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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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夫婦のあり方

 うまくいっている夫婦は,自分を甘やかすような考え方を相手にも当てはめようとする。お互いの間違いは状況のせいであり,思いやりのある優しい行為はその人柄によるものなのだ。相手が分別のない行動をしたり不機嫌なときは,相手のせいではない何かの出来事による結果だとして考慮の対象外とする。「かわいそうに。ものすごいストレスの毎日なのね」「あんな言い方をしたのもわかるな。何日も腰痛のひどい日が続いていたのだから」と考えるのだ。しかし何かすてきなことをしてくれたら,優しくて愛らしい性格ゆえと考える。「あの人ったら,誕生日でもないのに花を買ってきてくれたわ。なんてすてきな人なの」と妻が思えばいいのである。
 幸せな夫婦は相手に対して,「疑わしきは罰せずの法則」を適用し,つまり不確かなときは相手に有利なように考えるようにし,不幸な夫婦はまったく逆のことをする。不幸な夫婦は,片方がすてきなことをしてくれても,単なる気まぐれだとか,しかたなくやったことだとしか考えない。「そうね,たしかに花を買ってきてくれたわ。でもきっと会社じゅうの男性が奥さんに花を買っていったのよ」。そして勝手なことや迷惑なことをされると,人間性の欠点が原因だと考える。「あんな口の効き方をするなんて,どうしようもない女だからなのさ」。家じゅう自分を追い回して,話をしてと迫るデブラについて,頭のおかしな人間のするようなことをしているとフランクは言わなかったし,自分が口を利かないのを不満に思ってそうした行動をしたとも言わなかった。彼は妻のことを頭のおかしな人間だと呼んでいるのだ。デブラも,外食のあとで会話を避けようとする夫について,疲れているからとか,1日の最後を言い合いで終わりたくないからだとは考えない。夫はネクラで退屈な人間だと彼女は言っている。

キャロル・タヴリス&エリオット・アロンソン 戸根由紀恵(訳) (2009). なぜあの人はあやまちを認めないのか:言い訳と自己正当化の心理学 河出書房新社 pp.223-224
(Tavris, C. & Aronson, E. (2007). Mistakes Were Made (but not by me): Why We Justify Foolish Beliefs, Bad Decisions, and Hurtful Acts. Boston: Houghton Mifflin Harcourt.)
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有罪宣告の2通り

 しかし私たち人間の認知バイアスや心の盲点を謙虚に認めることなく,ニセ科学で得られる確信を喧伝するような教育訓練を施していては,2通りの形で間違った有罪宣告が増えてしまう。まず,法の執行者は確信ゆえに,あまりに早急に結論に飛びついてしまう。警察は誰かが犯人と決めつけると,ほかの可能性に扉を閉ざしてしまう。地区検事は,すべての証拠がそろっていなくても,特に人々の注目を集めた派手な事件などは,すぐに追訴を決定する。そしてこれをマスコミに発表し,証拠が不確かだとわかってきても,もはや引っ込みがつかない。そしてもうひとつは,容疑者が起訴されて有罪が確定すると,無実を示す証拠があとから出てきても関係者は最初の確信ゆえに,これを無視したくなることである。

キャロル・タヴリス&エリオット・アロンソン 戸根由紀恵(訳) (2009). なぜあの人はあやまちを認めないのか:言い訳と自己正当化の心理学 河出書房新社 pp.201
(Tavris, C. & Aronson, E. (2007). Mistakes Were Made (but not by me): Why We Justify Foolish Beliefs, Bad Decisions, and Hurtful Acts. Boston: Houghton Mifflin Harcourt.)

無実の者の自白

 無実の人間に自白させてしまうのは,警察の取調べ中のミスとしては最大級に危険なものだが,刑事も検察側も判事も大半はこうした事態など起きるはずがないと思っている。「してもいないことを白状させられるなんて馬鹿げた考え方だ」と,あのジョシュア・マーキスも言う。「まさに(現代の)トゥインキー的意見[トゥインキーは,究極のジャンクフードと見なされている金色のスポンジケーキで,何年も腐らないという都市伝説がある]であり,最低のゴミ科学だ」。たいていの者は同意見だろう。無実なのに罪を告白するなど想像もつかない。断固,抗議する。絶対に主張を曲げない。弁護士を呼ぶ……はずだろう?しかし,まったくの無実と判明して釈放された収監者を研究した結果,15パーセントから25パーセントは実行してもいない犯行を自供していた。社会科学者や犯罪学者はこうした事例を分析し,実験によってメカニズムを解明しようとした。

キャロル・タヴリス&エリオット・アロンソン 戸根由紀恵(訳) (2009). なぜあの人はあやまちを認めないのか:言い訳と自己正当化の心理学 河出書房新社 pp.185-186
(Tavris, C. & Aronson, E. (2007). Mistakes Were Made (but not by me): Why We Justify Foolish Beliefs, Bad Decisions, and Hurtful Acts. Boston: Houghton Mifflin Harcourt.)

