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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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科学の2つの目的

 科学はその初期の時代から2つの目的のために人間が取り組んできた舞台であった。その1つは森羅万象を理解することであり,他の1つはそのための努力について評価を得ようということである。このことを理解することによってはじめて,科学者の動機や科学者のコミュニティの姿,科学の過程そのものが適切に理解できるのである。
 科学者のこの2つの目的は,多くの場合,相伴って機能するが,ある状況下においては衝突する。実験結果が期待どおりでなかったり,理論が広い支持を得られなかった場合には,科学者はいろいろな方法でデータの改良や,捏造など,さまざまな誘惑にかられるであろう。中には,自分の理論の正しさを頑固な仲間たちに説得しようとしてごまかしを行う場合もあるだろう。ニュートンは自分の万有引力の理論に対する批判者たちに反駁するため,細かな点に手を加えた。メンデルのエンドウ豆に関する統計は,いかなる理由にせよ,事実としてはあまりにもできすぎていた。また,ミリカンは電荷を説明するためデータを選択したのである。

ウイリアム・ブロード,ニコラス・ウェイド 牧野賢治(訳) (2006). 背信の科学者たち:論文捏造,データ改ざんはなぜ繰り返されるのか 講談社 pp.298
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ビネの原則

 知能検査はフランス人のアルフレッド・ビネによって考え出された。ビネは検査の実施に際して,3つの基本原則を設けた。しかし,それらの原則は,アメリカの心理学者によって一貫して無視され,悪用されたのである。
 ビネの原則(1) 得点は生まれつきのもの,あるいは永久的なものを何ら明確にするものではない。
 ビネの原則(2) 得点等級は学習障害のある子供を見極め,助けるための大まかな指針であり,普通の子供たちを測るものではない。
 ビネの原則(3) 低い得点は子供の知能が生まれつき劣っていることを意味しない。
 ビネの検査はニュージャージー州にあるバインランド知的障害児訓練校の研究主任H・ゴダードによって翻訳され,アメリカに紹介された。ゴダードはこのビネのテスト得点表を使って知的障害の等級を発展させたが,それは知能を唯一絶対的なものとして認めるという仮定に基づいていた。したがって,これはビネの原則(1)に反したものであった。さらに,ゴダードは知能が子供に受け継がれることを当然のこととみなしたことから,原則の(2)と(3)も犯してしまったのである。こうして,ゴダードは社会に存在する階級構造を正当化し,不変のものであると主張した。つまり,階級ピラミッドの底辺にいる者は,生まれつき知性に乏しく,生来優秀な管理者の指導を必要とすると主張したのである。

ウイリアム・ブロード,ニコラス・ウェイド 牧野賢治(訳) (2006). 背信の科学者たち:論文捏造,データ改ざんはなぜ繰り返されるのか 講談社 pp.275-276

師弟関係の崩壊

 どのようにして,科学研究の場で師弟関係が堕落したのか。20世紀初頭,研究は多くの学者にとって天職であり,科学することに必要なものは,すぐれた頭脳と,科学機材店で調達するわずかな器具であった。ところが,科学の専門家,細分化が進むにつれ,また,研究用の実験室の設備費用が増大するにつれ,研究者としての道を歩もうとする若い学生は,学問上の師のみならず,大きな政府助成金を獲得できる財政的支援者を見つける必要が大きくなった。支援者は助成金が常に途絶えないようにし,自分の報酬に見合った仕事をするために,絶えずめざましい業績を生み出す方策を探らなければならない。確かに,研究室の責任者が自分の研究チームに学問的指導を与えている限り,このシステムに何ら問題はない。しかし,この単調で退屈な仕事に安易な出口はない。もし,研究室の責任者の注意がどこか他へそれたり,あるいは,自分の創造的エネルギーが低下してしまったとなれば,弟子の研究を自分の手柄にしてでも,現在手にしているものを守り続けたいという欲望に駆られることであろう。そして,自分にこう言い聞かせるのだ。「結局,私の名前を使わなければ,彼らが研究するための金は手に入らないのだ。しかも,私のすべての時間を助成金獲得のために使わなければ,私もまたベンチに引っ込まなければならなくなってしまう」。

ウイリアム・ブロード,ニコラス・ウェイド 牧野賢治(訳) (2006). 背信の科学者たち:論文捏造,データ改ざんはなぜ繰り返されるのか 講談社 pp.232-233

