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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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確信と正確さ=無関係

 陪審員の意思決定に関する諸研究によれば,陪審員はさまざまな要因を考慮して目撃証言の信頼性を判断するが,そのなかには証言の真偽を判断するのに役立たない要因が含まれている。陪審員に関する心理学実験について報告するなかで,ダニエル・シャクターは次のように述べている。

 強い確信をもって証言する目撃者を目の当たりにすると,たとえその状況が目撃者が犯人を知覚し識別することが困難なものだったとしても,陪審員は,状況よりもその目撃者の信憑性に注目する傾向がある。陪審員は自信のない目撃証言よりも,確信に満ちた目撃証言を信用する。だが,目撃証言の自信の強さは目撃証言の正確さと,あったとしてもせいぜい取るに足らないほどの関係しかない。つまり,目撃者が強い確信を持って証言した場合とあまり自信なく証言した場合を比べると,自信が強い証言のほうが正確であるわけではない,ということが往々にしてある。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.209-210
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)
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一般常識と研究結果

 父親・教師事件や補強証拠のない多くの性犯罪の申し立ての核心にあるのは,子どもの頃の記憶についての科学だ。子どもの頃の記憶に関する科学的な研究は,心理学の研究領域のなかでも比較的新しい。研究の発展を促したきっかけに,このような事件が関わっているのは明らかだ。これまで本書で説明してきたように事件が相次いで起こり,そうした事件のなかには,すでに知られていた記憶に関する科学的研究で明らかになった事実と矛盾するように思われる記憶の働きが関わるものがあったからだ。子どもの頃の記憶について今日私たちが知っている知見の多くは,注意深く計画され,統計学的に妥当な実験から得られている。このような実験を計画し,得られた実験結果を解釈するためには,心理学の専門的な研究能力が必要とされる。そのため,研究結果が「一般常識」に反するものもあるが,このような場合,一般常識と研究結果のどちらが真実に近いかといえば,それは研究結果のほうだということができる。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.207
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

起きなくても信じる

 エイリアンによる誘拐などという,多くの人はどうでもいいと思っているようなテーマについて長々と話をしてきたが,記憶の科学とはあまり関係がないように思われるかもしれない。子どもへの性的虐待に関する記憶と違うのは,UFOに誘拐されたという記憶が何か有害な影響を及ぼすとすれば,それは「誘拐された人々(アブダクティーズ)」の精神的な幸福感に関わる問題だけであることだ。身に覚えのない罪でエイリアンが訴えられ裁判になるわけではないし,誘拐の罪で有罪判決が下されたエイリアンが刑務所送りになるわけでもない。性的虐待に関する偽りの記憶によって,親子関係が悪化する。これは現実に起こる悲惨な出来事だ。これに対して,エイリアンが人間を誘拐しているというのは完全に想像の世界の話で,ファンタジー小説やテレビゲームの世界に浸りたいという願望と同じくらいの害しか及ぼさないと捉えることができる。しかし,これらの話は互いに関連している。それは,性的虐待の記憶とエイリアンに誘拐された記憶のどちらも,人間には自分の人生において決して起こらなかった出来事を頑固に信じてしまう心理があるのだということを,私たちに教えてくれるものだ。さらに,こんなばかげた出来事を体験したと自分自身に信じこませることができるのであれば,抑圧された記憶というものが存在し,特別な心理学的手法を使えばその記憶を回復させることができるのだと,心理療法家やソーシャルワーカー,警察官に信じさせることは,どれほど簡単なことだろうか。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.201-202
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

