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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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視覚的知力で計算する

 疑いもなく,「鉛筆と紙による計算」もしくは内的な図式による計算は,課題解決の基本的方法に入れざるを得ない。しかし,直観像にたよらないこのような計算が,正しい解決の道をそらしたり,あるいは単純な解決方法を複雑で無駄の多いものにしてしまう,そのような課題が何と多くあるのだろうか。
 一見すると単純に見えるつぎの課題,「1枚の煉瓦の重さは1キロと,あと煉瓦半分の重さだけある。1枚の煉瓦はどの位の重さか?」も,ある場合には何と難しくなってしまうのだろうか。数に注目した人は,きわめて容易に,信じられない答え——1.5キログラム——を出してくるのだ!このような形式的な答えに滑り落ちるという現象はシィーの場合,まったく無縁であった。いいや,彼の場合,このようなことは不可能でさえあるのだ。彼の「視覚的知力」による解決様式——このため,彼は常に対象をあつかい,常に数を直観・具体的な物と結びつけざるを得ないのであるが——形式的な解決は許されず,他の人々の場合に葛藤をひきおこした課題も,彼の場合には,このような葛藤によって生じる困難を経験することなく経過したのである。

A.R.ルリヤ 天野清(訳) 偉大な記憶力の物語:ある記憶術者の精神生活 岩波書店 pp.126-127
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視覚的な知力(visual-intellect)

 シィー自身は自分の思考を,「視覚的な知力(visual-intellect)」と特徴づけている。しかし,この知力は,合理主義哲学者の言う抽象的・思弁的(speculative)な判断とは何ら共通しているものはない。それは,視覚心像の助けをかりて働く知力,つまり,視覚的な知力である。
 他の人々があいまいに思い浮かべていると考えられていることが,シィーの場合,見えるのである。彼の前には,明瞭な像が生じ,その像は,現実に近似するほど,その感受性が高い。彼の思考のすべては,これらの像をひきつづき操作することにある。

A.R.ルリヤ 天野清(訳) 偉大な記憶力の物語:ある記憶術者の精神生活 岩波書店 pp.116

未変換

 シィーの幼い時の記憶の世界は,われわれにくらべてはるかに豊かで,それは,驚くべきことではない。われわれの場合には大分幼い時から記憶装置となっている情報の言語処理装置によって変換されているが,彼の記憶は,変換されていないのである。つまり,意識の形成の初期の段階に特有な,像が直接的に思い浮かぶという特徴を保持していたのである。われわれは,たんに信じただけでなく,時に,聴いたことを検証することをも行なったが,大方,彼がわれわれに話したことを信じることができる。われわれが,注意深く耳を傾けなければならないのは,われわれの前にあらわれる状景についてである。しかも,特に興味あることに,その状景はわれわれが常に疑うことができる事実に関することではなく,シィーにとって非常に典型的な伝達のスタイルに関するものである。

A.R.ルリヤ 天野清(訳) 偉大な記憶力の物語:ある記憶術者の精神生活 岩波書店 pp.88

忘れる方法を探求する

 われわれの多くは,よく記憶するためにどうしたらよいのか,その方法を見つけ出すことを考えるのが普通である。そして誰も,どうしたら,よく忘れることができるかという問題は考えない。しかし,シィーの場合は,問題が反対である。どのようにしたら,忘れることができるようになるのか?シィーをしばしば悩ませる問題は,ここにあるのである。

A.R.ルリヤ 天野清(訳) 偉大な記憶力の物語:ある記憶術者の精神生活 岩波書店 pp.79

顔が覚えにくい

 シィー自身は,人の顔の記憶がよくないことについて,何回となく愚痴をこぼしていた。

 「人の顔は,実際に不安定です。人の気持の状態や,どういう場合に会うかに依存して,しょっちゅう変わり,このニュアンスはめちゃくちゃになります。したがって,大変覚えにくいのです」。

 この場合,先に述べた諸実験で把持した材料の想起に必要な正確性を保証していた共感覚的な経験が,今度は対立する作用に変わり,記憶の把持を妨害しはじめているのである。人の顔を覚える際にわれわれが行なっている再認に必要な,重要な拠点をとり出す作用(この過程は心理学で十分研究されていないが)が,シィーの場合,明らかに脱落しているのである。そして彼の場合,人の顔の知覚は,われわれが窓のそばに坐り,波立っている川波を見ている時に,観察することができる,常に光陰が変化しているものの知覚に近いものになっている。揺れ動いている川波を誰が「覚える」ことができようか?

