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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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蛸壺化の理由

 高等学校や専門学校の教員としては,学士の称号があれば十分とされ,帝国大学の場合にも,大学院や研究科に何年か在籍したあと(学位の有無と関係なく)助教授に任用され,さらに数年後に教授候補者として3年程度欧米諸国に留学,というより「遊学」し,帰国後は教授に昇任し,さらに何年かたてば「推薦」により博士号を授与されるというのが,一般的なキャリアであった。したがって初期の留学生と違って,彼らには欧米の大学で必死に学び,学位を取得して帰る必要もなかった。大学院で5年間学ぶことも博士号を取得することも,アカデミック・キャリアをたどるための必要不可欠の条件ではなかったのである。大学院という制度はその後も長く,日本の風土にはなじまないままであった。
 ただ,それでは大学院という制度が不要であったかといえば,そうではない。より深く高度の学術を学びたいと考える若い世代の学生たちがつねに一定数あり,しかも彼らが研鑽に励むための宿り場がなければ,大学と学問の安定的で持続的な発展は望みがたい。組織としては未整備であっても大学院という制度の存在が,とくに文学や理学のような基礎的な学問領域において,次世代の学者の孵卵器として重要な役割を果たしていたことは疑いない。
 そこに欠けていたのは将来の大学・高等教育機関の教員や研究者を,自覚的かつ組織的に育成しようという明確な意図である。そしてそのことが大学内では徒弟制度的な,大学間ではたこつぼ的で分断的な,学者の養成システムを生み出し,学閥をはびこらせる原因となり,その結果として横の連帯感に乏しい学者の世界,「学界」が作り上げられていくのである。

天野郁夫 (2009). 大学の誕生(上) 中央公論新社 pp.199-200
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学士試問規則

 こうして明治15年には,東京大学に新たに「学士試問規則」が定められ,「学部卒業者中志願の者に限り,其の学力を考試して学士の学位を授与する」ことになった(『東京帝国大学五十年史』上冊,496ページ)。
 ただしこの「規則」は一度も実施されぬまま東京大学は帝国大学になり,明治20年公布の「学位令」によって,学位の種類は博士と大博士の2つと定められた。このうち大博士は,実際には授与されたことがなかったから,以後,第二次大戦後の学制改革により修士学位の制度が設けられるまで,学位といえば博士号をさすことになった。学士は学位ではなくなり,大学卒業者に与えられる称号に過ぎないという時代が,ごく最近まで,1世紀余り続いたのである。学士が,正規の学位として認められるようになったのは,1991年になってのことである。

天野郁夫 (2009). 大学の誕生(上) 中央公論新社 pp.193

慶應義塾の受難の時代

 義塾の利点は,独自の中等教育の過程を置いて,というより英語教育重視の高等普通教育を行なう従来の義塾を基礎に,専門教育を開始した点にある。その義塾出身者に入学試験によって選抜された外部生をあわせて,初年度には59名が入学した。「大学部」は発足時から,英語による専門教育を受けるに十分な,学力の高い学生を持つことができたのである。
 ただし,中等教育に相当する義塾の高等普通教育の課程である「正科」の卒業者が,入学者の半数近くを占めたのは最初の年だけで,その後は外部からの入学者を大きく下回り,20名に満たない年もあった。しかも学生数が当初予定した300人はおろか,100人にも満たない時期がその後も長く続いた。とくに文部省の「特別認可」を受けなかった法律科は不振を極め,在学者数は10人前後で推移しており,募金によって作られた折角の基金も,次第に取り崩しをせざるを得ない状況に追い込まれていく。
 この時期すでに私学の雄とみなされていた慶應義塾ですらこのような困難な状況にあったのだから,他は推して知るべしである。わが国の私学にとって,「大学」への道は遠かった。

