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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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ハーバードのクラブ

 長年,マスコミに盛んに取り上げられてきたイェール大学の秘密結社「スカル&ボーンズ」と同じように,ハーバードでの「ファイナルクラブ」もやはり,ハーバードのキャンパス内で秘密を守ることはほとんどできていなかった。いずれも男性だけで構成される8つのクラブは,ケンブリッジのあちこちに点在する地区何百年にもなる邸宅を本拠とし,何世代にもわたって世界の指導者や金融界の巨人,パワーブローカー(陰の実力者)たちを多数輩出してきた。また同時に重要なのは,8つのクラブのいずれかの会員である,というだけで即,社会の中で一定以上の身分が保証されることだ。クラブにはそれぞれ個性がある。ルーズベルト一族やロックフェラーもメンバーだった最古のクラブ「ポーセリアン」のように恐ろしく排他的なところもあれば,2人の大統領と億万長者を何人か排出した「フライクラブ」のように開放されたクラブもある。それぞれ個性はあるが,いずれのクラブも大きな影響力を持っていることに違いはない。「フェニックス」は,8つの中で最高級の名誉があるクラブというわけではないが,色々な意味で「社交界の頂点」だった。マウント・オーバーン・ストリート323にある荘厳な建物が,「フェニックス」の本拠である。選ばれし者たちは,毎週金曜と土曜の夜に,そこに向かうのだ。「フェニックス」のメンバーになれれば,1世紀にわたって形成されてきた人脈に加わることができるだけでなく,毎週末,ハーバードのキャンパスでも最高級とされるパーティーに出席できるようになる。そして,そのパーティには,毎回,マサチューセッツ州ケンブリッジ近辺のすべての学校から選び抜かれた,最高にチャーミングな女の子たちが招かれるのだ。

ベン・メズリック 夏目大(訳) (2010). facebook:世界最大のSNSでビル・ゲイツに迫る男 青志社 pp.17-18
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南アフリカのビッグファイブ

 南アフリカに生息する野生動物のなかに,ビッグ・ファイブとよばれる5種類のけものがいます。ライオン,アフリカスイギュウ,サイ,アフリカゾウ,ヒョウです。ビッグ・ファイブは人気があるとともに,狩猟がおこなわれていた時代も出会うことがむずかしく,狩猟も危険で困難だったので,偉大なものへの念をこめてこのようによびました。なお,ビッグ・ファイブはこの国の紙幣の絵柄にもなっています。

峯陽一(監修) 岡崎努(文・写真) (2009). 南アフリカ 体験取材!世界の国ぐに43 ポプラ社 pp.26-27

こういう現状も

 移民が本国に仕送りする金は,途上国側から見れば貴重な歳入だが,人口の海外流出は必ずしもプラス面だけではない。多くの先進国,なかでも移民受け入れに消極的な日本ですら外国人医師,エンジニア,プログラマー,先進国のMBA(経営学修士)取得者の受け入れを促す法律の策定を進めている。知的人材の大量流出はしばしば途上国の景気停滞や低迷をもたらす。サハラ以南のアフリカ諸国では医療サービスは壊滅状態になった。
 イギリスの医療サービスの中核はアフリカやアジア出身の医療スタッフが担っているが,ザンビア独立後に養成された12人のザンビア人医師のうち,現在も母国で医療活動に就いているのはたった1人だけだ。推計によれば,イギリス北部の町マンチェスターで働いているマラウィ人の医師は,本国(人口1300万人)の全医師数より多い。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(下) NTT出版 pp.219

