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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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征服する種

 最終氷河期のあとには,それまでヨーロッパに棲んでいたサル(ニホンザルに似たマカク類)はいなくなっている。3万2000年前から始まり,1万2000年前に絶頂期を迎える最終氷河期(ヴュルム氷期)の最寒冷期では,スカンジナビア半島の氷河は南下してヨーロッパ全域を覆ってしまい,南ではアルプスやピレネーに山岳氷河が発達してヨーロッパのほとんどはツンドラとなり,スペイン半島にまでトナカイが進出した。ヨーロッパは現在のシベリアのような気候となり,ヨーロッパの温帯地域に適したネアンデルタールが生活できるような環境ではなくなった。
 それまでなら,ネアンデルタールは寒さを避けて南下し,ヨーロッパ南部海岸地帯の温暖な地域や中近東に移動して生存を続けられたが,3万年前に次第に極寒の度を増すヨーロッパをさすらうネアンデルタールの前に現れたのは,新しい文化で武装したホモ・サピエンスだった。彼らは,それまでネアンデルタールがレバント地方で出会ってきたホモ・サピエンスとは,文化的レベルが違っていた。オーリニャック文化で武装したクロマニョンと名づけられたホモ・サピエンスである。
 この鋭い石器を取りつけた槍を持つ恐るべき人間たちは,あらゆる大型動物との共存を拒否し,むしろそれらを征服し,絶滅させることを常に望んでいた。毛皮に覆われたネアンデルタールが彼らより大きな脳を持っていても,個の強烈な意志力と新兵器には抗することはできなかった。ちょうど,それから3万年後のアメリカ大陸での出来事のように。
 もっとも,近代のアメリカ大陸でも,白人が支配的民族としてアメリカインディアンと置き換わるには数百年をかけたように,ネアンデルタールもただちにヨーロッパをクロマニョンに譲り渡したわけではなかった。南フランスのシャテルペロニアン文化は,奇妙にオーリニャック文化の要素が入ったネアンデルタールが担った文化と考えられている。そのように,この巨大な脳を持った隣人は,ホモ・サピエンスの圧迫に耐え,その文化を取り入れる能力も持っていて,オーリニャック文化を持って迫るホモ・サピエンスと,ほとんど1万年の間共存した。

島泰三 (2004). はだかの起源:不敵者は生きのびる 木楽舎 pp.223-224
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裸になること

 裸になった哺乳類の例は,ふたつの事実を指し示す。
 第一に,それはありふれた現象ではなく,それぞれの分類群でまったく孤立した1回限りの例だということである。ヌードマウスの例は,裸化が突然変異によって現れる特例であることを,もう一度確認している。裸化はどの種にも起こる可能性はあるが,裸化だけではその種はほとんど生き残れない。
 第二に,体の体温と水分の調節をなんらかの方法で行う特別な環境をその動物が作っていることである。これは裸化の欠陥を補う重複する突然変異のおかげである。

島泰三 (2004). はだかの起源:不敵者は生きのびる 木楽舎 pp.171

海中起源説の問題

 人類の海中起源説の問題点をまとめておこう。
 第一。海岸生活では毛皮を必要としないか?そんなことはない。毛皮のないクジラたちは完全な水中生活者であって,海岸生活者ではない。
 海中起源者たちが仮定するような,海岸,水辺で生活する獣で毛皮を失ったものはいない。たとえば,カワウソやアザラシを見よ。
 第二。水中で直立するか?人は誰でも泳ぐ時には水平になるのであって,直立はしない。水の深さが腰を越えると,体は浮力のために不安定になり,もっと深くなると,ついには浮き上がる。
 第三。髪は日焼け除けか?泳ぐ時には,頭だけでなく肩も水面上に出ている。だから,日焼けを防ぐなら頭から肩に毛をマントのように残さなくてはならない。そうすれば雨の日にも雨具はいらなかったのに,残念である。

