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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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日本的経営そのものから生じる

 米国型の人事制度は地位や職階で業務の分担が決まるから,競争のルールがはっきりしている。頂点を目指すのも,競争から降りるのも本人の自由だ。それに対して上司や部下や同僚たちの評判を獲得しなければ出世できない日本の人事制度は,はるかに過酷な競争を社員に強いる。この仕組みがあるからこそ,日本人はエコノミック・アニマルと呼ばれるほど必死で働いたのだ。
 日本的雇用は,厳しい解雇規制によって制度的に支えられている。だがその代償として,日本のサラリーマンは,どれほど理不尽に思えても,転勤や転属・出向の人事を断ることができない。日本の裁判所は解雇にはきわめて慎重だが,その反面,人事における会社の裁量を大幅に認めている(転勤が不当だと訴えてもほぼ確実に負ける)。解雇を制限している以上,限られた正社員で業務をやりくりするのは当然だとされているのだ。
 ムラ社会的な日本企業では,常にまわりの目を気にしながら曖昧な基準で競争し,大きな成果をあげても金銭的な報酬で報われることはない。会社を辞めると再就職の道は閉ざされているから,過酷なノルマと重圧にひたすら耐えるしかない。「社畜」化は,日本的経営にもともと組み込まれたメカニズムなのだ。
 このようにして,いまや既得権に守られているはずの中高年のサラリーマンが,過労死や自殺で次々と生命を失っていく。この悲惨な現実を前にして,こころあるひとたちは声をからして市場原理主義を非難し,古きよき雇用制度を守ろうとする。しかし皮肉なことに,それによってますます自殺者は増えていく。
 彼らの絶望は,時代に適応できなくなった日本的経営そのものからもたらされているのだ。

橘玲 (2010). 残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法 幻冬舎 pp.226-227
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残ったのは絶望のみ

 日本では90年代後半以降,年間3万人を超える人たちが自殺しており,人口十万人あたりの自殺率は旧ソ連とならんで世界トップクラスだ。その原因は「新自由主義による貧富の異格差の拡大」とされるが,ぼくはずっとこの説明が不満だった。“市場原理主義”の本家であるアメリカの自殺率は,日本の半分以下しかないからだ(日本の自殺率25に対し,アメリカ,カナダ,オーストラリアは10,イギリスは5)。
 だが日本的経営の「神話」から自由になって,“悲劇”の原因がようやく見えてきた。高度成長期のサラリーマンは,昇給や昇進,退職金や企業年金,接待交際費や福利厚生などのフリンジベネフィット(現物給付)によって大嫌いな仕事になんとか耐えていた。ところが「失われた20年」でそうしたポジティブな側面(希望)があらかた失われてしまうと,後には絶望だけしか残らない。このグロテスクな現実こそが,日本的経営の純化した姿なのだ。

橘玲 (2010). 残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法 幻冬舎 pp.225

常識のない信用は自殺行為

 マルチ商法の被害者に決定的に欠けていたのは社会常識だ。預金金利が0.1パーセントの時代に,元本保証で年利36パーセントの投資商品など存在するはずがない。だけどおおくの人は,こうした経済(経済学ではない!)の常識にまったく興味を持たず,楽してお金が儲かることを夢見て漫然と日々を過ごしている。
 社会的な知性の高いひとは,他人を信用する。だけど,社会常識のないままに他人を信用するのは自殺行為だ。
 どこまでもつづくマルチ商法の被害者の群れは,ぼくたちにそのことを教えてくれる。

