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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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土の中の発見

 自分の測定をもとにダーウィンは,典型的なイングランドの丘の斜面10メートルにつき,1年に0.5キログラムの土壌が斜面の下へ動いていると算出した。そしてイングランド全土で,目に見えぬミミズの大群が土壌を再処理するにつれて,一面の泥がゆっくりと芝に覆われた丘の斜面を這い降りているのだと結論した。イングランドとスコットランドのミミズは,ひっくるめてほぼ5億トンの土を年間に移動させている。ミミズは数百万年かけて土地を作り変えることができる大きな地質学的な力だとダーウィンは考えた。

デイビッド・モンゴメリー 片岡夏実(訳) (2010). 土の文明史:ローマ帝国,マヤ文明を滅ぼし,米国,中国を衰退させる土の話 築地書館 pp.14
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ダーウィンの研究

 チャールズ・ダーウィンの最後にしてもっとも知られざる著書は,特に物議をかもすようなものではなかった。1882年に死去する1年前に刊行されたこの本は,ミミズがいかにして泥と朽ち葉を土壌に変化させるかを主題とするものだった。この最後の著作にダーウィンが記録したことは,一生かけてつまらない観察をしたと思われかねないものだ。それともダーウィンは,この世界の根幹に関わる何かを発見したのだろうか——晩年を費やしても後世に伝えねばならないと思う何かを。耄碌して書いた珍妙な著作として片づける批判的な者もあったが,ダーウィンのミミズに関する本は,私たちの足元の大地がミミズの体を通じていかに循環しているか,ミミズがイギリスの田園をいかに形成しているかを探るものだった。

デイビッド・モンゴメリー 片岡夏実(訳) (2010). 土の文明史:ローマ帝国,マヤ文明を滅ぼし,米国,中国を衰退させる土の話 築地書館 pp.10

同じ道筋

 おおまかに言って,多くの文明の歴史は共通の筋をたどっている。最初,肥沃な谷床での農業によって人口が増え,それがある点に達すると傾斜地での耕作に頼るようになる。植物が切り払われ,継続的に耕起することでむき出しの土壌が雨と流水にさらされるようになると,続いて地質学的な意味では急速な斜面の土壌侵食が起きる。その後の数世紀で農業はますます集約化し,そのために養分不足や土壌の喪失が発生すると,収量が低下したり新しい土地が手に入らなくなって,地域の住民を圧迫する。やがて土壌劣化によって,農業生産力が急増する人口を支えるには不十分となり,文明全体が破綻へと向かう。同様の筋書きが孤立した小島の社会にも,広大で超地域的な帝国にも当てはまるらしいということは,本質的に重要な現象を示唆する。土壌侵食が土壌形成を上回る速度で進むと,その繁栄の基礎——すなわち土壌——を保全できなかった文明は寿命を縮めるのだ。

デイビッド・モンゴメリー 片岡夏実(訳) (2010). 土の文明史:ローマ帝国,マヤ文明を滅ぼし,米国,中国を衰退させる土の話 築地書館 pp.8

システムの問題

 仮にセ・リーグの先発投手が全試合6回2失点を続けたとしましょう。そうすれば防御率は3.00。6回3失点なら4.50です。
 一方で,セ・リーグなら代えられてしまう6回2,3失点でも,DHのない(引用者注:「ある」の誤植?)パ・リーグは打順の巡り合わせに悩むことなく投手を可能な限り投げさせることができます。そうすると残り2回をきちんと抑え,8回2失点を続けた場合防御率は2.25,3失点を続けた場合3.38となると,約1点の防御率の開きが出てきてしまうのです。
 北海道日本ハムファイターズのダルビッシュ有や埼玉西武ライオンズの涌井秀章などは4点取られても完投してしまうゲームがざらにあります。こうしたシステムによってパ・リーグの先発投手には「完投して当然」とまではいかなくても,6回でKOという感覚で投げている投手は少ないでしょう。ですから,その数字上のデータだけを見てパ・リーグの投手の方が優れている,という指摘は,ちょっと違うのではないかと思います。ただ,こういった環境にいるため,パ・リーグの方が体もメンタルも強い選手が生まれているということはあるかもしれません。

