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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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カーゴカルト

 「カーゴカルト(積荷崇拝)」は,パターンが見出されたもののその隠れた原因について何の根拠もないケースの一例である。たとえば第二次大戦後に南太平洋諸島の原住民が見せた行動がそうだ。彼らはまず日本軍が,のちに連合軍の兵士が,滑走路を作る,行軍する,着陸機を誘導する,決まった様式の服を着るなどしたのを目にした。こうした物珍しい振る舞いと関連付けられたのが,よそ者たちが「カーゴ」と呼ぶ見たこともない物資――缶詰,衣服,車両,銃器,無線機,コカコーラなど――を大量に積んだ巨大な空飛ぶ機械が飛んでくることだった。戦争が終わってよそ者たちが去ると,原住民は自分たちも同じような行動をとれば飛行機がまた飛んでくると考えた。そこで藁とココナッツで滑走路を作り,竹とひもで管制塔を建て,戦時中に出くわした兵士が着ていたような服に身を包んだ。そして木彫りのヘッドホンをかけて椅子に座り,「滑走路」から見よう見まねの着陸信号を送った。彼らはパターン――よそ者があの奇妙な振る舞いをすると豊かな報酬が届く――を見いだし,そこに結び付きがあるのだと,隠れた因果関係があるのだと推論したのだった。だが,推論によって導かれたこの関係は実際には因果関係ではなかった。



デイヴィッド・J・ハンド 松井信彦(訳) (2015). 「偶然」の統計学 早川書房 pp. 30-31


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ゲットー

 とりわけ受難だったのはユダヤ人である。大戦当初のポーランドのユダヤ人人口は9.7%(350万人)であった。ユダヤ人を幽閉するため,四方をコンクリートの高い塀で囲った「ゲットー」が設けられた。その数はポーランドだけで約400に及んだ。総督管区内で最大のゲットーが,1940年4月からワルシャワに築かれた(翌41年には45万人を収容)。ゲットーでは飢餓が日常的であった。ユダヤ人に対するドイツ軍の配給は日にわずか184カロリー(現在の標準的摂取カロリーの10分の1以下)であり,栄養失調から自然死するように仕組まれていた。50万人がゲットーで亡くなったと推定されている。



渡辺克義 (2017). 物語 ポーランドの歴史 中央公論新社 pp. 100


人工言語の目的

 ザメンホフが計画言語を創案する必要を感じたのは,前述のように,複数の民族がいがみ合う後継が日常茶飯事だった故郷の土地柄が影響していた。しかし今日,同じ用語を用いながら敵対関係にある国家も存在するのだから,共通言語があれば事足りるという単純な話ではない。エスペランティスト(エスペラント話者)の中には,島でも購入し,独立国を興し,そこの公用語をエスペラントにしたらどうだろうと考える人もいる。この場合,次世代以降ではエスペラントはピジン・クレオール語化し,ごくふつうの民族語の一つとなることだろう(異言語間コミュニケーションの産物として生まれた言語がピジン語・それが次世代で母語となったものがクレオール語)。そうなれば,複数民族の橋渡し的言語としてのエスペラントの理念は失われることだろう。



渡辺克義 (2017). 物語 ポーランドの歴史 中央公論新社 pp. 88


エスペラント

 エスペラントに懐疑的な人からの質問で最も多いものに,「エスペラントで感情の機微が表現できるのか」「エスペラントに(創作)文学はあるのか」「エスペラントに文化の名に値するものはあるのか」が挙げられる。最初の質問については,「ほぼ可能」というのが私見である。第二の質問に対する答えは「ある」が正解で,それ以外の答えはない。エスペラントでは,その誕生の瞬間から創作文学が存在する。第三の質問に対する答えも「ある」が正解である。130年余りの使用の歴史を経て,エスペラントにも独自の文化がある。一例として,創作文学などに垣間見えるコスモポリタニズムを指摘できるだろう。



渡辺克義 (2017). 物語 ポーランドの歴史 中央公論新社 pp. 88-89


大規模なスト

 1904年2月に勃発した日露戦争はポーランド人に多大な影響を及ぼした。7月,ピウスツキとフィリポヴィチは来日し,日本政府・軍部に対し,ロシアに敵対する日本とポーランドが軍事協力をすることは理にかなうと説明した。一方のドモフスキは,社会党の動きを事前に察知し,一足早く五月に来日し,日本政府・軍部に,ポーランドで革命が起こるような事態は日本にとって得るところがないと説得を試みた。日本側は結局,ポーランド社会党からの要請を断っている。ドモフスキの説得工作がどの程度影響したかは不明であるが,結果的には国民民主党側の勝利であった。