橘玲 (2010). 残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法 幻冬舎 pp.188

友情のない世界

 友だちのいない世界では,愛情空間は夫婦や親子,恋人単位に最小化し,人間関係はますます濃密で複雑になっていく。ぼくたちはもともと,他人と共感し,他人から大切に扱われることに喜びを感じるようにつくられている。かつてはこうした人間関係はムラ的な共同体に分散されていたけれど,いまではごくかぎられた1人か2人にすべての感情が集中している。
 最近の小説や映画には,自分を中心とする小さな世界を微に入り細をうがって描くものがやたら多い。こうした得意な心象風景がなんの違和感もなく共有されるのは,ぼくたちがみな社会の片隅で,自分だけの小さな世界を守りながらばらばらに暮らしているからだ。
 世の良識あるひとたちは,ひととひととのつながりが薄れてきたことを嘆き,共同体の復権を望んでいる(最近ではこれを「新しい公共」という)。でもぼくは,こうした立場には必ずしも与しない。彼らの大好きな安心社会(ムラ社会)は,多くの人たちに「安心」を提供する代わりに,時にはとても残酷な場所になるからだ。
 政治空間の権力ゲームでは,仲間(友だち)から排除されることは死を意味する。いじめが常に死を強要し(「死ね」はいじめのもうひとつの常套句だ),いじめられっ子がしばしば実際に死を選ぶのは,人類史(というか生物史)的な圧力の凄まじさを示している。友情は,けっしてきれいごとではない。
 それに対して貨幣空間は「友情のない世界」だから,市場の倫理さえ遵守していれば,外見や性格や人種や出自は誰も気にしない。学校でいじめられ,絶望した子どもたちも,社会に出れば貨幣空間のなかに生きる場所を与えられる(そしてしばしば成功する)。これはとても大切なことだ。ぼくにはいじめられた経験はないけれど,学校生活に適応できたとはとてもいえないから,こころからそう思う。
 その一方で,「友情のない世界」がバラ色の未来ではないことも確かだ。そこでは自由と自己責任の原則のもとに,誰もが孤独に生きていかなければならない。愛情も友情も喪失し,お金まで失ってしまえば,ホームレスとなって公演の配食サービスに並ぶしかない。

橘玲 (2010). 残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法 幻冬舎 pp.146-147

政治空間と貨幣空間

 政治空間の基本は,敵を殺して権力を獲得する冷酷なパワーゲームだ。それに対して貨幣空間では,競争しつつも契約を尊重し,相手を信頼するまったく別のゲームが行われている。人間社会に異なるゲームがあるのは,富を獲得する手段に,(1)相手から奪う(権力ゲーム),(2)交易する(お金儲けゲーム)という2つの方法があるからだ。
 政治空間の権力ゲームは複雑で,貨幣空間のお金持ちゲームはシンプルだ。誰だって難しいより簡単なほうがいいから,必然的に貨幣空間が政治空間を侵食していく。この傾向は,中間共同体ではとても顕著だ。
 中間共同体とは,PTAや自治会,会社の同期会のような「他人以上友だち未満」の人間関係の総称だ。日本や欧米先進諸国では,貨幣空間の膨張によってこうした共同体が急速に消滅しつつある。PTA活動や自治会活動は面倒臭いから,お金を払ってサービスを購入すればいい,というわけだ。
 中間共同体が消えてしまうと,次に友情空間が貨幣に侵食されるようになる。友だちというのは,維持するのがとても難しい人間関係だ。それによくよく考えてみれば,たまたま同級生になっただけの他人が,思い出を共有しているというだけで,自分にとって「特別なひと」になる合理的な理由があるわけではない。だったら友だちなんていなくても,貨幣空間の人間関係(スモールワールドのネットワーク)があれば充分だと考えるひとが増えてきたのだ。

橘玲 (2010). 残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法 幻冬舎 pp.144-145

理想主義的な超越思想

 自己啓発のイデオロギーは,ぼくたちに「自己実現」という神の宣託を告げる。

 ひとは無限の可能性をもっている。
   ↓
 人間の潜在的な能力は,教育や学習,訓練によって開発できる。
   ↓
 教育と訓練によって自己実現した主体が,世界を理想に向けて進化させる。

 そこにあるのは,ひとも社会も「進化」するというポジティブで理想主義的な超越思想だ。

橘玲 (2010). 残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法 幻冬舎 pp.24

カロリーだけではダメ

 食物の物理的状態が重要なのは,食べるものの本当のカロリー値がわからないせいで,食物とその加工技術が肥満増加につながるような方向に変わりつつあるからだ。スーパーマーケットに行けばわかるが,小麦粉はますます微粒になり,あらゆる食品が柔らかくなり,カロリー濃度が増している。固いパンは<トゥインキー>(訳注——クリームの入ったスポンジケーキ)に,リンゴはリンゴジュースに取って代わられた。消費者は現在の食品表示ラベルシステムによって,加工方法に関係なく,同じ重さの栄養素から同じカロリーが得られると信じこまされている。ヘビが挽肉からより多くのエネルギーを得,ラットが柔らかくしたペレットを食べて太るのであれば,ヒトが同じような食物を選んで別の結果を得るとは考えにくい。食物の固さが健康に与える影響を調べた研究はこれまでたったひとつしかない。それによると,より柔らかい食物を食べる日本女性は,腰まわりがより太かった。腰まわりの太さは死亡率の高さに関連している。これは予備調査だった。結果に一貫性があることを証明するのには時間がかかるが,意味するところは明らかだ。すなわち,私たちは消化されやすいものを食べることによって太る。知っておかなければならないのは,カロリーだけではない。