A.R.ルリヤ 天野清(訳) 偉大な記憶力の物語:ある記憶術者の精神生活 岩波書店 pp.74-75

知覚の法則に従う記憶

 われわれによく知られている記憶の法則は,シィーの場合にあてはまらないことについては,すでに述べてきた。
 一つの刺激の痕跡は,他の刺激の痕跡を抑制しない。それらの痕跡には,減衰のきざしは何ら認められず,また,その選択性を失うこともない。シィーの場合,記憶容量の限界や記憶材料の長さの限界について研究することができない。時間が経過する中で生じる痕跡の消失の力動性について研究することもできない。また,彼の場合,系列のはじめや終わりの要素の力が,系列の中程の要素よりもよく記憶されるという,いわゆる「初頭終末要因」の作用が生じることがない。しばらく休息すると消失したかに見えた痕跡が再び浮かび上がる,いわゆるレミニッセンス現象も認めることができない。
 彼の記憶は,すでに述べたように,記憶の法則というよりも,むしろ知覚,注意の法則にしたがっているのである。つまり,彼が語を再生できなくなるのは,それがよく「見え」なかったり,あるいは,それから,注意をそらした場合なのである。また,彼の想起は,像の明るさ,像のサイズ,像の配置や,無関係な音声によって生じた「斑点」によって像が不明瞭になるか否か等に依存しているのである。

A.R.ルリヤ 天野清(訳) 偉大な記憶力の物語:ある記憶術者の精神生活 岩波書店 pp.72-73

論理の欠如

 しかし,このような印象ほど,真実からかけ離れたものはない。すべてのぼう大で,かつ巧妙な作業や,今引用した多くの手法は,シィーの場合,像にもとづいて記憶を行うという特徴をもっている。言いかえるならば,それは,私が,この章の題名で,独自の「イメージ技術」と名づけたように,得た情報の論理的な処理方法とは著しく異なっているのである。まさにそれ故,シィーは,提示された材料を,有意味な像に配列するのに例外的な強さを発揮するにもかかわらず,記憶材料を論理的に組織化するとなるとまったく弱く,彼の「イメージ技術」の方法は,これまで多くの心理学的研究の対象になり,その発達と心理学的構造が研究されてきた「論理的記憶技術」と共通しているものは,何もないのである。この事実から容易に知ることができるのは,強大な像記憶力があるにもかかわらず,論理的記銘の可能な諸手法が完全に無視されているという驚くべき分裂があることである。これは,シィーの場合,容易に示すことができる。

A.R.ルリヤ 天野清(訳) 偉大な記憶力の物語:ある記憶術者の精神生活 岩波書店 pp.67-68

共感覚

 つまり,シィーの場合,われわれの場合には存在している聴覚と視覚との間の境界,聴覚と触覚もしくは味覚との間の境界が,はっきりした形では存在しないのである。通常の多くの人の場合には,退化した形でしか存在しない「共感覚」の残痕(低い音や高い音がいろいろな色をもっていたり,「温かい」音や「冷たい」音があったり,「金曜日」,「月曜日」が何らかの別の色をもっていることを誰が知っていようか)が,シィーの場合,彼の精神生活の最も基本的な特徴として残っているのである。それは,非常に幼い時に発生し,現在まで保持されてきたのである。それらは,これから見ていくように,彼の知覚,注意,思考に固有な作用を与え,そして,それは彼の記憶力の重要な成分になったのである。

A.R.ルリヤ 天野清(訳) 偉大な記憶力の物語:ある記憶術者の精神生活 岩波書店 pp.30

限界のない記憶

 明らかになったことは,シィーの記憶力は,たんに記憶できる量だけでなく,記憶の痕跡を把持する力も,はっきりとした限界というものをもっていないということであった。いろいろな実験で,数時間前,数ヵ月前,1年前,あるいは何年も前に提示したどんなに長い系列の語でも,彼はうまく——しかも特に目立った困難さもなく,再生できることが示されたのである。そのうちのある実験は,同じくうまくできたものだが,何ら予告なしにある系列を記銘させ,15,6年たってから行ったものであった。このような場合,シィーは,坐り,目を閉じ,しばらく休止し,そしてつぎのように話しはじめた。「そうです。そうです。それは貴方のアパートでのことでした。貴方は机の前に坐り,私は揺り椅子に坐っていました。貴方は灰色の洋服を着ていて,そしてそのように私を見つめて……はい……貴方が私に話したことがわかります……」——そしてつぎに,以前に読み聴かせた系列を誤りなく再生したのであった。
 その頃までにシィーは有名な記憶術者となり,何千,何百の系列を記憶しなければならなかったという事情にもし注意を向けるとすると,この事実は,さらに一層驚くべきものとなる。