信じればそう見える

 1980年代に子どもの虐待を専門に扱い始めた多くの心理療法士は,子どもが性的虐待を受けたかどうかを判断する自分の能力に絶大な自信をもっている場合が多かった。結局,自分たちには判断の裏付けとなる長年の臨床経験があると彼らは言うのだった。しかし発表される研究は次々に,彼らの自信は誤ったものであることを教えてくれた。たとえば臨床心理学者のトマス・ホーナーらは,3歳の娘に性的暴行をおこなったとして告発された父親の裁判で,臨床専門チームが下した評価を精査した。専門家らは訴訟手続きの記録を読み直し,子どもへの聞き取りや親と子のやりとりを録画したテープを見,臨床所見を見直した。全員に与えられた情報はまったく同じだったが,性的虐待は事実だという者と実際には起きていないという者に意見は分かれた。そこでふたりの研究者はさらに129名のメンタルヘルス専門家に依頼し,この件での証拠を評価し,幼女が父親に犯された可能性を予測し,親権に関する勧告を求めた。ここでも,確実に性的暴行はおこなわれたという者から絶対におこなわれていないという者まで意見は分かれた。親権についても,父親が二度と娘に会わないようにするのを望む者と父親に全面的な養育権を与えたいとする者がいた。家庭内での性的虐待は頻発していると考えがちな専門家はどちらともとれる証拠を自説の補強に利用したし,こうした風潮が事実であるのか懐疑的な者は,暴行があった証拠とは見なさなかった。懐疑心をもたない専門家について,ふたりの研究者は「論より証拠」すなわち「見れば信じられる」をもじって,「証拠より論」すなわち「信じればそう見える」と言った。

キャロル・タヴリス&エリオット・アロンソン 戸根由紀恵(訳) (2009). なぜあの人はあやまちを認めないのか:言い訳と自己正当化の心理学 河出書房新社 pp.152-153
(Tavris, C. & Aronson, E. (2007). Mistakes Were Made (but not by me): Why We Justify Foolish Beliefs, Bad Decisions, and Hurtful Acts. Boston: Houghton Mifflin Harcourt.)

イルカに善意があるのか

 船が遭難し,荒れ狂う海で溺死しそうになった船乗りが遭難したという,心あたたまるニュースがときおり報じられる。船乗りの脇に海中からイルカがふいに姿を現し,優しく,しかし確実にその体を鼻で押しながら海岸まで連れていってくれたというのだ。イルカはほんとうに人間によく似ていて,私たちの命を救ってくれたと思いたくなる。しかし待ってほしい。人間は自分たちのようには泳げないとイルカは知っているのだろうか。ほんとうに人助けをするつもりだったのだろうか。この疑問に答えるためには,イルカの鼻先で優しく押されながらさらに遠くへ連れていかれ,沖で溺れて行方知れずになった船員が何人いるかを知る必要がある。彼らは何も話してくれないので,事情は不明だ。こちらの情報も入手できたならば,結論はこうなるかもしれない。イルカには善意も悪意もなく,ただ遊び好きなだけだ,と。

キャロル・タヴリス&エリオット・アロンソン 戸根由紀恵(訳) (2009). なぜあの人はあやまちを認めないのか:言い訳と自己正当化の心理学 河出書房新社 pp.143-144
(Tavris, C. & Aronson, E. (2007). Mistakes Were Made (but not by me): Why We Justify Foolish Beliefs, Bad Decisions, and Hurtful Acts. Boston: Houghton Mifflin Harcourt.)

宇宙人に!

