忍者ブログ

I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

勝者と敗者の見方

 たとえば次のようなことを考えてみてください。
 いまここに同じ能力をもち,同じような生育環境のAさんとBさんの2人がいます。Aさんは人生において成功している,いわゆる「勝ち組」です。彼は自分が人一倍の努力をしたので,それが報われていまの成功があると考えています。これに対してBさんのほうは,努力しようにも家庭環境に恵まれず,運にも恵まれなかったと言っています。2人の間には現在,経済的な豊かさにおいて,おおいに差がついてしまっています。
 このときAさんは,「自分のいまの地位は自分の努力によるものだ。そしてBさんがうまくいっていないのは努力が足りないからだ」と考えています。これは自由競争社会のイメージです。他方,Bさんのほうは「自分の人生がうまくいっていないのは社会のせいだ。Aさんが「勝ち組」なのは,単に運がよかっただけだ」と考えています。
 このようにわたしたちは,自分が成功すれば努力が見を結んだのだと考えがちで,自分が失敗すれば社会に問題があるからだと考えがちです。しかし同時に,他人の成功は社会的な追い風によるもので,他人の失敗はその人の自己責任だと考える傾向もあります。
 実際は,「勝ち組」でも「負け組」でも,生まれて,育って,社会生活を営むという人生のあゆみにおける成功や失敗には,個人に帰するべき事情と,社会に帰するべき事情が混在しています。ですから,できることなら個人の努力の成果は削らずに,社会の仕組みの不備だけを選び出して調整すべきなのです。
 ところが,結果として生じた経済的な格差を調整する方法をとったのでは,個人に帰するべき努力の成果と,社会に帰するべき不平等を区別なく均してしまうことになるのです。するとAさんのような「勝ち組」にとっては,自分が努力して勝ち取ってきたものまで不当に削られて,努力をしていない(とみなされる)人に分け与えるということになります。他方Bさんにような人は,努力が十分であったかどうかは省みず,社会保障を受けるのは当然だと考えます。

吉川 徹 (2009). 学歴分断社会 筑摩書房 pp.69-71
PR

「格」

 これまでの議論をひとまずまとめるならば,格とは厳然とした境界でありながら,しかしなかなか目にはみえにくく,越えやすいようで容易には越えることができない上下関係であるということになるでしょう。きわめて日本的なこの境界区分は,人びとに意識されているようで意識されていない,愛されているようで疎まれてもいる,不思議な存在なのです。
 そして現代日本では,この格にポジティブな光が当てられるとき「品格」となり,ネガティブに扱われるとき「格差」となって現代の諸現象の核となっています。さらに学歴や教育に連なる言葉である「資格」「合格」,消費生活における「格安」など,多くのホットなキーワードの平仄を整えているのです。

吉川 徹 (2009). 学歴分断社会 筑摩書房 pp.65-66

格差とは

 というわけで格差とは,本来は切れ目なく続いている人びとの地位の上下関係に人為的に境界線を引いて,位階(ヒエラルキー)の構造をはっきりさせたものだということになります。もっとも,そこまで突き詰めて考えながら格差という言葉を使っている人はそう多くはないと思いますが。

吉川 徹 (2009). 学歴分断社会 筑摩書房 pp.61

半分に分ける線

 直観的にもわかることだと思いますが,社会の真ん中に引かれた分断線というのは,社会の上端や下端に引かれている線よりも多くの人にかかわるため,大きな影響力をもちえます。しかもこの比率で上下が分かれている場合,ちょうど真ん中という人たちがいないわけですから,「普通程度の学歴」や「平均的な学歴」を示すことができず,分断された状態にあるといわざるをえないわけです。このことは,だれもが「学歴格差の社会」に巻き込まれる状況を生みます。いまの日本社会を広く見渡してみても,9対1とか7対3ではなく,このようにほぼ5対5に社会を分ける区分線は,性別を別とすると,この学歴分断線以外には損z内していないのです。

