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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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「群淘汰」誤謬

 ヒトラーがダーウィンからヒントを得たというよく言われるデマは,部分的には,ヒトラーもダーウィンもともに,何百年にもわたってすべての人が知っていたこと,すなわち望みの性質を備えた動物を育種できるということに感銘を受けたという事実から来ている。ヒトラーはこの常識を,ヒトという種に差し向けたいと願っていた。ダーウィンはそうではなかった。ダーウィンのひらめきは,もっとはるかに興味深く,独創的な方向に彼を導いたダーウィンの偉大な洞察は,選抜実行者がまったく必要ないというものだった。自然が——単純に生き残れるかどうか,あるいは繁殖成功度の差によって——育種家の役割を果たすことができる。ヒトラーの「社会的ダーウィニズム」——人種間の闘争という彼の信念——についていえば,実際には非常に半ダーウィン主義的なものである。ダーウィンにとっては,生存闘争は一つの種の内部における個体間の闘争であり,種間,人種間,あるいはその他の集団間の闘争ではなかった。ダーウィンの偉大な本の「生存闘争において有利なraceの存続」という,不適切で不幸な副題に惑わされないでほしい。本文そのものから,ダーウィンがraceを「共通の由来または起源によって結びつけられた人間,動物,あるいは植物の集団」(『オックスフォード英語大辞典』定義6-I)という意味で使っていないことは,きわめて明白である。むしろ彼は,この辞典の定義6-IIの「なんらかの共通の特徴を1つあるいは複数もつ人間,動物,あるいは事物の集団,あるいはクラス」に近いものを意図していた。6-IIの意味の実例は,「(どの地理的変種に属するかどうかにかかわらず)青い眼をもつすべての個体」といったものである。ダーウィンには使えなかった現代遺伝学の専門的な術語で,彼の副題の「race」の意味を表現するとすれば,「ある特定の対立遺伝子をもつすべての個体」となるだろう。ダーウィン主義的な生存闘争を個体集団のあいだの闘争と考える誤解——いわゆる「群淘汰」誤謬——は,残念ながら,ヒトラーの人種差別主義に限られたものではない。それは,ダーウィン主義に関する素人の誤解にたえず顔を出し,もっとよくわかっているべき職業的な生物学者のあいだにさえ出てくる。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2009). 進化の存在証明 早川書房 pp.127(脚注)
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虫媒

 花にとっては,虫媒(昆虫による受粉)は,風媒のあてずっぽうな無駄打ちの浪費に比べて,経済的には大きな前進といえる。たとえミツバチが無差別に花を訪れ,キンポウゲからヤグルマソウへ,ポピーからクサノオウへ自由気ままにふらふら移っていくとしても,毛におおわれた腹部にしがみついた花粉の粒が正しい標的——同じ種の別の花——に命中する確率は,風に乗せてまき散らした場合よりもはるかに大きい。それより少しましなのは,特定の色,たとえば青色を好むミツバチだろう。あるいは,いかなる固定された色の好みももっていないが,色に対する習慣性を形成する傾向をもち,したがって盛りの花の色を選ぶミツバチである。それよりもっといいのは,ただ1つだけの種を訪れる昆虫である。そして,ダーウィン/ウォレスの予言を思いつかせたマダガスカル島のランのような花がある。この花の蜜は,この種類の花に特殊化した特定の昆虫にしか利用できず,その昆虫は蜜の独占という利益を得ている。そうしたマダガスカル島のガは,究極の魔法の弾丸なのである。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2009). 進化の存在証明 早川書房 pp.113