 引き金を引くのは恐怖の体験だ。「ある晩,真夜中に目が覚めると,まったく体が動きませんでした」と,スーザンが話を聞いた人物は話し始めた。「怖くなって,何者かが家に入り込んだと思いました。叫びたいのに,まったく声が出ないのです。ほんの一瞬のことでしたが,怖くてもう寝つけなくなるには十分でした」。無理もないことだが,この人物は発生した事実に意味を見つけ,そのほか抱えている問題も解決してくれるような説明を欲しがっている。別の人物は「記憶にある限り,ずっとうつの状態です」と語った。「何かがひどく調子が悪くて,それが何か知りたいのです」。性的な機能不全,体調管理の苦労や,自分を困惑させ悩ませている経験や症状を訴える者もいた。「目が覚めたとき,どうしてパジャマが床に散らばっているのだろうかと不思議でした」「そのころは鼻血がひどかったんです。今は全然です」「背中に丸い傷がいくつもあるなんて,どこでできたのでしょう」
 なぜこうした人々は,こうした症状や心配事の説明として宇宙人による誘拐を選んだのだろうか。「夜中に暑かったからパジャマを脱ぎ捨てたのだろう」とか「太ってきたようだ。少し運動をしなくてはな」「そろそろプロザック[抗うつ剤]を飲むか,カウンセリングでも受ける時期かもしれない」といった,もっと合理的な説明を検討しないのだろうか。睡眠障害やうつ状態,性的機能不全やよくある身体的症状を理由づけられるあらゆる説明がそろっているというのに,なぜよりによって,いちばん無理のある宇宙人による誘拐を選んだのかとクランシーは考えた。現実に体験しない限り誰も信じてくれそうもない出来事を覚えているなどと,なぜ主張できるのだろうか。答は,アメリカの文化にも,「体験者」の欲求や人格にも関わっている。「体験者」というのは,宇宙人に誘拐されたと信じる人々が自称する言いかたである。
 体験者は宇宙人による誘拐について,まず,同じ体験者の話を聞いたりこれに関する話を読んだり聞いたりすることで,自分の症状に対する説明として理屈に合うと信じるようになる。話というのは何度もくりかえされるとすっかりなじんできて,疑っていた気持ちも次第に小さくなるものだ。子どものころに悪魔を見たということを信じてもらおうとするような荒唐無稽な話でさえもである。たしかに宇宙人に誘拐話は,アメリカの大衆文化にも本,映画,トークショーにも,ありとあらゆるところに登場している。そして逆に,この話が体験者たちの欲求にぴったりと合っている。クランシーによって判明したところでは,体験者の大半は伝統的な宗教を与えられて育っているが,途中でこれを捨て,チャネリング(何か高次の存在との特別な能力による交信)や別のヒーリング法に重点を置くニューエイジ思想にのりかえている。彼らは一般の人よりも空想物語や他人からの示唆に影響を受けやすく,情報源の混乱による面倒も起こしやすいし,自分で考えたり直接に体験したことと,テレビで見たり読んだりしたことを混同しやすい傾向もある(シャーマーは,こうした人々とは対照的に,自分が見た宇宙人は60年代のテレビシリーズの産物だと認識している)。おそらく重要な点は,体験者の恐ろしい白昼夢の,感状に訴える激烈さや本人にとっての重要性を,宇宙人ゆう開設ははっきりと形にしてくれたということだろう。彼らにとって,昔からの「睡眠中の金縛り」説は何も心に訴えなかったが,宇宙人誘拐説はまさにリアルに感じられたのだ。

キャロル・タヴリス&エリオット・アロンソン 戸根由紀恵(訳) (2009). なぜあの人はあやまちを認めないのか:言い訳と自己正当化の心理学 河出書房新社 pp.120-122
(Tavris, C. & Aronson, E. (2007). Mistakes Were Made (but not by me): Why We Justify Foolish Beliefs, Bad Decisions, and Hurtful Acts. Boston: Houghton Mifflin Harcourt.)

想像力の肥大化

 記憶の分野では屈指の科学者であるエリザベス・ロフタスはこのプロセスを「想像力の肥大化(イマジネーション・インフレーション)」と呼んでいる。何かを想像すればするほど,詳細な部分を付け加えながらそれを膨らませて実際の記憶に繰りこんでいくからだ(神経レベルでどのような作用になるのかを知ろうと,肥大した想像力が脳へ送りこまれる過程をMRIで追跡した科学者さえいた)。たとえば,ジュリアナ・マッツォーニらは被験者に夢の内容を語らせ,そのあとでこれを「本人専用」に(わざとインチキの)解析をして結果を伝えた。研究者らは被験者の半数に,その夢はあなたが3歳にもならないころ,いじめっ子にひどい目に遭ったのを意味するとか,どこか外の広い場所で迷子になったり,ともかく幼少時にこの種の騒動を経験したのを意味すると話した。こうした解析を受けなかった対照被験者と比較すると,彼らは解析された内容が実際に起きたと信じる傾向が強く,うち約半数は自分で経験の細部を思い出すようになった。別の実験での被験者は,全国的な保険調査用に学校の保健室の先生があなたの小指から皮膚の標本を採取した時のことを思い出してくださいと指示される(こうした調査は実施されていない)。こうした現実ではないはずのシナリオを想像するだけで,被験者はこれが実際の出来事だと自信を深めてしまう。そして自信が深まるほど,偽の記憶に感覚的な詳しい情報が付け加えられていく(「保健室はひどい臭いでした」)。非現実的な出来事について説明してくださいと被験者に指示するだけでも,研究者は想像力の肥大化を間接的に引き起こすことができた。認知心理学者のマリアンヌ・ゲアリーによって判明したところでは,人は何かが起きたのを説明しようとすると,まずそれを自分で現実味をもって感じるのだという。子どもは特にこうした示唆に弱い。

キャロル・タヴリス&エリオット・アロンソン 戸根由紀恵(訳) (2009). なぜあの人はあやまちを認めないのか:言い訳と自己正当化の心理学 河出書房新社 pp.116
(Tavris, C. & Aronson, E. (2007). Mistakes Were Made (but not by me): Why We Justify Foolish Beliefs, Bad Decisions, and Hurtful Acts. Boston: Houghton Mifflin Harcourt.)