過去へのアウトソース

 しかし,ここで重要なのは事実や数字ではない。問題の本質は,経済学的というより心理学的なアプローチを必要としていることだ。もっと重要なのは,政治経済学者のデイヴィッド・ロスコプフが指摘したように,大部分の仕事がインドや中国にアウトソーシングで消えたのではなく,消えた仕事は「過去へアウトソースされた」のだ。仕事の消滅は新しい技術の出現が原因であって,外国人労働者が仕事を奪ったのではない。たとえば,多くのオフィスは受付係をなくし,代わりに音声案内を設置し,航空会社はチケット取扱い業務にコンピュータのオンライン予約システムを導入した。
 この現象はヨーロッパやアメリカばかりでなく日本や韓国でも同様に起きている。韓国の戦闘的な労働組合は常に大企業と対決し,庶民派の政治家に投票する。西側諸国の政治家は中産階級の不安の声を代弁し,政治的な得点を挙げるために失業を政治問題の焦点に据える。サービス業でアウトソーシングの影響を受けた人びとは,ほとんどが政治的に影響力を持つ事務職系労働者で,彼らの不平不満は社会に広く聞き入れられる。プリンストン大学の経済学者アラン・ブラインダーが警告しているように,これまでオフショアリングの衝撃をもろに受けてきた声なきブルーカラー労働者たちとは違い,「失業者の新たな中核となった人びと,特に高学歴層の出身者たちは,現状に甘んじたまま何も言わず黙っていることはないだろう」。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(下) NTT出版 pp.197

先進国の保護主義は

 富裕国の保護主義経済で最もスキャンダラスな例は綿花だ。綿花をめぐる貿易の不公平ルールは,当然のごとく,グローバリゼーションの醜悪な一面を象徴する証拠としてしばしば反対派が取り上げる。ベニン共和国,ブルキナファソ,カメルーン,チャド,マリなど綿栽培を主要産業にしている国々の農民が,世界市場で自国製品を売ろうとしてもとても太刀打ちはできない。世界市場の綿価格は,アメリカやヨーロッパ連合(EU)が自国業者にふんだんに提供する巨額の補助金(アメリカの綿農地1エーカーにつき230ドル)によって,生産コスト以下の価格を維持していた。ある推計によると,1999年から2001年の3年間で,アフリカの綿花栽培8ヵ国は,世界の最貧国としては途方もない額の3300億ドルの輸出損益を出した。これをアメリカ国内の2万5000戸の綿花農家が2001―02年に受け取った補助金39億ドルと比べてみてほしい。一方,欧州連合(EU)はギリシャの農民に綿栽培の補助として年間10億ドルを支払っているが,こうした補助金が撤廃されたとしたら,世界の綿花価格はおそらく15パーセントかそれ以上は上昇し,アフリカ諸国の何千人もの農民たちが生計を立てることができるだろう。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(下) NTT出版 pp.172

何に反対?

 グローバリゼーションを糾弾する市民グループの主張を検証してみると,彼らの懸念は世界規模で拡大していく相互接続社会のあり方に絞られるが,その問題点は整理しきれないほどの数に上った。その上,ざっと見ても本質的には共通点のない異質なものがほとんどで,ときにはグローバリゼーションとは相反する矛盾した主張もあった。市民グループの例を挙げてみると,無政府主義者,反資本主義者(社会主義者や共産主義者),遺伝子組換え食品反対派,環境保護運動家,反核運動家,先住民の権利養護の運動家,労働組合,移民賛成あるいは反異民ロビイスト,反労働搾取団体……と数限りなく,こうしたグループの活動には,反戦や生物多様性の保護,文化的自立性の養護なども含まれ,ただ単に反アメリカというものまであった。では,グローバリゼーションに対し,最も重要で深刻な問題を提起しているのは誰か。それは,低賃金国との競争を強いられ,失職を恐れる先進国のサラリーマンたちだ。また,街頭デモなどでは滅多に叫ばれることはないが,反グローバリゼーション感情に拍車をかけているほかの要因には,移民社会の進出による民族的・文化的独自性の喪失に対する不安や,弱小国の文化を消滅,腐敗させていく超大国の覇権主義的文化,金満西側諸国への怒りなどがあった。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(下) NTT出版 pp.162-163