吉川 徹 (2009). 学歴分断社会 筑摩書房 pp.53

学歴振り分けシステム

 18歳の進路選択への一点集約という日本型学歴社会の特徴は,国際的にみると珍しいものです。先進工業国のなかでこのパターンで学歴形成を続けている社会は,日本と韓国以外にはありません。ちなみに日本の若年成人の高校卒業率は約91%ですが,韓国の高校卒業率はなんと99%です。
 欧米ではどうなっているかといいますと,学歴を振り分けるしくみは,進級するごとに徐々にライバルの数が減っていく,生き残り競争(多分岐型)になっています。このかたちの社会では,義務教育を終えて早々と社会に出た低学歴層が,成人のなかに一定数います。その数はアメリカで約13%,フランスで約21%,イタリアでは約38%にのぼります(『学歴と格差・不平等』)。また,大学や短大(高等教育)も制度が違うため,序列や入学の難しさが日本とは少し異なります。簡単にいうなら,いろいろな水準の学歴集団を作りだすしくみになっているのです。階級や民族についてははっきりした境界線があるのに対し,学歴は細かく分かれているというのが,日本と大きく異なる点です。
 ひるがえって考えると,日本社会でたった1本の学歴分断線によるシンプルな切り分けが成立しているのは,大卒層,非大卒層それぞれの内部に質の違いがあって,それが上下の違いや横並びの違いを受けもっているため,この境界線にかかる歪みがやわらげられているからです。

吉川 徹 (2009). 学歴分断社会 筑摩書房 pp.49-50

学歴分断線

 しかし,これはあくまで人びとの心のなかでの学歴社会の見渡し方のしくみです。社会調査のデータによって現代社会を鳥瞰したときに,いちばんくっきりとした学歴の分断線がどこにあるかという関心とは異なります。社会全体を客観的にみる場合の大きな論点は,東大と京大の間,早稲田と慶應の間,関西学院大学と関西大学の間,新潟大学と富山大学の間,大東文化大学と亜細亜大学の間などにある学校歴の細かな差を考えることにはありません。それは世の中の半数を占める高卒層にとってはどうでもいいことなのです。
 そこで,大学名を見極めるという大卒層特有の関心事から離れ,社会的に最も意味の大きい学歴の境界線を考えるならば,やはりそれは,大半の現代日本人が18歳の春に通過する学歴分断線に他ならないということになるのです。

吉川 徹 (2009). 学歴分断社会 筑摩書房 pp.45-46

学歴と学校歴

 学歴と学校歴の違いについて,まず確認しておきたいのは次のことです。最近,以前ほど「学歴」は重要ではなくなっている,あるいは「学歴」よりも実力で出世が決まる時代になった,などといわれることがあります。そこでいわれている内容をよくみると,どうやらこれらは,学歴ではなく学校歴にかんする時代の変化を指摘するもののようです。つまり,ランクが高くない大学を出ていても,その後の職歴においていくらでも逆転可能になってきた,一流大学を出ているだけでは成功は約束されない社会になっている,ということです。大卒層のなかで,学校歴の序列が以前のように厳密なものではなく,少し弛んできたということは,私もおそらく事実だろうとみています。
 ただし,それはあくまで学校歴(大学名)についての変化であって,高卒でも大卒層を逆転することができる社会になったということではありません。それどころか,学歴分断線が無効化しているという話は,いまだかつて聞いたことがありません。この点について誤解して「学歴なんて関係なくなった」と思っている人があれば,考えを改めるべきでしょう。

吉川 徹 (2009). 学歴分断社会 筑摩書房 pp.43-44

重要な作法

 就職活動においては,企業の就職担当者も採用される側の学生も,「ウチでは,大学のランクや学閥で出世が大きく左右されます」とか,「私は,自分の学歴を有利に使える企業を探しているのです」といった本音のやり取りをすることは絶対にありません。採用側は「弊社は学歴で人材を分け隔てしていません」,希望者側は「学歴からは知ることのできない個性や人間力が大事な時代ですよね」などと無難なことをいっておいて,別の機会に「リクルーター」と呼ばれる同じ大学出身の若手社員が,非公式に応募者と本音や実態をぶつけ合う,というのが昨今の常套手段になっています。企業社会でも,学歴主義を公の場で語らないことは,品格ある学歴エリートであるための重要な「作法」とされているのです。