若者に反対するのはここでも同じ

 老人が若者の考えに反抗するのは常であり,科学においてもそれは同様である。「普通,いかなる専門分野においても,頑固な老人たちに支配されている大学や学識者の社会は,物事の常として,新しい考えに反応するのが遅い。なぜなら,ベーコンが言うように,過去の業績によって高い栄誉を得た高名な学者たちは,進歩の潮流に追いつけないことを認めたくないからである」と生物学者ハンス・シンサーは言う。同じような考えをより強烈に表現したのは,量子力学の創始者であるドイツの物理学者マックス・プランクである。彼は有名な一節の中で,科学における古い考えは,それに固執する人びとと共に滅びると言明した。「重要な科学的改革というものは,徐々にその支持を勝ちとったり,反対者の意見を変えさせることによって認められることは非常にまれなことである。つまり,サウロ(キリストの使徒パウロの最初の名前)はパウロにならないのである。実体はそういう古い世代が死に絶えてゆき,最初から新しい考えになじんだ新しい世代が増えてゆくのである」。知的な抵抗といえども,死という説得者の前には無力なのだ。しかし,あらゆる領域の中で,何ゆえ科学においてそのような例がみられるのであろう。
 科学は普遍的であるという主張にもかかわらず,社会的,専門的な立ち場が,しばしば新しい考えを受け入れることに影響を及ぼす。革命的な新しい概念の創案者が,自分の学問領域のエリート社会の中で低い地位にあったり,他の領域からの新参者であった場合,その考えは真剣な検討の対象とはまずなりえないであろう。それが真価においてではなく,その創案者の社会的業績によって判断されてしまうからだ。しかし,学問を進歩させる独創的な考えに貢献するのは,たいていその学問領域における確立された競技に洗脳されていない部外者か,もしくは他の学問領域から来た新参者である。この事実こそ,新しい考えに対する抵抗が科学史の上で常に問題となる原因なのだ。

ウイリアム・ブロード,ニコラス・ウェイド 牧野賢治(訳) (2006). 背信の科学者たち:論文捏造,データ改ざんはなぜ繰り返されるのか 講談社 pp.210-211

科学論文は反歴史的

 文学の形式に置き換えるなら,科学の論文はソネット(十四行詩)のように様式化されているといえる。もし,この厳格な記述形式に従わなければ,単純に,それは公刊されないだけのことだ。要するに,実験はその全過程が,哲学者の処方箋に従って行われたかのごとく報告されねばならない。科学論文を書く際には,客観性を保つために筆者はいっさいの感情的な要素を排除するよう要求されているのである。
 その結果,科学者は発見に伴う興奮,誤った出発点,希望や失望,あるいは実験の各段階で自らがたどった思考の道筋すら記述できない。極めて形式化された手段によってのみ(通常はその分野における研究の現状を記述することによって),科学者は研究に取り組んだ理由を暗に述べることができるのだ。さてその次は“材料と方法”の部分だが,ここでは世界中の誰もがその実験を繰り返せるように,実験に用いられた材料と方法が電文のように簡潔に記述される。実験“結果”の部分は定められた方法によって生み出された無味乾燥なまとめである。最後の“結論”では,データがいかに新しい理論の検証や反証を行っているか,あるいは発展させているか,そして,それが将来の研究にとってどんな意味をもつのかが示されている。
 科学論文は反歴史的なものである。なぜなら,原則的な科学論文の書き方は,歴史家の基本原則(誰が,何を,いつ,どうして)を初めから切り捨ててしまうことを求めているからである。科学の鉄則は,そういった個々の項目に対するいかなる記述をも削除することを要求する。客観性の名のもとに,あらゆる目的と動機は抑圧され,論理の名のもとに,理解に至る道筋は省かれなければならないのだ。つまり,科学論文の構成は神話を不滅にすべく企てられた虚構なのである。

ウイリアム・ブロード,ニコラス・ウェイド 牧野賢治(訳) (2006). 背信の科学者たち:論文捏造,データ改ざんはなぜ繰り返されるのか 講談社 pp.198-199

