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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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多くのチェーン店

 戦後もたくさんのチェーン店が新たに登場した。1946年にトミー・クラックスがロサンゼルスでトミーズを創業。これはチリバーガーの専門店だった。1948年にカリフォルニア州ボールドウィンパークでハリー・スナイダー,エステル・スナイダーの夫婦が開いたイン・アンド・アウト・バーガーはドライヴスルーの店。客と店員がやりとりできるスピーカーをはじめから備えていた。ホカノファストフード店と違ってフランチャイズ化しなかったので事業の拡大に時間を要し,二店目ができたのは1951年だった。1950年にはホワッタバーガーがテキサス州コーパスクリスティで誕生。1953年にはフロリダ州ジャクソンヴィルでキース・G・クレイマーとマシュー・バーンズがハンバーガースタンドをオープン。これが後のバーガーキングだ。ジャック・イン・ザ・ボックスは1951年にカリフォルニア州サンディエゴで,ウェンディーズは1969年にオハイオ州コロンバスで創業した。だが,戦後のハンバーガーチェーンといえば,やはりマクドナルドだ。

アンドルー・F・スミス (2011). ハンバーガーの歴史:世界中でなぜここまで愛されたのか? ブルース・インターアクションズ pp.45-46
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ポテト

 戦時中はポテトが重要な商品になった。じゃがいもは安価で,有り余るほどあって,配給の対象になったりしない。それまでフライドポテトを販売する店はそれほど多くなかった。器具の扱いがむずかしく,深い料理器に入った高温の油を使うことから安全面でも問題があったからだ。戦時中にフライドポテトは人気を得,その後,人々はその味を懐かしんだ。
 戦後もフライドポテトの販売を続ける店はあったものの,調理が危険なために大半の店が中断。ポテトがうまく揚がったかどうか,タイミングをはかるのがむずかしいのも問題だった。だが1950年代に技術の改良が進み,安全で,だれにでも扱える器具ができて,フライドポテトはハンバーガーチェーンのメニューに戻ってきた。このころミルクシェイク用の器具もよいものができ,ホワイト・キャッスルはシェイクの販売を再開した。ボブズ・ビッグボーイに対抗するため,1958年には「キングサイズ」のハンバーガーをテスト販売したが,客が支持したのは昔ながらの小さな「スライダー」だった。

アンドルー・F・スミス (2011). ハンバーガーの歴史:世界中でなぜここまで愛されたのか? ブルース・インターアクションズ pp.43-44

誤った伝承

 料理の歴史をたどってみると,誤った伝承が入り乱れているケースがほとんど。ハンバーガーの起源についても同じだ。北アジアの騎馬民族,タタール人の料理が起源だったとする説もあるが,ハンバーガーとは一切関係がない。ドイツのハンブルグの人々[ハンバーガーの名前の由来とされる]も関係はほとんどないといっていいだろう。ハンバーガーの「発明者」とされる人は何人かいるが,それを証明するだけの確かな証拠は見つかっていない。デルモニコというレストランの1834年のメニューに「ハンバーグステーキ」が載っていたとよく言われる。でも,そのメニューはにせもの。1904年のセントルイス万国博覧会の会場でハンバーガーが売り出されたことを報じたという新聞記事もよく引き合いに出される。そのハンバーガー売が発明者というわけだ。だが,その記事の存在は確認されていない。たとえ確認されたとしても,それがアメリカのハンバーガー第1号だったとは思えない。マクドナルドの創業者をレイ・クロックとするのも間違い。イリノイ州のデスプレーンズに最初の店ができたというのも誤りだ。

アンドルー・F・スミス (2011). ハンバーガーの歴史:世界中でなぜここまで愛されたのか? ブルース・インターアクションズ pp.27

省略形へ

 20世紀はじめに「ハンバーグサンドイッチ」は「ハンバーガー」あるいは「バーガー」と縮めて呼ばれるようになった。1920年代には,シンクレア・ルイスの『アロウスミスの生涯』や『フリー・エアー』などのアメリカ文学に登場し始めた。このころ学校のカフェテリアのメニューにも載り,「健康によい,おいしい食べもの。栄養があって,おなかいっぱいになるけれどもたれない」と宣伝された。子どもたちはハンバーガーが大好きだった。