吉川 徹 (2009). 学歴分断社会 筑摩書房 pp.37

境界線

 しかし,そこで高等教育の政策を考える人たちは,あることに気が付きました。それは,四年制大学への進学門戸の「バルブ」を全開にしても,進学希望者はせいぜい同年人口の50%程度しかいないということです。慎重に右肩上がりの傾きを調整してきたわけですが,結局大学進学率50%のところには,調整しなくても頭打ちになるような「ガラスの天井」があることがわかったのです。
 それにしても,どうしてこのような「ガラスの天井」があるのでしょうか。また,どうしてそれは40%や60%ではなく,50%なのでしょうか。その理由については,社会学や教育社会学,経済学などで,さまざまに考えられています。しかし何が主たる原因なのか,いまのところ確定的なことはわかっていません。
 いま確実にいえるのは,日本社会では,大学側の門戸の広さ,少子化による18歳人口の漸減,大卒者を受け入れる産業界の雇用の数,高校生の進学希望,親の進学希望など,大学進学にかかわるいずれの要素をとっても,この境界線がほぼ50%あたりで均衡するように作用しているということです。つまり,大卒/非大卒フィフティ・フィフティというのは,政策上の手を加えることで簡単に変えられるものではなく,現代日本社会のさまざまなものごとが,がっちりと組み合わさって生み出されている比率なのです。そしていま,この比率が親世代と子世代の間で受け継がれ,同じかたちで繰り返されているのです。

吉川 徹 (2009). 学歴分断社会 筑摩書房 pp.26-27

親と同じ学歴へ

 昨今の学歴社会は,親の学歴がこのように著しく高まってきたという点で,「子どもは親より学歴が高くなる(する)のは当たり前」と考えてきた昭和の学歴社会とは,まさに隔世の感があります。しかも,先ほどのアメリカとの比較からわかるように,国際的に見渡しても,親世代のこれほど高い教育水準を背景にして大学受験がなされている社会は,そう多くはありません。
 ところが,高い学歴水準にある親たちを人生のスタート・ラインにしているにもかかわらず,いまの子どもたちをみると,18歳の進路選択時になんと2人に1人が大学・短大進学を希望していないのです。ここからわたしたちは,昭和の日本人を駆動していた「子どもは親より学歴が高くなる(する)のは当たり前」という学歴や受験に対する心構えが,現在では少なからぬ親において失われていることを知ることができます。実際,いま日本人の7割は,親が高卒ならば子も高卒,親が大卒ならば子も大卒というように,親と同じ学歴を得るようになっています。わたしたちの社会は,だれもが競い合うようにしてどんどん高学歴化していく段階を脱してしまったのです。むしろわたしたちはいま,学歴競争・受験競争の過熱状態ではなく,学歴に対して少し冷めた構えをもっているということができるでしょう。

吉川 徹 (2009). 学歴分断社会 筑摩書房 pp.20-21

金持ち有利

 裁判に疎かったぼくは,まったく知らなかったのだが,民事の場合,裁判費用は,各自が払うものなのだ。そして,その裁判や和解で,かかった裁判費用を払えと相手にいっても,それはできないものらしい。
 ぼくはもう200万円も使ったのに,回収の方法はないんですか,と聞くと,それを相手から取るには,また今闘っている裁判とは違う裁判を起こさなくてはいけない,裁判費用を払えという裁判を起こさなくてはいけないと教えてくれた。こちらが勝ったんだから,負けたそちらが裁判にかかった費用を払えという裁判である。ただ,それも非常に長い時間がかかる場合が多いし,全額が回収でいるとは限らないということだった。
 それは,とてつもなく面倒臭い。裁判ひとつでも人生の大イベントなのに,もうひとつ新たに抱えろなんて,その上,全額戻らないかもしれないなんて。裁判費用は災難だと思って諦めろといっているも同然ではないか。
 つまり,不思議な話なのだが,裁判は起こされ損なのだ。金銭的余裕があるほうが,圧倒的に有利だということなのだ。

