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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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オープンソース

 Linux(リナックス)というオペレーティングシステム(OS)やFirefox(ファイアフォックス)というブラウザなどが,しばしばオープンソースの代名詞として語られます。しかし,人類に,最も貢献したオープンソースソフトウェアはLinuxでもFirefoxでもなく,四則演算(+ー×÷)の筆算でしょう。四則演算の筆算はインドで発明されたといわれています。インドで整備された位取り記数法や計算方法を,『インドの数の計算法』という書物を通じてアラビア社会,さらにはヨーロッパに紹介する役を担うことになったのがアル・フワーリズミーです。アル・フワーリズミーは9世紀前半にアッバース朝時代のバグダッドで活躍した数学者で,アルゴリズムの語源となった人物です。プログラムは,コンピュータにアルゴリズムを実行させるために,コンピュータが解釈可能な言語を使って表現されたものに過ぎません。
 数学者は,巨大な権力と巨万の富をもたらすかもしれない未来予測の式すら,無償で論文として公開してしまいます。金融工学の金字塔のひとつであり,巨万の富を稼ぎ出したブラック・ショールズ方程式にしても,誰もが無償で利用でき,誰もがそれを改変することができるのですから!(十分な根拠なく改変することで,しばしば巨万の富を失ったりもするわけですが)。人類に最も貢献してきたオープンソース活動は数学だといって差し支えないでしょう。

新井紀子 (2010). コンピュータが仕事を奪う 日本経済新聞出版社 pp.122
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知能とは

 しかし,知能とはいったい何なのでしょう。私たちが通常思い描くのは,意味を読み取り,解釈し,適切に処理した上で,反応したり表現したりすることかもしれません。そういう意味では,Jabberwackyは,一切考えていません。人工知能というより,むしろ「人工無能」だといってよいくらいです。何しろ,こちらの言っていることの意味を,まったく理解していない,いえ,理解しようとさえしていないのですから。
 それなのに,ときにJabberwackyが知的に見えてしまうのはなぜでしょう。それは,Jabberwackyが出す反応(会話文)の妥当性が高いからです。つまり,意味を理解して,それに対しての適切な処理をしなくても,アウトプットとしての反応が妥当であれば,知的に見えてしまうわけです。
 そして,それこそが,チューリングテストを定式化した際に,チューリングが発した問いなのです。

新井紀子 (2010). コンピュータが仕事を奪う 日本経済新聞出版社 pp.46-47

(引用者注: http://www.jabberwacky.com/)

役立つかどうか

 「役に立つかどうか」がポイントなのでしょうか。歴史上,発見されてきた画期的な定理の多くが,発見された瞬間には具体的にそれがどのように有用かはわかりませんでした。発見した本人でさえ,それが「どのように使えるか」の説明に窮したことでしょう。「役に立つかどうか」は後の世でわかることで,発見の瞬間に「役に立つかどうか」を判断することはできません。

新井紀子 (2010). コンピュータが仕事を奪う 日本経済新聞出版社 pp.102

コンピュータの世界を理解する

 コンピュータにとって何が得意で何が不得意かをきちんと把握しようとするなら,連想は禁物です。極端にいえば,それはヘリコプターが存在するから,ドラえもんのタケコプターも実現可能だろうと思うのと同じ過ちなのです。ヘリコプターに似た構造であっても,竹トンボのような大きさのタケコプターでは,人間の体を持ち上げる揚力は生み出せません。同じように,コンピュータに効率よく仕事をさせようと思うなら,コンピュータの仕組みをざっとでも知り,コンピュータに何ができるのか,現実世界とは微妙にずれているコンピュータの世界を理解する必要があります。

新井紀子 (2010). コンピュータが仕事を奪う 日本経済新聞出版社 pp.22

社会が問題

 意外なことではないが,農薬と化学肥料を集約的に用いた農業が,世界の貧しい人々に食糧を与えるために必要だとアグリビジネスは言っている。しかし,約10億人が日々飢えていようとも,工業的農業は答えではないかもしれない。過去5000年にわたり,人口は食料供給能力と足並みを揃えてきた。ただ食料生産量を増やすだけではこれまでうまくいかなかったし,人口増加が続くかぎりこれからもうまくいかないだろう。国連食糧農業機関は,すでに地球上の人間すべてに1日3500カロリーを与えられるだけの作物が生産されていると報告している。1人あたり食糧生産量は1960年代以降,世界の人口よりも速く増加している。世界から飢餓がなくならないのは,農業生産能力の不足よりも,食料事情の不平等や分配の社会的問題,経済が原因なのだ。

