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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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消去法の欠点

 しかし,消去法による判断は本来,「こうしたい」という意志に合致するものがないとき,あるいは自分でも何をしたいのかわからないときの苦肉の策に過ぎない。決して望ましい判断方法ではないのだ。
 また,消去法による判断ばかりしていると,1つの困った傾向が生じてくる。それは,「どのような結果が出ても満足感が得られないため判断することが面倒くさくなってしまう」ということである。「自分は,これをやりたかったわけではない。予想通りの結果は出たが,別の案を採用していれば,もっとよい結果が得られたかもしれない」。どのような結果が出てもこのような思いが湧いてくるため,消去法による判断では,最終的に満足感や達成感を得ることができない。そして,時間をかけて検討することが無意味に思えて,判断すること自体を避ける傾向が出てきてしまう。

深田和範 (2010). マネジメント信仰が会社を滅ぼす 新潮社 pp.37-38
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意思より無難な意見

 実は,経営者や管理職にしてみれば,意志を示すよりも意見を言っている方が楽である。意志は個人の考えを示すものであるから,失敗した場合には,それを示した本人が責任を追及される。一方,意見は客観的,建前論的なものであるから,失敗した場合でも,よほどのことがない限り,個人の責任は追及されない。つまり,意志を示すよりも無難な意見を述べているほうが,自分の立場や地位を守るためには都合が良いのだ。

深田和範 (2010). マネジメント神話が会社を滅ぼす 新潮社 pp.29-30

こうあるべき

 企業における意志は,主に経営者や管理職によって示される。それは,彼らの個人的な思いによるものもあれば,会議を通じて複数の者の考えを取り入れたものもある。どのような形であっても,誰かが何らかの意思を示さなければ,ビジネスは始まらないし,企業は動かない。
 ところが,経営者や管理職がマネジメント信仰に陥っている企業では,「こうする」「こうしたい」という意思がまったく示されず,その代わりに「こうあるべき」とか「こうするべきではない」という意見ばかりが主張されるようにある。「こうあるべきだ」という意見を言うぐらいなら,実際に自分で行動してみればよいのだが,自分で行動する気がないからか,あるいは成果を生み出す自信がないからか,建前論的な意見ばかりが交わされ,具体的な行動は何一つ起きない。

深田和範 (2010). マネジメント神話が会社を滅ぼす 新潮社 pp.23-24

マネジメントとビジネス

 まず「マネジメント」とは「事業をうまく運営すること」と定義する。単に「事業を運営する」のではなく,そこに「うまく」というニュアンスを絡ませている。事業をうまく運営することは,利益を多く出すこと,あるいは安定的に出すことに他ならない。だから,マネジメントとは,事業をうまく推進するための「知恵」や「手法」であり,それは「理論」として体系化されたり,「制度」として形式化されたりする。
 一方,「ビジネス」とは,「何らかの事業を行うこと」と定義する。「事業」とは,他者に価値を提供して(何かを作るなり売るなりして)利益を得ることを目指す。ビジネスは,人間によって実際に行われているものであり,それが「うまく」行われているかどうかは問わない。つまりビジネスは,ある人間が「意志」に基づき実際に行う「活動」を指している。

深田和範 (2010). マネジメント神話が会社を滅ぼす 新潮社 pp.19-20

預言者

 選択をするということは,すなわち将来と向き合うことだ。1時間後,1年後,あるいはもっと先の世界をかい間見て,目にしたものをもとに判断を下す。その意味で,わたしたちはみな,素人の預言者だと言える。もっとも,わたしたちがよりどころとするのは,火星や金星,北斗七星などより,ずっと地球に近い要因が多いのだが。プロの預言者もやることは変わらないが,スケールがずっと大きく,やり方も巧妙だ。かれらは常識に心理学的洞察と演劇の要素を組み合わせて,未来を「見せる」ことの達人なのだ。奇妙なことに,かれらはとらえどころがないようでいて,実は物質的なようにも見える。かれらのテクニックを見破ることはできないが,手で触り,目で見て確認できる道具を多用することで,予言が科学的根拠をもとにしているという幻想を作り出しているのだ。

シーナ・アイエンガー 櫻井祐子(訳) (2010). 選択の科学:コロンビア大学ビジネススクール特別講義 文藝春秋 pp.317
(Iyengar, S. (2010). The Art of Choosing. New York: Twelve.)