突然変異

 ときには,一個の大きな突然変異の導入から新しい犬種が始まることがある。突然変異は,非ランダムな自然淘汰による進化の素材を構成している遺伝子の,ランダムな変化である。自然状態では,大きな突然変異はめったに生き残らないが,研究しやすいので,研究室の遺伝学者には好まれる。バセット犬やダックスフントのような,非常に短い脚をもつ犬種は,軟骨形成不全症と呼ばれる,単一の遺伝子突然変異をともなう一段階の変化でその特徴を獲得した。これは,自然状態ではおそらく生き残れないと思われる大きな突然変異の古典的な例である。同様の突然変異は,人間の小人症のなかでもっとも数多く見られる疾患の原因になる。胴体はほぼふつうの大きさなのだが,腕と脚が短いのである。他の遺伝的な経路が,もとのプロポーションを保ったままだがミニチュアサイズの犬種をつくりだす。犬のブリーダーたちは,軟骨形成不全症のような少数の大きな突然変異と,多数の微細な突然変異の組み合わせを選抜していくことによって,大きさと形状の変化を達成する。変化を効果的に達成するためには,遺伝学を理解している必要もない。まったくなにも理解していなくとも,どれとどれを交配させるかを選んでいくだけで,あらゆる種類の望みの形質を育てることができる。これこそ,イヌのブリーダーや他の動物飼育家や植物栽培家全般が,遺伝学について誰かが何かを理解するより何世紀も前に達成していたことなのである。そして,ここには自然淘汰についての一つの教訓がある。なぜなら,自然は当然ながら,何についてであれ,まったく理解せず,気づきさえしていないからだ。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2009). 進化の存在証明 早川書房 pp.89-90

遺伝子プールの彫刻

 さていよいよ,遺伝子プールに関して論じるきっかけとなった発言に戻ろう。もし人間のブリーダーを彫刻家とみなすのなら,彼らが鑿で刻んでいるのはイヌの肉体ではなく,遺伝子プールである。ブリーダーは,たとえば,将来のボクサーの鼻づら(吻)を短くすることが狙いだと公言するかもしれないので,対象はイヌの肉体のほうであるように見える。そして,そのような意図からもたらされる最終産物は,まるで祖先のイヌの顔に鑿が振るわれたかのように,短い鼻づらになるだろう。しかし,これまで見てきたように,どの一世代の典型的なボクサーも,その時代の遺伝子プールの抽出標本(サンプル)なのである。長年にわたって彫られ,削られてきたのは遺伝子プールなのだ。長い鼻づらのための遺伝子が遺伝子プールから削りとられ,短い鼻づらのための遺伝子に置き換えられたのである。ダックスフントからダルメシアン,ボクサーからボルゾイ,プードルからペキニーズ,グレートデンからチワワまで,あらゆる犬種は,文字通りの肉と骨ではなく,その遺伝子プールを彫られ,削られ,こねられ,成形されてきたのである。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2009). 進化の存在証明 早川書房 pp.88

地理的には重なるが

 イエイヌの遺伝子プールには,奇妙なことが起きている。純血種のペキニーズやダルメシアンのブリーダーは,1つの遺伝子プールから別の遺伝子プールへの交雑を妨げるために,ありとあらゆる手を尽くす。何世代にもわたる種付け犬の名簿が残されて降り,純血種ブリーダーにとって混血は,起こってはならない最悪の出来事である。犬の各品種は,あたかも彼ら自身の小さなアセンション島に幽閉され,他のあらゆる犬種から引き離されているかのようである。しかしこの場合,交雑を妨げているのは,青い海原ではなく人間のルールにほかならない。地理学的にはすべての犬種は分布が重なっているが,飼い主が交尾の機会を規制しているために,彼らにとっては孤島で暮らしているようなものである。もちろん,たまにルールは破られる。船に乗ったネズミがアセンション島に密入国するように,たとえば,ホイペットのメスがつながれた紐から逃げて,スパニエルと交尾するのである。しかしその結果生まれた雑種の子イヌは,どんなに可愛いイヌだろうと,純血ホイペットという札のついた島からは放逐される。この島は純粋なホイペットの島でありつづけるのだ。他の純血のホイペットたちが,ホイペットという札のついた仮想の島が汚されることのない存続を保証してくれる。1つ1つの純血種にあてられた人工的な「島」は数百もある。それぞれの島は,地理的にどこにあるかを言えないという意味で,仮想の島である。純血種のホイペットやポメラニアンは世界中の異なる多くの場所で見つかり,ある地理的な場所から別の場所への遺伝子の移送には自動車,船,飛行機が使われる。ペキニーズの遺伝子プールである仮想の遺伝的な島は,ボクサーの遺伝子プールである仮想の島やセントバーナードの遺伝子プールである仮想の島と,地理的には重なり合っているが,遺伝的には(雌が逃げ出した場合を除いて)重なっていない。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2009). 進化の存在証明 早川書房 pp.87-88

