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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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効果的な教室環境

 そこで,いままでとは異なる前提で考えてみたい。いくらか曖昧であることは認めざるをえないが,効果的な教室で何が起こっているかを少し詳しく書いてみよう。教師がある雰囲気をつくりだす。生徒たちはその雰囲気に反応して,それまでとは異なる行動をする。その新しい行動が成功につながる。この場合,生徒たちは新しいスキルを身につけたのだろうか?だからちがう行動がとれるようになったのだろうか?そうかもしれない。あるいは,私たちが「スキル」と呼んでいるものは,ほんとうは新しいものの見方なのかもしれない。新しい,強力な行動を取るための体力だったり,信念だったり,心のありようだったりするのかもしれない。



ポール・タフ (2017). 私たちは子どもに何ができるのか 非認知能力を育み,格差に挑む 英知出版 pp. 101


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行動の変化

 この結論はより深いヒントへとつながる。グリットや自制心や粘り強さなどの気質にどんなラベルをつけるかは,じつはたいした問題ではないし,それをいうならこれらを「性格の強み」と定義するか,「非認知能力」と定義するか,あるいはほかの何であると定義するかも,やはり大きな問題ではない。とりあえず,生徒たちが毎週数時間をあるタイプの教師のそばで過ごすことで自分たちの行動の何かを変えた,これがわかるだけで充分だ。そういう教師が教室でつくりだす環境が,生徒たちのよりよい決断を助け,その決断が生徒たちの人生に大きな意味を持つプラスの変化を与えたのだ。



ポール・タフ (2017). 私たちは子どもに何ができるのか 非認知能力を育み,格差に挑む 英知出版 pp. 100-101


3つを促進する環境

 この瞬間,つまり内なる満足のためでなく,何かべつの結果のために行動しなければならなくなった瞬間に,「外発的動機づけ」が重要になる。デシとライアンによれば,こうした外発的動機づけを自分のうちに取り込むようにうまく仕向けられた子供は,モチベーションを徐々に強化していけるという。ここで心理学者は,人が求める三つの項目に立ち戻る。「自律性」「有能感」「関係性」である。この三つを促進する環境を教師がつくりだせれば,生徒のモチベーションはぐっと上がるというわけだ。


 では,どうやったらそういう環境をつくりだせるのか?デシとライアンの説明によれば,生徒たちが教室で「自律性」を実感するのは,教師が「生徒に自分で選んで,自分の意志でやっているのだという実感を最大限に持たせ」,管理,強制されていると感じないときである。また,生徒が「有能感」を持つのは,やり遂げることはできるが簡単すぎるわけではないタスク――生徒たちの現在の能力をほんの少し超える課題――を教師が与えるときである。さらに,生徒が「関係性」を感じるのは,教師に好感を持たれ,価値を認められ,尊重されていると感じるときである。デシとライアンによれば,この三つの感覚には,机いっぱいの金の星や青いリボンよりも,はるかに動機づけの効果があるという。



ポール・タフ (2017). 私たちは子どもに何ができるのか 非認知能力を育み,格差に挑む 英知出版 pp. 91


有能感・自律性・関係性

 これに反して,デシとライアンはこう論じた。私たちは多くの場合,自分の行動が生む表面的な結果ではなく,その行動によってもたらされる内面的な楽しみや意識を動機として決断を下す。二人はこの現象を「内発的動機づけ」と名づけた。さらに二人は,人が求める三つの鍵を見極めた――「有能感」「自律性」「関係性(人とのつながり)」である。そしてこの三つが満たされるときにかぎり,人は内発的動機づけを維持できると述べた。



ポール・タフ (2017). 私たちは子どもに何ができるのか 非認知能力を育み,格差に挑む 英知出版 pp. 88


理性的な判断か

 私たち大人は,子供が何か悪いことをしたときに,直感的にこう決めてかかる。「子供がこんなことをしたのは,自分の行動の結果を理性的に考えて,代償よりもその行動による利益のほうが大きいという計算が働いたからだ」そこでふつうは子どもたちが受ける罰を重くして,悪い行いの代償を大きくしようとする。しかしこの方法に効果があるのは,悪いおこないがほんとうに理性的な打算の産物だった場合だけである。ところが実際には――これは神経生物学の研究によって判明した重要な点の一つでもあるのだが――若者の行動,とくに深刻な逆境を経験してきた若者の行動は,多くの場合,理性とはかけ離れた感情や精神やホルモンの影響を受けている。



