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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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「軸」って何?

 企業の採用責任者が,あるいは就職予備校の講師が,そして当の学生たちも頻繁に使う言葉がある。「軸」という言葉だ。
 「その人なりの軸が見えてくるかどうか」
 「私の軸って,何だろう……」
 というように使う。その人なりの思考行動特性や能力,価値観,それらが一体となったパーソナリティ(個性・人格)を指している。そして,面接とは,その人の「軸」を探り出していく場だ,と捉えられている。そのために,学生が自己PRをするために持ち出す経験を掘り下げたりしながら徹底的に聴き込むことで,「本人に自律性があるのか」「人を動かすリーダーシップを発揮してきたか」などを見極めたり,思わぬ質問を投げ掛けたりして,その人の素顔の部分に迫ったりする。徹底的に丸裸にしていくという戦術だ。その結果,いろいろ聞き出しても「軸」がよく見えない,分からない,という学生にはNGのレッテルが貼られていく。また,「軸」が見極められた人の中でも,各社の求める人物像にフィットしない学生はオミットされていく。

豊田義博 (2010). 就活エリートの迷走 筑摩書房 pp.111
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一生懸命考えた結果

 こんな感想を持たれる方もいるだろう。
 「昔から,配属が本人の意向に沿わないというケースはままあった。今の新入社員がワガママになったのではないか」
 確かにワガママに見える。しかし,彼らはそうなりたくてなったのではない。彼らは,「やりたいことは何ですか?」という質問に対する明確な答を,一生懸命に考えただけなのだ。

豊田義博 (2010). 就活エリートの迷走 筑摩書房 pp.105

内容を評価したわけではない

 だが,「あなたがやりたいことは何ですか?」という質問は,そういう意味から来るものではない。あなたの職業的なアイデンティティは何ですか,と問うているのではない。キャリア・ゴールを聞いている質問ではないのだ。その人間が「かつてない局面におかれたときに,自分の頭で自律的にものを考え,判断し,目標を設定し,やりきることのできる人間か」を問うための質問なのだ。
 多くの大学生は,そんな企業の腹のうちは分からない。「やりたいことは何ですか?」と問われたら,その額面通りの意味として受け止め,自信の思いの丈をぶつけるしかない。そして,内定をもらえたならば,その思いを評価して受け入れてくれた,と思い込むのだ。一橋大学キャリア支援室のシニアアドバイザー・高橋治夫氏は,こう語っている。
 「内定をもらって喜んでいる学生に言うんですよ。面接の時に言った内容が評価されたと思うなよ,と。今の学生はそう思い込んでいるのんです。自分の意志や考えが評価された,そして,それをやらせてくれるものだと思い込んでいるんです」
 多くの企業は,大学生に職業的なアイデンティティの確立を望んでいるわけではない。やりたいことを決め,その道に進むと決めた,という学生を採用したいと思っているわけではない。だから,選考時に問われた「やりたいことは何ですか?」という質問に対する答えは,その学生を採用するかどうかの判断材料ではあっても,その学生が入社した後にどんな仕事をしてもらうか,の判断材料にはならないのだ。

豊田義博 (2010). 就活エリートの迷走 筑摩書房 pp.102-103

自己分析とは

 それらを概観すると,自己分析とは,自分自身の過去を振り返り,また現状を整理しながら,自分自身がどのような人間であるのかを,まず把握・理解する。続いて,社会に出ていく上での自身の人生ビジョンをイメージする。ここまでが狭義の自己分析だ。そして,どんなところでどんな仕事をすることが,自己分析から得られた自己イメージと合致するのかを考え,志望企業,職種,働き方を決定していく。さらに,本番に向けて「自分はなぜその会社を選んだのか」「自分はなぜその会社・仕事にふさわしい人間なのか」をプレゼンテーションする準備をする,という具合だ。