 1905年,第一次ロシア革命が起こると,これに呼応するように,ワルシャワ近郊やウッチの工業地帯を中心に約40万人がストに入った。



渡辺克義 (2017). 物語 ポーランドの歴史 中央公論新社 pp. 69-70


人権闘争の3文書

 アメリカ合衆国第三十九代大統領ジミー・カーターは,1977年12月にポーランドを訪問した際,歓迎式でこの二人の偉人に触れ,次のように述べた。



 南北関係,東西関係は変化していますが,ポーランドとアメリカとの絆は歴史が古く,かつ強固なものです。


 ジョージア州の私たちの自宅近くで,両国家の偉大なる愛国者カジミェシュ・プワスキは,アメリカ独立戦争で騎馬隊を指揮し,致命的重傷を負いました。私の息子の妻は,ポーランド出身のこの偉大なる英雄の名にちなんだ,ジョージア州プラスキ郡の出身です。


 また,タデウシュ・コシチュシュコには,独立戦争の際の軍事手腕と勇気に対し,我々の初代大統領ジョージ・ワシントンが敬意を表しました。コシチュシュコは,平時にあっては,自由および正義に貢献したことに対し,第三代大統領トマス・ジェファソンから称賛されました。


 こうした勇敢な人物は,人権闘争における三つの重要な文書が生まれる時代に,アメリカ人の側に立って戦ったのでした。三つの文書とは,一つはアメリカ独立宣言であり,二つ目はフランス人権宣言,三つ目はポーランドの五月三日憲法であります。



渡辺克義 (2017). 物語 ポーランドの歴史 中央公論新社 pp. 42


効率的な使い方

 テロリストたちは長い時間をかけた討論の末に,自分たちの立場からして核爆弾の最も効率的な使い道は,影響力の行使だという結論に達するだろう――そうなってほしいと願っている。使える核兵器を保有することは,それを立証できるなら,国家の地位に何かを付け加えることになる。彼らが実際に爆発させずに立証することを願うばかりだ。軍事標的に向けて発射するぞと脅し,その脅しが成功したら使わずにおく方が,実際に使って破壊行為におよぶよりも効果的である。テロリストといえども,むやみに人を殺すより,主要国を釘付けにしておく方が得策だと考えるはずだ。



トーマス・シェリング 村井章子(訳) (2016). ミクロ動機とマクロ行動 勁草書房 pp. 304


選好と寄与

 最も単純なモデルは,次のように記述できる。何らかの母集団の統計値に個人は2通りの方法で関与する。第1は,その統計値について何らかの選好を持つこと。第2は,その統計値に何らかの寄与をすることである。ふつう,両者は別々のものである。つまり,中年であることと中年の人と仲よくなりたいかどうかは別問題だし,金持ちであることと金持ちと付き合いたいかどうかは別問題だ。とはいえ両者の間に相関関係が存在することもある。


 相関性が存在しないなら,選好が同じだという理由で集まった人たちは,母集団のサンプルにすぎない。この人たちには,その選好以外には集団を形成する理由が何もない。


 選好と寄与が負の相関関係にあるときは,回帰する傾向が見られる。つまり,ある集団の何らかの統計値が平均から乖離していずれかの極値に寄っているとき,この集団は,反対の極値に寄っている集団に合流する傾向を示し,後者も前者に合流する傾向を示す。たとえば,太った人は痩せた人と,痩せた人は太った人と一緒にいたい,というふうに。この場合,太った人と痩せた人を分離しようとしても,持続しない。


 選考と寄与に正の相関関係が成り立つ場合には,分離が発生しうる。



トーマス・シェリング 村井章子(訳) (2016). ミクロ動機とマクロ行動 勁草書房 pp. 215-216


一部の人々の負担

 中には,ごく一部の人が行動すれば最悪の事態を防げるケースがある。予想される過負荷がほんの数パーセントであれば,半数の人が自主的な節電を実行するだけで,停電は避けられるだろう。しかし残り半数が節電しないのはじつに腹立たしい。とりわけ不快なのは,他の人が節電しているから停電にはならないとすっかり安心し,本来なら多少は謹んだかもしれない電力の無駄遣いをとんと気にしなくなり,兵器で電気をつけっぱなしにしている連中だ。それでも,不快感の価値を過大視しない限り,節電に協力した半数にとってもよい取引になりうる。「フリーライダー」は節電協力者より利得は多いものの,節電協力者も,協力して電力消費量を減らしたおかげで利得を手にしている。



