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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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フェアユース

 フェアユースというのは,「著作物を構成に利用した際に著作権の侵害にはならない」という概念。フェアとは「公正」ということだから,公正(フェア)にやりさえすれば,著作権者の許諾をいちいち得なくてもかまわない,というのがフェアユースの基本的な考え方である。
 この場合のフェアとは,個人的な複写はもちろん,公共の利益になる使い方なら複写・引用してかまわないということ。とくに引用の場合は,報道,論評,教育目的のケースでは,日本よりかなり許容度が高い。したがって,アメリカでは公益性があると認められると制作側が判断すれば,著作権に事前の許可を取らないケースが多い。
 ところが,日本の場合,著作物を使用する場合は,ほとんどのケースで著作者の了解,許可を求めなければならないことになっている。

山田順 (2011). 出版大崩壊:電子書籍の罠 文藝春秋 pp.149
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契約書の欠如

 驚くべきことに,これまでの日本の出版界では,著者と契約書を交わしていなくとも,本が出版されてきた。日本はアメリカのような契約社会ではなく,著者と信頼関係さえ築ければ,口約束でも本は出せた。
 その意味で,出版社と著者は持ちつ持たれつの「牧歌的な関係」のなかにあった。私が週刊誌の編集部から書籍部門に異動したのは1999年のことだったが,そのとき,引き継いだ既刊本について契約書をチェックしたところ,なんと約3割の本に出版契約書が存在しなかった。あったとしても,日本書籍出版協会(書協)によって作成された一般的な出版契約書であり,本来ならこれを書籍固有の事情,あるいは出版社固有の事情によってアレンジすべきものなのに,そのまま使っていた。

山田順 (2011). 出版大崩壊:電子書籍の罠 文藝春秋 pp.140

知らなかった事実

 とはいえ,スティーブ・ジョブズは,日本の電子書籍市場がエロ系コンテンツだらけなどとは,夢にも思わなかっただろう。

山田順 (2011). 出版大崩壊:電子書籍の罠 文藝春秋 pp.116

何をしてきたか

 出版不況を克服するため,これまで出版社がやってきたことは,なんだろうか?
 1つ目は,どんな状況になろうと「いい本をつくれば売れる」と,編集者が励んできたこと。2つ目は,カスタム出版や通販などの出版派生ビジネスへの進出と拡大。3つ目は,主に販売サイドの要求からの出版点数の増加。4つ目は,電子化,デジタル化への対応。この4番目の電子化,デジタル化への対応の1つの選択肢として,電子出版がある。
 しかし,これらは,今日まですべて出版不況克服の「解」にはなっていない。

山田順 (2011). 出版大崩壊:電子書籍の罠 文藝春秋 pp.92

ノルマ

 本をつくってきた側の立場から言わせてもらえば,「毎日追われるようにつくっている本なら,出さないほうがマシ」「出さない選択のほうがよほど賢い」ということになる。編集者というのは,売れる本よりいい本(社会的に意義のある本,価値のある本)を,納得のうえで出したいものだ。それが売れてくれて,つまり,社会に価値を認められて,初めて報われた気持ちになる。
 ところが,ビジネスとしての出版経営は,たいていの場合,毎月決まった点数を刊行するというノルマのもとに運営されているから,打席数が増えれば増えるほど,1冊の本にかける時間は減少し,その結果,本のクオリティは落ちていく。時間をかければいい本が出せるとは限らないが,少なくとも企画段階から2,3カ月では,いい本は出せない。
 私は「もうこんなに出すのは止めようよ」と,何度か言ったことがある。しかし,「編集長自らそんなことを言うなんてありえない」と断られた。

山田順 (2011). 出版大崩壊:電子書籍の罠 文藝春秋 pp.81-82

紙離れ

 旧世代の人々は,若者が本や新聞を読まないというと「活字離れが進んでいる」などと嘆いてみせる。しかし,紙の本や新聞を読まなくなった若者たちは,昔の若者たちよりはるかに大量の活字(文字)情報に,ネットを通じて接している。また,毎日必ずといっていいほどメールを書いているはずで,これほど若者たちが文字を使っていた時代はかつてなかっただろう。
 つまり,活字離れなど起こっていない。起こっているのは,「紙離れ」だけだ。

