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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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欲求不満の解消

 アイドルの少女に憧れて,あんなふうに自分もなりたい,と思いついても,誰もがアイドルになれるわけではないだろう。宇宙飛行士になりたいと思っても,もう遅いという年齢の人はいるはずだ。「自分」の可能性がいかに限定されているか,ということはもう嫌というほど思い知っているのが「大人」である。しかし,だからといって,こういうときに「あいつはいいよな,恵まれていて」といくら妬んでも,なんの足しにもならない。
 人によっては,その不可能な目標を「小さく低く表現する」ことで自分の欲求不満を解消しようとする。「アイドルなんて◯◯なだけだ」というような悪口を言い,それで自分はそんなものに興味はないよ,という態度を取る。これは傍から観察していると,勝手に憧れ,勝手に諦め,勝手に妬んでいるわけだから,意味不明というより非常に滑稽な行為なのだが,本人にしてみれば自己防衛の一手段であり,意味はある。愚痴をこぼすことでストレス解消している人も同じだ。それが,その人の「自分」だし,「楽しみ」なのだから,それで良いと思う。他者に迷惑がかからない範囲ならば,問題はない。ときどき,その愚痴をみんなが聞いてくれないからと立腹し,破滅的行為に及ぶ例外的な人がいるけれど,そういう精神はそもそも例外的なレベルであって,その原因の一つを取り除いても,また別の原因で破滅へ向かう可能性が高いだろう。事件が起こるのを遅らせることはできても,根絶することは難しい。

森博嗣 (2011). 自分探しと楽しさについて 集英社 pp.74-75
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お手軽セット

 エッセィというのは,小説に比べれば抽象的である。物語というものが非常に具体的だからだ。他者にとって価値があるだろうことをエッセィでずばり書くのは,もの凄く難しいけれど,プロのもの書きであれば,それを生み出すことが仕事であるから,考えに考え,言葉を選んで書き記すよう努力している。責任は伴うし,誤解される危険もあるから,大いに気を遣い,知恵を駆使して,エッセィの中に大事な一文を置く。これに対して,小説は具体的なので,ずばり価値のある一文でも,べつにどうだって書ける。言ったのは仮想のキャラクタであるから,責任は作者にはない。一般的に通用するかどうかも関係がない。非常に気楽になんでもすらすら書ける。
 ところが,読み手にしてみれば,そうではない。小説の登場人物が口にした言葉には「重み」があると感じるようだ。それは,そのシーン,その人生,その物語という具体的な環境の上に成り立っている「重み」なのだろう。しかし,逆にいえば,それはそれだけの「お膳立て」されたシステムの中にある「お手軽セット」なのだ。小説は感動させるシステムを売り物にしているわけだから,それほど考えなくても,その言葉が読み手の心にすっと入ってくるだろう。そうやって,「楽しさ」が味わえるようにできている。

森博嗣 (2011). 自分探しと楽しさについて 集英社 pp.69-70

短時間で楽しみたい

 小説を例にしてみよう。この頃は,読みやすいことが絶対条件になりつつある。すらすらと抵抗なく読み進められる文章を多くの読者が求めている。ネットのブログに散見されるのは,読みたくて買ったけれど読む時間がないから,どんどん未読の本が増えてしまう,という悩みである(正直なところ,たぶん悩んでいるのではない。プラモデルマニアが,作らないキットを蓄えるのと同じ心理だろう)。「これ,凄く読みやすいから」と人に薦める場合も多い。「読みやすさ」が,小説の評価のポイントの1つになっていることは確かだろう。だが,考えてみたら変な話ではないか。読みやすいことが,何故良いことなのだろうか?
 読みやすい文章もあれば,読みにくい文章もある。書き手と読み手の相性もあるし,絶対的に難解な文章を書く人もいる。しかし,それはそういう個性なのだ。読むのに時間がかかる,ということは悪いことではない(良いことでもないが)。
 できるだけ短時間で楽しみたい,という欲求は,もし楽しめなかったときに,時間的な損失を最小限にしたい,という気持ちから生じるものかもしれない。だから,最初は短時間で体験できるものを選ぶ。これが,楽なものを選ぶ動機の1つといえる。
 しかし,お気づきだと思うが,重要な点を忘れている。それは,時間をかけなければわからない「楽しさ」というものがある,ということ。もっといえば,時間をかけることでしか,本当の楽しみは味わえないのだ。

