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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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高い位置に立った人だけ

 とても不思議なことに,高く登るほど,他の峰が見えるようになるのだ。これは,高い位置に立った人にしかわからないことだろう。ああ,あの人は,あの山を登っているのか,その向こうにも山があるのだな,というように,広く見通しが利くようになる。この見通しこそが,人間にとって重要なことではないだろうか。他人を認め,お互いに尊重し合う。そういった気持ちがきっと芽生える。
 だから,なにか1つの専門分野を極めつつある人は,自分とは違う分野についても,かなり的確な質問ができるし,有益なアドバイスもできる。僕はまだよくわからないけれど,大学の先生という職業が成り立っているのは,こういう原理だと思える。小中高までの先生が,広い知識を持った人であるのとは対照的だ。それは,研究というものに対する姿勢というのか,分野を越えて通用する普遍的な手法,あるいは精神が存在するためかもしれない。

森博嗣 (2010). 喜嶋先生の静かな世界 講談社 pp.290
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変だよね

 「変だよね。そうやって,心みたいな言葉を持ち出さないといけないっていうのが,もう変だよね。みんなが変なんだよ。数式を一所懸命考えている人って,みんなのことを認めているのに,人間の心がどうこうって言う人は,数式を考えている人を認めないじゃない。他人を認めない人の方が,人間として,なにか欠けているじゃない?」

森博嗣 (2010). 喜嶋先生の静かな世界 講談社 pp.281

若いときは信じることができた

 それでも,小さいものならば,ほんのときどき掴み取ることができるものだ。
 ああ,これだ,きっとこれで近づける,という感触に出会う。そういうものが幾つか集まれば,そこそこの研究成果になっていく。
 大学院生の頃の僕は,まだそんな経験をしていない。ただ,問題を解いているだけのことで,神様が出した試験問題くらいにしかイメージしていない。ただ,今になって思うのだけれど,若いときには,「これは解けるはずだ」と信じることができた。そこが若い研究者のアドバンテージだ。研究者が若いうちに業績を挙げる理由は,ここにある。年齢が増すほど,解けない例を知ってしまうから,もしかして,これは無理なのではないか,と疑り深くなり,それに比例して,少しずつ研究の最前線から退くことになる。これは,自信がないという状態とはまったく違う。研究は,気合いや自信で進められるものではないからだ。
 40代になれば,ほとんどの研究者は第一線から退いた状態になる。後進に引き継ぎ,自分は研究費を獲得するための営業に回るか,弟子を束ねて会社組織のようなものを築き上げ,トップに君臨する経営者としてアイデンティティを示すのか,それは人や分野によって様々だけれど,いずれにしても,もう研究者ではなくなっていることは確かだ。学会や協会などから業績を評価されて,表彰されるようなことはあっても,いくら新聞で取り上げられ有名になっても,もう現役の研究者ではない。このあたりは,例は悪いが,軍隊でもスポーツでも同じだ。載っているのは,例外なく最前線の若者なのだ。本を書いたり,テレビでコメンテータとして登場するのも,かつて研究者だった人。現役の研究者には,そんなことをする暇はない。自分の前にある問題と戦うことで精一杯だし,それが最も楽しいから,誰もその場から離れようとしない。

森博嗣 (2010). 喜嶋先生の静かな世界 講談社 pp.196-197

思考≒運動

 考えるという行為は,運動に似ている。ランニングすることと,思考することは,躰の使っている部位が違うだけで,あとは同じだ。ランニングの場合,目的地があるわけではない。目的地があると,それは労働に近いものになる。同じように,考えて求められる答が定まっているものは,明らかに労働だ。数学の問題を解くのも,競技として捉えればスポーツといえるけれど,やはり答が決まっているから,ある種の労働といえる。頭脳労働という言葉があるではないか。頭脳労働というのは,計算機に任せることが可能な仕事のことだと僕は思う。しかし,研究における思考は,こういった労働ではないから,いくら計算機が発達しても,真似ができないだろう。筋道がなく,方法も定かではなく,それどころか答が存在するのかどうか,解くことができるのかも保証がない,それが研究における思考である。

