忍者ブログ

I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

倫理的に考えると

 これらは倫理的にむずかしい問題だが,まずはスポーツマンにもそうでない人びとにも同じように有用な強化について考えてみよう。たとえば知能を高める薬だ。現在のところ,それは仮定にすぎない(いまのところそのようなものは存在しない)が,倫理的問題を考える手がかりにはなる。
 おそらく留意すべきなのは,われわれはふだん教育制度によって知能を伸ばそうとしている点だ.哲学者ジョン・ハリスはこう指摘している。政治家がカリキュラムを練り直して平均学業成績を5パーセント伸ばしたとしたら,彼は英雄と呼ばれるだろう。では,まったく同じ結果を遺伝子操作でめざしたらどうだろうか?大統領生命倫理評議会の答えはこうだ——「人工的」手段を使って,そのほかの点において望ましい目的を達成するのは,どこか好ましくないという。
 べつの例を挙げることで,この反対意見が信頼できるものなのか確かめられる。カリフォルニア工科大学の科学者たちがガンにたいする抵抗力を遺伝的に操作しようとしていることは,すでに紹介した。手段が好ましくないからという理由で,この研究を禁止すべきだろうか?ガンに苦しむ人びとに,この「人工的」治療法の恩恵を受ける機会を与えずにおくべきなのだろうか?
 倫理的保守派がこの問いに「イエス」と言うのなら,その立場は狂っているとしか思えない。治療法がある意味「人工的」だからというだけで,ひどい苦痛に苛まれている人たちを放置していいはずがない。重要なのは目的で,手段ではないはずだ。だが遺伝子操作によるガンの治療法についてそれが当てはまるとしたら,たとえば知能の向上や長寿化といった望ましい目的につながるほかの遺伝子工学的手法にも,それが当てはまらないわけがない。
 保守派はたいてい,理由を変えてこの議論に応じる。治療と強化には倫理的なちがいがあると主張する。前者——たとえばガンの治療法——は患者を「正常に機能する状態」に戻すが,後者——たとえば知能を高める遺伝子療法——は個人を「正常をこえた状態」にするというわけだ。
 しかし,この区別はややあやふやだ。悲しいかな,人間がガンに対して脆弱なのはまったく当たり前で,だからこそ科学者たちは治療法を見つけたがっている。体調不良や病気は,人間の状態の正常な側面だし,それは昔から変わらない。加えて,もっと広い視野で見れば,能力を高める理由は,病気を治す理由とつながっているはずだ。どちらも,より良い,もっと充実した生活を送れるからである。

マシュー・サイド 山形浩生・守岡桜(訳) (2010). 非才!:あなたの子どもを勝者にする成功の科学 柏書房 pp.267-269
PR

共通点があるだけで

 2003年に2人のアメリカ人心理学者,グレッグ・ウォルトンとジェフリー・コーエンが興味深い実験を考案した。イェール大学学部生の一団に,解くことができない数学の問題を与えたのだ.しかけが1つ施してあった。前もって学生たちには,かつてイェール大学で数学を学んだネイサン・ジャクソンという人物が書いたレポートを読むように言いわたしてあった。表向きは数学科について若干の予備知識を与えるという口実だったが,じつはこれが研究者2人の策略だった。
 じつはジャクソンというのは架空の学生で,じっさいにレポートを書いたのはウォルトンとコーエンだった。「ジャクソン」はレポートのなかで,どんな仕事に就くべきかわからずに大学に来て,数学に興味をもち,現在ではある大学で数学を教えているという経歴を語っていた。レポートのなかほどには,ジャクソンの個人情報を一部記したコマがあった。年齢,出身地,学歴,誕生日。
 さて,うまいのはここからだ。半分の学生については,ジャクソンの誕生日にはその学生じしんと同じに変えてあった。残りの半分の学生には変えていないものがわたされていた。「数学に長けた人間と誕生日が同じ,というなんの関係もないことが,動機を刺激するかどうか調べてみたかったのです」と,ウォルトン。学生たちはそのレポートを読んだうえで難問を解くように求められたのだ。
 ウォルトンとコーエンが驚いたことに,ジャクソンと同じ誕生日の学生たちの動機水準は少々上がったり,はね上がったりしたどころではない。激増したのだ。誕生日が同じ学生たちは,そうでない学生たちに比べて65パーセントも長く解けない難問に取り組み続けた。また,数学にたいしてもかなり積極的な態度を見せ,じしんの能力をより楽観的にとらえていた。はっきりさせておくと,学生たちはジャクソンのレポートを読むまで,数学に取り組む姿勢はみな同じだった。