天野郁夫 (2009). 大学の誕生(上) 中央公論新社 pp.157-158

師範学校

 教員養成の役割を担う師範学校について,高等・尋常の別が設けられたのは,明治19年の「師範教育令」によってである。尋常師範学校では小学校,高等師範学校では師範学校(および中学校等)の教員養成というのが,その与えられた役割であった。各府県に1校置かれた尋常師範学校は入学資格等からするとき,中学校とほぼ同一水準の学校であったから,高等教育機関と呼びうるのは東京に置かれた唯一の官立高等師範学校だけということになる。この学校はもともと小学校教員の養成を目的に設立されたものだが,明治8年には,中学師範学科を開設して中学校教員の養成を開始していた。
 中学校をはじめとする中等学校の教員は,医師や法律家に準ずる,近代社会の主要な専門的職業のひとつである。その教員をどのように養成するのか。明治5年の学制は,中学校の教員について「大学免状ヲ得シモノニ非サレは,其任ニ当ルコトヲ許サス」と規定して,大学による養成システムを構想していた。しかし,大学そのものがまだ設置されていない時点で,それは空文に過ぎず,その空白を埋めるために中学師範学科が設置されたものと見てよい。

天野郁夫 (2009). 大学の誕生(上) 中央公論新社 pp.120-121

学費の高騰

 しかし,その「帝国の大学」でなぜ奨学金だったのか。
 この時代,ドイツをはじめヨーロッパの大学では授業料は基本的に無償であった。ところがわが国の大学も専門学校も,官立でありながら私費を原則としていた。日本型グランド・ゼコール群は官費生制度をとっていたが,それは卒業後の長期にわたる奉職義務と引き換えであったことはすでに見たとおりであり,しかもその官費生制度は短期間に次々に廃止されていった。東京大学には給費・貸費の制度があったが,その恩恵にあずかる学生の数は限られていただけでなく,明治18年には森文相によって,授業料がそれまでの月額1円から2円50銭に一挙に引き上げられ,貧乏士族の子弟が多数を占める学生たちに衝撃を与えた。
 当時の文部省の高級官僚で,明治26年には帝国大学総長にもなる浜尾新によれば,貧乏学生を教育しても,卒業後「徒ニ月俸ニ恋々シテ,僅ニ一身一家ヲ維持スルヲ謀ル」にとどまり,「到底完全ノ専門家タルノ実力ヲ顕ハス」ことはできない,これからは「中等以上ノ資格ヲ備フル人民ニシテ,十分ノ学資ヲ有スル者ノミヲ養成」するほうがよいからだというのが,その授業料引き上げの理由であった(天野, 2005年, 53ページ)。
 帝国大学の最低年俸が400円という時代の明治22年に,森文相がその授業料をさらに月額10円にまで引き上げると宣言して,学生たちに大きな衝撃を与えた。官立学校は「皆国家ノ必要ニ由テ設立スルモノ」だから,おおむね「其経費ハ国庫ヨリ支弁」するが,「修学スル生徒ハ亦,其自己ノ教ヲ受クル報酬トシテ,其授業料ヲ払フハ固ヨリ当然ノコト」ではないか,というのである。なにやら昨今の国立大学の授業料をめぐる議論を聞くような話だが,このドラスティックな値上げ案は,森の暗殺という思いがけない事件で沙汰やみとなり,授業料は据え置かれることになった(同書, 55ページ)。

天野郁夫 (2009). 大学の誕生(上) 中央公論新社 pp.106-107

大学院

 大学院(グラデュエート・スクール)という,研究と研究者・大学教員養成に特化した組織は,「カレッジからユニヴァーシティへ」の転換をはかるアメリカの大学が,ドイツの大学にならって創設したものとされている。しかし当のドイツの大学には,大学院に相当する組織や教育課程はなく,帝国大学の大学院(「ユニヴァーシティ・ホール」と英訳されていた)のモデルがどこにあったのかははっきりしない(寺崎,1992,54-55ページ)。
 ただ,アメリカ同様わが国の場合にも,教育機能のみを持つ「カレッジ」的な大学から,研究機能を重視する,つまり知識の伝達だけでなく,創造の機能を重視する,真の(ドイツ的な)「ユニヴァーシティ」へと転換をはかろうとしたとき,研究と研究者養成の場を設置する必要性が痛感されたであろうことは,想像に難くない。いやそれ以前に,1日でも早く外国人教師依存の教育体制から抜け出し,国内でも将来の教員を養成する努力を始める必要があった。東京大学時代の明治13年にはすでに,学部卒業ごさらに研究を深めたいとする学生のための「学士研究科」が開設されており,官費研究生の枠も設けられていた。