島泰三 (2004). はだかの起源:不敵者は生きのびる 木楽舎 pp.142-143

必要なのは網羅的記載

 この手の人は,論理的な矛盾は問題にしない。この手法では,論理的な整合性よりも,そこをぼんやりさせていることこそ望ましい。読み手の心の中に印象を作るのであって,説得するのではない。これが無意識下への刷り込み作業である。これが,サブリミナル手法である。この手の文章を書かせると,ライアル・ワトソンはダーウィンやグールドと同じようにうまい。どうも,うまい文章を作る欧米人は,同じ手法を使うと見える。
 だが,人類の海中起源説は,裸の哺乳類を網羅した時点で論破されている。つまり,獣の裸化は,水辺や水中生活の哺乳類だけに限ったことではないという事実である。海中起源説の論者は,意識して水中,海中,水辺だけに話を制限しているが,先に裸の哺乳類の例を挙げつくしたときにはっきりしたように,裸の哺乳類は地中生活者にも,空中生活者にも,そして陸上生活者にもいる。
 事実の完全な列挙や網羅は,事実の枠組みを教えてくれる。私はずっと,日本の教養に不足しているのは博物館であると言ってきた。それは博物館が,この機能を,実物標本の収集によって,果たすべきだからである。この意見がまともに取り上げられたためしはないが,事実がここからここまでの枠組みの中にあり,それ以外にはあり得ないという,生命にとっての決定的な知識を与えてくれるのは,完全な網羅的記載方法である。
 その視点からは,ワトソンもモーガンも失格である。

島泰三 (2004). はだかの起源:不敵者は生きのびる 木楽舎 pp.139-140

適者生存

 「最適者は生き残る」
 最適者かどうかを,どこで判断するのか?
 「生き残っているから」
 こうして「最適者生存」セオリーは,最適者を判断する根拠と断言とが堂々巡りし,つまりは事実を追認するだけとなる。ダーウィンは,変異を語ってはいるが「種の起源」のどこにも「最適者」とは何かについての具体的な例もない。「最適者」概念はダーウィンにとっては自明だった。

島泰三 (2004). はだかの起源:不敵者は生きのびる 木楽舎 pp.17-18

喩えを避ける唯一の方法

 今日,ガイア理論は生態学の世界では確立されており,そこから地球システム学(地球規模のシステム生物学のようなもの)などの学際的な分野が生まれたりしたが,ときには粗悪な科学,さらには「危険な」科学と見られることもある。その理由のひとつは,喩え(メタファー)をあからさまに使っていることかもしれない。地球は生きていると言われても,それを客観的に証明することはできない。喩えは物事の捉え方として便利なだけだ。ラヴロックも書いているように,科学者からは「軽蔑に値するもの,厳密ではない,したがって非科学的なもの」と見なされているのが喩えである。アリストテレスは,「喩えは詩的な道具だが,自然にかんするわれわれの知識を高めるものではない」と述べている。科学者はメディアを,大衆受けしそうな作り話(少なくとも科学者が賛同しないもの)ばかり注目すると厳しく非難する。だが,モデルのほうも常に作り話,実世界の喩えだ。出来事を順を追って説明する,想像力の産物である。喩えを避ける唯一の方法は,純粋な数学的抽象化の域から出ないことだ。

デイヴィッド・オレル 大田直子・鍛原多恵子・熊谷玲美・松井信彦(訳) (2010). 明日をどこまで計算できるか?「予測する科学」の歴史と可能性 早川書房 pp.353-354

指数関数的な伸び

だが,最近のことでなにより特異なのは,きわめて高い経済成長率だ。米国などの工業国では,国内総生産の成長率目標を年3〜4パーセントとするのが一般的だ。平均的な労働者が2000年前に1日1ドル稼いでいたとすると,以来,実質成長率がたった1パーセントに維持されただけで,今の給料はなんと1日4億3900万ドルになる。NBAのプロバスケット選手になっても届かない額で,これは明らかにありえない。経済成長は,産業革命による比較的最近の副産物だ。裕福な国々は今のところ,考えられる限り最高の世界を手にしている。気候がよく,衛生状態もよく,経済は爆発的に成長している。パン作りに喩えれば,私たちは生地の中のイースト菌のコロニーだ。生きていくために必要なすべての要件が周到に整えられ,タオルにくるまれ,暖かい場所でだれにも邪魔されず,指数関数的に増えている。さて,この状況はいつまで続くのだろうか?