A.R.ルリヤ 天野清(訳) 偉大な記憶力の物語:ある記憶術者の精神生活 岩波書店 pp.12-13

完全な記憶

 実験が示したことは,彼は,このように,きわめて容易に長い系列を再生することができ,しかも,それを逆の順序,つまり終わりから最初への順序でも再生できるということであった。また,どの語のつぎにどの語がくるのか,指示した語の前にどのような語が並んでいるのかを言うことは,いとも容易なことであった。だが,指示した語の前の語を探し出すときには,あたかも必要な語を探索しているかのように,しばらく休み,つぎに問題に答える。しかも,普通は誤ることはなかったのである。
 提示するのが,有意味語であっても,無意味綴りであっても,数字もしくは音素であっても,また,口頭で提示しても,書字の形で示しても,彼にとって差はなかった。ただ彼にとって必要だったことは,提示する系列の各要素を2〜3秒の休止間隔をおいて提示することであった。そうすれば,つぎの系列の再生には,何ら困難をひきおこすことはなかったのである。

A.R.ルリヤ 天野清(訳) 偉大な記憶力の物語:ある記憶術者の精神生活 岩波書店 pp.10-11

ソロモン・シェレシェフスキーのこと

 この人は——シィーと呼ぶことにするが——ある新聞社の記者で,この新聞社のデスクの発案で,実験室を訪ねてきたのである。
 どこもそうであるように,毎朝,デスクは自分の部下たちに指令を与えていた。彼は,部下たちに,訪ねていくべき場所のリストを列挙し,それぞれの場所で,何を知ってくるべきかを言うのである。シィーはこのような指令を受ける部下の一人であった。
 住所やその指令のリストは十分長いものであったが,デスクが驚いたことに,シィーは,受けた指令を,一言も,紙に書きつけることはなかったのである。デスクは,不注意な部下に小言を言うつもりでいた。シィーは,デスクの求めに応じて,課せられたことすべてを正確に反復したのである。デスクは,何が起きているのか事の事情をわかろうとして,彼の記憶について訊ね始めた。しかし,シィーは,まったく納得できずに,こう反論した。言われたことをすべて覚えることは,本当に,特別のことなのか?本当に,他の人々は,自分のようにやっていないのか?自分が,他の人々とは異なった何らかの特殊な記憶力をもっているという事実に,シィーはまだ気がついていなかったのである。
 そして,デスクは,シィーの記憶力を調べてもらうため,シィーを心理学実験室にさしむけたのであった。このようにして,シィーは,私の前に坐ることになった。

A.R.ルリヤ 天野清(訳) 偉大な記憶力の物語:ある記憶術者の精神生活 岩波書店 pp.7-8

人びとの自覚

 「偽ブランド品の製造販売を止めさせるただひとつの道は,一般市民が,ロゴがついているだけのガラクタを買うのを即刻止めることしかない。結局,犯罪をなくすのは自分たち次第だということを人々が自覚しなくてはならないんだ」

ダナ・トーマス 実川元子(訳) (2009). 堕落する高級ブランド 講談社 pp. 300

悲惨な偽造品工場

 偽造品製造工場で働く子どもたちは,たいていオーナーの家で暮らしている。私が目撃した手入れのときにいた子どもたちも,中庭を隔てた薄汚い宿泊所に寝泊まりしていた。工場が手入れを受け,オーナーが逮捕されれば,子どもたちは仕事ばかりか住むところも失ってしまう。家宅捜索に何度も立ち会ったある捜査官などは,児童労働者たちのあまりにも悲惨な境遇に心を動かされ,同僚とともに寄付を募り,行き場を失った子どもたちを学校に通わせ,教育費や生活費を援助していた。
 時にはぞっとするケースもある。家宅捜索が終わって引き揚げてくる途中に,ある警官が話してくれたエピソードは強烈だった。
 「2年前,タイのある組み立て工場に行ったとき,10歳以下の6〜7人ほどの子どもが床に座って偽ブランドのバッグをつくっている姿を見ました。オーナーは彼らの脚の骨を折った上,膝から下を太ももに縛りつけてわざと治らないようにしていたんです。『外に出て遊びたいと言い出さないようにやった』と言ってました」