森博嗣 (2010). 喜嶋先生の静かな世界 講談社 pp.194-195

研究のあとに開発

 「研究っていうのは,だいたい社会における技術的発展の,そのまえの時代に終わっている。理論分野は特にそうだ。研究のあとに開発が進む。技術が発展しているときには,研究は止まっている。開発に資金と人力が集中してしまうからね」

森博嗣 (2010). 喜嶋先生の静かな世界 講談社 pp.190

経験すればいいのか

 こういう世界にはいられない,という人たちが,少しずつ去っていく。そんな光景を,僕は幾度も見た。恵まれた人の場合は,少しだけ関係のある分野の研究所か,メーカの開発部に就職口を見つけて大学を去っていく。学科の歓送会では,出ていく人は「今までの経験を活かして」と挨拶をする。たまたま横に立っていた喜嶋先生が,僕に囁いたことがある。
 「そんな経験のためにここにいたのか」
 喜嶋先生なりのジョークかもしれないから,僕は先生に微笑んで返したけれど,じっくりとその言葉を考えてみると,こんなに凄い言葉,こんなに怖い言葉はない。
 良い経験になった,という言葉で,人はなんでも肯定してしまうけれど,人間って,経験するために生きているのだろうか。今,僕がやっていることは,ただ経験すれば良いだけのものなんだろうか。

森博嗣 (2010). 喜嶋先生の静かな世界 講談社 pp.152

世界初の結果を導く行為

 つまり,「研究」というのは,まだ世界で誰もやっていないことを考えて,世界初の結果を導く行為……,喜嶋先生のようにもっと劇的な表現をすれば,人間の知恵の領域を広げる行為なのだ。先生はこうもおっしゃった。
 「既にあるものを知ることも,理解することも,研究ではない。研究とは,今はないものを知ること,理解することだ。それを実現するための手がかりは,自分の発想しかない」
 「論文」には,世界初の知見が記されていなければならない。それがない場合には,それは論文ではないし,研究は失敗したことになる。もちろん,世界初の知見であっても,ピンからキリまである。それを評価するには,実はその発見があった時点では無理かもしれない。初めてのことの価値は,基準がないからわからない場合が多いのだ。特に,それが新しい領域における最初の一歩の場合にはそうなる可能性が高い。それでも,もちろん手応えというものがある。これは凄い発見なのか,それとも些細な確認に過ぎないのか,ということはだいたいわかるだろう。それを研究した本人だったらなおさらである。

森博嗣 (2010). 喜嶋先生の静かな世界 講談社 pp.100

課題を探す困難さ

 これは,すべてのことにいえると思う。小学校から高校,そして大学の3年生まで,とにかく,課題というのは常に与えられた。僕たちは目の前にあるものに取り組めば良かった。そのときには,気づかなかったけれど,それは本当に簡単なことなのだ。テーブルに並んだ料理を食べるくらい簡単だ。でも,その問題を見つけること,取り組む課題を探すことは,それよりもずっと難しい。特に,簡単にできるものを選ぶ,といった選択ではなく,自分の役に立つものを見つけようとすると,無駄にならないよう妥協しなくなる分,さらにハードルが上がる。でも,研究という行為の本当の苦労はこういった作業にある,ということも,その後,少しずつだけれどわかってきた。喜嶋先生はこのとき,僕たちにそれを教えようとしたのだろう。

