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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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イメージ

 他にも,経験を分類しラベル付けすることがある。経験そのままでは記憶量が膨大となり取り扱いが難しい。イメージを作ることにより,膨大な記憶を分類しラベルをつけて取り扱いを容易にする。ヒトの記憶に残るのはイメージだけではない。ヒトの記憶の能力はきわめて高く,かつて経験した事象についてイメージをきっかけにその事象にまつわる具体的経験の詳細を思い起こす。この思い起こされた経験は,イメージからの予測結果を補正するために使われる。他人への贈り物はこのことの応用である。贈り物により自分のイメージを呼び起こしてもらい,それを通じて自分にまつわる詳細を思い出してもらおうとする。
 ヒトは,このようにして経験した事象のすべてについてイメージをもち,それにまつわる具体的事象を記憶に蓄積してその後の利用に備えている。

市川惇信 (2008). 科学が進化する5つの条件 岩波書店 pp.35
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真理に漸近する過程

 2つ以上のモデルが同じ観測・実験結果を予測するならば,それらのモデルを併存させればよい。観測・実験結果の蓄積とその後の科学の進歩への寄与の大きさによりいずれ勝負がつく。ある時点で無理矢理に優劣を判定する必要はない。プトレマイオスの体系とコペルニクスの体系はこれにより選択された。この意味では,モデルは簡単で美しいのがよいとする「オッカムのカミソリ」の基準も必要ない。どれだけよく対象と一致するモデルであるか,それだけが科学におけるモデルの選択基準である。
 これが「真理に漸近する過程」としての科学がもつ本質である。

市川惇信 (2008). 科学が進化する5つの条件 岩波書店 pp.18

成功の理由

 たしかに,作られるモデルもそれを検証するために行なわれる観測・実験もそれまでにヒトが獲得してきた科学の知識を基盤にしている。その意味で,科学の知識は絶対的ではなく相対的であるといえる。しかし,それまでに獲得した知識を超える絶対的視点をヒトはもち得ない。それができるのは神のみである。ヒトが立つ基盤はこれまで獲得した知識以外にない。このことが,パラダイム論とその延長である科学相対主義による批判にもかかわらず,科学が宇宙へ生命へと着実に知識を拡大することに成功している理由である。

市川惇信 (2008). 科学が進化する5つの条件 岩波書店 pp.17-18

科学の客観性・信頼性

 科学者たちは,いまのモデルについて反例を見いだしモデルを作り直し,そして反例を含めてモデルが観測・実験結果を予測することを示す,というループを回す営みに参加している。この意味で,科学者たちは無意識のうちに連携協力して科学という知識を獲得している。これは,ホッブズ流にいえば,科学は科学者の間の「万人の万人に対する闘争の場」となる。ただ,他の「万人の万人に対する闘争」と異なるところは,モデルからの予測と観測・実験結果との一致という勝敗の客観的基準があることである。
 このことが科学という知識に客観性と信頼性を確保している。

市川惇信 (2008). 科学が進化する5つの条件 岩波書店 pp.13-14

仮説検証法

・モデルから出発して演繹的推論を行なって,これまで確かめられていないことを予測する。ここで,演繹的推論とは,論理式「AならばBである」の集まりについて,排中律「Aであることは,非AであることとAと非Aの間にあることを意味しない」と推移律「AならばBかつBならばCであるとき,AならばCである」を用いて推論することをいう。この推論は一本道で枝分かれはない。
・この予測を確認できる観測・実験を行なう。
・予測と観測・実験結果が誤差の範囲で一致すれば,モデルは偽でなく「モデルは検証された」とする。
・予測と観測・実験結果とが誤差の範囲を超えて一致しないとき,「モデルは反証された」とし「モデルは偽である」として,反例を取り込んでモデルを作り直して予測に戻る。
 この枠組みを「モデル形成とその検証のループを回す」方法,あるいは簡潔に「モデル検証法」または「仮説検証法」という。

