読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。
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まず米国トップ校への入学は決してたやすくはない。米国トップ項の入学審査で高校時代の好成績が求められるのは,応募者に対する合格者の比率が極端に低いからである。ハーバードの場合,2017年の合格率は5.2%,プリンストンは6.1%であった。プリンストンの場合,3万通を超える応募に対して,合格通知を手にできるのは,わずか1800人。出願者の95%は不合格になるのである。しかも,合格者の中で実際に入学するのは7割程度である。残りの3割は,他の有力大学に逃げていく。
逃げる理由は,親の意見や希望する分野の充実度など,いろいろある。私の友人の息子は,スタンフォードやハーバードなど,出願したすべての一流大学に合格した。だがジャーナリズムへの就職を希望していた彼は,学生新運が充実しているという理由で,イェールを選んだ。同じ「トップ校」の中にこうした選択肢があるのは米国の強みであるが,他方では一部の優秀な学生が複数の大学の合格枠を総ざらいしているという現実もある。
佐藤 仁 (2017). 教えてみた「米国トップ校」 KADOKAWA pp. 31
米国トップ校に入るには,運動や芸術も含めて,あれこれまんべんなくできなくてはならないが,東大は受験科目のみ突破できるだけの学力をもっていれば合格できる。その分,面白く,片寄った学生が多く入っているというのが私の印象だ。自分の興味ある世界については,なりふり構わずとことん追究する変人タイプである。
佐藤 仁 (2017). 教えてみた「米国トップ校」 KADOKAWA pp. 28
ハーバードを含む米国トップ校に合格するためには,高校時代の成績が卓越していなくてはならない。たとえば2017年にハーバード大学に合格した新入生の場合,A(優)に4点,B(良)に3点,C(可)に2点と加算して計算される高校時代の成績の平均点(GPA)が4点を超えている。後で触れるAP科目(Advanced Placement Course: 大学への単位として認められるレベルの特進生用科目)など,難度の高い科目を好成績で修了した場合には,通常のAよりさらに加点されるようになっているからだ。つまり,オールA以上が「平均」なのである。
このようにトップ校に合格するには高校時代の成績がまんべんなく優秀でなくてはならない。よほど田舎の小規模校で,特別な才能に恵まれていない限り,教科書を一度も開かずにオールAをとることは至難の業であろう。
佐藤 仁 (2017). 教えてみた「米国トップ校」 KADOKAWA pp. 26-27
日本の就職活動では。「何が採用の基準になっているのか」がはっきりしないため,不採用とされた学生はひたすら自分の内面を否定し続けることを求められます。象徴的な言葉が「自己分析」で,生まれた時からこれまでの態度,自分がどういう人間であるのか,こうした抽象的な次元で自分自身を否定し,企業にどうしたら受け入れてもらえるのか考え続けさせる,ある種の精神的な試行錯誤,自己変革が求められるというのです。
ジョブ型社会であれば,具体的な職業能力がないために不採用になったのであれば,それを改善するために職業訓練を受けるという建設的な対応が可能ですが,メンバーシップ型社会的な全人格的評価で自己否定することを求められるということは,「自分が悪い」という一種のマインド・コントロールに若者を陥らせていくということでしかありません。こうして不採用の理由がわからないまま「自己分析」を繰り返させる「人間力」就活が,ブラック企業を生みだしはびこらせる土壌になっているという今野氏の指摘は鋭いものがあります。
濱口桂一郎 (2013). 若者と労働―「入社」の仕組みから解きほぐす 中央公論新社 pp. 234