森博嗣 (2010). 喜嶋先生の静かな世界 講談社 pp.92-93

神様はここに

 僕が知っている良い大人というのは,にこにことして僕の言うことを聞いて頷いてくれる,褒めてくれる,でも,結局は僕の言葉の意味するところを理解しているのではなくて,笑顔で聞き流しているだけなのだ。誰も,僕の疑問には答えてくれなかった。それはもう子どもの時からずっとずっとそうだったのだ。唯一の例外は,図書館の本だけ。僕にとっては,本だけが本当の「大人」だった。それらは,生きているかどうかもわからない人たちが書いたものだったから,雲の上の神様と同じ感覚だ。
 だから,神様たちはここにいたのか,というふに,僕は大学という場をイメージしたのだと思う。世の中は捨てたものではない,とやっと信じることができた。20代の前半でこのことを知ったのは,本当に「救い」だった。知らないまま社会に出ていたら,僕はずっと人間の価値がわからないまま生きていくことになっただろう。心のどこかでは必ず人を疑っている人間になってしまっただろう。大袈裟ではなく,この歳になってやっと信じられるものを見つけた気がしたのだ。

森博嗣 (2010). 喜嶋先生の静かな世界 講談社 pp.70

何をしているのか?

 きっと,ここだけではない。僕がまだ行ったことのない研究室や実験室でも,大勢がこんなふうになにかに打ち込んでいるのではないだろうか。
 みんな,いったい何をしているのだ?
 調べているのか,試しているのか,探しているのか?
 少なくともそれは,教室で先生の話を聴き,試験でそこそこ無難な解答を書いて,単位が取れればそれで万事OK,という世界とは違っている。今まで見てきた学校というのは,全部このパターンだった。想像だけれど,会社でも工場でも,だいたいの職場は,みんな同じだろう。労働というのは,そういうものだ。いわれたとおりノルマをこなす。時間が過ぎたら終了。そこで,解放感を味わう。そういう世界だ。
 でも,ここには,大学には,僕がまだ知らない世界がある。

森博嗣 (2010). 喜嶋先生の静かな世界 講談社 pp.68

試験について

 試験というのは,非常に短時間で,その人間の頭脳の能力を試す手段の1つだ。もし,試す人間が少数ならば,質問をしたり,考えをきいたりすれば良い。でも,大勢を一度に相手にする場合には,同条件で効率の良い方法を採らざるをえない。小論文や応用問題のような方法も存在するけれど,1問に消費される時間が長すぎるから,僅か数問しか出題できないし,そうなると,とても狭い範囲の能力しか試せない。これでは運不運,不公平が出てしまう。広範囲の能力を短時間で公平に試し,しかも短時間で評価,採点ができる方式となると,これはもう,どうしても選択問題に近いものになる。マークシート方式が増えたのはこのためだ。

森博嗣 (2010). 喜嶋先生の静かな世界 講談社 pp.48-49

霊媒に気をつけよ

 超感覚的知覚(ESP)や心霊現象については?
 1人1人がそれぞれに心霊現象を体験することはあると思う——それにESPというものも存在すると信じている。しかし,霊媒に金を払ってそれをやってもらうというのであれば——気をつけなさい!
 死者との交信については,わたしはぜったいに避けるように申し上げたい——そう思うことも,その可能性を考えることでさえ,やめるように申し上げる。すくなくともプロの霊媒を使うのはおやめなさい。死者と交信しようとしてわが身の破滅を招いた人は数知れない。それはいみじくもわたしの体験談が悲しく物語っている。
 現実の世界にはあなたを魅了し,心を震わせ,向上させてくれるものがたくさんある。なのになぜ霊媒のキャビネットの暗闇のなかにのめりこむことがあるだろう?そこでは霊たちが秘密を覗いたり音声を使ったりする一方で,人間の愚かさが人間の貪欲さの餌食になっているというのに?