影の部分

 グローバリゼーションの「影の部分」は1989年の新聞記事に最初に出てくるが,この「影」に関する記事は1990年代のグローバル化の進展とともに当然のごとく取り上げられるようになり,2000年にピークに達した。よく言われるグローバリゼーションの弊害の1つは,低賃金国へのオフショアが進む先進国の失業問題だ。オフショアリングのインパクトはアメリカばかりでなく日本にも波及し,1985年9月22日のプラザ合意は日本円,ドイツマルクの対米ドル切り下げで一致。その結果,かつてない円高が進行し,日本の主要輸出業者は生産ラインのオフショアに移行せざるをえなくなった。日本産業のグローバリゼーション・プロセスは「バンブー(空洞)効果」と呼ばれて知られるようになり,生産活動は竹の節のように空洞化し,日本国内にあるのは本社の抜け殻だけになった。労働者は日本独特の慣行で別の職場に吸収されたが,日本では初めてグローバリゼーションが失業や労働時間短縮の恐怖となって現れた。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(下) NTT出版 pp.136-137

「グローバリゼーション」

 このファクティバを検索してみると,グローバリゼーションという言葉は1979年,欧州経済共同体(EEC)の行政文書に複数の「s」を付けた形で最初に出てくる。それは夜空にぽつんと浮かぶ小さな灯りのようだったが,1980年代後半になると,地球に接近する彗星のように加速度的にその数を増していった。グローバリゼーションを取り上げた記事は1981年にわずか2件だったのが,2001年までの20年間で5万7235件に達した。その後2003年になると,「グローバリゼーション」という言葉の使用頻度は落ち込み,いったん2005年に4万9722件と上昇するが,2006年以降は減少傾向が続き10月現在,4万3448件となっている。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(下) NTT出版 pp.119-120

迅速化へ

 スペイン風邪の死亡率は2.5パーセントだったが,SARSはその4倍に上り,患者の1割が死亡した。世界各国が連携した検疫体制や予防措置によりSARSの感染拡大は食い止められたが,それでも30ヵ国で813人が死亡し,香港と中国本土が最大の被害エリアとなった。WHOは旅行中止勧告こそ出さなかったが,科学の進歩や医学的監視体制,ウイルスと戦う世界の研究者たちの真摯な協力関係がなければ,SARSは,1918年のスペインかぜどころではなく,格段の速さと飛距離で世界中に蔓延していたかもしれない。ウイルスは中国の人口12億人の20パーセントに感染し,そのうち1億200万人が死ぬ恐れがあった。1918年頃の世界の旅行者はまだごく少数だったが,2003年には約16億人が航空機を利用し,その3分の1はあらゆる種類のウイルスとともにいくつもの国境を越えた。アトランタからバンクーヴァー,シンガポールまで,ネットワークで結ばれた研究所で働く科学者たちは,瞬く間に世界各地に広がるウイルスと競争しながら,ウイルスのゲノム(遺伝子情報)解読の取り組みを強化し,わずか1ヵ月で驚異の離れ業をやってみせた。グローバリゼーションは,ウイルスにジェット機並みのスピードを与えただけでなく,対抗手段の迅速化にも大いに役立った。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(下) NTT出版 pp.99-100