エイリアンに誘拐される

 「私が話した人たち全員に共通する特徴が1つあった」とスーザン・クランシーは述べている。「彼らは,何か異常と思われる体験,奇妙で,まともでなく,ふつうでない体験をした後で,それがエイリアンによる誘拐と関係しているのではないかと疑い始める。この異常な体験というのは人によって異なる。人によっては,いつもと違うちょっとした出来事(『朝起きたとき,どうしてパジャマが床に落ちているのだろうか』)であり,ある人にとっては,何らかの体の症状(『なんでこんなに鼻血が出るんだろうか——いままで鼻血なんて出したことがないのに』)や体についたマーク(『どうして背中にコイン形のあざがあるのだろう』),多かれ少なかれ安定した自分の性格特徴(『自分は他者と違っているように感じる。孤独で,まるで外側に立って覗き込んでいるみたいだ』)だったりする。また,これらのすべての事柄が含まれている場合もある。体験内容は幅広く多様だが,こうした体験から共通の疑問に行き当たるのだ。『一体どうしてこんなことが起きるのだ?』と。つまり,UFOによる誘拐を信じるのは,自分が体験した奇妙で,ありそうもない,得体の知れない出来事を説明したいという気持ちを反映しているのである」
 人間というものは,不確かなままの状態でいるよりは,どんな説明にでもしがみつこうとするものだ。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.200
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

面接者の先入観

 バイアスのかかった面接者とは,ある出来事に対して先入観を持っており,それに一致するように質問をしていく面接方法をとる人物である。自分の先入観に一致する話だけを採用し,一致しない話を無視するのは,バイアスのかかった面接者に見られる顕著な特徴だ。自分の念頭にある考えとは別の可能性について質問することはしない。自分が持っている仮説に一致しない事実を引き出すような質問はおそらくしないだろう。さらに,子どもが自分の先入観と一致しない話や突飛な供述をした場合には,その発言を無視するか,面接者の先入観に合致するように歪めて解釈する。また,面接者の先入観に一致する答えが出てくるまで質問をくり返し,証言をまとめようとするだろう。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.184-185
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

必ずしも真実とは

 これらの研究が意味するのは,人の語る思い出はどれも信じられない,ということではない。そうではなく,詳細で確信に満ちた子どもの頃の「記憶」を目の前に示されたとしても,それが真実であるに違いないとはもはや断言できないということだ。もちろん,その記憶は真実であるかもしれないが,必ずしも真実とは限らない。さらにいえば,私たち自身が覚えている子どもの頃の感動的な出来事の記憶も同じく真実とは限らない。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.169
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

クランシーの虚記憶

 スーザン・クランシーは,自分の研究について紹介した本のなかで次のように述べている。「私の一番幸せな思い出について友人が質問してきたとき,じっくり考え込んでから答える必要はなかった。私はすぐに,アスペンで過ごしたある日のことを思い出した。ある休日のことで,ゲレンデには真新しいパウダースノーが3フィートも積もっていて,私はオーストラリア人でスキーのインストラクターをしている新しい素敵なボーイフレンドと一緒にスキーに出かけた。午後遅くのことだった。迂回コースを滑った後で,彼のコンドミニアムのルーフデッキにある温水プールに入った。雪が降り始め,大きくて美しいぼってりとした雪のかけらが,彼の金色の髪のなかで溶けた」
 色鮮やかに語られ,幸せに彩られた光景が目に浮かぶようだ。誰もがこのような記憶を持っているのではないだろうか。もちろん,すでにおわかりのように,これは再構成された記憶だが,間違っているとは限らない。けれども,このケースに限っては,間違いだったのだ。
 「この話を聞いて,友人は笑い出した」とクランシーは続けた。「そして私に,別の分野を研究するように勧めた。なぜか?というのは,彼女もそこにいたからだ。彼女は,私にとってそこまで楽しい思い出ではなかったことを思い出させてくれた。私は雪質に合わないスキー板をはいてしまい,転んでばかりいた。ボーイフレンドはゲレンデのこぶでジャンプするたびに『まったく最高だぜ!』と叫んでばかりいた。私は風邪をひいていて,本当は温水プールに入りたくなかったし,6時までに仕事に戻らなければならなかった。そして借りた水着はたるんでいて,ずっと気泡でぶくぶくいっていた。雪も降っていなかった」
 記憶の働きをよく知っているクランシーでさえ,実際に起ったことから,自分が望む方向に記憶を歪めてしまったのだ。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.155-156
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