記憶の比喩の変遷

 記憶について語るときの比喩は,時代や技術に沿ったものが使われる。何世紀も前の哲学者は記憶を,そこに何かを押し付ければ必ず型が残るから柔らかな蝋板に喩えた。印刷機が登場すると,記憶とは図書館のようで,あとから読み直せるように出来事や事実を保管する場所だと人々は考えた(現在の私たちでも,ある程度の年齢の者はこのように考えていて,頭の中のごちゃごちゃになった引き出しに入っている情報を「並べ替えて整理する」といった言い方をする)。映画や録音技術が発明されると,記憶とは一種の撮影用カメラであり,何かが生まれる瞬間にスイッチを入れるとあとは自動的にすべてを録画していくものとなった。現在の私たちは,コンピュータの用語で記憶のことを考え,なかにはもっとRAMの容量が欲しいとぼやく人もいるようだが,ともかくも発生した現象のほとんどは「保存」されていると私たちは考える。脳はこうした記憶をすべて検索するとは限らないが,ともかく記憶はそこに存在し,私たちが取り出し,ポップコーンでも用意して鑑賞するのを待っているのである。
 こうした比喩は人気があって,いかにもと思わせ,しかしながら間違っている。記憶とは,遺跡にでも眠る骨のように脳の何処かに埋もれているわけではないし,地面からカブでも引っこ抜くように掘り出せるわけでもなければ,彫り出したあとに完璧に保存できるわけでもない。私たちは自分に起きたことをすべて記憶するのではなく,突出したものだけを選択している(私たちが次々に何かを忘れていなかったら,先週の木曜の気温やバスで聞いたくだらないおしゃべり,かけたことのあるすべての電話番号などのゴミ情報で頭の中は満杯になりきちんとはたらかなくなってしまうはずだ)。さらに,記憶を再生する作業は,ファイルを取り出したりテープを再生するのとはまったく別物である。記憶とは,いくつかの脈絡のないフィルムの断片を見て,残りのシーンはどんなものかを想像するようなものだ。詩やジョークなど丸暗記で思い出せる情報もあるだろうが,複雑な情報を思い出すときに私たちは,それがひとつのストーリーになるように形づくっていく。

キャロル・タヴリス&エリオット・アロンソン 戸根由紀恵(訳) (2009). なぜあの人はあやまちを認めないのか:言い訳と自己正当化の心理学 河出書房新社 pp.97-99
(Tavris, C. & Aronson, E. (2007). Mistakes Were Made (but not by me): Why We Justify Foolish Beliefs, Bad Decisions, and Hurtful Acts. Boston: Houghton Mifflin Harcourt.)

必死に

 ジェフリー・シャーマンらは一連の実験をおこない,偏見の強い人々はその偏見と,それとは相容れない情報とのあいだで協和を保とうと必死になることを実証している。彼らは,X氏やミネソタのご近所の女性のように,不協和を生じる証拠をどうにか追い払ってしまおうとして,偏見と逆行する情報よりも,偏見と同異見の情報に注意を向けようとする。ある実験では,(同性愛傾向のない)学生たちに,ゲイの「ロバート」を評価させる。ロバートは,いかにもゲイのステレオタイプに当てはまる行動8つ(たとえば,創作ダンスを習う)と,当てはまらない行動8つ(日曜にはテレビでフットボールを観戦する)をおこなう人物だという。ゲイに反感をもつ学生たちはロバートについての証拠をねじ曲げ,ゲイに偏見のない学生よりも彼のことをはるかに「女性的」だと述べ,自分の偏見を保持しようとした。相容れない事実が引き起こす不協和を解消するために,彼らはこうしたものは状況による人為的なものだと片付けようとした。そうだね,たしかにロバートはフットボールを見るだろうけれど,いとこのフレッドが来ていたからに過ぎないのよ。

キャロル・タヴリス&エリオット・アロンソン 戸根由紀恵(訳) (2009). なぜあの人はあやまちを認めないのか:言い訳と自己正当化の心理学 河出書房新社 pp.85
(Tavris, C. & Aronson, E. (2007). Mistakes Were Made (but not by me): Why We Justify Foolish Beliefs, Bad Decisions, and Hurtful Acts. Boston: Houghton Mifflin Harcourt.)