デイヴィッド・オレル 大田直子・鍛原多恵子・熊谷玲美・松井信彦(訳) (2010). 明日をどこまで計算できるか?「予測する科学」の歴史と可能性 早川書房 pp.301

予測三兄弟

 科学的予測の3分野——天気,病気,景気——は兄弟のようだ。出身が同じで,一緒に育ち,同じ連中とつるんでいた。それぞれ独自の個性がある。一番上の天気予想は,ほかの兄弟が仰ぎ見る存在だ。なぜなら星に一番近いし,物理学を知っている。末っ子の病気予測はかつて問題児だったが,大人になる準備をするうちにとても楽観的になっている(学校の卒業アルバムでは,癌の治療法を発見する可能性が非常に高いとみんなに認められている)。景気予想はナルシストで,自分自身の魅力と効率のとりこになって,鏡の前で悦に入ることに日々を費やす。

デイヴィッド・オレル 大田直子・鍛原多恵子・熊谷玲美・松井信彦(訳) (2010). 明日をどこまで計算できるか?「予測する科学」の歴史と可能性 早川書房 pp.287

打たれ強さの理由

 正統派経済理論がこれほど打たれ強いのは,ほかに負けない——ほかの方程式の将来予測やリスク評価の出来もたいして変わらないという意味で——うえに,適応性が高いからだ。基礎理論をもっと精巧に練り上げることで,体系はそのままにして欠点を修正する試みが行なわれている。たとえば行動経済学の分野は,損失回避のような心理学的影響に取り組んでいる。金融資産の所有者は自分が支払った金額より安く売ることを嫌うので,下落したあと売ることに抵抗する。したがって,価格は下がる途中で「膠着」する傾向がある。投資家心理をパラメータ化して組み込むことで,このような行動への影響に適応するようにモデルを多少改良して調整することはできるが,それでも投資家1人1人は決まった選好や嗜好を持っているものとして扱われる。そのような調整によって投資家は合理的であるという条件が緩和されるのは確かだが,それでも投資家は合理的にモデル化できることが前提になっているのだ。したがって,経済は社会的過程であって法則に還元することはできないという,根本的な問題には取り組んでいない。

デイヴィッド・オレル 大田直子・鍛原多恵子・熊谷玲美・松井信彦(訳) (2010). 明日をどこまで計算できるか?「予測する科学」の歴史と可能性 早川書房 pp.275-276

ランダムである

 金融チャートにとりつかれる傾向は,市場というよりむしろ,秩序を好む人間の性向と関係があると言えよう。数字の連なりは,たとえランダムなものであっても,長いあいだ見ているとパターンを示すようになるものだ。実際には,効率的市場における価格の動きはランダムで,どんなパターンも錯覚にすぎない。ユージン・ファーマがいうように,「ランダムウォーク・モデルが現実の説明として妥当であるなら,チャーティストの仕事は占星術師のそれと同様,株式市場分析において現実的な価値はない」。

デイヴィッド・オレル 大田直子・鍛原多恵子・熊谷玲美・松井信彦(訳) (2010). 明日をどこまで計算できるか?「予測する科学」の歴史と可能性 早川書房 pp.255-256

神経質になりすぎ

 個人の遺伝情報はきっちり保護されなくてはならない——これは他の医療データや個人データと同様だ——が,遺伝子検査が悪用される可能性に対する懸念は,現状においては,その効果を大げさに考えすぎていることから生じたもののようだ。コロンビア大学のジョセフ・ターウィリガーは「科学者がさまざまな方法でゲノムの情報を,あるいは少なくともゲノムについて知っていることを誇大宣伝しすぎたため,今や人々はゲノムが社会に与えそうな影響について,不必要なほど神経質になるに至っている」。遺伝子は運命ではなく,前兆や前触れはたいてい漠然としていて,人をだます場合もある。遺伝子の役割は,ヨハネス・ケプラーが星に与えたものと似ている。「人が誕生した瞬間の空の様相が,どのようにその人の性格を決めるのだろうか。農民が畑のカボチャの周囲に適当に結ぶひもの輪のように,生涯を通じてその人に働きかけるのだ。輪はカボチャを育てるわけではないが,その形を決める。同じことが空にも言える。空が人に癖や履歴,幸福,子供,富,あるいは妻を与えるわけではないが,その人の状態をつくり上げる」。占星術その他さまざまな形の予測と同様,遺伝子検査とカウンセリングは間違いなくおいしいビジネスになる。2003年の《ネイチャー・ジェネティクス》誌の記事はこう述べている。「遺伝子にまつわる予測力と神秘性,自分の健康を管理して病気を予防したいという消費者の願望,そしてインターネットで容易に検査を宣伝したり注文したりできる利便性が相まって,企業を遺伝子分析の開発と推進に駆り立てている。検査が実証されて有用と証明されたかどうかは関係ない」。