思い出せない虐待

 マクナリーが抑圧された記憶に関心を持ったのは,子どもの頃に性的虐待を受けPTSDを発症したサバイバーと,発症しなかったサバイバーを比較した研究を行ったことがきっかけだった。子どもの頃に性的虐待の被害にあったことのある人を募集するために,地元紙に広告をうった。応募してくれた人との面接を開始したところ,そのうちの一部の人について驚くべき発見をした。

 私が精神医学的な面接を行った時のことでした。虐待がどのようなものだったかを把握し,症状について尋ねるために,広告を見て応募してくれた人に対して,虐待の加害者は誰だったのか,虐待を受けたときどんなことがあったのか,いつ虐待を受けたのか,その他いろいろなことを尋ねました。そのたびに,応募者は「わかりません」と答えるのでした。私は少し驚きました。「広告を読み間違えたのだろうか?」と私は思いました。それで,「どうして虐待された記憶がないのに,子どもの頃に虐待された経験のある成人サバイバーの募集広告に応募したのですか?」と尋ねたのです。すると彼らは,「ええと,私は食べ過ぎたり,吐いてしまったりするんです」とか「気分が変わりやすいのですが,その理由がわからないのです」,「養父といると特に理由もないのに緊張してしまうんです」,「わけのわからない悪夢を見ます」,「性的な問題を抱えているんです。虐待のほかにどんな原因が考えられるというのですか?」,「性的虐待を受けたはずなのですが,思い出せないのです」などと答えるのでした。

 これに驚いたマクナリーは,同僚のスーザン・クランシーとともに,子どもの頃に虐待被害にあったと主張しているが記憶はない人々を研究することにした。彼らの研究は根拠の怪しい噂や迷信の代わりに,実証的なデータを提供するものであり,人々が自分の過去の出来事を強く信じ込むためにあらゆる種類の理由づけを行うこと,そしてその理由の多くは実際にはその出来事を体験したかどうかとは何ら関係がないことを示すものだった。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.154-155
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

根拠と人気

 マクナリーは次のように指摘している。「裏切られたトラウマ理論に反する証拠があり,また理論と一致する証拠は乏しい。それにも関わらず,近親姦サバイバーの多くが虐待被害について何も思い出せないのだ,と思い込んでいる心理療法家たちの間では,この理論が相変わらず人気を博している。実証的な根拠と人気の間にこれほど大きなずれがあるケースは,ほかに類を見ない」

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.147-148
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

トラウマは忘れられない

 実験室で行われた圧倒的多数の研究から,PTSDに苦しむトラウマの犠牲者には侵入的な思考が起きることが確認されている。情動的な単語を使ったストループ効果の研究から,PTSDの患者はトラウマに関連した単語の意味を抑制するのが難しいことが示されている。さらにいえば,トラウマに関連する事柄を忘れようという強い動機づけがあるにも関わらず——あるいはこの動機が原因で——PTSDの患者はそうした出来事が忘れられないのである。こうした実験室での研究は,サバイバーが特にトラウマを忘却しやすい,という仮説と明らかに矛盾する。PTSD研究者のジュディス・ハーマンは,「残虐な行為に対する通常の反応は,それを意識から追いだしてしまうことである」と述べている。しかし,トラウマに関連する単語だけでも意識から追い出すのが難しいのだとしたら,残虐な行為そのものを意識から追い出すのはどれほど難しいことだろう。トラウマ体験の記憶を意識から締め出そうと試みることと,それが成功することを混同すべきではない。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.144
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