「私たち」と「それ以外」

 しかし,一度「私たち」というカテゴリーをつくってしまうと,否応なくほかの人々は「私たち以外」として感知される。「私たち」の中味は一瞬で入れ替え可能だ。私たちは良識ある中西部の人間で,あなたたちは見栄っ張りの海岸族だ。私たちは環境を考えた日本車のプリウスに乗っているけれど,あなたたちはガソリン食い虫だ。あるいは(野球シーズンに誰かふたりを適当に選べば)ボストン・レッドソックスのファン対ロサンゼルス・エンゼルスのファンでもいいだろう。「私たち的要素」は実験室でも1分でつくりだせる。意義汁のイギリスの学生を使って,アンリ・タジフェルらがある古典的な実験で実証したとおりである。タジフェルはいくつも点を打ったスライドを学生たちに見せ,点の数を当てさせる。彼は適当に学生を選んで,きみは「過大評価型」だね,きみは「過小評価型」だね,と指摘し,このあとで別の作業をさせる。この段階では,学生は「過大評価型」あるいは「過小評価型」とわかっている相手の学生に点数をつけることになっている。すると,各自は隔てられた場所で独り作業をしているにもかかわらず,ほとんど全員が「過大評価型」にしろ「過小評価型」にしろ自分と同じタイプのほうに高い点数をつけた。作業から解放されて外に出てくると,学生たちは互いに「きみはどっちだい?」と訊ね合い,同じタイプであると歓声をあげ,違うとわかるとなぜか残念そうにしていた。

キャロル・タヴリス&エリオット・アロンソン 戸根由紀恵(訳) (2009). なぜあの人はあやまちを認めないのか:言い訳と自己正当化の心理学 河出書房新社 pp.80
(Tavris, C. & Aronson, E. (2007). Mistakes Were Made (but not by me): Why We Justify Foolish Beliefs, Bad Decisions, and Hurtful Acts. Boston: Houghton Mifflin Harcourt.)

ステレオタイプによるカテゴリ化

 偏見は,情報をカテゴリーに分けて知覚し処理しようとする人間の性向から生まれてくる。「カテゴリー」というのは「ステレオタイプ」より上等で中立的な呼び名だが,実際にはふたつは同じものだ。認知心理学者によれば,ステレオタイプ,つまり物事を単純化し類型化して考えるのは一種のエネルギー節約法で,このおかげで私たちは過去の経験をもとに効率的な判断を下したり,新しい情報を迅速に処理して記憶を消去したり,何かの集団同士の実質的な差異を意味づけたり,他人の行動や思考をある程度の精度で予測できたりする。私たちはステレオタイプと,ステレオタイプがもたらす情報をちゃっかり当てにして,危険を避けたり,友人になれそうな人物に近づいていったり,学校や職業を選びとったり,大勢の人がいる部屋の中であの人こそが運命の人だと決めたりするのである。
 これはステレオタイプの優れた点だ。一方,欠点としては,ステレオタイプは目の前のカテゴリー内の差を均一化し,カテゴリー同士の差は過度に強調してしまう。共和党支持の洲(レッド・ステート)と民主党支持の州(ブルー・ステート)の州民は互いを共通点のない人間だと考えがちだが,カンザス州の多くの州民は学校で進化論を教えてほしいと願っているし,カリフォルニア州の多くの州民はゲイ同士の結婚を認めていない。私たちは自分と同じ性別や支持政党,人種,国籍の仲間については人それぞれと認めるのに,自分と異なるカテゴリーに属する人々についてはほんの数回出会った経験だけから一般論を引き出して,全部まとめて「彼ら」と呼んでしまいがちだ。こうした習慣はごく幼いうちから始まる。ステレオタイプとはどんなものかを長年研究している社会心理学者のマリリン・ブルーアーは,自分の娘が幼稚園から戻ると「男の子って泣き虫だから」と口をとがらせていたのを報告している。はじめての登園日に親恋しさから泣いてしまった男の子をふたり見たのが証拠だそうだ。ブルーアーはさすが科学者で,泣いた女の子はいなかったのかと訊ねた。「そりゃ,いたわよ」と少女。「でもほんの何人かだけ。私は泣かなかったもの」

キャロル・タヴリス&エリオット・アロンソン 戸根由紀恵(訳) (2009). なぜあの人はあやまちを認めないのか:言い訳と自己正当化の心理学 河出書房新社 pp.78-79
(Tavris, C. & Aronson, E. (2007). Mistakes Were Made (but not by me): Why We Justify Foolish Beliefs, Bad Decisions, and Hurtful Acts. Boston: Houghton Mifflin Harcourt.)