マシュー・サイド 山形浩生・守岡桜(訳) (2010). 非才!:あなたの子どもを勝者にする成功の科学 柏書房 pp.130-131

ひらめきは高潮

 こういったパラダイムシフトはどこから生まれるか?揺ぎないように見受けられる制約をのりこえて成績を変えてしまうような,こうした創造的跳躍はいかにしてあらわれるのか?アイザック・ニュートンの怪しげな逸話(りんごが頭にぶつかって重力の理論を思いついたという例のあれだ)を受けて,それが青天の霹靂のように突然ひらめくのだ——でたらめで気まぐれでまったく説明しがたいものなのだ——とつい考えてしまいがちだろう。たしかに考えてみれば,ひらめきの瞬間というのは,非常に神秘的なところがあるのだ。
 だが念入りな研究の結果,創造的なイノベーションはかなり一貫したパターンをたどることがわかった。傑出性と同じで,目的性訓練の苦難から生まれるのだ.エキスパートは,自分の選んだ分野にとても長いことひたっているために,創造的なエネルギーが充満するとでも言ったらいいだろうか。べつの言い方をすれば,ひらめきの瞬間は青天の霹靂ではなく,専門分野に深く没頭したあとに湧きおこった高潮なのだ。

マシュー・サイド 山形浩生・守岡桜(訳) (2010). 非才!:あなたの子どもを勝者にする成功の科学 柏書房 pp.109

これでは学べない

 ここで,ふつうの人びとの生活について考えてみよう。わたしの母は長年秘書をしていて,秘書になる前にタイピングを習った。数か月の練習で,1分に70単語をタイプできるようになったが,そこで壁にぶつかり,秘書をしているあいだにそれ以上伸びることはなかった。理由は単純だ。このスピードが仕事にありつける水準で,ひとたび働きはじめてしまうと,上達することが大事であるとは思えなくなったからだ。タイプしているときは,べつのことを考えていた。
 これがほとんどの人のやり方だ。自動車の運転などといった新しい課題を習うときは,技術を身につけるために集中する。最初は時間がかかるしおぼつかないし,動作が意識的に制御される。だがなじむにつれて技術は潜在記憶に取り入れられ,あまり考えなくなってしまう。ハンドルを握ってほかのことに関心を向け,運転する。これが心理学者の言う「自動性」だ。

マシュー・サイド 山形浩生・守岡桜(訳) (2010). 非才!:あなたの子どもを勝者にする成功の科学 柏書房 pp.105-106

目的性訓練が必要

 1990年代に,フィギュアスケートの実体をよく浮かび上がらせる研究がおこなわれた。一流スケート選手と二流以下のスケート選手では,遺伝子にも性格にも家庭環境にも大きなちがいは見られなかった。ちがいがあったのは練習の種類だ。すぐれたスケート選手たちはつねに現在の能力をこえるジャンプを試みるが,ほかのスケート選手たちはそれをやらない。
 注目してほしいのは,一流のスケート選手がより難易度の高いジャンプに取り組んでいるだけではないことだ.すぐれた選手にはどのみちむずかしい難易度の高いジャンプが求められる。肝心なのは,一流スケート選手が自分のすぐれた技量から見て,もっと難易度の高いジャンプに挑戦することだ.結論は直感にそぐわないものなのだが,事実を浮き彫りにしてくれる。つまり,一流のスケート選手は練習のなかで,もっと多く転んでいるのだ。
 目的性訓練とは,少しばかり力がおよばなくて実現しきれない目標をめざしてはげむこと。現在の限界をこえる課題に取り組んで,くり返し達成に失敗することだ。傑出とは,快適な領域から踏み出し,努力の精神をもってトレーニングにはげみ,艱難辛苦の必然性を受け入れることにかかっている。じっさい,進歩は必然的な失敗の上に築かれる。これはプロのパフォーマンスにかんするもっとも重要なパラドックスだ。