どうしてまだチンパンジーが

 第二に,ここでは,現生のある動物を現生の他の動物とつなぐ連鎖について語っているということに注意してほしい。断じてウサギをヒョウに進化させているのではない。私たちが,ヘアピン動物まで進化を逆にたどり,そこからヒョウに向かって進化を進めていると言うことはできると思う。後の章で見るように,残念なことだが,現生の種は現生の種に進化するのではなく,あくまで他の種と共通の祖先をもつ,つまり親戚どうしなのだということを,繰り返し何度も説明する必要がある。これはまた,後でわかるように,「もし人類がチンパンジーから進化したのなら,どうしてまだチンパンジーがいるのですか?」という,いらいらするほど頻繁にだされる訴えに対する答えでもある。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2009). 進化の存在証明 早川書房 pp.77

本質とは

 プラトンにとって,私たちが目にしていると思う「実在」は,私たちが囚われている洞窟の壁に,かがり火のゆらめきがつくりだす影にすぎない。他の古代ギリシアの思想家と同じように,プラトンは根本的には幾何学者であった。砂に書かれたあらゆる三角形は,三角形の真の本質の不完全な影にすぎない。本質的な三角形の線は,幅をもたず長さだけの純粋にユークリッド的な線である。線は無限に幅が狭く,平行な二本は交わらないものと定義される。本質的な三角形の角の和は,実際に,ぴったり二直角になり,それよりピコ秒[10の12乗分の1秒]角たりとも多くも少なくもない。砂に書かれた三角形ではそうは言えない。そうでなく,砂に書かれた三角形は,プラトンにとっては,理念的で,本質的な三角形の不安定な影でしかないのである。
 マイアによれば,生物学は,生物学独自の本質主義に悩まされている。生物学的本質主義は,バクやウサギ,センザンコウやヒトコブラクダを,あたかも三角形,菱形,放物線,あるいは十二面体であるかのように扱う。私たちの見るウサギは,あらゆる完全な幾何学の形態とともに,概念空間のどこかに漂っている完全なウサギの「イデア」,すなわち理念的で,本質的で,プラトン流のウサギの青白い影なのである。血肉をもつウサギは変異があるかもしれないが,それらの変異体はつねに,ウサギの理想的な本質から逸脱した欠陥品とみなされるのである。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2009). 進化の存在証明 早川書房 pp.72

探偵や刑事のように

 私たちは,犯罪が起こったあとで現場にやってくる探偵(あるいは刑事)のようなものである。殺人犯の行為は,過去の彼方に消えてしまっている。探偵は,実際の犯行を自分の目で目撃できる望みはないのだ。いずれにせよ,ゴリラの着ぐるみ実験その他の実験は,自分の目を疑うことを教えてくれている。探偵が実際に手にしているのは,残された痕跡であり,そこには自分の目などより信じられるものがどっさりある。すなわち,足跡,指紋(そして現在ではDNAフィンガープリントも),血痕,手紙,日記などだ。世界が現在の状態に至るためには,あれが起きてああなったという歴史ではなく,これが起きてこうなったという歴史でなければならないというのが,世界の在り方なのである。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2009). 進化の存在証明 早川書房 pp.65

(引用者注:ゴリラの着ぐるみ実験とは,ダニエル・J・シモンズらによるバスケットボールのパスの間にゴリラが登場する実験のことである selective attention test→ http://www.youtube.com/watch?v=vJG698U2Mvo)

沈黙しか

 カール・セーガンは,宇宙人に誘拐されたと主張する人々に対する当意即妙の返答において,ゴールドバッハの予想を皮肉たっぷりに使っている。

 私はときどき,地球外生命体と「コンタクト」したという人からの手紙を受け取る。彼らは私に「地球外生命体になにか質問するよう」求めてくる。そこで私は何年もかけて,ちょっとした質問のリストを準備できるようになった。思い出してほしいのだが,地球外生命体は文明がえらく進んでいるのだ。だから私は「フェルマーの最終定理の簡潔な証明を見せてくださいませんか」といった質問をする。あるいは,ゴールドバッハの予想だったりすることもあるが……私は答えをもらったためしがない。一方で,もし「正しいおこないをしなければいけないのでしょうか」といった質問をすれば,ほとんどいつも答えが返ってきた。漠然とした事柄,とくに月並みな道徳的判断がかかわるような問いに対しては,こうした宇宙人は極端なほど嬉々として反応してくる。しかし特殊な,彼らがほとんどの人類が知っている以上の何かを本当に知っているかどうか確かめるチャンスのあるような事柄については,沈黙しか返ってこないのである。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2009). 進化の存在証明 早川書房 pp.59-60