デイビッド・モンゴメリー 片岡夏実(訳) (2010). 土の文明史:ローマ帝国,マヤ文明を滅ぼし,米国,中国を衰退させる土の話 築地書館 pp.274

リンの奪い合い

 リンの鉱床を持たない工業化途上のヨーロッパ諸国も,グアノ島の獲得に奔走した。ドイツはリンが豊富なナウルを1888年に併合したが,第一次大戦後,国連加盟国がイギリス統治下に置いたために,失うこととなった。1901年,イギリスはオーシャン島——14キロ四方のリンの山——を併合した。イギリス国有のパシフィック島会社は,グアノをオーストラリアとニュージーランドに売ることを望んでいた。いずれも安価なリンがなかったからだ。年間の支払額50ポンドで同社は島全体の採掘権を,権限のはっきりしない現地の首長から買った。そのような手続きの面倒など問題ならないほど儲けは大きかった。オーシャン島のリン取引量は,1905年には年間10万トンに達していた。
 第一次大戦後,イギリスリン鉱委員会はパシフィック島会社を買収し,ナウルからのリン採掘を6倍に増やした。島民は,イギリスが島の植生と土壌をはぎ取って自分たちの土地を壊していると抗議した。それに応えて,イギリス政府は残された採掘可能な土地を没収した。その直後,島全体で深部採鉱が始まった。以後,毎年100万トンのリンが英連邦の農場に向けて送られた。ナウルは1968年に独立したが,リン鉱床は大部分が消え,政府はほぼ破産状態である。かつて豊かな天国だったこの島国——世界一小さな共和国——は完全に露天掘りされてしまった。わずかに残った島民は,掘りつくされて月面のような不毛な地となった内陸部を取り囲む沿岸に住んでいる。
 オーシャン島も似たり寄ったりである。リン鉱床は1980年までに枯渇し,外国の土をより肥やすために人が住めなくなった土地で,住民はなんとか暮らしを立てている状態だった。島は現在,タックスヘイブンを産業にしている。

デイビッド・モンゴメリー 片岡夏実(訳) (2010). 土の文明史:ローマ帝国,マヤ文明を滅ぼし,米国,中国を衰退させる土の話 築地書館 pp.255-256

アメリカの砂嵐

 1933年の最初の大きな暴風は,11月11日にサウスダコタを一掃した。たった1日で表土をすべて失った農地もあった。翌日,空は昼まで暗かった——空気1に対して砂塵が3の割合で混ざっていたのだ。これが小手調べに過ぎないとは誰にもわからなかった。
 1934年5月9日,モンタナとワイオミングの農地が強風に引き裂かれた。南北ダコタを横断した風は土砂を巻き上げ続け,3億トン以上の表土が時速150キロで東へ飛んでいった。シカゴでは住民1人あたり2キログラムの砂埃が空から落ちてきた。翌日,ニューヨーク州北東部のバッファローは真昼だというのに暗くなった。5月11日の明け方には,砂塵はニューヨーク市,ボストン,ワシントンに積もっていた。大きな茶色の雲は大西洋のはるか彼方から見えた。
 常に植生に覆われ,数百万のバッファローが草を食んで(そして肥料を与えて)いたときには回復力を持っていたプレーリーも,すき起こされ長引く旱魃に乾ききると粉々に崩れてしまった。土壌を固定する草とその根がないため,数十年前なら何事もなく吹いていた風は,田園地帯を砂混じりのハリケーンのように引き裂いた。しおれた作物の刈り株の根元から,むき出しの乾燥した土壌が強風に飛ばされ,広大な地域で流された土砂が吹きだまった。強風が巻き上げた大量の砂塵は,人間を窒息させ,作物を切り裂き,家畜を殺し,遠く離れたニューヨーク市を不気味に覆い隠した。
 国家資源委員会は,1934年末までに,砂嵐はバージニア州よりも広い面積を破壊したと報告した。加えて4000万ヘクタールが深刻な被害を受けた。