選択は創造

 フランスの数学者,科学思想家のアンリ・ポアンカレはこう言った。「発明とは,無益な組み合わせを排除して,ほんのわずかしかない有用な組み合わせだけを作ることだ。発明とは見ぬくことであり,選択することなのだ」。わたしなら後の文をちょっと変えて,違う説を唱える。「選択とは,発明することなのだ」。選択は,創造的なプロセスである。選択を通じてわたしたちは環境を,人生を,そして自分自身を築いていく。だがそのために多くの材料を,つまり多くの選択肢をやみくもに求めても,結局はそれほど役に立たない組み合わせや,必要をはるかに超えて複雑な組み合わせをいたずらに生み出すだけで終わってしまうのだ。

シーナ・アイエンガー 櫻井祐子(訳) (2010). 選択の科学:コロンビア大学ビジネススクール特別講義 文藝春秋 pp.258-259
(Iyengar, S. (2010). The Art of Choosing. New York: Twelve.)

選択

 訓練を積めば,多すぎる選択に振り回されることなく,選択が約束するものを有利に活かせるはずだ。選択のデータ処理上の要求と,そうでない要求の両方に対応する方法を身につけるには,まず2つのことが必要なようだ。第1に,選択に対する考えを改めること。選択が無条件の善ではないことを,肝に銘じよう。また認知能力や許容量の制約上,複雑な選択を十分に検討できないことをわきまえ,つねに最良の選択肢を探し当てられないからと言って,自分を責めないこと。第2に,専門知識を増やして,認知能力や許容量の限界を押し広げ,選択から最小限の労力で最大限の効果を引き出すことだ。
 しかし専門知識を培うことは,それなりの代償を伴う。外国語を習得するとか,好きな食べ物を見つけるといったことは,不断の生活の中でえきるが,分野によってはかなりの訓練と労力を要するものも多い。その上,チェスの盤面の記憶実験で見たように,専門知識は一定分野にしか通用しない。懸命に努力して専門知識を習得しても,関係のある分野では思ったほど活用できず,関係のない分野にいたってはまったく役に立たないということもままある。万事に精通するのは時間的にも不可能だし,たとえ精通したとしても,労力が報われるとは限らない。自分の人生において,最も汎用性が高く,重要な選択にかかわる分野,大いに楽しみながら学習と選択ができる分野に集中したほうがいい。
 では自分が精通していない分野で,賢明な選択をするにはどうするか?もちろん,精通している人の助けを借りるのだ。とは言え,具体的にどうするかという話になると,実行するのは難しい。選択肢を提供する側にとっては,経験の浅い人に適切な支援を与えつつ,経験者に敬遠されないようにするのは至難の業だ。他方,選択する側にとって難しいのは,選択肢群のどんな特性に注目すれば,より良い選択ができるのか,あるいは混乱するだけなのかを,見極めることだ。
 わたしたちは,自分の好みは自分が一番知っているのだから,最後は自分で選ぶしかない,と思い込んでいる。たとえばレストランのメニューやビデオを選ぶときのように,人によって好みが大きく分かれる場合はたしかにそうだろう。だが総じて言えば,好みは人によってそれほど変わらないことが多い。たとえば退職投資なら,最高のリターンを実現するという目標は,万人に共通する。難しいのは,どうやってその目標を達成するかだ。こんなとき一番手っ取り早いのは,専門家の助言に従うことだ。ただし選択者の側に,専門家が自分の利益を最優先してくれるという信頼があることが,大前提となる。

シーナ・アイエンガー 櫻井祐子(訳) (2010). 選択の科学:コロンビア大学ビジネススクール特別講義 文藝春秋 pp.251-252
(Iyengar, S. (2010). The Art of Choosing. New York: Twelve.)

