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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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SES高低で遺伝率が異なる

 では,SESの低い人たちでは,どうしてIQの遺伝性がこれほど低くなるのだろうか?
 ストゥールミラーの研究から,IQに影響を及ぼす環境変数の幅は,中流階級や上層中流階級よりも下流階級の家族のほうがずっと大きいことがわかっている。SESの低い人々の環境は,最も熱心な上層中流階級と同様のレベルから,あらゆる面で不健全なレベルまでと,幅があるだろう。つまり,この集団に属する人々の環境は,IQを大きく変えさせることになる。そのため,環境が遺伝をほぼ完全に圧倒してしまうのだ。
 だから,子供のために時間を費やし,金を使い,我慢をしても,結局のところ無駄にはならない。IQに対する遺伝の寄与を全社会階級で平均すれば,遺伝の寄与は最大でも50パーセントといったところだろう。残りのほとんどは,家族内では共通だが家族間で異なる環境要因と,家族内でも異なる環境要因によるものだ(残りわずかは測定誤差)。

リチャード・E・ニスベット 水谷 淳(訳) (2010). 頭のでき:決めるのは遺伝か,環境か ダイヤモンド社 pp.39
(Nisbett, R. E. (2009). Intelligent and How to Get It. New York: W. W. Norton & Company)
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環境という増幅器

 バスケットボールを例に考えてみよう。平均より少し背が高い子供は,他の子供よりバスケットボールをやる可能性が高く,楽しんでプレーをして,プレーの回数も多く,コーチに目を掛けられてチームに入らないかと誘われることが多い。背が高いことが強みになるかどうかは,このような環境的出来事によってそれが発揮されるかどうかにかかっている。そして,別々に育てられた一卵性双生児は,背丈が高いためにバスケットボールで似たような経験をし,最終的にバスケットボールで似たような力を身につけるだろう。
 しかしバスケットボールの力が似ているのは,2人がまったく同じ「バスケットボール遺伝子」を持っているからではない。そうではなく,もっと限られた属性において遺伝的に同じで,それによってバスケットボールに関係した経験が極めて似てくるからだ。
 似たようなことが知能についても言える。たとえば好奇心に関して遺伝的に比較的小さな強みを持っている子供は,親や教師に学問の道を目指すよう励まされ,知的活動が報われることを知り,勉強して他の知的訓練にも取り組むようになる。こうして,遺伝的強みを持たない子供より賢くなるわけだ。たとえ遺伝的強みがごくわずかでも,環境という「増幅器」を働かせて効果を生み出すことができる。強みを発揮するにはそれが極めて重要だ。

リチャード・E・ニスベット 水谷 淳(訳) (2010). 頭のでき:決めるのは遺伝か,環境か ダイヤモンド社 pp. 35
(Nisbett, R. E. (2009). Intelligent and How to Get It. New York: W. W. Norton & Company)

強い遺伝論者の意見

 強い遺伝論者の主張をまとめると,次のようになる。IQの変動の4分の3以上は遺伝的なもので,変動の一部は,親には防ぎようのない家庭内での環境要因の違いによるものだ。そして成人になると,家族間での環境の違いによるIQの差異——無作為抽出した家族Aと家族Bの間での差異——はほとんどなくなる。あなたの家族の特性と比べるために無作為にある家族を選べば,あなたの家族より資産が少なく,子供に本を読んでやらず,出来の悪い学校に通わせ,近隣環境が悪く,信じる宗教が違うかもしれないが,そんなことでほとんど違いは生じないというのだ。

リチャード・E・ニスベット 水谷 淳(訳) (2010). 頭のでき:決めるのは遺伝か,環境か ダイヤモンド社 pp. 32
(Nisbett, R. E. (2009). Intelligent and How to Get It. New York: W. W. Norton & Company)