ポール・タフ (2017). 私たちは子どもに何ができるのか 非認知能力を育み,格差に挑む 英知出版 pp. 78-79


学習のための積み木

 ニューヨークを拠点とする非営利団体,<ターン・アラウンド・フォー・チルドレン>は,2016年に作成した報告書のなかで,こうした幼少期の能力を「学習のための積み木」と呼んだ。ブルック・スタフォード-ブリザールというコンサルタントが書いたこの報告書によれば,レジリエンス,好奇心,学業への粘りといった高次の非認知能力は,まず土台となる実行機能,つまり自己認識能力や人間関係をつくる能力などが発達していないと身につけるのがむずかしい。こうした能力も,人生の最初期に築かれるはずの安定したアタッチメントや,ストレスを管理する能力,自制心といった基幹の上に成り立つ。「教育者が子供たちのこうした能力や心のありようを優先せず,学習と統合して考えることもしないなら,生徒たちは仕事をするための道具がない状態,つまり学ぶための言語がない状態のままになってしまう」とスタフォード-ブリザールは述べている。



ポール・タフ (2017). 私たちは子どもに何ができるのか 非認知能力を育み,格差に挑む 英知出版 pp. 75


双方向の自制モデル

 レイバーはこのアプローチを「双方向の自制モデル」と呼ぶ。教室の空気はフィードバックの循環によって決まる,とレイバーは考えている。ごく幼いころの有害なストレスのせいで自制能力がうまく発達しなかった子供たちは,入園前の教室で何かを要求されるとたいてい感情をあらわにするか,粗野なふるまいをする。そこで教師が対立をうまく扱う訓練,あるいはストレス反応をうまく抑えきれない子供の爆発に対処する訓練を受けていないと,対立をエスカレートさせてしまう。それがさらに子供の爆発を激化させる。教室は敵意と怒りに満ちた場所になり,子供は脅かされていると感じ,教師はストレスで燃え尽きる。そして,行儀よくふるまうこと自体が,年間を通じて最大の課題になってしまう。



ポール・タフ (2017). 私たちは子どもに何ができるのか 非認知能力を育み,格差に挑む 英知出版 pp. 70


ネグレクト

 そう,ネグレクトも継続的な危機なのだ。ただし,心理学者によると,いちばん弱いネグレクト――世話をする人間がときどき注意をはらうのを怠ること――にはプラスの効果もある。子供にとって,自分はつねに親の関心の中心にいるわけではないと知り,ときには自分だけで楽しもうとするのはよいことだ。一方,過酷なネグレクトは,法律により虐待であると定義され,児童福祉課の介入を必要とする。しかしこの両極のあいだに「慢性的な低刺激」と呼ばれる状態がある。親が子どもにあまり反応せず,積極的に関心を寄せたり,きちんと向きあってやりとりをしたりといったことがない状態だ。子供は泣いても,話しかけようとしても無視され,連続して何時間もテレビのまえに放置される。 


 神経科学者たちの発見によれば,この程度のネグレクトでも,脳の発達に対し,長期間にわたる深刻な悪影響を及ぼす。



ポール・タフ (2017). 私たちは子どもに何ができるのか 非認知能力を育み,格差に挑む 英知出版 pp. 41


サーブとリターン

 子どもが感情面,精神面,認知面で発達するための最初にしてきわめて重要な環境は,家である。もっとはっきりいえば,家族だ。ごく幼いころから,子供は親の反応によって世界を理解しようとする。ハーバード大学の児童発達研究センターの研究者たちは,この相互関係に「サーブとリターン」という名前をつけた。幼児が音をたてる,あるいは何かを見る(これが「サーブ」)と,親は子供の関心を共有し,片言のおしゃべりや鳴き声に対し,しぐさや表情や言葉で反応することでサーブを打ち返す(これが「リターン」)。「そうね,わんわんね!」「扇風機が見えたの?」「あらあら,悲しいの?」こうした親と乳児とのあいだのあたりまえのやりとりは,親にしてみれば無意味なくり返しに感じられるかもしれないが,乳幼児にとっては世界のありようを知るための貴重な情報をたっぷり含むものだ。これはほかのどんな経験よりも発達の引き金となり,脳内における感情,認識,言葉,記憶を制御する領域同士の結合を強固なものにする。



