読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。
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子供は驚くほど洗練された道徳的判断をする。そこには大人の道徳本能ばかりか,複雑な法律制度まで反映されているのだ。三,四歳児は,同じ結果を生む二つの行為を識別するのに意図という概念を使う。つまり,誤って他人にぶつかり,跨線橋から転落させてしまう人と,意図的にそうする人を区別するのだ。法律や通常の道徳でも同じ区別がなされている。四,五歳児ともなると,はるかに複雑な区別を認識する。これもまた法的な区別と重なるもので,事実の錯誤と法律の錯誤を認識するのだ。路面電車の運転士は,人間ではなく木の葉の山だと勘違いして何かの塊を轢いてしまったのかもしれない。これは事実の錯誤であり,言い訳になる。この錯誤の発生に正当な理由があれば,こうした事情が運転士の法的責任を評価するうえで考慮されるのはまちがいない。だが運転士が,線路上の男をはっきりと認識していたのに,電車で人をぺしゃんこにしても許されると誤解していたというなら,それは法律の錯誤であり,まず言い訳にならない。
ミハイルの主張によれば,生まれながらに組みこまれた道徳は,言語の場合と同じくきわめて抽象的なレベルで機能している。われわれの規範は具体的内容(たとえば「義理の母を侮辱してはならない」)をもっていないから,言語と同じく道徳も地域によって違いがある。言語の普遍的法則は,文法的に正しい文には守護,動詞,目的語が含まれるということかもしれない。だが,その語順は言語によってさまざまだ。
デイヴィッド・エモンズ 鬼澤忍(訳) (2015). 太った男を殺しますか?「トロリー問題」が教えてくれること 太田出版 pp.164-165
道徳哲学を風刺するジョークがある。問題:電球を変えるのに必要な道徳哲学者は何人か? 答え:八人。一人は電球を替えるために,七人はその他のすべての条件を同一に保つために。だがそれは,路面電車のシナリオが役に立つようにきわめて注意深く組み立てられているからにほかならない。
現実の生活はホワイトノイズ,つまり倫理的な雑音であふれている。現実生活はとても複雑なので,道徳的推論の適切な特徴を見きわめるのは難しい。路面電車のシナリオは,基本原則を抽出し,有意義な差異を検知できるように設計されている。そのためには,気を散らすようなゆがんだ音を消し去るしかない。科学的方法との大まかな類似点を考えてみよう。研究室では,たておば光の効果をテストしたい場合,光を変化させる一方でほかの要素はすべて一定に保っておく。同じように,ある特定の特徴が道徳的に妥当かどうかを判断したければ,この一つの変項をさまざまに変化させながら,それ以外の点では同一の二つの事例を想像してみるといい。
デイヴィッド・エモンズ 鬼澤忍(訳) (2015). 太った男を殺しますか?「トロリー問題」が教えてくれること 太田出版 pp.149-150
こうした世論調査やアンケートに訴えることの哲学的価値とは何だろうか?何の価値もない,そんなことをしても無駄だと言う人もいる。ケンブリッジ大学の著名な哲学者ヒュー・メラーもその一人だ。「これが哲学だとすれば,人々に円は四角だと思うかどうかをたずねるアンケートは数学だということになる――だが,それは数学ではない」
しかし,調査情報の収集や直観のデータバンクの構築は,われわれの直観の信頼性に疑問を投げかけるために利用されてきた。そして,専門家の直観はふつうの人のそれよりも信頼できるかという関連問題を提起してきたのだ。
デイヴィッド・エモンズ 鬼澤忍(訳) (2015). 太った男を殺しますか?「トロリー問題」が教えてくれること 太田出版 pp.137-138
実験哲学は社会心理学の業績を広く利用してきたが,最近まで,その多くは社会心理学とは異なる方法論に従っていた。つまり,さまざまな調査を通じて,日常的な直観を脱構築するのだ。現実の,あるいは想像上の一連の状況に直面して,哲学者は自信満々でこう宣言する自分たちの反応は,どんな場所であれ健全な考え方をする人々と共通のものだと。「われわれ全員が……ということを認める」と彼らは言うだろう。
デイヴィッド・エモンズ 鬼澤忍(訳) (2015). 太った男を殺しますか?「トロリー問題」が教えてくれること 太田出版 pp.130
道徳哲学の文献の一つのセクションにざっと目を通すと,カチカチという時計の耳障りな音が聞こえてくる。カチカチと音を立てる時計のシナリオは,拷問の許容範囲―あるいはその逆―について論じる倫理学者のあいだで人気がある。一人のテロリストが捕まっている。彼がある大都市に仕掛けた小型の原子爆弾が,二時間後に爆発することがわかっている。テロリストは爆弾を仕掛けた場所を言おうとしない。情報を吐かせるために拷問をしなければ,数千人が命を落とす。どうすべきだろうか?