進化の証明

 進化はけっして「証明され」ていないという主張について言えば,証明というのは,科学者たちがこれまで,「それに信を置いてはいけない」とさんざん脅かされてきた手法なのだ。影響力のある哲学者たちは,科学において私たちは何一つ証明することはできないと語る。数学者は物事を証明できる——ある厳格な見方によれば,数学者は証明ができる唯一の人間である——が,科学者ができるのは,せいぜい頑張っても,一生懸命に試みたのだと指摘しながら反証に失敗するくらいのことだ。月は太陽より小さいといった異論の余地ない理論でさえ,たとえばピュタゴラスの定理を証明できるようなやり方で,ある種の哲学者を満足させるようには証明することができない。しかし膨大な量の証拠の蓄積があまりにも強力に支持しているので,それが「事実」の地位にあることを否定するのは,衒学者以外のすべての人間にとって,とてつもなく馬鹿馬鹿しく思える。同じことは進化についてもいえる。パリが北半球にあるのが事実であるのと同じ意味で進化は事実である。たとえ詭弁家どもが町を支配しているとしても,いくつかの理論はまっとうな疑問を差し挟む余地がないものであり,私たちはそれを事実と呼ぶ。1つの理論をよりエネルギーを注いで徹底すればするほど,もしその攻撃にたえて生き残ったとき,その理論は,常識がこころよく事実と呼ぶものに,いっそう緊密に近づいていくのである。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2009). 進化の存在証明 早川書房 pp.56-57

月とドブ

 「陰性と陽性」はもちろん,すべての言葉には由来や意味がある。それは頭でわかっていても,間隔だけでいうと,やっぱり違和感を覚える言葉っていっぱいあります。
 例えば「親を切る」と書いて,親切とか。親を切っといて,どこが親切やねんと(笑)。
 あと「轢き逃げ」。ほとんど「轢き逃げ事故」ぐらいにしか使わない漢字に,車偏に“楽しい”は絶対アカンやろ!
 また「月とすっぽん」という言葉がありますけど,今やすっぽんは高級食材ですから,かなり月側です。これだと,幅がめっちゃ狭くなってますから。本来持っている「天と地ほど違う」という意味を成してないんですよ。
 というか,なんでそもそも「すっぽん」やねんと。今だったら,例えば「月とドブ」とか。こっちのほうがすっきりします。

千原ジュニア (2011). すなわち,便所は宇宙である 扶桑社 pp.198-199

やわらか仕立てのふんわり時代

 昔ウケたツッコミが今だと引かれてしまう。みんなのハートが弱くなったのか,鋭い言葉が通用しない。そんな“やわらか仕立てのふんわり時代”が到来しまくっとるのをひしひしと感じますね。
 でも,それはもう“そういう時代”だということですし,変な意地を張って言い続けるっていうのは違うと思うんです。今の時代の空気に合わせた言葉に換えていかないと,しょうがない。
 そこで「死ねっ!」の代わりに考えたのが,「荼毘にふされろ!」これなら誰も引かないでしょうし,語呂的にも口に出して言いたくなりません?

千原ジュニア (2011). すなわち,便所は宇宙である 扶桑社 pp.195

農薬野菜と書け

 よくスーパーとかで,「無農薬野菜」と書かれて売られていますが,あれに凄い違和感があるんですよ。だったら,それ以外の野菜にはちゃんと「農薬野菜」と書けよと。なんか,良くないほうを隠して,いいことだけを言うみたいなことが,僕はあんまりいい風潮じゃないなと思うんです。僕は別にオーガニック主義じゃないですけど,無農薬野菜じゃないほうが名乗れと。

千原ジュニア (2011). すなわち,便所は宇宙である 扶桑社 pp.116

病んでる芸人

 あと「もうええわ!」でネタが終わってんのに,そこからもうワンアクションある芸人も,だいぶ病んでると思います。「もうええわ!」の後に深々とした,笑いに結びつかないようなおじぎでもしだしたら,それこそ,ちょっと宗教に走ってたりとか。「そのおじぎは客に対してなのか,どこぞの神様に対してのものなのか?」って,勘ぐってしまいます。