選択の肯定性

 わたしたちには自分で選択したいという欲求があるため,選択肢がある状態を,心地よく感じる。「選択」という言葉は,いつでも肯定的な意味合いを帯びている。逆に,「選択の余地がほとんどなかった」というのは,選択肢が少ししかない窮地に立たされた不運を弁解,説明する言い方だ。選択の余地があるのが良いことなら,選択肢が多ければ多いほど良いはずだという連想が働く。幅広い選択肢には,たしかに良い面がある。だがそれでもわたしたちは混乱し,圧倒されて,お手上げ状態になるのだ。「もうわからない!選択肢が多すぎる!だれか助けてくれる人はいないの?」。挫折に負けずに,選択肢の氾濫のマイナス面をプラスに変えていく方法はあるだろうか?ありあまるほどの選択肢を前にしたとき,わたしたちの中では何が起こるのだろう?そしてその結果,どんな問題が生じるのだろう?

シーナ・アイエンガー 櫻井祐子(訳) (2010). 選択の科学:コロンビア大学ビジネススクール特別講義 文藝春秋 pp.220
(Iyengar, S. (2010). The Art of Choosing. New York: Twelve.)

コーラとサンタ

 実際,コカ・コーラはいろいろなものを象徴しているが,その1つがクリスマスなのだ。サンタクロースを想像するとき,あなたはどんな姿を思い描くだろうか?赤い服に帽子,黒いブーツにベルトを身に着けた,太った陽気なおじさんが,赤ら顔に満面の笑みを浮かべているイメージではないだろうか?スゥエーデン人画家のハッドン・サンドブロムが,世界中ののどの渇いた子どもたちにサンタクロースがコーラを届けている広告を描くようコカ・コーラ社に依頼されて,このイメージを生み出した。
 「サンドブロムのイラストが登場する前は,クリスマスの聖人は,青や黄や緑や赤のさまざまな服を着ていた」とマーク・ペンダーグラストが著書『コカ・コーラ帝国の興亡 100年の商魂と生き残り戦略』(1993年,徳間書店)に書いている。
 「ヨーロッパの美術作品では,たいてい背が高くやせた人物として描かれていたが,クレメント・ムーアは詩『聖ニコラスの訪問』の中で,サンタを妖精として描いている。だがソフトドリンクの広告が登場してからというもの,サンタは大柄で肉付きのよい,太いベルトと腰までの黒長靴を身に着けた,陽気なおじいさんというイメージが定着した」
 サンタの服がコーラのラベルとまったく同じ色の赤だということに,あなたは気づいていただろうか?それは偶然ではない。コカ・コーラ社はこの色の特許を取得している。サンタクロースは明らかに,コカ・コーラの宣伝マンなのだ。

シーナ・アイエンガー 櫻井祐子(訳) (2010). 選択の科学:コロンビア大学ビジネススクール特別講義 文藝春秋 pp.201-202
(Iyengar, S. (2010). The Art of Choosing. New York: Twelve.)

通勤時間のインパクト

 わたしたちが高収入の仕事に強く惹かれるのは,お金がたくさんあれば充足と安全が買えると,熟慮システムに思い込まされているせいかもしれない。充足と安全は,客観的に見て良い結果なのだ。だがこのシステムは,高収入に伴うことの多い,通勤の精神的費用や余暇時間の喪失を計算に入れていないのかもしれない。ダニエル・カーネマンと同僚たちの研究では,通勤は,平均的な人の1日のうちで群を抜いて最も不快な時間であり,通勤時間が1日あたり20分長くなることが幸福度に与えるダメージは,失職が与えるダメージの5分の1にも上るという。素敵な住宅街の,良い学校の近くにある広い家に住むためなら,通勤時間が多少長くなっても構わないと思う人がいるかもしれないが,このようなメリットが,通勤時間が長くなることのデメリットを相殺することは,まずないのだ。

シーナ・アイエンガー 櫻井祐子(訳) (2010). 選択の科学:コロンビア大学ビジネススクール特別講義 文藝春秋 pp.167-168
(Iyengar, S. (2010). The Art of Choosing. New York: Twelve.)