9・11の同時多発テロで明らかになったのは,世界には民間人の大量殺害という目的に夢中になっている人がいるということだった。それ以降,倫理をめぐる討論に登場する時限爆弾は,一般の人たちにとって現実味を帯びることになった。著名な法律学教授のアラン・ダーショヴィッツは,ある本を書いてリベラル派の人々を憤慨させた。彼はそこで,極端な状況では政府から拷問者に「拷問許可証」を与えてはどうかと提案したのだ。その後,拷問スキャンダルが起こっては広く報道されてきた。たとえば,アルカイダの工作員で9・11テロの黒幕だと考えられるハリド・シェイク・モハメドへの水責めだ。
時限爆弾の事例に対する義務論者の反応には,以下の五つのパターンがある。
一つ目。時限爆弾が経験的実在に対応している可能性を否定するもの。実際には,脅威は差し迫っていないのがふつうで,明確な期限は存在しないし,避けられない脅威も存在しない。命が失われることが確実にわかるわけでもない。そのうえ,拷問は効果がない,さらに悪いことには逆効果―偽りの自白を招く―かもしれない。信頼できる情報を引き出す,あるいは別の方法で危機を脱するための代替的で合法的な手段があるかもしれない。
二つ目。一部の義務論者は,絶対論者の立場からの論理的帰結を受け入れる覚悟がある。いかに多くの命が失われようとも,彼らは拷問に許容範囲があることを否定しつづける。
三つ目―おそらく標準的な見解。義務論者にもこう主張する人がいる。誰かを拷問しなければ,結果として本当に厄災を招く(たとえば数千人が命を落とす)という場合,拷問への制約は無視してかまわない。
四つ目。一部の義務論者はこう主張する。重要な情報を入手する方法が拷問しかない場合,時限爆弾を仕掛けたテロリストは,道徳的観点からして拷問に服す義務がある。言い換えれば,この人物を拷問にかけることにはいかなる制約も存在しない。爆発によって想定される帰結のほうが,拷問への制約よりも重要だということではない。むしろ,テロリストはみずからの行動のせいで,拷問されない権利を没収されてしまったのだ。彼が仕掛けた爆弾が一人の命を脅かしているだけだとしても,拷問は許される。
五つ目。このシナリオにかかわることを断固として拒否する。拷問の正当化の可能性を論じること自体が認められないと考える人もいるのだ。その可能性がとりあげられるだけで,心が病み,文化が堕落している証拠だ。ある哲学者が言うように「社会とは,そのなかで何が議論にふさわしくないとされているかによって,ある程度まで定義される。たとえば,われわれの社会では,黒人を奴隷にすべきか否かは議論の対象とならない……議論にふさわしくないと考えられるものは,それに関して二つの見方はないとして扱われるものである」。拷問はそうしたテーマの一つであり,一つの見方しかありえないというのだ。
デイヴィッド・エモンズ 鬼澤忍(訳) (2015). 太った男を殺しますか?「トロリー問題」が教えてくれること 太田出版 pp.77-80
二重結果論はもっとも正確に定式化できる。この定式化は一般に受け入れられているわけではない。とはいえ通常,二重結果論は四つの構成要素からなっていると見なされている。
・行為はその有害な結果から独立していると考えられ,行為自体は間違っていない。
・行為主体は悪い事態を予見してはいても,手段としてであれ目的としてであれ,善行をなす意図はあるが悪事を働く意図はない。
・悪い結果を招かずに善行をなしとげる方法はない。
・悪い結果は,求められている善行と比較して不釣り合いなほど甚大ではない。