豊田義博 (2010). 就活エリートの迷走 筑摩書房 pp.81

事前選考のリスク

 しかし,最大の問題は,エントリーシートでその人物の見極めができるのか,ということだろう。大学生としての経験のレベルが低すぎる,日本語のレベルに問題があるなど,明らかに能力の低いものはNGと判断できるだろうが(そして,そういうモノも少なくないのだが),就活エリート達がまとめるエントリーシートはそれなりのレベルに仕上がっている。なかなかダメだしはできないだろう。そして,そこに書かれていることが真実であるかどうかは企業の人間には絶対に判断できない。一方で,自己分析などマジメにやらず,面倒臭くて適当に仕上げてしまった,と言う「ハイパー層」のエントリーシートにNGを出してしまうかもしれない。ある人事キーパーソンも,こう漏らしている。
 「ダメな人を通過させてしまうのはいいんです。後の面接で何とかできますから。でも,実は優秀な学生を落としてしまっているのではないか。そんな気がしてならないんです」
 エントリーシートでの事前選考は,企業にとって,とても大きいリスクを抱えたものなのだ。

豊田義博 (2010). 就活エリートの迷走 筑摩書房 pp.72

エントリーシート

 自己分析と並んで,この20年足らずのうちに就活の中核的存在となったエントリーシートだが,前述のとおり,そもそもは,大学生の14%が入社を希望していたという当時の超人気企業・ソニーが,大学差別が当たり前,配属先は企業の決定事項であった時代に「大学名不問」「職種別採用」という驚異的・画期的な採用手法を導入した際に考案されたものだ。「応募動機」「教室外の活動で一番力を入れたこと」「今関心を持っていること」などを記述させる,という内容は,これまでの一律型大量採用ではなく,強い意志を持った学生からの応募を,という志から生まれたもので,極めて特殊な,個性的なものだった。応募の段階でこれほど負荷のかかる内容を書かせる,という企業はそれまでには一社もなかったため,大きな反響を呼んだものだ。
 ところがである。就職氷河期という社会環境,厳選採用というムーブメントが,こんな特殊な事情で生まれたツールを,履歴書に代わる採用活動のインフラにしてしまった。今や,企業の大小問わず,ほとんどの会社がエントリーシートを事前提出書類として設定し,「やりたいこと」を問うている。そんなにたくさんの会社が「やりたいこと」を問う必要があるのだろうか?自立型人材を本当に望んでいるのだろうか?採用する人材が仮に100人だとしても,その100人すべてが自立型人材である必要性,必然性は本当にあるのだろうか?そんな疑問をよそに,かつて履歴書を提出させるのが常識であったのと同様に,今はエントリーシートを提出させるのが「常識」になっているのだ。そして,多くの企業が,その内容の良し悪しで一次選考をしている。

豊田義博 (2010). 就活エリートの迷走 筑摩書房 pp.70-71

規制があると何が起きるか

 規制があると何が起きるかは,歴史が教えてくれる。実質的には4月1日選考解禁,と同様の意味を持つガイドラインができれば,その日付に一極集中する方向にことは収斂していく。それ以前に始めていた企業が解禁日以降に始めるようになるのは規制の効果だが,それ以降に始めていた企業も,何とはなしに「右に倣え」で解禁日から始めるようになってしまう。過去の就職協定においても顕著な傾向であった。そして,今回もまた同じことが繰り返されている。それはデータからも明らかだ。倫理憲章が改定された後から,学生が内定を獲得する時期は,4年制の春へと早期化・一極集中化している。

豊田義博 (2010). 就活エリートの迷走 筑摩書房 pp.67

就職希望者の激増

 また,大卒就職市場には決定的な変化が起きていた。就職希望者の数が激増したのだ。要因は大学進学率の急増である。60年代は10%台,80年代までは20%代であった4年制大学への進学率は,1994年に30%を超えるとその後も急増し,2003年には40%を超え,現在は50%を超えている。新卒無業の問題は,この増加とともに顕在化したのだ。最大の問題は,企業の採用数の抑制でも新卒採用の時期の問題でもなく,大学生が増えすぎたことにあったのだ。
 しかし,そうした重大な問題や健全な変化は捨象された。格差是正,学業優先という趣旨のもと,大卒市場に早期化を抑制するための自主規制が復活した。

