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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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共感能力

 共感能力は,おそらく良いハッカーと偉大なハッカーの,たったひとつの最も重要な違いだろう。ハッカーのなかには非常に賢いが,共感するということにかけては全く自己中心主義の人々がいる。たぶんそういう人が偉大なソフトウェアをデザインするのは難しいだろう。ユーザの視点で物を観ることができないからだ。

Paul Graham 川合史朗(訳) (2005). ハッカーと画家:コンピュータ時代の創造者たち オーム社 pp.35
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人の身になって

 私は子供のころ,いつも,人の身になってものを考えなさいと教えられた。実際にはそう言われる時はいつでも,自分のしたいことじゃなくて他人の望むことをしなさい,という意味だった。だから共感なんてつまらないものだと思って,私はそれを磨こうとはしなかった。
 だが,なんてこった。私は間違っていたんだ。他人の身になってものを見るというのは,本当は成功の秘密だったんだ。それは自己犠牲を意味するとは限らない。他の人のものの見方を理解したからって,その人の利益のために行動しなくちゃならないとは限らないんだ。特定の状況では,例えば競争をしている時は,全く逆の行動をしたいと思うだろう。

Paul Graham 川合史朗(訳) (2005). ハッカーと画家:コンピュータ時代の創造者たち オーム社 pp.34

ハックしながら

 ハッカーがハックしながら学ぶという事実は,ハッキングと科学がどれだけ違うかということを示すもうひとつの手がかりだ。科学者は科学をしながら学ぶのではない。実験と課題をこなしながら学ぶのだ。科学者はまず完璧な仕事から,つまり誰か他の人が既にやったことを再現することから始める。そうしているうちに独自の仕事ができるレベルに達するのだ。一方,ハッカーは最初から独自の仕事をする。ただ最初は下手くそだろう。ハッカーはオリジナルから始めて上手になってゆく。科学者は上手になることから始めてオリジナルになってゆく。
 もの創りが学ぶもうひとつの方法は先例から学ぶことだ。画家にとって美術館は技法の先例の宝庫だ。偉大な画家の作品を模写することは,何百年もの間,画家の教育課程の一環となってきた。模写することで,絵がどのように描かれているかを詳しく見るようになるからだ。
 作家も同じようなことをする。ベンジャミン・フランクリンはアディスンとスティールのエッセイを要約し,それを再現しようとすることで書くことを学んだ。レイモンド・チャンドラーは同じことを探偵小説でやった。

Paul Graham 川合史朗(訳) (2005). ハッカーと画家:コンピュータ時代の創造者たち オーム社 pp.30-31

スケッチと同じ

 例えば大学で私は,コンピュータに手を触れる前に紙の上でプログラムを完全に理解しなければならないと教わった。でも私はそういうふうにはプログラムできなかった。私が好んだやり方は,紙の前ではなく,コンピュータの前に座ってプログラミングすることだった。しかも,辛抱強くすべてのプログラムを書き上げてから正しいことを確認するなんてことはせずに,めちゃくちゃなコードをおっぴろげて,それを次第に形にしてゆくのだった。デバッグとは書き間違いや見逃しを捕まえる最終段階の工程だと教わったけれど,実際に私がやっていたのは,プログラミングそのものがデバッグという具合だった。
 そのことで私はずいぶんと長い間,引け目を感じていた。ちょうど小学校で教わった鉛筆の持ち方と違う持ち方をしていることに引け目を感じていたのと同じように。他のものを創る人々,画家や建築家がどうやっているかを見れば,私は自分のやっていることにちゃんと名前が付いていると気付いていただろう。スケッチだ。私の知る限り,私が大学で教わったプログラミングのやり方は全部間違っていた。作家や画家や建築家が創りながら作品を理解してゆくのと同じで,プログラマはプログラムを書きながら理解してゆくべきなんだ。

