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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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資金を得るには

 科学は,その現場にいるほとんどの人からは,倫理的にも政治的にも,中立と見なされている。科学的なプロセスは,合理的かつ客観的であることを目指していて,主観的な価値判断を控える。しかし,多くの人が,儲かる職業よりも科学者となることを選ぶのは,物質の性質を調べたり,病気を治したり,環境を守ったりすることで,さらに多くの幸福のために貢献したいと思うからだ。聖職者のように,より高い使命に応えていると感じているのである。量子力学が生まれ,そして特に,原子爆弾などの装置では質量をエネルギーに変換できることが発見されたのは,決定論の水を濁らせただけでなく,科学者の手を汚してしまった。世界を破壊する力がある場合に,客観的になるのは難しいことだ。原子爆弾が投下された後,アインシュタインは「彼らがこうすると知っていたら,靴屋にでもなったのに」と言った。物理学者の中には職業を変えた人もいたが,原子爆弾の発明によって,高エネルギー物理学者の採用が増えたのも真実だ。科学プロジェクトの資金を最も確実に得る方法はいまだに,ガリレオの望遠鏡と同じで,その軍事的な応用を示すことだ。

デイヴィッド・オレル 大田直子・鍛原多恵子・熊谷玲美・松井信彦(訳) (2010). 明日をどこまで計算できるか?「予測する科学」の歴史と可能性 早川書房 pp.122
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混沌に対する砦

 秩序やパターンを探し求めるのは人間の基本的な性質のようだ。宗教と同じく,科学もまた世界を体系づけて理解するという,混沌に対する一種の砦なのである。ケプラーが『宇宙の神秘』や『世界の調和』の執筆にいそしんでいるころ,彼自身の生活は完璧な混乱に陥っていた。子供のうち何人かが訳のわからぬ病気で亡くなり,移り住む先々の国は宗教戦争に巻き込まれていて,出世の道はあまり頼りにならぬ皇帝の手にあり,教会に楯突いたために大学での教職は得られず,駄目押しのように,70歳を超えた母親が町の人々に魔女呼ばわりされていた。
 ケプラーの母親の件を見れば,秩序を求める私たちの願望には暗い負の部分があることがわかる。子供が訳もなく死んだり,村が疫病で絶滅したり,凶作で町全体が飢えに襲われたりしたとき,人が誰かに罪を着せたがるのは別に驚くべきことでもない。ヨーロッパ中の多くの女性同様,ケプラーの母親もそうした犠牲者の一人だった。彼女は一見したところ風変わりな理屈っぽい女性で,民間医療に興味を抱いていた。私たちならたぶん彼女のような人間のことを風変わり(オッド)と呼ぶところだが,奇数(オッド・ナンバー)が神聖で偶数(イーブン・ナンバー)が争いと結びつけられるピュタゴラス的な世界においては,彼女は偶数組に入れられるだろう。隣人との揉め事の噂に尾ひれがついて魔女呼ばわりに発展した。彼女に着せられた罪は,薬を飲ませたり殴打したりして7人を傷つけ,3人を死に至らしめ,深夜に誰かのウシにまたがっていた(このことが魔女の証拠であるというのがこの地方の言い伝えだった)ことだった。彼女は裁判が始まるまで1年以上を牢獄で過ごした。最終的に拷問と火刑を免れたのは,ひとえに息子——彼自身にも宗教的権威との意見の相違という障害があるにはあったのだが——が介入したおかげだった。当時は女性がこうした刑に処せられるのはそれほど珍しいことではなく,現実にケプラーの母親を育てたおばはそうした最後を迎えていた。

デイヴィッド・オレル 大田直子・鍛原多恵子・熊谷玲美・松井信彦(訳) (2010). 明日をどこまで計算できるか?「予測する科学」の歴史と可能性 早川書房 pp.80-81

地球全体が生命体だった

 アリストテレスは,物質にはそれぞれ異なる欲求や願望をもつ生命力が備わっていると考えていた。また万物は四大元素——土,水,空気,火からできているとした。土は下降しようとする傾向が強く,水はそれよりは穏やかに下降しようとする。空気は上昇しようとし,火はより激しく空に向かって上昇しようとする。水中のあぶくが上に昇ってくるのは,水より上にいたいという「欲求」が空気にあるからなのだ。したがって運動は,物体がそれ自身に与えられた高さに達したいときや,外力がかかったときに起きる。いかなる物体についても,その説明が完全であるためには,その物体が存在する目的すなわち目的因を考慮せねばならないとされた。天空の星々は四大元素以外の第五元素であるエーテルから成る。エーテルはすべての元素の中でいちばん軽く,永久に続く運動を表わした円を描いて運動する。地球はあらゆるもののなかでいちばん重いので,宇宙の中心にあらねばならなかった。
 こうした目的論的な世界観においては,地球自体が一種の生命体であった。地震,風,流星などの自然現象は地球の「呼気」であるとされた。医師の息子だったアリストテレスは,つねに地球と人体を比較対照した。震えや痙攣は体内を吹き抜ける一種の風のせいであり,地震はより大きな規模の風のせいだと考えていた。