ロフタスの虚記憶

 面白いことに,抑圧された記憶に対する懐疑論者の女王であるロフタスは,突如として記憶を取り戻す,という体験をしたことがある。ロフタスが14歳のときに母が水死した出来事についての記憶だ。彼女の44歳の誕生日,親戚が集まって話をしていたときのことだ。彼女は叔父から「おまえも母親の遺体を発見した1人だった」という話を聞かされた。そのときまで,母親の死そのものに関してほとんど何も覚えていなかったのだが,自分が母親の遺体を発見した瞬間のはっきりした記憶が蘇ってきた。ジョージ・フランクリンの娘と同じように[訳注:『抑圧された記憶の神話』によれば,この出来事があったのはロフタスの誕生日ではなく,叔父のジョーが90歳を迎えた誕生日である]。
 それから数日後,叔父は間違っていて,母の遺体を発見したのはロフタスではなくて叔母だったと兄から聞かされた。そのため,この数日間にロフタスが「回復した」記憶はまったくの誤りだった。「私は自分でやっている実験を,不覚にも自分で体験してしまったのです!懐疑的に物事を見る私の心でさえ,信じやすいことが本質なのだということに,不思議な感覚を覚えました」とロフタスは述べている。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.124
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

誤りは免れない

 私たちの記憶はすべて,それが「子どもの頃に関する子どもの記憶」であっても,「子どもの頃に関する大人の記憶」であっても,「昨日起こったことに関する大人の記憶」であっても,誤りを免れないことは明らかだ。これが何かの役に立つものではない。そんな発言をするよりも,記憶の誤りを引き起こす具体的な要因について理解するほうが,ずっと役に立つだろう。正確な記憶と不正確な記憶を区別する方法はあるだろうか?ある出来事はほかの出来事よりもたやすく忘却されるのだろうか?想起と表裏一体である忘却のプロセスは,研究や分析ができるのだろうか?間違いなく体験した出来事を思い出せず,記憶がどこかに行ってしまった場合でも,その記憶を取り戻すことができるだろうか?
 この20年の間,子どもの頃の記憶が「20世紀のもっとも有名なメンタルヘルスをめぐるスキャンダル」と呼ばれる戦場と化してから,多くの心理学者がこれらの疑問を解明しようと努力してきた。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.108-109
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

こんなに忘れる理由

 これほど多くのことを忘れているのには,いくつか理由がある。子どもの頃は,環境に適応するために,毎日の生活の決まりきった流れを理解しスクリプトを構成することが重要で,スクリプトに一致しない完全に新奇な出来事は,忘れ去られてしまう。また,ほどほどに新奇な出来事であれば,もう一度同じような出来事が起きた場合にはスクリプトに組み込めるよう,しばらくの間は保持されるかもしれないが,統合されなければ忘れられてしまう。そして,スクリプト自身は,一般的な知識の一部に組み込まれてしまい,それ自体固有の経験として想起することができなくなってしまう。
 成長して言語能力が増し,社会的な役割を担うことが必要となってきたときにはじめて,記憶は今までとは違う価値を持つようになる。「あなたのことを話してくれる?私は私のことを話すから」といったように,記憶を交換することが,社会的通貨としての役割を担うようになるのだ。そして,このような社会的通貨としての記憶の利用もまた,家庭内の会話から始まる。母や父,兄や姉に話すために私たちが思い出すのは,家族が興味を抱いていると思われる内容である。では,私たちはどのようにして,彼らが何に興味を持っているか知るのだろうか?実は,一緒に過去の経験について会話し,記憶をまとめあげる会話を通して彼ら自身がそれを教えてくれるのだ。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.83-84
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

共有するかどうか

 ネルソンによれば,残存する記憶とそうでない記憶の決定的な違いは,思い出を他者と共有するかしないかである。子ども時代に会話能力が発達するに従って,他者と記憶を共有することで喜びと社会的な承認を得るようになる。さらに,もしこの他者というのが自分の親であれば,単に話に耳を傾け,そうだねと頷く以上のことが,対話のなかで展開される。それは,会話を通じて,子どもの自伝的アイデンティティ全体が形成される,ということである。
 この点について,ネルソンは次のように述べている。「幼年期に学習されるこの活動は,将来の出来事を予測しそれに備えるためにスクリプトをつくっていくという記憶の一般的な機能とは,まったく異なったものだ。この活動によって,他人と共有することができ,最終的には自分だけでも振り返ることができる記憶が形づくられ,その存在自体に価値がある個人史の記憶が形成される」