マシュー・サイド 山形浩生・守岡桜(訳) (2010). 非才!:あなたの子どもを勝者にする成功の科学 柏書房 pp.94-95

手が届かない程度の目標

 あらためて述べておこう。世界に通用する水準のパフォーマンスは,少しばかり手が届かないところにある目標に向けて,そのギャップの埋め方をはっきりと意識して努力することで得られる。やがて,たえまないくり返しと深い集中をもってギャップが埋められ,そしてまたほんの少し手が届かない新たな目標がふたたび設定されるのだ。

マシュー・サイド 山形浩生・守岡桜(訳) (2010). 非才!:あなたの子どもを勝者にする成功の科学 柏書房 pp.92

「普通の人」の姿

 自動車を運転するとき,なにが起こるのだろうか?たしかに多くの時間を運転につぎこんでいるが,それは知識の獲得につながっているだろうか?懸命に上達しようと努めているわけでもない。それどころか,ほかのことを考えている。夕食はなんにしようか考えたり,同乗者には話しかけたり,ラジオを聴きながらハンドルにかけた指でリズムをとったりしている。実質的には自動操縦で運転しているのだ。
 極端な例のように聞こえるかもしれないが,これは驚くほど多くの人びとに当てはまる(これほどひどくないにせよ,ちがいはほんのわずかだ)。仕事をこなしていても——いくぶん,あるいはすっかり——うわの空になっていることがしばしばある。かたちだけやっているのだ。だから(多数の研究が示すように)多くの活動では,かけた時間の長さと腕前の関係がごく弱くなっている。深い集中をともなわなければ,ただの経験はすぐれた技量に変わらないのだ。

マシュー・サイド 山形浩生・守岡桜(訳) (2010). 非才!:あなたの子どもを勝者にする成功の科学 柏書房 pp.87

比べる相手を間違えている

 神童にみんなが驚くのは,彼らを——同じ時間をつぎこんで練習してきたほかの演奏者ではなく——人生を同じかたちで費やしていない,ほかの同年代の小人達と比べてしまうからだ。本質的なポイントをはずした背景のなかで彼らの技能を評価するものだから,彼らが奇跡の才能をもっていると勘違いしてしまうのだ。神童たちの小さな体や愛くるしい顔を目にすると,大人になってもほとんどの人が積み重ねられないほどの練習を経て,その頭蓋骨のなかで脳がつくりあげられて——知識が深まって——いることを忘れてしまう。6歳のモーツァルトを同じ年齢の子どもと比べずに,3500時間の練習を積んだ音楽家と比べていれば,まったく並はずれているようには見受けられなかっただろう。

マシュー・サイド 山形浩生・守岡桜(訳) (2010). 非才!:あなたの子どもを勝者にする成功の科学 柏書房 pp.65

練習の賜物

 同じことがスポーツでも言える。1900年のパリオリンピックで男子100メートル層の優勝者が11秒という記録をたたき出したとき,それは奇跡と言われた。今日では,そんなタイムでは高校陸上の全国決勝にすら残れない。1924年のパリオリンピックでは,飛び込みの2回転宙返りは危険すぎるとして,ほとんど禁止されそうになった。それがいまやだれでもやる技になった。1896年のアテネオリンピックのマラソン記録は,いまやボストンマラソンの参加登録の足切りタイムより数分速いものでしかなく,何千人ものアマチュアが楽々とクリアできる。
 学問においても,水準は上がるいっぽうだ。13世紀イギリスの学者ロジャー・ベーコンは,数学をマスターするには30年から40年かけないと無理だ,と論じた。ところがいまや,ほとんどあらゆる大学生が解析学まで学ぶようになった。ほかにもいろいろ例はある。
 ここでわたしが言いたいのは,こうした水準の向上は人びとの才能が高まったから起きているのではないということだ。ダーウィン的な進化はそんな短時間で生じるものではない。したがってそれは,人びとがもっと長時間,身を入れて(プロ根性に突き動かされて)うまく練習しているから生じた結果にちがいない。進歩を引き起こしているのは,練習の質と量であり,遺伝子ではない。そして社会がそうなら,個人にも同じことが当てはまると認めてもいいのでは?