豊田義博 (2010). 就活エリートの迷走 筑摩書房 pp.66-67

スター願望

 自身にはすでに高い能力が備わっていて,自分が望むものは得られるはずだ,という強い確信。そして,そこで成果を出していけるはずだ,という強烈な自信。「スター願望」とでも形容すべきこの思い込み。自らの努力なしに,すでに賞賛されることが予定されているかのようだ。
 しかし,スター願望は,往々にして打ち砕かれる。自身の希望が叶う確率は低く,また,希望が叶ったとしても,自信のイメージしているものとの乖離は大きい。
 こういう人は昔にもいた。程度の差はあっても,こうした「ワガママ」をいう人はいた。そして,自信の希望が脆くも崩れ去ったり,希望通りであっても想定していたイメージではなかったり,つまり現実に直面し,リアリティ・ショックを受けながらも,それを受け入れ,現実に適応していった。
 ところが。今の新人・若手は,適応できないのだ。現実が受け入れられない。
 目の前にある仕事にきちんと向き合えない。本気になって取り組めない。必然的に,成果は上がらない。その時に,彼らが決まっていうセリフがある。
 「ここじゃなかったら,もっといい仕事ができるはずです!!」
 悪いのは自分ではない。悪いのは意に染まぬ仕事につけた会社である,自信の適性や能力が分かっていない上司や先輩である……彼らの頭の中にあるのは,こういう思考回路だ。そう,明確な他罰意識に支配されているのだ。

豊田義博 (2010). 就活エリートの迷走 筑摩書房 pp.29-30

成果が上がらない理由

 同様の話は,企業からも聞こえている。仕事柄,多くの人事の方と情報交換するのだが,彼らから,新人・若手に関して以前にも増して厳しい声を聞くことが多くなっているのだ。彼らが成果をあげることができないのはなぜなのか。その要因・背景を尋ねていくと,明らかな傾向がある。それは大きく3つに分けられる。
 1つ目は,失敗を極度に恐れるというものだ。
 正解をほしがり,失敗を嫌う。明らかな正解と分からないと,やりたがらない。多くの仕事に正解はないし,やってみないとわからないことがよくあるが,とにかく前に進んでみろといっても怖がって前に進まないのだ。負けたことも糧になるはずなのに,その想像もできないという。
 失敗を全然してきていないのではないかという意見も多い。順調な時はいいが,厳しい局面を迎えると,リカバリープランが立てられない。そして,失敗すると落ち込み,負のスパイラルに陥るのだという。
 2つ目は,自分の能力を棚に上げて,要求ばかりするというものだ。あれがやりたい,これがやりたい,それはやりたくないという根拠のない主張が実によく聞かれるのだという。そして,その主張・要求は,当然通らないわけだが,通らないことに強い不満を表すというのだ。
 3つ目は,自分が思い描いた成長ルートから外れるとモチベーションが急落するというものだ。自分自身の成長発展を強く意識し,その道筋についても,自分なりに思い描いている。そして,そこから少しでも外れると,自分はもうだめだ,となってしまう。とても偏狭なキャリア・イメージが強く窺える。

豊田義博 (2010). 就活エリートの迷走 筑摩書房 pp.23-24

分散の拡大

 だが,大学生のレベルは平均すれば下がっているが,上から下まで全体的に下がっているのではない。15年前,20年前では考えられなかったような「社会人顔負けの経験」をしている優秀な大学生も増えた。上下に分散したのだ。大卒就職市場でも,どこからも内定を取れない学生がたくさんいる一方で,何社もの内定を獲得する学生も存在する。二極化といわれる現象だ。そして,人気企業,有名企業に入るのは,何社もの内定を断ってその会社を選んだエリート学生ばかりだ。