Paul Graham 川合史朗(訳) (2005). ハッカーと画家:コンピュータ時代の創造者たち オーム社 pp.26-27

美しいものを創る

 残念なことに,美しいものは論文になりやすいとは限らない。第一に,研究は独創的でなければならない。そして,博士論文を書いた経験のある人なら誰もが知っているように,確実に処女地を探し当てて開拓する一番良い方法は,誰も向かおうとはしない場所へ向かうことだ。第二に,研究にはある程度の量的なまとまりが必要だ。そして,へんてこなシステムであるほど,たくさんの論文が書ける。そいつを動かすために乗り越えなければならなかったいろんな障害について書けるからね。論文の数を増やす最良の方法は,間違った仮定から出発することだ。人工知能の研究の多くがこれに当てはまる。知識は抽象概念を引数に取る述語論理式の羅列で表現できる,と仮定して始めれば,それを動かすためにたくさんの論文を書くことになるだろう。リッキー・リカルドが言ったように,「ルーシー,君はたくさん説明することがあるね」ってなわけだ。
 何か美しいものを創るということは,しばしば既にあるものに微妙な改良を加えたり,既にある考えを少しだけ新しい方法で組み合わせたりすることによってなされる。この種の仕事を研究論文にするのはとても難しい。

Paul Graham 川合史朗(訳) (2005). ハッカーと画家:コンピュータ時代の創造者たち オーム社 pp.25

残酷さと退屈さ

 これといった基準がないところに順位を付けなければならない場合,何が起きるかというと,堕落したゲームが始まるのだ。「人気取り競争」とでも呼べばいいだろうか,米国のほとんどの学校で起きているのはまさにそれだ。生徒の順位は,本物のテストではなく,自分がどれだけ順位を上げられるかという能力によって決まる。ルイ14世の宮廷のようなものだ。外敵がいないから,子供たちはお互いを敵とするんだ。
 外部に能力を試すはっきりしたテストがあれば,一番下の階級にいても苦しくはない。フットボールチームのルーキーはベテランプレーヤーの能力に腹を立てたりはしない。むしろいつかそうなりたいと思うだろうし,先輩に学ぶ機会があれば喜んで学ぶはずだ。先輩も上に立つ者の責務,つまりノブレス・オブリージュを感じるだろう。そしてもっと重要なことは,メンバーの地位はどれだけ対戦相手に対して戦えるかによって決まり,お互いの足をどれだけ引っ張れるかによって決まることはないということだ。
 宮廷の階級は全く違ったものだ。この種の社会は中に入る者すべてを悪くする。下の者が上を称賛することもないし,上に立つ者が責任を感じることもない。殺るか殺られるかだ。
 米国の中学校で作られる社会もまさにそれだ。そうなるのは,子供を毎日特定の時間,一箇所に閉じ込めておく以上の本当の目的を学校が持たないからだ。私が当時気付かなかったことは,いや,ごく最近まで気付かなかったことは,学校生活の2つの恐怖,つまり,残酷さと退屈さの根はひとつだったということだ。

Paul Graham 川合史朗(訳) (2005). ハッカーと画家:コンピュータ時代の創造者たち オーム社 pp.18-19

学校と刑務所

 現代のティーンは,ファストフードのような安い労働力を使う産業以外では役に立たない。実際,そういう業種はまさにその事実を利用することで拡大したんだ。他のほとんどの職業ではティーンはかえって足手まといになるだろう。でも,まだ監督なしで放っておけるほど成長しておらず,誰かが見ていなければならない。だとしたら,一番効率の良い方法は彼らを一箇所に閉じ込めておくことだ。そうすれば数人の大人が全員をみられる。
 この説明だけを聞けば,誰だって,ああ刑務所の説明をしているんだなと思うだろう。違うのは,時間になったら帰してもらえるということだけだ。そして,多くの学校がまさに刑務所と化している。それが問題なのだ。学校の表向きの目的は子供を教育することだが,それをちゃんと行なわせるための圧力はどこからもかからない。だから多くの学校で行われている教育はひどいもので,子どもたちは真面目にそれを受けようとはしない。勉強のできる子供たちでさえもだ。ほとんどの時間,全員が,生徒も教師も,決まった動きを機械的に繰り返しているにすぎない。