アンドルー・F・スミス (2011). ハンバーガーの歴史:世界中でなぜここまで愛されたのか? ブルース・インターアクションズ pp.24

ハンバーガー

 屋台ではハンバーグも販売された。ソーセージ同様,ハンバーグは挽き肉でつくる。けれどもソーセージと違って生なので,食べる前に火を通さなければならない。屋台にグリルが備わって,ハンバーグはメニューに加わった。そして,客の多くが立ち食いをすることから,ハンバーグは必然的にパンにはさまれることになる。だれが最初にこれをパンにはさんで売りだしたのかは不明。でも1890年代にはすでにアメリカに定着していた。「ハンバーグステーキサンドイッチ」をアメリカ各地の新聞が取りあげている。ネヴァダ州リノの『イヴニング・ガゼット』には1893年にこんな記事が載った。「トム・フレイカーのあのハンバーグステーキサンドイッチはいつも強い味方。これを食べるとおなかが満たされ,心まで強くなる」シカゴの『トリビューン』はこう報じた。「今はやりの食べものがハンバーグステーキサンドイッチ。価格はたったの5セント。あらかじめ準備した小さなパティをその場で焼いてはさんでくれる」ロサンゼルスの新聞はハンバーガーを「細かく刻んだ肉と玉ねぎを具にしたサンドイッチ」と説明。ハワイでもアメリカに併合される前からハンバーガーが食べられていた。

アンドルー・F・スミス (2011). ハンバーガーの歴史:世界中でなぜここまで愛されたのか? ブルース・インターアクションズ pp.22

ホットドッグ

 新しい屋台にはそれまでなかったガスグリルがつき,温かい食べものを販売できるようになった。当時,屋台でよく売られていたのがソーセージ。アメリカではフランクフルトとかウィンナーとも呼ばれていた。ソーセージを皿やフォークなしでたったまま食べるのはたいへん。そこでこれをパンにはさもうということになり,1870年代には専用のパンが製造されていた。ソーセージをパンにはさんだこの食べものは,縁日や遊園地,スポーツイベントなど,たくさんの人が集まる場所で人気があった。手軽につくれて,安価で,食べやすい。でも,問題はソーセージの材料だった。安いウィンナーソーセージには犬の肉が使われているという人までいた。エール大学の学生が屋台を「ドッグワゴン」と呼び始め,1890年代に「ホットドッグ」ということばが生まれた。


アンドルー・F・スミス (2011). ハンバーガーの歴史:世界中でなぜここまで愛されたのか? ブルース・インターアクションズ pp.21

主成分分析

 データキューブから情報を抽出する最も基本的な手順は,“主成分分析”だとロジャーは言った。それぞれの波長で撮られた画像の数値に重みづけをして重ねあわせ,コンピュータにひと組の画像を作りあげてもらう。この新しい画像は,互いに近いピクセルの数値の差の大きさをもとにしたものだ。結果は色のパターンではなく,差異のパターンとして現れる。新しい組の最初の画像は,ちがいのある部分のコントラストが最も大きい個所を強調している。二番目の画像はつぎに大きいところを,三番目の画像はそのまたつぎに大きいところを強調したものだ。この過程により,最初は同じ部分を異なる波長の光で撮影したひと組の画像だったものが,最終的には光の波長を重ね合わせて画像中の異なる対象を映しだしたものに変わる。
 このパリンプセストでは明らかに,第1主成分は最もコントラストの強い画像の特徴,すなわち祈祷書の文章を表す。周囲の薄茶色の羊皮紙から際立って見える黒のインクで書かれているからだ。しかし,第2主成分は下に書かれていたアルキメデスのテキストがほとんどである。とはいえ,別の主成分画像はカビを映しだすかもしれない。成分を析出することができたら,数字を操作して思いどおりに明るさを調整すればいい。

リヴィエル・ネッツ,ウィリアム・ノエル 吉田晋治(監訳) (2008). 解読!アルキメデス写本:羊皮紙から甦った天才数学者 光文社 pp.292-293

言葉は一般的

 この論理的,哲学的な問題は深刻だ。言語は一般論なのに,図は特定のものになってしまう。特定の性質を持たない図を描くことなどできない。先ほどの証明で,直角でも鋭角でも鈍角でもない,単に「一般的な」角度の三角形を描きたかったとしたらどうだろう。そんなことは不可能だ。どうしても具体的な三角形を描くしかなく,具体的な三角形であるがゆえに,どうしても具体的な角度になってしまう。一方,言語はもっと寛大だ。「三角形があるとする」と言えば,どの三角形かを特定しているわけではなく,ただ漠然と「三角形」と言っているだけなので,直角三角形でも鋭角三角形でも鈍角三角形でも,好きなように思い浮かべられる。だからこそ,近代の哲学者や論理学者は,証明を最大限に一般化して完全に論理的に進めるには,けっして図をよりどころにせず,言語だけを頼りにしなければならないと力説するわけだ。