森博嗣 (2011). 自分探しと楽しさについて 集英社 pp.60-61

通信速度

 昔の若者は,自分を高めるためのアイテムとして,自分の中に取り入れる情報量を重視した。最も簡単なのは「知識」である。自分が好きなジャンルに関して「物知り」になることで,自分を確立しようとした。「オタク」もこれと同じ形態だった(ただ,ジャンルが大人から見て,いかにも子供っぽいものだった,というだけである)。情報を取り込むことは,すなわち自分を変化させることに等しい。これはスポーツなどで顕著だ。練習することで習得するのは運動神経におけるプログラムであり,つまりは情報である。別の言葉でいえば「技」だ。これを手に入れれば,自分をアピールすることができる。他者を振り向かせたり,他者から認められ,有利な立場に立てる可能性が高まる。そうすることで,より気持ちの良い「自分」になれる,というわけである。
 僕が観察する範囲では,最近の若者は少し違っている。自分の好きなジャンルにおいても,それほど情報を集めようとはしない。「技」についても,人にきいたり,ネットで調べたりはするものの,鍛錬や試行錯誤によって習得するまでには至らない。
 おそらく,彼らの目の前に存在する情報が多すぎるからだろう。人間の歴史において,これほど情報が手軽に取り入れられる時代はなかったわけで,情報を自分の中にわざわざ取り込まなくても,そういうものは外部に存在すればいつでも利用できる。これは,スタンドアロンのコンピュータから,サーバを外部に持った分散系システムが発展したことに類似している。彼らが問題にするのは,記憶容量ではなく,通信速度なのだ。

森博嗣 (2011). 自分探しと楽しさについて 集英社 pp.37-38

君らしくない

 だいたいにおいて,「それ,君らしくないね」などという言葉は,それを言う人間の思惑どおりではない,というだけの意味で使われる。単に,「そいういうの,俺は気に入らない」という言葉と置き換えても良い場合がほとんどだ。「君らしくないね」と言えば,「自分らしくあらねばならない」と考えている人間にはダメージになる,と考えて発言しているわけだが,「何故,自分らしくなければならないのか」という理由が皆無であるから,効力がない。「君らしくない」と言われたときには,「僕はね,実は僕らしくないんだ」くらいに答えておけばよろしい。

森博嗣 (2011). 自分探しと楽しさについて 集英社 pp.31

自分を探したい人

 あの人は楽しそうだ,あの人のしていることを自分もしてみよう,と考える。好きな人がやっていることを自分も試してみる。こうして何度か信じて,実際に少しだけ試してみたものの,どうもしっくりこない。もしかして,自分には合わない対象だったのではないか。それとも,自分にはなにか欠陥があるのだろうか。そんな試行錯誤を繰り返しているうちに,少し体調が悪くなったり,疲れてしまったりして,もうなにもかも嫌になる。なにもしたくなくなってしまう。このさき,どうしたら良いのかわからなくなってしまう。結局,そういう人が,「自分を探したい人」になるのではないか。

森博嗣 (2011). 自分探しと楽しさについて 集英社 pp.6-7

ハイリスクな選択

 あなたがもし就活を控えた大学生なら,「安定した大きな会社」はじつはもっともハイリスクな選択かもしれません。いったん伽藍の世界に取り込まれてしまうと,40歳(あるいは35歳)の転職可能年齢を超えると人的資本が会社のリスクと一体化してしまい,どれほど理不尽な状況になってもそこから逃れることができなくなってしまうからです。
 そんな暗澹とした未来に比べれば,たとえ不安定に見えたとしても,汎用的な知識,技能,職歴,資格を獲得できる仕事のほうがずっとマシです。外資系やベンチャー企業だけでなく,中小企業でも,探してみればそうした機会はいくらでも見つかるでしょう。
 そもそも「適職」などというものは,実際に仕事をしてみなければわかりません。そう考えれば,自分のキャリアをひとつの会社に限定するのではなく,転職を前提として,もっとも得意なこと(向いていること)を探すほうがずっと効率的です。そしていったん「適職」を決めたならば,会社ではなくその仕事に自分の人的資本のすべてを投入すべきです。それによって業界や消費者のあいだで高い評判を獲得できれば,それがあなたの“スペシャル”になるはずです。