デイビッド・モンゴメリー 片岡夏実(訳) (2010). 土の文明史:ローマ帝国,マヤ文明を滅ぼし,米国,中国を衰退させる土の話 築地書館 pp.205-206

タバコの栽培

 1790年代まで,奴隷労働で耕作されるプランテーションは,タバコ以外ほとんど栽培していなかった。18世紀末に南部のプランテーションが多様な作物を栽培し,より多くの家畜を飼うようになるにつれ,奴隷労働の収益は減っていった。綿花栽培の隆盛で奴隷売買が再び活性化するまで,南部住民の多くは,奴隷制度は経済的に忘れ去られるだろうと思っていた。綿花はタバコと同じくらい土地に負担をかけ,タバコに輪をかけて奴隷労働に依存した。
 奴隷労働には単作農業が必要と言ってもいい。そのため1年の大半,土地は裸のまま放置され,侵食されやすくなる。単作への依存は輪作と堆肥の安定供給源の増加を共に妨げる。タバコか綿花以外に何も栽培されなければ,餌となる穀物や牧草が不足し,家畜を飼うことはできないからだ。いったん定着してしまうと,奴隷制度はモノカルチャーを経済的に不可欠なものにした——そして逆もまた同様であった。南北戦争までの半世紀,南部の農業は奴隷労働に依存した結果,土壌保全策の普及を阻害した。それは土壌の疲弊を保証したも同然だった。

デイビッド・モンゴメリー 片岡夏実(訳) (2010). 土の文明史:ローマ帝国,マヤ文明を滅ぼし,米国,中国を衰退させる土の話 築地書館 pp.185

同じことの繰り返し

 森林を小さく短い期間切り開くということをせず,アマゾンの移民は一度に広い範囲を伐採し,過放牧で侵食を加速させ,土地から生命力を搾り取っている。森林皆伐,小農経営,大牧場という現在のサイクルは表土をはぎ取り,土壌肥沃度の回復能力をほとんど破壊している。その結果,土地が支えることのできる人間の数は少なくなっている。現在アマゾンで起きていることは,我々が思っている以上に北アメリカの歴史によく似ていると考えられる。今なお類似点は根本的であると同時に明白なのだ。

デイビッド・モンゴメリー 片岡夏実(訳) (2010). 土の文明史:ローマ帝国,マヤ文明を滅ぼし,米国,中国を衰退させる土の話 築地書館 pp.157

低カロリー

 イングランドの人口増加は,黒死病以降産業革命までの農業生産の増加を反映している。1750年から1850年の間に,イングランドの穀物生産量と人口は共に倍増している。人口の増加が農産物の需要を押し上げたのだろうか?それとも農業生産の増加が人口増を速めたのだろうか?因果関係をどう見るにせよ,二つは並行して増えている。
 それにもかかわらず,人口が増大するにつれヨーロッパ人の食事は貧弱になっている。耕作できる土地がほとんどすべて耕作されてしまうと,ヨーロッパ人はしだいに野菜,粥,パンを常食とするようになっていった。冬の間家畜に与える余剰の作物がなく,後には共有地で放牧ができなくなったので,肉を食べることは上流階級の特権となった。1688年にロンドンで出版された匿名の小冊子は,大規模な失業はヨーロッパに「人間が多すぎる」ことが原因であるとし,アメリカへの大量移民を勧めた。19世紀初め,ほとんどのヨーロッパ人は1日2000カロリー以下で生きていた。これは現代のインドの平均とほぼ同じであり,ラテンアメリカや北アフリカの平均より少ない。畑を懸命に耕すヨーロッパの農民は,週に3日働くだけのカラハリ砂漠のブッシュマンよりも食べられなかったのだ。

デイビッド・モンゴメリー 片岡夏実(訳) (2010). 土の文明史:ローマ帝国,マヤ文明を滅ぼし,米国,中国を衰退させる土の話 築地書館 pp.133-134

土壌の限界と病気

 ヨーロッパに壊滅的な打撃を与えた1315〜17年の飢饉は,人口が農業システムの支えられる限界に近づいたときに,天候不良が影響すればどうなるかをまざまざと示している。1315年はどの季節も雨が多かった。畑が冠水し,春まきの種はだめになった。収穫高は平年の半分で,なけなしの干し草は収穫時に濡れており納屋の中で腐った。1316年初頭には食糧不足が拡がり,人々は翌年の種としてとってあった収穫物を口にせざるを得なくなった。夏中雨が続いて,また不作になり,コムギの価格は3倍に上がった。貧しい者たちは食糧が買えず,金持ちは——王さえも——買おうとしても常に手に入るとは限らなかった。飢えた農民の集団は盗賊に転じた。飢饉のひどい地方では人肉食に及ぶこともあったという。
 栄養失調と飢餓が西ヨーロッパを悩ませ始めた。イングランドとウェールズの人口は,ノルマン人の侵入以降ゆっくりと,しかし着実に増加し,それが1348年の黒死病の流行まで続いた。大飢饉が死者をさらに増やした。イングランドとウェールズの人口は,1300年代初めの約400万人から,1400年代初頭には約200万にまで落ち込んだ。ヨーロッパ大陸の人口は4分の1減少した。
 黒死病で田園地帯の人口が激減した後,地主たちは競って小作人を引き留めようとして,そこそこの小作料で終身あるいは相続可能な耕作地の借地権を与えた。人口が回復すると,それが農業拡大の最後の一押しとなり,16世紀初頭には景観は見渡すかぎり農地になった。1500年代末より,高騰した相場で土地を貸せばより多くの小作料が見込めることから,地主たちはそれまで共同で放牧されていた土地を囲い込み始めた。すでに土地が残っておらず,有力な隣国に取り囲まれていたオランダは,海を干拓して土地を得るという野心的な行動に乗り出した。