リヴィエル・ネッツ,ウィリアム・ノエル 吉田晋治(監訳) (2008). 解読!アルキメデス写本:羊皮紙から甦った天才数学者 光文社 pp.134-135

羊皮紙の作り方

 羊皮紙作りは,万人が楽しめる作業とは言えない。どう考えてもリヴィエルには無理だ——彼は菜食主義者なのである。手順はこうだ。動物を殺し,血管から血を抜く。つづいて皮をはぐ——下腹に切りこみを入れ,肢を切り落とし,皮をはぎ取る。それから,石灰岩を熱してできる生石灰の希釈液を桶に張り,皮を浸す。石灰液は有機組織を破壊するので,表皮と皮下脂肪が溶け,毛が抜けやすくなり,真皮の内側の層だけが損なわれずに残る。この層は主にコラーゲンでできている。コラーゲンは,細長いまっすぐな軸にアミノ酸の鎖が3本巻きついた蛋白質の一種だ。鎖は少しずつずれて集まり,それによってできた繊維にははっきりとした末端がない。コラーゲンは羊皮紙に欠かすことのできない成分であり,羊皮紙の強さのもとである。数日たったら皮を桶から引きあげ,台に載せて刃の尖っていないナイフで削ぐ。脂肪と毛をあらかた取り除いたら,皮を木製の枠に張る。乾燥が進むにつれ,縮んで張りが出る。ぴんと張った状態になったら今度は半月形の鋭利なナイフで皮をこする。そして木枠からはずせば羊皮紙のできあがりだ。

リヴィエル・ネッツ,ウィリアム・ノエル 吉田晋治(監訳) (2008). 解読!アルキメデス写本:羊皮紙から甦った天才数学者 光文社 pp.123

よく残された

 アルキメデスがエラストテネスに宛てた手紙は保管こそされていたものの,けっして安全ではなかった。時代は変わりつつあり,それもアルキメデスに有利には働かない。古代世界の学府を支えた偉大な著作やよりどころとされてきた書物が,つぎつぎと侵入者たちに略奪されていったからだ。ローマは410年にゴート人の,アンティオキアは540年にペルシャの,アテネは580年にスラブ人の侵略を受けている。アルキメデスの手紙の写本は,3世紀にはアレクサンドリア以外の都市にも数多く残っていたかもしれないが,6世紀末にはほとんど失われていた。アレクサンドリアでさえ,状況はあまりよくなかった。270年ごろにはローマ皇帝アウレリアヌスが,パルミラ女王ゼノビアとの戦争中に博物館を含む王宮の大部分を破壊。391年にはアレクサンドリア大主教テオフィロスが,博物館の分館であるセラペウムを攻撃した。415年には無学の狂信的なキリスト教徒らが,有名な女性数学者ヒュパティアを八つ裂きにした。同じような目にあう前に,アルキメデスの手紙もアレクサンドリアから逃れなくてはならなかった。

リヴィエル・ネッツ,ウィリアム・ノエル 吉田晋治(監訳) (2008). 解読!アルキメデス写本:羊皮紙から甦った天才数学者 光文社 pp.113

これもテクノロジーの変遷

 巻物から冊子本に移行しなかった書物はそのまま消えていった。わたしたちが78回転のレコード盤を見限ったのと同じ理由で,古代の人々は巻物を隅に追いやった。情報記憶システムとしては時代遅れとみなされたのである。ほんの数十年前,78回転のレコードは音楽の記憶媒体として好まれていたが,いまではターンテーブルの上よりごみ箱のなかで見かけることが多い。同じように,古代の書物も古代世界のごみ箱から断片的に発見されることがある。アルキメデスがエラストテネスに宛てた手紙が巻物のまま残されていたとすれば,まずは放置され,やがて捨てられて最後には塵と化していただろう。巻物のまま残されたアルキメデスの文章の写しはそのとおりの運命をたどり,ごみ箱から断片すら見つかっていない。