今中慎二 (2010). 中日ドラゴンズ論:“不気味”さに隠された勝利の方程式 KKベストセラーズ pp.144-145

審判の体調まで

 2010年4月27日の巨人戦でのこと。2回裏のドラゴンズの攻撃が始まる直前,落合監督は球審の森健次郎さんのところへ歩み寄り何かを告げると,森さんはグラウンドを後にしました。実は極度の体調不良だったのです。これにいち早く気づいた落合監督は,「ヘタしたらゲーム中に倒れていた。そうなればゲームが中止になっていたかもしれない。それを見てあげるのも俺らの仕事じゃないのか」と試合後に話していましたが,これにはさすがに驚きました。審判の動きまでチェックしている監督など聞いたことがありません。きっと,試合前からその異変に気づいていたのだと思いますが……。とにかく普通の人ならば気がつかないようなところをチェックし,常に広い視野で目を光らせているというのは間違いありません。落合博満という監督を表すひとつの好例といえるでしょう。

今中慎二 (2010). 中日ドラゴンズ論:“不気味”さに隠された勝利の方程式 KKベストセラーズ pp.101-102

スロースターター

 このように私の現役時代はもとより,ドラゴンズの選手たち,特にベテランになればなるほどコンディションづくりに関して,開幕=ピークとは考えていないのです。選手個人によって調子がピークになる時期はそれぞれですが,ドラゴンズの場合,チーム内で見ても総じてスロースターターの選手が多いですよね。特に野手に関しては,春先はパッとしない成績だったが,気がつけば最低限の数字を残している選手が少なくありません

今中慎二 (2010). 中日ドラゴンズ論:“不気味”さに隠された勝利の方程式 KKベストセラーズ pp.25

自然分類

 我々の使うコトバは,我々の心身機能という自然の何らかの反映である。従って,コトバを使ういかなる分類も,何らかの形で自然の秩序を反映しているに違いない。故に,すべての分類はある意味では自然分類である。そこで何が最も自然かと言えば,最も沢山の人々に受け入れられる分類体系が,最もよい自然分類体系ということになる。このようにして沢山の人々に受け入れられた分類体系は,ある時代と地域の人々の思想・文化そのものとなる。

池田清彦 (1992). 分類という思想 新潮社 pp.214

よい分類体系

 真の科学的分類群は,分類学者が比較形態学的な研究を重ねて,原型(すなわち,沢山の形態の間の変換規則の同一性)という仮説を構築することによってのみ導くことができる。そして,このようにして導かれた分類体系が,我々の自然言語を含む認知パタンと齟齬を来たさない時は,この体系は科学的分類体系であると同時に,よい自然分類の体系であると言うことができるのである。
 パタン分析主義者は,パタン分析によって導かれる分類体系は特定の進化モデルに依拠しない一般参照体系であると豪語しているが,科学の目的は一般参照体型を構築することにあるのではなく,何らかの仮説に基づいた体系を構築することにこそあるのだ。分類群を何らかの仮説に基づいて実定してこそ,分類学と言えるのである。一般参照体系によって析出される分類群が,共通要因の結果生じた分類群である確率が最も高い,というパタン分析主義者の言明は,その分類群の科学的正当性を全く保証しない。共通要因を仮構しないで導いた一般参照体系は研究作業の一プロセスにすぎない。重要なのは共通要因を仮構して,それに基づいて分類群を実定することである。一般参照体系は所詮ただの道具にすぎない。一般参照体系が最も合理的かつ科学的な分類体系であるという言明が唯一正しいのは,我々は決して分類群を分類群たらしめている共通要因を仮構することができない,という不可知論が正しい時だけである。不可知論を自らの理論の正しさの根拠にしている科学理論がまっとうなものであると考えることは,私にはできない。