ポール・タフ (2017). 私たちは子どもに何ができるのか 非認知能力を育み,格差に挑む 英知出版 pp. 32


小分けにされる

 貧しい子どもたちの問題に取り組む方法を探そうとするとき,誰もが直面する難題はもう一つある。アメリカ国内では,子供時代が年代に応じて,服のサイズや図書館の本棚のように,小分けにされてしまうのだ。乳幼児はこちら,小学生はあちら,10代の子どもたちはどこかまったくべつの場所,というように。これは研究者にも,支援グループにも,慈善事業にも,役所にも当てはまる。社会政策を例に取ってみると,国全体では,いちばん幼い子供たちの教育は保健福祉省の管轄であり,児童家庭局を通して「ヘッドスタート」などの育児支援プログラムを運営しているのもここである。しかし,幼稚園に入ったとたんに,子供の教育に関する責任の所在は魔法のようにすばやく教育省へ移動し,こんどはこちらが小・中学校の教育までを監督する。同様のお役所仕事的な区分が州レベル,郡レベルでも存在し,ごく少数の例外を除いて,幼児期の育児支援をする部署と学校システムの管理をする部署が協同で何かに取り組むことはないし,連絡すらほとんど取らない。


 こうした区分があるのも理解できる。子供時代のすべてを一つの政府機関,あるいは一つの財団が――ましてや一人の教師やメンターやソーシャルワーカーが――一手に引き受けるのは無理である。仕事があまりにも多岐にわたるからだ。しかしこのように分断することのいちばんの問題は,子供時代のあらゆる段階を通じて持続するテーマやパターンが見えなくなってしまうことだ。



ポール・タフ (2017). 私たちは子どもに何ができるのか 非認知能力を育み,格差に挑む 英知出版 pp. 21-22


素敵な成り行き

成り行きって 、恐ろしいものだ 。でも 、恐ろしく素敵な成り行きもある 。



森博嗣 (2017). ダマシ×ダマシ 講談社 2894/3490 (kindle)


問題解決

人間は 、自分が話したいことを探して言葉にする 。自分の意思で 、そのハ ードルを越えること 、その決断が 、その後の自信になるし 、言ったことの責任も感じる 。だから 、人に話すだけで自分の問題が解決することだってある 。



森博嗣 (2017). ダマシ×ダマシ 講談社 100/3490 (kindle)


治療行為

 思春期の頃から日常に懐疑的で,物語の中にある言葉に引っ張られ,言葉を頼りにしながらも,むしろネガティブに言葉の闇の底に沈み込むことが多かった。


 生きるということは即ち死に向かうことだと思うと,闇の底の淀みにはニューロティックな自己批評性と,それを打ち消すべき笑いが寄り添っていた。拠り所にする言葉が枯れると,新たな言葉を探して本の海をひとり泳ぎ,潜水した。


 そんな時,現実の世界で救済してくれる人と出会えたり,指針となる言葉を与えられると,漠たる闇から浮上することができた――思えばボクはずっとそういうサイクルの人生を送ってきた。


 自らの半生を省みても数々の事象が思い当たる。舞台の上やテレビで話すこと,笑わせることが本業でありながら,執筆活動も生業のひとつとなった今,ボクにとって,書くことは営みを超え,自分自身を慰撫する治療行為にもなっている。



水道橋博士 (2017). 藝人春秋2 下 死ぬのは奴らだ 文藝春秋 Kindle 3485-3486/3821.