リヴィエル・ネッツ,ウィリアム・ノエル 吉田晋治(監訳) (2008). 解読!アルキメデス写本:羊皮紙から甦った天才数学者 光文社 pp.110-111

媒体の変遷

 冊子写本の伝播は緩やかだった。1世紀に登場したものの,ある程度まで普及したのは4世紀末である。それほどの年月を要したことに,わたしは驚きを禁じえない。冊子本の長所は,情報を巻物のような二次元ではなく三次元で記録できるところだ。巻物には縦と横しかないが,本には厚みがある。厚みがあることで,横幅がそれほど必要なくなる。横幅約15センチメートルで200葉(400ページ)の本は,縦の長さが同じ巻物60メートル余りと同じデータの収容が可能である。また冊子本の1葉はごく薄いため,本に厚みを持たせれば横幅はかなり削ることができる。さらに,巻物にしたためられた情報を拾うためには横幅に沿って延々とたどらなくてはならないが,冊子本ならその手間は省かれ,数センチメートルの厚みを掘りさげるだけですむ。巻物を広げていくのとページをめくっていくのとでは大きな差がある。たとえば,アルファベット順に項目が並ぶ目録を読んでいくとき,Aの“アルキメデス”を拾うのは問題ない。けれどZの“ゼノン”はどうだろう。冊子本なら最後の方のページを繰って読み,用が済んだら閉じればいいが,巻物の場合にはゼノンについてのたった数行を読むためにほとんど終わりまで広げ,また巻き取らなくてはならない。もちろん,実際にはそんなことにならなくなった。目録がどれだけ長かったとしても,そんなふうには作らなかったはずだ。だからこそカリマコスの蔵書目録は120巻にもなった。冊子本として写しが作られることがあれば,120巻よりはるかに少なくなっただろう。

リヴィエル・ネッツ,ウィリアム・ノエル 吉田晋治(監訳) (2008). 解読!アルキメデス写本:羊皮紙から甦った天才数学者 光文社 pp.109-110

知れていることが異常

 記録に残されている歴史を,過去の出来事のすべてだと思いこむのは簡単だ。しかし,それは正しくない。そんな考え方をしていては,歴史とは何かを見誤るだけでなく,自分たちが知っているはずの物事から驚きを見いだす機会を失うことになる。紀元前3世紀の偉人が友へ個人的な手紙を送ったとされていても,それが絶対に事実だとは限らない。わたしたちがその事実を知っていること自体が,どう考えても尋常ではないのだ。驚いたことに,この手紙については,書かれた内容の大部分がいまに伝えられているだけでなく,どのような外観をしていたのかまでわかっている。

リヴィエル・ネッツ,ウィリアム・ノエル 吉田晋治(監訳) (2008). 解読!アルキメデス写本:羊皮紙から甦った天才数学者 光文社 pp.104

あれは作られた話?

 ウィトルウィウスの話はこうだ。アルキメデスは王冠の問題を一心に考えていた。その王冠は金でできていることになっているが,本当に純金製だろうか?そんなとき,アルキメデスは浴槽の湯があふれだすのに気づいた。とたんに「ヘウレーカ,ヘウレーカ」と叫びながら飛びだした。いったい何がヘウレーカだったのだろう。ウィトルウィウスによると,水中に物体を沈めたとき押しのけられる水の体積と,物体そのものの体積が等しいという考察がヘウレーカだったという。王冠を水に沈め,あふれる水の量を量れば,王冠の体積がわかる。この結果を,王冠と同じ質量の金塊を沈めたときと比較する。金塊でも同じだけの水があふれるだろうか。比重が大きいものほどあふれる水の量は少なくなるため,これで王冠の比重がほんとうに金特有のものかどうかがわかるという寸法だ。理にかなった方法ではあるが,要は「大きいものほど,水が多くあふれる」という,些細な観察に基づいたものでしかない。あまりに些細なため,アルキメデス本人の論文『浮体について』(唯一のギリシャ語版がパリンプセストに残されている)ではひとことも触れられていない。
 思うに,ウィトルウィウスか,彼が参考にした原典の著者は,アルキメデスが水に浸した物体について何かを発見したことを知っていて,科学以前のとるに足らない観察(たとえば,「大きいものほど,水が多くあふれる」など)にも通じていたことから,ふたつを結びつける物語を創作したのではないだろうかだがウィトルウィウスがアルキメデスの科学について何ひとつ知らないのは明らかである。アルキメデスにまつわる話は,ウィトルウィウスからツェツェスまで,すべてがこのパターンだ。どれも都市伝説のたぐいと思われる。あしからず。