徐々に絡め取られる

 生物倫理学者にして思想家で,医学博士号ももつカール・エリオットは,小さな贈り物が受け取った側を絡めとっていく様子をさまざまな角度から書き記している。彼の弟で精神科医のハルが,大きな製薬会社の講演者に名前を連ねそうになった顛末を話してくれたという。会社からの最初の依頼は,地元のグループにうつ病について話すことだった。お安いご用,一種の公益事業だ,と弟氏は考えた。次は同じテーマで,話す場所は病院だそうだ。そのうち,会社は彼が話す内容にいろいろ注文をつけ,テーマもうつ病ではなく抗うつ剤にしてほしいと言ってきた。それから,全国の講演旅行にご招待しましょう,「金になりますよ」ときた。そして彼らの会社が新しく開発した抗うつ剤について講演してほしいという。彼は当時を次のようにふりかえった。

兄貴が女性で,パーティに出席していると思ってみてくれ。上司もその場にいて,「ねえ,ちょっと頼みごとをいいかい。あそこにいる男性のお相手をしてやってくれないか」と言う。見るとちょっといい男で,自分には特定の恋人もいないから「ええ,かまわないわ」と答える。そして気がついてみると,何のマークもない飛行機の貨物室に乗せられて,バンコックの売春宿に売られていくところなんだ。「なに,これ?こんなことをオーケーした覚えはないわ」と兄貴は言うだろうさ。でもほんとうはこう自分に訊くべきなんだ。「体を売るなんて話,どこが始まりだったのかしら。ひょっとしてあのパーティ?」

キャロル・タヴリス&エリオット・アロンソン 戸根由紀恵(訳) (2009). なぜあの人はあやまちを認めないのか:言い訳と自己正当化の心理学 河出書房新社 pp.72-73
(Tavris, C. & Aronson, E. (2007). Mistakes Were Made (but not by me): Why We Justify Foolish Beliefs, Bad Decisions, and Hurtful Acts. Boston: Houghton Mifflin Harcourt.)

視覚的盲点と心理的盲点

 脳には生まれつき盲点が,それも視覚的盲点と心理的盲点がある。脳が仕掛けてくる最高に巧妙なトリックのひとつが,自分にだけは盲点などないといううれしい錯覚を本人に与えることだ。不協和理論とは,ある意味では,盲点の理論であり,人はどのようにして,そしてなぜ,自分の行動や思いこみの是非を問いかけてくれたはずのたいせつな出来事や情報に気づかないように目を閉じてしまうのかを考えるものだ。確証バイアスだけでなく,脳にはほかにも自分かってな習慣が備わっていて,そのせいで私たちは自分の感じかたや意見が正確で現実的で公平なものだと正当化できてしまう。社会心理学者のリー・ロスはこの現象を「幼稚なリアリズム」と呼んだ。自分が事物や現象を「まさしくあるがままに」明確に感知していると思いこむ,誰もが逃れられない現象だと彼は言う。私たちはまともな人ならば誰でも自分と同じように物事を見ていると思いこんでいる。意見が食い違うならば,彼らにはきちんと見えていないのだ。幼稚なリアリズムでは,ふたつの想定によって論理の迷路ができてしまう。ひとつ,偏見のない公正な人は正しい意見に同意すべし。ひとつ,私が理屈に合わない意見をもつはずがないから,私の意見はすべて理屈に合っているはずである。だから,私の意見に反対する者でも,ここに連れてきて話を聞かせて物の道理をわからせれば同意させられるはずだ。同意しないならば,彼らに偏見があるからに違いない——。

キャロル・タヴリス&エリオット・アロンソン 戸根由紀恵(訳) (2009). なぜあの人はあやまちを認めないのか:言い訳と自己正当化の心理学 河出書房新社 pp.58-59
(Tavris, C. & Aronson, E. (2007). Mistakes Were Made (but not by me): Why We Justify Foolish Beliefs, Bad Decisions, and Hurtful Acts. Boston: Houghton Mifflin Harcourt.)

実はいい奴

 ただ幸いにも,誰かへの寛大な行為が善意と憐れみの連鎖を生むという,悪循環ならぬ「善の循環」をつくりだすメカニズムがあることも,不協和理論は教えてくれる。誰かに善いことをすると,特にそれがふとした気まぐれや偶然によるものである場合は,人は自分の寛大な行為をあたたかく見つめるようになる。その人物に善行を施したという認識は,相手に抱いていたかもしれない否定的な感情とのあいだに不協和を生み出す。善いことをしたあとで,「私としたことが,どうしてあんな嫌なやつに,善いことをしてしまったのだろう。ということは,あいつは思っていたほど嫌なやつではないのかな。いや,じつは仲直りしてやっていい好人物かもしれないぞ」と論理が回っていくのである。

キャロル・タヴリス&エリオット・アロンソン 戸根由紀恵(訳) (2009). なぜあの人はあやまちを認めないのか:言い訳と自己正当化の心理学 河出書房新社 pp.40-42
(Tavris, C. & Aronson, E. (2007). Mistakes Were Made (but not by me): Why We Justify Foolish Beliefs, Bad Decisions, and Hurtful Acts. Boston: Houghton Mifflin Harcourt.)