マシュー・サイド 山形浩生・守岡桜(訳) (2010). 非才!:あなたの子どもを勝者にする成功の科学 柏書房 pp.20

傑出した技能の原因

 1991年にフロリダ州立大学の心理学者アンダース・エリクソンとその同僚2人が,傑出した技能の原因を調べる史上もっとも徹底した調査を実施した。
 被験者——ドイツの高名な西ベルリン音楽アカデミーのバイオリニストたち——は3つの集団に分けられた。最初のグループは,傑出した学生たちのグループだ。国際的なソリスト(独奏者)になることが期待され,音楽演奏の頂点をきわめた少年少女たち。すばらしい才能のもち主,特別な音楽の遺伝子をそなえて生まれてきた幸運な若者とされる人びとだ。
 2番目のグループは,きわめて優秀だがトップになれるほどではない生徒たち。世界最高のオーケストラで演奏することになるだろうが,スターのソリストになれるとまでは期待されていなかった。そして最後はいちばん能力の低い生徒のグループ。音楽の先生になりたくて勉強しているティーンエージャーたちで,入学基準はほかのグループの生徒に比べるとはるかに緩い。
 これら3グループの能力水準は,教授たちの評価にもとづくもので,コンクールなどでの成績といった客観的な指標にも裏づけられている。
 さんざん苦労しておこなったインタビューの結果,エリクソンはどのグループの生徒も経歴は驚くほど似通っており,系統的なちがいはまったくないことをつきとめた。生徒たちが音楽の練習をはじめたのはみな8歳くらいで,そのころから正式なレッスンを受けている。最初に音楽家になろうと思ったのは15歳になる直前くらい。教わった音楽教師の数は平均で4.1人。バイオリン以外に学んだ楽器の数は1.8。
 だが,このグループのあいだで1つだけ,すさまじく予想外にちがっているものがあった。そのちがいがあまりに大きくて,エリクソンたちにしてみれば,まるで飛び出してくるかのようだった——それは,彼らがまじめに練習してきた累計時間だ。
 20歳になるまでに,最高のバイオリニストたちは平均1万時間の練習を積んでいた。これは良いバイオリニストたちより2000時間も多く,音楽教師になりたいバイオリニストたちより6000時間も多い。この差は統計的に有意どころか,すさまじいちがいだ。最高の演奏家たちは,最高の演奏家になるための作業に,何千時間もよけいに費やしていたわけだ。
 だが,それだけではない。エリクソンはまた,このパターンに例外はないことを発見した。辛抱強い練習なしにエリート集団に入れた生徒は1人もいなかったし,死ぬほど練習してトップ集団に入れなかった生徒もまったくなし。最高の生徒とそのほかの生徒を分かつ要因は,目的性のある練習だけなのだ。

マシュー・サイド 山形浩生・守岡桜(訳) (2010). 非才!:あなたの子どもを勝者にする成功の科学 柏書房 pp.16-17

何と言うか?

 9歳のエリザベスは,初めての体操競技会に向かうところだった。すらりとして,しなやかで,エネルギッシュなからだは体操選手にぴったりだったし,本人も体操が大好きだった。もちろん,競技に出場することにちょっと不安はあったが,体操は得意なので,きっとうまくできると思っていた。入賞してリボンをもらったら部屋のどこに飾ろうかしら,なんてことまで考えていた。
 最初の種目は床運動で,エリザベスは1番目に演技した。なかなかすばらしい演技だったが,途中で採点方法が変わったりして,入賞をのがしてしまった。他の種目でも健闘したが入賞には手が届かず,1日を終えてリボンをひとつももらえなかったエリザベスはすっかり落ちこんでしまった。
 あなたがエリザベスの父(母)親だったどうするだろうか。

 (1)お父さんはおまえが一番うまいと思う,と言う。
 (2)おまえがリボンをもらうべきなのに判定がおかしいのだ,と言う。
 (3)体操で勝とうが負けようがたいしたことではない,と慰める。
 (4)おまえには才能があるのだから次はきっと入賞できる,と言う。
 (5)おまえには入賞できるだけの力がなかったのだ,と言う。