いしかわじゅん (2003). 鉄槌! 角川書店 pp.239-240

保留

 「ん」は,清濁の区別からすれば,本居宣長が言うように伝統的には「濁」の方に考えられてきた。「ん」は,日本語の中では,語頭につく言葉がなく,前の音の鼻音化によって次に来る音との間で繋ぐ働きをするからである。
 しかし,同時にこの清音と濁音の間にある「ん」は,薄明の世界をも意味している。これは,日本の文化が「イエス」と「ノー」との区別をはっきりしない世界で培われてきたということとも深い関係があるのではないだろうか。
 我々は人の言葉に相槌を打ちながら,あるいは考え事をしながら「んー」と声にならない音を出す。これは「イエス」でもない,「ノー」でもない「保留」を意味するものである。
 「保留」には「清」や「濁」の区別はない。むしろ,それは「清」と「濁」をつなぐ役割をしているように思われる。

山口謠司 (2010). ん:日本語最後の謎に挑む 新潮社 pp.181-182

下品な表現

 「言はんずる」「出でんずる」「為んずる」などという言い方は,『平家物語』などの軍記物にはよく使われる言葉である。しかし,軍記物などが現れる以前,王朝文化の華やかな時代,こうした言葉は,清少納言のような保守的な価値観を持つ人にとっては,非常に耳障りに聞こえたに違いない。ましてや,こうした崩れた口語を書くことは下品極まりないものに思えたのであろう。

山口謠司 (2010). ん:日本語最後の謎に挑む 新潮社 pp.108

あうん

 真言宗では「阿」から始まる「阿字観」という瞑想を行って宇宙が生じる瞬間を体験し,そして最後に「吽字観」で,再びこの宇宙が収縮し種子となることを瞑想する。
 曼荼羅ではこれを「胎蔵界」と「金剛界」と呼ぶが,つまるところ,これこそが空海が目指した「即身成仏」の根本の思想だったのである。
 はたせるかな,五十音図は,「ア」からはじまり「ン」で終わる発音の世界を図で示している。
 それぞれの文字は,ただ日本語の発音を単に表記の指標として示しているものと言うこともできるだろう。しかし,それぞれの音は,発音だけでなく,それを組み合わせることによって,言葉で森羅万象を描くことのできる種を内包して存在する。
 仏教は,常に変化して已まない現象を凝視することによって,変化しないものがあることを知るという哲学である。
 空海が著した『吽字義』は,これを真言という言葉の世界に当てはめて明らかにしようとした書物であったのだ。

山口謠司 (2010). ん:日本語最後の謎に挑む 新潮社 pp.75-76

「ん」という文字

 日本語には上代,「ん(ン)」という文字はなかった。
 上代の日本人も,現代の日本人と同じように考え事をしながら「んー」と唸っていたのかもしれないが,それを書くことはできなかった。書けないから,無理をしてでも書かなければならないときには「イ」とか「ニ」という現代のカタカナを記号として使った。でも,「イ」を使うと「i」,「ニ」と書けば「ni」と発音することになってしまう。「i」や「ni」と間違って読まれないための記号は何かないか……という試行錯誤の結果,「ん(ン)」という文字が生まれてきた。

山口謠司 (2010). ん:日本語最後の謎に挑む 新潮社 pp.60

美しさ

 たとえば過去の完了を意味する「〜てし」というのは,こうした一例である。「てし」という言葉は当時,日本語では同じ音で「書の先生」=「手師」を意味する言葉があった。書の先生として最も手本に多く用いられたのは,「書聖」と呼ばれた王羲之である。万葉の人々は,「〜てし」と書くのに「手師」から「王羲之」を連想し「羲之」と書いたのである。
 これを視覚的な美しさなのかと問われる方もあろう。
 しかし,筆者は現代的な芸術という意味での「美しさ」を言っているのではない。彼らは漢字を使って日本語を書きながら,じつはこれが視覚的には「漢文」のように見えることを「美しい」と感じていたのである。