一要素

 IQは知能の一要素にすぎない。実践的知能や創造的知能はIQテストではうまく評価できないが,これらの知能を考慮に入れれば学力と職業上の成功の両方をよりよく予測できる。これらの種類の知能に対する尺度をうまく改良すれば,IQテストによって測られる分析的知能と同じく重要なものになるかもしれない。
 どんな種類の知能をどのように測定したとしても,学業や職業上の成功を予測するための指標の1つにしかならない。情緒的なスキル,自制,そしておそらく動機づけや性格に関係する他の要因も重要だ。
 このようにIQの重要性には種々の限定条件があるが,さらにつけ加えれば,ほとんどの企業は社員に,一定レベル以上であれば知能をことさら求めていないようだ。それよりも,労働倫理,信頼性,自制,根気強さ,責任感,コミュニケーション力,チームワーク,変化に対する順応性を重んじているという。
 つまり,IQが知能のすべてではないし,また,IQのスコアよりも幅広く知能を定義したところで,学業上の成功や職業上の成果に影響を及ぼすただ1つの重要な要因ということにもならない。さらに,学業上の成功だけで職業上の成功を予測することもできない。

リチャード・E・ニスベット 水谷 淳(訳) (2010). 頭のでき:決めるのは遺伝か,環境か ダイヤモンド社 pp. 22-23
(Nisbett, R. E. (2009). Intelligent and How to Get It. New York: W. W. Norton & Company)

IQが予測するもの

 IQのスコアからは,どんなことが予測できるだろうか?まず何よりも,学校での成績を予測できる。100年以上前にアルフレッド・ビネーがIQテストを考案したのはまさにそのためだったので,これは驚くにはあたらない。ビネーは,正規教育に向いておらず特別な処置を必要とすると思われる子供を選り分けられるようにしたいと,IQテストを考え出したのだった。今日,典型的な知能テストのスコアと成績との相関は,およそ0.50だ。かなり大きな値だが,学力を予測するうえで,IQテストでは測れない変数をいくつも考える余地はある。
 IQテストはおもに「分析的知能」と呼ばれるものを測っていて,「実践的知能」とは区別される。分析的問題は,たいてい他者の手でつくられ,明確に定義されていて,解くために必要な情報はすべて問題文のなかに盛り込まれており,正しい答が1つしかない。そして,普通は決まった1つの方法でしか答にたどり着けず,多くの場合日常の経験と密接に関連しておらず,その問題自体は特別興味深いものでもない。
 「実践的問題」はそれとは対照的に,解くべきものがあることを認識しなければならないが,通常はっきりと定義されておらず,解くうえで関係する情報を探さなければならないことが多い。また,考えられる解が何とおりかあり,たいていは日常の経験に潜んでいて,解くためにはそうした経験がなければならず,そして内発的動機づけを必要とする。

リチャード・E・ニスベット 水谷 淳(訳) (2010). 頭のでき:決めるのは遺伝か,環境か ダイヤモンド社 pp. 16-17
(Nisbett, R. E. (2009). Intelligent and How to Get It. New York: W. W. Norton & Company)

日本語訛り

 英国で比較言語学を学んだとき,最初に教わったことがあります。それは,「いい英語,悪い英語,というのはない」ということです。
 英国は小さな国ですが,地域によって英語の発音には極端な発音の違いがあります。ランカシャーの英語,コックニーの英語,アイリッシュの英語,スコティッシュの英語,これが同じ言語か,といいたくなるほどそのアクセントは多彩です。しかし,それはその地域,地域での「正しい」英語なのでして,ランカシャーの英語が正しくてアイリッシュのそれが間違っている,ということはありません。その,優劣も存在しません。「マイフェアレディー」のヒギンズ教授はそうは考えなかったのですが,最後にイライザの心に打たれて「きれいな英語」の愚かさに気づくのです。
 クイーンズイングリッシュも,ニューヨークの英語も,その地域での「アクセント」であり,それがインド人の英語やエジプト人の英語に勝っているわけではないのです。
 ニューヨークの病院では,多くの民族が働いています。フィリピンから来たナース,アラブ諸国から来た技師,ハイチから来た医者,などなど多彩多様です。日本から来た医師で,ときどきフィリピンやアラブ訛りの英語を馬鹿にする発言をし,私を悲しい気分にさせることがあります。また,自分の英語をこっけいなくらいにアメリカ風に矯正しようとして失笑を買う場合もあります。日本訛りの女性の英語はむしろ「チャーミング」だといって好まれる場合もあるのに。もっとも,私のような日本の男の英語がチャーミングに響いた例は未だ,ありません。