特定の軍事施設を攻撃目標とすることが正当化できるか否かを考えてみると,二重結果論の応用の仕方がわかる。巻き添え被害が予見されるにもかかわらず,ある施設を攻撃することを正当化するには,二重結果論によれば以下の条件が満たされる必要がある。この施設を攻撃すること自体は間違いであってはならない。この施設への攻撃は意図された行為でなければならないが,巻き添え被害は意図されたものであってはならない。この施設への攻撃から帰結する善に対して,巻き添え被害の悪が不釣り合いに大きくてはならない。
デイヴィッド・エモンズ 鬼澤忍(訳) (2015). 太った男を殺しますか?「トロリー問題」が教えてくれること 太田出版 pp.52
ほとんどのシナリオで,死の危機にさらされている五人には何の罪もない。そんな危険な状況に置かれる謂れはないのだ。五人を救うために殺されるかもしれない一人にも,いっさい悪いところはない。これらの一人と五人のあいだには何のつながりもないのがふつうだ。友人でもなければ同じ家族の一員でもない。唯一の共通点は,同じ悲惨な状況にたまたま巻き込まれたことだけである。
やがて,われわれは「太った男」と出会うことになる。彼の扱い方をめぐる中心的な難題は,一世紀近くものあいだ哲学者を悩ませてきた。いまではそのトピックに関する論文が非常に多く存在するため,「路面電車学(トリオロジー)」なる冗談めかした新語が定着している。
デイヴィッド・エモンズ 鬼澤忍(訳) (2015). 太った男を殺しますか?「トロリー問題」が教えてくれること 太田出版 pp.22
広告収入の増加と同時に,音楽業界では別の変化が起きていた。経済学者によると,一般消費者が娯楽にかける費用は比較的安定しているはずだった。ということは,ある分野にかけるおカネが減ると別のところにおカネを落としていることになる。ライブ市場のトレンドはこの仮説を裏付けていた。ファンはアルバムにおカネを使わず,大規模な音楽フェスに向かい始めていた。バナルー,コーチェラ,その他のフェスはさまざまな人気アーティストを呼び込んで,永遠のウッドストックのように多くのファンが詰めかけ,1999年から2009年にかけて北米のコンサートチケット売上は3倍になった。多くのミュージシャンがレコーディングよりツアーから多くの収入を得るようになってきた。
スティーヴン・ウィット 関美和(訳) (2016). 誰が音楽をタダにした?巨大産業をぶっ潰した男たち 早川書房 pp.301-302
ジョブズは合法的な有料ダウンロードのサービス立ち上げに全力を注いだ。ブランデンブルクやモリスと同じように,ジョブズもまた知的財産から莫大な富を築いていた(自分自身の特許とは限らなかったが)。もともとiPodはiTunesストアを補完するデバイスになるはずで,ジョブズは違法ファイルを減らしてその価値を下げるため,AACへの転換を押していた。だが,2000年代にアップルが勢いを持ったきっかけは,ナップスターで得た不正ファイルを堂々と持ち歩けるようにしたからだった。音楽の海賊行為が90年代版の違法ドラッグのようなものだとすれば,アップルの発明はマリファナパイプと同じだった。
スティーヴン・ウィット 関美和(訳) (2016). 誰が音楽をタダにした?巨大産業をぶっ潰した男たち 早川書房 pp.202
そのうえ都合のいいことに,パッケージラインは時間のかかる複雑な工程になっていた。mp3はCDと音質が変わらないだけでなく,いくつもの点で優れていた。かさばらず,おカネもかからず,永久にコピーし続けられ,壊れることもない。CDは傷がついたり,割れたり,パーティーで盗まれたりするけれど,mp3は永遠だった。するとCDが勝てるのは,ただ目で見て触って嬉しいという点だけだ。つまりユニバーサルが売っていたのは,パッケージだった。
スティーヴン・ウィット 関美和(訳) (2016). 誰が音楽をタダにした?巨大産業をぶっ潰した男たち 早川書房 pp.179