橘 玲 (2011). 大震災の後で人生について語るということ 講談社 pp.163-164

本質は公正と正義

 アメリカの企業では,従業員の給与は資格や職能によって決まります。しかしこれは,一般に思われているように「市場原理主義」的な効率性から生まれた制度ではありません。従業員を年齢や性別,人種で差別してはならないのですから,あとは各自の「能力」で給与に差をつけるしかありません。奴隷制以来の長くはげしい反差別闘争の洗礼を経て,アメリカではこれが唯一,「正義」にかなう雇用制度だとされたのです(だから米国企業は,どの国の社員も同じ人事制度で扱うことができます)。
 日本では完全に誤解されていますが,アメリカの雇用制度は「効率」を基準につくられているのではなく,その本質は「公正」と「正義」にあるのです。

橘 玲 (2011). 大震災の後で人生について語るということ 講談社 pp.150

伽藍とバザール

 伽藍というのは,ひとの集団が物理的・心理的な空間に閉じ込められている状態で,学校のような外部から遮断された世界のことです。それに対してバザールは開かれた空間で,店を出すのも畳むのも自由です。伽藍とバザールでは,「評判」をめぐってまったく異なるゲームが行われています。
 バザールは参加するのも出ていくのも本人の勝手ですから,相手に悪い評判を押し付けようとしてもなんの効果もありません。悪評ばかりの業者は,さっさと廃業して,別の場所や名前で商売を再開すればいいだけだからです。
 その一方でバザールでは,悪評と同様に,いったん退社すると良い評判もゼロにリセットされてしまいます。よい評判は立派な「資産」ですから,それをたくさん持っている業者は,同じ場所にとどまってさらによい評判を増やそうと考えるでしょう。顧客は評判のいい業者から商品やサービスを購入しようとしますから,これがいちばん合理的な戦略なのです(ネットオークションがその典型です)。
 このようにしてバザール空間でのデフォルトのゲームは,できるだけ目立って,たくさんのよい評判を獲得することになります。これが「ポジティブゲーム」です。
 それに対して閉鎖的な伽藍空間では,押し付けられた悪評はずっとついて回ります。このゲームの典型が学校でのいじめで,いったん悪評の標的にされると地獄のような日々が卒業までつづくことになりますから,できるだけ目立たず,匿名性の鎧を身にまとって悪評を避けることが生き延びる最適戦略になります。こちらは,「ネガティブゲーム」です。

橘 玲 (2011). 大震災の後で人生について語るということ 講談社 pp.139-140

地獄への道は善意によって敷き詰められている

 イギリスには,上限金利の規制がありません。貸金業者はどのような金利をつけるのも自由で,短期資金を融通する業者は1日1パーセント程度の貸出金利を設定しています。これを福利で年利換算すると約2700パーセント。日本の上限金利は金額に応じて年15〜20パーセントですから,とてつもない暴利ということになります。
 市民派の主張するように,高い金利が自殺の原因になるのなら,イギリスでは日本よりはるかに多くの自殺者が出るはずです。ところがイギリスの自殺率(6.4)は日本(25.8)の4分の1しかありません。上限金利と自殺に因果関係があるとするならば,金利を引き下げるのではなく,イギリスのように上限金利を撤廃して,すべての金融業者を法の管理の下に置くべきなのです(上限金利規制がなくなれば,闇金は存在しなくなります)。
 イギリスでも過去,上限金利の導入が検討されたことがありました。しかしそのときは,貧しいひとたちが短期資金を借りられなくなるという理由で,消費者保護団体が率先して規制に反対したといいます。その一方で日本では,武富士をはじめとして大手消費者金融がつぎつぎと経営破綻し,個人ばかりか中小企業までもが短期資金を求めて闇金に駆け込んでいきます。
 いつの時代も,地獄への道は善意によって敷き詰められているのです。