リチャード・ランガム 依田卓巳(訳) (2010). 火の賜物:ヒトは料理で進化した NTT出版 pp.203-204

時間の節約

 1日に6時間咀嚼するチンパンジーの母親は,1日に1800カロリーを消費する。つまり,咀嚼1時間ごとに約300カロリーを消化吸収しているということだ。チンパンジーに比べると,ヒトは食物を噛まずに飲み込むのに近い。多くの成人は1日に2000から2500カロリーを摂取するが,1日にわずか1時間ほどしか噛んでいないことから考えると,カロリー摂取率は時間あたり平均2000から2500以上,すなわちチンパンジーの6倍以上だ。ハンバーガーやキャンディバー,祭日のごちそうといった高カロリーの食物をとれば,当然ながらこの率はさらに高くなる。ヒトは明らかに,ほかの霊長類よりはるかに密度の濃いカロリー消費をおこなってきた。料理のおかげで1日約4時間の咀嚼時間を節約することができるのだ。

リチャード・ランガム 依田卓巳(訳) (2010). 火の賜物:ヒトは料理で進化した NTT出版 pp.140-141

生食は時間がかかる

 なぜなら,生のものを食べるのには時間がかかりすぎるのだ。大型類人猿からその時間を推定してみよう。彼らはたんに体が大きいことから——体重30キロ(66ポンド)以上——多くの食物を必要とし,咀嚼の時間も長くかかる。タンザニアのゴンベ国立公園にいるチンパンジーは1日に6時間以上,食物を噛んでいる。食物のほとんどが熟した果物であることを考えると,6時間は長いと思われるかもしれない。たしかにバナナやグレープフルーツはたやすく呑みこめるので,チンパンジーは近くに住む人間が作った果樹園をよく襲う。しかし,野生の果物は栽培種よりはるかに不便だ。森林の果物の果肉は物理的に固いことが多く,皮や膜や毛をまず取り除かなければ食べられない。果肉が皮や種から完全に離れ,価値ある栄養素を吸収できるほどつぶされるまでに長い時間がかかる。チンパンジーにとって次に重要な食物である葉もやはり固く,小さくして効率よく吸収するために長時間噛まなければならない。ほかの大型類人猿(ボノボ,ゴリラ,オランウータン)も同じく,食物を噛むのに長い時間を費やす。霊長類では咀嚼に費やす時間が体の大きさと相関しているので,ヒトが大型類人猿と同じ食物を生で食べる時に要する咀嚼時間を見積もることができる。それは控えめに言って1日の42パーセント,12時間起きているとして5時間あまりだ。

リチャード・ランガム 依田卓巳(訳) (2010). 火の賜物:ヒトは料理で進化した NTT出版 pp.137-138

生の肉は食べにくい

 また,チンパンジーの観察からわかったことだが,類人猿の顎にとっても,手を加えていない肉は食べにくい。獲物の肉を懸命に噛むが,それでも消化されなかった肉片が糞のなかに混じることがある。この重労働と非効率のためか,ふだんつねに旺盛な食欲を示す肉をあえてあきらめることもあるくらいだ。1,2時間噛んだあと,残った肉を捨てて休息したり,代わりに果物を食べたりする。ウガンダ,キバレ国立公園内のカニャワラのチンパンジーは,ときに獲物の筋肉に歯を立てることもなく,肉食の機会をみずから放棄してしまう。私は一度,ジョニーという名のチンパンジーがそうするのを見たことがある。いつもはオナガザル科のアカコロブスを盛んに狩っていて,このときも動物性タンパク質に飢えていたようだったが,幼いアカコロブスを1匹殺し,地上におろして腸だけ食べると,死体をほかのチンパンジーの目につかないところに放置した。そしてすぐ木の上に戻り,たちまち別の幼いアカコロブスを捕まえて同じことをくり返した——地上におろし,腸を食べ,残りを放っておいた。