市川惇信 (2008). 科学が進化する5つの条件 岩波書店 pp.12-13

scienceの意味の変遷

 「science(以後「科学」)」の意味の変遷をOEDは次のように記している。括弧内はその意味での使用の初出年を示し,初出の文は省略する。
 (1)知っているという状態または事実。陰に陽に決まっている事柄についての知識または認識。やや広い意味で,個人の属性としての知識。(1340)
 (2)学習によって獲得できる知識。ある学習分野を知っていること,または習得していること。いろいろな種類の知識と訓練により獲得できる技能の意味がある。(1390)
 (3)知識または学習の特定の分野。認知されている学習分野。中世においては,「7つの科学」は「7つのリベラルアーツ」,すなわち3教科(文法,論理学,修辞学)および4教科(算術,音楽,幾何学,天文学)と同義語としてしばしば使われていた。(1386)
 (4)(より限定された意味として)明示的に示される真理,あるいは一般法則の下で組織的に分類され観察される事実の集まりであって,真理を発見するための信頼に価する方法を含む学問領域。(初出文はワット(1725),ハットン(1794))
 (5)近年は,「自然科学,物理科学」の同義語として用いられる。この場合は,物質的宇宙の現象と法則についての研究に限定され,純粋数学は科学から除外される。この使い方は,現在では通常の使い方として最も多い。(1867)

市川惇信 (2008). 科学が進化する5つの条件 岩波書店 pp.4-5

リスクと保護

 神経症傾向が強いだけでは認知症のリスクは上がらない。神経症傾向の強い人であっても,家族や友人との交流が多かったり,余暇活動を活発に行なったりしていれば,認知症のリスクは下がる。神経症傾向と外向性—内向性傾向との組合せ,神経症傾向と社会的ネットワークや余暇活動との組合せ,それが重要なのである。

辻 一郎 (2010). 病気になりやすい「性格」:5万人調査からの報告 朝日新聞出版 pp.160

癌細胞の増殖スピード

 がん細胞の分裂・増殖スピードは,最初は速い。0.6ヵ月から2ヵ月ごとに細胞分裂を繰り返して,急速に増えていく。その時期(最初期)が,1年から4年くらい続く。その間に細胞分裂を23回行って,細胞数も1千万個になる。そのころの胃がんは直径0.2センチで,肉眼で見えるかどうかである。その後,細胞分裂のスピードは遅くなり,2年から3年かけて細胞分裂を繰り返していく。その時期(初期)が14年から21年続いて,30回目の細胞分裂を迎える。この時,がん細胞は10億個(直径1センチ,重量1グラム)に達し,胃がん検診で早期発見可能なレベルとなる。たった1個のがん細胞が分裂・増殖を繰り返して発見可能なレベルになるまで,何と20年前後が経っているのである。そこから細胞分裂のスピードは速くなり,2ヵ月から10ヵ月ごとに細胞分裂を繰り返すのだが,もう余裕はない。あと10回,細胞分裂を繰り返すと,細胞数は1兆個(直径10センチ,重要1キロ)となり,人はがんで死ぬ。

辻 一郎 (2010). 病気になりやすい「性格」:5万人調査からの報告 朝日新聞出版 pp.141-142

性格とガン

 要するに,アンケート調査の時点でがん既往歴のあった人たちは,そうでない人たちに比べて,神経症傾向の得点が高かった。追跡を始めてから間もないころにがんを発病した人でも,既往歴のある人たちと似たような結果となった。一方,追跡を始めてから3年以降にがんを発病した人たちと,がんにならなかった人たちとの間では,アンケート調査時点のEPQ-R得点に差はなかった。
 がん既往歴のあった人たちでは,治療の後遺症で苦しんだり,再発の不安を感じたりしている人も多いだろうから,その結果として神経症傾向の得点が高くなったものと考えられる。アンケート調査から間もないうちにがんと診断された方がたで神経症傾向の得点が高くなっているのも,自覚症状などの影響が考えられる。一方,アンケート調査からしばらく経ってからのがん発病は,神経症傾向の得点とまったく関係がなかった。つまり,健康だったころ(がんになる前)の性格特徴をもって,その後の発がんリスクを予測することは不可能だった。
 性格はがんと関係ないというのが,この研究の結論である。がんの既往歴のある方がた,調査開始から間もないころにがんと診断された方がたで不安・抑うつ傾向が高まっていたのは,(不安・抑うつが発がんの)原因ではなく,(がんを患ったことによる)結果だったのだろう。

