,記憶は「ビデオテープ」のようなものだと考えている人がいる。さらにそういった人たちは,子どもの語る体験内容を変容させてしまう誘導的な質問の悪影響について積み重ねられてきた数多くの研究成果をほとんど知らないか,少なくとも,そういった研究成果をほとんど信頼していない。そのため,インタビューするものが望んだとおりの供述を,子どもから引き出すことになる。おまけに,子どもは権威のある人が望むようなことをいうだけでなく,誤った話や嘘の話を自分自身でも信じ込んでしまうことがある。科学的な研究によれば,子どもの頃の記憶がもともと正しくても誤っていても,子どもが成長するにつれて,その記憶はだんだん正確になっていくことはなく,不正確になるだけだ。時間の経過とともに,記憶が以前より正確になることは決してないのだ。そして,記憶の正確さを損なう要因が日常生活にはたくさん潜んでいる。たとえば,自分で記憶を振り返ること,記憶の自然な減衰,他者との会話,覚えていたい・忘れたいという願望,人からよく見られたいという願望,似たような印象の記憶どうしを誤って結びつけてしまうこと,これらは記憶の正確さを損なう要因のごく一部だ。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.320-321
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

真実は…

 娘から告発されたある父親は,一部の心理療法家が物語的記憶と呼ぶ出来事の語りにもとづいて,警察官から取調べを受けたときの様子について説明している。

 私は娘のエマを3歳の頃から虐待していたと疑われていました。エマが15歳くらいのとき,どういうわけか中学校の男子生徒全員に娘と学校のステージで性行為をさせたといわれています。どうやって学校に潜り込んだのかなどと私に聞かないでください。それから1年か少しして,私はエマを娼婦にしようと思い,金を払って雇ってくれそうな男たちに娘を紹介したらしいのです。それに飽き足らず,悪魔崇拝者が行う儀礼的虐待をするために,悪魔崇拝者の集うグループを結成することにしたというのです。大勢の男を集めたらしく,そのほとんどがデヴォン州で指導的な立場にある一般市民で,消防署の署長,私の職場の同僚など,全部で20名ほどの男が集まったとのことでした。教会の司祭や医者の友人がいたらしいことも忘れてはなりません。世間の人々があやしい儀式が行われるときいかにも集まってきそうだと考えるようなメンバーでした。私たちはみんな,黄色い帯のついた黒いローブを身にまとっていたそうです。どうやら,そこにはもう1人別の少女も犠牲者としていたようで,それは私の友人の娘だったらしいのです。その少女とエマを私のオフィスにある楕円形の机に縛りつけました。すべては私のオフィスで行われたというのです。

 この「物語的」真実とは反対の,歴史的な真実が医学検査の結果から明らかとなった。エマは処女だったのだ。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.312-313
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

繰り返し語られる記憶は

 本当に虐待の被害を受けた子どもや大人を信じないことが,どれほど危険なことであったとしても,本書で紹介してきた研究をもとに考えれば,誰の体験談であっても,それを信じる根拠を考え直さない限り,もはや機械的に「子どもを信じる」ことはできないように思う。ブラックやシンをはじめとした研究者たちの発見から判断すれば,信頼できる記憶であるかのように思わせるものが,特にその記憶がいろいろな場面で繰り返し語られるようなときには,逆にその記憶が誤っていることを示す特徴であることも多いのだ。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.307
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

記憶抑圧の背景

 くり返しになるが,子どもの頃に受けた虐待の記憶が抑圧される,という概念が生まれたのは2つの背景がある。1つには,子どもへの性的虐待は社会に広まっているが,これまで見過ごされてきた問題であり,そのため加害者が野放しになっているという世論が高まってきたことが挙げられる。もう1つには,抑圧された記憶を支持する人の間では,説明のつかない精神疾患が膨大な数にのぼっていることが,社会に性的虐待が蔓延していることを示す兆候の1つだと考えられていることが挙げられる。この2つの要因は関連が深く,相性がよいのかもしれない。つまり,もし精神疾患の原因が子どもの頃に受けた虐待にあるとすれば,精神疾患を抱える患者の数だけ虐待がはびこっていることになる。だが,抑うつやパニック障害,強迫性障害,摂食障害の患者の多くに,子どもの頃に虐待を受けた記憶がない。だとすれば,それは記憶が抑圧されていることを意味しているに違いない,というわけだ。
 これまで見てきたように,何千もの児童虐待に関する話が,心理療法家やクライエントの家族のもとに,そして法廷に届いている。それも,告発の対象となった出来事が起こってから何年も経ってから,その間,被害者だと名乗り出た者に虐待の記憶はまったくなかったのに。また,同じくここまで見てきたように,ロフタスやマクナリー,ブラックやシンのような心理学者は,これとはまったく別の説明を唱えている。抑圧された記憶という新しい現象を生み出す必要のない考え方だ(もっとも,偽りの記憶という新しい概念をつくり出してはいるが)。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.270
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