大量死の副次効果

 歴史家オーレ・ベネディクトウは, 当時のヨーロッパの推定人口8000万人のうち約60パーセント,5000万人あまりがペストかそれに関連する病気で死んだと結論づけた。当時の記録は,腐敗のすすむ遺体の山を集めることも,ましてや埋葬することもできなかったと伝えている。イタリアのフィレンツェのような人口10万人の都市では,毎日400人から1000人の市民が死んだ。1347年から1722年までの375年間,ペストは撲滅が確認されるまで周期的にヨーロッパで猛威をふるい,ある時期には世界貿易がほとんどマヒ状態になった。もしこの頃グローバリゼーションという言葉が知られていたら,人びとは「死」と同じ意味で使っていただろう。
 しかし,ヨーロッパの人口減少は,社会経済構造や医療の変革を促し,やがて世界の歴史に残る転換点となった。ヨーロッパ社会が受けた壊滅的なダメージは,それまで商人たちが交易によって築いてきた相互接続社会の特性を引き出すことになった。人口の半減,あるいはそれ以上の死によって生き残った人びとの個人資産は急増し,土地や財産,金,銀を相続したにわか金持ちたちは,先を争って贅沢品を買い求め,シルクや香辛料の供給者やアラブ,ヴェネチアの仲介業者に富をもたらした。熱に浮かされたような彼らの贅沢品漁りは歴史家たちが「15世紀の地金大飢饉」と呼ぶ現象を生み,深刻な硬貨不足から,1516年にはドイツの町,ヨアヒムスタールで「前代未聞の銀探し」騒動が起きた。この町の造幣所で鋳造された銀貨は「ヨアヒムスターラー」と呼ばれたが,その後「ターラー」と略され,いまわれわれが使っている「ダラー」の語源となった。しかしその一方で,すでに見てきたように,ヴェネチア,アラブの仲介業者が香辛料貿易の独占を図ったことから,ヨーロッパの交易商たちは新たなアジア航路探しを強いられるようになった。ヨーロッパで高まる需要に追い打ちをかけるように,黒死病は多くの点で,消費社会を形作る新たな原動力を生むきっかけとなった。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(下) NTT出版 pp.92-93

神の恵み=病気

 ちょうど70余年の間に,海を越えてやってきたヨーロッパ人が持ち込んだ病気によって,8000万人から1億人の先住民が死亡した。ニーアル・ファーガソンは,白人たちを「中世ヨーロッパで黒死病を媒介したネズミのようだ」と評し,「死の細菌運搬人」と呼んだ。しかしこんな悲喜劇もある。1621年,アメリカのニューイングランド地方,プリマスでは,イギリス人移民たちがある現実を前にして感謝の念を禁じえないでいた。実は,この地の先住民のうち90パーセントが,それ以前の移住者が持ち込んだ病気で死んだのだ。その上,彼らは土地を耕し,冬に備え大量のトウモロコシの種を蒔いておいてくれた。1690年代になってカロライナ総督のジョン・アーチデイルは,「大いなる神の恵みは,インディアンたちの数が減り,イギリス人移民たちに居場所を作ってくれたことだ」と語った。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(下) NTT出版 pp.89

奴隷貿易で栄えた国

 奴隷貿易がもたらした富は,ハーバード,エール,ブラウンなど世界で名だたる名門大学の創設に貢献した。ブラウン大学のホームタウン,プロヴィデンス(米ロードアイランド州の州都)の奴隷商人は毛織物業や製鉄業にかかわり,大学創始者一族のモーゼス・ブラウンは綿織物産業の発展に重要な役割を果たした。反奴隷制度運動の指導者でもあったブラウンは,1790年,イギリス人移民のサミュエル・スレーターに資金提供し,プロヴィデンス近郊のポータケットにアメリカ初の紡績工場を建設した。当時,イギリスは自国技術の海外流出を禁じており,スレーターは紡績機の設計図を空で覚えアメリカに渡った。
 イギリスほど奴隷制度の恩恵を受けた国はなかった。1662年から1807年の約1世紀半の間に,イギリス船団がアフリカからアメリカに送り込んだ奴隷の数は,全体のほぼ半数にあたる約340万人に上った。奴隷貿易の最盛期にはイギリスは世界でも比類のない奴隷輸出国になっていた。イギリスの産業は植民地に奴隷を売ることで繁栄し,奴隷が作った製品を売ることで莫大な利益を上げた。イギリスは国をあげてアフリカ人奴隷の恩恵に浴した。イギリスが奴隷制度廃止に転じるのは1834年だが,その頃にはすでにイギリスは世界の大国として台頭する土台作りを終えていた。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(下) NTT出版 pp.84