リチャード・ランガム 依田卓巳(訳) (2010). 火の賜物:ヒトは料理で進化した NTT出版 pp.117

タンパク質のとりすぎは禁物

 ヒトは炭水化物(植物から得られる)か脂肪(少数の動物から得られる)のどちらかを大量に必要とするので,植物は生命維持に不可欠の食物だ。炭水化物も脂肪もなければ,エネルギー摂取をタンパク質に頼らなければならない。過度のタンパク質摂取は中毒症状を引き起こす。タンパク質中毒の症状には,有毒レベルの血中アンモニア,肝臓や腎臓の機能障害,脱水症状,食欲不振などがあり,究極的には死に至る。そうした悲惨な結果を,北極圏での体験にもとづいてヴィルヒャルマー・ステファンソンが書き記している。収穫が少ない季節になると,脂肪がほとんど手に入らず(もとより植物はない),食事のなかでタンパク質が支配的な多量要素となる。“脂肪がふつうにある食事から急に赤身だけの食事に切り替えると,最初の数日で食べる量がどんどん増え,1週間ほどたつと重量にして当初の3倍から4倍の肉を食べている。そのころには飢餓とタンパク質中毒の症状を呈している。立てつづけに食事をとり,食べ終わるたびに空腹を感じ,大量の食物で不快な膨満感があり,気持ちが落ち着かなくなってくる。1週間から10日で下痢が始まり,脂肪をとるまでそれが治まらない。そして数週間で死が訪れる”
 ヒトにとって安全なタンパク質摂取の上限は,全カロリーの50パーセント前後なので,残りのカロリーはクジラの脂のような脂肪か,果物や草の根のような炭水化物から得なければならない。北極圏やティエラ・デル・フエゴ(訳注—アルゼンチンとチリのあいだの群島)のような緯度の高い地域では,脂肪が格好のカロリー源となる。海生哺乳類が寒さから身を守るために分厚い脂肪層を発達させているからだ。しかし,熱帯の哺乳類の体脂肪率はそれよりはるかに低く——平均4パーセント程度——骨髄や脳のように脂肪の多い組織はつねに量がかぎられている。つまり,赤道付近にいたわれわれの祖先は,残りの必須のカロリーを植物から得るしかなかった。熱帯の狩猟採集民に植物は欠かせない。毎年の乾季など食料が不足する時期には,肉の脂肪率はとりわけ下がって1,2パーセントになる。そういう時期に植物から得られる炭水化物はことのほか重要なのだ。

リチャード・ランガム 依田卓巳(訳) (2010). 火の賜物:ヒトは料理で進化した NTT出版 pp.50-51

口の小さな類人猿

 ミック・ジャガーがどれほど大きなあくびをしても,チンパンジーの大きさには敵わない。口が内臓への入り口であることを考えると,この大きさの種としてヒトの口は驚くほど小さい。大型類人猿はみな前方に突き出た口(突顎)を持ち,顎も大きく開く。チンパンジーはものを食べるときに,口をヒトの2倍の大きさまで開けることができる。あなたもいたずら好きのチンパンジーにキスをされれば,このことを思い知るだろう。霊長類のなかで一並みに小さな口を探すなら,体重1.4キロ(3ポンド)以下のリスザルといった小型種にたどり着くしかない。開口部が小さいだけでなく,私たちの口は容積も小さい——体重はチンパンジーより約50パーセント多いのに,口腔の容積はチンパンジーとほぼ同じだ。動物学者はよくヒト属の本質的な特徴を,体毛が薄く,二足歩行で,脳が大きい類人猿としてとらえようとするが,口の小さな類人猿と定義してもいいくらいだ。

リチャード・ランガム 依田卓巳(訳) (2010). 火の賜物:ヒトは料理で進化した NTT出版 pp.43-44

生食は健康ではない

 生食主義者が健康的にすごせないのは明らかだ。例外的に高品質の食物を摂取できる現代の豊かな環境においてのみ,彼らは健康でいられる。動物にそのような制限はない——野生の食物を生で食べて繁栄している。<イヴォ・ダイエット>の問題点からみちびきだされる疑問は正しい。明らかに,私たちはどこかおかしいのだ。ヒトはほかの動物とは違う。ほとんどの状況で,料理された食物を必要としているのだ。

