読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。
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操作主義にはさまざまな考え方がありますが,科学的な情報の消費者にとって最も有益なのは,最も一般的な形で考えることです。すなわち操作主義とは,科学的理論の概念は,測定することができる観察可能な事象に何らかのかたちで基づいている,もしくは関連づけられている必要がある,というシンプルな考え方です。概念を観察可能な事象に関連づけることによって,概念が公共のものとなり,ある個人の感覚や直観から引き離され,測定可能な操作を実行できる人は誰でも検証できるようになります。
キース・E・スタノヴィッチ 金坂弥起(監訳) (2016). 心理学をまじめに考える方法:真実を見抜く批判的思考 誠信書房 pp.51
もちろん,科学の知が仮のもので,理論から導かれる仮説が誤りである可能性をはらんでいるとしても,すべての事象が研究対象になるとは限りません。何度も確かめられ,実験によって将来覆される可能性が極めて低いことから法則と呼ばれるようになった関連性も,科学には多く存在します。ある日,血液が静脈や動脈を循環しなくなるとか,地球が太陽を周回しなくなることなどを私たちが発見する可能性は極めて低いのです。こうしたありふれた事実は,これまで述べてきたタイプの仮説ではありません。そんなことに科学者は興味を示しません。なぜなら,それらの法則は十分に立証されているからです。科学者が興味を持つのは,すでに分かっていることの周辺にある,本質的な事態のさまざまな側面だけです。疑いようもないほど十分に確かめられたことには,興味がないのです。
キース・E・スタノヴィッチ 金坂弥起(監訳) (2016). 心理学をまじめに考える方法:真実を見抜く批判的思考 誠信書房 pp.44
科学における仮説とは,一群のデータを説明し,実験結果についての予測に用いられる,相互に関係したひとまとまりの概念のことです。仮説とは,(より一般的で包括的な)理論から導かれた具体的な予測のことです。現在まで生き残っている理論の中には,確かめられた多くの仮説が内包されています。したがって,生き残っている理論の理論構造は,膨大な数に上る観察結果と整合するものなのです。ところが,理論から導かれた仮説が多くのデータと矛盾するようになると,科学者は,そのデータについてのより良い解釈をもたらしてくれるであろう新しい理論を構築しようとします(あるいは,もっと頻繁に行なわれることは,元の理論を修正することです)。このように,科学的な議論の対象となる理論は,ある程度はすでに修正されてきたものであるため,手元にあるデータと相容れない予測をもたらすことはほとんどないのです。こうした理由から,そのような理論は,単なる推測や勘,直感ではないのです。
キース・E・スタノヴィッチ 金坂弥起(監訳) (2016). 心理学をまじめに考える方法:真実を見抜く批判的思考 誠信書房 pp.28-29
簡単に言うと,独立した学問分野としての心理学の正当性を示すものは,実際には二つしかありません。第一に,心理学は,人間や動物のありとあらゆる行動を,科学という手法で研究しているということです。第二に,この心理学の知見から導き出されるさかざまな応用も,科学に基づいているということです。こうしたことが当てはまらなければ,心理学の存在理由は皆無でしょう。
キース・E・スタノヴィッチ 金坂弥起(監訳) (2016). 心理学をまじめに考える方法:真実を見抜く批判的思考 誠信書房
この本の至るところで述べているように,新しいテクノロジーの存在それ自体が文化的な問題を生み出すのでも,魔法のように解決するのでもない。事実,それらの構造はたいていの場合,既存の社会的区分を強化する。設計者がツールを意図的に偏見を含んだかたちで構築していることもある。しかしそれ以上に,こうした事態はうっかり起こってしまうことが多い。制作者たちがいかに自分たちの偏見が設計上の選択を特徴づけるかを理解していなかったり,設計者が取り入れたより大きな構造的生態系の中に,偏見を生み出す制限が副産物として存在していた場合のことだ。