M.ラマー・キーン 皆神龍太郎(監修) 村上和久(訳) (2001). サイキック・マフィア 太田出版 pp.206

人々は嘘を選ぶ

 わたしは打ちのめされた。人々に嘘を信じこませるのがいかに簡単かは知っていたが,同じ人々が,嘘をつきつけられたとき,真実よりも嘘を選ぶとは予想していなかった。
 評議会のメンバーの1人で,教会に加わるためにわざわざオハイオ州から引っ越してきて,金や資産をおしみなく寄付していたジョージ・マザーンは,ラウールに「きみは自分がわたしをだましていたというつもりかね?」とたずね,その答を得た。「そのとおりです,ジョージ」しかし,このあとも彼はラウールの隣の席に座りつづけ,いまでもなお熱心に心霊主義を信じている。
 狂信者症候群は,科学的に調査する価値がある。あらゆる道理を越えて,人間に信じがたいことを信じさせるものはいったいなにか?ほかの面ではまったく正気の人間が,幻想やペテンに夢中になるがあまり,真実が白日のもとにさらされたあともなお,それにしがみつこうとするのはなぜか——しかも,あんなに頑固に?
 狂信者症候群は,偽の霊媒にとって最大の味方である。いくら論理をつくしたところで,嘘とわかっていながら信じる気持ちを打ち砕くことはできない。

M.ラマー・キーン 皆神龍太郎(監修) 村上和久(訳) (2001). サイキック・マフィア 太田出版 pp.191

心理学者との対決

 ときにはプロのゴーストハンターである超心理学者との知恵くらべも楽しいものだったろう。わたしたちが自称心理学者——その肩書きがどのくらい正確かは怪しいものだ——と対決した唯一の体験は,1人の若者が教会にやってきて,自分はESPの権威であるデューク大学のJ・B・ライン博士と協力している者だと名乗ったときにはじまった。その若者はわたしたちのトランペット交霊会についての報告に興味をいだいたと話,トランペットに特殊な粉をつけた状態で実験をさせてくれないかと提案してきた(もちろん,わたしたちが自分でトランペットを操作していれば,指にはっきりとした証拠が残るという寸法だ)。
 まずわたしたちが最初にやったことは,ライン博士と連絡を取ることだった。すると,博士は自称協力者が名乗った名前にまったく心当たりがないことが判明した。しかし,ラウールとわたしは,科学者気取りの若造をからかうのもおもしろいかもしれないと判断した。わたしたちは「実験」交霊会を行なうことに同意した。
 交霊会がはじまるまえに,この和解調査者は,関心するくらいの熱意をこめて,徹底的に交霊室を調べまわし,室内には彼とわたししかいないこと,トランペットは1つしかないことを納得した。それから,トランペットに粉をふりかけはじめた。やがて,照明が消された。
 すぐにトランペットがいつもの旋回をはじめ,霊の声が聞こえてきた。若い調査者がショックと戸惑いを見せたのは,霊たちが彼の嘘をちゃんと見抜いているぞといったときだった——彼がライン博士と協力したことはいまも昔も一度もないことを。それから霊たちは,この「実験」の結果は心霊主義が正しいことを実証するだろうと保証した。
 明かりがついたあとで,駆け出しの超心理学者はトランペットとわたしの手を慎重に調べた。トランペットについた粉はまったく乱れていなかったし,指にも汚れはついていなかった。
 若者は震えあがっていた。自分がじつはなにかの高等な力を相手に無謀なことをしてしまったのではないかと恐れているらしかった。
 わたしはどうやってトリックを実行したのか?
 たいしたことではない。わたしはラウールやほかの共犯者の助けなしに,1人でやってのけた。わたしに必要だったのは,粉をふったトランペット以外のもう1つのトランペット,またはその代用になるものだった。そこで,わたしは交霊室に入るまえに,柔らかい大きな厚紙を片足のまわりに巻きつけ,靴下のゴムに突っこんで固定した。
 そのあと,交霊室が暗くなってから,厚紙で即席のメガホンを作ったのである。
 もしかしたら,あの熱心な若い調査者は,自分の実験の成功についてちゃんとした超心理学雑誌に専門的なレポートを書いているかもしれない。