しかし,面接においてサークル活動をどれだけやったかを一生懸命説明しなければいけないということは,仕事の能力としての即戦力を要求しないということです。正社員が少なくなり責任や労働の質的・量的な負荷が高くなってきて,白紙の学生に即戦力を要求するというおかしなことが起こっているのです。
濱口桂一郎 (2013). 若者と労働―「入社」の仕組みから解きほぐす 中央公論新社 pp. 231-232
しかし,ここが大変皮肉なところですが,そうしたベンチャー企業においても日本型雇用システムに特有の労働者を会社の「メンバー」と考え,経営者と同一視する思想はそのまま適用される結果,ベンチャー経営者にのみふさわしいはずの強い個人型ガンバリズムがそのまま彼ら労働者に投影されてしまうのです。拘束を正当化したはずの長期的な保障や滅私奉公を正当化したはずの「見返り」を,「会社人間」だ「社畜」だと批判して捨て去ったまま,「強い個人がバリバリ生きていくのは正しいことなんだ。それを君は社長とともにがんばって実行しているんだ。さあがんばろうよ」というイデオロギー的動機づけを作動させるかたちで,結果的に保障なきガンバリズムをもたらしたといえます。そしてこれが,保障なき「義務だけ正社員」や「やりがいだけ片思い正社員」といった様々なかたちで拡大していき,現在のブラック企業の典型的な姿になっているのです。
濱口桂一郎 (2013). 若者と労働―「入社」の仕組みから解きほぐす 中央公論新社 pp. 222-223
そう,「いかなる職務をも遂行しうる潜在能力」であり,「人間力」です。そして,前述したように,90年代以降,「社員」の範囲が縮小していき,それまで「入口」段階ではそれほど決定的な重要性を持たなかった「人間力」が,それによって「社員」の世界に入れるか否かが決定されてしまう大きな存在として浮かび上がってくると,そういう「人間力」を身につけるための教育がキャリア教育として行われるということになっていきます。
一言で言えば,就活の場で企業にいい印象を持ってもらうことができるためのスキルを身につける教育です。
濱口桂一郎 (2013). 若者と労働―「入社」の仕組みから解きほぐす 中央公論新社 pp. 136
そもそも,欧米では「企業に採用してもさしあたっては何の役にも立たないような,職業経験も知識も何も持たないような」新規学卒者を「もっぱら好んで採用しようとすることは,とても理解することができない」のに対して,日本では,新規学卒者がほとんど唯一の会社への入口となっていたために,少なくともある時期までは「自分の希望するところへ就職することは困難であるとしても,ほぼ間違いなく全員が自分の就職先を見つけ出すことができるようになってい」ました。
欧米では,学校を出たばかりのスキルもない若者は,欠員補充に応募しても経験豊富な中高年失業者にとられてしまい,仕事に就けずに失業するのが当たり前であるのに対して,日本では何の経験もスキルもない「まっさら」な人材であることがむしろ高く評価されて「社員」として「入社」できるのが当たり前であったのです。
濱口桂一郎 (2013). 若者と労働―「入社」の仕組みから解きほぐす 中央公論新社 pp. 108-109
欧米の職場では,個々の労働者の仕事の内容,範囲,責任,権限などが「職務記述書」や「権限規程」という形で明確に定められています。ですから,同じ職場にいても,自分の仕事と他人の仕事の区別は明確です。他人の仕事をする義務はありませんし,する権利もありません。むしろ,他人の仕事に手を出したりしたらトラブルのもとです。
ところが,日本の職場では,そのように個々人に排他的な形で仕事が割り振られているわけではありません。むしろ,個々の部署の業務全体が,人によって責任の濃淡をつけながらも,職場集団全体に帰属しているというのが普通の姿でしょう。自分の仕事と他人の仕事が明確に区別されていないのです。
濱口桂一郎 (2013). 若者と労働―「入社」の仕組みから解きほぐす 中央公論新社 pp. 92-93