面接の仕方

 たとえば最近ではほとんどの企業が,採用プロセスの一環として,「あなたについて聞かせて下さい」式の古典的な就職面接を行っており,この面接だけで応募者を評価する企業も多い。だが実はこういった従来型の面接は,応募者の将来性を予測する上で,最も役に立たない手段の1つだ。なぜかと言えば,面接官は最初のわずかなやりとりをもとに,無意識のうちに候補者の評価を決めてしまうことが多いからだ。たとえば自分と性格や興味が似た応募者に好意的な反応を示し,面接の残り時間をかけて,その初印象を裏づけるために,ひたすら証拠を集めたり,質問を構成したりするのに終始する。「以前の仕事では高い地位に就いておられたのに,やめられたんですね。かなり野心的とお見受けしましたが?」と,「あまり仕事に打ち込んでいなかったんですね」を比べて欲しい。つまり面接官は,候補者が社員としてふさわしい人材かどうかを明確に示す重要情報を,見過ごしがちなのだ。それよりも,候補者のサンプルを入手するとか,困難な状況設定にどう対処するかを質問するなどの,より構造化された手法の方が,応募者の将来性を測る判断材料としてはるかに優れている。一説には,伝統的な面接の3倍近く信頼性が高いという。

シーナ・アイエンガー 櫻井祐子(訳) (2010). 選択の科学:コロンビア大学ビジネススクール特別講義 文藝春秋 pp.157-158
(Iyengar, S. (2010). The Art of Choosing. New York: Twelve.)

首尾一貫性のジレンマ

 首尾一貫した自分でありたいという欲求は,自分の人生をどう生きるべきかを考えるとき,ジレンマを生むことがある。一方でわたしたちは,一貫性のない行動は取りたくないし,一貫性のない人だと思われたくもない。「あなたのことがわからなくなった」と言われるとき,その言葉には,はっきりと否定的な意味合いが込められている。他人が認め,好感を寄せるようになった自我像にそぐわない行動を取れば,よくわからない人,信用できない人と思われてしまう。だがその一方で,現実世界は絶え間なく変化しているため,整合性にこだわりすぎると融通がきかなくなり,世間からずれていってしまう。

シーナ・アイエンガー 櫻井祐子(訳) (2010). 選択の科学:コロンビア大学ビジネススクール特別講義 文藝春秋 pp.124
(Iyengar, S. (2010). The Art of Choosing. New York: Twelve.)

分類する心

 わたしたちは幼いときから,自分の周囲の世界を,自分の好みに応じて分類する作業を始める。「アイスクリームが好き。芽キャベツはきらい。サッカーは好き。宿題はきらい。海賊が好きだから,大きくなったら海賊になりたいな」。このプロセスは,年をとるにつれてますます複雑になるが,わたしたちが自分自身に対して持っている基本的前提は変わらない。「わたしはどちらかと言えば内向的だ」,「わたしはリスクテイカーだ」,「旅行は好きだけど,短気で空港セキュリティの煩わしさには耐えられない」。わたしたちが目指すのは,自分自身と世界に向かって「わたしはこういう人間だ」と宣言し,それを正当な評価として認めてもらうことだ。究極の目標は,自分自身を理解し,自分の本当の姿を,つじつまの合った形で描き出すことなのだ。
 しかし人間は,一生の間に大いに発達し変貌を遂げる,複雑な存在だから,いつもそう簡単に,自分の積み重なった過去を理解できるわけではない。記憶や活動,行動が積み重なった厚い層の中から,自分の中核を象徴するものを何とかして選び出さなくてはならない。だがそうするうちに,さまざまな矛盾がいやでも目につく。たしかにわたしたちは自分の意志で行動することが多いが,諸事情からやむを得ず行動することもある。たとえばわたしたちの職場でのふるまいのうち,服装の選び方や上司に対する話し方などは,家族や友人に見せるふるまいに比べて,ずっと堅苦しく,保守的なことが多い。わたしたちはこうした食い違いや曖昧さが入り混じったものをふるいにかけて,なぜ自分がそのような選択を行ったかを自覚し,その上で将来どのような行動をとるべきかを決めなくてはならないのだ。