豊田義博 (2010). 就活エリートの迷走 筑摩書房 pp.22

就活という言葉

 そのように硬直化・マニュアル化し始めた頃に生まれたのが「就活」という言葉だ。
 就職活動を略した言葉ではあるが,立派な固有名詞である。就職情報サイトにエントリーして,自己分析をして,エントリーシート作りを工夫して,就職試験や面接の対策を講じて,同じようなファッションを身にまとって……このようにパッケージ化された大学生の就職活動のことを指している。転職やアルバイト探しのように自分が必要な時に自分なりの方法で行う求職活動に「就活」という言葉は使わない。
 つまり,この言葉は,自由化とはまったく正反対の状況から生まれた言葉だ。職業選択の自由が憲法で謳われ,何の法的規制がないにもかかわらず,勝ち負けが問われ,ガチガチのルールで定められたかのような就職活動のスタイルにつけられた名称だ。

豊田義博 (2010). 就活エリートの迷走 筑摩書房 pp.13-14

「枠」という問題

 枠は偏見に比べると巧妙で検出が難しい。それらはまた,メディア情報源相互間で一致している。ストリートは,「枠は世界を特定の見方で見る方法だが,それらは単一の概念的立場をとらないという意味で偏見の概念とは異なる」と示唆している。そればかりか,例えば「ニュース記事」などは,メディア研究によるとまさしく物語なのである。他の物語と同様,深く定着した仮定(因果関係,倫理観,社会的関係などに関する)に起因する特異な語りの構造を持っており,矛盾し無関係な情報は無視している。ニュースを伝える者を含めて物語作者は,自分たちの多くのひな形を自由に使うことができ,自分が言わんとする物語,「英雄ブラボー」,「官僚的無能」,「やっかいな対立」などを構成するのに最適のひな形をどれでも使うのである。個々のひな形——枠——は,それと結びついた特別の言語をもっている。例えば,病気で亡くなった子供の場合は,ご両親にとって歓喜の源であり,勇敢で,なにより道徳的に高潔であった子供が,今や悲劇の主人公としてご両親を嘆かせているというような表現になる。間違いなく,時にその子供の小さな妹を叫ばせ,不機嫌にし,よろめかせる——子供はそういうものだ——が,お定まりの観察は枠には合わないので,そのようなレポートでは扱われない傾向がある。もし子供が見知らぬ人間に殺された場合には,悲劇と道徳的高潔の要素は残るが,勇敢さの代わりに無垢が入り,それに対応して殺人者の非人間性が持ち込まれる。

キャスリン・テイラー 佐藤敬(訳) (2006). 洗脳の世界——だまされないためにマインドコントロールを科学する 西村書店 pp.297-298
(Taylor, K. (2004). Brainwashing: The Science of Thought Control. London: Oxford University Press.)

立ち止まり考えること

 個人同様,社会は立ち止まって考える動機となるなんらかの要因(意識的か無意識的かは別として)が常に必要である。ナチスドイツのように,この動機付けのバランスが,考えるためにとどまることをしない方向の場合には,霊的概念は,たとえそれが個人的経験によってはっきりと否定されたとしても,暴力的行動を余儀なくさせる。ユダヤ系ドイツ人が見えてなかった訳ではない。彼らの多くは明らかに尊敬されるべき専門家であり,高潔で誠実かつ信頼すべき人達であった。しかし,ユダヤ人は汚れて病んでおり,邪悪なほど貪欲だという否定的固定観念が広く行き渡り,文化の一部にまでなったため,それは多くの反証を無視してしまった。彼らは,認知の風土の異なった領域に付託されるか(「友人のダニエルは典型的なユダヤ人ではない」),あるいは無視され,接触が限定されて(例えばゲットーを利用して),固定観念が否定される可能性のある出会いが回避されるかいずれかである。ナチスの党員はもっと過激で,ユダヤの人達は最も基本的な人間としての尊厳を受けているとはもはや見えないほど,生活の質が低下させられた。外見は汚れるよう強いられ,時には病気に罹り,ナチスのユダヤ人観が強化され,迫害者の確信がさらに強められて,増強する非人間化の悪循環は最終的に大量殺人を招いた。そして殺人にとどまらず,疾病に対処する昔からの方法である埋葬と焼却による感染者の完全な抹殺を要した純化が追求された。熱心なナチス党員にとって,ユダヤ人の移住は適切な選択ではなく,抹殺のみが感染源を除去することができる方法だった。

キャスリン・テイラー 佐藤敬(訳) (2006). 洗脳の世界——だまされないためにマインドコントロールを科学する 西村書店 pp.291-292
(Taylor, K. (2004). Brainwashing: The Science of Thought Control. London: Oxford University Press.)