リヴィエル・ネッツ,ウィリアム・ノエル 吉田晋治(監訳) (2008). 解読!アルキメデス写本:羊皮紙から甦った天才数学者 光文社 pp.59-60

伝説

 問題は,アルキメデスほどの著名人になると,どうしても伝説がつきまとうことだ。史実と伝説をどう区別すればいいのか,歴史学者が悩むのはそこのところだ。19世紀までは,古代の物語を実話として受け入れるのがあたりまえだったが,その後は懐疑論が優勢になった。今日の歴史学者が慎重すぎるのかもしれないが,わたしたち歴史学者はアルキメデスについて言われていることをやたらに否定してかかるきらいがある。ほんうに「ヘウレーカ(わかった)」と叫んだのだのだろうか。私自身もこの逸話は疑っているのだが,それには理由がある。最もよく知られたウィトルウィウスによるもの(最も古いものでもある)を見てみよう。書かれた時期と著者からして,すでに疑問の余地がある。アルキメデスの死後およそ二百年たって書かれたものであり,著者のウィトルウィウスは,歴史家としてはそれほど信頼できる書き手ではない(そもそも,この本は建築の手引書で,興趣を添えるために歴史上の逸話が入れてある)。
 

リヴィエル・ネッツ,ウィリアム・ノエル 吉田晋治(監訳) (2008). 解読!アルキメデス写本:羊皮紙から甦ったバンドの音楽が天才数学者 光文社 pp.58-59

アルキメデスについて

 古代における第二ポエニ戦争(紀元前218〜前201年)は,現代における第二次世界大戦になぞらえられる。この戦争は空前の大惨禍をもたらし,地中海の地政をめちゃくちゃにした。いっとき,ハンニバルがローマを征服したかに見えた時期もあったが,ローマは危機を乗りきって勝利を収め,終戦時には地中海全体をほしいままにするほど勢力を伸ばしていた。ギリシャ諸都市の自治は失われ,アルキメデスに象徴される文明はさげすまれた。第二次ポエニ戦争の大きな転換点のひとつは,シラクサの陥落だった。西地中海の中心的なギリシャ都市国家だったシラクサは,カルタゴと手を結ぶという誤った戦略をとった。長期にわたってローマ軍に包囲されたのち,紀元前212年,アルキメデスが考案し,戦闘では負けなしだった防備が,裏切りのために破られた。くわしいことは不明だが,アルキメデスはこのとき死んだ。
 実を言うと,歴史上の人物としてのアルキメデスについてわかっているのは,これがすべてだ。それでも,わかっているだけましだという点を強調したい。何しろ,古代の出来事がいつ起きたか特定できること自体,驚くべきことなのだ。古代の人はだれひとり,“アルキメデスが紀元前212年に死んだ!”などと書きとめてはいないからだ。大昔の旧暦を知るには,基本的につぎのような方法をとる。古代の資料のなかには,ありがたいことに,1年の出来事を年ごとに細かく記録した年代記がいくつかある(ローマの著述家リウィウスが記したものなどがよく知られている)。当時の暦の体系は現代と異なるが,古典作家は,ときどき天文のデータ(とくに,日食や月食)を残してくれている。ニュートン物理学を使って,こうした天文現象がいつ起こったかを計算すれば,それをもとに古代の年表を作り,現代の暦で言うといつにあたるかを導きだすことができる。このような天文データがなければ,たしかな年表などとうてい作れない。没年ひとつとってみてもわかるとおり,アルキメデスの人物像を知ることができるのは,アルキメデスに多くを負う科学があってこそなのだ。