M.ラマー・キーン 皆神龍太郎(監修) 村上和久(訳) (2001). サイキック・マフィア 太田出版 pp.132-133

キャビネット係

 通常は,どんな物質化交霊会にも「キャビネット係」がいる。これは実際には霊媒のボディーガードである。心霊主義では,キャビネット係の役目は,エクトプラズムをつかもうとして不運な霊媒に重症をおわせ,悪い時には死に追いやるかもしれない悪意ある侵入者から,霊媒の身を守ることだと説明している。(忠実な信者には,心ない悪者にエクトプラズムをつかまれて内出血を起こし,床の上でのたうちまわっている霊媒についての痛ましい話が語られていた。公式の教義では,エクトプラズムにみだりに触れると,霊媒の身体にものすごい反動が起きることになっていた——巨大なゴム輪で腸を強打されるようなものである。)とにかく,キャビネット係は,エクトプラズムに干渉しようという気を起させないためにそこにいるのである。
 キャビネット係はたいてい女性で,しっかり折り畳んだ長さ100フィート(約30メートル)のシフォン布も入るような大きなハンドバックを持っている。この中身が電気が消えたあとキャビネットのなかで霊媒に手渡されるのである。
 方法はほかにもある。一般の人は,シフォンがどれほど圧縮できるか理解していない。膨大な量がパンツのなかに隠せるくらい小さな玉に丸まってしまうのである。あるときなどは,下着のなかまでボディーチェックを受けて,結局隠し持ったエクトプラズムが見つからなかったことがある。
 さらにもっと見つかりづらい隠しかたもある。何人かの霊媒は,身体の穴を利用している。ある女性の霊媒は,「利口ぶった調査者」を本気で面食らわせたいときには,シフォンをコンドームのなかに詰めて膣に隠すテクニックを使うのだと話してくれた。

M.ラマー・キーン 皆神龍太郎(監修) 村上和久(訳) (2001). サイキック・マフィア 太田出版 pp.123-124

他人を知ること

 交霊会の列席者についての情報を集めるために,わたしたちはさまざまな手段を使ったが,そのすべてがいかがわしいものだった。暗くした交霊室でハンドバックや財布をくすねたり,ポケットを探ったりして,社会保障番号や銀行通帳といったデータを探りだしていたことはすでに触れた。わたしたちはさらに,個人やグループの交霊会に出たいと思う人間は全員その前に教会の公開礼拝に3回出席しなければならない,というルールを作った。そうすれば,希望者たちのことを観察できるうえ,彼らが書いた質問カードから個人的な情報を集めることができるからである。それぞれの質問カードには,上のところにこういうスタンプが押してあった。「この質問カードは,霊となった1人または2人の愛する人に宛てて,その人たちの名字と名前を記入し,1つまたは2つの質問を書いて,あなたのフルネームでサインしてください」こうして書かれた1つの質問カードは,誰かについてのファイルを作成するためにじゅうぶんな手がかりをわたしたちに与えてくれた。
 内陣のステージの両側には,霊媒だけが使う小さな部屋が1つずつあった。この部屋にはマジックミラーがついていた。わたしたちはこれを通して礼拝前に会衆を見ては,誰がきているか確かめ,霊からのメッセージをそれにあわせて用意していた。誰かが実証的なメッセージを受け取ったときは,その人間は懐疑的な連中に対していつでもこういうことができたし,じっさいなんどもその説明は使われていた。「霊媒は礼拝の前にわたしの顔を見てさえいなかったんだ。もしメッセージをでっちあげるのに事前の調査が必要だとしたら,わたし宛てのメッセージを用意しなければならないことがどうしてわかったんだ?」わたしたちは,他人が想像する以上に人々のことを知るように努めていた。

M.ラマー・キーン 皆神龍太郎(監修) 村上和久(訳) (2001). サイキック・マフィア 太田出版 pp.118-119

交霊室の重要性

 心霊主義から交霊室を取ってしまえば,なんの変哲もないただの宗教に落ちぶれてしまう。この暗室,見たこともない奇跡が起きる謎の子宮は,バプテスト派にとっての浸礼,安息日再臨派にとっても安息日,伝統的なローマ・カトリック教徒にとってのマリア崇拝のように,心霊主義者にとっては切っても切り離せない存在なのである。まさに心臓部,物事の核心なのだ。
 そして,婚姻や法律問題,健康問題といった人生のさまざまな問題にわたしの霊の助言を待っていた何百という人々が,現世における自己の存在と来世における存在への希望を,ただのマジシャンが使うようなトリックの数々の上に築き上げたのである。

M.ラマー・キーン 皆神龍太郎(監修) 村上和久(訳) (2001). サイキック・マフィア 太田出版 pp.118

寄付依頼は朝!