山口謠司 (2010). ん:日本語最後の謎に挑む 新潮社 pp.34

「見る」ことが中心

 しかし,想像が現実性をもち,現実が不安定であることは,シィーの人格形成に,非常に強い影響を及ぼした。
 彼は,いつも,何かを期待し,実際に行為するよりも,夢想したり,「見る」ことの方が多かったのである。彼には,何かもっとよいことが起こるにちがいないとか,何かがすべての問題を解決してくれるにちがいないとか,自分の人生は突然このように単純な,明瞭なものになるにちがいないとかの気持ちが,いつも残っていた。そして,彼はそれを「見」,そして持っていたのである。そして,彼が行なったことすべては,「一時的」なもので,現実に起きていることは,期待しているものが,自然に生じてくる当面の間のことであると思っていたのである。

A.R.ルリヤ 天野清(訳) 偉大な記憶力の物語:ある記憶術者の精神生活 岩波書店 pp.193

イメージによるコントロール

 シィーは,自分の心臓の働きや,自分の体温を随意にコントロールできると話したが,それは口先だけではなかった。実際に,そのようにコントロールすることができたのである。しかも,その範囲はかなり大きい。
 今,彼の安静時の通常の脈拍が示されている。毎分70〜72回だ。しかし,しばらく休止すると……脈拍はひんぱんになり,速くなる。ほら,すでに,毎分80……96……100に達する。つぎに,逆の場合を見てみよう。脈拍は,再び遅くなり,その回数は,通常の域に達し,ほら,今は,脈拍はさらに少なくなり……毎分64……66だ。
 どのようにして,このようなことができるのだろうか?

 「何が不思議なのでしょうか?私はたんに,私が汽車を追いかけているのを見ているのです。汽車は出たばかりで,どんどん離れていきます……私はなんとか追いつき,最後の車両の階段に飛びのらなければなりません……心臓がこのように速くなったことが,いったい驚くべきことでしょうか?……次に眠るために横になります……私はベッドの上にじっと動かずに横になっています。……ほら,私は眠りはじめます。……呼吸は平静になり,心臓はゆっくり,均等に拍動するようになります……」。

A.R.ルリヤ 天野清(訳) 偉大な記憶力の物語:ある記憶術者の精神生活 岩波書店 pp.171-172

見るものしか理解できない

 具体的に表象することが不可能なものを扱った場合,どうであろうか?複雑な関係を表わしている抽象的概念や,人間が長い歳月をかけてつくりあげてきた抽象的概念の場合,どのようになるであろうか?それらは実在し,われわれはそれらを理解することはできるが,見ることはできない……。シィーの場合,実に,「見えるものしか理解することができない」のであるから……。彼は,このことを,何度われわれに告げたことか。
 このような問題を与えると,新しい困難,苦しみの新しい波,統合させることが不可能なものを適合させようとする一連の新しい試みが始まる。

A.R.ルリヤ 天野清(訳) 偉大な記憶力の物語:ある記憶術者の精神生活 岩波書店 pp.161

文章理解の困難

 文の理解,情報の受容は,われわれの場合には,常に本質的なものを抽出し,非本質的なものを捨象していく仮定で,短縮しながら経過するのであるが,この場合には,浮かび上がってくる像との苦しい闘いの過程になりはじめている。つまり,像は認識を助けるものとはなり得ず,反対に——脇道へそらしたり,本質的なものの抽象を妨げたり,他の像と一緒になったり,新しい像になったりして——認識の妨げとなり,そのつぎには,像が,テキストが進む方向と別の方向に進んでいることがわかり——なにもかも再びやりなおさなければならない。簡単に思える文の一節や,単純な文の場合ですら,その読解は,非常に徒労の多い作業になるのである……。しかも,これらの鮮明な心像が,意味の理解を助けているという確信はけっして残らない——もしかすると,それは意味理解をそらしているかもしれない。

A.R.ルリヤ 天野清(訳) 偉大な記憶力の物語:ある記憶術者の精神生活 岩波書店 pp.138-139

bitFlyer ビットコインを始めるなら安心・安全な取引所で

Copyright ©  -- I'm Standing on the Shoulders of Giants. --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]