Paul Graham 川合史朗(訳) (2005). ハッカーと画家:コンピュータ時代の創造者たち オーム社 pp.18

どちらがイカれているか

 世間では,賢い子供たちがこの年代に「普通の」子供たちの中で一緒に過ごすことが良いことだと信じられているようだ。そうかもしれない。でも,他の皆がいかれているせいで,オタクが浮いて見えるというケースだってあるにはある。リーダーが敵のプレイヤーに見立てた人形を観客に向けて投げ込み,それがずたずたに引き裂かれるのを見たのを覚えている。何か奇妙な種族の儀式を目撃している探検家になった気分だった。

Paul Graham 川合史朗(訳) (2005). ハッカーと画家:コンピュータ時代の創造者たち オーム社 pp.15

人気中心

 人気者になるには注意力が必要だ。そして,賢い子供には,そんなことに回せるムダな注意力など残っていないのだ。たまたまルックスが良いとか,生まれついて運動能力が高いとか,人気者の兄弟だとかそういうものでもなければ,オタクになるしかない。だから賢い人々の人生は,そうだな,11歳から17歳の間,最低になるんだ。この年代の生活は他の年代よりもはるかに人気の有無を中心に回っている。

Paul Graham 川合史朗(訳) (2005). ハッカーと画家:コンピュータ時代の創造者たち オーム社 pp.11

狩りと同じ

 支持率が低迷している時に政治家が有権者の気をそらせたがるように,本当の敵がいなくても敵をでっち上げることができる。オタクをあぶり出して迫害することで,上の階級にいる子供たちはより強く結束する。よそ者を攻撃すればみな仲間になれる。いじめの最悪の形態が集団の中で生まれるのはそのせいだ。どんなオタクに聞いても,個人にされるいじめはいかにひどくても,集団でやられるよりましだと言うだろう。
 オタクにとって慰めになるとすれば,それは人格とは何の関係もないものだってことだ。一緒につるんでオタクをいじめる子供たちは,男たちがつるんで狩りに行くのと同じことを,同じ理由でやっているんだ。オタクを本当に嫌っているわけじゃない。ただ何か追いかけるものが必要なだけなんだ。

Paul Graham 川合史朗(訳) (2005). ハッカーと画家:コンピュータ時代の創造者たち オーム社 pp.12

スピード

 幾世紀にもわたって,日本人は私たち西洋人よりも緻密なものを作ってきた。1200年に作られた日本刀は,その時代に作られたことが信じられないほどだ。おそらく,日本車が米国車よりきっちりしているのは,日本できちんとした家具が作られてきたことと同じ理由による。彼らは,ものをうまく作ることに取り憑かれているんだ。
 私たち米国人は違う。何かを作るとき,米国人はとにかく仕事を終えることを考える。とりあえず動くものができたら,そこからは2通りの道がある。そこで作るのをやめて,バイスグリップみたいに不恰好だが何とか使えるものを作っていくか,あるいはそれを改善してゆく——でもたいて,そういう改善とはごてごてした装飾を付けていくことだ。車を良くしようと米国人が考えるのは,その時々の流行によって,尾ひれを付けてみたり,車体を長く伸ばしてみたり,窓を小さくしてみたりといったことにすぎない。
 家もそうだ。米国で家といったら2種類しかない。ツーバイフォーの柱に石膏ボードを打ち付けたぺらぺらの箱か,あるいは超豪邸,つまり大きくてドラマチックな外観を備え,高価な家具を配置したツーバイフォーと石膏ボードのぺらぺらの箱だ。金持ちだからって,より良いデザインや優れた職人の仕事を得られるわけじゃない。ただ,普通より大きくて目立つ家が手に入るだけだ。
 米国では,良いデザインや職人の仕事は特には評価されない。私たちが好むのはスピードだ。速くできるなら醜い方法も喜んで許容する。ソフトウェアや映画などの分野では,これはトータルで有利な方向に働く。

Paul Graham 川合史朗(訳) (2005). ハッカーと画家:コンピュータ時代の創造者たち オーム社 pp.3

(引用者注:さすがに1200年の日本刀は古すぎるのでは…)