子どもの正当化

 子どもは早い時期に自分の攻撃的な行動を正当化する方法を覚える。弟や妹をぶって泣かせてしまうと「あっちが先だよ!だから,ぼくがぶったんだ!」とすぐに主張する。たいていの親はこの種の子どもっぽい自己正当化になど意味はないと思うし,実際,たいていは無意味な正当化である。しかし,弱い者いじめをする少年たち,従業員を虐待する雇用者,互いを傷つけ合う恋人たち,抵抗をやめた容疑者をいつまでも殴り続ける警官,マイノリティの人々を投獄し拷問にかける独裁者,一般市民に残酷な行為をおこなう兵士にも,同じメカニズムがはたらいているとわかれば,ぞっとしないだろうか。どの例でも悪循環が始まっている。攻撃的行為が自己正当化を生み,自己正当化がさらなる攻撃性につながる。ドストエフスキーはこうした過程を熟知していた。作家は,『カラマーゾフの兄弟』で,兄弟の父親で一筋縄ではいかない人物のフョードル・パヴロヴィッチにはこう述懐させる。「彼はかつて『なぜそれほどまでに憎むのか』と訊かれたことがあった。そこで彼はお得意のあつかましさで答えたものだ。『教えてやろうか。あいつはおれに何も悪いことなどしていない。なのに,おれはあいつを汚い手で,はめたんだ。だからあのときから,おれはあいつを憎むことにしたのさ』」


キャロル・タヴリス&エリオット・アロンソン 戸根由紀恵(訳) (2009). なぜあの人はあやまちを認めないのか:言い訳と自己正当化の心理学 河出書房新社 pp.40-41
(Tavris, C. & Aronson, E. (2007). Mistakes Were Made (but not by me): Why We Justify Foolish Beliefs, Bad Decisions, and Hurtful Acts. Boston: Houghton Mifflin Harcourt.)

怒りは増幅していく

 精神分析では,感情の解放による魂の浄化すなわちカタルシスは精神衛生上よろしいものだとされていて,八つ当たり人形でよくわかるように,私たちの文化ではひとつの根強い思いこみが生まれた。腹が立ったときは,どなったり暴れたりして発散すると怒りがおさまるという思いこみだ。この人形を投げつけたり,サンドバックを殴ったり,妻をどなりつけたりすれば気分がすっきりするという。しかし現実には,何十年もの研究の成果からまったく逆の結果が出ている。攻撃的な方法で怒りを発散させると,かえって気分は落ちこみ,血圧は上がり,ますます腹が立つのである。

キャロル・タヴリス&エリオット・アロンソン 戸根由紀恵(訳) (2009). なぜあの人はあやまちを認めないのか:言い訳と自己正当化の心理学 河出書房新社 pp.39
(Tavris, C. & Aronson, E. (2007). Mistakes Were Made (but not by me): Why We Justify Foolish Beliefs, Bad Decisions, and Hurtful Acts. Boston: Houghton Mifflin Harcourt.)

反対意見を読んでも

 まったくの話,自分の意見に反対する情報をきちんと読んでさえ,私は正しいとの思いこみは深まる一方だ。ある実験で,死刑に反対あるいは賛成の人々を選び,優れた学術記事を2本,読んでもらう。死刑によって凶悪犯罪が防げるかという,感情論になりがちなテーマの記事で,一方は抑止できる,もう一方は抑止できないと結論づけていた。被験者が感情を理性的に処理しているならば,少なくとも,これはなかなか複雑な問題だと気がつき,相手の節にほんの少しでも歩み寄るはずだ。しかし不協和理論の予想では,被験者は記事を歪曲する道を探すはずだった。自分と同じ意見の記事をひしと抱きしめ,素晴らしい出来だと賞賛する。もうひとつの相容れない記事は手厳しく批判し,小さな不備を騒ぎたて,だからこんな記事に左右される必要はないという。事実,このとおりになったのである。どちらも相手方の記事を信用できないとし,自分の意見にますます固執した。

キャロル・タヴリス&エリオット・アロンソン 戸根由紀恵(訳) (2009). なぜあの人はあやまちを認めないのか:言い訳と自己正当化の心理学 河出書房新社 pp.31
(Tavris, C. & Aronson, E. (2007). Mistakes Were Made (but not by me): Why We Justify Foolish Beliefs, Bad Decisions, and Hurtful Acts. Boston: Houghton Mifflin Harcourt.)