自己欺瞞と欺瞞

 自己欺瞞と欺瞞との間には意思決定の上で大きな違いがある。自己欺瞞は無意識であるが,欺瞞は故意によるものだ。とはいえ,それぞれは,たとえて言えば,実験者自身にさえはっきりわからない動機を含んだ行動が,その中心部分の領域を占めるスペクトルの帯の両端に位置しているとするのがより正確であろう。科学者が研究室で行う測定にはたいてい判断という要因が入り込む。実験者はある外的な要因を埋め合わせるために,ストップウォッチをいくらか遅らせて押すかもしれず,“違った”答えが出た場合には,その答えを技術的な理由から否定するのだと自分自身に言い聞かせる。このようなことが繰り返された後,都合のよい“正しい答え”の割合が増し,統計的な有意性が得られることになるのだ。公表されるのは当然“受け入れられる”データだけである。つまり,実験者は自分の実験を立証するためにデータを選ぶが,それは意識的なごまかしと言えないまでも,部分的に操作されたものなのだ。

ウイリアム・ブロード,ニコラス・ウェイド 牧野賢治(訳) (2006). 背信の科学者たち:論文捏造,データ改ざんはなぜ繰り返されるのか 講談社 pp.169

野口英世の場合

 アメリカの医学研究の創始者のひとり,サイモン・フレクスナーの支持を受け,世界的な名声を得た野口英世の場合をとりあげてみよう。赤痢菌を初めて分離したフレクスナーは,ニューヨークのロックフェラー医学研究所(現在のロックフェラー大学)の創設に貢献した。彼の指導の下に,この研究所はウイルス病に関する研究で世界の中心となった。
 フレクスナーは1899年に日本を訪れた時,医学研究での成功に燃えるような情熱を抱いていたこの野心的な和解日本人研究者に会った。その後,野口はアメリカにフレクスナーをたずね,彼の下で科学のスーパースターになったのである。フレクスナーの足跡をたどりながら,数多くの病気の原因となる微生物を分離し続けた彼は,梅毒,黄熱病,小児まひ,狂犬病,トラコーマの病原体を培養したと報告し,約200篇(当時としては驚くべき数だった)の論文を発表した。
 野口は1928年に亡くなったが,数々の業績により,医学研究者として国際的な名声を得た。研究所の同僚で,優秀な病理学者のシアボールド・スミスは「最も偉大とは言えないまでも,野口はパスツールやコッホ以来の微生物学における偉大な人物のひとりとして脚光を浴びるであろう」とはっきり述べていた。
 パスツールやコッホの研究は時の試練に耐えたが,野口の研究はそうではなかった。種々の病原体を培養したという野口の主張は,当初こそ丁重に議論されたが,その後はひっそりと,長く暗い忘れ去られた研究の回廊へと追いやられてしまった。彼は,畏敬していた厳格な師,フレクスナーのために,顕著な業績を規則的に生み出す必要に迫られていたのだろう。彼の仕事の多くが誤りであったことの理由が何であろうと,生存中には,彼の研究に対してほとんど異議が唱えられることはなかった。フレクスナーの弟子として,また,最も権威ある研究所の花形として,彼はまさにエリートであった。それによって,欠陥を見つけだす審査から免れたのだ。
 彼の死から50年後,彼の業績の総括的な評価が行われたが,ほとんどの研究がその価値を失っていた。この特異な事例を調査したある科学評論家は,「研究者がいかに優秀であっても,科学上の報告に対しては充分な検討がなされなければならないと言えるかもしれない」と語っている。

ウイリアム・ブロード,ニコラス・ウェイド 牧野賢治(訳) (2006). 背信の科学者たち:論文捏造,データ改ざんはなぜ繰り返されるのか 講談社 pp.150-151

ピア・レビュー

 ピア・レビューや審査制度は,追試とは異なったものであるが,公明正大で,偏見にとらわれないという点で普遍主義を具現したものである。もし科学において客観性という普遍主義の規範が厳しく守られるなら,ピア・レビューや審査制度は完全に機能することができる。そして普遍主義からの逸脱はこれら2つの機構に重大な欠陥を生じさせることになる。個人の偏見はピア・レビューや審査制度の効力を失わせる要因の1つである。別の要因は,審査員の間で首尾一貫した判定が行われない場合や,判断が真価によるのではなく,誰が審査したかに依拠する場合に起こるご都合主義である。

ウイリアム・ブロード,ニコラス・ウェイド 牧野賢治(訳) (2006). 背信の科学者たち:論文捏造,データ改ざんはなぜ繰り返されるのか 講談社 pp.139

論文の氾濫

 長い文献リストを必要とするようになったのは比較的最近のことである。論文の氾濫という今日の問題は,わずか20年前には考えられなかった。1958年,ジェームズ・D・ワトソン(のちにノーベル賞を受賞)はハーバード大学の准教授の申請を行った。しかし,この時,この若き生化学者の履歴書にはわずか19篇の論文しか記載されていなかった。フランシス・H・クリックとの論文はそのうちの1つであり,そこには生命を支配するDNAの分子構造についての歴史的な記述があった。今日では,准教授をめざす候補者の文献リストには,50ないしは100の論文が記載されているのが普通である。