橘 玲 (2011). 大震災の後で人生について語るということ 講談社 pp.84-85

家賃

 月額家賃30万円で家を借りていると聞けば,だれもがもったいないと思うでしょう。しかしこの物件の市場価格が1億円だとすれば利回りは年3.6パーセント(360万円÷1億円)で,実質利回りの平均(5パーセント)を大きく下回っています。これが高額の賃貸物件に住む資産家がいる理由で,彼らは割安な不動産物件を借り,資金をより利回りの高い(正確にはリスク/リターン比の高い)収益機会に投じたほうが有利だということを知っているのです(不動産業界のひとたちが賃貸物件に住んでいる理由もここから説明できます)。

橘 玲 (2011). 大震災の後で人生について語るということ 講談社 pp.52

見えない大災害

 東日本大震災の死者・行方不明者は3万人余とされています。98年以降,自殺者はそれ以前と比べ年間で8000人以上増えていますから,金融危機というブラックスワンによって引き起こされた「見えない大災害」で,現在に至るまで累計で10万人を超える死者が出ていることになります。
 あらためていうまでもなく,これは驚くべき数字です。

橘 玲 (2011). 大震災の後で人生について語るということ 講談社 pp.31

自分たちのやり方

 転校する中でぼくが学んだこと。それは,転校しない子どもたちは,かれらのやり方が自然のやり方だと思っており,かれらのものの見方が,どこでも通用する見方だと考えがちだということだった。集団の力というのは恐ろしい。どこへ行っても,そこのやり方があり,それ以外のやり方は否定される。ある学校では友だちを呼び捨てにしていたが,転校先の学校では「くん」づけ,「さん」づけで呼んでいて,思わず呼び捨てにして怒られて,情けない思いをした記憶もある。正に,郷に入ったら郷に従え,なのである。

松井彰彦 (2010). 高校生からのゲーム理論 筑摩書房 pp.155-156

婿は選べる

 では,なぜ日本にはかくも老舗が多いのか。「有能な他人よりも無能な血族を信頼せよ」という格言のある華人社会。それに対し,「息子は選べんが,婿は選べる」という言葉が残る大阪をはじめ,日本にはたとえ他人でも,これと見込んだ人物を引き上げる許容力が存在した。そして,その許容力を支えたものこそが職人気質だったのではないか。日本やドイツでは血のつながりのない弟子を我が子同様に育み,血縁にとらわれずに評価する職人気質の風土が伝統的にあり,それが老舗を支える力となったのかもしれない。
 とはいえ,近年,日本社会や日本人は師匠と弟子,経営者と従業員といった人と人のつながりを「しがらみ」として絶ち切ってきた。そこに入り込んできたのが西欧の個人主義である。しかし,人はひとりでは生きられない。個人主義の下では個々人が責任を持つだけでなく,人々がバラバラにならないための努力と工夫が必要である。西欧,とくにアングロ=サクソン系の個人主義は,個人を単位としつつも個と個のつながりをつなぎとめようとする工夫を凝らした個人主義である。それにもかかわらず,自我と社会との間の曖昧さを体得してきた日本人が頭で学んだ個人主義は,何か過ちを犯したとき,謝り,周りに身を委ねる代わりに,他人に責任をなすりつけるだけの他罰的なものになってしまった。

松井彰彦 (2010). 高校生からのゲーム理論 筑摩書房 pp.102

鶴の一声

 意見が割れてまとまらないとき,鶴の一声でまとまることがある。日本でも戦国時代の城主は,家臣たちに思う存分議論させて,議論が出尽くしたところで意思決定をしていたという。2009年ころの宰相で他の意見を聞かずに数兆円もの国のお金を使ってしまった人物がいたが,それと比べると戦国時代の城主はかなり民主的だったことがわかる。民主的な国であればあるほど,鶴の一声がないと物事がまとまらない。国家存亡の危機には,だれも何が最良の戦略かわからず,自分の考えを繰り返して議論が平行線を辿るのである。