ダナ・トーマス 実川元子(訳) (2009). 堕落する高級ブランド 講談社 pp. 293

偽造品の取締り

 世界でもっとも多く偽造されているブランドのひとつ,ルイ・ヴィトンでは,マーク・ジェイコブスの見方とはまったくちがう見解を持っており,自社に40人の弁護士を抱え,外部の私立捜査官を250名も雇い,毎年1500万ユーロ(1810万ドル)をかけて偽造と闘っている。2004年,ヴィトンは世界じゅうで毎日20件の摘発を行い,1000人の偽造関係者を刑務所に送った。コピー商品を摘発までして訴える企業も,その努力で摘発できるのは氷山の一角に過ぎないだろうと見ている。だが,いったん手を緩めたら,偽造品は赤潮のように市場を覆いつくすだろう。

ダナ・トーマス 実川元子(訳) (2009). 堕落する高級ブランド 講談社 pp. 283

偽物の歴史

 偽物の製造は,文明の誕生とともにあるほど古い。ローマ共和国末期,豊かになったローマ人社会では階層間が流動的となる。上流階級に仲間入りする方法のひとつが,貴族階級である元老院議員に受け入れられることだった。政治家で哲学者のキケロは支配階級の仲間入りを切望し,平均的ローマ人の年収が1000セステルス(古代ローマの貨幣単位)だったときに,なんと100万セステルスを支払い,レモンの木を彫ってつくった机を購入したという。すぐにローマの新興成金も真似をして同じようなテーブルをつくろうとしたが,とてもそんな大金を払えない人は安い素材でコピーをつくらせた。彫刻家もまた,新興の小金持ちが家や庭に置く偉人の彫像のコピーを何体もつくった。古代史を研究する歴史家で,ドキュメンタリー映画監督のジョナサン・スタンプが解説する。
 「そんなことにカネを使い,表向きだけの見栄をはるようになったのは歴史上初めてだった。古い社会構造は消え,『昔の人は身の程を知っていた』と,元老院議員たちを嘆かせた」

ダナ・トーマス 実川元子(訳) (2009). 堕落する高級ブランド 講談社 pp. 279-280

伝統の職人技

 “伝統の職人技”なるものも複雑だ。私は中国人の若い女性が,むずかしいとされる作業——レザーを編んで持ち手とタッセルをつくっている様子——を見学した。「この技術はイタリアから学びました」と工場主は私に言った。バッグをつくるのに使用される接着剤の量によって,高級度のランクと小売価格が決まる。低ランクの高級ブランドは大量の接着剤を使う。ランクが高くなるほど少なくなる。ある新興の,高く評価されているヨーロッパのブランドは,接着剤をいっさい使わずに非常に質のいいレザーグズをつくっている——だが,そのブランドの大半の製品もこっそりと中国で生産されているのが実態だ。生産されている部屋に入ると,レザーのにおいしかしない。「接着剤が大嫌いなんです」工場主は言った。「だけど接着剤なしではブランドものは利益が出ないんですよ」
 そうやって高級ブランドは収益をあげているわけだ。

ダナ・トーマス 実川元子(訳) (2009). 堕落する高級ブランド 講談社 pp. 213

グローバリゼーション

 今日,高級ブランドのバッグはグローバリゼーションの研究に格好のテーマを提供する。鍵の部分はイタリアと中国(主として杭州),ジッパーは日本,裏地は韓国,刺繍はイタリアかインドか,または中国北部,レザーは韓国かイタリアで,そして組み立ては一部中国,一部イタリアで行われている。調達される部品の,本当の生産地にはときおり疑問符がつく。生産者の1人は私に,「あるサプライヤーは,実際には中国で買い付けたシルク地を,英国産だといって英国内でヨーロッパ価格で売っている」と教えてくれた。