ダナ・ボイド 野中モモ(訳) (2014). つながりっぱなしの日常を生きる:ソーシャルメディアが若者にもたらしたもの 草思社 pp.265
親たちが,うちの子は「本物の」人々よりコンピュータを好むと苦々しく言うのを私はよく耳にする。しかしながら,私が会ってきた子どもたちは,できることなら直接友だちと会うほうがずっといいと繰り返し言ってきた。この隔たりは,社交性というものはどのように目に見えるのかに関して,親とティーンが異なる見解を持っている故に生じている。親たちはティーンが友達と集まる機会として,教室や放課後の活動や約束したうえでお互いの家を訪れることを重視するが,ティーンは大人の監視の及ばないところでの,もっと広い仲間の輪の気楽な集まりに興味を持っている。大人は,ティーンにはたくさんの社交の機会があると感じているが,私が会ったティーンはその反対だと感じている。
ダナ・ボイド 野中モモ(訳) (2014). つながりっぱなしの日常を生きる:ソーシャルメディアが若者にもたらしたもの 草思社 pp.138-139
プライバシーは固定化した構成概念ではない。それは何かの情報あるいは環境に自ずと備わっている特質ではない。それは人々が印象や情報の流れや文脈を管理することにより社会的状況をコントロールしようとするのに用いられるプロセスなのだ。皮肉屋はしばしばプライバシーを必要とするのは何か隠すものがある人間だけだと言う。しかし,その考え方は論点を紛らわしくさせるだけだ。プライバシーは個人の成長に必要不可欠であり,価値あるものだ。大人になりつつあるティーンエイジャーは,自分が重要な存在であると感じたいものだ。プライバシーは,社会の中で周縁化された,もしくは比較的恵まれていない者たちにとって,特に大きな意味がある。プライバシーを守ろうとするティーンエイジャーの努力はしばしば彼らに力を及ぼす存在によって弱体化されているが,彼らは決してプライバシーを放棄してはいない。それどころか,ティーンはこれまで無力な人々が脈々と用いてきた戦略を現代化し,利用して,常にプライバシーを守るための新しい方法を試みている。コンテンツへのアクセスをコントロールすることでプライバシーを見出す代わりに,多くのティーンは意味へのアクセスをコントロールしている。
プライバシーと公共性は相反する概念と考えるのは簡単であるし,多くのテクノロジーは,利用者がプライベートでいるか公的でいるかどちらかを選ぶ前提で組み立てられている。しかし現実には,プライバシーも公共性もどちらもあいまいなものだ。多くのティーンは,公共空間を前にプライバシーを退けるのではなく,ネット上のパブリックの中でプライバシーを守る新しい方法を探っている。このようにプライバシーを守るために革新的な戦略を開発することで,ティーンはしばしば力を手にする。プライバシーはただ主体に依存しているわけではない。プライバシーを守ることができるということは,ひとつの主体性の表現なのだ。
ダナ・ボイド 野中モモ(訳) (2014). つながりっぱなしの日常を生きる:ソーシャルメディアが若者にもたらしたもの 草思社 pp.122-123
ティーンがソーシャルメディアを楽々使っているからといって,彼らがテクノロジーによく通じているとは限らない。ティーンの多くは,彼らは「デジタルネイティブ」だという言説から想像されるデジタルの達人とはほど遠い。私が会ったティーンたちは,検索エンジンのグーグルは知っていたが,そこから質の高い情報を得るためにどう質問を組み立てればいいのか,ほとんどわかっていなかった。彼らはフェイスブックの使い方を知っていたが,そのプライバシー設定の理解は,彼らのアカウント利用法と噛み合っていなかった。社会学者エスター・ハーギッタイの辛辣な言葉の通り,ティーンの多くはデジタルネイティブというより,デジタルナイーヴ(世間知らず)だ。