警報が行動をエスカレートさせる

 状況によっては,そのような行動過程が正しいこともあり,われわれは火事からは退き,捕食者からは逃げる。しかし時には,まず初めに操作するものが誤った警報を鳴らすことで単純な行動過程を引き起こしたがために人々の行動過程が単純になることもある。感化の専門家は,その被害者が特定の行動(被害者が望むか否かにかかわらず)をとるように圧力を加えるために警報を鳴らす。ヒトラーが現れるずっと以前には,反ユダヤ主義の霊的概念に感染した人達は単にユダヤ人を忌むべきであると言っただけではなかった。ヨーロッパ(イギリスを含む)におけるユダヤ人虐待の恥ずべき歴史が示しているように,彼らは「問題」の解決を提案し,多くの場合それを実行した。ナチスを鼓舞した誹謗的ユダヤ主義は馬鹿げており,論理の欠落や証拠の欠如にあふれている。当時これを指摘したのは何人かの勇敢な声であった。しかしほとんどのドイツ人は,自分たちが信じたいと思うことを信じた。彼らの感情はすでに刺激され,彼らの文化に広く分布する反ユダヤ主義によって,ユダヤ人であることの霊的概念が彼らにとって取り返しが付かないひど汚れたものである(主として恐れと嫌悪によって)というところまで入り込んでいた。ナチスのプロパガンダは地に落ちて実りを生んだ。最も強力に主張された合理的議論でさえ,潮流を起こすことはできなかった。

キャスリン・テイラー 佐藤敬(訳) (2006). 洗脳の世界——だまされないためにマインドコントロールを科学する 西村書店 pp.291
(Taylor, K. (2004). Brainwashing: The Science of Thought Control. London: Oxford University Press.)

洗脳と脳の状態

 洗脳(とその他の感化)に対するわれわれの感受性には,脳の状態が大きく関与している。その一部は遺伝子に依存しており,研究結果からは前頭前野が遺伝の影響を大いに受けていることが示唆されている。低い教育レベル,独断主義,ストレスなど前頭前野機能に影響する因子は,単純な二元的志向を促進する。もしニューロンを無視し,シナプスを刺激せず,新しい経験に頑固に抵抗したり,あるいは薬物(アルコールを含む),睡眠不足,激しく変化する感情,慢性のストレスによって前頭前野をいじめたりすると,次に現れるカリスマ的才能を持った人の全体主義的魔力に負けてしまう。若い人達がカルトに加わり,ファッションと有名人に取り付かれ,時に全く相応しくない役柄のスターに激しく傾倒したりすることで,どちらかと言えば無気力な年寄りを困惑させるのはそのためである。

キャスリン・テイラー 佐藤敬(訳) (2006). 洗脳の世界——だまされないためにマインドコントロールを科学する 西村書店 pp.282
(Taylor, K. (2004). Brainwashing: The Science of Thought Control. London: Oxford University Press.)

原因とは

 原因は様々な特色を持って現れる。あるものは,拷問,いじめ,禁止法のように,明らかに対外的であり,かつ自分の行動を選択する自由に対して明確に抑止的である。あるものは内的で,脳の疾患や薬物の影響のような,自分自身の外部のものと考えられるものではない。しかし,われわれの原因とは,われわれが行動を選択する理由である。それらはわれわれの自由を制限するものではなく,それらが無ければ,自由は無意味なのである。洗脳が恐れられるのはこのためで,それは,われわれを翻弄して,新し信念が実際に自分のものであるとする定義はさまざまである。「もしあなたが<自分>の範囲を狭めると,実際にはすべてが外部のものになる」ので,自分の欲求でさえ外的になり,もはや自分のものではなく,自由に対する制限になってしまう。嗜癖と,食思不振のようなある種の病気は,このように考えられることが多く,自己が縮小して自由は放棄され,それによって責任回避が起こる。この縮小過程が誇張される危険性は,自己がデカルト的立場にまで減少し,運命に左右されてほとんど自ら行動することのない見当違いに至ることにある。しかし,必ずしもそのようになるとは限らず,決定論の原則には,われわれを強制的にデカルト的二元論者に変えるものはない。