リヴィエル・ネッツ,ウィリアム・ノエル 吉田晋治(監訳) (2008). 解読!アルキメデス写本:羊皮紙から甦った天才数学者 光文社 pp.56-57

この本の特徴

 こんな言い方をしてもわかりづらいと思うので,語源の説明を交えて解説しよう。これは手書き本であり,より専門的にはコーデックスと呼ばれる手書きの冊子写本だ。写本は手書き(マニュスクリプト),つまりラテン語のmanu(手によって)とscriptus(書かれた)を語源とし,すべて人の手によって書き写されたものである。印刷本と大きく異なるのは,ひとつの版として大量に印刷されたうちの一冊ではないという点だ。同じものはほかにない。別の写本に同じ文章の一部が収録されていることはある。この時点で私が自信を持って言えたのは,ギリシャ語で書かれたアルキメデスの『方法』,『ストマキオン』,『浮体について』が収められた写本はほかにないということだ。つぎに,この写本がパリンプセストであること。これはギリシャ語のpalin(再び)とpsan(こする)から派生したことばで,その本を書くにあたって使われた羊皮紙が,少なくとも一度はこすり取られたという意味だ。のちほど説明するが,羊皮紙は動物の皮を削って作る。すでに本になった羊皮紙を再利用したければ,新たに文字を書く前に皮をもう一度削り,元の文字を消す必要がある。このパリンプセストは百七十四のフォリオ(紙葉)からなる。フォリオの語源はラテン語のfolium(葉)。フォリオは表(レクト)と裏(ヴェルソ)とに呼び分けられ,現代のページ番号と同じ役割を果たす。この写本のフォリオには1から177まで番号がつけられているが,不可解なことに3つの番号が欠けている。ミスター・Bがこの不足を承知していればいいのだが。

リヴィエル・ネッツ,ウィリアム・ノエル 吉田晋治(監訳) (2008). 解読!アルキメデス写本:羊皮紙から甦った天才数学者 光文社 pp.31-32

厳しいノルマ

 我々自身,常に厳しいノルマで縛られています。能力評価は数字だけ。「顧客に喜ばれた」とか「地域に貢献した」とか,そんな数値化できないものには,価値がありません。とにかく理屈抜きに数字ですよ。
 ノルマは達成して当然。さらに高いノルマが設定され,それを達成し続けなければ,同僚との出世競争に敗れてしまいます。幸い私はこれまでノルマ未達だったことはありませんが,達成できない人間は,いづらくなり,どんどん辞めていきますね。

恵比寿半蔵 (2001). 就職先はブラック企業:20人のサラリーマン残酷物語 彩図社 pp.227

就活生へ

 ——最後に,これだけは言っておきたいというアドバイスはありますか?
 「就職する際に社名にとらわれないことですね。B to C(Business to Consumerの略。消費者の身近な商品を作っていたり販売している)の企業は,普段から目にしているので,社名が頭に刷り込まれているのですが,コマーシャルをやっていないB to B(Business to Businessの略。企業間取引のこと)の会社の中にも優良企業はたくさんあります。それからネットの情報に頼りすぎないこと。某巨大掲示板や某巨大SNSに,いろいろな企業情報が載っていますが,信じすぎない方がいいですよ。タダで手に入る情報は所詮その程度のモノ。仮にそれを信じて入社しても,文句の言いようがないですからね。世界同時不況の現在,企業は真っ先に人件費をカットしますから,これから数年の就職活動は厳しくなることと思います。肝に銘じてください。今年も不動産関連の会社が数社倒産しましたが,これからまだまだ潰れる会社は出てくると思います。せっかく内々定をもらったのに,入社する前に会社が倒産なんてしゃれにならない状況が頻発しそうです。今,優良企業でも,いつブラック企業になるか分かりませんから,いい会社に入社できたとしても,それをゴールと考えずに,いつでも転職できるようにスキルを常に磨いておくことが大切です」

恵比寿半蔵 (2001). 就職先はブラック企業:20人のサラリーマン残酷物語 彩図社 pp.178

細分化されすぎ

 今,中堅規模のIT関連企業に転職をしてつくづく感じますが,大企業は,仕事が細分化されすぎることで,結局は細かいルーチン・ワークの巨大な集合体になっていると思います。営業や商品企画など,数字で結果が判定できる部門はともかく,管理部門では,仕事のやりがいを見つけるのは,なかなか難しいことだと思います。特に女性の場合は圧倒的に管理部門に回される確率が高いですね。

恵比寿半蔵 (2001). 就職先はブラック企業:20人のサラリーマン残酷物語 彩図社 pp.84

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