日本の法律で,「社員」という言葉が使われている箇所をすべて抜き出したら,それらはすべて出資者という意味の言葉なのです。エンプロイ-という意味で「社員」という言葉を使っている法律は一つもありません。多くの読者の常識からすると,こちらの方がずっとびっくりする話かもしれませんね。
現在の日本の会社法という法律には,株式会社と並んで持分会社というのが規定されています。合名会社,合資会社,合同会社といった小規模な会社のための制度ですが,そこでは「社員」という言葉が,会社を設立するために出資する人という意味で使われています。この持分会社における「社員」に当たるのが,株式会社における「株主」です。会社法のどこを読んでも,会社のメンバーは出資した人,つまり持分会社の「社員」であり,株式会社の「株主」です。それ以外にはありません。
濱口桂一郎 (2013). 若者と労働―「入社」の仕組みから解きほぐす 中央公論新社 pp. 49
欧米諸国の企業における人の採用のやり方の原則は,「必要なときに,必要な資格,能力,経験のある人を,必要な数だけ」採用するということにあります。それは日本の新卒定期採用方式に対して,欠員補充方式と呼ぶことができるでしょう。
従って欧米の企業においては,学校卒業時に一斉に従業員の採用が行われるということは起こりえませんし,まして,卒業の以前から学校での勉強を放っておいて就職活動に奔走するというようなことはありえないのです。
濱口桂一郎 (2013). 若者と労働―「入社」の仕組みから解きほぐす 中央公論新社 pp. 40
日本では,会社というのは「社員」という「人」の集まりだが,その「社員」というのは英語でいうエンプロイ-のことを指す,と。つまり,初めに「人」ありきというときのその「人」は,会社のメンバーである「人」という意味なのですね。初めに「メンバー」としての「人」ありき,という意味で,これを私は「メンバーシップ型」と呼ぶことにしました。欧米においては会社のメンバーなどではあり得ないエンプロイ-が日本では会社のメンバーになっているということ,そしてそのメンバーに仕事を当てはめるというのが日本の仕組みであるということを一言で表現する言葉として,なかなかよくできているのではないかと思っています。
濱口桂一郎 (2013). 若者と労働―「入社」の仕組みから解きほぐす 中央公論新社 pp. 37
すなわち,「仕事」をきちんと決めておいてそれに「人」を当てはめるというやり方の欧米諸国に対し,「人」を中心にして管理が行われ,「人」と「仕事」の結びつきはできるだけ自由に変えられるようにしておくのが日本の特徴だということです。
濱口桂一郎 (2013). 若者と労働―「入社」の仕組みから解きほぐす 中央公論新社 pp. 35
科学は私たちに説明を探すための戦略を授ける――だが絶対的な真理を探すための戦略はもたらさない。それどころか,絶対的な真理を求めるなら目を向ける先は純粋数学か宗教しかなく,断じて科学ではないと言われている。なぜ純粋数学が絶対的な真理をもたらすかと言えば,純粋数学とは単にあるルール一式を適用した場合にある公理一式からもたらされる結論を導くことだからだ。あなたは独自の世界を定義するわけで,その中でなら確かに絶対的な真理を述べられる。一方,信仰の表現としての宗教は,ある絶対的な真理を信じていることの表明である。
それに対し,科学は可能性がすべてだ。私たちは理論を,予想を,仮説を,説明を提唱する。そして証拠やデータを集め,その新たな証拠に照らして理論を検証する。データが理論と矛盾するなら理論のほうを変える。そうすることで科学は前進し,理解はいっそう深まる。だが,既存の理論と矛盾する新たな証拠が出てくる可能性は常にある。結論が変わりうること,すなわち真理が絶対でないことは科学のきわめつけの本質だ。
デイヴィッド・J・ハンド 松井信彦(訳) (2015). 「偶然」の統計学 早川書房 pp. 253