ジョブズはAACへの全面的な切り替えを望んでいた。話し合いの中でジョブズは,AACが次世代の技術で,非効率で妥協の産物だった旧世代のフォーマットを置き換えるためにブランデンブルク自身が開発したものだと正しく主張していた。実際,アップルがあまりにもAACを押していたので,これをアップルの発明だと誤解するユーザーも多かった。ブランデンブルクはリンデと組んで,アップルに対抗するように押し返した。mp3はもうスタンダードとして確立されていた。切り替え費用は高くつきすぎた(ブランデンブルクは自分の分け前については触れなかった)。
勝負は簡単についた。2000年に力を持っていたのはファイル共有者だ。アップルはまだ二流のメーカーで,業界では鼻であしらわれるような存在だった。大規模なフォーマットの切り替えを先導できるほどのユーザー数も持ち合わせていなかった。最初のライセンス会議の当時,アップルはパソコン市場の3パーセントしか持っていなかった。時価総額が23倍のマイクロソフトでさえ切り替えは不可能だった。アップルにその可能性があるとは到底考えられなかった。
スティーヴン・ウィット 関美和(訳) (2016). 誰が音楽をタダにした?巨大産業をぶっ潰した男たち 早川書房 pp.174
仕上げは拡張子を決めることだ。ウィンドウズ95のファイルの拡張子はアルファベット3文字と決まっていた。画像ファイルにはipgやgifといった耳慣れない拡張子がついていた。グリルはある時点でブランド名を変えようと訴えた。MPEGオーディオレイヤーIIIなんてやめた方がいいし,えこひいきばかりの企画委員会とも距離を置ける。でも議論の末に,やはり伝統を守って拡張子をmp3に決めた。スティーブ・チャーチがアメリカで売り込んでくれていたおかげで,mp3はすでになんらかのブランドとして認められてもいた。MUSICAMのウィンドウズ向けアプリケーションの拡張子はmp2だった。それはMPEGがくれた思いがけないおまけだった。mp2とmp3はお互いに競い合って同時に開発された技術だったが,名前を見るとmp3がmp2の後継技術のように見えた。フラウンホーファーにとっては都合のいい誤解だった。
スティーヴン・ウィット 関美和(訳) (2016). 誰が音楽をタダにした?巨大産業をぶっ潰した男たち 早川書房 pp.84-85
(1)心理学は解決可能な経験的問題を探求することによって進歩する。この進歩は平坦な道のりではない。なぜなら,心理学は数多くの下位領域から構成されているため,ある領域の問題は他の領域よりも困難な場合があるからである。
(2)心理学は反証可能な理論を提示するが,それは,それらの理論が明らかにする知見を説明するためである。
(3)理論の中の概念は操作的に定義される。そして,それらの定義は根拠が蓄積されるにつれて発展する。
(4)こうした理論は,体系的な経験主義によって検証される。そして,得られたデータは,他の研究者による再現と批判を可能にする方法で提示されるという意味で,公共のものとなる。
(5)心理学者によるデータと理論が公共のものとなるのは,査読に基づく学術誌に掲載された後だけである。
(6)経験主義を体系的なものにするのは,忠実な実験を特徴づける統制と操作という,もっともな筋道を求めて努力するという事実である。
(7)心理学者は結論に到達するのに,さまざまに異なる多くの方法を用いる。そして,それらの方法の強みも弱みもさまざまに異なる。
(8)最終的に明らかになる行動原則は,ほとんど常に確率に基づく。
(9)ほとんどの場合,知識は,多くの実験からゆっくりとデータが蓄積された後に獲得される。それぞれの実験は不備な点を併せ持つが,にもかかわらず,ある一つの共通した結論に収束していくのである。