デイヴィッド・オレル 大田直子・鍛原多恵子・熊谷玲美・松井信彦(訳) (2010). 明日をどこまで計算できるか?「予測する科学」の歴史と可能性 早川書房 pp.235-236

本ではない

 意外に思えるかもしれないが,DNAは本のように読めるものではない。所詮は情報の連なり,1つの長文にすぎない。一連のDNAから羊のクローン作成を計画できるのなら,DNA配列から表現型を予測するコンピュータモデルを構築することもきっとできるだろう。驚異的な人間の発達——受精,胎芽,胎児,誕生という不変の段階を経る——でさえも,一連の細かい指示を実行しているかのように,反復可能な決まった経路をたどっているように見える。しかも多細胞生物の発達は「マスター分子」からの命令よりも,数多くの小さな局所の決定に負うところが大きい。接着分子と呼ばれる特定のタンパク質によって細胞が集まる,または互いにずれあうことで,組織や器官の形を決める表面やひだができる。生物学者のリチャード・ルウォンティンの言葉を借りれば,「どの段階でも,特定部位の細胞のさらなる動き,分割,分化を決めるのは細胞と組織の局所的相互作用であり,それがさらなる局所的相互作用につながる,といった具合で成体に達する」。このプロセスが機械的で,ある程度再現可能に思えるからといって,それが予測可能というわけではない。人生ゲームならば,同じ初期条件で2回始めたら,まったく同じように展開するが,そのことは将来を推測するうえで何の役にも立たない。

デイヴィッド・オレル 大田直子・鍛原多恵子・熊谷玲美・松井信彦(訳) (2010). 明日をどこまで計算できるか?「予測する科学」の歴史と可能性 早川書房 pp.226-227

単純化のしすぎ

 「特定の遺伝子が特定の病気を引き起こす」という統計に基づいた主張は,よくよく検討してみるとほとんどの場合,単純化のしすぎである,とわかるものだ。生物学者のデイヴィッド・S・ムーアは「完全で包括的なヒトゲノムについての地図といえども,ある特定の人の形質——もしくは病気——についての正確な予想はできないのだ」と書いている。パーキンソン病,自殺,同性愛の遺伝子はすべて発見されたが,さらなる実験によって話はもっと複雑であることがわかり,すぐにこれらの発見はなかったことになってしまった。遺伝は明らかに重要だ——そうでなければ動物のブリーダーは職を失うだろう——が,個々の遺伝子,あるいは限られた遺伝子のセットが,私たちの未来を確定するのではない。精神病のような複雑な疾病の分子的な根本原理を見つけることに夢中になるのは,たいていの場合,世界を単純な物理的原因で説明したいという文化的な願望の反映であるようだ。そのせいで私たちがもっと意味のある問題に取り組もうとしないのなら,そうした願望を持つこと自体,有害かもしれない。

デイヴィッド・オレル 大田直子・鍛原多恵子・熊谷玲美・松井信彦(訳) (2010). 明日をどこまで計算できるか?「予測する科学」の歴史と可能性 早川書房 pp.218-219

個人と集団

 一般的な集団において,ある遺伝子がある形質と統計的に関係があるからといって,その遺伝子がその形質を特定の個人に引き起こすということには必ずしもならない。データには大量のランダム変動やノイズも含まれているので,相関関係があるかどうかがまったくわからないことも多い。したがって,形質が30パーセント遺伝するとか,ある遺伝子が人に病気を発症させる確率は20パーセントであるなどと述べるのは,あまり意味がない。この問題を回避するために,遺伝学の研究は遺伝的な等質性が高い部分母集団,たとえばアイスランド人やアシュケナージ系ユダヤ人などに焦点を合わせることが多いが,得られた研究結果はその集団にとってのみ役立つということになる。