トーマス・シェリング 村井章子(訳) (2016). ミクロ動機とマクロ行動 勁草書房 pp. 149


個人の利益と社会の利益

 私たちが社会と呼んでいるものによる調整や誘導の多くは,個人が考える利益とより大きな全体の利益との不一致を解決するための,さまざまな制度的なしくみから成り立っている。その一部は,市場を介して行われる。所有権,契約,損害賠償訴訟,特許および著作権,約束手形,賃貸契約,多種多様な情報・通信システムがそうだ。また一部は,政府を通じて行われる。公共サービスに充当するための税,個人の権利の保護,気象台の運営(市場で取引可能な気象情報が存在しない場合),交通規制,ゴミのポイ捨てを禁じる法律,南行き車線から事故車を撤去する事故処理班,北行き車線で車を誘導する警察官などだ。組合,クラブ,居住区のように,すでにふるいにかけられた集団では,個人ではやる気にならないが集団としてはやった方がよいことを促すインセンティブ・システムを用意したり,規則を定めたりすることが可能だろう。また各自のモラルが市場や政府規制の代わりを果たし,見返りが約束されればいずれはやるかもしれないことを,良心からやらせることもある。



トーマス・シェリング 村井章子(訳) (2016). ミクロ動機とマクロ行動 勁草書房 pp. 145


社会的な変更の困難さ

 交通信号もサマータイムも,多くの社会的決定が持つ有無を言わさぬ説得力を備えている。度量衡,ネジのピッチ,10進法貨幣制度,右側通行も,個人がとやかく言えるようなものではない。いや政府にしても,たとえば国民を夏は何時に起床させるといったことは,かんたんには思い通りにはできない。時計技術はサマータイムをじつに容易にした。車のハンドルの位置をそろえ,道路標識を整備して,一斉に右側通行に切り替えるよりはるかに容易である。ネジのピッチが浸透する測度は,貨幣の流通速度よりずっと遅い。家具や設備に使われてきたメートル法に準拠しないネジがすっかり姿を消すまでには,まだあと何年もかかるだろう。



トーマス・シェリング 村井章子(訳) (2016). ミクロ動機とマクロ行動 勁草書房 pp. 138


予言モデル

 いますでに,自己実現的な予言のモデルが3種類出てきた。第1は,一方向のプロセスである。ある集団についてある思い込みが存在し,それに従って集団に接すると,その思い込みの通りの結果になる,というケースだ。第2は,教授陣と学生のように,双方向のプロセスである。アラブ人とユダヤ人,将校と下士官などもそうだ。お互いが相手の行動や態度を予想し,その予想に基づいて互いに行動するケースである(たとえばどちらの側も,相手は好機が来れば予告なしに攻撃を仕掛けてくると考えたら,どちらも好機を逃さず予告なしに攻撃することが自衛上必要だと感じるだろう)。第3は,番犬に警察犬を選ぶ例のように,選択を伴うプロセスである。たとえば宴会の幹事をやりたがるのはおしゃべりで社交的な人だと一般に考えられていたら,幹事をしているだけでおしゃべりで社交的だとみなされる。人前で煙草を吸うのは売春婦だけだと一般に考えられていて,売春婦も含めて女性はみなそのことを知っていたら,女性は人前では喫煙しなくなる。実際にそういう時代があった。



トーマス・シェリング 村井章子(訳) (2016). ミクロ動機とマクロ行動 勁草書房 pp. 131


クリティカル・マス

 いま挙げた例すべてに共通するのは,人々の行動が,どれだけ多くの人がその行動をとるか,あるいはどれだけの頻度でその行動をとるかに左右されることである。どれだけ多くの人がどれだけの頻度でセミナーに出席するか,どれだけ多くの人がどれだけの頻度でバレーボールに参加するか,どれだけ多くの人が喫煙するか,二重駐車するか,どれだけ多くの人がどの程度力強く拍手するか,どれだけ多くの人がさびれた地区を離れるか,どれだけ多くの生徒が転校していくか,といった具合に。