ウイリアム・ブロード,ニコラス・ウェイド 牧野賢治(訳) (2006). 背信の科学者たち:論文捏造,データ改ざんはなぜ繰り返されるのか 講談社 pp.81

(引用者注:原書は1982年に刊行されている)

趣味から職業へ

 20世紀に入り,科学の発展が,個人の趣味から高級な職業へと進む過程をほぼ完了した。しかし,ガリレオはタスカニー大公によって上流社会の生活が保障されるよう援助を受けていたし,チャールズ・ダーウィンは,裕福なウェッジウッド一族に生まれ,科学によって生活の糧を得なければならないという心配はなかった。また,グレゴール・メンデルもブルノにあるアウグスチヌス会の修道院で経済的な心配もなく研究を続けられていたのである。20世紀の今日,装置の購入費や技術員の人件費がかさみ,科学は完全に個人的研究の枠外へと追いやられた。個人の収入の多寡とは全く無関係に,自然に対する好奇心を維持することができた伝統は,はるかかなたへ置き去りにされてしまった。現在,ほとんどすべての科学者は,職業としての科学に従事し,才能によって生活の糧を得るのである。政府の支援の下にあろうと,産業界の支援の下であろうと,彼らは明白な成果や短期的な成功に対して報奨を提供する職業構造の中で働いているのだ。今日,研究業績の評価を後世の科学者に委ねられる科学者はほとんどいない。そんなことをすれば,大学は終身在職権を拒否してしまうかもしれないからだ。成功が間近いか,既に成功している研究者でなければ,連邦政府からの研究助成金はたちまち底をついてしまうのである。

ウイリアム・ブロード,ニコラス・ウェイド 牧野賢治(訳) (2006). 背信の科学者たち:論文捏造,データ改ざんはなぜ繰り返されるのか 講談社 pp.57

トリミングとクッキング

 19世紀の科学者たちの間で支配的だったデータへの思慮に欠ける態度について,1830年,コンピュータの前身である計算機の発明者チャールズ・バベジは,論文を著している。彼は『英国科学の衰退についての考察』の中で,多くの欺瞞のさまざまなタイプを分類し,「中でも“トリミング”というのは,平均値から大きなほうへずれている観測値のところどころを少しずつ削り取り,それらを小さすぎる観測値に付け加えることである」とも述べている。実証はしていないが,バベジは,時にはトリミングは,他のタイプの欺瞞よりも非難されにくいことをつきとめ,次のように述べている。「ご都合主義者の観測から与えられる平均値は,トリミングされようがされまいが同じであるからだ。トリミングの目的は,観測値の絶対的精密さへの評価を得ることにある。しかし,真理の尊重や,それに対する慎重な配慮によって,自然から得られる事実を完全にねじ曲げはしないものである」。
 バベジによれば,トリミングよりも悪質なのは彼が“クッキング”と呼ぶものであり,今日では選択的報告として知られている行為だった。「クッキングはさまざまな形態からなり,その目的は極めて高い正確さを装った外見や性質を通常の観測値に与えることである。そのための数多くある方法の1つは,多数の観測値をつくり出し,それらの中から合致するか,きわめて近似の値を選択するものだ。もし100の観測が行われたとして,その中から満足なものが15か20しか選び出せない場合は,その料理人には不運なことに違いない」。

ウイリアム・ブロード,ニコラス・ウェイド 牧野賢治(訳) (2006). 背信の科学者たち:論文捏造,データ改ざんはなぜ繰り返されるのか 講談社 pp.47-48

翻訳者の気遣い

 ガリレオを几帳面な実験家として描く教科書の記述は,研究者たちによって強調されたものだ。ガリレオの著作のある翻訳書では,ガリレオは次のように語ったと伝えられている。「自然の中で,運動はたぶん最も古くから存在するものであり,それについて哲学者の著した書物が少なからず存在する。しかしながら,私は“実験によって”,知る価値があるのにこれまで観察も説明もされていなかった運動の諸性質を発見した」。ところが,この“実験によって”という言葉は,イタリア語の原典には見当たらない。この言葉は,ガリレオがいかに優れていたかに深く感銘を受けている翻訳者によって付け加えられたものであった。