デイヴィッド・オレル 大田直子・鍛原多恵子・熊谷玲美・松井信彦(訳) (2010). 明日をどこまで計算できるか?「予測する科学」の歴史と可能性 早川書房 pp.218

母胎内環境

 子宮の中に安全にかくまわれている発育中の胎児でさえ,その時点の環境が母親の身体であっても,その環境の複雑な影響を受ける。1つの因子は胎内のテストステロンレベルで,これは神経系の発達に作用し,胎児の性別に影響される。テストステロンレベルの高さは自閉症,免疫抑制,および攻撃性と緩やかに相関している。明るい面としては,その作用を受けた者は音楽と数学が得意な場合が多い。胎内のテストステロンは指の長さを制御する遺伝子の発現にも影響する。女性の場合,薬指と人差し指はたいてい同じ長さだが,男性の場合は右手の薬指はたいてい人差し指よりも長い。したがって,指の長さは前述の形質の弱い予測因子だが,その相関はあまりにも弱いので,特定の個人についてそこに何かを読み取ろうとするのは意味がない(とはいえ,ある種のピュタゴラス学派的な論理はある。男性の右手のまっすぐな指は,音楽と数学と攻撃性に結びつく)。胎内のテストステロンレベルは母親と発育中の子の対話の一分なので,それが生まれか育ちかと問われれば,どちらとも決めがたい。

デイヴィッド・オレル 大田直子・鍛原多恵子・熊谷玲美・松井信彦(訳) (2010). 明日をどこまで計算できるか?「予測する科学」の歴史と可能性 早川書房 pp.216

無限の組み合わせ

 すぐに驚きの声が上がったことの1つが,ヒトゲノムに遺伝子が約3万しかないことだった。回虫には1万9000,酵母菌でさえも6000ある。ヒトについての大方の推定では,単にプライドのためかもしれないが,10万以上とされていた。そんなに少ない遺伝子で,どうしてこれほど複雑なものが生まれるのか。実は重要なのは遺伝子の数ではなく,遺伝子がどう組み合わさって発現するかであり,その方法は本質的に無限にある。人類の多様性に関係している遺伝子はさらに少ない。発見されたものの93パーセントは共通なので,個人で異なる遺伝子は2000ほどにすぎない。しかしそれでも,同じ遺伝子を持つ人間が一卵性双生児以外はいないことを保証するには十分すぎる数である。たった10桁の電話番号でも,地球上のすべての人に固有の番号を割り当てるのには十分なのと同じだ。

デイヴィッド・オレル 大田直子・鍛原多恵子・熊谷玲美・松井信彦(訳) (2010). 明日をどこまで計算できるか?「予測する科学」の歴史と可能性 早川書房 pp.210

未来のコントロール

 ゴルトンはプラトンの『国家』から着想したのかもしれない。この本にもユートピア社会が描かれていて,そこではエリートの守護者階級の人々が「狩猟犬の犬」のように繁殖させられる。その子供たちは保育エリアに連れていかれ,そこで乳母によって「育てられる」が,「下級者の子孫,またはたまたま奇形になった上級者の子供は,本来いるべき,どこかよくわからない未知の場所に監禁される」ので,守護者は純血を保たれる(プラトンにはよくあることだが,これをどれだけ文字どおりにとらえるべきかはよくわからない)。社会を改善するツールとしての優生学は,最近でもナチスからウィンストン・チャーチルまで,さまざまな人々に支持され,1970年代になってもカナダのアルバータ州など各地の行政機関の政策に採用された。一方,共産主義者は生まれつきよりも育ちを養護し,形質は国家によってつくり上げられると考えた。レーニンは大胆にもこう言っている。「人間は矯正できる。人間はわれわれが望む通りのものにできるのだ」。予測で重要なのは未来を予言することだけでなく,未来をコントロールすることである。そして科学的予測は研究対象の体系についてと同じくらい,政治学や社会学についても語ることができる。