山田順 (2011). 出版大崩壊:電子書籍の罠 文藝春秋 pp.57-58

理想像の拘束

 勝は,自らの築き上げた「勝新太郎」という理想像にがんじがらめになって,身動きがとれなくなっていた。
 「勝新太郎は次も何かやる」
 「勝新太郎は必ず凄いことをやってのける」
 高すぎる理想へのプレッシャーを抱え,前に進むことをためらった。
 映画を作ることも,出ることも,勝は恐くなっていた。
 そして,勝は段々と映画の話をしなくなっていった。

春日太一 (2010). 天才 勝新太郎 文藝春秋 pp.286-287

一体化した

 座頭市と一体化してしまった勝は,作品世界の全てを自分の考える方向へもっていこうとする。それでも誰かしら監督が現場にいれば,多少なりとも押さえにはなっていた。だが,勝自らが監督としてクレジットされている場合はそうはいかない。時には勝が監督し,時には座頭市が監督する,混沌の現場がそこにはあった。
 座頭市の紛争をした勝監督が,カメラの後ろから役者たちの芝居をチェックしていた。と,突然,あることに気づいて叫び出す。
 「おい!座頭市はどこだ!座頭市がいないぞ!」
 勝の言葉に一同,唖然とする。その様子に,勝は思わずガラスに遷った自分を見て,初めて我に返る。
 「あ……座頭市はオレか」
 みんな,それを勝一流のジョークと思って笑った。が,それは決して洒落ではなかった。
 勝は,現場で自分が「勝新太郎」なのか「座頭市」なのか,分からなくなっていた。事実,このころ,勝が自ら監督をする時,座頭市を撮り忘れることが多かった。作品世界は,座頭市と一体化した勝新太郎の視線からのもの。勝のイメージする映像の中には座頭市はいない。座頭市はカメラの後ろ側ですべてを見つめているのだから。

春日太一 (2010). 天才 勝新太郎 文藝春秋 pp.183-184

積み木遊び

 勝は,ふと思いついた芝居を自らの手で脚本に書き起こすこともあった。それは達筆で書かれ,プロの人間も驚くほどに,しっかりとした脚本の形になっていた。だが,それを自分で読みながら,すぐに飽きてしまうのだった。そうしてボツになった直筆の脚本も数多いという。兄との積み木遊びよろしく,勝は目の前に積まれたものを壊さないと落ち着かない。それは自分自身が積み上げたものも例外ではなかった。

春日太一 (2010). 天才 勝新太郎 文藝春秋 pp.177

効果音

 さらに重要な役割を果たしたのが録音だ。「わずかな音で座頭市に何かを気づかせる。その音作りには苦労しました」と振り返るのは,録音技師の林土太郎。盲目の座頭市は聴覚を頼りに相手との距離感を測り,その上で動く。そのため,そうした音の世界を,「座頭市に聞こえるまま」に自然に観客に伝えなければ,座頭市というキャラクターからリアリティは失われてしまう。大きな音を聞かせては座頭市の感覚の鋭さが観客には伝わらないし,小さくすると観客からは聞きにくい。
 「何に凝ったか分からんほど,何から何まで凝りましたよ。脚本を読んだ時に,自分が座頭市になった気持ちになって,この音なら大丈夫,この音はアカンと思いながらやりました」
 そして林は足音だけで登場人物が分かるような音作りを心がける。足音を聞いて「こいつらは誰だ」「こいつは怪しい」ということを座頭市,ひいては観客に直感させるためだった。そこで林は,「一度使った音は二度と使わない」という原則で臨んだ。一度使った音しかない場合でも,再生の回転スピードを変えたり逆回転にするなどの工夫をして,できるだけ新しい音を作っていく。車のブレーキ音を逆回転にして座頭市が驚くシーンの効果音にしたこともあった。

春日太一 (2010). 天才 勝新太郎 文藝春秋 pp.77-78

目を閉じた芝居

 座頭市の芝居をする時,勝は当然のことながら目を閉じている。そのため,自分の立ち位置やカメラポジションを確認するのが困難だった。時に,「歩いてきて立ち止まり芝居をする」のが難しい。どこで立ち止まればいいのか。その位置を間違えると画面が台無しになる。そこで中岡は,市が芝居をする場所にライトを集中させることで,勝がその光の温度を感じてキチッと止まることができるようにした。また,カメラを移動させながら撮影する場合には勝がどこでも芝居できるように,カメラがどこを向いてもよいようなライティングを心がけてきたという。そして,勝も,光の温度の違いを肌で感じとって舞台空間やカメラ位置を完璧に把握,寸分の狂いのない芝居をやってのけた。