天野郁夫 (2009). 大学の誕生(上) 中央公論新社 pp.99

専任がいるのは

 慶應義塾と東京専門学校がとりわけ授業料の徴収に熱心だったのは,この2校だけが専任の教員を抱えていたかあでもある。それ以外の法学系私学は,いずれも他に本来の職業を持つ人たちが,まさに「公務ノ余暇」に教育にあたっていたのであり,「教員講師ハ総テ無謝儀」(『法政大学八十年史』139ページ)という場合も少なくなかった。私学にとって最大の経費は人件費である。この時代はいま以上にそうであった。大方の私学は専任教員をまったく持たず,非常勤の時間講師を頼りに校舎も借り物で,もっぱら夜間パートタイムの教育を行っていたというのが実態であった。
 これを,最先端の欧米の学問を身につけた,限られた人材の有効活用の方策と見ることもできないではないが,ひとつの学校,とりわけ私立学校が永続的な組織として発展し,やがて「大学」へと「離陸」を遂げるためには教育,さらには研究活動の安定的な担い手となる教員集団を,どうしても持たなければならない。慶應義塾と東京専門学校が,数ある私学の先頭を切って,帝国大学に対抗する大学へと成長を遂げることができたのは,それが最初から,小なりといえども専任の教員集団を持ち,またあとで見るように,自前でその拡大再生産をはかる努力を早くから重ねたからである。

天野郁夫 (2009). 大学の誕生(上) 中央公論新社 pp.86-87

日本は私学の国

 もともとわが国は,明治維新の以前から私学の国であった。庶民に読み書きそろばんを教える寺子屋がすべて,自主的な民間の初等教育機関であったことはよく知られている。福沢諭吉をはじめ,近代化の初期段階を担う各界のリーダーを多数輩出した緒方洪庵の蘭学適塾も,漢字の教育的改革で知られる広瀬淡窓の咸宜園も,大阪の商人たちが設立した有名な懐徳堂も,いずれも私塾,つまり私立学校であった。幕府の最高学府である昌平黌自体,儒学者林家の家塾から出発したものである。各藩の学問所である藩校と,学者が個人的に設立する私塾,つまり官公立と私立の学校が並立していたのが,明治以前のわが国の中等・高等レベルの教育の姿であった。 

天野郁夫 (2009). 大学の誕生(上) 中央公論新社 pp.72

専門学校

 これまで見てきたように,「専門学校」という学校種の名称は,もともと「学制」の本文にはなく,追加規定として,しかも官立の開成学校と医学校を具体的な対象に設けられたものである。しかもそれは,外国人教師が外国語で教授する,やがて設立されるはずの大学と肩を並べる,あるいはそれよりも高い水準の,「高尚」な学校を想定してのものであった。ところがその「専門学校」という名称が,交付からわずか数年のあいだに,現実には「浅近ノ課業ヲ受クルノ類」の学校を含むところまで拡大された,さらにいえば「低俗」化されてしまったことが,この『文部省年報』の記述からうかがわれる。

天野郁夫 (2009). 大学の誕生(上) 中央公論新社 pp.66

外国語の比重

 それでも明治10年の東京大学が,実質的には依然として学制にいう「専門学校」と変わらなかったと見るのは,そこで専門学校を教授していた専任教員が,事実上すべて外国人教師,「お雇い外国人」であったからである。東京大学が発足した明治10年の時点で見れば,法理文三学部の日本人教授4名に対して,「外国人教授」は17名,その内訳はアメリカ8名,イギリス4名,フランス4名,ドイツ1名であった。早くから専門教育を進めてきた医学部でも,日本人教授5名に対し「外国教授」が11名と多数を占めており,その全員がドイツ人であった。ようやく日本人が教授ポストにつくようになったとはいえ,まだその数は限られており,授業自体すべて外国語,試験も卒業論文も外国語によっていたのである。

天野郁夫 (2009). 大学の誕生(上) 中央公論新社 pp.30

外国語が必要だった

 留学帰りの教授たちは,日本語で授業をするのが基本になったとはいえ,訳語も定まらぬ状況下で,使用されるテキストは事実上すべて欧米諸国のもの(原書!)であり,授業は大部分が外国語で,あるいはそれに日本語混じりで行なわれていた。
 その外国語も医学部はもっぱらドイツ語,法理文の三学部は英語を主とするとはいえドイツ語・フランス語も必要とされるという複雑さであり,学生たちには依然として高度の,しかも複数の外国語能力が要求されていた。授業時間の大半を外国語の履修にあてる予備門が,あとで見るように帝国大学の発足後,高等中学校・高等学校として制度化されねばならなかったのは,そうした学問的な後進国・植民地としてのわが国の大学の,その後長く続く重要な特質と不可分にかかわっていた。