岩田健太郎 (2003). 悪魔の味方:米国医療の現場から 克誠堂 pp.208−209

米国への関心

 私がよく指摘するのですが,米国医療に対して日本の方は非常に高い関心をもっていらっしゃいます。いや,もとい。米国医療というより,米国のすべてに日本は高い関心を抱いています。米国のやっていることは必ず日本に起こる,といわれて久しいですが,この両者はどちらかというと日本の片思いで,米国側には全然その気はない。かいがいしくも,日本の人たちは米国からはちょっとよくして貰って歓喜したり,そっぽを向かれてしょげ返ったりします。まあそれだけ日本の皆さんが米国医療に関心を持っていただいているので,私がこんな駄文を書いていても,読んでくださる方がたくさんいるわけです。私はこの傾向に感謝すべきなのでしょう。

 ところが,先進国中ここまで米国に高い関心のある国というのは珍しく,これが医療の問題になると全く無関心です。米国は医学界で世界の最先端をいっていることは自他ともに認めることではありますが,いったいどうしたことでしょう。

岩田健太郎 (2003). 悪魔の味方:米国医療の現場から 克誠堂 pp.167

脂肪と肥満

 そもそも,炭水化物などの穀物を摂取する文化が定着したのは人類の農業化が始まってからのことです。それまでは人類は動物を取り,植物を摘んで口に運んでいましたが,パンや米は主食ではありませんでした。そうなったのは,ほんの1万年前のことです。
 1825年,フランスの食生理学の大書,「味覚の生理学」で,著者のサバランは,パンや米,ジャガイモを摂り過ぎると太る,と現在とはまったく逆の説を唱えています。そして,現在でもこの説を覆す「科学的データ」は存在しません。
 大家サバランの勧めに従い,19世紀終わりから,20世紀の後半まで,米国民は,「蛋白を取ることはよいことだ」と蛋白と脂肪分たっぷりの栄養食を奨励され続けてきました。古い映画を見ると,馬鹿でかいステーキとかバターたっぷりのパンケーキとか,みんな食べるわ食べるわ,イヤー昔の米国人って本当に食べていたんだなあ,と感じてしまいます。
 が,方向転換は思わぬところからやってきました。1977年のことです。米国上院委員会は「米国食生活の目標」という報告書を著しました。ここで「米国人は脂肪の摂取を減らすべきである」という勧告がはじめてなされたのです。それを裏付けるデータはありませんでしたが,肥満とともに高血圧や糖尿病が深刻な問題となってきたこと,肥満と脂肪は密接に関係があるらしいということが古くからいわれてきた(どちらも英語ではFATといいますね!)こと,このような理由があって,政治が食生活の方針を決定した,といえましょう。

 その後,脂肪の摂取と肥満との関連を証明するために,米国の研究機関,NIHは何億ドルという研究費を費やしました。が,このような結論は科学的に導き出すことができなかったのです。しかし,NIHは別のデータを手に入れました。
 コレステロールの高い人にコレステロールを低くする薬を与えると,心臓での病気で死ぬ確率が低くなることを発見したのです。これはこれでエポックメイキングな発見でした。
 さて,NIHは考えました。コレステロールを低くする薬で心臓病が抑えられるのなら,コレステロールの少ない食事でも人間は健康になるに違いない。「だから」コレステロールの,つまりは脂肪の少ない食事を取れば,人間は健康になる,さらには体重も減るかもしれない,とこういう三段論法(?)です。
 無論,論理に飛躍がある,と批判した科学者もいましたが,黙殺されました。

岩田健太郎 (2003). 悪魔の味方:米国医療の現場から 克誠堂 pp.126−127

科学とドグマ

 米国でも日本でも,栄養学は科学とドグマが混在しています。「1日◯◯品食べましょう」とか「栄養は炭水化物中心に」といった今まで使われてきたスローガンには必ずしも科学的裏づけがあるわけではありません。栄養学の権威が「これがよい」と信じて提唱してきた一種のプロパガンダといえなくもありません。