松井彰彦 (2010). 高校生からのゲーム理論 筑摩書房 pp.65

お告げ

 アポロンのお告げは巫女の口を通じてもたらされた。巫女は50を過ぎた農婦の中から選ばれ,神殿に入る前には泉で身を清める。さらに泉の水を一口飲んで,予言の力をつける。神殿では山羊等の生贄を捧げる。そして,巫女は,神殿の中央にある祭壇で,アヘンやひよす草などを燻したものの香りをかぐ。巫女は半分失神したまま,月桂樹の葉を噛んで,三脚の上に座る。三脚の下には大地の割れ目があり,火山性のガスが出ていた。巫女はそのガスを吸って神がかりとなり宣託を告げた。それを神官が解釈して板に書き付けたのである。
 お告げの内容は直接質問に答えるものではなく,曖昧なものが多かったという。この神託伺いは日常の些細な悩みから,王や政治家への宣託もあった。神託伺いは口頭だったが,国家の意思決定など大きな問題については,文書を提出させ,祭司達の討議資料とされた。デルフィの神託所は各国がもたらす情報に基づいて,より的確な判断ができたという。一種の情報センターのような役割も担っていたわけである。

松井彰彦 (2010). 高校生からのゲーム理論 筑摩書房 pp.63

疑問

 地球の自転だけを考えても,赤道の周長は約4万キロメートルだから,日本の位置でも1日で3万キロくらいの移動量になる。これを24で割れば1250キロだから,これが時速だ。さらに60で割ると,1分間でも約20キロも移動している。タイムマシンで1分まえに行けるとしたら,20キロもずれてしまうだろう。まして,地球の公転や,太陽系の移動速度を計算すれば,ほんのちょっとタイムトラベルをするなら,無闇にすることは危険で,きちんと目的地を計算した方が良いのではないか。
 幽霊は壁を通り抜けることができるらしい。ならば,何故そこに留まっているのだろう?地球の運動に乗っていられるのは,それが物体だからである。物体ならば力学法則に従う。いつもは物体で,壁を通り抜けるときだけ物体でなくなるのだろうか。

森 博嗣 (2011). 科学的とはどういう意味か 幻冬舎 pp.173-174

科学の基本姿勢

 自分の考えたものだから,利益や賞賛を独占したい,というふうには科学者は考えない。「できるだけ,大勢に使ってもらいたい」「みんなの役に立てば,それが嬉しい」というような公開性,共有性に,科学の真髄がある。社会の利益を常に優先することが科学の基本姿勢なのだ。

森 博嗣 (2011). 科学的とはどういう意味か 幻冬舎 pp.138

実験がすべてではない

 ところが,そういう「理屈」よりも「実験」を重んじ,実際にやってみて自分の目で確かめることが「科学」だと信じている人が多い。実験で確かめられることこそが,科学に相応しいと思っている。この考え方は,全然間違っているというわけではないけれど,実験で観察されることは,すべて科学的に正しいというような間違った主張になりがちである。そうなると,正しくはないし,やはり科学的ではない。

森 博嗣 (2011). 科学的とはどういう意味か 幻冬舎 pp.133

スコットランドの羊

 「スコットランドの羊」という有名なジョークがある。沢山の本で紹介されているし,ネットでもさまざまなバージョンを読むことができ,登場人物もそれぞれに違っている。どれがオリジナルなのかはわからないが,だいたいこんな感じである。

 天文学者と物理学者と数学者の3人が,スコットランドで鉄道に乗っていた。すると,窓から草原にいる1匹の黒い羊が見えた。
 天文学者がこう呟く。「スコットランドの羊は黒いのか」
 それを聞いて,物理学者が言った。「スコットランドには,少なくとも1匹の黒い羊がいる」
 すると,数学者がこう言った。「スコットランドには,少なくとも1匹の羊がいて,その羊の少なくとも片面は黒い」

 僕なら,ここに,子供を1人登場させ,最後にこう言わせたいところだ。

 子供「あれは本当に羊なの?」

 このように,人間は大人になると(たとえ,科学者であっても),自分が観察したものから,ついつい「勝手に」決めつけようとする。数々の疑問をスキップして,結論へジャンプしてしまうのだ。経験を積み重ねるほど,むしろこのジャンプは頻繁になるし,また距離も遠くなるようだ。たいていの場合は,その着地点は正解であり,結果的にジャンプによって正解にいち早く到達できる。正解を早く見出すことが,社会で生きて行くうえでは重要視されるので,自然にみんながジャンプするようになるのだ。

森 博嗣 (2011). 科学的とはどういう意味か 幻冬舎 pp.114-116

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