ウイリアム・ブロード,ニコラス・ウェイド 牧野賢治(訳) (2006). 背信の科学者たち:論文捏造,データ改ざんはなぜ繰り返されるのか 講談社 pp.43

レトリックの誘惑

 実験科学はパラドックスの上に成り立っている。その意図するところは,客観的に確かめうる事実を真理の基準に置くことだ。しかし,科学に知的な喜びを与えるのは,退屈な事実ではなく,事実を意味づけるアイデアや理論である。教科書が事実の重みこそ第一義だと強調する時,理論の展開におけるレトリックの要素が問題になる。現に,事実の発見は,その事実を説明する理論や法則の展開よりも報いられることが少なく,そこにレトリックの誘惑がしのび込むのである。混沌とした自然の実体から,その意味を理解しようとする時,科学者はしばしば事実をもてあそぶことで,理論が実際以上に強力なものであるように見せようとする誘惑にかられる。

ウイリアム・ブロード,ニコラス・ウェイド 牧野賢治(訳) (2006). 背信の科学者たち:論文捏造,データ改ざんはなぜ繰り返されるのか 講談社 pp.36-37

データのクッキング

 “科学における欺瞞”と言えば,多くの場合,大がかりなデータの捏造を意味すると考えられているが,これは極めてまれである。データの捏造を企てる者は,すでに得た結果を取り繕う小さなことから手をつけ成功するのである。このような一見して些細とも思えるデータ操作の例(例えば,結果をほんの少し気のきいた整ったものにしたり,“最も良い”データだけを選んで,都合の悪いデータは無視するといったこと)は,しばしば見られることであるが,データを“クッキング”することと,データを捏造することとの間には程度の差が存在するだけである。

ウイリアム・ブロード,ニコラス・ウェイド 牧野賢治(訳) (2006). 背信の科学者たち:論文捏造,データ改ざんはなぜ繰り返されるのか 講談社 pp.31-32

道を外れるとき

 伝統的な科学観が大きく道を踏みはずすのは,科学の過程に焦点を置くあまり,科学者の動機や欲求といったものを考慮しないためである。科学者も一般の人々と特に異なるわけではない。研究室の入り口で白衣に身を固めても,彼らとて他の職業の人びとを駆り立てている情熱や希望,失敗といったものから免れることはできない。現代科学はれっきとした職業なのである。出世の足がかりは科学文献として公表された論文だ。成功するためには,研究者はできるだけ多くの(印刷された)論文を必要とし,政府の研究助成金を確保し,また,研究室を作り,多くの研究生を雇う源泉を作り出し,刊行物を増やし,テニュアー(終身在職権)を得るために努力し,褒賞を与える委員会の注目をひく論文を出さなければならない。そして,アメリカ科学アカデミー会員に選ばれ,いつの日にかストックホルムへの招待状を手に入れることを望むのである。

ウイリアム・ブロード,ニコラス・ウェイド 牧野賢治(訳) (2006). 背信の科学者たち:論文捏造,データ改ざんはなぜ繰り返されるのか 講談社 pp.30-31

醍醐味

 やはり少年マンガの醍醐味はバトルであり,こういうお膳立てがあると,鳩レースだろうが超人オリンピックだろうが否が応でも盛り上がるというものです。

J君 (2010). なんだ!?このマンガは!? 彩図社 pp.82

状況依存の自己表現

 日本人は,人称代名詞を使おうとしても人称代名詞としては使えず,人称代名詞を名詞化する。「私の彼は左利き」の「彼」は人称代名詞ではない。具体的な男友達か恋人である。人称と人称代名詞を比べれば人称のほうが具体的で社会的であり,人称代名詞のほうが抽象的で非社会的である。
 日本語の具体的人称と英語の人称代名詞という人称に関する言語表現は,日本人の言語的自他分離とイギリス人の言語的自他分離が違うということであるが,これは言語表現だけのことなのであろうか。すなわち,言語次元にとどまるものなのであろうか。私は,これは単なる言語現象ではなく,意識次元での自他分離にも関わるものであると考える。
 すなわち,日本人の脳では,具体的にそして社会的に自他の分離がなされるが,イギリス人の脳では,抽象的にそして非社会的に自他の分離がなされるのである。日本人の自他の分離が具体的で社会的であるということは,自他の分離が状況の影響を受けやすいということを意味する。イギリス人の自他の分離が抽象的で非社会的であるということは,自他の分離が状況の影響を受けにくいということを意味する。
 日本人は,「わたくし」「俺」「自分」「手前」「あっし」「あたし」のように,状況依存的に自己を表現する。これは,自己を状況から析出したものとしては意識していないことを意味する。これに対して,イギリス人は“I”と非状況依存的に自己を表現する。これは,自己を状況から析出したものとして意識していることを意味する。
 自他意識は裏表である。したがって,「私」と“I”の違いは,「あなた」と“you”の違いにもなり,さらに,対人意識一般の違いにもなる。日本人の他人とイギリス人の他人は,別ものなのである。