素早い仕事

 矛盾しているように聞こえるかもしれないが,ソフトウェアでは腕の良さは素早い仕事を意味する。ゆっくりと念入りに仕事をしていると,出来上がるものは当初のアイデアを精密に実現したものになるだろう。ただし,そのアイデアは間違っているだろうけどね。遅く念入りな仕事は早すぎる最適化だ。むしろプロトタイプを素早く作り上げて,それによって新しいアイデアを得てゆくほうがよい。
 映画の製作過程も,どうやらソフトウェアのそれと似たようなものらしい。どの映画も一種のフランケンシュタインだ。欠陥は一杯だし,最初に思い描いていたものからは程遠い。でも面白いし,素早く作られる。完璧な映画を作ろうとしたら,決して終わることはないだろう。

Paul Graham 川合史朗(訳) (2005). ハッカーと画家:コンピュータ時代の創造者たち オーム社 pp.2

不確実性

 世の中の事象は全て不確実性を帯びていますから,事務の仕事も不確実性を前提として受け入れ,それに対応できるように臨機応変に進めるべきです。あらかじめ決められた手順を機械的に実施するだけのマニュアル人間には実際の仕事はこなせないのです。
 不確かさを意識すれば,事務の各工程が果たすべき任務は,「仕事の不確かさを問題のない範囲内に収めること」と言えます。

中田 亨 (2011). 「事務ミス」をナメるな! 光文社 pp.60

塞翁が馬

 「塞翁が馬」のことわざの通り,当初は悪いと思われたことが,後になって良いことになる可能性もあります。
 ある心臓外科手術で,間違えて1桁多いモルヒネを患者に与えるというミスがありました。執刀医は10ミリグラム投与すべきと考えて,「モルヒネを10投与」と言ったところ,それを聞いた助手は「10単位」与えてしまいました。これは100ミリグラム,つまり10倍の量に当たります。
 劇薬であるモルヒネを大量に投与されて,患者の心臓は止まるかと思いきや,意外にも良好な挙動を示しました。これが心臓外科手術のモルヒネ大量投与麻酔の発明につながったのです。「モルヒネは危険だから,必要最小限の量だけ使うこと」という,正誤の基準自体がそもそも間違っていたわけです。
 行為が間違いであるか否かは,結果論でしか語れないものなのです。


中田 亨 (2011). 「事務ミス」をナメるな! 光文社 pp. 47

個別のミスは

 フロイトは,ミスを心理学的に意味深い現象と認めつつも,種々雑多なミスをいちいち拾い上げて分析しすぎることは,適切ではないと考えました。ある人が起こした細々としたミスから心理を探り,それらを統合してその人の心の全体像を描き出そうとすることは,こじつけにおちいる恐れがあるからです。

中田 亨 (2011). 「事務ミス」をナメるな! 光文社 pp.44-45

中途半端なマイナス思考

 ウケるトークができない人にありがちな思考の流れとしては,まず最初に「面白い人だと思われたい」という期待から入り,次に「でもウケなかったらどうしよう」という不安が襲ってきます。そしてそのまま,「もしスベったら取り返しがつかない」と思い込み,「ウケを取るのはやめて普通の話をしよう」と最終判断をしてしまいます。これがもし,ほかの人たちがウケを取ってきて,いざ自分の番という状況になった場合には,「僕も笑わせなきゃマズい」と頭が真っ白になってしまい,思うように話すことができなくなります。
 この場合,どうすれば「余計な気持ち」を除くことができるのでしょうか?
 それは,「中途半端なマイナス暗示をしない」ことです。マイナス暗示をやめろということではありません。中途半端がダメだ!ということなんです。
 なぜなら,緊張しやすい人は,プラスの暗示をしても,結局マイナスの方が勝ってしまうからです。つまり,「緊張はだれでもするんだ」とプラスにとらえても,次の瞬間に「でも隣りは緊張してるように見えなかった」とか,「こんなに緊張してるのは俺だけかも」とか,勝手にマイナスに考えてしまいがちです。
 そこで,中途半端ではなく,究極のマイナス暗示をしてやります。それは何かというと,「だれも僕の話には期待していない」と思うことです。ウケようがスベろうが,自分の話には誰も期待していない——このように一番下からのスタートにして,これ以上恥をかくことはないと思うのです。