ダナ・トーマス 実川元子(訳) (2009). 堕落する高級ブランド 講談社 pp. 212

人件費削減

 さらに高級ブランドがコスト削減をはかる箇所は,他の業種とまったく同じだ。人件費である。もっとも安価で,もっとも豊富な労働力が得られるのは中国だ。中国の労働者に高級ブランドの品質基準を満たす能力があるとコーチが証明するやいなや,数社のブランドが中国に生産の一部を移転した。コーチと同様,最初はクラシックでベーシックなレザーグッズの生産から始めた。技術力を確かなものにするために,イタリアのある大手高級ブランドは本国からレザーグッズの職人を1チームに送りこみ,中国の労働者を指導させた。やがて,目論見がうまくいくごとに,ブランド各社はどんどん大胆になり,注文量を増やし,他のブランドも大挙して中国で生産するようになった。2006年までには,消費者に知らされないまま年間何十万個という高級ブランドのバッグ,化粧ポーチ,肩掛け鞄が中国で生産されるようになっていった。
 ただし,中国であることを認める高級ブランドはまずない。イタリアの小規模レザーグッズ・メーカー,フルラは,2002年に財布といくつかのバッグの商品ラインを中国で生産することにしたと公表した。2004年に香港で開かれた会議では,「ヨーロッパの職人だけが一流品をつくれる」とベナール・アルノーは公言したが,LVMH傘下のセリーヌは,マカダムの商品ラインのデニムとレザーのバッグを,翌年から中国で生産し始めている(内側には茶色のレザーのタグが入っていて,製品がパリでデザインされ,「品質とディテールに細心の注意を払って中国で手作りされている」と書かれている)。

ダナ・トーマス 実川元子(訳) (2009). 堕落する高級ブランド 講談社 pp. 211-212

できないこと

 コストを下げることはもっと微妙な問題だった。いったいどうやって高級ブランドが,生産コストを下げながら高品質を保っていくのか?結論から言うと,そんなことはできなかった。そこで彼らは譲歩せざるをえなかった。収益増の名のもとに——もっとあからさまに言えば,貪欲さゆえに——高級ブランド各社は,本来完璧さを追究すべき品質で妥協を始めたのである。
 ある複数の企業は,既製品の製造コストを切り詰め始めた。
 「90年代の中ごろ,仮縫いをしていたらCEOが入ってきて『女性は裏地なんか本当は必要としていないんだよ』と言ったのを覚えています」大手高級ブランドの元アシスタントは私に教えてくれた。まもなく,裏地なしが業界のスタンダードになった。
 「裁断した布地の始末をやめて切りっぱなしにしたのは,日本の前衛的デザイナーがデザインのおもしろさから始めたものの名残だと思うけれど,実際には生産コストを簡単に減らせるからでしょう」と別のアシスタントも言った。
 「裏地と端の始末をやめることで,どれだけ時間とコストが節約できるか。ドレスやジャケットなどの外衣では,本体と裏地の両方を合わせて縫製し,表側からアイロンをかけ,裏返して裏地のほうからもアイロンをかけて,裏地が外れないように補正して縫うという工程が必要になります。切りっぱなしでいいなら,裁断して終わりです」

ダナ・トーマス 実川元子(訳) (2009). 堕落する高級ブランド 講談社 pp. 209-210

バッグを売るため

 レザー製品メーカーはブランドを——つまり自社のバッグを——もっと広く一般受けさせるために,既製品のラインを立ち上げた。ファッション・メーカーはバッグを最前線に押し出し,急激に刺激的になっていった広告の目玉的存在にした。バッグは消費者をブランドの虜にするための“囮”的アイテムになったのだ。
 その結果,世の女性たちは見事に囮に引っかかり,中には危ないほどはまってしまう人たちも出てきた。まえがきでも書いたように,日本にはルイ・ヴィトン,シャネルやエルメスのバッグを買うために売春をする少女もいる。2005年9月,ハリケーン・カトリーナの被災者に生活必需品を買うようにと,赤十字からデビットカードが渡された。だが,そのカードを使って,アトランタにあるルイ・ヴィトンの店で800ドルのバッグを購入した人たちがいた(このニュースが報じられるや,ヴィトンの幹部は販売員に赤十字のカードでの支払いを拒否するように指示し,すでに販売された商品の代金を赤十字に払い戻している)。デザイナーズブランドのバッグを短期間だけ貸し出すサービスを展開しているサイトもある——これを利用すれば,毎シーズン購入しなくても,バッグをもっと頻繁にとっかえひっかえすることができるというわけだ。

ダナ・トーマス 実川元子(訳) (2009). 堕落する高級ブランド 講談社 pp. 176-177

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