月本 洋 (2008). 日本人の脳に主語はいらない 講談社 pp.208-209

人間関係が表出される

 相手と話をするときに,私のほうがあなたより偉いとか,あなたのほうが私より偉いとか,そういったことをいちいち表明しながら,話をしなければならないのが日本語である。会社で上司に「あなたは……」と言うだけで,多くの上司は不愉快になるであろう。「あなた」と呼ぶ,ただそれだけでも,批判的な感じの発言になってしまうのである。言い換えれば,「あなた」と言うだけで,会社での上下関係の外に出ようとしていることの意思表明みたいになってしまう。日本語は疲れる言語なのである。
 この非常にたくさんある日本語の人称は,外国人にきわめて評判が悪いらしい。そうであろう。こんなに多くの人称をうまく使えるようになるには,よほど勉強しなくてはならないし,それよりも,そもそもなぜ,話をするときにいちいち人間関係を確認しなければならないのであろうか,と思うであろう。
 日本語の人称の多さは,認知的主体と言語的主体が連続していることから説明できる(以下では一人称で説明する)。
 日本人の脳は,認知的主体と言語的主体の連続性が大きいので,認知的主体の状況が言語的主体の表現に反映される。言い換えれば,言語的主体が認知的主体の状況をひきずりながら表現されるのである。だから,各々の状況での人間関係の認知が言語的にも表出されてしまう。たとえば,会社員は,上司の前では「私はあなたの部下である」という認知を持っている。そして,この認知が言語的主体の表現にも姿を現すのである。言い換えれば,部下意識と切り離して言語的主体を表現するのが苦手なのである。

月本 洋 (2008). 日本人の脳に主語はいらない 講談社 pp.206-207

主語は明治に輸入された

 読者のなかには,学校で習った文法が,日本語の唯一正しい文法であるかのように思っていた人もいるかもしれないが,実はそうではないのである。日本語の文法の歴史を簡単に見てもそのことがよくわかる。江戸時代には本居宣長による文法があったが,最初の近代的な日本語の文法は,文部省の役人であった大槻文彦が作った。大槻は国語辞典『言海』を編纂したが,その際に英語の文法を基にして日本語の文法を作った。これ以外で代表的な文法は,山田文法,松下文法,橋本文法,時枝文法等である。現在,小学校から高等学校までで教えられている文法(学校文法)は,橋本文法を基にして作られた。
 主語に関しては,三上章に代表されるように,日本語に主語はないという主張もある。これは学校文法と真っ向対立するものである。そもそも,明治以前の日本語の文法書には「主語」という言葉はない。「主語」は明治時代に輸入されたものなのである。

月本 洋 (2008). 日本人の脳に主語はいらない 講談社 pp.141-142

理論間の不一致

 さて,日本語の文法における主語について,もう少し見てみよう。

 「月が出た」

 この「月」が主語であることに疑問をもつ読者はいないであろう。それでは,

 「月が見える」

 この「月」はどうであろうか。これは主語であろうか。主語であるという言語学者はいる。しかし「月が見える」という文が示唆する状況は,私が月を見ているということである。したがって,「月が見える」の「月」は「月が出た」の「月」とは違う。それではこの「月」が主語でないならば,いったい何なのであろうか。目的語であるという言語学者もいるし,対象語であるという言語学者もいる。あなたは直感的にどの意見に賛成するであろうか。
 このように,日本語の文法に関してはいくつかの理論が存在し,一致した見解が存在しない。しかも,その不一致は枝葉末節での不一致ではない。「月が出た」の「が」の解釈で見たように,かなり基本的なところで一致していないのである。

月本 洋 (2008). 日本人の脳に主語はいらない 講談社 pp.141

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