受験倍率2年周期の法則

 ところでここに,株価とは違うが,実に面白い規則性がある。大学の受験倍率の高低がおおよそ2年周期になる,という法則である。これは多くの大学教員から聞いたので,かなり信憑性がある法則だ。この周期性は,受験生たちがなるべく受験倍率の低い大学を受験しようとする,そういう傾向から来ているらしい。もちろん,大学の合否はおおよそ学力で決まる。実力があれば倍率など無関係に合格するだろう。しかし,試験はみずものである。実力通りの結果を出せないこともままある。このとき,倍率が低いなら,多少失敗しても運よく受かるかもしれない。そこで受験生は倍率の低そうな大学を受験しがちになる。
 このとき,受験生は前年度のデータを参考にして,受験倍率が低い大学を選ぶ。そのため,前年度倍率の低かった大学は,今年度に倍率が跳ね上がり,前年度高かった大学は逆に下がる傾向が現れる。これを「受験倍率2年周期の法則」という。
小島寛之 (2005). 使える!確率的思考 筑摩書房 pp. 61-62

セロトニン濃度の高い人

 研究者は,セロトニン,テストステロン,オキシトシンといったホルモンの行動への影響を判断するために,トロリー問題を利用してきた。最後通牒ゲームも同じ役目を果たしている。


 ある実験で,セロトニン濃度が高い人は,ほかの人が不公平だと見なす申し出を受諾する可能性が高いことがわかった。ビールとサンドイッチで食事をしながら労働組合のリーダーと交流する必要に迫られたら,サンドイッチに厚切りチーズを挟むといい。チーズにはセロトニンが豊富に含まれているからだ。経営陣が利益の大半を懐に入れていると信じている労働者は,自分が損をしてでも上役の評判を落としてやろうと考える。つまり,罰を加える方法がそれしかなければ,自分を傷つけるのも厭わない。セロトニンにはこうした衝動を抑える働きがある。一方,テストステロンには寛容さを減じる効果がある。女性のほうが男性より気前のいい申し出をするのは,これが一因かもしれない。また,オキシトシンは正反対の働きをする。



デイヴィッド・エモンズ 鬼澤忍(訳) (2015). 太った男を殺しますか?「トロリー問題」が教えてくれること 太田出版 pp.240-241


カテゴリー錯誤

 しかし,神経科学の主張に対しては,さらに根本的な反論がある。そこに何らかのカテゴリー錯誤が含まれているというのが,批判の要点だ。カテゴリー錯誤という概念を導入した20世紀のイギリスの哲学者,ギルバート・ライルは,オックスフォード大学にやってきたアメリカ人旅行者を例にあげてそれを説明している。この旅行者は,シェルドニアン大講堂,ボドリアン図書館,学寮と中庭を見たあとで,「で,大学はどこですか?」と無邪気に聞いたというのだ。あたかも大学が物理的に別個に存在しているかのように。


 同じような考え方から,概念,選択や動機,欲望や偏見といったものを脳に帰すのは,ある種のカテゴリー錯誤だとされる。ライルはヴィトゲンシュタインの影響を受けている。神経科学者を批判する者の多くがヴィトゲンシュタイン信奉者だ。神経科学をヴィトゲンシュタイン流に批判すれば,心理的特性は脳に帰すことはできない,となる。彼らに言わせれば,心と脳は同一ではない。



デイヴィッド・エモンズ 鬼澤忍(訳) (2015). 太った男を殺しますか?「トロリー問題」が教えてくれること 太田出版 pp.220


二重システム

 ジョシュア・グリーンは当初,感情と計算が対立していると見なし,ハイトは感情と理性(さらに最近の著作では自動性/直観と理性)が対立していると見なし,ノーベル経済学賞を受けた心理学者のダニエル・カーネマンは速い思考と遅い思考が対立していると見なした。


 これら二重のシステムは相互に完全に独立していなくてもよい。したがって,ハイトが言うように感情が運転席にいるとしても,理性が運転指導教官として早い段階で介入する役目を果たしてきたのかもしれない。たとえば,先進国の大半で,人々は昔ほど同性愛を嫌悪しなくなった。よって,同性愛は間違っていると思う人も少なくなった。だが,もしかしたら理性が,同性愛は唾棄すべきものという社会規範を変える役割を多少なりとも果たしたのかもしれない。