ダナ・ボイド 野中モモ(訳) (2014). つながりっぱなしの日常を生きる:ソーシャルメディアが若者にもたらしたもの 草思社 pp.38-39
ソーシャルメディアによって実現された力に何ひとつ新しいものはない。私の祖父母が結婚前に互いに書いた手紙はいまでも残っており,永続性がある。学校新聞に掲載されたメッセージやトイレの壁の落書きは長きにわたって人目に触れる。ゴシップと噂は歴史的に口伝えで野火のように広がるものだ。そして検索エンジンが調査の効率を確実にあげたとはいえ,人に尋ねるという行為自体は決して新しいものではない。検索エンジンもそれについては誰も知らないと言うかもしれない。何が新しいのかといえば,これらの古くからある行為に携わるにあたって利用可能なテクノロジーの機能をソーシャルメディアが提供するにあたって,いまある社会状況を増幅させ,変容させるという部分だ。
ダナ・ボイド 野中モモ(訳) (2014). つながりっぱなしの日常を生きる:ソーシャルメディアが若者にもたらしたもの 草思社 pp.26-27
こうしたでーたをすべて分析した結果は,他の研究者が示したものと類似していた。子供のチェス能力を説明する最大の要因は練習量であり,練習時間が多いほどチェス能力を評価するさまざまな指標のスコアは良くなった。それより影響力は小さいが,もう一つ有意な要因だったのが知能で,IQが高いほどチェス能力は高くなった。意外なことに空間視覚能力は重要な要因ではなく,記憶力や情報処理速度のほうが影響があった。すべてのエビデンスを検討した結果,研究チームはこの年齢の子供の場合,生まれつきの知能(IQ)も影響はするものの,成功を左右する最大の要因は練習であると結論づけた。
とはいえ被験者のうち「エリート」プレーヤーだけに注目すると,まったく違った光景が見えてきた。ここで言うエリートとは,地元や全国,ときには国際レベルの試合に頻繁に出場する23人で(全員男子)で,チェスレーティングの平均は1603,最も高いプレーヤーで1835,最も低いプレーヤーは1390だった。つまりすでにかなりの腕前に達している子供たちだ。大人と子供を含めてチェスの試合に出場する人のレーティングが低い子供でも大人のプレーヤーに十分チェックメイトをかけられるレベルだった。
この23人のエリートプレーヤーについても練習量がチェス能力の最大の決定要因であることに変わりはなかったが,知能は明らかな影響を及ぼしていなかった。エリートグループのIQの平均値は,被験者57人全体の平均値よりも多少高かったが,エリートグループの中ではIQが低いプレーヤーのほうが平均して見るとチェスの能力は高かった。
この事実をじっくり考えてみよう。この若いエリートプレーヤーの間では,IQが高いことはまったく有利に働いていないどころか,むしろ不利に働いているようだった。研究チームはその理由について,IQが低いエリートプレーヤーのほうがたくさん練習する傾向があり,それによってIQが高いエリートプレーヤーよりチェスの腕前が上達したと説明している。
この研究は,過去の研究に見られる明らかな矛盾,すなわち年少のプレーヤーの場合はIQの高さがチェス能力に結びついているにもかかわらず,大人で試合に出場する選手やチェスマスター,グランドマスターの場合はIQとチェス能力に相関が見られないという点についても,きちんと説明をしている。この説明がわれわれにとってきわめて重要なのは,それがチェスプレーヤーのみならず,あらゆる能力の発達に当てはまるからだ。
アンダース・エリクソン ロバート・プール 土方奈美(訳) (2016). 超一流になるのは才能か努力か? 文藝春秋 pp.302-303