リチャード・ランガム 依田卓巳(訳) (2010). 火の賜物:ヒトは料理で進化した NTT出版 pp.39

生で食べる人びと

 “生食主義者”とは,手に入るかぎり100パーセントか,それに近い割合の食物を生で食べる人々を指す。彼らの体重に関する研究は3例しかなく,いずれの場合にも痩せていることがわかっている。そのなかでもっとも大規模な研究は,栄養学者のコリンナ・ケプニックらがドイツのギーセンでおこなったアンケート調査で,食物の70パーセントから100パーセントを生で食べる513人を対象としたものだ。生食の理由は,健康になるため,病気にならないため,長生きするため,自然に生きるためとさまざまだった。生の食物には,料理していない野菜やときどきとる肉だけでなく,冷搾法による油や蜂蜜,熱をわずかに用いたドライフルーツや乾燥肉,乾燥魚などが含まれていた。肥満度を表すのには,体重を身長の2乗で割ったボディマス指数(BMI)が使われた。結果を見ると,生で食べる食物の割合が増えるにつれ,BMIが下がっていった。料理した食物から生の食物に移行したときの平均的な体重の減少は,女性が26.5ポンド(12キロ),男性が21.8ポンド(9.9キロ)。純粋な生食主義者の集団(全体の31パーセント)のうち3分の1が,慢性的なエネルギー欠乏を示す体重だった。栄養学者たちの結論は明白だった——厳密に生の食物だけをとる食事法では,かならずしも充分なエネルギー供給ができない。
 このギーセンの調査で摂取された肉の量は記録されていないが,生食主義者の多くはほとんど肉を食べない。肉の摂取量が少ないことがエネルギー不足につながった可能性はあるだろうか?それはある。しかし,料理したものを食べる人々のあいだでは,ベジタリアンと肉食者に体重の差はない。食材が料理された場合には,ベジタリアンのメニューからでも,肉の多い典型的なアメリカふうのメニューと同等のカロリーをとることができるのだ。顕著な体重減少が見られるのは,生で食べる場合だけである。

リチャード・ランガム 依田卓巳(訳) (2010). 火の賜物:ヒトは料理で進化した NTT出版 pp.19-20

肉食の類人猿

 これまで何百もの狩猟採集民の文化が記録されているが,そのすべてにおいて,肉食が食生活の重要な部分を占めている。摂取カロリーの半分を肉から得ていることも多い。200万年以上前に動物を殺していたハビリスにとっても,肉は同じくらい重要だったことがわかっている。他方,彼らに先行するアウストラロピテクスが,チンパンジーと同じく異なる捕食行動を取っていたことを示す証拠はほとんどない。。チンパンジーは機会さえあれば,サル,子豚,レイヨウの子などを捕らえるが,肉をまったく食べずに数週間,長いときには数カ月すごすこともある。霊長類のなかで私たちだけが熱心な肉食動物であり,大型獣を殺して肉を取るのだ。

リチャード・ランガム 依田卓巳(訳) (2010). 火の賜物:ヒトは料理で進化した NTT出版 pp.7

リサーチと論文の割合

 これに関連する問題ですが,博士学位を取得するにあたってのコースワークの占めるウェイトと研究う・論文の占めるウェイトに,両国にかなりの違いがあるように思います。今日のアメリカの場合,Ph.D.の取得にあたってリサーチと論文の占める割合は,オーバーマイヤー氏からの私信によりますと,実験系で約50%,臨床系で20〜25%であろうということです。残りがコースワークの比重ですから,これがかなり高いことが分かります。しかしわが国の場合,伝統的に博士論文というものはその人の研究の集大成なので膨大なものでなければならないという考えが強く,その影響は,アメリカ型の課程博士と大学院制度になった今日にも多少残っているのではないでしょうか。それと,上記のようにコースワークの充実度が低い分だけ,わが国では博士学位取得に占めるリサーチと論文の割合を80〜90%程度に見る人が多いのではないかと思います。

J.ブルース・オーバーマイヤー 今田寛 (2007). 心理学の大学・大学院教育はいかにあるべきか 関西学院大学出版会 pp.43

基礎の軽視

 基礎から専門分野へ,また,科学に基づいた応用を用いる職業へというふうに心理学が大きく展開しているわけですが,これによってある人たちは,もう基礎研究というのはあまり必要がないのだといいます。そしていくつかのスキルとテクニックを実践者として身に付ければよいのだという人もいます。しかし,そうして科学的な根拠がだんだんと失われていくなかで,いろいろなリスクが生まれてきます。新しい職業としてのサイコロジスト,これは専門技術と心理的介入法を教育訓練されているわけですが,その土台となっている科学の基礎,基本がわからずやっている人がだんだんと増えてきました。
 さらに悪いことに,このように非常に狭い範囲での訓練しか受けていないサイコロジストは新しい現象が出てきたとき,また,それに関する新しい科学が出てきたときに,それに対処することができなくなっています。こうしたことが,学部教育より上の,実践・応用サイコロジストの専門教育において議論されていることです。