デイヴィッド・オレル 大田直子・鍛原多恵子・熊谷玲美・松井信彦(訳) (2010). 明日をどこまで計算できるか?「予測する科学」の歴史と可能性 早川書房 pp.54

数という宗教

 ピュタゴラス学派にとって,数は単に予言するための手段ではなかった。それは人間の理性と自然の仕組みを結びつけるものだったのだ。それぞれの数は固有の性質を備えた1種の神秘的な実体だった。これらの性質を理解することによって,人は世界の仕組みを理解し,未来を予見し,神々に近づくことができるとされていた。
 モナドは,それから宇宙が生み出される「1なるもの」——単子を意味し,神々の知性と結びついている。モナドが,「2」という数——デュアドに分化することは二極化を表した。一元的なものが二元的なものへと変化したのである。したがってデュアドは易変性,つまり外見を変える能力を示すとともに,行き過ぎた不節制,闘争,不確定性——志願者が怒りや情熱を抑制する能力によって選別される教団において,これらはすべて望ましくない性質であった——をも示した。イアンブリコスによれば,「悲嘆,泣くこと,嘆願,哀願は軟弱で卑しむべき性質であり,利益や欲望,憤怒,野心,さらにおよそこれらと性質を同じくするものも総じて争いの元凶である」。「3」という数——トライアドは万象に,始まり,中間,終わり,あるいは過去,現在,未来を与える。デルポイの三脚椅子同様,これが予言と結びつけられた数だった。「4」という数——テトラドは1年を構成する四季のように完全性を意味した。すべての数のなかでもっとも偉大でもっとも完全なものは,「10」という数——デカドであった。最初の4つの数の和が10になるように,デカドも自然の法則の和であった。ピュタゴラス教団は,前ページに示すテトラクテュスとして知られる,10個の点を矢じりの形にデザインしたものを神聖な象徴として用いた。

デイヴィッド・オレル 大田直子・鍛原多恵子・熊谷玲美・松井信彦(訳) (2010). 明日をどこまで計算できるか?「予測する科学」の歴史と可能性 早川書房 pp.38-39

中国のバブル

 ジュージラン・ブームは,その数年後に中国政府がいくつかの小規模な経済改革を許可した際に本格的に始まった。そのときの長春の状態は,1630年代のオランダとよく似ていた。経済活動は奨励され,金儲けをしようという意気込みとエネルギーがあったにもかかわらず,剰余金を投資する機会があまりにも少なすぎた。そのような状況の中で,ジュージランの栽培家たちは,近隣地域からの花の需要が増えて値が(当然のごとく)上がってくるのに乗じて,ジュージラン球根の投機にも乗り出したのである。
 1981年から1982年には,ジュージランの球根は100元,約15ポンドで売買されていた。中国国民の年収が低いことを考慮に入れると,これは相当な金額である。しかし,1985年には,もっとも人気の高い品種の球根が20万元,約3万ポンドという天文学的な値段で取引された。この値段は,オランダでのチューリップ・バブルの最高時において支払われた金額をも圧倒するものである。センペル・アウグストゥスの最高値が1株5千ギルダーから1万ギルダーほどで,それは裕福な商人の収入の4倍から8倍だったのに比べ,ジュージランの最高値は,中国における大学卒の平均年間収入の300倍以上に相当した。まさに驚くべき金額であった
 これらの事実を考えると,ジュージラン・バブルが他の花のブームに比べて短かったこともうなずける。最終的に,このバブルは1985年に終焉を迎えた。球根に投機するなど狂気の沙汰だと説いた批判的な新聞記事がいくつか出たため,この新しい業界に対する信用が落ちたのが原因であろう。球根市場はパニックに襲われて,早く球根を手放そうとして焦る業者たちであふれかえり,価格は急落した。
 この中国でのブームの頂点がチューリップ時代の頂点を超えたのと同様に,暴落の度合いもチューリップ時代よりもひどかった。最終的にジュージラン市場が安定したときには,その価格はなんと99パーセントも暴落していたのである。