ロフタスが受けた仕打ち

 世界でも認められた研究者で,偽りの記憶に関する研究分野の「女王」エリザベス・ロフタスは,世間から敵意を向けられる経験をしている。その理由の1つは,子どもに対する性的虐待の重大さを軽視するものとして,ロフタスの研究が理解されているからだ。

 大学で同じ学部にいる同僚全員に,怒りの電子メールが送られてきた。無差別に送られてきたあるメールの書き出しは次のようなものだった。「ロフタスのような人間と一緒に働いていることを恥ずかしく思え」と。私の「敵たち」は,私の招待講演を取りやめるよう,専門団体に働きかけたことがあった。いくつかの大学では,もし講演が中止されなかったら危害を加えるという脅しの電話があったので,招待講演の間ずっと武器を携帯した護衛が側にいたこともあった。倫理的な苦情を送ってくる人もいた。私がいる大学の学部長,学長,州知事宛に抗議の手紙を書き,送りつけるキャンペーンを大々的に行って,私を困らせようとする人もいた。飛行機で隣に乗り合わせた人が,私が誰かわかると,持っていた新聞で私を叩いたこともあった。そのときはじめて,卑劣な攻撃というのが,どのようなものか実感した。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.269
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

改善した感じ

 催眠によってパフォーマンスが向上することはない。実際には改善しないが,改善したという主観的な印象を生じさせることがあるだけである。
 記憶をテストするために催眠を使用した場合,催眠は記憶を促進するのではなく,誤った想起を増加させる。心理療法においては明らかに逆効果である。
 催眠状態での年齢退行は,単なる想像の産物にすぎない。幼い時期まで退行した人のなかで誰一人として,その年齢に特徴的な身体的ないし発達的兆候を示す者はいない。また年齢退行した人が,その年齢以降に獲得した記憶や技能を用いることができないという証拠も得られていない。年齢退行を受けた人は,主観的には自分が子どもになったように感じ,子どものように振る舞うかもしれないが,自分が幼い子どもだったらどう思うか想像するよう指示された催眠状態にない人と区別ができない。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.247-248
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

過去世への退行を信じる?

 心理療法家の4人に1人は過去世への退行を信じており,催眠を利用することで患者を生まれる前の,前世にまで戻らせることができると信じている。本人は知らないはずの生まれる以前の人生について催眠状態の患者が詳しく話し,その内容が後の調査によって確かめられたような劇的な出来事に出会うことで,心理療法家は自分の考えが間違っていないのだと確信を深めている。もっとも印象的な出来事は,カーディフの催眠療法士が手がけた,ウェールズの主婦ジェーン・エヴァンスについての記録テープだ。どうやら彼女には6つの前世があり,それぞれについて語られた内容は細部にわたるもので,鮮明で説得力があった。
 どれについても同じポイントが指摘できるのだが,ここではその1つだけを紹介しよう。前世のエヴァンスは,リヴォニアという名前の女性で,ローマ帝国時代に大ブリテン島を支配していた皇帝の息子に家庭教師をしていたタイタスという人物の妻だったという。催眠状態で回復された彼女の記憶についてのドキュメンタリー映画があり,それを観た視聴者は,ヨークでの暴動について,彼女が迫真の説明をしている録音テープに聞き入った。ヨークは前世で彼女が住んでいた都市で,暴動によって彼女と家族はセントオールバンズへ逃亡した。彼女はまた,1190年にヨークで起こったユダヤ人の大虐殺について,ゾッとするような話をした。にも関わらず,催眠状態が解けると,これらの話については何も知らないし,ラテン語の名前についてもなじみがなく,歴史的な事実であるヨークでのユダヤ人虐殺についても聞いたことがないと彼女は主張した。
 しばらくの間,ジェーン・エヴァンスの前世は本やテレビのドキュメンタリーでひっきりなしに取り上げられていた。そして誰も彼女が既存の情報源からそのお話を引っ張り出してきたという証拠を挙げることができなかった。ローマ帝国時代のブリテン島研究の権威であるブライアン・ハートリー教授がこのテープを聴いたとき,次のようにいった。「一般の人が知らないはずの何らかの史実を彼女は知っています。このような話の概略をつくり上げようと思ったら,膨大な量の公刊された研究を参考にしなければならないでしょう」
 ハートリーは正しかった。これを証明したのは,疑わしい主張についての,恐れを知らない調査官,メルヴィン・ハリスだった。ジェーン・エヴァンスが6つの前世を生きてきたわけではないとハリスは確信していた。とはいえ,話をつくり上げるために「膨大な量の公刊された研究」を調べてまとめあげるほど,エヴァンスに素養や学歴があるようには思えなかった。インターネットが普及する以前のことで,彼女が語る非凡な物語のルーツが何であるのかをハリスが確かめるのは,骨の折れる仕事であった。最終的に明らかになったそのルーツとは,何年か前に読んで詳しく覚えていたのであろう,ローマ帝国時代のブリテン島について書かれた小説だった。
 苦労のすえ,ついに彼はその小説を発見したのだ。それは1947年にルイズ・デ・ウォールによって書かれた『生きている樹』(The Living Wood)という本で,ジェーン・エヴァンスが語った物語と同じ登場人物,出来事,場所が記載されていた。
 エヴァンスは,「無意識の剽窃(クリプトムネジア)」と呼ばれる記憶現象を体験したのだ。これは本や詩などの文章を読むが,その後で読んだことを忘れてしまい,内容だけ再現して自分自身で考えたことだと思ってしまう現象である。以前に見たことがあるという認識がまったくないこともあるが,無意識の剽窃が起こると,盗作だとして非難されることが多い。ジェーン・エヴァンスの話が「膨大な量の公刊された研究」を参考にしたというハートリーの指摘は正しかった。ただし,膨大な量の研究をまとめ上げたのはエヴァンスではなく,小説家のルイズ・デ・ウォールだったというだけのことだ。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.244-246
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