辻 一郎 (2010). 病気になりやすい「性格」:5万人調査からの報告 朝日新聞出版 pp.128-129

抑鬱とガン

 以上のように,抑うつ状態(うつ病)とがんとの関係をめぐっては,認めるデータも認めないデータもあり,まだ一致を見ていない。このようなときは,どうすればよいのだろうか?私だったら,何も決めない。まだ分からないという中途半端な状態に身を置いて,これまでの研究を見直したり,今後どのような研究が必要かを考えるだけである。そして,このテーマについて発言を求められても,「何も分からないのですよ」と曖昧に答えるしかない。
 逆に言えば,この状況にありながら,「うつは,がんの原因である!」とか「うつなんて関係ない!」と声高に叫ぶ人たちがいたとすれば,それはどちらも「眉ツバ」であって信用できないものだという,これだけは確実なことかもしれない。

辻 一郎 (2010). 病気になりやすい「性格」:5万人調査からの報告 朝日新聞出版 pp.124

因果関係は?

 うつ病とがんとの関係について調査した結果を紹介しよう。1969年から93年までの間に,うつ病で入院した方がデンマーク全体で8万9491名いた。そのうち9922名が,がんを発病した。しかし,がん発生率が増加した時期は,うつ病で入院してから1年以内だけであった。よく調べてみると,脳腫瘍が増えていたという。
 種明かしをしよう。抑うつ状態は,脳腫瘍の症状として起こることもある。それがポイントなのである。うつ病で入院して,詳しい検査をしたら脳腫瘍が診断された。そういう人がいたのである。つまり,うつ病が原因となって脳腫瘍が生じたのではなく,脳腫瘍のためにうつ病が現れた。そのような患者を取り除くと,うつ病で入院した方がたと,そうでない方がたとの間で,がん発生率は何の差もなかった。

辻 一郎 (2010). 病気になりやすい「性格」:5万人調査からの報告 朝日新聞出版 pp.123-124

タイプA

 その論文では,タイプAについて何もコメントがなかったのだが,この数十年間でアメリカ社会はタイプAを克服してきたように思われる。それは,いくつかの点からいえる。
 第1に,タイプAと冠動脈疾患との関係は,じつは時代とともに変わっているのだ。1970年代後半まではタイプAで冠動脈疾患が増えるという報告が多かったが,1980年代になるとむしろ両者の関連を否定する報告が多くなった。つまり,最近のアメリカ人ではタイプAの人たちとタイプBの人たちとで,冠動脈疾患のリスクは変わらなくなったのである。ストレス解消法やリラクセーション法を広く実践するようになったことで,タイプAの有害性が弱まったのではないだろうか。
 第2に,「心筋梗塞はアメリカ社会で成功した者がなる病気」という構図も逆転してしまった。いまのアメリカでは,社会階層の高い者ほど,心筋梗塞の死亡率が低い。彼らは日常生活に気をつけている(たとえば学歴や年収と喫煙率が反比例することは,もはや常識)ことが,その理由の1つと思われる。そして,もう1つは,社会階層の高い者がストレス解消やリラクセーションに熱心であることも関係しているだろう。もちろん,低い階層で健康が悪化しているという問題は見過ごすべきでないが,その一方で高い階層の人が心筋梗塞から解放された過程についても学ぶべきである。