マイク・ダッシュ 明石三世(訳) (2000). チューリップ・バブル:人間を狂わせた花の物語 文藝春秋 pp.310-311

スルタンの交代

 17世紀を通じて,無能であったり常軌を逸したスルタンばかりが続出して,オスマン帝国はその存続が脅かされるほどであったが,それには理由があった。16世紀初頭の壮麗王スレイマン1世の治世時から,イスタンブールにおける王室の状況はずいぶん変わっていた。トルコ王室の活力は徐々に消滅して,昔どおりの皇位継承のやり方を放棄せざるをえなくなった。コソボを従属国とした14世紀末のバヤジットの時代から,スルタンの座は,最初にそれを手に入れた王子のものとなることに決まっており,バヤジットの血にまみれた例にならって,新スルタンたちはその治世を始めるに当たって,兄弟たちがのちに反逆の計画を立てるのを防ぐために1人残さず死刑に処した。
 征服王メフメット2世の支配下で,この残虐な伝統は実際に法律として定められ,メフメット3世が1595年に即位したときには,何人かの乳飲み子も含めて19人もの兄弟がハレムから引きずり出され,天国で歓迎されるようにとまず割礼を施されてから,絹のハンカチで絞殺された。この残虐な伝統から,のちに残酷無慈悲で知られるようになる大胆不敵で果断なスルタンが何人も生み出されるのである。
 しかし,1607年,当時のスルタン,アフメット1世は,自分の愛する子供の1人が他の子供たちを皆殺しにするという考えに耐えられなくなった。そこで兄弟殺しを法的に薦める古い政策の代わりに,スルタン以外の兄弟を檻(カフェス)と呼ばれるハレム内の小さな一角に閉じ込める方策に切り替えた。
 カフェスは,宮殿の第4の中庭の西に位置しているいくつかの部屋から成っており,そこからはイチジク園やパラダイスガーデン,そしてボスポラス海峡の絶景が見わたせた。王子たちには,話し相手の宦官と性的慰めのための不妊の妾が与えられ,変わることのない日々の退屈さと,処刑される可能性が皆無ではないという不安感の入り交じる生活を送っていた。帝国の支配者が死ぬと,その長男が,生まれてからずっと閉じ込められていたカフェスから出され,新しいスルタンとして迎えられた。そして王室の血筋を引く他の男たちは,刺繍や象牙の指輪製作など,許可されていた数少ない気晴らしと,絶望の入り交じった静かな生活に戻るのである。

マイク・ダッシュ 明石三世(訳) (2000). チューリップ・バブル:人間を狂わせた花の物語 文藝春秋 pp.277-279

当時のビール

 いずれにしても,17世紀のオランダでビールを避けて通ることはできなかった。水はほとんど飲める状態になく(漂白工場をかかえるハールレムでは特に),お茶屋コーヒーは馴染みの薄い贅沢品であり,ワインは比較的高価な飲み物であった。ところがビールは食事と一緒に必ず飲まれていた。朝食には温めてナツメグと砂糖を入れて,また昼食と夕食時にはそのままで飲まれた。ハールレムで消費されるビールのすべてがアルコール度が高かったわけではなかった。ビールには喉の渇きを潤すための「シンプル」と,酔うための「ダブル」という2種類が生産され,いずれも大量に飲まれていた。

マイク・ダッシュ 明石三世(訳) (2000). チューリップ・バブル:人間を狂わせた花の物語 文藝春秋 pp.194

オランダの煙草

 1636年のオランダではパイプ煙草が大流行しており,ほとんど国民的な嗜好とまでいえるほどであった。当時,細長い陶製パイプで吸われていた煙草は,大部分がアメリカ大陸から輸入されてたが,オランダ国内でも生産されはじめていた。当時の医者が,煙草は疫病予防や歯痛,寄生虫病治療に非常に良く効く薬であるとさかんに宣伝したこともあって,喫煙者はほとんど休みなくパイプを吹かしていた。一方で煙草は精力を吸い取るので,喫煙男性は子種がなくなるとされていたにんもかかわらず,煙草を敬遠する者はほとんどいなかった。そのようなわけで,「金の葡萄亭」の店内は,ちょうど20世紀の禁煙オフィスの一角に設けられた喫煙室のように,むかつくようなヤニの匂いに満ちていたにちがいない。

マイク・ダッシュ 明石三世(訳) (2000). チューリップ・バブル:人間を狂わせた花の物語 文藝春秋 pp.192

参加した人は

 チューリップ・バブル現象はかなり誇張されたために,球根価格の暴落が当時の株式市況や他の商品取引や,オランダ全土の経済に多大な影響を及ぼしたとする説が流布していた。だが,事実はそれとは大きく異なっていた。チューリップ投機は始まりから終わりまで,オランダ経済の辺境で行われていたにすぎなかった。球根は専門の仲介業者ではなくアマチュアによって取引され,証券取引所の慣行(奇妙なものであったが)や規制の対象にはなからなかった。実際にはチューリップ取引は,証券取引所で盛んに行われていた株や商品取引を意図的に模倣したものであった。それはビジネスに長けた専門の金融関係者ではなく,過去に株など所有したこともない地方の人々や,貧しい都会人が活躍した場であった。