結果を選ぶことが結論をゆがめる一形態だと言うなら,実験を行ってデータを集めたあとに,検証しようとする仮説を決めることもそうだ。これは hypothesizing after the results are known (結果がわかったあとに仮説を立てる)の頭字語としてharking(ハーキング)と呼ばれている。これならデータが支持する仮説を簡単に立てられるに決まっている!こう説明されると見るからに危ういやり口に思えるが,効果は概してずいぶんさりげなく現れる。たとえば,研究者がデータをふるいにかけ,ある決まった傾向の兆しを見いだしたあとに,もっと詳しい統計分析を同じデータに対してかけて検証して,見いだした傾向が有意かどうかを確認するのである。だが,どのような結論が出ても,それは傾向の兆しを見いだした当初の考察で歪められている。
デイヴィッド・J・ハンド 松井信彦(訳) (2015). 「偶然」の統計学 早川書房 pp. 171
出来事Aが起こったとわかっている状況で出来事Bが起こる確率を,AのもとでBが起こる「条件付き確率」と言う。条件付き確率はありえなさの原理のたいへん重要な側面の一つで,なぜなら一般にはかなり起こりえないのに特定の環境でなら大いに起こりそうな物事があるからだ。たとえば,私の親友がニューヨークで事故に遭う確率は非常に低い。なぜなら彼はロンドン在住で,ニューヨークを訪れることがまずないからだ。ところが,彼がニューヨークに引っ越すことになれば,その確率は当然大きく高まる。
デイヴィッド・J・ハンド 松井信彦(訳) (2015). 「偶然」の統計学 早川書房 pp. 86
”偶然の出来事は予測不可能でも,ある種の規則性がもっと高いレベルに存在するかもしれない”と考えるためには知性の著しい飛躍を要する。1回1回のコイン投げで表と裏のどちらが出るかはまったくわからないが,1000回投げたうちの500回ほどは表になる,という認識は大きな概念的飛躍だ。これは”重力とは物体間に働く普遍的な力の一つ”という概念を導いた知的飛躍に匹敵する。
この知的飛躍がいかにとてつもないものであったかの証とも言えそうだが,偶然起こる物事の性質をなかなか理解できない人がこの現代にも大勢いる。たとえば,(公正な!)コインを投げると2回に1回ほど表が出るとわかっているのに,最初の10回で表が多く出ると,かなりの人が次の10回で裏が多く出て相殺されると予想する。だがそうはならない。この誤解は非常に幅広く見られ,「ギャンブラーの錯誤」という呼び名まで頂戴している。
デイヴィッド・J・ハンド 松井信彦(訳) (2015). 「偶然」の統計学 早川書房 pp. 69-70
予言のこうした性質をふまえると,占い師として成功するための手引きを書くなら,次の3つの基本原理を意識すると幸先の良いスタートを切れそうだ。
1 ほかの誰にも理解できない兆候を用いる。
2 予測をどれもあいまいにする。
3 違う予測をできるだけたくさんする。
注目すべきは,最初の2つを裏返すと,それが科学的手法の基本的な側面の本質的な定義になっていることだ。
1 測定プロセスを明確に記述し,自分のしたことを他人が正確にわかるようにする。
2 自分の科学的仮説が含意するところを明確に記述し,その仮説が間違った予測をしたらそうとわかるようにする。
デイヴィッド・J・ハンド 松井信彦(訳) (2015). 「偶然」の統計学 早川書房 pp. 38
予言は往々にして謎めいた言葉で語られ,意味をあいまいにしていろいろな解釈ができるようにしている。そのため,反駁が難しいこともある。何がどう転んでも「ああ,そうだな,だが私はまさにそう言っていたんだ」と必ず言える予言者と議論するのは至難の業だ。一つの「予言」から二つの相反する解釈が可能なことさえある。
そんな事例が,紀元前560~546年にリュディア王だったクロイソスの物語に見事に描かれている。それによると,彼はペルシャを攻めるかどうかを決めるため,デルポイに神託を求めた。すると,彼が川を渡ると大帝国が滅びるとのお告げだった。クロイソスはこれを自分に好都合なメッセージと解釈し,滞りなく攻撃をしかけた――だがそのせいでみずからの帝国がペルシャ軍によって滅ぼされた。
デイヴィッド・J・ハンド 松井信彦(訳) (2015). 「偶然」の統計学 早川書房 pp. 36-37