辻 一郎 (2010). 病気になりやすい「性格」:5万人調査からの報告 朝日新聞出版 pp.111-112

クレッチマー説

 ではクレッチマーが実際に診療をしていたころのドイツ(20世紀前半)は,どうだったのだろうか?おそらくクレッチマーが言った通り,肥満者は融通がきき,親切で温厚(外向的)であり,やせ型は非社交的で物静か,神経質で傷つきやすい(内向的で神経症的)だったと思われる。だからクレッチマー理論が生まれた,と考えるのが自然である。それが100年近くのうちに,なぜ正反対になってしまったのだろうか?
 肥満に対する社会のイメージは,その社会の豊かさで決まる。それが,私の考え方である。つまり,経済的に貧しい国では肥満はポジティブに受け止められるが,社会が豊かになるにつれて肥満のイメージはネガティブになっていくのである。
 貧しい国では,金持ちほど肥満者が多い。十分な量の食料を手に入れるだけのお金を持っているからである。そうなると,肥っていることは富の象徴であり,人びとのあこがれとなる。だから肥満に対するポジティブイメージが社会に拡がる。
 一方,経済的に豊かな国では,富裕層に肥満者が少なく,貧乏な層で肥満者が多い。国が豊かになると,貧しい者でも十分な量の食料を手に入れることができるからだろう。そうなると,肥ることが人びとのあこがれではなくなる。むしろ,(肥満という)不健康な習慣を変えられない意志の弱さ,肥りやすい食品しか選べない貧困の象徴として,肥満が受け止められる。つまり,肥っていることが貧困と無知と意志薄弱の象徴になってしまう。実際にアメリカ女性の肥満の割合は,社会経済的地位の低い女性では(高い女性の)2倍以上におよんでいる。
 欧米の100年を振り返ってみると,クレッチマーが理論を作り上げた20世紀前半は貧しい時代であり,肥満が富の象徴という時代だったのかもしれない。たしかに,チャップリンの映画では,金持ちは肥っていて,貧しいチャップリンはやせていた。そして第2時世界大戦後,欧米が豊かになるにつれて,そして人びとが肥るにつれて,金持ちは「肥らない」ように心がけ始めた。そしてスリムな体型を維持することに人びとはあこがれ,肥満に対するネガティブイメージが拡がった。
 この100年間で,欧米の肥満イメージはこれほど大きく変わってしまった。肥満がポジティブにとらえられていた時代に活躍したクレッチマーの理論がいまの欧米で当てはまらないのは,そういう事情によるものと思われる。したがって,性格と体格の関係は,原因というより結果なのではないか。それが私の考えである。

辻 一郎 (2010). 病気になりやすい「性格」:5万人調査からの報告 朝日新聞出版 pp.61-63

(引用者注:クレッチマー理論は一般の人々の気質やパーソナリティを論じる以前に,体格と精神病理の関連から生じており,そのエビデンスも数多く発表されてきた。引用した文化的価値観の変化仮説が,体格と精神病理との関連も説明可能なのかどうかは考慮しなければならないだろう)

批判対象

 意外に思うかもしれませんが,かつての総中流社会で,いまのニートのように年長世代から厳しいバッシングにさらされたのは,一部の大学生でした。かれらはレジャーランド化した大学で,親のすねをかじりながら毎日気楽に遊び暮らして,ろくに知識を身につけることもなく,ただ大卒というカードを手にするためだけに4年間を過ごしている,とみられていました。そうした点が,大学に行きたくても行けなかった年長世代から批判されたのです。それはまた,高校卒業後ただちに就職して高度経済成長を下支えした数多くの同年代の勤労青年たちと比べると,人生設計がしっかりしておらず,気楽さが目立つという批判でもあったわけです。
 ところがいま,目的や計画をみつけられず,働くつもりもない若者の一部は,とりあえず大学に行こうとも考えていないのです。昭和のモラトリアム大学生は,平成のニートよりは人生のことをまだしも考えていたということができるかもしれません。

吉川 徹 (2009). 学歴分断社会 筑摩書房 pp.215-216

何が良いことか

 誤解を恐れずにいうならば,それは親子ともども大学に進学しない世代間関係が繰り返されることも,かならずしも理不尽ではないということです。確かに親子とも高卒という人生は,階層の上下という見方をすると,下半分にとどまることを意味しますが,そこでの親子関係は多くの場合,安定しています。社会的に高い地位につく可能性は減りますが,その代わり,同じ生活の基盤を世代間で受け渡すことができるからです。裏を返せば,子どもが親を上回る学歴を得た場合,親元を離れて「別世界」の仕事に就くことが多く,生活のスタイルも親子別々になってしまうというリスクがあるのです。

吉川 徹 (2009). 学歴分断社会 筑摩書房 pp.201

教育現場の実情

 いま,この国の父母の半数が大卒学歴であるのに,子どもたちの半数しか大学進学をめざさないというのが,教育現場の実情です。もはや小中学校は子どもたちの学歴を引き上げる装置ではなく,大卒と非大卒が半々の比率である親たちから子どもを預かり,再び半々に振り分ける「交通整理」をするところへと役割を変えているのです。わたしたちは,この現実を正確に理解したうえで,「教育格差」として語られている小中学校での出来事を考え直す必要があるのではないでしょうか。