マイク・ダッシュ 明石三世(訳) (2000). チューリップ・バブル:人間を狂わせた花の物語 文藝春秋 pp.185

風との取り引き

 1635年の秋以降,チューリップ市場は根本的な変貌を遂げた。激増するフロリストは,愛好家の習慣などお構いなしに,まだ地中に埋まっている球根を売買する方式へと移行していった。球根は取引の単位ですらなくなり,代わって採用されたのは,商品である球根の詳細と,土から取り上げて受け渡しできる日を記した約束手形であった。混乱を避けるために,それぞれの球根が埋められた地面には,品種,重さ,持ち主の名を記した立て札が立てられた。
 この新システムにはいくつかの利点があった。まず球根が秋,冬,春を通じて取引できるようになったこと。そして持ち主が代わっても球根は掘り上げ時期まで土中に残しておけること。このような点は球根を育てる技術もなく,意図もないフロリストにとって魅力であった。だがここに落とし穴が潜んでいた。買い手は,自ら球根を吟味することも,実際の花を見る機会も失ったのである。品質の保証はいっさいない。購入する球根が実際に売り手の所有するものなのか,ひいては,その球根が実際に存在するのかすら確かめることができなくなったのである。
 この現象は「ウィンストハンドゥル」とオランダで呼ばれた。意味としては「風との取引」であるが,さまざまなニュアンスで用いられる。それは船乗りにとっては逆風で舵を切る困難さを表し,後世の株式仲介人にとっては,チューリップ業者が扱った品物と利益は風に舞う紙切れであったことを思い出させる警句となった。だが,当時のフロリストにとって,ウィンストハンドゥルとは,従来の規則に縛られない,取引の新形態を意味したのである。
 行き過ぎたブームはそこから始まった。約束手形が導入されて取引が1年を通じて可能になったことから,投機の性格を強めていった。現物の受け渡しは何ヶ月も先であるので,売買や転売は,球根ではなく手形で行われるようになった。

マイク・ダッシュ 明石三世(訳) (2000). チューリップ・バブル:人間を狂わせた花の物語 文藝春秋 pp.165-166

ギャンブル熱の広がり

 貯蓄熱同様,ギャンブル熱はあらゆる階層にしみ渡っていた。実業家ウィレム・ウッセリンクスは,賭けた金を金庫の肥やしにするオランダ人などいなかったと述べている。つまり,裕福な商人であれば,危険を覚悟で東インド諸島への貿易船に投資して運を試した。それより下の階級に属する者たちにとっての賭け事は,前述したようなきびしい日常生活の副産物であり,混み合った国でよりよい生活を求めるための手段であった。黄金時代のオランダで宝くじはいまと変わらぬ人気を誇っていたし,賭けに勝つことは庶民にとっての甘い夢であった。
 オランダ人のギャンブル好きは有名である。フランス人旅行家,シャルル・オジエは,ロッテルダムで荷物運びのポーターを見つけるのは不可能であると書いている。ポーターを1人選ぶやいなや,別のポーターがやってきて,客の職業を当てる賭けを始めるからだという。当時の記録によると,バーレント・バッカーという人物が険しいゾイデル海を越えて,テセル島からウィーリンゲンまでたどり着くという命がけの賭けに勝ったという話や,ブレイスウェイクに住む宿屋の主人,アブラハム・ファン・デル・ステーンがローマのある柱石の正確な形を当てる賭けに負けて,宿屋を取られたという話が残っている。さらに,戦中のオランダ兵士が,自分たちが戦っている戦闘の勝敗をめぐって賭けをしたとさえ伝えられている。
 このような常軌を逸した賭けに比べれば,チューリップはしごくまともな投資先であった。球根栽培は週に80時間ぶっ通しで蹄鉄打ちをするより,または機織りに励むよりずっと楽な作業である。チューリップの需要は着実に増え,高級品種に限れば,価格は上昇の一途をたどっていた。オランダ国民が,ギャンブラーの夢に賭けてみることにしたのも無理はない。それは安全な賭けであった。