千原ジュニア (2011). すなわち,便所は宇宙である 扶桑社 pp.55

平均点の高さ

 笑いってボウリングと似ていて,誰でも1回はストライクを取ったことがるから,「できる」って思ってしまうんですよ。でも,アマとプロの差は,コンスタントにストライクを出せる,その平均点の高さなんです。そういうことを,わかってない人が多いんですよね。

千原ジュニア (2011). すなわち,便所は宇宙である 扶桑社 pp.30

教育とは関係ない

 ヘルシンキ大学のマルヤーナ・リンデマンが先頃,この信念と理性の2次元モデルと素朴な直感的理論が担っている役割の検証を行った。成人フィンランド人3000人余を対象として,直感的推論とスーパーセンスの調査を実施したのだ。まず,調査対象者に超自然信念現象信奉について質問した。ここで言う超自然現象信奉は宗教的なものと非宗教的なものの両方である。次いで,直感的な誤概念も評価した。世界の物理的,生物学的,心理学的な側面について,調査対象者が抱いているアニミズム,目的論的推論,擬人化,生気論,中心概念の混乱に関する質問を行ったのだ。いずれも,子どもたちが独力で自然に推論するので,誤概念につながることもある分野である。質問の内容は,「夏になって気温が上がると,花は咲きたいと思うのでしょうか?」,「古い家具は昔のことを知っているのでしょうか?」といったもので,締めくくりに,直感的な反応と熟慮した上での分析的推論のどちらの思考スタイルを好むか尋ねてみた。
 その上で,スーパーセンスを強く感じる成人を懐疑的な成人と比較したところ,信じやすい人のほうが,ある概念カテゴリーの属性を別のカテゴリーにも誤ってあてはめる傾向が強いことが分かった。たとえば,古い椅子は昔の出来事を覚えている(無生物に心的属性を持たせる),思いは他人に伝わる(心理状態に物理的属性を持たせる)といった答えが多かったのは,信じやすい人たちだった。目的論的に見ると混乱の度合いがいっそう強く,アニミズムと擬人化の傾向も強く見られた。また,信じやすい人には生気論者が多く,物事は世界とつながっているという意識をいだいていた。彼らは教育水準が低かったのかと思うだろう?答えはノーだ。全員,大学生だったのだから。しかも,他の合理性を測る尺度で評価した結果も,疑り深い学生と大差なかった。つまり,同一人物が合理性と超自然現象信奉とを兼ね備えているということである。彼らはエリートと言えども,直感的な思考法を好む,あるいは直感的な思考法に頼りやすいただの人だったのだ。

ブルース・M・フード 小松淳子(訳) (2011). スーパーセンス:ヒトは生まれつき超科学的な心を持っている インターシフト pp.359-360
(Hood, B. (2009). Supersense: Why We Believe in the Unbelievable. London: HarperCollins.)

アルツハイマーと直感的思考

 先頃,アルツハイマー病に関する研究で,意外にもスーパーセンスを示す証拠が得られた。アルツハイマー病に罹患した成人患者が,末期に至る前に,心は子どもっぽい推論のしかたを一生あきらめないことを示す証拠を呈したのである。たとえば,「木があるのはなぜですか?」,「太陽はどうして明るいのでしょう?」,「雨が降るのはなぜですか?」といった質問をしたところ,幼児のような答えを返してきたのだ。木があるのは木陰を作るため,お日様が明るいのは見えるようにするため,雨があるのは飲水になって,生き物を育てるためだと言う。4章で見た,7歳児の目的論的思考に逆戻りしていたのだ。アミにストに返って,太陽のような無生物に生命を見るようにもなる。知っていたことをすべて忘れてしまったのとは違う。アルツハイマー病患者が犯す間違いは子どもたちの直感的理論にほかならないのである。認知症を見れば,直感的思考は大人になると捨てられるわけではなく,脳の高次中枢によって抑制されているだけであることが分かる。この抑制能力が失われると,直感的理論が復活してくるのだ。

ブルース・M・フード 小松淳子(訳) (2011). スーパーセンス:ヒトは生まれつき超科学的な心を持っている インターシフト pp.356-357
(Hood, B. (2009). Supersense: Why We Believe in the Unbelievable. London: HarperCollins.)

