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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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何がラッキーかはわからない

 いま思うと,オーディションというのは,その役柄に合っているかどうかを見ているにすぎない。しかし,落とされると,自分のすべてを否定されたような気になるものだ。
 平気だと言いつつも,やはりショックだった。薬丸も,僕には声をかけづらかったという。
 普通なら入試などで体験する“不合格”の挫折を初めて味わった。
 そのときに選ばれた3人が2年後にシブがき隊になることを思えば,たしかに大きな岐路といえる体験だった。
 だが,あのとき受かっていたら,僕は少年隊に入ることも,ミュージカルに携わることもなかっただろう。
 いま僕が言えるのは,人生で何がラッキーで何がそうでないかは,簡単には決められないということだ。

東山紀之 (2010). カワサキ・キッド 朝日新聞出版 pp.87
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マスコミも政治家絡み

 一方で,政治家の側からみても,優良企業のテレビ局に子女を就職させることは,きわめて魅力的だ。自らの後継者育成という点に絞ってみても,バッジをつけた後のマスコミ対策において有利だと考えられている。さらに,記者やアナウンサーなどの出役になれば,本来のマスコミ人脈に加えてさらに顔を売ることができ,選挙に有利だとも考えられている。
 そうした理由から,政治とテレビはお互いが「陳情」を認め合うという共存関係が続いている。これはなにも政治家自身の子女に限定される話ではない。政治家の後援会幹部の子弟などでも同様のことがいえる。
 それにしても,テレビ局に子女を入れている政治家は年々増加している。そのすべてがコネ入社だというつもりはない。ただ,本来は入社に際して倍率が高いはずのテレビ局が,大量の政治銘柄社員を抱えているのは,確率的にも異常といえはいまいか。
 ざっと,思いつくまま挙げてみても,片山虎之助(NHK),松岡利勝(NHK),鈴木宗男(NHK),久間章夫(NHK),高村正彦(NHK),石川要三(NHK),柿沢弘治(NHK),田野瀬良太郎(NHK),上杉光弘(NHK),中川昭一(フジテレビ),中川秀直(テレビ東京),小渕恵三(TBS),小杉隆(TBS),加藤紘一(TBS)らの子女が,テレビ局に就職している。これは思いつくままなので,実際はもっと多いだろうし,親戚や後援会にまで例を広げるとさらに多い。
 また,テレビ局にはもうひとつ世襲を批判しにくい事情がある。それは自らも多くの二世社員を抱えているという現実だ。

上杉隆 (2009). 世襲議員のからくり 文藝春秋 pp.168-170

英国の場合

 英国では,特に世襲を禁止する法律はない。また,同一選挙区から何親等以内の親族の立候補を制限する,というような世襲制限法の類もない。それなのに英国で二世政治家が生まれにくいのは,木原が指摘するように英国には候補者決定に当たって,公募方式の厳しい選定プログラムが存在するためだ。保守党,労働党と政党によってプログラムは異なるが,大体は次のようなものである。
 まず,立候補希望者は,政党の地方支部や中央指導部に立候補の意思を表明する。すると,地元の選挙エージェントが希望者たちと面接を行う。そこで,政治家としての資質が認められ,見込みがあるとされると,今度は選挙区の選抜委員会が彼ら,彼女らの経歴などを精査する。それに基づいて,推薦リストが作られる。次に選挙区指導部が複数の立候補希望者を面接した上で,人数を絞り込む。ここまできてもまだ候補者は決まらず,次に待っているのが予備選だ。
 立候補希望者たちは,選挙区内の党員の前で演説を行い,それを聞いた党員による投票と審査が行われる。ここでようやく推薦リストに記載される候補者が決まる。だが,この後も,最終的に該当選挙区の当公認候補者になるまでには数回の選抜ハードルが待っている。
 「選択」(05年12月号)では,具体的な候補者選定の方法を紹介する記事が掲載されている。該当記事「『世襲政治家』産まぬ英選挙事情」の扱っているある選挙区のモデルケースを見てみよう。
 下院選挙区の立候補を希望するある保守党員が,当公認を得るための準備を始めた。それは前回の下院選挙が終わった直後のことだ。
 同選挙区からの立候補を希望する者は200人を超えている。党支部が書類選考で10分の1に絞り,18人の合格者を「ショートリスト」に載せた。次に1次面接を行い8人に絞り,さらに党幹部による面接で4人に絞った。この4人は「ファイナル・ショートリスト」に氏名が登載される。
 次に,この4人に待っているのは,選挙区の1000人の党員の前で行なわれる立会演説だ。演説後,200人の党員による秘密投票が実施され,公認候補1人が決定される。
 また,演説とはいうものの,それは一方通行ではない。参加した党員からは容赦ない質問が飛ぶ。現政権の医療政策,環境問題,外交関係——といったように多岐にわたるのだ。
 道理で,英国議員の演説能力が高いわけである。