デイビッド・モンゴメリー 片岡夏実(訳) (2010). 土の文明史:ローマ帝国,マヤ文明を滅ぼし,米国,中国を衰退させる土の話 築地書館 pp.122-123

土壌の変化と盛衰

 端的に言えば,ヨーロッパの先史時代は,農耕民が徐々に移住し,その後土壌侵食が加速し,ローマ時代あるいは近代まで人口密度が低い時代が続くというものだった。ギリシアやローマと同様,中欧と西欧でも,初期の森林伐採と耕作,それらが引き起こした大規模な侵食,引き続いて発生した人口減とその後の復活という物語があったのだ。
 ローマ帝国が崩壊すると,文明の中心は北へ移った。ディオクレティアヌスは首都ローマを捨て,紀元300年にミラノへ政府を移した。テオドリクスは,ローマ帝国の廃墟の上に東ゴート王国を建国した際,北方のベローナを新たな首都に選んだ。それでも,北イタリアの農地の多くは,11世紀の開墾計画により再び耕作が始まるまで,数世紀の間,休耕状態に置かれていた。何世紀にもわたり努力が続けられた結果,北イタリアの農地は再び耕作され,ルネッサンスの文学と美術をはぐくんだ裕福な中世都市を支えた。
 北イタリアの人口が再び増加すると,集約的な土地利用のためにこの地域の河川の土砂流出量は増加して,レオナルド・ダ・ビンチの目に留まるまでになり,ローマ時代の河川工学と洪水調節の技術が復活した。山腹の集約的耕作はアルプス地方に拡がり,ローマの土地利用がテベレ川にもたらしたのと同様の結果をポー川にもたらした。8世紀にわたり耕作が繰り返された末,北イタリアの土壌までもが劣化した。ムッソリーニのファシスト政権は1930年代に約5億ドルを土壌保全に出費した。

デイビッド・モンゴメリー 片岡夏実(訳) (2010). 土の文明史:ローマ帝国,マヤ文明を滅ぼし,米国,中国を衰退させる土の話 築地書館 pp.117-118

土壌改良

 多くの古代農業社会と同様に,土壌の肥沃度が低下し,新しい土地が手に入らなくなると,ヨーロッパ人は今ある泥を改良する努力を始めた。しかし春夏の豪雨が裸の農地からの土壌侵食を増加させる地中海とは違い,西ヨーロッパの穏やかな夏の雨と冬から春にかけての積雪は,耕すときわめて侵食されやすいレスの土壌の侵食を抑えた。さらに,土壌管理を再発見したことで,植民地帝国が確立して新たに搾取する土地が手に入るまで,西ヨーロッパは土壌の劣化と侵食を食い止めておくことができた。