 なにしろ,食べ物の研究は難しい。たくさんの被験者を採用して食事の内容と肥満について調べる,という研究を考えてみてください。

 正確に食べ物の成分を決定した実験食だと,よりよいデータが出ます。が,おそらく多くの人は実験食だけで何年も過ごすことに耐えられないでしょう。ストレスがたまり,日常生活にも変化がおき,食べ物以外の要素が肥満に影響を与えるかもしれません。逆に,比較的自由に食事を取らせた場合,今度はデータの正確性が犠牲になります。動物実験のデータは必ずしも人間に応用できるというわけでもありません。栄養学の実験のクオリティーは比較的低くなりがちです。

 その結果,現在の栄養学が推奨する食事の摂りかたは,純粋に科学的な根拠によるもの,というよりは各界の権威によるフィロソフィー,哲学とでも信念とでもいうのでしょうか,に依存しがちだといいます。アトキンス・ダイエットをあざ笑う人は多いが,それに反駁するには十分なデータは実は,ない。

岩田健太郎 (2003). 悪魔の味方:米国医療の現場から 克誠堂 pp.124−125

個人のミスではない

 すでに多くの研究によって,医療ミスは「個人のミス」にその原因を追求しても意味のないことだというのが常識になっています。日本で聞き及ぶように,医療のミスに対して「研修医個人を訴える」というような事例はナンセンスです。研修医がミスをした背景には,その監督不行き届き,チェック機能の破綻など,システム面での問題も間違いなくあるからです。このようなトカゲの尻尾切りをしていても根本的な問題の解決にはなりません。ひどい目にあった患者さんから見れば,目の前の医師をこらしめれば敵討ちにはなるかもしれませんが,そのようなむなしいカタルシスを得て,どうしようというのでしょう。
 と,いう話をニューヨークの友人にしたら,「馬鹿だな。研修医なんて金持っていないんだから,訴えたってしょうがない。訴えるのなら当然金のある病院だろ?」だそうです。

岩田健太郎 (2003). 悪魔の味方:米国医療の現場から 克誠堂 pp.84

国民の意向

 カリフォルニアから研修に来ている医学生がこういいました。「こんな患者さんのために,私の払っている税金が使われているなんて,たまらないわ」
 まじめで,優秀な医学生ですが,彼女は自分のコメントが別に問題だとも考えていないようです。また,聞いていたチームの仲間もこの意見にはおおむね賛成のようでした。
 要するに,米国の人たちは,こういう気分なのでしょう。がんばって所得を得たものが,成功したものだけがそのがんばりに報われる権利がある。薬を使ってエイズになって,英語を話すインテリジェンス(?)も努力も見られない患者なんかに,自分たちががんばって稼いだ税金を使われるのはフェアではない。米国流の正義感から,彼らはこう考えているようなのです。
 いくらヒラクリや他の議員ががんばって米国に皆保険制を導入しようとしても何度も何度もつぶされるのも,製薬会社とコネが強く,弱者には冷たいといわれる共和党が2002年の中間選挙で大勝したのも,要は国民がそういう国家を求めている,という見方ができると思うのです。無論良心的な人たちは眉をひそめていると思いますが,所詮政治は数には勝てません。パタキ氏の支持率も最近ジリ貧ですが,彼の医療政策が(州の財政難と伴って)批判されている,という面はあるでしょう。
 一国の医療のスタイルは,つまるところその国に住む人たちの気分,志向,そして嗜好が大いに反映されていると思います。日本の医療にもし問題があるとしたら,そこには日本に住む皆さんの気分の反映を見ることができるのかもしれませんよ。

岩田健太郎 (2003). 悪魔の味方:米国医療の現場から 克誠堂 pp.38

決め打ち

 日本のマスメディアの方からよく米国の医療制度について質問を受けます。このとき,半分かそれ以上の方は,米国の医療制度が日本のそれより優秀だ,という前提に基づいて取材にいらしています。中にはそういう結論を立てておいて,私の所にインタビューにいらっしゃる,という本末転倒な方もいます。結論が出ているのなら,私のところなんぞに来なくてもいいのです。真実とは,分かるまでは不問にしておくもんですが。
 私が「いや,そうでもないんですが」とやんわりたしなめると,食って掛かるように「そんなことはないでしょう。やっぱり日本の厚生労働省はだめでしょう」みたいな結論に強引に持っていきたがる。困ったもんです。