上杉隆 (2009). 世襲議員のからくり 文藝春秋 pp.124-126

努力は不要

 そうした政治連盟のひとつ,支部での推薦候補を決める際,次のようなことがあった。
 その政治連盟の支部がある選挙区には,自民,民主の両方の候補者が立ち,どちらを支援し,推薦を出すか決めかねていた。ただし支援を受けるには,選挙区に住む当該政治連盟会員の推薦人を20人集めるという条件が課せられていた。
 民主党の新人候補が,選挙区を駆けずり回った末,その政治連盟の推薦を受ける権利を獲得したのは5年目のことだった。酒を飲み,政治を語り合い,一緒に旅行に行き,やっとの思いで20人の推薦人を得た上での支持の約束だったのだ。
 ところが,相手の自民党現職が引退を表明し,息子に選挙区を譲るということになった。もちろん息子の推薦人はゼロである。
 しかし,出馬を表明した翌日には,推薦人の20人を確保してしまったのだ。自民党候補だからという理由ではない。推薦の理由は,候補者が,現職の長男だったからだ。こうして,世襲議員は無意識のうちに貴重な財産とも言うべき人間関係を作っていることが多いのだ。
 手間が省けたというだけの話では済まない。この民主党新人候補のように,1つの支援を取り付けるのに,多くの候補者は,カネも時間も使って苦しんでいるのだ。
 それに比して,世襲は楽である。支援団体の相続というのは,つまり地盤とカバンの両方を一瞬にして得られるからだ。しかし同時に,自らも知らないうちに努力を怠っているということになる。繰り返すが,それがひ弱さを作るのだろう。

上杉隆 (2009). 世襲議員のからくり 文藝春秋 pp.113-115

命名も選挙用

 政治家の名前に「一郎」「太郎」が多いことは,こうした選挙の常識と無関係ではない。有権者に覚えてもらうために,できるだけ簡単な名前をつける。これは世襲政治家の家では,広く行なわれていることだ。
 思えば,現在の麻生首相は「太郎」で,民主党の小沢代表は「一郎」である。また衆議院議長の河野洋平の父は「一郎」,息子は「太郎」だ。
 さらに徹底しているのが。鳩山家である。邦夫の祖父が「一郎」,父が「威一郎」であるのは普通だとして,邦夫の長男が「太郎」,次男が「二郎」,長女が「華子」となると,さすがに永田町でも類を見ない。さらに太郎の長男,つまり邦夫の孫が「一郎」となるとその徹底した姿勢に感銘すら覚える。裏返せば,政治家にとって,それほどまでに選挙が重要だということの証左になる。

上杉隆 (2009). 世襲議員のからくり 文藝春秋 pp.104-105

機会平等ではない

 しかし,現実は逆で,政治資金の世襲こそ,機会の平等を損なっているのではないか。
 小渕優子の初当選時(00年)の資産公開をみると,預貯金1200万円,他には以前つとめていた東京放送(TBS)株を1000株保有するのみ。資産からみると,ややリッチな程度のOLが選挙に出られる背後には,前述の1億2000万円の相続があるのは疑いない。もし民間人が政治に参画したいという志をもったとしても,とうてい1億2000万円という資金を準備することは不可能だろう。
 また金額には表れないが,講演会などの組織を一から作ろうと思ったらどれほどの手間と金がかかるか。こうした有形無形の「相続」を考えれば,寺田のいう「立候補の自由」には,著しい不公平があるのだ。