 これらの行動を総称して,クリティカル・マスと呼ぶ。社会科学者はこの名称を原子力工学からとった。原子力工学では,原子爆弾に関連してこの言葉がよく使われる。ウラニウムのような物質の中で放射性崩壊が発生すると,中性子が大気中に放出される。中性子が他の原子核に衝突すると,核が分裂して2,3個の中性子が飛び出し,それがまた同じことを繰り返す。ウラニウムが少量の場合には,中性子からすれば空間はほとんど「空っぽ」で他の原子と衝突する可能性はごく小さいため,新たな中性子の放出はごく少量にとどまる。だがウラニウムが大量であれば,衝突する可能性が高くなり,2個以上の中性子を生み出すことになる。さらに,中性子の半分以上が新たに2個の中性子を生み出せるだけの量のウラニウムが存在すれば,この分裂反応は自律的に維持されるようになる。このときにウラニウムの量を「臨界質量(クリティカル・マス)」と呼ぶ。臨界質量を上回るウラニウムが蓄積されれば,1個の中性子が平均して1個以上の中性子を生み出す。爆発的な連鎖反応が起きると(密閉空間の中で火薬1粒の爆発が他の爆発を誘発する現象と似ている),ウラニウムは一瞬で全部消費される(ウラニウムがばらばらに飛び散って反応が止まる場合を除く)。



トーマス・シェリング 村井章子(訳) (2016). ミクロ動機とマクロ行動 勁草書房 pp. 103-104


命題とは

 とはいえ命題にとって重要なのは,その妥当性が定義次第であるにしても,ともかくそれまで私たちが知らなかったことを語っているかどうか,ということだ。あるいは,誰か(その誰かは定義のことなどよく考えないかもしれない)にとって,その人の知らなかったことを語っているかどうか,ということである。この点に関しては,誰でも自分で判断できる。ある命題が,あなたの知らなかったこと,あなたが経験していないことを教えてくれるなら,あなたは一歩前進したことになる。なぜならその命題を通じて,あなたは世界について何かをひとつ知ったことになるからだ――たとえそれが,実証的に裏付けられた科学的事実として普遍化することはできないとしても。たとえば,死亡原因に占める非感染性疾患の割合が50年前より増えたのは,感染性疾患による死亡が減ったからであって,必ずしも他の病気の死亡率が上がったからではない。このことをもしあなたが知らなかったとしたら,この命題に注意を払ったおかげですこし賢くなったわけである。こんなことも知らなかったのかと,少々いまいましく感じるかもしれないが。



トーマス・シェリング 村井章子(訳) (2016). ミクロ動機とマクロ行動 勁草書房 pp. 53-54


椅子取りゲーム

 経済学では,所得と成長,通貨供給量と信用,インフレ,国際収支,資本市場,公的債務の分析にこうした「会計報告」の類いが欠かせない。これらの数字は(分析目的でデータを収集する人に比べると),実施に経済活動に従事している人にとっては,往々にして把握しにくい。


 この状況は,別々の部屋にたくさんの椅子が置かれて大勢のプレーヤーが繰り広げる椅子取りゲームに似ている。人々は個別に行動しており,気づかれないうちに椅子が取り除かれたり,新しいプレーヤーが加わって新たな椅子が追加されたりする。プレーヤーにわかっているのは,すばやくやらないと,音楽が止まったときに坐る椅子がなくて退場させられてしまうことだけだ。だから誰もがせかせかし,のろくさい人がいると苛立つ。椅子の数が人の数より少ないことがつねに頭から離れないからだ。いかにうまくやろうと,音楽が止まったときに必ず何人かは椅子なしになること,どれほど俊敏でも,椅子なしになる人数は変わらないこともわかっている。椅子なしの人を退場させたとき,椅子を減らすのではなく退場者と同数のプレーヤーを加えていけば,退場までにプレーする平均回数を計算することができる。椅子取りが非常にうまくて最後まで退場させられないプレーヤーがいようと,初回で姿を消すプレーヤーがいようと関係なく,平均は数学的に求められる。



トーマス・シェリング 村井章子(訳) (2016). ミクロ動機とマクロ行動 勁草書房 pp. 49-50


個別からの一般化

 社会科学の中でも経済学は,このように個別の例からの一般化が重要な役割を果たす。それは経済学が,価値が等しいものの交換を主に扱うことと関係がある。私が自転車を買うとしよう。私は自転車を手に入れて150ドルがなくなる。自転車屋は自転車がなくなって150ドルを手に入れる。自転車屋の主人は,そのうち90ドルを次の自転車の仕入れに,40ドルを家賃,給料,電気代などに充てる。そして20ドルが利益として自転車屋のものになる。仕入れに支払われた90ドルは,さらに部品,組立工場の賃金,賃貸料,電気代などに充てられ,電気代は燃料,人件費,発電所建設に伴う借入金の金利,配当,税金などに充てられる。こんな具合に他の項目についても内訳を調べることが可能だ。こうしてすべての項目を調べ上げて会計報告をしようとすると,私が自転車に支払った150ドルから生じる利益(所得税・利益課税・社会保障給与税を含む)を150ドルになるまで足さなければならないことがわかる。