岩田健太郎 (2003). 悪魔の味方:米国医療の現場から 克誠堂 pp.21

まずやってみる

 そんな僕を,うらやましいと言う若い人たちがいる。
 自分がやりたいことが見つからないからだそうだ。僕はそんなことを思った経験もないから,本当のところは,そういう人たちの気持ちはよくわからない。
 でも,もし僕が彼らになにかアドバイスできるとすれば,世の中というのは,自分が動かないことには,絶対なにも起こらないということだ。
 だから,やりたいことが見つからないと嘆く前に,いろんなことをやってみたらいい。そして,少しでも興味をひかれたものがあったら,それを一生懸命続けてみることだ。
 なんでもそうだけど,ずっと続けているとうまくなる。うまくなると,またおもしろくなってきて,さらに一生懸命やろうという気になってくる。
 そうやって,一人前になっていくんだと思う。

志村けん (2002). 変なおじさん[完全版] 新潮社 pp.349-350

一段低く

 笑いが好きな日本人だけど,どうしても笑いの世界は低く見られる。ドラマでは人を何人も殺したり,食べ物を粗末にしても,なにも言われない。お笑いではちょっとでも食べ物を変に使うと,「もったいない」とか「教育に悪い」とか。おかしいよ。

志村けん (2002). 変なおじさん[完全版] 新潮社 pp.262

努力しろ

 この世界でずっとやってて思うのは,なんでも人のせいにする連中が本当に多いってことだ。だいたいダメになると,「あの時なあ……」「あれがなあ……」って人のせいにする。
 「あいつはいいよな」って,いつも人をうらやましがってる連中も多い。僕らがセットを組んでコントをやってると,「志村さんはいいですよね,セット組んでもらって」だって。
 バカヤロー!ここまで来るのに何年かかってると思ってんだ。
 コツコツやってきたのが認められたから,セットをつくってコントができるんだ。
 じゃあ,お前らがセットを使っておもしろいことができるのかといえば,絶対できっこない,急には。なんでも,ものには順番がある。人のことをとやかく言う前に,まず自分がセットを作ってもらえるように,努力しろって。
 僕だってなんとか生き残ろうと思って,人が遊んでる時は一緒に遊んで,向こうが酔っぱらって寝てる間に,こっちは寝ないでお笑いの勉強をしてた。ネタを考えたり,ビデオを見ながらメモをとったりとか。
 人と同じことをしてたら,生き残るのは難しい。

志村けん (2002). 変なおじさん[完全版] 新潮社 pp.176-177

道は自分で

 結局,道は自分で開いていくしかない。
 何もしてない奴が,「じゃあ,お前ちょっとやってみな」って言われることはあり得ない。ふだんから何かをやり続けているから,誰かの目にとまって声をかけられるんだ。
 でも,それでコントの1本や2本つくれてもダメで,テレビの世界はとにかく数をたくさんつくれないと役に立たない。そのためには,ムダなことでもなんでも知ってた方がいい。知らないと損をすることはあっても,知ってて損をすることはないから。

志村けん (2002). 変なおじさん[完全版] 新潮社 pp.176

食い物にされる

 この間も,若手で「今,コントをやっているのは踏み台で,いずれはクイズとかの司会をやりたい」と言っているのがいて,「へえ,そいう考え方もあるんだ」と驚いた。
 たしかに,やる方はコントより楽だし,テレビ局の側も使い勝手がいい。
 でも,そうやって便利屋みたいに使われてると,結局はテレビ局に食い物にされてしまう。かといって仕事をセーブすると生意気だと言われるし,逆に節操なく出続けるとすぐに寿命が尽きちゃう。若い芸人にとっては,難しいところだ。
 今から考えれば,僕の場合は,ドリフでずっと週1本だけのペースでやってたことが,逆に長続きできた大きな理由だったと思う。