上杉隆 (2009). 世襲議員のからくり 文藝春秋 pp.75

合法的な無税相続

 2000年5月に急逝した小渕元首相の資金団体は「未来産業研究会」という。TBSを辞めて父の秘書をしていた小渕優子が,同名の資金団体「未来産業研究会」の届出をしたのは,父の死から半年後の11月。同名でややこしいので以降は,新・旧で記す。
 同月,「旧研究会」は,代表者を元首相秘書官の古川俊隆に代え,その日のうちに「解散」の届出をしている。解散時,「旧研究会」の残高は約2億6000万円で,そのすべてを使い切っている。そのうち,寄附支出が約1億6000万円を占めている。寄附の内訳は,7000万円が「国際政治経済研究会」へ,残りの約9000万円が「恵友会」である。これらは,ともに,小渕元首相の政治団体である。
 小渕元首相関連の政治団体は「国際政治経済研究会」「恵友会」「恵和会」「恵山会」「平成研究会」などがある。資金団体は1代限りだが,政治団体は永続性があるため,いまなお存在している団体もある。
 一方,01年3月に届出のあった「新研究会」の収入は約6000万円。そのうち団体からの寄附によるものが9割を占め,そのほとんどが「国際政治経済研究会」からのものだった(5000万円)。
 つまり,父の小渕元首相が「旧研究会」に預けていた「遺産」は,「国際政治経済研究会」を経由して,娘の「新研究会」に相続されたのだ。

 もちろんその間,一切税金はかかっていない。つまり,親から娘へ5000万円が非課税で相続されたのだ。だが小渕元首相の死後,寄附した金額は約1億6000万円だったはずだ。となると残りの約1億円はどこにいったのだろうか。
 実は,翌年も同様の「相続」が行なわれており,「新研究会」に,「国際政治経済研究会」から2000万円,「恵友会」から5000万円が寄附されていたのだ。要するに,「旧研究会」の解散時に寄附された「国際政治経済研究会」への7000万円と「恵友会」への約9000万円は,2年かけて,それぞれ7000万円全額と,9000万円のうち5000万円が「新研究会」に寄附された計算になるのだ。

上杉隆 (2009). 世襲議員のからくり 文藝春秋 pp.69-70

苦労知らずの世襲議員

 社民党党首の福島みずほは,世襲議員は人びとが何で苦労をしているのかまったく分かっていないと憤る。初めて格差是正のことを国会で質問し,非正規雇用のことを質問していたときのことだ。「がんばって働いてマンションぐらい買え」「がんばって正社員になれ」と二世議員から野次が飛んだという。
 「がんばっても非正規の人が正社員になることは本当に困難だ。分かっていない」
 こう憤る福島だが,次の麻生首相になっても,そうした意識の低さに変化はなかったようだ。

上杉隆 (2009). 世襲議員のからくり 文藝春秋 pp.33-34

フルセット・コンプライアンス

 では,組織は,どうしたら社会の要請に応えることができるのでしょうか。
 まず第1に,社会的要請を的確に把握し,その要請に応えていくための組織としての方針を具体的に明らかにすること。第2に,その方針に従いバランスよく応えていくための組織体制を構築すること。第3に,組織全体を方針実現に向けて機能させていくこと。第4に,方針に反する行為が行われた事実が明らかになったりその疑いが生じたりしたときに,原因を究明して再発を防止すること。そして第5に,法令と実態とが乖離しやすい日本で必要なのが,1つの組織だけで社会的要請に応えようとしても困難な事情,つまり組織が活動する環境自体に問題がある場合に,そのような環境を改めていくことです。
 この5つこそが,従来の短絡的な法令遵守の徹底とは異なる,「社会的要請への適応=コンプライアンス」という考え方なのです。社会の中で組織が存在を認められているのは,その組織が社会の要請に応えているからこそです。それに反する行為が行なわれた場合に,企業の事件や不祥事につながるのです。
 私は,これら5つの要素を「フルセット・コンプライアンス」と呼んでいます。