キース・E・スタノヴィッチ 金坂弥起(監訳) (2016). 心理学をまじめに考える方法:真実を見抜く批判的思考 誠信書房 pp.260-261
心理学の世界では,私たちはぎりぎりのきわどい道のりを歩む必要があります。たとえば,心理学のある特定の仮説にまつわる根拠がまだはっきりしない段階で,その仮説を「証明済み」のものと見なしたくなる誘惑に打ち勝たなければなりません。この懐疑的態度は,本書では再三にわたり強調しました。相関関係から因果関係を推断しない注意や,支持証言を根拠として鵜呑みにしない注意が例として挙げられました。反面,不完全な知識や仮説的な結論だからといって,心理学における確かな結論には手が届かないのではないかと,過剰に反応してがっかりするべきでもありません。しかし,心理学が科学たりえないという不合理な主張に誘惑されてもいけません。こうした見地に立つなら,収束根拠の原則が,仮説的な知識を過剰に解釈することへの警鐘とバランスを取り合うものと見なされることになります。心理学研究はおしなべて弱点を持ちつつも,根拠の収束によって,私たちは相当に説得力のある結論に到達できるのです。
キース・E・スタノヴィッチ 金坂弥起(監訳) (2016). 心理学をまじめに考える方法:真実を見抜く批判的思考 誠信書房 pp.165
心理学の実験が極めてあいまいな要因を含むことは,人間行動に関する問題の恐ろしいほどの複雑さを考えると,驚くに値しません。心理学者がこの事実を素直に認め,その結果どんなことが起こりうるかについて労を惜しまず説明しさえすれば,一般の人たちの心理学に対する理解はもっと進むでしょう。心理学という学問領域の進歩はゆっくりとしたもので,ときとして気の遠くなるほど長い期間にわたる研究の融合と討論を経て,はじめて進歩するということを心理学者は認めるべきです。新発見がなされたというメディアの主張は懐疑の念を常に生み出しますが,心理学的主張に関しては,特にそれが当てはまるのです。
キース・E・スタノヴィッチ 金坂弥起(監訳) (2016). 心理学をまじめに考える方法:真実を見抜く批判的思考 誠信書房 pp.165
無作為割り当てと無作為抽出が同じではないことを覚える一番の方法は,無作為割り当てをしていない非無作為抽出,無作為割り当てをした非無作為抽出,無作為割り当てをしていない無作為抽出,無作為割り当てをした無作為抽出の四つの組み合わせのいずれかが起こりうることを,常にはっきりさせておくことです。心理学の研究ではその必要がないため,無作為抽出を用いることはほとんどありません。次節で見るような理論の検証や,便宜的標本を含むような研究でしか,必要としないのです。もし研究で無作為割り当てが用いられていたら,その研究はすなわち実験研究ということになります。もし無作為割り当てが用いられていないとすると,それは相関研究ということになります。無作為抽出が用いられる研究の多くは,調査や関連を見るだけの研究なので,無作為割り当てが用いられることはありません。つまり相関研究となるのです。
キース・E・スタノヴィッチ 金坂弥起(監訳) (2016). 心理学をまじめに考える方法:真実を見抜く批判的思考 誠信書房 pp.139
異なる条件を統制して比較することによって科学者は特定の解釈を除外し,その他の解釈を確信が持てるものにします。実験計画の非常に重要なゴールは変数を独立させることです。うまく変数が独立したとき,実験の結果によって,解釈として先に提示されていた他の理論は除外されます。科学者は,実験状況を直接統制することで,あるいは,他の解釈を検証可能にするような自然発生的な状況を観察することで,可能な限り誤った解釈を除外しているのです。
キース・E・スタノヴィッチ 金坂弥起(監訳) (2016). 心理学をまじめに考える方法:真実を見抜く批判的思考 誠信書房 pp.109