志村けん (2002). 変なおじさん[完全版] 新潮社 pp.174

メインが必要

 今の若い芸人の番組なんかだと,最初のメインがなくて,遊びの部分ばかり多くてゲームになってる。本当は何をしたいのかが,どうもよくわからない。そもそも芯になる,やりたいものがないのか,15分とか20分の長くてしっかりしたコントをつくるのが大変だから逃げてるのか。そのあたりが,僕には不満なところだ。
 でも,そのつらいところをしっかりつくっておくと,ほかのコーナーが生きてくる。『加トケン』でも投稿ビデオのコーナーがおもしろいってよく言われた。視聴者がホームビデオで撮った楽しいビデオを紹介するやつだ。僕が考えた企画だけど,TBSがそれをアメリカの放送局に売ったら,向こうでも人気番組になって,それからアメリカのおもしろビデオが日本に入ってくるようになった。TBSでは,今でもその系統の番組をやっているけどね。とにかく,あの投稿ビデオは『全員集合』だと中盤の合唱隊にあたる,息抜きのコーナーというつもりで発想したものだ。
 そんな遊びのコーナーが印象に残るのは,逆に言うと,メインのコントをしっかりつくってあったからだ。見てる方は,メインがおもしろいのは当たり前だと思ってるから。

志村けん (2002). 変なおじさん[完全版] 新潮社 pp.85-86

ドリフ発のもの

 今ではいろんなバラエティ番組で使われているが,壊れるものの素材にバルサを使ったのも『全員集合』が最初だと思う。模型飛行機で使う薄い板だけど,イスがバリって壊れたり,壁が壊れるコントで素材として使うようになった。以前は発泡スチロールだったけど,それだと粉が飛んじゃうので,美術さんとかと相談して,バルサを使うようにしたんだ。でもあまり『全員集合』で大量に使うから,一時期は模型飛行機用のバルサがなくなったとも聞いた。
 壁にぶつかる時に,すごい音を出すためにトタン板を使うという工夫もした。人がぶつかるスペースの部分だけをトタン板にすると,バーンってものすごい音がする。普通の厚いベニア板だと音があまりしないから,一部分だけをトタンにして,色はベニアの部分と同じものを塗ってわからないようにする。
 壁に顔をぶつける時の音の出し方にはコツがあって,顔が壁に当たる瞬間に,両手のひじから先の部分とつま先を先に壁にぶつけて音を出す。顔を実際にぶつけるわけにはいかないからね。当たった時の音がすごいと,それだけで本当に壁にぶつかったように見える。でも本当に笑いをとるのはリアクションだ。すかさず顔を押さえて「痛えー!」とやる。
 音を響かせる工夫といえば,ころぶコントの時に,床に所作台を敷く方法も『全員集合』で始めたものだ。所作台は歌舞伎で使うもので,靴なんかで乗ったら絶対に怒られるような高価なものだけど,ころぶ場所にだけそれを敷くと,バターンってすごい音がする。
 忠臣蔵のコントで松の廊下の場面をやる時に,加藤さんが後ろから長袴を引っ張られて倒れるのがあるけど,そこですごい音が出るのは所作台を敷いてあるからだ。
 それに普通の材質はそれほど滑らないけれど,足袋をはいていると所作台はよく滑る。だからすーっと滑ってきて,立った姿勢からドーンところがることができる。そうすると動きも派手だし,音もすごいし,効果満点だ。
 『ドリフ大爆笑』で考えたものだけど,スタジオで水槽を使えるようにしたのもドリフの発明だ。人がドボドボ落ちるギャグで使うやつだ。昔はスタジオでは大量の水が使えなかったけど,スタッフと一緒に工夫を重ねて使えるようにした。最初は小さな水槽で試しにやってみて,だんだん大きくしていった。それを今は,他の番組でも平気で使っている。
 そんなことは,きっと今の若いお笑いの連中は知らないんだろうな。

志村けん (2002). 変なおじさん[完全版] 新潮社 pp.70-71

代わりに

 だいたいワースト番組と言われてたけど,『全員集合』を見てグレたという話は一度も聞いたことがない。番組の中では,子供たちが親に「やっちゃいけない」と言われてることもずいぶんやったけど,それは子供ができないことを僕らが代わりにやったので笑ってるだけで,子供たちはいけないってことは知っている。それを頭っから,汚ないとか思われちゃうと,じゃあ何が面白いんだって言いたくなる。

志村けん (2002). 変なおじさん[完全版] 新潮社 pp.64

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