吉川 徹 (2009). 学歴分断社会 筑摩書房 pp.186-187

親から子へ

 現在,親たちの義務教育に対する期待に大きなばらつきが生じているのは,ある意味で歴史の必然です。かつての大衆教育社会では,どんな生まれの子どもでも,学校教育を受けることで,中卒や高卒の親よりも高い学歴に進んでいました。ですから当時の家庭の多くは,わが子が学校に適応できるように努めていましたし,学校がわが子の大学進学を可能にしてくれるだろうと期待し,わが子をほぼ全面的に委ねていたわけです。ですから,あの時代にはモンスター・ペアレントなど存在しようがありませんでした。
 しかし,学歴分断社会になると,大卒の親と非大卒の親とで,異なる教育方針をもつ傾向が顕著になってきます。しかも家庭教育を重視する教育政策によって,その違いはさらにはっきりしたものになりつつあります。
 経済成長が著しかった時代は,親子の学歴の関係や,教育方針の階層による違いも,そうした社会の大きな変化に隠れてさほど目立ちませんでした。それがいまはストレートに教育現場に表れるようになっているのです。
 いま,この国の父母の半数が大卒学歴であるのに,子どもたちの半数しか大学進学をめざさないというのが,教育現場の実情です。もはや小中学校は子どもたちの学歴を引き上げる装置ではなく,大卒と非大卒が半々の比率である親たちから子どもを預かり,再び半々に振り分ける「交通整理」をするところへと役割を変えているのです。わたしたちは,この現実を正確に理解したうえで,「教育格差」として語られている小中学校での出来事を考え直す必要があるのではないでしょうか。

吉川 徹 (2009). 学歴分断社会 筑摩書房 pp.186

女性人材

 私を含めた現場の教員たちは,小学校入学から大学卒業まで,男女を分け隔てせず同じように知識・技能を伝えようとしています。そして,少なくとも私の経験では,総じて女子のほうが真剣に授業を受け,多くのことを吸収していくようです。
 にもかかわらず,大卒新規採用移項をみると,こんにちでもなお女子はその実力にふさわしい期待や評価や待遇を受けてはいません。人材を受け入れる企業の側がどういう胸算用をしているのかは,私の専門ではないので正確には知りません。しかし,日本の学校教育が女子に投入している膨大な投資は,それが高い労働力となって日本の産業を支えているわけではないのですから,明らかに帳尻が合わない状態になっているのです。

吉川 徹 (2009). 学歴分断社会 筑摩書房 pp.144

お金に変わる

 加えて,社会的な上下関係といったとき,子ども時代であれば成績や偏差値を,大人になってからは給与額をイメージして,この2つしか眼中にない人が,いまの日本にはずいぶんたくさんいるということもあります。かつては「いい学校に行って,いい会社で働く」という考え方がそれなりにリアリティをもっていましたが,いまは働くということが強調されなくなり,「親がお金で子どもの学歴を手に入れる。学歴が将来の子どものお金に変わる」というように考えられているのです。

吉川 徹 (2009). 学歴分断社会 筑摩書房 pp.120

不平等を認識しやすい

 この本の主題である学歴を例にして,もう少し具体的にいいましょう。以前は「中卒学歴の親のもとに生まれたAさんが高校に行き,高卒学歴の親のもとに生まれたBさんが大学に進んだ。どちらも同じように親よりも高学歴になる時代だ」ということで,双方が円満な気持ちになることができていました。けれどもいまは「高卒学歴の親のもとに生まれたCさんがまたしても高卒,大卒学歴の親をもつDさんがまたしても大学進学した。上下関係が世代を越えて続いている」というように,不平等を認識しやすい状態になっているのです。
 豊かさの拡大期にはみんながポジティブな気分でいられたのですが,高原期が続くことによって,子どもが親を越えられない時代に入ると,わたしたちの階層や地位のイメージは,徐々に醒めたものになっていきます。そしてこれから先,親と子の豊かさの水平的な関係が続くかぎり,いまの「格差社会」は,そう簡単に解消されるわけなどないのです。これもまた,階級・階層の「不都合な真実」の1つに数えられるかもしれません。

吉川 徹 (2009). 学歴分断社会 筑摩書房 pp.109-110

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