奴隷

 奴隷(スレイブ)という言葉は,19世紀,中央ヨーロッパのスラブ人が広範囲に奴隷化された状態にあったことから派生して生まれた。スラブ人は主要な奴隷候補であり,中世のヴァイキングとアラブの交易に欠かせない「人的資源」だった。キリスト教に改宗していない「野蛮」なスラブ人男女は,格好の取引商品とみられていた。有史以来,人びとは,戦争,飢饉,破産,自然災害などによって家を捨て,職を求めて新たな土地に向かい,生き延びるために隷属的な仕事も受け入れた。ときとしてそれは,アリストテレスが「人間機械」と呼ぶ奴隷となることであり,過酷で危険な仕事につくことを意味した。
 人間性を奪われ「働く機械」となった人びとは,市場で売買される役畜よりひどい扱いをうけた。しかし家畜と違うのは,彼らは,生まれ故郷を遠く離れても自ら属する種族,固有の言語,文化を捨てていなかったことだ。移民と同じように彼らの祖先もまた,5万年以上前にアフリカを旅立ち,世界各地に散らばり,さまざまな人種に枝分かれしていった人びとで,奴隷貿易によって互いに顔を合わせることになった。数千年にわたる人びとと奴隷たちの混合は,(あとから見るように移民や入植者と同様に)人間社会の規模や形態,性質,そして文化を変えた。すでに見てきたように,紀元前3世紀,エジプト人が初めてアフリカ人と出会ったことが,ファラオ(エジプト王)に奴隷をもたらすきっかけとなった。人間と商品との物々交換は人類の歴史とともにあった。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(下) NTT出版 pp.69-70

ゴム

 大英帝国は,アマゾンに自生するある植物を世界に紹介し,産業の歴史を書き換えた。それは,アメリカ先住民がカウチュク——フランス語でも同じ綴り,発音——と呼んでいた植物で,その植物からは天然ゴムの原材料となる白い乳液(ラテックス)が採れ,彼らはその乳液をブーツの防水加工に使ったり,ゴムまりなどを作っていた。1755年,ポルトガルの国王ジョゼ1世[ドン・ジョゼ1世]は,王宮で使っていた何足かのブーツをブラジルに送り,ラテックスを塗らせた。このとき実験のためヨーロッパに送り返されたラテックスは,19世紀初め,ゴムのレインコートの発明で一躍世界に知られるようになった。このレインコートの商品名「マッキントッシュ」は,ゴムと布地の防水加工技術を開発したスコットランドの科学者チャールズ・マッキントッシュにちなんでつけられた。アメリカ先住民の生活の知恵から生まれた天然ゴムは,やがて自動車革命の原動力として重要な役割を演じることになった。
 ゴムの需要が急上昇すると大英帝国も黙ってはいなかった。1876年,政府やブラジルに住むイギリス市民たちの要望を受け,ヘンリー・アレキサンダー・ウィッカムという人物が,7万個のゴムの木の種を不法にイギリス国内に持ち込んだ。ロンドン南西部のキューにある王立植物園の植物学者たちが,苗木の栽培に成功し,その苗木は熱帯地方のイギリス植民地,マレーシアとセイロンに送られた。アメリカ・フォード社の大衆車「モデルT」の組立生産体制がフル回転し始めると,タイヤも大量生産され,いわゆる「白金(ホワイト・ゴールド)」ラッシュがマレーシアを席捲し,広大な土地がゴム・プランテーションになった。1924年には,フォード社の生産台数は1000万台に達し,当時「マラヤ」と呼ばれたゴムの輸出量は,世界の総生産量の半分以上に相当する年20万トンを超えた。この間,約120万人のインド人契約労働者がマレーシアに移り住み,同国の人口構成を将来にわたりガラリと変えた。現在のマレーシアは,人工の10パーセントがインド系で,その多くは,こうしたゴム園労働者の子孫だ。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(下) NTT出版 pp.50-51