シーナ・アイエンガー 櫻井祐子(訳) (2010). 選択の科学:コロンビア大学ビジネススクール特別講義 文藝春秋 pp.121-122
(Iyengar, S. (2010). The Art of Choosing. New York: Twelve.)

ちょうどよい位置

 実際,私たちが求めているのは,「真の独自性」と言えるほど極端ではないものだ。あまりにもユニークなものには,興ざめする。先ほど紹介した,点の個数を当てさせる実験を行った研究者たちは,同じ実験を方法を少し変えて行った。このときも,前と同じように,一部の協力者には,点の数を実際より多めに推測する多数派に属していると言い,一部には少なめに推測する少数派に属していると伝えたが,残りの協力者には,あまりにも特異な結果が出たため,「過大評価なのか,過小評価なのか,分類不能」だったと告げた。この実験でも,先と同じように過大評価者は自尊心が低下し,過小評価者は自尊心が高まったが,あまりに特異なため分類不能と言われた人たちも,自尊心が急低下したのである。わたしたちが一番心地よく感じるのは,「ちょうどよい」位置につけているとき,つまりその他大勢と区別されるほどには特殊でいて,定義可能な集団に属しているときだ。

シーナ・アイエンガー 櫻井祐子(訳) (2010). 選択の科学:コロンビア大学ビジネススクール特別講義 文藝春秋 pp.115
(Iyengar, S. (2010). The Art of Choosing. New York: Twelve.)

アメリカンドリーム

 たしかにこれまで多くの人がアメリカンドリームに鼓舞されて,偉業を成し遂げている。しかし,アメリカンドリームが夢のままで終わってしまった人も数知れない。アメリカは昔から「チャンスの国」と呼ばれている。そんな時代も,たしかにあったのだろう。だが今日のアメリカでは,スウェーデンやドイツなどの西ヨーロッパ諸国に比べて,親子の所得に強い相関が見られることが,最近の研究で報告されている。つまり,アメリカで成功できるかどうかは,努力よりは,生育環境に負うところが大きいということになる。このような研究報告を,アメリカ人が自国の独自性を過信していること,またはそれ以外の国の人が自国での機会を悲観視しすぎていることの証拠と受け取るかどうかは,意見が分かれるところだ。しかしそれは,人びとの価値観や信念が,重大かつ永続的な影響をおよぼしていることを,たしかに実証している。
 結局のところ,アメリカンドリームが実現可能な夢なのかどうかは,それほど重要ではない。どんな世界観もそうだが,アメリカンドリームは,全国民の理想を形作ったという点で,これ以上ないほど現実的な力なのだ。アメリカでは,アメリカンドリームの語りが,国民1人ひとりの人生の物語の礎になっている。アメリカンドリームの力を本当の意味で理解して初めて,なぜほかの夢を掲げる国や文化が,選択,機会,自由についてまったく異なる考え方を持っているのか,その理由を理解することができるのだ。

シーナ・アイエンガー 櫻井祐子(訳) (2010). 選択の科学:コロンビア大学ビジネススクール特別講義 文藝春秋 pp.102
(Iyengar, S. (2010). The Art of Choosing. New York: Twelve.)

自分だけは例外

 わたしたちは大勢に従うときでさえ,自分だけは例外だと思っている。自分は大勢に同調しているわけではなく,自分だけの独立した考えで決定を下していると思っているのだ。言い換えれば,自分の行動が,一般的な影響要因や日々のできごとに,それほど左右されないと考えているということになる。つまり,意識が高いのだ。

シーナ・アイエンガー 櫻井祐子(訳) (2010). 選択の科学:コロンビア大学ビジネススクール特別講義 文藝春秋 pp.112
(Iyengar, S. (2010). The Art of Choosing. New York: Twelve.)