不協和の回避

 2003年,イラクが大量破壊兵器など保有していないことが明白になると,この戦争と,戦争を始めたときにブッシュが掲げた理由を支持してきた人々はイヤというほど不協和を味わうことになった。私たちは大統領を信じた。そして私たち(と大統領)は間違っていた。どうやって不協和を解消しようか。同じようにフセインは大量破壊兵器をもっていると考えていたとしても,野党の民主党にとっては,解決はまだ楽だった。共和党はまた間違ったよ。大統領は嘘をついたか,少なくとも虚偽の情報に耳を傾けた。あんな男を信じたなんて私たちは愚かだった,と言えばいい。しかし共和党にとっては,不協和はもっと激烈なものだった。半数以上は証拠を受けつけないことでこれを解消し,オンライン調査会社のノリッジ・ネットワークス社による調査に対し,兵器は発見されたと思うと答えている。調査担当者は言う。「一部のアメリカ人にとっては,この戦争を支持したいがゆえに,大量破壊兵器は発見されなかったという情報は頭からはじきだされてしまったのでしょう。あれだけニュースで流され,国民も注目したのに,こんなにも間違った情報が広まっているところをみると,彼らは認知的不協和を味わいたくなかったようです。」正解,である。

キャロル・タヴリス&エリオット・アロンソン 戸根由紀恵(訳) (2009). なぜあの人はあやまちを認めないのか:言い訳と自己正当化の心理学 河出書房新社 pp.30
(Tavris, C. & Aronson, E. (2007). Mistakes Were Made (but not by me): Why We Justify Foolish Beliefs, Bad Decisions, and Hurtful Acts. Boston: Houghton Mifflin Harcourt.)

ハーバードの寮って

 タイラーは思わず笑ってしまった。ジェニー,ケリー,ジニーの3人は,2年生では誰が見ても,美人ベストスリーだ。3人は,1年生の時もルームメイトだった。誰と誰がルームメイトになるかは無作為に決められることになっているはずなのだが,誰も,そんなことは信じていなかった——特に,1年生の時,彼女たちの寮室に,下5桁が“3-FUCK”になる電話番号が割り当てられてからは,偶然だと思う者はいなくなった。ハーバードの寮の管理事務所は,そういう妙な悪ふざけをするので有名だった。類似した名前の学生が同室にされるということも多かった。タイラーが1年生の時には,「バーガー」という名前と「フライズ」という学生が同室になっていたし,それから「ブラック」と「ホワイト」という組み合わせの部屋が少なくとも2つあった。そして,キャンパスでベストスリーのブロンド美女,ジェニー,ケリー,ジニーが同室で,しかも電話番号は“3-FUCK”というわけだ。おそらく誰かクビにしたほうがいいのでは,と思われる。

ベン・メズリック 夏目大(訳) (2010). facebook:世界最大のSNSでビル・ゲイツに迫る男 青志社 pp.87-88

ハーバードのコア科目

 ハーバードのコア科目は必修というだけでなく,学校側にとっては学校の「思想」「哲学」を体現したもの,と言える。学生は皆,全授業時間の少なくとも4分の1はコア科目を履修しなくてはならない。その背後には,ハーバードに来たものは全員が偏りのない教養を見に着けるべき,という思想が隠されている。コア科目は,外国文化,歴史,道徳,数学,科学,社会,などの分野に分かれている。その理念は確かに素晴らしいのだが,コア科目の実態は,その崇高な理念からはほど遠い。誰一人,その科目に関心を持って履修するわけではないために,授業の内容はどうしても「最大公約数的」なものにならざるを得ないからだ。たとえば,歴史学など,人文科学系の講座では,民間伝承や神話などを学ぶ,というくらいで深く専門的なことを学ぶような講座はない。講義中,ほとんどの時間を寝て過ごす学生も多くなってしまう。そういう人文科学系の講座は,ふざけて「ギークのためのグリーク[グリーク=Greekにはギリシャ語,という意味と同時に,理解できないもの,という意味がある]」などと呼ばれることもある。反対に,物理学の初歩を学ぶような講座は,「詩人のための物理学(Physics for Poets)」と呼ばれる。人類学系の風変わりな講座がいくつもあるが,どれも浮世離れし過ぎていて,実生活にはほとんど,いや,まったく役立ちそうもない。コア科目があるために,ハーバードの卒業生のほとんど全員が,ヤノマミ族を扱った講座を少なくとも1つは受ける。ヤノマミ族は,アマゾンの熱帯雨林で今でも石器時代さながらの生活をしている気性の激しい少数部族である。ハーバードの卒業生の中には,政治学や数学のことはよく知らないという者もいるが,ヤノマミ族について尋ねれば,彼らの気性が激しいこと,部族内で抗争がよく起きること,長い棒で戦うこと,派手なピアスをつける風習があること,そのピアスは,ハーバードスクエアのスケー度ボード場でたむろしている連中よりもすごいことなどは全員が知っている。

ベン・メズリック 夏目大(訳) (2010). facebook:世界最大のSNSでビル・ゲイツに迫る男 青志社 pp.54-55

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