イメージ誘導法の問題

 心理療法家が記憶回復のために利用する別の手法に「イメージ誘導法」がある。この手法では,クライエントに「もしそのような出来事が起こっていたとしたら,どんなものだったと思うか想像してください」という指示を与える。イメージ誘導法もまた,偽りの記憶の形成に関わっていることが明らかにされている。イーラ・ハイマンとジョエル・ペントランドは,実際には体験したことがない出来事に対して,イメージ療法を用いた場合と,ただ単に1分間その出来事について考えただけの場合とを比較する実験を行っている。実験の結果,イメージ誘導法を用いたグループでは実験参加者の40%が偽りの記憶をつくり出し,実際には体験していない出来事に対して,実際の出来事であるという強い確信を持つことが明らかになった。これに対して,ただ1分間考えるだけだった統制群で偽りの記憶を形成した人は12%にすぎなかった。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.235
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

自分の方法が一番

 記憶回復療法がまともではない証拠の1つは,心理療法家が違えば治療技法も違い,それぞれが自分の技法こそ,もっとも効果のある方法だと考えていることだ。これは単純に心理療法一般に当てはまる性質にすぎないと思われるかもしれない。しかし,これは誤った考えだ。科学を基礎としたちゃんとした臨床心理学研究は長い年月をかけてその技法を洗練させており,資格を持った臨床心理士の間では,さまざまな心理的問題に対して,効果がもっとも確かなのは認知行動療法(cognitive behavioral therapy),略してCBTと総称される心理療法のパッケージであるとの合意が一般になされている。CBTの利点の1つは,数年にわたってかなりの時間とお金を要するのではなく,数カ月というきわめて短い期間で実施できる点にある。CBTはまた,心理療法家が利用するほかの心理療法と違い,有効性が科学的に実証されている。ある条件下では,これまで医師によって処方されていた薬物よりも効果的であることがわかっている。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.224-225
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

科学の仮説概念

 もちろん,真の科学においても,心理療法家の「自我」や「足跡」と同じような,仮説的な概念を見つけることができる。電子,ブラックホール,抗体,遺伝子。物理的に存在することが明らかになる以前から,これらはすべて,科学論文をはじめとした科学的なコミュニケーションのなかで使われていた概念だ。しかし,こうした概念に対応した物質が実存するだろうと考えられる理由について,科学者の間で合意があった。通常,綿密で系統立った研究から得られた観察データにもとづいているからこそ,科学者の間でこのような合意が成り立つのだ。そして,その存在をどうやって検出するのか,またほかの概念や理論で説明できる可能性をどうやって排除するのか,という方法論についても,科学者の間で合意がある。ところが精神疾患の原因が「子どもの頃の性的虐待」にあるという理論を信じる人たちの間には,そのような合意がなされていない。虐待が精神疾患を引き起こすメカニズムについても,そのほかの要因ではなく虐待が原因であると証明するための方法論においても,さらには「記憶」を掘り起こす方法やその治療効果を扱うための方法についても,研究者の間で合意がなされていない。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.219
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

日常の経験は…

 「日常の経験」について私たちの常識からは考えられないようなことが,科学的な研究によって次々と明らかにされている。もし日常的な経験から推測できるとの理由から,記憶や知覚,判断,トラウマ,そのほかの人間の諸相に関する新たな研究成果が,法廷でまったく認められないとすれば,次に紹介する事例のような事態が起こりかねない。数年前に,バスから転落したある女性に対して,後にダウン症の子どもが生まれたのは転落が原因であるとして損害賠償を認めたケースがあった。ダウン症は染色体の異常が原因であり,この染色体異常は外的な怪我や衝撃では生じることはないだろう。このケースでは相反する専門家証言が提出されたのだが,「おそらく転落が原因でダウン症になったに違いない」という「日常の経験」にもとづいた陪審員の推論だけでも,このおかしな評決を導き出すのに十分だったかもしれない。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.211-212
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

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