マイク・ダッシュ 明石三世(訳) (2000). チューリップ・バブル:人間を狂わせた花の物語 文藝春秋 pp.154-155

17世紀オランダの労働者の生活

 17世紀,オランダの職人は低賃金による長時間労働を強いられていた。1日の仕事を終えて帰る場所は,わずかな家具のおかれた狭苦しい1間か2間の家であり,しかも住宅不足のせいで家賃は高かった。食事といっても粗末なもので,来る日も来る日も同じメニューの繰り返しである。そんな環境に封じ込められていた人びとにとって,球根を植えてその成長をのんびり見守るだけで豊かな暮らしが保証されるなど,夢のような話であった。
 職人たちは夜明け前から日没後まで働いた。1630年には,早朝から作業所が発する騒音に対して,織物加工業者は午前2時,帽子屋は午前4時より前に作業を開始することを禁じる条例が,いくつかの街で制定されたほどである。もっともきびしい取り締まりを受けたのが鍛冶屋で,鍛冶打ちの音が大きいからと,夜明けの鐘が鳴るまで作業を始めてはならないと命じられた。
 労働者の激しく長い労働を支えていたのは,チーズや酢漬けニシンの軽食と,1日でもっとも主要な食事であった昼食のみであった。昼食として常食されたのは,国民食ともいえるフットスポットという肉のシチューであった。
 羊の細切れ肉とパースニップ,酢,プルーンなどを脂で煮たこのシチューは,最低3時間は弱火でじっくり煮込む料理であるが,生活苦と過剰労働のもとでは1時間ほどで火から下ろして供されていたため,その味は,あるフランス人の感想を借りていうと,「塩かナツメグが大量に入った水に羊の膵臓と肉の細切れが混じっただけの,肉の風味などまるでない代物」であった。
 かくもまずいフットスポットでさえ,労働者家族ではめったに食べられないご馳走であった。肉を買えない者は,野菜とべとべとした黒ライ麦パン(当時は重量が5キロもあるかたまりで売られていた)が常食であった。貧しい家計では,一塊のパンが家族全員の1日分の食料であった。もっとも食べ物に不自由しなくても,オランダ人の食習慣はきわめて保守的であった。オランダ人にとっての魚介類はニシンかタラのみで,ムール貝は市場に出回っても最低の食べ物として軽蔑されていた。ある大邸宅に仕える召使いは,食事に鮭が出たことに気を悪くして,週に2回以上は鮭を出さないと雇い主に約束させたほどだった。

マイク・ダッシュ 明石三世(訳) (2000). チューリップ・バブル:人間を狂わせた花の物語 文藝春秋 pp.147-148

富と趣味のよさの象徴

 チューリップは移民だけに人気があったわけではない。古くからその土地にいた人々もチューリップに情熱を抱くようになっていた。やがてチューリップはオランダ共和国全土で栽培されるようになる。南はロッテルダムから北はフローニンゲンまで,豊富な種類のチューリップが栽培されるにつれ,専門的な愛好家の数も増加していった。ただし,オランダ共和国の愛好家は他のヨーロッパ諸国とは異なって貴族ではなかった。裕福で活動的な住民の一群からなる「門閥市民(ヘレント)」がオランダ共和国の新しい支配階級となり,チューリップの栽培を発展させた。
 ふつう裕福な実業家の2代目,3代目,または法律家や医師が門閥市民になった。それぞれ債権や外国貿易,または海の埋め立てや,湖や湿地を干拓して農地に変えるような利潤の高い開発事業に投資するほどの財産家であった。毎日あくせく働かなくても楽々暮らしていける人々は,永久に続くかに見えた支配階級を形成し,地方議会や市議会の要職を独占した。
 愛好家のうちで門閥市民ではない者は商人であった。裕福ではあるが,商売に精を出し,生計を立てなければならない人々である。この階級の人たちは,その職業に応じた尊称を授けられていた。たとえば,漁業にかかわるデ・ヨングという者は,「ニシンのデ・ヨング様」と呼ばれた。商人たちは商売で得た利益をまた商売に再投資することが多い。門閥市民ほど庭にかまっている時間はなかったが,それでも裕福な商人のうちで,チューリップ愛好家として名が知られる者も少なくなかった。
 まさにチューリップはオランダ共和国にはうってつけの花であった。最新の流行を感じさせるだけでなく,その繊細な色合いは,庭園で咲く他の花の比ではなかった。さらにチューリップは耐久性があるので,素人でも専門の園芸家と同じく,上手に栽培することができた。もともと球根栽培は砂混じりの痩せた土壌が適しているが,オランダ共和国にはそのような土壌の土地が数カ所ある。砂混じりの土壌は特にホラント州に集中していて,レイデンからハールレムの町に至る海岸線沿いは,乾燥した白い土で覆われている。それはさらに西のアムステルダム,北のアルクマールまで続く。
 だが,もっとも重要なことは,チューリップが富と趣味のよさの象徴と化したことである。1590年くらいから,オランダ共和国は,思いがけなくもヨーロッパ一裕福な国になりはじめていた。半世紀にもわたって途方もない大金がこの国に流れ込み,裕福な商人階級が大幅に増加した。美しいチューリップを手に入れようとふんだんに金をつぎ込んだのは,これら豪商であった。