 今の社会では,子どもの自尊心を育むことの重要性ばかりが強調され,さかんに子どもを失敗から守りなさいと言われる。そうすれば,そのときは子どもを落ちこませずにすむかもしれないが,長い目で見た場合には弊害が出てくるおそれがある。なぜだろう。
 では,先ほどの5つの反応を,マインドセットの観点からとらえて,そこに潜むメッセージに耳を傾けよう。
 1つめ(お前が一番うまいと思う)は,そもそも本心を偽っている。一番でないことは,あなた自身よくわかっているし,子どもだって知っている。こんな言葉をかけても,挫折から立ち直ることもできなければ,上達することもできない。
 2つめ(判定がおかしい)は,問題を他人のせいにしてしまっている。入賞できなかったのは本人の演技に問題があったからで,審判のせいではない。わが子が,自分の落ち度を他人になすりつける人間になってもいいのだろうか。
 3つめ(体操なんてたいしたことではない)は,少しやってみてうまくできないものは,ばかにしてかかることを教えている。子どもに伝えたいのはそんなメッセージだろうか。
 4つめ(おまえには才能がある)は,この5つの中でもっとも危険なメッセージかもしれない。才能がありさえすれば,おのずと望むものに手が届くのだろうか。今回の競技会で入賞できなかったエリザベスが,どうして次の試合で勝てるだろうか。
 5つめ(入賞できるだけの力がなかった)は,この状況で言うにはあまりに冷酷な言葉のようにも思われる。あなたならそんなふうには言わないのではないだろうか。けれども,しなやかマインドセットのこの父親が娘に言ったのは,そういう趣旨のことだった。
 実際にはこう言ったのだ。「エリザベス,気持ちはわかるよ。入賞めざしてせいいっぱい演技したのにだめだったのだから,そりゃ悔しいよな。でも,おまえにはまだ,それだけの力がなかったんだ。あそこには,おまえよりも長く体操をやっている子や,もっとけんめいにがんばってきた子が大勢いたんだ。本気で勝ちたいと思うなら,それに向かって本気で努力しなくちゃな」

キャロル・S・ドゥエック 今西康子(訳) (2008). 「やればできる!」の研究:能力を開花させるマインドセットの力 草思社 pp.174-176

暗黙のメッセージ

 ほめ方について,もうひとつ付け加えておきたいことがある。子どもに「あら,ずいぶんはやくできたのね!」「まあ,ひとつも間違えなかったじゃない!」と言うと,どのようなメッセージが伝わるだろうか。親はスピードや完璧さを高く評価している,というメッセージである。けれども,スピードや完璧さは,難しいことに挑戦する場合の敵。こういうほめ方をすると,「すばやく完璧に」できれば賢いと思われるのなら,難しいことには手を出すまい」と思うようになる。では,子どもがすばやく完璧に,たとえば数学の問題などを終えたときには何と言えばいいのだろう。ほめずにおいた方がいいのだろうか。そのとおり。そういうとき,私ならこう言う。「あら,簡単すぎたようね。時間をむだにさせちゃったわ。今度はもっと実になるものをやりましょう」

キャロル・S・ドゥエック 今西康子(訳) (2008). 「やればできる!」の研究:能力を開花させるマインドセットの力 草思社 pp.171-172

努力を続けましたとさ

 人間関係は,育む努力をしないかぎり。だめになる一方で,けっして良くなりはしない。まず,お互いの考えや希望を正確に伝えた上で,矛盾する点をはっきりさせ,解決していくことだ。「いつまでも幸せに暮らしましたとさ」ではなく,「いつまでも幸せに暮らす努力を続けましたとさ」というべきだろう。

キャロル・S・ドゥエック 今西康子(訳) (2008). 「やればできる!」の研究:能力を開花させるマインドセットの力 草思社 pp.131

学ぶチャンスを活かす

 この疑問に答えるべく,思春期初期の子どもたち数百人を対象に実験を行なった。まず生徒全員に,非言語式知能検査のかなり難しい問題を10題やらせた。ほとんどの生徒がまずまずの成績。終わった後でほめ言葉をかけた。
 ほめるにあたっては生徒を2つのグループに分け,一方のグループではその子の能力をほめた。「まあ,8問正解よ。よくできたわ。頭がいいのね」といったぐあい。そう言われた子どもたちは,アダム・ゲッテルと同じく,有能というレッテルを貼られたことになる。
 もう一方のグループでは,その子の努力をほめた。「まあ,8問正解よ。よくできたわ。頑張ったのね」といったぐあい。自分には何かすぐれた才能があると思わせないように,問題を解く努力をしたことだけをほめるようにした。
 グループ分けをした時点では,両グループの間に差が出はじめた。懸念されたとおり,能力をほめられた生徒たち(<能力群>と呼ぶことにする)はたちまち,こちこちマインドセットの行動を示すようになったのだ。次に取り組む問題を選ばせると,新しい問題にチャレンジするのを避けて,せっかくの学べるチャンスを逃してしまった。ボロを出して自分の能力が疑われるかもしれないことは,いっさいやりたがらなくなったのである。
 努力をほめられた生徒たち(<努力群>とよぶことにする)は,その9割が,新しい問題にチャレンジする方を選び,学べるチャンスを逃さなかった。