池田清彦 (1992). 分類という思想 新潮社 pp.194-195

分類するもの

 分類学者は生物個体や種を分類しているのであって,DNAなどの分子を分類しているわけではないから,DNAによる分類体系が,自然言語に代表される類似に関する直観(これは主として形態の類似に関する直観である)と矛盾すると,自然分類体系としては具合が悪いことになる。
 私のようにDNAの相同性や分岐による分類は,体長による分類とさしてレベルが違わない人為分類だと思っているものにとっては,分類と分岐は原理的には全く関係がないと思えるけれども,極端な歴史主義の呪縛から自由でない人々は,何としても分岐を分類の基準にしなければならないと信じている。
 ところが何度も言うように形態は分岐とは直接関係がない。そこで,形態の中に分岐パタンを反映する形態と,そうでない形態があると勝手に決めて,後者を無視し,前者だけで分類をすれば,歴史主義的な形態分類ができるという話になってきてしまったのである。

池田清彦 (1992). 分類という思想 新潮社 pp.120-121

インチキ臭い

 ところで,アフリカ人と中国人が事実として,長い期間交叉を起こさずに独立に進化(形態変化)したとしよう。あるとき出合ってみたら,交叉が不可能だったとしよう(もちろん,現実はそうではないが)。交叉が不可能になった要因を特定することはさしあたって不可能だから,この場合は分岐をもって交叉不能の原因であるかのように思い込むことができるわけである。すなわち分岐は種を作る。もちろん実際には,実は分岐が起こっていないのだと,言う他はないのである。すると分岐が起こっていなくとも形態が変化するわけだから,形態変化の原因は分岐では決してあり得ない事になる。
 結果として分岐が起きた(交叉が生じなかった)時の,二系列の形態の差異の原因は分岐であると言い,結果として分岐が生じなかった(交叉が起きた)時の,二系列の形態の差異の原因は分岐でない,と言うのはどう考えてもインチキくさい。

池田清彦 (1992). 分類という思想 新潮社 pp.116-117

方法論的同一性

 伝統的な科学観からすれば,科学は真実を追求するものであるから,反表形学派の言い分はまことにもっともなように思えるだろう。ところが流行している科学の分野をみわたすと,ほぼ例外なく方法論的同一性を有していることがわかる。すなわち,一定の順序を踏みさえすれば誰にでもとれるデータ。データを解析するためのマニュアル。解析結果を解釈する体系。私にしかできない名人芸などは科学にとって無縁なものなのである。世間では科学者と独創的という2つの語は,なんとなく相性がよいように思われているらしいが,人並みの科学者として成功する秘訣は,何よりもまず非独創性なのである。もちろん,独創的な科学者もいるにはいるが,それは大科学者かおちこぼれのどちらかである。
 独創性を発揮して大科学者になるためには現在流行している方法論的同一性を別の方法論的同一性に変革しなければならない。事の定義からして,すべての科学者が独創的な大科学者になる事はできない。なぜなら,すべての科学者が別々の方法論的同一性を主張すると,そもそも,一般的な方法論的同一性が成立せず,その分野は科学と認められなくなってしまうだろうから。

池田清彦 (1992). 分類という思想 新潮社 pp.98-99

分類の概念

 ところで,ラマルクやキュヴィエによって進化とか機能とかの概念が与えられて以来,生物の類似性は単に見てくれだけのものではなく,何かかくれた根拠を持つとの考えが強くなった。そこで分類の理念は次の4つに分極する。
 (1)自然分類は形態の類似度を定める客観的な基準によって行えばよく,それ以上の深い根拠を求める必要はないとの表層主義。
 (2)自然分類は生物の進化(歴史)を根拠にして行うべきとの歴史主義。
 (3)自然分類は見てくれの類似性を発する根拠としての不変の構造によって行うべきとの構造主義。
 (4)どんな分類基準も所詮は人間の認知パタンや思考パタンから免れるものではなく,自然分類もまた,自然言語や類似性に関する人間の認知形式と整合的な人為分類の一種にすぎないとの規約主義。
 理念的な問題だけで言えば,(1),(2),(3)の立場は互いに背反して,しかもすべて(4)を許容しないが,(4)の立場は(1)や(2)や(3)を許容する。なぜならば(1),(2),(3)のやり方もまた,人が類似性を考える時のひとつの形式であると考えるからである。