唐辛子

 帝国主義的冒険によって,偶然にも新しい農作物や種子が世界に知られるようになったが,なかでもアジア人の味覚の原点とも言うべきもっとも重要な食物は,おそらくコロンブスが新大陸で発見したチリ・ペッパー(唐辛子)だろう。このペッパーは,古代アステカではチリ(ピリっと辛い果実)と呼ばれ,ペッパーコーン(コショウの実)の仲間とされているが,いまでは「チリ・ペッパー」の呼び名が一般的である。いまでもアジアの人びとが驚くのは,自分達の伝統の味だと思っていたあの「激辛チリ」が,実は450年前,ヨーロッパ人探検家や交易商人によって伝えられ,コロンブスがいなければインドの「ホット(辛い)カレー」もなかったという事実だ。そして朝鮮の人びとの場合には,その驚きは最悪だ。誇り高く民族意識の強い現代の韓国人の多くは,あの燃えるように辛いキムチ——発行させた白菜にニンニクと唐辛子を混ぜた漬物——が,彼らの憎むべき日本のサムライ,豊臣秀吉の朝鮮侵略によって,16世紀に初めて伝えられたとは認めたくないだろう。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(下) NTT出版 pp.49

モンゴルの影響

 皮肉にも,モンゴル軍が交易の主役となると,中国とヨーロッパの商取引はさらに弾みがつき,やがてヨーロッパにルネサンスが開花する環境が整えられていった。「パックス・モンゴリカ」(モンゴルによる平和)は,罪なき人びとの命を奪う悲惨な代価を強いたが,その一方で,世界をさらに強く結びつけた。当時の人びとは,帝国の破壊行為や身の不運,恐怖を味わっただけかもしれない。だが,フランスのモンゴル史研究者は,「後世の人びとにとって,世界帝国が残した優れた遺産は十分な利用価値があり,多様な民族文化の交流は豊かな果実を生んだ」「おそらく,この豊かな果実は,以降数世紀にわたり,ヨーロッパの拡大,予期せぬ成長をもたらすきわめて重要な歴史的要素となった」と書いている。モンゴルの交易商人は中国の陶磁器をペルシャに紹介し,中国にはペルシャのコバルトを持ち帰った。景徳鎮などに代表される青白(花)磁の陶磁器はこうして誕生し,コバルトから生まれた青は,中国語で「回回青」(回教徒の青)と呼ばれるようになった。蒙古馬の毛から作られた弦楽器の弓や,ズボン,真新しい食べ物など,モンゴル帝国の影響は,ヨーロッパ人の生活の隅々にまでおよんだ。「万歳(フラー)」というモンゴル語の歓声は,ヨーロッパでもそのまま使われ,人びとが気勢をあげる感嘆語として広まった。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(下) NTT出版 pp.43-44

性的な「同化吸収」

 今日の南アメリカでは,アフリカ人の存在は誰の目にもはっきりとわかるが,ヨーロッパ人移民が残した奥深い影響はあまりよく知られていない。コロンビア国内で実施された遺伝子調査によると,南アメリカや中央アメリカのスペイン植民地では,ヨーロッパ人男子のDNAが圧倒的に優勢で,父系で継承されるY染色体の94パーセントがヨーロッパ人に起源を持つ研究結果が示された。またこれに対し,コロンビアで発見されたアメリカインディアンのmtDNA——母系のDNA——に多様性が認められたことについて,現代遺伝学の父と呼ばれるジェームズ・D・ワトソンは,「侵略してきたスペイン人はみな男で,彼らは現地の女性を妻とした。アメリカインディアンのY染色体が実際にはほとんど存在しないという事実は,植民地の悲劇的な大量殺戮を物語っている。先住民の男子は抹殺され,女子が征服者によって性的に「同化吸収」された,ということだ」と結論づけた。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(下) NTT出版 pp.28-29