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.70
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

記憶のアップデート

 ヘインやほかの研究が示しているのは,話せるようになる以前の出来事で覚えていると思っているものが,視覚的であり,漠然とした印象のようなもので,原始的であるといった場合に,その記憶は本物である可能性が高く,他者から間接的に聞いた情報でない可能性が高いということである。言語的に洗練された物語のような記憶であるほど,他者から聞いた話や家族アルバムの写真,さらにはそうあってほしいという願望によって再構成されたものである可能性が高くなる(ここでごく簡単に注意しておきたいのは,とてもシンプルな視覚的記憶であっても,それを説明するには言葉が必要であり,そのため,言葉を獲得する以前の出来事を説明するためには,それ以降に獲得した言語的スキルが多少なりとも必要になるということだ)。
 さて,こんなにも幼い頃の記憶があるのだと自慢のタネだった初期の記憶が,このように否定されることに対して,反発を覚える人もいるだろう。たとえば,私の頭のなかでは,格子窓の真下にゴリウォグ人形が見えるけれど(白状すると,これが私のもっとも古い記憶だ),これは私がまだ「格子」という言葉を覚える以前の出来事だっただろう。
 とはいえ,ヘインたちは別の論文でこう述べている。

 人生のごく初期に経験した出来事は,「アップデート」されない限り,発達段階を越えて次の発達段階の言葉に翻訳されることはない。もしその記憶が保持されているのなら,それは前の発達段階で符号化されたそのままの形で保持されているだろう。

 かなり初期の記憶で言語的に表現できるもののなかには,おそらく本物の記憶も混じっているだろうが,何らかの形でアップデートされているのだろう。アップデートというのは,子どもが体験したことを親に語り,その後,発達が進むなかで親が子どもと会話しながらその記憶を引き出すといったようなやりとりを指している。そうした会話で使われる語彙は,出来事を体験した当初よりも洗練されたもので,大人になってから思い出すのはこの会話の記憶なのだ。
 私の「ゴリウォグ人形」の記憶についていえば,それは私が第二次世界大戦中に避難していて,母親と一緒にいなかったときに体験した(と私は信じている)ものなので,私が現在覚えているバージョンの記憶は,おそらく,私が母親に語ったものを,もっと後の発達段階において,母親が私に語り直したものだと思われる。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.52-53
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

解剖学的探求の問題

 結局のところ,解剖学や生理学の観点から行動を説明しても,別の疑問を生み出すだけで,説明として十分でないことがわかる。このことは,睡眠という不思議な現象についての説明と似ている。研究者は睡眠を「神経系に休息をもたらすものだ」と説明する。すると「なぜ神経系には休息が必要なのか?」,「24時間のうち16時間しか活動できないような神経系にしか進化できなかったのか?」という疑問が生じるだろう。こういった「説明」は,説明すべき謎を別の謎に置き換えているだけに思える。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.45
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

思い出せない理由

 私たちがなぜ人生初期の2年ほどを覚えていないのか,近年の心理学者は次の2つの仮説を提唱している。1つは,脳がまだ十分に発達しておらず,記憶を獲得し保持する機能を担う神経系の働きが整っていないためであるという説である。もう1つの仮説は,言語が発達する年齢まで,私たちが保持したり想起したりできる出来事は非常に限られているというものである。
 この2つはまったく別の説明というわけではない。言語の発達と脳の発達はお互いに関連しているので,記憶が言語能力に影響され,その言語能力は脳の成熟に影響されるのだとしたら,結果的に,記憶の発達は脳の成熟と関係していることになるだろう。一方,もし記憶力が言語能力に影響されず,何らかの脳機能に左右されるのだとしたら,その脳機能の準備が整えば前言語的な記憶を獲得できるかもしれない。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.41
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