池田清彦 (1992). 分類という思想 新潮社 pp.85-86

ウイルスは生物に入るか

 もう少し明示的な名を使ってみよう。たとえば,自己複製するものは生物である。子供のできない人は生物ではなくなるのではないかという疑問は,言い方を少し変えれば解消するとして(自己複製されたものが生物である),困るのはウイルスである。
 ウイルスはDNAまたはRNAを含む微小なタンパク質の袋で,自力では自己複製ができず,必ず,他の原核生物や真核生物の中に入り込んで,これらの代謝機能を利用して自己複製する。トリヴィアルな言い方をすれば,ウイルスは他の細胞に寄生することによってのみ生きている。もちろん,このような言い方が成立するためには,ウイルスは生物であるという前提が必要になる。
 ところがよく知られているようにウイルスは単独でいる時には代謝をしていない。別の言い方をすればエネルギーの出入りがない。エネルギーの出入りがない点では,そこいらへんにころがっている本や椅子と同じである。単独でいる時のウイルスは単なる高分子に過ぎない。場合によっては結晶になってしまう。我々のナイーブな感覚では結晶になるようなものは鉱物であって生物ではない。
 だから,たとえばウイルスがカブトムシぐらいの大きさがあれば,ウイルスは生物であるとする言説は成立しない。ウイルスが生物であるとする説がもっともらしくみえるのは,ウイルスが見えないからである。

池田清彦 (1992). 分類という思想 新潮社 pp.28-29

非明示的な名

 しかし,ここでも注意しなければならないのは,生命という自然言語の名が,生命を解明しようとする生物学の方法を,すみずみまでしばっていることである。生命を一言で言い当てようとして提唱された,気や霊魂よりほんのわずかでも明示的なすべての名は,生命という自然言語の名により却下され続けている。
 たとえばDNAが含まれている物を生命体だと言ってみる。するとDNAが入っている試験管も生物になってしまう。仕方がないからDNAが機能する空間を有するものを生命体と言い換えてみる。するとなんだか納得できたような気分になってくる。なぜそうなるか,おわかりですか。機能という名は生命という名と同じくらい,非明示的な名だからである。

池田清彦 (1992). 分類という思想 新潮社 pp.28

実体と分類基準

 ともあれ,原核生物も真核生物もそれらを二分する分類基準も決して自然言語の名ではない。原核生物とか真核生物とかいう自然言語の名があって,これらを厳密に分ける分類基準が発見されたのではない。合理的な(と信じられた)分類基準の発見と同時に,分類すべき実体も定まったのである。なぜこのようなことになるかというと,分類すべき実体(直接的には原核生物と真核生物)と分類基準(核膜,細胞内器官など)は肉眼では見えず同じ顕微鏡下の可視レベルにあるからである。自然言語に囚われずに分類できる場合,その分類はおおむねスムーズにゆくことが多い。もちろんこのことは,その分類が唯一の合理的な分類であることを意味するわけではない。

池田清彦 (1992). 分類という思想 新潮社 pp.26-27

なまえ,コトバ

 なまえあるいはコトバというのは恐ろしいものである。なまえがいかに人々をとりこにするかは,ブランド品志向や有名大学志向の人が大勢いるし,官名詐称などという罪があることからも明らかである。もちろん,なまえを崇拝している人々はなまえではなく実質を重んじているのだ,と言うにきまっている。
 「やっぱり本物は違いますよ」「なんといったって東大生ですからね。やっぱりココ(と言って頭を指す)が違いますよ」「やっぱり大学の教授ともなれば,たいしたものですよ」とまあこういうわけである。現代のなまえ崇拝者は,二言目には「やっぱり」と言うのですぐに見分けることができる。