マイク・ダッシュ 明石三世(訳) (2000). チューリップ・バブル:人間を狂わせた花の物語 文藝春秋 pp.110-111

パリのブーム

 宮廷貴族は移り気ですぐに別の流行を追いはじめるが,宮廷のチューリップ・ブームは,パリの社交界に重要な影響を及ぼす。優雅で趣味のよいパリの社交界のことは,17世紀のヨーロッパ中に知れわたっていて,パリの流行はすぐに他の地で真似されたのである。フランスが次の流行に乗り移ってからも,チューリップはヨーロッパの辺鄙な土地でもてはやされていた。西はアイルランドから東はリトアニアの森を訪ねた旅人が,パリで10年も20年も昔に流行したスタイルで着飾っている婦人を見つけたものである。ルイ13世の宮廷でほんの数年沸き上がったチューリップ・ブームのおかげで,チューリップはその後も数十年にわたって,ヨーロッパ中で寵愛された。
 まず最初にフランス宮廷の流行を真似たのはフランス国民であった。パリでチューリップが流行しはじめてまもなく,小規模のチューリップ・ブームが北フランスに広まった。のちにオランダで起きるブームの予告編のようなこの状況を伝える当時の記録は残されていない。だが,当時の記録を信用するなら,このチューリップ・ブームは相当なものであったようである。
 1608年にはある粉屋が,所有していた粉ひき場をたった1株のメーレ・ブリュン(Mere Brune)という名の園芸品種と交換したという。またある熱狂的愛好家は,1株の交配品種,ブラスリー(Brasserie ビール醸造所の意)を手に入れるために3万フラン相当の醸造所を手放したという。また別の説によると,ある花嫁の持参金は,父親が栽培し,結婚を祝って「娘の結婚」と名づけた新品種のローゼン系チューリップ1株だけであったという(もっとも新郎は,その贈り物に歓喜した)。どの話も出所は疑わしいが,またたく間にチューリップ・ブームがヨーロッパ全土に広まっていったのはたしかであろう。そして1620年には,どこよりもオランダ共和国でもてはやされ,ユリやカーネーションなどのライバルを凌駕していった。

マイク・ダッシュ 明石三世(訳) (2000). チューリップ・バブル:人間を狂わせた花の物語 文藝春秋 pp.108-109

チューリップの特異性

 このように色と色が見事なコントラストを織りなしながら模様になるところが園芸家の心をとらえるのである。チューリップ・バブルを理解するには,17世紀において,チューリップがほかの園芸用植物と大きく異なっていた点を理解しなければならない。チューリップの強烈で濃厚な色合いは,当時のどの花にも見ることができなかった。それはたんなる赤ではなく,燃えるような緋色であり,ありきたりの紫ではなく,かぎりなく黒に近い,魅惑的な深紫であった。そしてそれぞれの色が見事なまでにくっきりと輪郭を描いて,ほかの複色の花のように,1つの色がグラデーションで混じりあって別の色になるようなものではなかった。
 ローゼン系の赤やフィオレテン系の紫のような園芸品種を特徴づける色は,花弁の真ん中を下から上へ羽根状または炎状に伝い上がるか,花弁の先端で縁取りとなる。これらの色は,チューリップの茎にまだらに現れることもあるが,花弁の基部を着色することはない。種類によって,基部は白(ときに青みを帯びる)か黄色である。羽根状または炎状の模様はそれぞれ異なり,同じ園芸品種でよく似ていても,まったく同じ模様が現れることはない。
 ブーム初期の頃からオランダのチューリップ愛好家は,このような色斑が形づくる模様のわずかな差違をもとに花を等級分けしていたが,そこにはある厳密な基準が存在していた。もっとも価値があるとされた「最上級」のチューリップは,花弁全体がほぼ白か黄色で,花弁の中央か縁に沿って紫,赤,または茶の斑が細い縞状に入ったものであった。色合いが派手であると愛好家が判断した場合は「下級品」に分類されて評価は下がった。
 野生種のチューリップは丈夫ながらも,花が素朴で単色であるのに対して,オランダ黄金時代の園芸品種は,なぜあれほどまでに複雑で華やかな模様をなすようになったのであろうか?答は簡単かつ不気味なものである。花は病気におかされていたのである。チューリップ・バブル時に何百,いや何千ギルダーという法外な値段で取引されていた人気の新品種はみな,チューリップにだけ観戦するウイルスにおかされていた。鮮やかで豊富な色合いを生んだのも,チューリップだけに現れて収集家を虜にした強烈な色模様も,すべてはそのウイルスのせいであった。