しかも科学をはじめ,さまざまな分野で他を圧倒するような独創的成功を収めた人々の研究では,クリエイティビティは長期間にわたって努力と集中力を維持する能力と切り離せない関係にあることが明らかになっている。それはまずある分野のエキスパートになるのに必要な,限界的練習の構成要素と完全に一致している。たとえばノーベル賞受賞者の研究では,一般的に最初の論文を発表するのは同年代の研究者より早く,その後も生涯にわたって同分野の他の研究者を大幅に上回る数の論文を発表しつづけることが明らかになった。要するに誰よりも努力したわけだ。
アンダース・エリクソン ロバート・プール 土方奈美(訳) (2016). 超一流になるのは才能か努力か? 文藝春秋 pp.271
第一に,どんな場面にも役立つ汎用的な「意志の力」が存在するという科学的証拠はまず見当たらない。たとえば全国レベルのスペリングビー・コンテストに出場するために膨大な時間勉強するだけの「意志の力」を持つ生徒たちが,ピアノやチェスや野球を練習しろと言われたら同じだけの「意志の力」を発揮できるという証拠は何もない。どちらかと言えば既存のエビデンスは,意志の力がかなり状況に左右されるものであることを示している。一般的に誰にでも楽に努力できる分野とそうではない分野があるのだ。
アンダース・エリクソン ロバート・プール 土方奈美(訳) (2016). 超一流になるのは才能か努力か? 文藝春秋 pp.225
これが練習の効果を最大限に高めるコツだ。ボディビルや長距離走など,トレーニングの大部分が単純に何かを繰り返す作業のように思えるスポーツでも,一つひとつの動きを正しくやることに意識を集中すると上達が加速する。長距離走選手の研究では,アマチュア選手は走ることの辛さや疲労感から逃れるために楽しいことを考えたり空想にふけったりする傾向があるのに対し,トップクラスの長距離選手は自らの身体に意識を集中させ,最適なペースをつかみ,レースの間それを維持するのに必要な調整をしていく。ボディビルあるいは重量挙げで,今の能力では限界というウエイトを挙げるときには入念に準備をして,完全に集中しなければならない。どんな活動でも能力の限界に挑戦するときには,100%の集中力と努力が必要だ。そしてもちろん,筋力や持久力がそれほど必要とされない知的活動や楽器演奏,芸術活動などは,そもそも集中せずに練習してもまったく意味がない。
アンダース・エリクソン ロバート・プール 土方奈美(訳) (2016). 超一流になるのは才能か努力か? 文藝春秋 pp.207-208
限界的練習の観点に立てば,何が問題かは明らかだ。講義やミニコースなどに参加しても,フィードバックを得たり,新しいことに挑戦してミスを犯し,それを修正することで徐々に新たな技能を身につけていく機会はまったくと言ってよいほどない。それではアマチュアのテニスプレーヤーがテニス雑誌を読んだりときどきユーチューブの動画を見てうまくなろうとするのと変わらない。それで何かを学んだ気になるかもしれないが,腕が上がることはほとんどない。しかもネット上のインタラクティブな継続医療教育では,医師や看護師が日々の診療現場で直面するような状況を再現するのはきわめて難しい。
アンダース・エリクソン ロバート・プール 土方奈美(訳) (2016). 超一流になるのは才能か努力か? 文藝春秋 pp.187
現在就いている仕事など,すでに土地勘のある分野でエキスパートを探すなら,優れたパフォーマンスの特徴とは何かをよく考え,それを測る方法を考えてみよう。評価に多少,主観的要素が含まれていても構わない。それから優れたパフォーマンスに重要と思われる点で最も評価が高い人を探そう。常にベストとそれ以外を区別できるような客観的で再現可能な指標を見つけることが理想だが,不可能な場合はできるだけそれに近いものを目指そう。
アンダース・エリクソン ロバート・プール 土方奈美(訳) (2016). 超一流になるのは才能か努力か? 文藝春秋 pp.152
しかし,本物のエキスパートが誰か見きわめるのがかなり難しい分野もある。たとえば最高の医師,最高のパイロット,あるいは最高の教師を見きわめるにはどうすればいいのか。最高の企業管理職,あるいは最高の建築家や最高の広告代理店の経営者となると,もう見当もつかない。