インシャラー

 個人の力だけでは世界を動かせないという認識は,アラブの慣用句,「インシャラー」(神の思し召しがあれば)にも表れている。イスラム教徒は,未来のことを口にするとき,おきまりのようにこの言葉を言い添える。たとえば「また明日,インシャラー」というふうに。また日本で,困難な状況や気の進まない仕事に立ち向かう人たちがよく口にする,「しかたがない」という表現にも,この認識が表れている。個人は決して無力ではないが,人生というドラマの一登場人物に過ぎないのだ。
 このような多様な物語がおよぼす影響を明らかにする方法の1つに,成功や失敗にどのような解釈が与えられているかを検証する方法がある。英雄や悪人について,どのような物語が伝えられているだろうか?北山忍とヘイゼル・マーカスほかの研究者は,2000年のシドニー・オリンピックと,2002年のソルトレークシティ冬季オリンピックでのメダリストの受賞スピーチを分析した。その結果,アメリカ人は成功要因を,個人の能力や努力という観点から説明することが多かった。「ただ集中を維持することだけを考えました。自分の実力を世界に見せつける時が来たと……自分に言い聞かせたんです。『いや,今夜の主役は俺だぞ』って」。他方日本人選手の多くは,自分を支えてくれた人たちのおかげで成功したと考えていた。「世界最高のコーチと,最高のマネージャー,応援してくださった方々——みなさんのおかげで金メダルがとれたんだと思います……自分だけの力じゃありません」。

シーナ・アイエンガー 櫻井祐子(訳) (2010). 選択の科学:コロンビア大学ビジネススクール特別講義 文藝春秋 pp.84
(Iyengar, S. (2010). The Art of Choosing. New York: Twelve.)

ショーは続く

 夫婦をそもそも引き寄せたのが恋愛であっても,取り決めであっても,所帯を持ち,子どもを育て,互いにいたわり合うという日々の習慣的行為は,変わらないように思われる。それにもちろんどちらの結婚でも,幸せだと言う人もいれば,そうでない人もいる。どちらの集団も,同じような言葉を使って,自分の感情や経験を表現するかもしれない。だが人が幸せをどのように定義し,どのような基準で結婚の成功を判断するかは,親や文化から受け継いだスクリプトによって決まる。取り決め婚の場合,結婚の成功が主に義務の達成度で測られるのに対し,恋愛結婚では,2人の感情的な結びつきの強さと持続期間が,主な基準になる。このことが意識されていようがいまいが,夫婦がどのように感じ,その結果どのような行動を取るかは,理想的な結婚生活のあり方についてかれらが持っている前提に影響されるのだ。結婚の成功にまつわる1つひとつの語りに,「こうあるべき」という共通認識と,その達成度を測る独自の基準がつきまとう。そしてこうした語りは最終的に,結婚に至る道をしつらえるだけでなく,1月,1年,あるいは50年も続くかもしれない結婚生活の完全な台本を用意してくれるのだ。もちろん即興でやる人もいれば,台本を半分破り捨ててしまう人だっている。だが何が起ころうと,ショーは続けなければならないし,続いていくのだ。

シーナ・アイエンガー 櫻井祐子(訳) (2010). 選択の科学:コロンビア大学ビジネススクール特別講義 文藝春秋 pp.71-72
(Iyengar, S. (2010). The Art of Choosing. New York: Twelve.)