意見の相違

 心理療法家によれば,瞑想によって生後6ヵ月の記憶を思い出せることもあるという。一方で実験心理学者によれば,2歳半以前の出来事を思い出すことは難しいという。
 このように,心理療法家と実験心理学者の見解は根本的に相容れない。これは別に驚くべきことではないだろう。そもそも科学者たちは常に論争し,そのなかから真実を見つけてきたではないか。けれど,一方の見解が,もう一方の見解よりも信頼できるものであることを示す手がかりがある。心理療法家の見解はあまりに単純で,具体的でなく,逸話的で,裏づけとなる証拠がなく,明らかに特殊な方法でデータを収集している。それに対して,本章で説明するように,実験心理学者の見解は慎重で,より詳細であり,数カ月にわたる綿密な実験や統計的分析にもとづいており,慎重な論じ方をしている。
 記憶を研究する際に問題となるのは,記憶は誰にとっても身近なものであるために,私たちは記憶について自分なりの考えを持っているということだ。だから,記憶を科学的に研究していく場合には,心理療法家のように検証されていない個人的な印象を述べるといった方法でなく,実証的な根拠にもとづいて考える必要がある。
 また,記憶は研究者にとって,客観的に扱うことが難しい対象である。自分なりの考えと一致しない見解を受け入れることが難しいからである。だからこそ,記憶を研究する者は徹底的な懐疑主義者になるべきなのだ。これに対して,心理療法家はそうである必要はない。もし,助けを求めて心理療法家のもとにやってきた患者の話を疑うようであれば,患者は逃げ出してしまうだろう。

カール・サバー 越智啓太・雨宮有里・丹藤克也(訳) (2011). 子どもの頃の思い出は本物か:記憶に裏切られるとき 化学同人 pp.30-31
(Sabbagh, K. (2009). Remembering Our Childhood: How Memory Betrays Us, First Edition. Oxford: Oxford University Press.)

人種間IQと遺伝差

 人種によるIQの違いについては,遺伝子は何の役割も果たしていないと自信を持って言える。人種による違いに遺伝子が関与しているとする証拠のほとんどは,間接的であって簡単に否定できる。純粋なアフリカ系からヨーロッパ人の血がかなり混じった人まで,幅があるアメリカの「黒人」を対象としたほぼすべての自然実験では,直接的証拠として,IQに関して遺伝的違いはまったくないことが示されている。また,人種間でのIQや学力の違いは,1世代あたり標準偏差の約3分の1という速さで縮まっている。現在の平均的な黒人のIQは,1950年の平均的な白人より高い。

リチャード・E・ニスベット 水谷 淳(訳) (2010). 頭のでき:決めるのは遺伝か,環境か ダイヤモンド社 pp. 245
(Nisbett, R. E. (2009). Intelligent and How to Get It. New York: W. W. Norton & Company)

興味と褒美

 あなたの子供に何かやらせたいと思ったとき,子供がすでにそれに興味を持っていたら,それに対して褒美をあげると約束するのはあまりよい考えではない。
 私は発達心理学者のマーク・レッパ―やデイヴィッド・グリーンと一緒に,保育園児の園児が,マジックペンで絵を描くという新しい作業に取り組む様子を観察した。ほとんどの子供はマーカーで絵を描き,明らかにその作業を楽しんでいた。その後,一部の園児に,マジックマーカーで絵を描いたら褒美をあげると約束すると,園児たちは喜んで絵を描いた。2週間後,再び子供たちにマジックマーカーを渡した。以前に褒美をもらった子供は,もらわなかった子供に比べて絵を描くことが少なく,絵の出来も劣っていた。
 「契約」によって,遊びだったものが課題になってしまったと言える。褒美を約束されなかった何人かの子供の絵を褒めたところ,その子供たちは,褒美ももらわず褒められもしなかった子供より多くマジックマーカーで遊んだ。したがって,子供に何かをさせたければ,やったときに褒めるべきだ。やったら褒美をあげると約束してはならない。

リチャード・E・ニスベット 水谷 淳(訳) (2010). 頭のでき:決めるのは遺伝か,環境か ダイヤモンド社 pp. 238-239
(Nisbett, R. E. (2009). Intelligent and How to Get It. New York: W. W. Norton & Company)

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