チンギス・ハーンの遺伝子

 チンギス・ハーンやその後継者たちは,成人男子や子どもたちを大量に殺戮し,大勢の女性を集めて性の奴隷としたことで,彼らの支配地域の遺伝子系統図に,その痕跡がはっきりと残ることになった。その影響力の大きさは,かつてのモンゴル帝国の支配下に住む人々を対象にした画期的な遺伝子研究によって明らかになった。この研究を実施した科学者チームは,チンギス・ハーンのY染色体が,アジアの大部分の地域に住む男子の8%のDNAに存在することを発見した。科学者たちは,このDNAの継承比率を世界全体に当てはめれば,約1600万人になると推定している。
 強制移住もまた役割を果たした。遊牧民のモンゴル人は狩猟や牧畜以外の知識はまったくなく,そのため彼らは,征服した土地からあらゆる分野の専門家や技術者,職人を捕まえては利用した。歴史家のジャック・ウェザーフォードは,「モンゴル軍は通訳,書記,医者,天文学者,数学者などを駆り集め,彼らの一族に均等に分け与えた。音楽家,料理人,金細工職人,曲芸師,絵描きなども同じように分配された。帝国当局は,こうした職人を含めた知的労働者や動物,物品などをキャラバンや海路を経て,一族の各首長の住む地域に送り届けた」と書いている。たとえば,フビライ[チンギス・ハーンの孫,元帝国の初代皇帝,1215-94年]はペルシャ人の通訳や医者とともに,約1万人のロシア兵を帝国に呼び集め,今日の北京の北に定住させた。ロシア人兵は1世紀近くも居留民として定着していたが,その後,彼らに関する記録は中国の公式文献から姿を消している。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(下) NTT出版 pp.26

同じことを

 630年,ムハンマドは約3万の兵を率い,ビザンチン帝国領土近くまで迫った。遠征はアカバ湾に至る500マイル(800キロ)におよび,ムハンマド軍は20日間にわたって陣を構え,キリスト教徒のアイラハ[イエメン北部]の皇太子に平和協定を結ぶように求めた。この協定は,イスラム帝国に忠誠を誓い,年貢を納めれば,キリスト教徒のような「経典の民」(アラビア語で「ズインミー」と呼ばれた)にもウンマの庇護が与えられるとし,信仰の自由も認められた。他宗教との共存を唱えるこの現実的な協定は,その後数世紀にわたり拡大を続けるイスラム帝国に,年貢という収入源をもたらした。また一部の研究者が言うように,アラーの大義のために殉教すれば,天国に召されるという教えは,初期のイスラム教において,異教徒に改宗を決意させる十分な動機となったかもしれない。そして,「文明が栄えた「肥沃な三日月地帯」では,人びとは快楽や贅沢な生活に心を奪われ,その欲望をいますぐにでも満たそうとした」。興味深いのは,史上初の帝国支配者となったアッカド王,サルゴンは,新たな領土を求めて遠征し,戦利品や貢物を手にすることに狂奔し,その約3000年後,イスラム帝国の創始者であるムハンマドもまた,サルゴンと何ら変わりがなかったことだ。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(下) NTT出版 pp.17

社会規範まで遵守の対象になってしまった

 このように,「偽装」「隠蔽」「改ざん」などという「不正行為」を意味する言葉は,いつの間にか拡大解釈され,明文化された法令に違反する行為と同等,あるいはそれ以上に,大きな批判の対象になるということが頻発しているのです。
 旧来の日本の社会では,「遵守」の対象は「法令」でした。それが滅多に関わり合いにならない非日常的な世界だからこそ,たまたま関わったときには,何も考えないで,そのまま「遵守」していればよかったのです。社会内の多くのトラブルや揉め事は,「法令」ではなく,社会規範や倫理などに基づいて解決していたわけですが,そこでは,当事者や関係者がそれなりに自分の頭を使って,あるいは他人の知恵を借りて,話し合いをまとめるという努力をしてきたのです。それは「遵守」という態度では決してありませんでした。社会の中で「法令」が占める狭い領域だけが「遵守」の世界で,その周りの「社会的規範」が占める大きな領域では「遵守」という単純な姿勢はとられていなかったのです。
 ところが,今の日本の社会では,「法令」の領域が「遵守」の世界のまま拡大し,しかも,その周りにある「社会的規範」の領域までが「遵守」の世界に侵されつつあります。こうして,日本中が「遵守」に席巻され,「控えおろう」の掛け声とともに,水戸黄門の印籠が,そこら中で,のべつ幕無しに出てくるという状況になっているのです。

郷原信郎 (2009). 思考停止社会:「遵守」に蝕まれる日本 講談社 pp.195-196

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