J.ブルース・オーバーマイヤー 今田寛 (2007). 心理学の大学・大学院教育はいかにあるべきか 関西学院大学出版会 pp.19-20

科学が示せること

 人の心に巣くう底深い恐怖を,どんな宗教も克服できなかった。自然科学もまた,それを克服することはできない。しかし,自然科学だけが,人間精神の不合理と幻想の恐怖と,資源の無限の浪費と敵対心の増強の結末を示すことができる。

島泰三 (2004). はだかの起源:不敵者は生きのびる 木楽舎 pp.262

死への恐怖

 死後への恐怖という想像上の恐怖に打ちひしがれるようになったのは,人間が生まれたときに始まったのだろう。死者の埋葬は,それを示している。だが,それは野生動物にとっては,もっともありえない観念である。
 この将来への不安こそが,資源の浪費につながっていると,私は思う。南アフリカ海岸の遺跡に堆積されたカサガイのサイズを測ると,中期石器時代には成長した貝殻がほとんどなのに,3万年前の後期旧石器時代には未成熟のサイズが小さい貝殻ばかりになっていた。つまり,彼らは成長してしまう前の貝を採集していた。あきらかに過剰利用である(Klein, 1999)。
 この貝殻サイズの変化は,現代人が本質的に過剰消費型でああることを示す。
 なぜか?我らは不測に備えるからである。想像される将来に備えるからである。我らはそこにあるものだけでは,けっして満足しない。
 食物がなくなる季節には,どうするか?子供たちが増えたら,どうするか?動けなくなったら,どうするか?
 将来への不安,想像上の不安が,いつも心に突き刺さっている。それが必要以上の採集,生態系が供給する以上の食物を探しまわり,蓄積する衝動につながっている。生態系の全体を見通した適正な消費に抑えることができず,わずかな利益に狂奔するのも,人間にとって抑えられない衝動である。
 食物だけではない。
 死後への恐怖というありえない幻影におびえ,想像上の敵を作り出して憎悪を強めるのは,人間精神の不合理である。

島泰三 (2004). はだかの起源:不敵者は生きのびる 木楽舎 pp.257-258

高地だからこそ

 アフリカ高地でしか裸の人間は成立しなかったと,私は考えている。アフリカの低地にはマラリアがある。それは,現代でもひとつの村を全滅させる。だから,低地で裸の人間が生まれても,生き残る確率は非常に少なかったはずだ。しかし,高地ではマラリア蚊は少ない。
 20万年あるいは30万年前の現代人の始まりから,ヨーロッパへの進出までの長い時間について考えると,アフリカ高地からの進出がなんらかの理由で難しかったのだと,考えないわけにはいかない。同じ時期のアフリカに生きていたホモ・エレクトゥスの子孫たちやヨーロッパから近東にいたネアンデルタールたちとの生活圏を巡る争いには,現代人の祖先は耐えることができただろう。
 だが,マラリア蚊などの昆虫が媒介する熱帯病のために,毛皮のない現代人がアフリカ低地へ,さらにはナイル川の低地帯をたどって中近東へ進出するのは,実質的に困難だっただろう。
 もしも,彼らにとって大きな事件が起こらなかったら,まだしばらくはアフリカ高地だけの,たとえばヒヒ類の分布域の中に,エチオピア高原だけに分布するゲラダヒヒのように,現代人は孤立したままだったかもしれない。
 しかし,7万年前に好機が訪れる。氷河期の到来である。ちょうどこの時に,衣類の起源があるのは,現代人がどこに向かったかを示している。つづく氷河期には,裸の人類はユーラシア大陸の寒帯にまで進出し,オーストラリアに至った。
 現代人の生活跡は,最終氷河期の最盛期には永久凍土のもっとも厳しい気候条件だったロシアでも見られるが,ネアンデルタールの生活跡はそこにはまったくない。ネアンデルタールは毛皮をまとった野生動物で,南ヨーロッパ,地中海沿岸分布種だったので,この厳しい氷河期の大陸内部で生き抜くことができなかった。
 逆説的だが,現代人は裸だったからこそ,この氷と雪に閉ざされた世界に生き抜くことができたのである。現代人はネアンデルタールと違って,密閉された家を造る能力も,家の中の温度調節をする能力もあったし,衣服を作る能力を持っていた。
 しかし,裸の現代人がネアンデルタールと直接対決するまでには,さらに4万年の年月が必要だった。この時になってようやく,現代人は肉体的には自分たちより強力で,知能も劣らないネアンデルタールを圧倒できる技術を開発していたと考えるほうがいい。それが,オーリニャック文化だった。

島泰三 (2004). はだかの起源:不敵者は生きのびる 木楽舎 pp.251-253

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