マイク・ダッシュ 明石三世(訳) (2000). チューリップ・バブル:人間を狂わせた花の物語 文藝春秋 pp.98-99

ヨーロッパに渡ったチューリップ

 1562年秋のある日,アントワープの港にイスタンブールからの織物を積んだ一隻の船が入港した。地元の大聖人が荷受け人になっていた生地のなかに埋もれて入っていたもの,それは北ヨーロッパに初めて現れたチューリップの球根であった。
 生地を注文したフランドル商人は品物のなかに球根の包みを見つけて仰天したこの取引でたっぷり儲けたトルコの売り手がお礼代わりに忍ばせたらしい。ところが商人にしてみれば,そんなわけのわからない物はほしくもなかった。きっと珍しいトルコ玉ねぎか何かだと思った商人は,ほとんどを火であぶり,油と酢をかけて食べてしまった。残った分を裏のキャベツ畑に植えた。
 1563年の春,このアントワープの菜園に奇妙な花がいくつか厩肥と堆肥のなかから顔をのぞかせた。トルコ玉ねぎの収穫をあてにしていた畑の主にとってはやや腹立たしい光景であったが,赤や黄色の花を付けた繊細で優雅な姿は,野菜畑のくすんだ色合いのなかでひときわ鮮やかな彩りを放っていた。商人の夕食から逃れることができたそのチューリップこそ,おそらくオランダで初めて咲いたものであったろう。さすがにそのフランドル商人も,キャベツ畑の新顔がただものではないと察して,翌日に訪ねてきた客を庭に連れ出した。
 客は近隣のメケレンに住む実業家ヨーリス・ライで,大の園芸好きで知られている。もちろんライもその花とは初対面だった。北ヨーロッパではまだチューリップの存在が知られていなかったし,ゲスナーのスケッチおよび観察はまだ出版されていなかった時期である。だがライは,赤と黄色の珍しい花に価値があり,保存しなければならないことを知っているアントワープでは数少ない人物の1人であった。熱烈な植物好きで,珍しい植物を集めてはメケレンにある自宅の庭に植え,当時の著名な園芸家と頻繁に手紙をやり取りしていたライは,商人に許可を得てキャベツ畑の球根を自分の庭に移植した。そして彼は園芸仲間に手紙を書いて自分の発見を伝え,助言を求めたのである。

マイク・ダッシュ 明石三世(訳) (2000). チューリップ・バブル:人間を狂わせた花の物語 文藝春秋 pp.70-71

能力がないことへの心配

 アメリカの子どもが間違うのを恐れるのには,もうひとつの強力な理由がある。生まれつき能力がないと思われてしまうのを心配しているのである。心理学者のキャロル・ドゥエックはアメリカの児童を20年間研究し,スティーヴンソンとスティグラーが目にした文化的違いの大きな理由のひとつをはっきりと指摘した。ドゥエックは実験で,一部の生徒については新しい課題を修得しようとした努力を誉めた。別の生徒集団については,頭の良さや成績を誉めることにした。「ジョニー,あなたって算数の天才ね」など,子どもがよくできたときに親が言いそうな言葉をかけたのである。しかしこうした単純なふたつのメッセージは生徒たちに大きな違いを生んだ。アジアでのように,最初は「できない」場合でも努力を誉められた子は次第に成績も上がり,生まれつきの才能を誉められた子より勉強が好きになっていた。また,間違いをしたり不備な部分を指摘されても,よくわかるようになるために役立つ情報といったとらえかたをしていた。一方,生来の才能について誉められた子どもは,実際に学んでいる内容よりも,自分がほかの仲間にどのくらい優秀に見えているかを気にかけるようになっていた。彼らはうまくできないことや失敗することに臆病になり,どんどん自滅的な思考サイクルに入っていった。何かがうまくできないと,続いて起こる不協和(「ぼくは賢いはずなのに,へまをした」)を解消するために,学習や修得中の内容に興味を失っていくのである(「ぼくは,やる気になればできるけど,やる気がないんだ」)。こうした子どもは,間違いをしたり責任をとるのを怖がる大人になっていく。自分に生まれつきの才能が欠けている証拠になるからだ。

キャロル・タヴリス&エリオット・アロンソン 戸根由紀恵(訳) (2009). なぜあの人はあやまちを認めないのか:言い訳と自己正当化の心理学 河出書房新社 pp.307
(Tavris, C. & Aronson, E. (2007). Mistakes Were Made (but not by me): Why We Justify Foolish Beliefs, Bad Decisions, and Hurtful Acts. Boston: Houghton Mifflin Harcourt.)