デイヴィッド・エモンズ 鬼澤忍(訳) (2015). 太った男を殺しますか?「トロリー問題」が教えてくれること 太田出版 pp.215-216


原因が腫瘍なら

 2000年に起こった貪欲な性犯罪者の事例を考えてみよう。ある中年のアメリカ人男性は幸せな結婚生活を送っており,異常な性的嗜好もなかった。ところがほど一夜にして,売春婦と小児ポルノに興味を抱くようになった。妻がこれに気づき,男性が継娘にちょっかいを出しはじめたため,当局に通報した。男性は児童に対する性的虐待で有罪となり,リハビリを命じられた。ところがリハビリも彼を止められなかった。リハビリ先でも,相変わらずその施設の女性に性的な嫌がらせをしていたのだ。実刑は避けられないように思われた。


 彼はしばらく前からしつこい頭痛に悩まされていたのだが,それがいっそうひどくなっていた。判決の数時間前になってようやく病院に行くと,脳スキャンによって大きな腫瘍が発見された。腫瘍を切除すると,振る舞いは正常に戻った。話はこれで終わりかと思いきや,六ヶ月後,彼はまたしても不埒な行動をとりはじめた。再び医師の診察を受けると,最初の手術でとりきれなかった腫瘍の一部が大きくなっていたことがわかった。二度目の手術が完全に成功すると,常軌を逸した性的行動は即座に収まった。結局,男性は実刑を免れた。


 腫瘍は極端な例だ。こうした腫瘍のせいで彼の意思決定が極端に変わってしまったのだとすれば,行動の責任を問う者はほとんどいないだろう。だが神経科学者は将来,いまのところは「病気」「疾患」「異常」といった言葉でくくられていないその他の身体的原因を指摘するようになるだろう。彼らは「メアリーの万引きは,彼女の脳内の化学組成とシナプスによって説明できる」などと言うかもしれない。この弁明が,腫瘍を根拠とする弁明よりも理屈として説得力に欠ける理由ははっきりしない。



デイヴィッド・エモンズ 鬼澤忍(訳) (2015). 太った男を殺しますか?「トロリー問題」が教えてくれること 太田出版 pp.213-214


簡単な殺人

 パキスタンやアフガニスタンの上空には,米軍の無人飛行機,ドローンが絶えず飛び交っている。これを操縦しているのは何千マイルも離れたアメリカにいる,たいていは比較的若い男たちだ。2011年までの七年間で,米軍のドローンに殺された人は,パキスタンだけで2680人にのぼると見られる。


 ドローンは未来の戦闘の象徴だ。現在,偵察に使われているドローンがある一方で,人間や建物を標的にしているドローンもある。操作レバーを動かして人を殺すのと,銃剣でのどを刺して殺すのはどちらが簡単かがわかっても,それ自体は道徳的に中立な発見だ。結局のところ,われわれが恐ろしい敵に出会ったら,自軍の兵士には殺害に対して良心の呵責を感じてほしくないと思うかもしれない。しかし,銃剣を突き刺すよりもスイッチをぱちりとやるだけで殺すほうが簡単だとすれば,そのことは知っておく必要がある。



デイヴィッド・エモンズ 鬼澤忍(訳) (2015). 太った男を殺しますか?「トロリー問題」が教えてくれること 太田出版 pp.207-208


AIが直面する課題

 グーグルの自動運転車の開発はかなり進んでいる。多くの空港ですでに使われている自動運転列車は,いまや世界中の都市に導入されようとしている。たとえばデンマークのコペンハーゲンでは,ほとんどあらゆるものがコンピューターで一元管理されている。暴走する自動運転列車が,五人を殺すか一人を犠牲にするかの「選択」に直面する――そして,状況に応じで適切に反応するようプログラムされている――という事態も想像できる。


 自動運転列車であれ銃を使うロボットであれ,人工知能を備えた機械は人間より適切に「振る舞う」ことさえある。ストレスの多い状況で(たとえば砲火にさらされて),人は太った男を突き落としてしまい,あとで後悔するかもしれない。機械の「決断」は,アドレナリンがほとばしったからといって誤ることはない。


 ソフトウェア技術者が意見を一致させる必要のあるただ一つ(!)の事柄は,道徳規則をどんなものにするかということだ。



デイヴィッド・エモンズ 鬼澤忍(訳) (2015). 太った男を殺しますか?「トロリー問題」が教えてくれること 太田出版 pp.182-183


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