郷原信郎 (2007). 「法令遵守」が日本を滅ぼす 新潮社 pp.152-153

法と法がぶつかり合う場所

 独占禁止法と知的財産法は,もともとぶつかり合う関係にある法律です。
 知的財産法は,知的創造を行なった人に,その創造物の独占的使用権を認めて,インセンティブを高めることを目的としています。反対に,競争を促進することを目的としている独占禁止法は,市場を独占することは競争を阻害するとして禁止しています。
 競争を促進することによって独占禁止法が実現しようとしている価値と,知的創造のインセンティブを与えることによって知的財産法が実現しようとしている価値の両方を,バランスよく実現していくためには,2つの法律が調和するように解釈することが必要となるのです。
 しかし,これまで多くの法学者はその専門領域の中だけで物事を考えようとし,タコツボの中に入って出てきませんでした。そのため企業法相互の関係を考え,体系化しようという発想がほとんどなく,それが経済社会における法の機能を阻害していたのです。
 実は多くの企業不祥事が,複数の法律の目的がぶつかり合う領域で生じています。その法律と背後にある社会からの要請に加えて,関連する別の法律の背後にある価値感も視野に入れなければ,問題の根本的な解決にはつながりません。それは,企業に関する法全体を体系化して「面」でとらえるということです。

郷原信郎 (2007). 「法令遵守」が日本を滅ぼす 新潮社 pp.138-139

報道の二分法

 事件報道において,できるだけ短時間の取材で,分かりやすく,多くの人に読んだり視聴したりしてもらえる記事を作るためには,「善玉」「悪玉」をはっきりさせるのが効率的です。違法か合法か,つまり善玉か悪玉かについての当局の判断を,読者や視聴者がそのまま受け入れてくれるのが,最も合理的なのです。
 それゆえ,善悪の評価が難しいようなややこしい話は,新聞,テレビでは敬遠されがちです。このことが,複雑な背景で起きている事件を単純化し,「法令を遵守しなかったから悪い」「法令遵守さえ徹底すれば良い」ということで片付けてしまう傾向を助長しています。
 この報道姿勢は,自身のリスクを軽減するという意味で最も賢いやり方です。事件報道は,個人や企業の社会的評価や信用を失墜させますから,報道内容への抗議や,場合によっては名誉毀損で訴えられるリスクを伴います。また,大企業は有力な広告主だったりしますから,企業側から反感を買えば広告収入を失うリスクもあります。
 一連のリスクを最小限にするのが,当局の判断に追従するというやり方です。当局の判断をそのまま報道しているのであれば,訴訟で賠償を命じられるリスクは全くありません。さらに,不祥事を起こした企業への社会的非難が極端に高まっている場合であれば,どれだけ企業を叩こうが広告収入を失う懸念はなくなります。

郷原信郎 (2007). 「法令遵守」が日本を滅ぼす 新潮社 pp.120-121

コンプライアンス=法令遵守?

 マスコミが「コンプライアンス=法令遵守」との考え方にここまでこだわるのには,いくつかの理由が考えられます。
 まず第1は編集上の理由です。新聞やテレビでは,外来語として定着していない外国語をそのままカタカナで使わない傾向があるので,コンプライアンスを何か日本語に置き換えるとすると「法令遵守」しかないんどえす。私は,コンプライアンスを「組織が社会的要請に適応すること」と定義していますが,まだ一般的な定義にはなっていませんし,そもそも新聞などで使うには長すぎます。
 第2の理由は,マスコミの考え方がもともと法令遵守的だということです。