デイヴィッド・オレル 大田直子・鍛原多恵子・熊谷玲美・松井信彦(訳) (2010). 明日をどこまで計算できるか?「予測する科学」の歴史と可能性 早川書房 pp.201

ゴルトンとメンデル

 近代の遺伝学的予測の物語は,1922年生まれの2人の人物によって幕を開ける。ヴィクトリア朝の博識家サー・フランシス・ゴルトンと,オーストリアの修道士グレゴール・メンデルだ。科学的予測の方法は基本的に2通りある。1つは,過去のデータに統計的パターンを探し,それが続くと予測する。これはサー・ギルバート・ウォーカーはエルニーニョ現象のパターンを見つけるのに使った方法であり(ただし,この場合の予測はかなり難しいことがわかったが),とくに財政金融学でよく用いられている。科学者は予測したあと因果関係の説明を求めて過去にさかのぼることがあるが,そうすると,一見もっともらしいが単純すぎる,あるいは間違っている説明を押しつける危険がある。もう1つは,物理的原理から引き出される数学モデルを用いる方法だ。メンデルの研究の基礎は,最も単純な形質を調べることだった。その研究は当時ほとんど知られていなかったし,評価もされていなかった——ゴールトンはあとから知ったが,あまり注意を払わなかった——が,最終的に一種の生命物理学につながっている。人間の知性のような複雑な形質に関心を抱いたゴルトンは,データ主導アプローチのパイオニアとなった。彼の研究はそのようなアプローチの,効果のみならずリスクまでも示す好例である。

デイヴィッド・オレル 大田直子・鍛原多恵子・熊谷玲美・松井信彦(訳) (2010). 明日をどこまで計算できるか?「予測する科学」の歴史と可能性 早川書房 pp.194

流行に左右される

 もう1つの問題は,科学者もほかの人と同じように,流行や一時的な人気に左右されるということだ。スティーヴン・ウルフラムが言うように,1980年代には,天気予報だけでなく,「あらゆる種類の機械システム,電気的システム,流体システムなどで」カオスの兆候が見つかり,「そうしたカオスは,自然界の重要なランダム的現象の原因に違いないという確信が広まっていった」。しかし,方程式の一部には初期条件に対する鋭敏性があるものの,「一般的に研究されているそうした方程式で,流体の現実的な説明と密接な関係があるものはない」。

デイヴィッド・オレル 大田直子・鍛原多恵子・熊谷玲美・松井信彦(訳) (2010). 明日をどこまで計算できるか?「予測する科学」の歴史と可能性 早川書房 pp.187

forecastという用語

 同じようにフィッツロイの努力も,一般の人々や,科学界の権力層にはあまり歓迎されなかった。当時,天気の予想は占星術師のすることであって,科学的探求に向いたテーマだとは思われていなかったからだ。大衆紙は,気象庁の不正確な予報を「ザドキエルの占星暦」などの占星術師の予言と比べては面白がっていた。主流派の科学者たちは,こうしたことは自分たちの評判を傷つけるものとみていた。
 フィッツロイは,占星術と比較されないように努め,余計な意味合いが強い「prediction(予言または予測)」という言葉を避けて,代わりに「forecast(予報)」という独自の用語を新たに作り出した。「預言や予言という語は,科学的な配合と計算の結果としての意見には厳密には用いることができないが,予報という言葉はそうできる」。1963年,フィッツロイは,気象を平均的な教育レベルの人々に理解可能なものにすることをめざした『気象の本』を発行した。しかし,この分野を世に広めようというフィッツロイの試みに,英国王立教会のようなエリート主義的な科学機関はさらに苛立った。フィッツロイが天気を語るのに,数学用語ではなく直感的な言葉を使ったことも役に立たなかった。さらには電信網によって「我が国の大部分に広がる大気の連続的な状態を感知する手法」を与えられたと主張したことも助けにならなかった。これは客観的というより,神秘的なことに聞こえる場合もあったからだ。

デイヴィッド・オレル 大田直子・鍛原多恵子・熊谷玲美・松井信彦(訳) (2010). 明日をどこまで計算できるか?「予測する科学」の歴史と可能性 早川書房 pp.141-142

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