キャロル・S・ドゥエック 今西康子(訳) (2008). 「やればできる!」の研究:能力を開花させるマインドセットの力 草思社 pp.103-104

勉強方法のちがい

 どの学生もよく勉強したが,勉強方法に違いがみられた。大多数の学生がやっているのは,まず教科書と授業ノートを読んで,わかりにくければもう一度読み返し,掃除機さながらに片っ端から丸暗記していく方法である。こちこちマインドセットの学生の勉強法はまさにこれだった。それで良い点が取れないと,化学は苦手だと思いこんでしまう。「やれることはすべてやったんだから」と。
 とんでもない。しなやかマインドセットの学生の勉強法を知ったらびっくりするのではないか。私ですら驚いたのだから。
 しなやかマインドセットの学生は,学習意欲をかきたてる方法を自分で工夫していた。やみくもに丸暗記するのではなく「講義全体のテーマや基本原則をつかむ」努力をし,「ミスしやすいところでは完全にマスターできるまで反復練習」した。試験で良い点を取ることにではなく,しっかりと理解することに目標を置いていた。じつは,これこそが良い成績をとれた理由なのであって,もともと頭が良かったわけでも,予備知識が豊富だったわけでもない。

キャロル・S・ドゥエック 今西康子(訳) (2008). 「やればできる!」の研究:能力を開花させるマインドセットの力 草思社 pp.92-93

「まだ」教えていません

 コロンビア大学のうちの学部では,世界中の入学志願者の中から,毎年6名の大学院生を受け入れている。みんな驚くほど試験の点数が高く,成績はほぼ完璧で,有名教授のべたぼめの推薦状を携えてやってくる。他の一流校からの誘いも受けていたりする秀才ぞろいである。
 ところがたった1日で,自分を別人のように感じはじめる学生がいる。昨日まで自信満々の優等生が,今日はみじめな劣等生。いったいどうしたというのだろう。教授たちの長い出版物リストを見ては「うわあ,自分にはとてもそんなことはできない」。学会で発表する論文を提出したり,助成金申請のための研究計画案を作成している上級生を見ては「うわあ,自分にはとても無理」。試験の点数やA評価の取り方は知っていても,どうすればこんなことができるのかはまだ知らない。学生たちはこの「まだ」という点を忘れているのである。

キャロル・S・ドゥエック 今西康子(訳) (2008). 「やればできる!」の研究:能力を開花させるマインドセットの力 草思社 pp.43

理想のパートナーは

 若者たちに理想のパートナーの人物像を尋ねたところ,次のような答えが返ってきた。
 こちこちマインドセットの若者が理想のパートナーと考えるのは,
  自分をあがめてくれる人
  自分は完璧だと感じさせてくれる人
  自分を尊敬してくれる人
 いいかえると,自分の資質をそのまま温存してくれる人が理想の相手なのである。
 しなやかなマインドセットの若者が望むのは別のタイプだった。彼らにとっての理想のパートナーは,
  こちらの欠点をよくわかっていて,その克服に取り組む手助けをしてくれる人
  もっとすぐれた人間になろうとする意欲をかきたててくれる人
  新しいことを学ぶように励ましてくれる人
 もちろん,あら探しをしたり,自尊心を傷つけたりするような人を望んではいなかったが,自分の成長を促してくれる人を求めていた。自分は完全無欠な人間で,もう学ぶことなどないとは思っていないからだ。