幽霊とカンニング

 誰かがあの世から見ていると思うだけで,正しい行いをしようとする気になることもある。こんな例がある。コンピュータを使った試験を受けていた学生たちは,その気になればカンニングできることに気付いた。コンピュータが“誤って”時々正解を表示するのだ。実は,学生たちが表示される正解をうまいこと利用するか,それとも正直に試験を受けるか,無性に確かめたくなった実験者たちが,そうなるようにわざとプログラムしておいたのである。一部の学生たちに暗示を与えるため,アシスタントが何気なく,この試験場には以前ここで死んだ学生が取り憑いているそうだという話をした。結果,幽霊話を聞かされた学生のほうがカンニングは少なかった。私たちの罪悪感が正直さのお目付役になっていることに,まず間違いはない。罪の意識の一部は,ルールを破ったことがばれたら社会から非難されることになると信じる気持ちから生まれる。死んだ学生が試験場に取り憑いているかもしれないと信じた学生たちは,幽霊相手だろうとばれるのが怖くてカンニングを手控えたのだ。

ブルース・M・フード 小松淳子(訳) (2011). スーパーセンス:ヒトは生まれつき超科学的な心を持っている インターシフト pp.342-343
(Hood, B. (2009). Supersense: Why We Believe in the Unbelievable. London: HarperCollins.)

確証バイアスのせい

 見つめられている時に私たちの内に喚起される情動は,他人の視線をエネルギーの伝達として感知できるという直感的な認識をいともたやすく増強する(エネルギーが伝わるのでなければ,彼女に見つめられて,こんなふうに感じるはずはあるまい?)。そこで,他人に囲まれていて,突然落ち着かない気分になる,という状況について考えてみよう。他人の視線をエネルギーとして感知するというこの素朴な理論,落ち着かない気分を感じて,やはりそうだったと証明された場合のことはひとつ残らずすぐに思い出せるのに,間違っていた場合はいつも都合よく忘れてしまう。理論というものは得てしてそうなのだが,この理論にも,私たちがまず真実だと思ったことを裏付ける証拠を探そうとするバイアスが作用しているのだ。

ブルース・M・フード 小松淳子(訳) (2011). スーパーセンス:ヒトは生まれつき超科学的な心を持っている インターシフト pp.338
(Hood, B. (2009). Supersense: Why We Believe in the Unbelievable. London: HarperCollins.)

パターン検出能力のせい

 一応紹介しておくと,見えない視線を感知する能力の存在を示す有力な証拠というのを報告している研究もある。それらの研究で用いられている典型的な被注視感測定方法は,目隠しした被験者の後ろに観察者が立って,被験者をじっと見つめるか,眼を閉じているというものである。中には,被験者と観察者を別々の部屋に入れて,カメラを介して行った実験もある(ラスのエネルギー場という説明がますます怪しくなりそうな実験だ)。注視と非注視を交互に行い,実験を何度も繰り返して,正答数を統計的平均50パーセントと比較する。この50パーセントという値は,被注視感が存在しない場合に予想される値である。最も大規模な研究は,子どもたちを対象として1万8000回に及ぶ実験を行っていて,極めて有意な結果が得られたと報告している。この研究では確かに何かが検出された。被注視感の存在を証明するには,それで十分ではないか?
 言わせてもらえば,これらの研究から浮かび上がってくる最も興味深い発見のひとつは,見えない視線を感知する能力ではなく,脳が備えている驚くべきパターン検出能力である。有意な被注視感が認められたと報告している研究の大半では,注視と非注視の順序が本当にランダムにはなっていない。つまり,目隠しされた被験者たちがこのランダムではない順序の検出のしかたを学習していたというところが事実のようだ。1章で紹介した,キーボードで“1”と“0”のキーを打つ例を覚えているだろうか?人間は,自分では意識していなくても,交互のパターンを検出するようにできている。1回の試験ごとに正統をフィードバックされていてば,順序のパターンを検出することもできる。そのため,試験の成績を毎回知らせるのをやめると,検出効果が失われて,成績は偶然の範囲内に戻るのである。

ブルース・M・フード 小松淳子(訳) (2011). スーパーセンス:ヒトは生まれつき超科学的な心を持っている インターシフト pp.334-335
(Hood, B. (2009). Supersense: Why We Believe in the Unbelievable. London: HarperCollins.)

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