トーマス・シェリング 村井章子(訳) (2016). ミクロ動機とマクロ行動 勁草書房 pp. 48-49


重なり合い連動する

 情報ネットワーク,人種の分離,結婚,言語の発達などは,往々にして重なり合い,互いに連動する。小売店やタクシー会社やモーテルの従業員を見ると,均質であることが多い。アイルランド人であれ,イタリア人,キューバ人,プエルトリコ人であれ,あるいは白人または黒人であれ,プロテスタントまたはカトリックであれ,均質であるということは,何らかの目的や設計の存在を示唆する。だが決定因は情報ネットワークである可能性が高い。空きポストに採用されるのは,空きポストが出たことを知っている人だ。空きポストが出たことは,その会社で働いている知人から教えてもらった。その人と知り合ったのは,同じ学校出身だから,近所に住んでいるから,家族を介して,教会あるいはクラブが同じだから,といった具合である。しかも以前から社員による推薦は,新規採用者が望みうる最善の保証に近い。



トーマス・シェリング 村井章子(訳) (2016). ミクロ動機とマクロ行動 勁草書房 pp. 40


クリスマスカードの市場

 クリスマスカードの「自由市場」がなぜ最適の交換に行き着かないのかを疑問に思うなら,答はこうだ。市場ではないのだから,最適な結果を期待する理由がそもそもないのである。自由市場がうまく機能しているとすれば,それは,売買可能な商品を,情報が入手可能な状況で,自由意志に基づいて取引しているという特殊なケースである。天体にしても,ごく特殊な惑星に限れば円軌道を描いている。



トーマス・シェリング 村井章子(訳) (2016). ミクロ動機とマクロ行動 勁草書房 pp. 31


目的を考える方法

 同じ高さになろうとする水だとか,自分と同じ種族を守り,増やそうとする遺伝子といった具合に,意思を持たないものに「目的追求」行動を考えるやり方いは,それなりに利点がある。そこで仮定した動機は,便宜的な表現や示唆的な比喩や有用な決まり文句以上のものになって,記憶に残ることだ。ただし人間が対象の場合,比喩が比喩でなくなり,目的をめざすとか問題を解決するといったイメージに安易に結びつきやすい。このため,およそ見当違いの目的をめざしているとか,目的を知らずに行動しているとか,意識せずに目的を取り違えている,といった可能性を忘れてしまうことがある。また,人々がめざしているとされた目的が達成された場合,その満足感を過大評価してしまうこともある。



トーマス・シェリング 村井章子(訳) (2016). ミクロ動機とマクロ行動 勁草書房 pp. 13


行動には動機が

 科学分野では,またときには社会科学でも,行動には動機があるものと考える。というのも,多くのものがあたかも目的をめざしているかのようにふるまうからだ。たとえば,水は同じ高さをめざす。自然は真空を嫌う。泡は表面張力を最小化しようとする。光は,さまざまな物体を異なる速度で通過して最短距離を進もうとする,といった具合である。だがJ型の管に水を満たし,低い方の先端を閉じて管の中の水が同じ高さに到達できないようにしたら,水が困惑するとは誰も考えない。閉じていた先端を開いて水が噴き出し,床に飛び散ったら,同じ高さになろうとしてあわてるからだと非難する人もいない。同様に,光が最短距離を進むのは急いでいるからだ,とも考えない。なるほど近頃では,ひまわりは太陽光が浴びられないと悲しむと考える人がいる。また,木の葉は光合成を最大化するために,枝上で太陽光を分け与えるような位置を探すとも言われる。林業を営む人なら,木の葉がうまく位置取りしてくれたらうれしいだろう。だがそれは,木の葉のために喜ぶのではない。そもそも,木の葉が自分たちの利益になるようにふるまっているのか,単に酵素の命じるとおりにしているのか,あるいは「目的」とか「~をめざす」といった言葉がまったくそぐわないような科学的な系の一部に組み込まれているのかは,おそらくわかっていない。



トーマス・シェリング 村井章子(訳) (2016). ミクロ動機とマクロ行動 勁草書房 pp. 11-12


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