キャスリン・テイラー 佐藤敬(訳) (2006). 洗脳の世界——だまされないためにマインドコントロールを科学する 西村書店 pp.259
(Taylor, K. (2004). Brainwashing: The Science of Thought Control. London: Oxford University Press.)

どちらが正しいか

 どちらの考え方が正しいか?われわれは独立した存在か操作された機械か,また確固たる自己か影のような自己か?両立論者にとっては,自由意志が因果関係世界と共存でき,また実際に共存するが,自由な姿勢をとる余地がある。しかし決定論者には,自由意志は幻想であり,自由意志の霊的概念を主要な位置に高めること,そして,われわれが本来持っていないと考えるものを讃えることは理解できないのである。したがって,決定論は,より権威主義的な政治姿勢に伴うと予想できる。これは正しいと思われる。19世紀と20世紀初頭に科学が地位を確立し,政治に対する決定論のインパクトが増大した。マルクスの歴史の力に関する決定論的学説は,共産主義による全体主義的悪夢をもたらし,人種は性格に対する固定的な決定要因であると主張した生物学的決定論は,反ユダヤ主義者の憎しみをいっそう増大させ,ホロコーストに手を貸した。
 決定論は人類に対する犯罪を促進し得るが,常にそうとは限らない——または,哲学的立場として放棄されなければならないことを意味しない。もし自由意志が幻想であるとするならば,そしてもし可能ならば,われわれは単に,われわれの政治が過剰にそれを持たないように認識すべきである。しかしながら,この結論は,偽の両立主義に依存しており,ある意味で最後の手段である。したがって,次の段階としては,因果関係の世界において自由意志が本当に残っていけるのかを考える必要がある。

キャスリン・テイラー 佐藤敬(訳) (2006). 洗脳の世界——だまされないためにマインドコントロールを科学する 西村書店 pp.250-251
(Taylor, K. (2004). Brainwashing: The Science of Thought Control. London: Oxford University Press.)

感情

 信念の場合と同様,われわれの感情が理解し難い傾向をもっていることは,われわれが世の中で有効に機能するための利点になっている。われわれは,認知と認識のすべてを分析する時間がないように,すべての感覚を考察する時間がない——短絡経路は,われわれが混乱して致命的な行き詰まりに陥らないようにする効果がある。しかしながら,管理職なら誰でも知っているように,他人に任せることはリスクも利益もある。同様に,われわれが感情に信頼を置くと,現実から離され,危険に陥る可能性さえある——それらの感情を自分たちに有利なように操作する方法を知っている人がいる場合には特にそうである。

キャスリン・テイラー 佐藤敬(訳) (2006). 洗脳の世界——だまされないためにマインドコントロールを科学する 西村書店 pp.201-202
(Taylor, K. (2004). Brainwashing: The Science of Thought Control. London: Oxford University Press.)

予測したことを経験する

 多くの心理学的実験が示しているように,人は予測したことを実際に経験することがしばしばある。また,われわれは歓迎できない事実を説明するのが驚くほど得意である。いままで困難な状況を言葉によって切り抜けたことがないだろうか?例えば,仕事の同僚からの予想外の挑戦に出会い,それに驚くほど雄弁に反駁して新しい有効な議論に到達し,敵を撃退した経験はないだろうか?作り話をするのはすべての文化に共通で,一貫した話——一貫性のもう一つの側面——を作り上げたいという衝動はすべての人種に共通の特性と思われる。

キャスリン・テイラー 佐藤敬(訳) (2006). 洗脳の世界——だまされないためにマインドコントロールを科学する 西村書店 pp.187
(Taylor, K. (2004). Brainwashing: The Science of Thought Control. London: Oxford University Press.)

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