結婚形態と熱愛度

 インドのラージャスターン大学の心理学者ウシャ・グプタとプーシパ・シングは,この問題を掘り下げる価値があると考えた。そこでインドのジャイプール市で,50組の夫婦を対象とした調査を行った。このうちの半数の夫婦が取り決め婚,残りの半数が恋愛結婚で,結婚期間は1年から20年まで開きがあった。取り決め婚と恋愛結婚を比べた場合,どちらかが他方より,結婚の至福を強く味わっているのだろうか?
 まず協力者全員に,ルービンの恋愛尺度に回答してもらった。この尺度は,たとえば「夫/妻には何でも打ち明けられそうな気がする」「(あの人)なしでいるのはとても辛い」といった項目について,どれだけ自分の気持ちに当てはまるかを数字で答えさせ,恋愛感情の強さを測るものだ。この結果を,恋愛結婚と取り決め婚という側面からと,結婚期間の長さという側面から分析した。ふたを開けてみると,恋愛結婚をした夫婦のスコアは,結婚期間が1年以内の場合,91点満点中,平均70点だったが,結婚期間が長くなるにつれてスコアは徐々に低下し,10年を超えるとわずか40点でしかなかった。これに対し,取り決め婚の夫婦は,結婚したては平均で58点と恋愛感情はそれほど高くなかったが,期間が長くなるにつれて感情が高まり,10年超の時点で68点になった。
 恋愛結婚は熱く始まるが冷めていき,取り決め婚は冷たく始まるが熱く,いや少なくとも温かくなるということは,あり得るだろうか?たしかにそれならつじつまが合う。取決め婚では,ちょうどルームメイトや仕事仲間や親しい友人の間にきずなが生まれるように,時間がたつにつれて互いのことが好きになるだろうという前提のもとに,共通の価値観や目標を持った2人が引き合わされる。これに対して,恋愛結婚の基になるのは,何といっても愛情だ。出会った瞬間,不思議な力が働いて強く惹かれ合ったという話をよく聞く。そのビビッとくる直感は,2人が結ばれる運命にあるしるしと見なされるのだ。劇作家のジョージ・バーナード・ショーはこう言っている。愛に導かれた結婚によって,2人の人間は「あらゆる感情の中でも最も暴力的で,最も狂気をはらみ,最も人を惑わせ,最もはかない情熱に翻弄される。2人は死によって分かたれるまで,この興奮した,異常な,消耗する状態でいることを誓わされるのだ」。実際,20年連れ添った時点で夫婦の9割が,当初感じていたほとばしるような情熱を失ってしまうことを,脳活動の調査や直接測定が示している。

シーナ・アイエンガー 櫻井祐子(訳) (2010). 選択の科学:コロンビア大学ビジネススクール特別講義 文藝春秋 pp.68-69
(Iyengar, S. (2010). The Art of Choosing. New York: Twelve.)

取り決め婚

 現代の読者にとっては,取り決め婚など,とても考えられないかもしれない。だがこのような結婚の取り決め方は,特異な現象でも,インドに特有の慣習でもなく,過去5千年にわたって世界中で見られた行動規範の重要な一部分だった。古代中国から古代ギリシャ,古代イスラエルの12部族に至るあらゆる世界で,結婚は一般に家族の問題と見なされていた。男女の結婚は,家族間のきずなを生み,強めるための手段だった。近くの見知らぬ部族と婚姻関係を結ぶのも,二国間の政治同盟を強化するのもみなそうだった。結婚の目的は,2人の大人とその子どもで労働を分担する経済的利益のためでもあり,血筋を絶やさず,生活様式の継続性を守るためでもあった。言い換えればこのきずなは,目的を共有することで成り立っていた。結婚した2人を結びつけていたのは,互いに対する義務だけではなく,親族に対する義務でもあった。人々は親族の義務という観念に縛られ,ときには配偶者が亡くなってからもなお拘束された。ヘブライ語聖書[旧約聖書]の申命記には,ある人の兄弟が亡くなったら,その人は兄弟の残した未亡人をめとって養わなければならないと記されているし,インドでは今なおこれに似たしきたりが続いている。前にも述べたように,結婚生活での義務や,結婚を通じた親族への義務が重視された主な理由は,生きていくために親族全員が協力しなくてはならなかったからだ。

シーナ・アイエンガー 櫻井祐子(訳) (2010). 選択の科学:コロンビア大学ビジネススクール特別講義 文藝春秋 pp.65-66
(Iyengar, S. (2010). The Art of Choosing. New York: Twelve.)

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