郷原信郎 (2007). 「法令遵守」が日本を滅ぼす 新潮社 pp.114

法令は何のために存在するか

 ここで,法令は何のために存在するのかということを考えてみましょう。
 図2で示しているように,法令の背後には必ず何らかの社会的な要請があり,その要請を実現するために法令が定められているはずです。だからこそ,本来であれば企業や個人が法令を遵守することが,社会的要請に応えることにつながるのです。
 ところが,日本の場合,法令と社会的要請との間でしばしば乖離・ズレが生じます。ズレが生じているのに,企業が法令規則の方ばかり見て,その背後にどんな社会的要請があるかということを考えないで対応すると,法令は遵守しているけれども社会的要請には反しているということが生じるわけです。
 その典型的な例が,JR福知山線の脱線事故の際に,被害者の家族が医療機関に肉親の安否を問い合わせたのに対して,医療機関側が個人情報保護法を楯にとって回答を拒絶したという問題です。
 個人情報保護法が何のためにあるのかということを考えてみると,その背景には近年の急速な情報化社会の進展があります。今の社会では,情報は大変な価値があります。それを適切に使えば個人に非常に大きなメリットをもたらしますが,逆に,個人に関する情報が勝手に他人に転用されたり流用されたりすると本人にとんでもない損害を与える恐れがあります。ですから,個人情報を大切にし,十分に活用するために,情報が悪用されることを防止する必要があります。そこで,個人情報を取り扱う事業者に情報の管理や保護を求めている,それが個人情報保護法です。
 あの脱線事故の際,電車が折り重なってマンションに突っ込んでいる悲惨な状況をテレビで目の当たりにして,自分の肉親が電車の中に閉じ込められているのではないか,病院に担ぎ込まれて苦しんでいるのではないかと心配する家族にとって,肉親の安否情報こそが,あらゆる個人情報の中でも,最も重要で大切なものではないかと思います。ですから,自己後の肉親の安否問い合わせに対して,迅速に,適格に情報を伝えてあげることこそが,個人情報保護法の背後にある社会的要請に応えることだったのです。
 しかし,あのとき多くの医療機関の担当者の目の前には,「個人情報保護法マニュアル」があったのでしょう。そこには,個人情報に当たる医療情報は他人には回答してはいけないと書いてあったので,その通りに対応し回答を拒絶したのです。担当者には,「法令遵守」ということばかりが頭にあって,法の背後にある社会的要請など見えていなかったのです。

郷原信郎 (2007). 「法令遵守」が日本を滅ぼす 新潮社 pp.101-103

談合害悪論の自己目的化

 公共工事による社会資本の整備は,総合的に見て良質かつ安全で,しかも安価なものとなるようにするために,いかなる入札・契約制度の下で,いかなる運用を行うのが適切なのか,という観点から考える必要があります。
 会計法が定めている「最低の価格で入札した者が落札する」という建前も,「総合的に見て良質かつ安全で,安価な」調達を実現するという目的のための手段の1つに過ぎません。会計法上義務付けられている入札での価格競争を制限する行為が独禁法違反として禁止されるのも,同様に,目的実現の1つの手段に過ぎないはずです。
 ところが,いつの間にか,会計法の原則を守ることと,価格競争に極端に偏った独禁法を遵守すること,すなわち「談合をやめさせること」が,自己目的化してしまい,それさえ達成すれば,あとはどうにでもなるというような単純な議論ばかりが幅を利かせてきました。
 このような単純な「談合害悪論」の前に,従来のシステムは崩壊しようとしています。しかし,問題は,「談合を行うかやめるか」ではありません。それぞれの公共調達の特質に見合った方法で発注がなされ,「総合的に見て良質かつ安全で,安価な」調達が実現されることです。

郷原信郎 (2007). 「法令遵守」が日本を滅ぼす 新潮社 pp.53-54

闘いの果てに

 「不吉な日」に提出された修正和解案における最大の「修正」部分は,
 「当初の和解案では世界中の書籍の大半がその対象とされていたが,修正和解案では,米国の連邦著作権登録局に登録されている書籍か,米国・英国・カナダ・オーストラリアの4か国で出版された書籍に限定する」
 とした点だ。これにより,日本で刊行され日本語で書かれた書籍はグーグル和解案の土俵から外れることになる。グーグル社への反発が特に強かったドイツやフランスの書籍も同様に和解案から外された。裁判所から和解案を丸ごと否定されてしまう前に,口うるさい国々からの全面撤退をグーグルが自ら決めたわけだ。
 「グーグルブック検索和解」事件の本質は,インターネットとデジタル技術を悪用し,著作権条約などを身勝手に解釈しながら,世界中の著作権を牛耳ろうとグーグル社が企んだ海賊版事件に他ならなかった。
 大砲を打ちかましながら幕末の日本に開国を迫った「黒船襲来」さながらに,潤沢な資金と「宇宙最強」とも評される敏腕弁護士軍団を随え,インターネットへの「著作権の開放」を迫ってきた“巨像”グーグル社に対し,当初は歯向かうことすら恐ろしく感じたものだ。「和解案を潰す」ことが目的だった筆者にしてみれば,十分すぎるほどの大勝利である。ドイツ政府やフランス政府の後押しや,日本政府の見解表明という神風めいた追い風が吹いてくれたものの,諦めさえしなければきっと活路は見出せるものなのだと,しみじみ思う。