春日太一 (2010). 天才 勝新太郎 文藝春秋 pp.77

どこまで耐えられるか

 勝は後年,役者志望の若者たちに,こう語っていたという。
 「役者はいつ売れるか分からない。ずっと売れないかもしれない。スターになれるかもしれないし,なれないかもしれない。でも,売れなかったら一生ラーメンをすすって生きる覚悟で入ってこないとダメだ」
 役者として成功できるかどうかは誰にも分からない。だが,成功しなかった時に,どこまで耐えられるか。その人間の価値はそこにかかってくる。勝の成功は,まさに粘りの勝利だった。

春日太一 (2010). 天才 勝新太郎 文藝春秋 pp.66-67

過剰なゴール志向

 ゴール志向をいたずらに高めることは,就活エリートの迷走の最大の原因である。また,就活漂流層,諦観層を生み出している主因であることも,もちろん忘れてはならない。「やりたいこと」が見つからないと,自己分析をしっかりやらないと就職できない,という事態を,これ以上看過できない。それは,キャリア・デザインの王道でもなんでもない。みんながそんなことをするのは,大変危険なことなのだ。それがどんな事態をもたらすのかは,今の日本の現状をみれば明らかだろう。
 しかし,「やりたいこと探し」をやめよう,という精神論だけではこの事態は打開されないだろう。そこで提案したい。エントリーシートを廃止しよう。
 エントリーシートは,「あなたがやりたいことは何ですか?」というコミュニケーションを生み出した原点であり,いまや採用活動・就職活動の中核に位置するものだが,あまりにたくさんの会社が,個々に微妙に違いながらも本質的には全く同じものを使っているため,ほぼ全員が取り組み,マニュアルやノウハウの跋扈を誘発する現在の就活の問題の最大の温床である。これを,生みの親であるソニーをはじめとした人気企業,有名企業がすべてやめたら,世の中は大きく変わるだろう。

豊田義博 (2010). 就活エリートの迷走 筑摩書房 pp.219-220

狩猟より農耕

 「◎人採った,上位大学から◎人採れた」という狩猟のような話ではなく,「◎年入社の◎人は,3年目を迎え,……という状況である」という農耕的な話を大切にしてほしい。企業にとって,新卒採用は毎年行う行事であり,その度に成果が出ていると受け止めがちだが,入れただけでは成果は出ていない。入った新人・若手が元気よく活躍して,初めて成果といえるのだ。入社した新人・若手の8割がローパフォーマーになってしまっているような状況は。「新卒採用/新人・若手の育成・ひとり立ち」という全体最適ではなく,「新卒採用」という部分最適に走りすぎた結果なのだ。

豊田義博 (2010). 就活エリートの迷走 筑摩書房 pp.215-216

本物と作りもの

 しかし,日本のインターンシップの多くは,1〜2週間程度の短期間であり,就業経験といいながらも会社見学のようなものであったり,研修スタイルで学生同士が何かをするようなものであったりする。それはそれで,企業理解につながる内容なのだが,ほんものと作りものとは大違いなのだ。インターンシップは,実際に現場の仕事をやってみるからこそインターンシップなのだ。それを実現しないと,望むべき効果は得られない。

豊田義博 (2010). 就活エリートの迷走 筑摩書房 pp.206

一本化の弊害

 しかし,なぜ一本化するのだろうか。なぜ,全員一律に同じようにやらなくてはいけないのだろうか。大学を出てすぐに働きたい人まで働けなくするのに,何の合理性があるのだろうか。一本化して,みんなで同じ時に同じことをする,という発想では,いつまでたっても何も変わらない。受験同様の対策合戦,学生と企業のばかしあい,イタチごっこの構図から抜け出ることはできないのだ。また,一本化するとは,時期の規制をするということだ。それは一極集中化を招き,アンダーグラウンドな動きを加速するだけだ。ただでさえ高まっている彼らの不信意識をあおるだけだ。
 学生と企業の出会いの時期は,分散化すべきである。