キャロル・S・ドゥエック 今西康子(訳) (2008). 「やればできる!」の研究:能力を開花させるマインドセットの力 草思社 pp.33-34

2つのマインドセット

 自分の能力は石版に刻まれたように固定的で変わらないと信じている人——「こちこちマインドセット」の人——は,自分の能力を繰り返し証明せずにはいられない。知能も,人間的資質も,徳性も一定で変化しえないのだとしたら,とりあえず,人間としてまともであることを示したい。このような基本的な特性に欠陥があるなんて,自分でも思いたくないし,人からも思われたくない。
 教室でも,職場でも,人づきあいの場でも,自分の有能さを示すことばかりに心を奪われている人を私はこれまでおおぜい見てきた。ことあるごとに自分の知的能力や人間的資質を確認せずにはいられない人たち。しくじらずにうまくできるだろうか,突っぱねられやしないか,勝ち組でいられるだろうか,負け犬になりはしないか,といつもびくびくしている。
 それとは違った心の持ちようもある。
 初めに配られた手札だけでプレイしなくてはいけないと思えば,本当は10のワンペアしかなくても,ロイヤルフラッシュがあるかのごとく自分にも他人にも思いこませたくなる。けれども,それを元にして,これからどんどん手札を強くしていけばよいと考えてみたらどうだろう。それこそが,しなやかな心のもち方,つまり,「しなやかマインドセット」なのである。その根底にあるのは,人間の基本的資質は努力しだいで伸ばすことができるという信念だ。もって生まれた才能,適性,興味,気質は一人ひとり異なるが,努力と経験を重ねることで,だれでもみな大きく伸びていけるという信念である。

キャロル・S・ドゥエック 今西康子(訳) (2008). 「やればできる!」の研究:能力を開花させるマインドセットの力 草思社 pp.16-17

生きるために

 多様性と流動性のあるバザールでは,ネガティブな評価を恐れる理由はない。不都合な評価を押しつけられたら,さっさとリセットして自分を高く評価してくれる場所に移っていけばいいだけだ。だからここでは,実名でポジティブ評価を競うのがもっとも合理的な戦略になる。
 一方,いったん伽藍に閉じ込められたら外には出られないのだから,そこでの最適戦略は匿名性の鎧でネガティブな評価を避け,相手に悪評を押しつけることだ。日本人はいまだに強固なムラ社会が残っていて,だからぼくたちは必要以上に他人の目を気にし,空気を読んで周囲に合わせようとする。伽藍の典型である学校では,KY(空気が読めない)はたちまち悪評の標的にされてしまうのだ。
 日本は世界でもっとも自殺率が高く,学校ではいじめによって,会社ではうつ病で,次々とひとが死んでいく。情報革命はネガティブ情報を癌細胞のように増殖させ,伽藍を死臭の漂うおぞましい世界へと変えてしまった。
 ぼくたちは生きるために,伽藍を捨ててバザールへと向かわなくてはならない。

橘玲 (2010). 残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法 幻冬舎 pp.246

バザールへ向かえ

 日本的経営とハッカー・コミュニティは,「評判獲得ゲーム」という同じ原理を持っている。一見奇妙に思えるけれど,これは不思議でもなんでもない。モチベーションという感情も,愛や憎しみと同じように,進化という(文化や時代を超えた)普遍的な原理から生み出されるからだ。
 でも両者には,大きなちがいがある。
 世界から隔離された伽藍(会社)のなかで行なわれる日本式ゲームでは,せっかくの評判も外の世界へは広がっていかない。それに対してバザール(グローバル市場)を舞台としたハッカーたちのゲームでは,評判は国境を越えて流通する通貨のようなものだ(だから,インドの名もないハッカーにシリコンバレー企業からオファーが届く)。
 高度化した知識社会の「スペシャリスト(専門家)」や「クリエイティブクラス」は,市場で高い評価を獲得することによって報酬を得るというゲームをしている。彼らがそれに夢中になるのは,金に取りつかれているからではなく,それが「楽しい」からだ。
 プログラミングにかぎらず,これからさまざまな分野で評判獲得ゲームがグローバル化されていくだろう。仕事はプロジェクト単位になり,目標をクリアすればチームは解散するから,ひとつの場所に何十年も勤めるなどということは想像すらできなくなるにちがいない。そうなれば,会社や大学や役所のようなムラ社会の評価(肩書)に誰も関心を持たなくなる。
 幸福の新しい可能性を見つけたいのなら,どこまでも広がるバザールへと向かおう。うしろを振り返っても,そこには崩れかけた伽藍しかないのだから。

橘玲 (2010). 残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法 幻冬舎 pp.227-228

bitFlyer ビットコインを始めるなら安心・安全な取引所で

Copyright ©  -- I'm Standing on the Shoulders of Giants. --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]