私が講義でこの話をすると,だいたいいつも誰かが的を射た質問をします。「先生は目を引く事例を使って要点を説明しているだけです。先生がすべきではないと言った方法じゃないですか」。この良い質問のお陰で,私は本章のテーマについて,さらに細かな点を伝えることができます。質問への回答はこうです。「たしかに,私は目を引く事例を使って要点を説明してきました。それは要点を説明するためで,証明するためではありません」。この二つを区別することが重要なのです。つまり,(1)主張することと,(2)それを伝えることの違いです。それぞれについて,支持証言に基づいているか否かを問うことができます。すると可能性として,以下の四つの立場を導くことができます。
(1)強烈な支持証言に基づく主張が強烈な支持証言によって伝えられるもの。
(2)強烈な支持証言に基づく主張が支持証言抜きに伝えられるもの。
(3)支持証言ではない他のエビデンスに基づく主張が,強烈な支持証言によって伝えられるもの。
(4)支持証言ではない他のエビデンスに基づく主張が,支持証言抜きに伝えられるもの。
キース・E・スタノヴィッチ 金坂弥起(監訳) (2016). 心理学をまじめに考える方法:真実を見抜く批判的思考 誠信書房 pp.90
心理学に接するとき,多くの人々が操作主義の考え方を放棄するように見えるもう一つの理由は,彼らが人間に関する問題についての本質主義的な答えを求めているということです。本章冒頭の問いを思い出してください。重力の本当の意味とは何か,などです。多くの人は,このような問いが自然現象の根本にある極限の知識を要求するため,物理学の最新の理論でも,この類の問いに答えることはできないと思うでしょう。ここ数世紀の自然科学の進歩について書かれている教養書に慣れ親しんでいる人は,重力が非常に複雑な理論的構成物であり,その概念的および操作的関係は常に変化してきたことを認識しているでしょう。
しかし,重力を知能という言葉に置き換えると,突然信じられないことが起きます。もはやその問いには,重要な意味が染み付いています。その問いは当然で,意味があるように見え,文字どおり究極の答えを切に求めます。心理学者が物理学者と同じ回答,すなわち知能とは,それを測定するための操作と他の構成概念との理論的な関係から意味を導かれた複雑な概念であると答えれば,その心理学者は見くびられ,本当の問題を避けていると非難されるのです。
心理学が直面している問題の一つは,このように他の科学では通常要求されない本質主義的な答えを要求されることです。
キース・E・スタノヴィッチ 金坂弥起(監訳) (2016). 心理学をまじめに考える方法:真実を見抜く批判的思考 誠信書房 pp.65
科学の概念は操作の組み合わせによって定義されるものであり,たった一つの行動事象や課題によるものではないと気づくことは重要です。それぞれわずかに違いのある課題や行動事象は,一つの概念として収束するものなのです。たとえば,教育心理学者は読解能力といった概念を,まとまった課題の組み合わせからなるウッドコック読解習熟度テスト(Woodcock, 2011)といった,標準化されたツールの得点という観点から定義します。ウッドコック読解習熟度というツールにおける総合読解能力得点は,わずかに異なる能力を測る多数のサブテスト,たとえば1節を読んで空欄を埋める適切な単語を考える,ある単語の類義語を考え出す,難解な単語を一つひとつ区切って正確に発音する,といった能力の指標を含んでいます。これらすべての課題の成績を集めて,読解能力という概念を定義しているのです。
キース・E・スタノヴィッチ 金坂弥起(監訳) (2016). 心理学をまじめに考える方法:真実を見抜く批判的思考 誠信書房 pp.51-52