天野郁夫 (2009). 大学の誕生(上) 中央公論新社 pp.54-55

最良の選択を

 それ以上に重要なのは,彼らが「文明開化」「富国強兵」「殖産興業」などのスローガンのもと,差し迫った近代化や産業化の推進のために,各国の学術の長短を分野ごとに比較・検討し,最適の国から最良のものを選択しようという意図を初めから強く持っていたという点である。それは留学生の派遣先の決定だけでなく,自分の国にどのような高等教育の期間を創設するかについての選択にも,深く関係していたと見てよい。これから建設されるべき西欧的な教育システム像を示した,最初の本格的な近代教育制度の構想である明治5(1872)年の「学制」が,「仏国学制」を基本としながらオランダやドイツ,さらにはアメリカなどの制度を参考に策定された,いわば折衷的な,採長補短的な性格のものであったことは,それを裏書するものといえよう。

天野郁夫 (2009). 大学の誕生(上) 中央公論新社 pp.18

時代の流れ

 すでに出版社はもとより,レコード会社にも映画会社にもアニメ・プロダクションにもゲームメーカーにも,以前ほどのおカネが入らなくなり,著作権者の生活は苦しくなっている。
 しかし,私は最近,これは仕方がないと思い始めた。というのは,デジタル化というのは誰でもコピーができるということであり,いまのデジタル技術では,コピーとオリジナルの差がないからだ。つまり,著作権法が規定する「複製権」「出版権」などというものは有名無実化し,それを誰かが専有できること自体がありえなくなっている。もっとはっきり言えば,デジタルコンテンツというのは,それが公開された瞬間から,パブリックドメインになってしまうのだ。
 そう考えると,デジタル時代には従来の著作権法ではない新しい権利法が必要だ。

山田順 (2011). 出版大崩壊:電子書籍の罠 文藝春秋 pp.156

区別できない

 このように,過去の名作は現状では電子書籍化はされないばかりか,したとしても,大量のゴミコンテンツのなかに埋もれてしまうだけだろう。
 過去の作品も,現在の作品も,なにもしなければ,電子出版の世界では大量の自費出版本と同列に並ぶだけである。たいていはタイトルの「あいうえお順」で,次は売れている「ランキング順」だ。もちろん「ジャンル別」もある。
 しかし,こんな世界では,読者側によほどのリテラシーがなければ,ゴミと名作の区別などつかないだろう。

山田順 (2011). 出版大崩壊:電子書籍の罠 文藝春秋 pp.208-209

何がしたいのか

 ここでどうしても書いておきたいが,私の経験から言うと,作家志望者のほとんどが実際には印税や名声を望んでいるだけである。彼らが作品を書くのは,それを得るための手段にすぎない。ほとんどの作家志望者は,社会に伝えたい明確なメッセージや思想を持っていないし,それを裏づける経験もない。

山田順 (2011). 出版大崩壊:電子書籍の罠 文藝春秋 pp.199

そこには混乱が

 しかし,私に言わせてもらえば,セルフパブリッシングでやってくる未来は,単なる無秩序で,混乱した世界にすぎない。この混乱がおさまって,本当の電子書籍時代が訪れるのには,まだ時間がかかる。
 セルフパブリッシングについては否定的な見方もある。それは「フラット化した世界で成功するのは,すでに作家として名前のある一部の人間だけ」「誰でも作家時代になると,コンテンツが際限なく増える。これは,ゴミが溢れるのと同じ」というものだ。
 私は,こちらの否定的な見方に傾いている。それは,「ケータイ小説」がブームになったことをみれば明らかではないだろうか。あれは,もはや小説ではなく,ケータイ向きの単なるライトストーリーで,プロの編集者から見たら即ボツのゴミ作品にすぎない。
 今後,セルフパブリッシングの大半を占めるのが,こうしたコンテンツになれば,本物の作品は埋没してしまう可能性が高い。