過ち=愚かさ

 アメリカの文化には,あやまちイコール愚かさという連想があまりに根強いため,必ずしもすべての文化に同じような「あやまち恐怖症」があるわけではないとわかると誰もが驚いてしまう。1970年代,心理学者のハロルド・スティーヴンソンとジェームズ・スティグラーは,アジアとアメリカの児童で算数の成績に差があるのを興味深く思った。5年生になるころには,日本で最下位の成績の子どもたちが,アメリカで最上位だった子どもたちより良い成績をとるようになっていたのだ。理由を知ろうと,ふたりは10年間をかけてアメリカ,中国,日本の小学校の児童を比較した。ヒントがつかめたのは,日本の小学生が黒板に立方体を描く問題で苦心惨憺する姿を見たときだった。その男の子は45分間の授業中,ずっとこの問題に取り組み,間違った図を描いては消し描いては消ししており,見ていると心配でかわいそうになるほどだった。しかし本人はいたって平気で,ふたりの研究者はなぜ自分たちのほうがおろおろしているのだろうと不思議だった。「アメリカの文化はあやまちに対して,心理的に高い代償を支払わせるのです」とスティグラーは当時を思い出す。「しかし日本ではどうもそうではないようでした。この国では,失敗やミス,思い違いはすべて,学習過程の自然な一部とされているのです」(日本の少年は最後には図が描け,クラスじゅうから歓声があがった)。またアメリカの親や教師の児童は,日本や中国よりもはるかに,算数の才能は生まれつきだと考えていることもわかった。対照的にアジアでは,算数の成績がよいのは,ほかの科目での成果と同様に,ひたすら努力した結果だと考えられている。もちろんその途中で間違うこともあるだろうが,そうやって覚え,向上していくのであり,間違いはけっして愚鈍さを意味しない。

キャロル・タヴリス&エリオット・アロンソン 戸根由紀恵(訳) (2009). なぜあの人はあやまちを認めないのか:言い訳と自己正当化の心理学 河出書房新社 pp.305-306
(Tavris, C. & Aronson, E. (2007). Mistakes Were Made (but not by me): Why We Justify Foolish Beliefs, Bad Decisions, and Hurtful Acts. Boston: Houghton Mifflin Harcourt.)

意識できれば

 自分は今,不協和を感じているのだと意識できると,自動的に動き出す自己防衛システムが都合のいいようにその不協和を解消するのに任せてしまわずに,もっと鋭敏で賢明で意識的な選択ができるはずだ。不愉快でいつも攻撃的な同僚がグループ会合で画期的な案を出したとしよう。あなたには「何も知らないくせに,あんな女がいいアイデアを出せるはずがないさ」とつぶやいて,大嫌いな女だから(そして正直に言うと,部長に認められようとする競争相手でもあるから)怒りにまかせて,彼女の提案をつぶしてしまうという選択肢がある。しかし一瞬,心を鎮めて,「なかなかの提案じゃないか。このプロジェクトの仲間が出したとしたら自分はどんな気がするかな」と考えてみる手もある。それがほんとうに優れたものであったら,たとえ個人的には嫌いなままでも,あなたはその案を支持できるのだ。メッセージと,それを届けるメッセンジャーは別物と考えてもいい。

キャロル・タヴリス&エリオット・アロンソン 戸根由紀恵(訳) (2009). なぜあの人はあやまちを認めないのか:言い訳と自己正当化の心理学 河出書房新社 pp.297
(Tavris, C. & Aronson, E. (2007). Mistakes Were Made (but not by me): Why We Justify Foolish Beliefs, Bad Decisions, and Hurtful Acts. Boston: Houghton Mifflin Harcourt.)

暴力のエスカレーション

 こうした研究は,背筋の寒くなるような結果を意味している。自尊心の高い加害者プラス無力な被害者,出てくる答えは暴力のエスカレーションである。こうした暴力性は,たとえば加虐趣味者(サディスト)や精神病質者(サイコパス)といった,異常な人間だけのものではない。ごくふつうの人間,つまり子どもがいたり,恋人がいたりする人々で,みんなと同じように音楽や食事やセックスや噂話を楽しむ「文明的な」人々も暴力性を発揮できるし,事実,発揮している。これは社会心理学で完璧に認識されている知見のひとつであるが,私たちの多くにとってはもっとも受け入れがたい事実でもある。「殺人や拷問をやった者と私のどこに共通点があるのだろうか」という多大な不協和が生じるからである。やつらは邪悪でどうしようもない連中だと考えたほうがずっと気持ちが休まるというものだ。私たちは誰も戸口で彼らの姿など見かけたくないと思う。そんなことになったら,新聞連載漫画の主人公ポゴが言った有名な科白,「敵に出会ってみたら,それは自分たちだった」という恐ろしい真実に直面してしまうかもしれない。

キャロル・タヴリス&エリオット・アロンソン 戸根由紀恵(訳) (2009). なぜあの人はあやまちを認めないのか:言い訳と自己正当化の心理学 河出書房新社 pp.263
(Tavris, C. & Aronson, E. (2007). Mistakes Were Made (but not by me): Why We Justify Foolish Beliefs, Bad Decisions, and Hurtful Acts. Boston: Houghton Mifflin Harcourt.)

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