豊田義博 (2010). 就活エリートの迷走 筑摩書房 pp.184-185

恵まれている

 バブル絶頂期の大卒求人予定数は84万人。リーマン・ショック後の2009年の数字は73万人。企業の求人総数はそれほど減っていない。何度も繰り返すが,大学生の数が激増したのだ。その大学生のうち就職意向を持っている人の9割が今も就職できている。産業=需要サイドの要請とは関係なく増加し,その質が低下したといわれているのに,だ。さらに,大卒を採用したくても応募がないので採れない,という中堅中小企業はたくさんあるのだ。
 ちなみに,アメリカの大学生のうち,就職を希望していて卒業までに就職先が決まっているのは5割程度。欧州には,もっと低い国もある。イギリスの「大卒採用協会」の調査によると,2010年の大学生の就職市場は厳しさを増し,トップレベルの大学で優秀な成績を修めない限り新卒採用枠には入れないという。ちなみに,求人1件当たりの候補者数は推定で69人。これを求人倍率に換算すると0.014倍になる。日本の大卒求人倍率は1.28倍。100倍の開きがある。アメリカ,イギリスともに,真似すべきモデルだとは全く思わないが,我が国の大学生がいかに恵まれた環境にいるのかという見当はつくだろう。

豊田義博 (2010). 就活エリートの迷走 筑摩書房 pp.181-182

勉強会=?

 近年,若手社員の間で,勉強会と称する取り組みが盛んである。名のとおり,仕事をしていく中での知識・技術・取り組み姿勢などを学ぶ場であり,同職種,同業種の人が集まるなどその形は多様で,キャリア・コンサルタントが開催していたり,あるいは,ごく普通の若手社会人が発起人になっていたりする。かつての異業種交流会のようにネットワークを広げていくという趣旨もあるようだが,会の重ね方,議論の内容などを聞いていると,私には,その多くが現実からの逃避行為であるように思えて仕方がない。「スター願望」を持った若手が仕事のできる社会人になるというビジョンのもとに,「そうだよね!」と同調しながら「コミュ力」をフルに発揮して心地よい場を重ねるということが,つまり,同世代の就職活動のエリート達がかつての有能感を感じるために集まるということが目的の場になっているように思えて仕方がない。

豊田義博 (2010). 就活エリートの迷走 筑摩書房 pp.145-146

コミュニケーション能力

 つまり,現代の若者が生きていくうえで最も必要なもの,あるいは人間関係格差を生み出すもの,それはコミュニケーション能力なのだ。スクール・カーストを体感しながら大学生,若手社会人になっている人の話を聞いていると,スクール・カーストの上層にいる生徒とは,イケメンとか,スポーツができるという要素もあるものの,基本は「コミュ力」だという。「コミュ力」とは,コミュニケーション能力の略語だが,就活という言葉と同様に意味の変質が起きている。
 彼らが口にする「コミュ力」とは,スクール・カーストを形成する人間関係格差の原点となっている。「コミュ力」とは,相手を動機づけて行動を起こしたり,異なる意見の相手と議論して1つの結論を導く,という真の対人能力ではない。その場が期待するような話を展開し,空気を読みながらその場をうまく取りなすような能力だ。そして,その能力の高い学生がカースト上位に君臨し,自信に有能感を感じてきたのである。

豊田義博 (2010). 就活エリートの迷走 筑摩書房 pp.

今だと入れない

 また,私が過去にお会いした多くの人事責任者,採用責任者の中には,こういうことをおっしゃる方がとても多い。
 「今の選考であれば,私は入社できなかったでしょう」
 その方は,その会社で評価され活躍しているにもかかわらず,就職活動をしていた学生の当時には,自分の「軸」をきちんと自覚していなかったということだ。それは今も昔もある意味では「当然」なのだ。日本の高等教育と職業は,欧米社会のように接続していない。企業に入っても,どんな仕事をさせてもらえるかはわからない。だから,新人・若手時代に担当した仕事をする中で自分自身の「軸」を確立していくしかなかったのだ。ことの是非はともかくとして,わが国は,そのようなシステムで,今日に至るまで国際社会の中で戦ってきたのだ。

豊田義博 (2010). 就活エリートの迷走 筑摩書房 pp.115-116

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