山田順 (2011). 出版大崩壊:電子書籍の罠 文藝春秋 pp.195-196

編集にはカネがかかる

 さらに,紙も電子も同じだが,コスト計算できないのが編集費である。
 取材に何カ月,インタビューもロケもやるような本格的なノンフィクション,あるいは旅行ガイドや料理本などは,取材費,撮影代,スタジオ使用料,カメラマンのギャラ,イラスト制作料などと,かなりの編集費がかかる。これを,電子書籍だからといって1000円以下の価格で売ったら,それこそ何百万,何千万の赤字になるだろう。これでは,電子書籍の新刊というのは,よほどのヒットを飛ばさなければリターンなど望めない。

山田順 (2011). 出版大崩壊:電子書籍の罠 文藝春秋 pp.178-179

本を作るコスト

 紙の新刊本の場合,コストには,大まかにいって編集費,印刷・製本代,流通経費,販売経費,著者印税(だいたい10%)がある。出版社はこのうち,流通,販売以外のすべての経費を本の定価の60〜70%に設定し,制作した本を流通業者である取次に卸す。つまり,本の定価から見ると,著者の取り分(印税)が10%,取次がおよそ20%,書店がおよそ10%となっていて,出版ビジネスは残りの60%をどうやりくりして利益を上げるかということになっている。
 ところが,電子出版の場合,印刷・製本代がいらなくなる。取次も書店も通さないから流通・販売経費もいらなくなる。これは一見すごく有利と思えるが,アマゾンやアップルは30%を持っていくし,ほかの電子書籍販売会社は50%〜60%も持っていくところがあるので,実際は,コスト削減にはなっていない。まずここに,著者や一般の大きな誤解がある。

山田順 (2011). 出版大崩壊:電子書籍の罠 文藝春秋 pp.177

IT側だけ儲かる

 このことを振り返っていま思うのは,現状の電子出版でビジネスになるのは,IT側だけだということだ。コンテンツ提供側は多大な出費を覚悟して,彼らが用意したスキームに乗って走り出す。しかし,走ってみて気がつくのは,話が違うということである。
 もう1つ,これまで私が会ってきたIT側の人間は,作品やそれをつくるということに関して,あまり愛情を持っていないことを,たびたび感じた。作家が作品をつくるのにどんなに苦労しているのか,あるいはジャーナリストが真実を追求することにどれだけ苦労しているのか,そういう話に彼らは興味を示さない。まして,メディアの役割などということはどうでもよく,ページビューを上げるためのSEO(サーチエンジン対策)だとか,ソーシャルマーケティングだとかを,熱く語る。
 そういう話のなかで,たまたまこちらがテクニカルターム(専門用語)を知らないと,彼らの語りはさらに熱くなる。

山田順 (2011). 出版大崩壊:電子書籍の罠 文藝春秋 pp.176

オプトアウト・オプトイン

 そして,もう1つ,日本の著作権の概念に著しく欠けていることに「オプトアウト」という考え方がある。このオプトアウトは,ウェブの時代には欠かせない考え方である。
 たとえば,あなたがどこかのサイトの会員に登録すると,以後,そこから頻繁に広告メールが送られてくるケースがあると思う。これが,オプトアウトで,簡単に言うと「拒否しない限り同意しているとみなす」ということ。つまり,オプトアウトでは事前の了解なしでもメールが送れることになっている。
 ところが,日本は「オプトイン」の国で,著作者の許諾と同じように,メールを送る前に「広告メールを送りますがいいですか?」と許可を得ないと,メールを送れないことになっている。オプトインもオプトアウトもともに拒否する権利だが,その方向性はほとんど正反対で,日米は全く逆だ。
 オプトアウト方式でいけば,著作物を使用する場合,コンテンツそのものには著作者本人の許諾が必要となるが,フェアユースと絡めて,許諾の範囲,引用の範囲と判断できれば,直接著作者に当たらなくても使用できる。もちろん,著作者本人が申し出て,「やめてほしい」と言ってきたら,ガイドラインに照らして判断し直す必要がある。
 日本では「許可なくやること」は大犯罪のように扱われるが,コンテンツの流通を考えたとき,オプトアウトのほうがはるかに自由が利く。また,ウェブの世界では削除は一瞬であり,削除した瞬間から権利は侵害されなくなるので,この方式がアメリカでは一般化している。

山田順 (2011). 出版大崩壊:電子書籍の罠 文藝春秋 pp.149-150

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