池田清彦 (1992). 分類という思想 新潮社 pp.15

わがまま

 科学者は自分の専門について本質的にわがままであり,また社会から科学研究への資源投入には制約があることから,社会は科学の進化について何らかの調整機能をもつ必要がある。しかし,この調整機能は,西欧および米国に観るように,科学者社会が責任をもつべきであろう。国家が調整を行なうことは発展途上国がすることである。科学者社会にも責任がある。研究費ほしさに研究費の出やすい方向に向けて尻尾を振ることは自殺行為である。
 とくに大学という社会の知性を担うべき組織においては,たとえ政府からの資金が短期的に経済的利益を追求する方向にあっても,独自に長期的・発見的な方向に研究資源を振り向けることが必要になる。これから,大学の管理者の見識が後世に問われる時代に入る。

市川惇信 (2008). 科学が進化する5つの条件 岩波書店 pp.105

矛盾を含む世界

 日本社会が科学を生まなかった本質的理由は,世界は矛盾を含む存在であるとする矛盾世界観をもつことにあると考える。日本社会は多神教社会であり,この当然の帰結として矛盾の存在を容認する社会である。科学の必要条件である整合的世界観をもたなかった結果として,文化の成熟が対応する時代の西欧キリスト教社会と同等あるいはそれ以上であったにもかかわらず,科学を生まなかった。


市川惇信 (2008). 科学が進化する5つの条件 岩波書店 pp.101-102

日本語は科学に向いていない?

 識者の一部には,日本語の表現が曖昧であることをもって,論理的でなく科学の記述に向いていないと称える人がいる。これは問題の把握が適切でない。「日本語の表現が曖昧である」のではなく,「日本語では曖昧な表現が可能である」と考えるべきである。このことは,日本語による厳密な論理的表現が可能であり,科学論文が書けることから明らかである。このことの証左の第1は,厳密であるとするラテン語の系譜にある英語,フランス語,ドイツ語などインドヨーロッパ系言語を日本語に翻訳できることにある。曖昧な表現しかできないならば翻訳はできないはずである。逆についても同様である。日本語をインドヨーロッパ系言語に翻訳しようとするとき,表現が曖昧なために困難を感じる,という。これは日本語の表現を曖昧にして使っているからである。ここに,現在の日本語の使い方,遡れば日本語の教育の問題があると私は考える。

市川惇信 (2008). 科学が進化する5つの条件 岩波書店 pp.100-101

人間原理

 目的論を避けて目的を求めると,言い換えにすぎない説明が生まれる。その例に「人間原理」がある。現在の物理学において,電子の電荷,光の速度,プランクの定数などの基本定数が現在の価から少し異なると,あるいは,基本定数の値は同じであってもビッグバンを起こした真空のエネルギーが少しでも異なると,宇宙がまったく違ったものとなり,人も発生しないことがわかっている。そこで,宇宙はなぜ現在見られるような存在なのかという問いが生まれ,これへの答えとして人間原理が唱えられた。これには,弱い形と強い形の2つがある。弱い形では次のように説明する。空間的時間的に広大無辺な宇宙において知的存在が生まれるような条件は極めて限られた領域にしかない。その領域にいる知的存在はそれが存在する条件を満たしている宇宙を見るのは当然である。たとえば,宇宙が138億年前にビッグバンで始まったのは,知的存在が生命の発生とその進化により現れるのに138億年かかったからである。太陽系が46億年前に生まれたのも同じ理由である。強い形ではもっと踏込む。なぜ宇宙が現在のような存在か。もし違っていたら人間が存在しなかったからである。
 現在では,人間原理を科学的成果とする人はいない。

市川惇信 (2008). 科学が進化する5つの条件 岩波書店 pp.41

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