デイビッド・モンゴメリー 片岡夏実(訳) (2010). 土の文明史:ローマ帝国,マヤ文明を滅ぼし,米国,中国を衰退させる土の話 築地書館 pp.110-111

土が失われれば

 モーセ一行が到着したとき,カナンはエジプトの軍事的ゆういに従属する都市国家の集まりだった。堅固に防備されたカナンの都市が,農業に適した低地を支配していた。躊躇なく,新参者たちは空いている高台を耕した。「山地は森林だが,開拓してことごとく自分のものにするがよい」(「ヨシュア記」17章18節日本聖書協会『新共同訳』)。小さな村に住みついた彼らは,丘陵地の森を切り開いて階段状にした斜面を耕し,約束の地に足場を固めた。
 イスラエル人は新しく拓いた中腹の農地で,カナンの伝統的農法を採用し,隣人たちが栽培するものを栽培した。しかし彼らは輪作と休耕も行ない,雨水を集めて段々畑に配水するシステムを設計した。新たに鉄器が開発されたことで収量が増え,余剰作物が生まれ,より大きな集落を支えることができるようになった。畑を7年ごとに休耕にすることが義務づけられ,動物の糞と藁を混ぜて堆肥が作られた。土地はイスラエルの民が世話を委ねられた神の財産であると考えられていた。ユダヤ(訳註:古代パレスチナ南部)の高地で,よく手入れされた石造りのひな壇が,数千年間耕作されてなお土を保っていることにラウダーミルクは注目した。
 後のローマ統治下で農業の規模が拡大し,そのために中東の属州では紀元1世紀までに森林が切りつくされた。傾斜が急すぎて耕作に適さない土地にある森は,例によって牧草地になった。至る所でヤギとヒツジの群れが草を食べつくした。あまりに多くの家畜が急斜面に放牧されると,壊滅的な侵食が起きた。数千年かけて堆積した森林土壌が消えた。土が失われれば,森も失われる。

デイビッド・モンゴメリー 片岡夏実(訳) (2010). 土の文明史:ローマ帝国,マヤ文明を滅ぼし,米国,中国を衰退させる土の話 築地書館 pp.97-98

北アフリカは穀倉地帯だった

 現在では,北アフリカが古代世界の穀倉地帯だったとは考えがたい。しかし北アフリカの穀物は紀元前330年にギリシアの飢饉を救い,ローマがカルタゴを征服したのには農地獲得の意味もあった。ローマ元老院はキレナイカ(カルタゴとエジプトに挟まれた北アフリカ沿岸部)を紀元前75年に併合した。その年,スペインでの戦争とガリアでの不作のために,北部属州では自分たちの食料供給が精いっぱいで,まして首都を養うことなどできなかった。ローマでは飢えた民衆が暴動を起こしたため,穀物の生産力を求めて元老院はキレナイカを併合したのだろう。
 この地域で古代に甚だしい土壌侵食が起きていたことを示す証拠は,ローマ時代以降,北アフリカの灌漑農業が放棄されたことの原因を気候変動に求める見解に疑問を投げかける。ローマが支配していた北アフリカの大部分は限界耕作地であったが,1980年代半ばのユネスコの調査で報告された考古学的証拠は,初期のローマ人の入植が自給自足の個人農家によるものであったという記録を裏付けている。その後数世紀かけて,農地が併合され,輸出向けの穀物とオリーブの栽培を目的とする大規模農場となるにつれて,灌漑農業が徐々に広まっていった。

デイビッド・モンゴメリー 片岡夏実(訳) (2010). 土の文明史:ローマ帝国,マヤ文明を滅ぼし,米国,中国を衰退させる土の話 築地書館 pp.86

偶然ではなく

 ギリシアにある新石器時代の遺跡から発掘された作物の種類は,青銅器時代以前の農業がきわめて多様性に富んでいたことを示す。ヒツジ,ヤギ,ウシ,ブタが,集約的に耕作される小さな混作農地に飼われていた。鋤の使用を基本にした大農園をウシが耕す農業の形跡が,多様な小規模農家からプランテーションへの段階的な移行を伝えている。青銅器時代の後期には,広い範囲が穀物栽培に特化した農園に支配されていた。小規模農場がだんだんと土壌侵食が起こりやすい限界耕作地へと拡大するにつれ,オリーブとブドウの評価が高まった。これは偶然などではない——これらは薄い岩がちな土壌でよく育つのだ。

デイビッド・モンゴメリー 片岡夏実(訳) (2010). 土の文明史:ローマ帝国,マヤ文明を滅ぼし,米国,中国を衰退させる土の話 築地書館 pp.71

プラトンとアリストテレスの気づき

 アリストテレス(紀元前384〜322年)は,青銅器時代の土地利用が土壌の生産力を低下させたという確信をプラトンと共有していた。その弟子テオフラストス(紀元前371〜286年)は,下層土の上にあって植物に養分を供給する腐植に富んだ層を含め,異なる層位から成る土壌の6種類の区分を認識していた。テオフラストスは肥沃な表土とその下の土との区別を強調した。
 プラトンもアリストテレスも,青銅器時代の土地利用がその地域の土壌を劣化させた形跡に気づいていた。数千年といくつもの文明を経て,考古学者,地質学者,古生態学者らはアリストテレスによる時代の推定が正しかったことを立証した。農耕民は紀元前5000年ごろに到着し,紀元前3000年には地域一帯に数十の農村集落が散在していた。土壌侵食の深刻な影響が初めて現れたとアリストテレスが断定する時期には,耕作が盛んになっていた。このような知識は,しかし,古代ギリシアが同じ轍を踏むのを防ぐには役立たなかった。