 ファンからの経済的な寄附を増やす方法は多くの霊媒にとっておなじみのものだが,わたしの知っている1人の霊媒は,これをとりわけよく利用した。朝うんと早い時間に列席者に電話をかけ,眠りからひっぱりだすのが彼のいつもの手だった。(こういう時間には,とくに頭が申し出を受け入れやすいものだ。)霊媒は妹の指導霊だと名乗り,そのあとに個人的な指示がつづく。この指示がしばしば,もっと霊媒に気前よくすることにつながるのである。
 こうして生徒の霊的な進化を霊媒の経済的向上が促進される。すべて電話1本で。
 冗談ではなく,このテクニックは数多くの霊媒のポケットをドル札で潤わせる効果があった。

M.ラマー・キーン 皆神龍太郎(監修) 村上和久(訳) (2001). サイキック・マフィア 太田出版 pp.107

土地を手に入れる方法

 あるときラウールをわたしは,田舎に教会の牧場用の土地を購入しようと思い立ち,不動産仲介業者を呼んで,売りにでていたある地所をいっしょに見にいった。わたしたちが案内されたのは,おおいに有望そうな場所だった。不動産仲介業者は「わたしはミニー・バレットさんの遺産管財人からここの販売を委託されているのです」といった。
 わたしは全身がぞくっとした。偶然にもミニー・バレットは生前わたしたちの教会のメンバーで,彼女の家族は依然としてメンバーだった。しかし,わたしたちは彼女が広大な地所を所有していたことは知らなかった。
 彼女の家族が出ていたつぎの交霊会で,ミニーの霊が呼びかけ,遺産相続人たちに40エーカーの土地を教会に寄付しなさいと告げた。そして,わたしたちはそれを手に入れたのである!
 わたしたちは,まず最初にミニーの霊があの不動産仲介業者に連絡を取るようわたしたちに強く勧めたことにした。その業者はたしかにわたしたちが最初に彼に電話していたことを認めた。偶然と策略をミックスしたこの作戦のおかげで,地所がわたしたちのものになっただけでなく,仲介業者に払う10パーセントの手数料も家族が負担しなければならなくなったのである!

M.ラマー・キーン 皆神龍太郎(監修) 村上和久(訳) (2001). サイキック・マフィア 太田出版 pp.88

サクラを使うテクニック

 懐疑的な見かたを封じるもう1つの効果的な手段が,「サクラ」を使うことだ。雇われて礼拝や交霊会に顔を出し,露骨にイカサマの証拠を暴こうとしてみせる人間のことである。
 ときにわたしたちは,この侵入者に会の進行をはっきり口に出して抗議させ,わたしたちをイカサマ師だと糾弾させることもある。ときには,もっとさりげなく,サクラに霊視する質問カードを書かせたあと,それを霊媒に渡す籠のなかに入れたくない素振りをさせる。わたしたちは,その質問カードをサクラのポケットのなかにしまわせ,もちろんそのあと,それに触れずに透視して,サクラの質問に答えるのである。
 場合によっては,その見知らぬ人間の懐疑的な見かたに理解を示し,彼を許して,すごすごと後悔顔で帰らせることもある。そうでなければ,冒涜的な言葉の廉で彼を怒鳴りつけ,教会から立ち去って2度と戻ってくるなと命令する。
 アル中は手先としてとくに役に立った。わずかな金で働いたし,もしあとになってわたしたちのことをたれこもうとしても,アル中のいうことなど誰が信じるだろうか?

M.ラマー・キーン 皆神龍太郎(監修) 村上和久(訳) (2001). サイキック・マフィア 太田出版 pp.84-85

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