田中イデア (2009). ウケる!トーク術:昨日起こった出来事を面白く話す方法 リットーミュージック pp.75-76

余計な気持ち

 トークを行う場合,自分が聞いた,見た,体験した内容を,聞き手に伝えてあげることが大事なのですが,そこに余計な気持ちが入ってしまうと,緊張して失敗しがちです。
 その余計な気持ちとは,「面白く思われたい」とか「ウケなかったらどうしよう」といった感情です。これらが前面に出てしまうと,トークの内容を相手に伝えたいという気持ちが隠れてしまいます。
 家族や友達にはウケるトークができるのに,知らない人や異性の前では緊張して話ができない——そういった人も多いのではないでしょうか?これも,すべて余計な気持ちが邪魔しているからです。
 もちろん,こうした余計な気持ちも,「慣れ」によって,「余計な気持ち」に変化することがあります。プロの芸人さんは慣れているからこそ,トークを口説くときのテクニックに使ったり,一番注目されている場面で笑いを取ることができるんです。

田中イデア (2009). ウケる!トーク術:昨日起こった出来事を面白く話す方法 リットーミュージック pp.67-68

ウソつき

 ウソや作り話は,どうしても細かい部分にリアルさがないため,すぐにバレてしまいます。さらに,聞き手が不信感を抱くため,話がすんなり入ってきません。
 芸人さんなどのプロは別として,私たちのような素人は,完全な作り話はしない方が良いでしょう。作り話だと分かると,笑わせる以前に,「ウソつき」のレッテルを貼られてしまいます。

田中イデア (2009). ウケる!トーク術:昨日起こった出来事を面白く話す方法 リットーミュージック pp.38

期待していない

 なので,「自分の話は面白くないんじゃないか?」と卑屈になる必要はありません。そもそも聞き手は,そんなに期待していませんから!

田中イデア (2009). ウケる!トーク術:昨日起こった出来事を面白く話す方法 リットーミュージック pp.33

人間の領域は

 では,いったい人間はどの能力において戦えばよいか,というと,コンピュータが苦手で,しかもその能力によって労働の価値に差異が生まれるようなタイプの能力で戦わざるをえないのです。
 コンピュータは知識を蓄積したり,手順どおりの作業をしたり,大量データから傾向をつかみとることが得意です。つまり,暗記と計算とパターン認識を最も得意とするのです。一方で,脳の働きのうち,論理と原語を駆使して高度に思考し表現する仕事は苦手です。また,人間の多くにとって容易な,見る・聞く,感じるなどの五感を使った情報処理も比較的苦手です。
 身体性を必要とするような職業は,知的な作業部分よりも,むしろ,見る・聞く・感じるなど人間が無意識かつ連続的に行っている情報処理の部分がネックになり,ロボットによる代替は当面は難しいでしょう。どちらかというと,このような無意識下での連続的情報処理は人間が行い,それを言語による命令やレバーの操作,あるいは脳からの直接的な信号によって機械に伝えて作業を行うほうが早道だろうと思います。つまり,身体性を要求するような職業分野では,人間と機械となんらかの方法によって合体させるパワードスーツやアンドロイド,さらにはサイボーグのほうが大きな意味を持ってくると考えられます。
 一方,身体性を必要とせず,また直接に生産活動に携わらないホワイトカラーの仕事は,コンピュータの本格的な登場によって,上下に分断されていくことでしょう。つまり,人間であれば多くの人ができるがコンピュータにとっては難しい仕事と,コンピュータではどうしても実現できず,人間の中でも一握りの人々しか行えない文脈理解・状況判断・モデルの構築・コミュニケーション能力等を駆使することで達成できる仕事の2種類に,です。

新井紀子 (2010). コンピュータが仕事を奪う 日本経済新聞出版社 pp.190-191

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