デイビッド・モンゴメリー 片岡夏実(訳) (2010). 土の文明史:ローマ帝国,マヤ文明を滅ぼし,米国,中国を衰退させる土の話 築地書館 pp.66

運命を決める道具

 斧よりも鋤がその地方の運命を定めるのだと,ラウダーミルクは述べる。「人間は地形を操作することはまったくできないし,地面に注ぐ雨の降り方にもほとんど手を出せない。人間は,しかし,土層を操作することができ,そして山地では土層がどうなるかを明確に決定づけることができる」。ラウダーミルクは,この省のかつての住人たちが,耕作の楽な谷底の森をどのようにして切り払ったかを推定した。人口が増えるに従い,農地は斜面の上へと拡がっていった。ラウダーミルクは高い山の頂上に放棄された畑の形跡まで見つけた。この地方の急斜面で農業を行なった影響を考察したラウダーミルクは,剥き出しにされ,鋤の入った斜面から,肥沃な土壌は夏の雨によってわずか10〜20年ではぎ取られてしまっただろうと結論した。また,地域一帯で斜面の農地が放棄された形跡が多数見つかったことから,過去のある時期,この地方全体で耕作が行われていたと結論づけた。まばらな人口と,放棄された大規模な灌漑システムの対照的な姿は,よき時代が過ぎ去ったことを物語る。

デイビッド・モンゴメリー 片岡夏実(訳) (2010). 土の文明史:ローマ帝国,マヤ文明を滅ぼし,米国,中国を衰退させる土の話 築地書館 pp.59-60

家畜の歴史

 ヒツジは直接食糧にするためと経済的に利用するために紀元前8000年前後に家畜化された。コムギとオオムギが栽培品種化される数百年前のことだ。ヤギはほぼ同じ頃にイラン西部のザグロス山脈で家畜化された。最初期の作物の種は家畜の飼料を栽培するために集められた可能性がある。
 ウシはギリシアまたはバルカン諸国で紀元前6000年ごろに初めて家畜化され,中東とヨーロッパに急速に広まった。農業と畜産の革命的な融合は,成長中だったメソポタミアの農耕文明にウシが届いたときに始まった。鋤が発達すると,ウシは農地で働き,肥料を与えた。動物の労働力を動員すると農業生産性は高まり,人口は飛躍的に増大した。家畜の労働力のおかげで,農業人口の一部は野良仕事から解放された。
 作物生産と畜産の同時発達は,互いに補強しあい,共に食料生産の増加を可能にした。ヒツジとウシは植物の人間が食べられない部分を乳や肉に変える。家畜は労働力によって収穫を増やすだけではない。その糞尿は肥料として,作物が吸い上げた土壌の養分を補充するのに役立つ。増収分の作物はさらに多くの動物を養い,より多くの肥料が生みだされ,また収量が増加してより多くの人々を養う。ウシの力を利用すれば,一人の農民が家族を養うのに必要な以上の食糧を生産できる。鋤の発明は文明に革命をもたらし,地球の表面を変貌させた。

デイビッド・モンゴメリー 片岡夏実(訳) (2010). 土の文明史:ローマ帝国,マヤ文明を滅ぼし,米国,中国を衰退させる土の話 築地書館 pp.45-46

地球の皮膚

 土壌とはまさに地球の皮膚——地質学と生物学が出会う場所だ。数十センチ以内ということは,土壌が占めるのは地球の半径6380キロメートルのうち,1000万分の1をわずかに超えるにすぎない。一方,人間の皮膚は厚さ2ミリメートルほど,平均的な身長の人間の1000万分の1弱である。割合から言えば,地球の皮膚は人間の皮膚よりもはるかに薄く,壊れやすい層なのだ。身体を保護する役割を持つ人間の皮膚とは違い,土壌は岩石を砕く破壊力を持った覆いとして機能する。地球の誕生以来,土壌生成と侵食のバランスのおかげで,生命は風化した岩石の薄い殻を頼りに生きてこられたのだ。

デイビッド・モンゴメリー 片岡夏実(訳) (2010). 土の文明史:ローマ帝国,マヤ文明を滅ぼし,米国,中国を衰退させる土の話 築地書館 pp.30

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