ルールに基づく直接対決,あるいは明確で客観的なパフォーマンスの評価指標(スコアやタイムなど)が存在しない分野で最高のプレーヤーを探すときは,誰かの主観的判断はさまざまな偏見に影響を受けやすいことを肝に銘じておきたい。他人の有能さや専門能力を評価するとき,われわれは学歴,経験,社会的評価,年齢,ときには愛想の良さや外見的魅力に影響を受けることが研究によって示されている。
たとえばすでに指摘したとおり,われわれはベテランの医師ほど経験年数の少ない医師より優れていると思い込んだり,複数の学位を持っている人は一つだけ持っている人,あるいは大学を出ていない人より有能だと考えがちだ。楽器の演奏のような他の分野より客観性のありそうなところでも,審査員は演奏者の評判,性別,身体的魅力など演奏とは無関係の要素に影響されることを示す研究もある。
アンダース・エリクソン ロバート・プール 土方奈美(訳) (2016). 超一流になるのは才能か努力か? 文藝春秋 pp.149
あるテーマについて知れば知るほど心的イメージは詳しくなり,新たな情報を吸収するのも容易になる。「1. e4 e5 2. Nf3 Nc6 3. Bb5 a6……」といったチェスの棋譜はふつう人にはちんぷんかんぷんだが,チェスのエキスパートが見れば試合全体の流れを追い,理解することができる。同じように音楽のエキスパートであれば,新しい曲の楽譜を見ただけで弾かなくてもそれがどんな調べになるかわかる。そして「限界的練習」や学習心理学という領域全般についてすでに知識のある読者なら,他の読者より楽に本書の情報を吸収できるはずだ。いずれにせよ本書を読み,議論されているトピックについて考えることであなたの中に新たな心的イメージが生まれ,今後そのテーマについて呼んだり学んだりするのが容易になるはずだ。
アンダース・エリクソン ロバート・プール 土方奈美(訳) (2016). 超一流になるのは才能か努力か? 文藝春秋 pp.107-108
練習しているのが主に身体的な技能であっても,適切な心的イメージを作り上げることはその重要な構成要素となる。新しい技を習得しようとしている飛び込み選手を考えてみよう。練習の大部分は,その技の瞬間ごとのあるべき姿,またそれ以上に重要なこととして,適切な身体の位置関係や動きがどんな感覚のものであるかという明確な心的イメージを形成することに費やされる。もちろん限界的練習は身体そのものの変化にもつながる。たとえば飛び込み選手なら足や腹筋,背中,肩などが発達する。だが身体の動きを生み出し,正確にコントロールするのに必要な心的イメージがなければ,どれだけ身体が変わっても意味がない。
アンダース・エリクソン ロバート・プール 土方奈美(訳) (2016). 超一流になるのは才能か努力か? 文藝春秋 pp.98
そしてここで指摘したいのが,従来型の学習方法と,目的のある練習,あるいは限界的練習の大きな違いだ。従来型の学習方法はホメオスタシスに抗うことを意図していない。意識的かどうかは別として,従来型の方法は学習は生まれつきの才能を引き出すことであり,コンフォート・ゾーンからそれほど踏み出さなくても特定の技術や能力を身につけることは可能だという前提に立っている。こうした見方に立てば,練習は所与の才能を引き出すためのものであり,それ以上にできることはない,ということになる。
一方,限界的練習の場合,目標は才能を引き出すことだけではなく,才能を創り出すこと,それまでできなかったことをできるようにすることである。それにはホメオスタシスに抗い,自分のコンフォート・ゾーンの外に踏み出し,脳や身体に適応を強いることが必要だ。その一歩を踏み出せば,学習はもはや遺伝的宿命を実現する手段ではなくなる。自らの運命を自らの力で切り拓き,才能を思い通りに創っていく手段となる。
アンダース・エリクソン ロバート・プール 土方奈美(訳) (2016). 超一流になるのは才能か努力か? 文藝春秋 pp.85