明石昇二郎 (2010). グーグルに異議あり! 集英社 pp.164-165

黒船かと思ったら海賊だった

 改めて言うまでもなく「著作権」とは,本屋CD,DVDなどの海賊版を作って儲ける輩を取り締まるために先達が編み出した概念である。その考え方の基本は,あのベルヌ条約が創設された明治時代から現代に至るまで,ちっとも変わっていない。
 そして,筆者が最も得意とする表現方法である「ルポ」(ルポルタージュ)とは,一見,無駄とも思えるような現場取材を地道に積み重ね,事実をひとつひとつ検証していった結果,発見や感動と出会い,ようやく書く(=創造する)ことができるという,これまた先達が編み出した技だ。調査報道には打ってつけの手段であり,実はこの本自体が「ルポ」でもある。
 とはいえ,「ルポを書く」という営みは「非効率の極みの作業」と言えなくもない。実際,成果を上げることができぬまま,徒労に終わる仕事も決して少なくない。
 でも,うまくいけば問題解決のための緒や突破口を探り当てることさえある。稀にそんなことがあるから,いまだルポライターを辞めることができないでいる。「営み」というより「趣味」に限りなく近いかもしれない。
 そんなわけで,ルポを書く「ルポライター」という職業はちっとも儲からない。なのえ,カミさんからはよく叱られる。これからの若い人達にはなかなかお勧めしづらい仕事の代表格と言えるかもしれない。
 だが,そんな他人の苦労をあっけらかんと踏み台にし,無断で勝手にその成果(=本)だけをスキャンして,手前の商売に利用しようとする——。これが,ここまでの取材を経て筆者がたどり着いた,「グーグルブック検索和解」の定義である。
 したがって,筆者から見た「グーグルブック検索和解」事件とは,インターネットとデジタル技術を悪用した「海賊版事件」以外の何ものでもない。喩えてみれば,すわ「黒船襲来」かと思ってよくよく見たら,船に乗っていたのは「海賊」だった——といったところだろうか。

明石昇二郎 (2010). グーグルに異議あり! 集英社 pp.79-80

「絶版制度廃止宣言」構想

 「絶版制度廃止宣言」構想,あるいは「永久流通宣言」構想
 出版社自ら絶版書籍のデジタルデータを販売する。つまり,グーグルがやろうとしているオンラインの「デジタル書籍」販売を出版社自ら展開していくのである。古い書籍なら最初にデジタルスキャンする必要があるものの,デジタルデータの版下が残っている書籍であれば,そのデータを加工・流通するだけで済む。
 出版社が最初にすべきことは「宣言」するだけだ。絶版を廃止することで,「著作権者や作品を大事にする出版社」であることを,内外に向けて強くアピールできる。
 デジタル書籍であれば,在庫を抱える必要もないし,紙代や印刷代などのコストもかからない。グーグルのような想像を絶する「スキャンミス」も起こりえない。1冊単位の注文にも応じることのできる「オンデマンド出版」への対応も楽々可能だ。まさに「21世紀の新しい出版ビジネス」が,ここに出現するのである。
 浮いたコストは,例えば著作権者に支払う印税に振り向けることも可能だろう。そうなれば,著作権者も喜んでこの「構想」に協力すること請け合いである。
 さらにこの「構想」は,グーグルの「知的財産征服」の動きを牽制し,独占を防ぐことができるうえに,グーグルとの交渉で主導権を握る材料としても使える。場合によっては,出版社のつくったデジタル書籍の販売にグーグルを利用してやってもいいのである——。

明石昇二郎 (2010). グーグルに異議あり! 集英社 pp.60-61

「居場所を得る」感覚が

 「家族が安泰だから,安心して遊べるんですよ。もしも夫婦でもめてたり,子どもがぐれたりしたら,そっちの問題に気を取られてネトゲなんてできないじゃないですか。要は,幸せな奥さんだからたっぷりネトゲができるんです」
 この発想には,なるほどと思った。衣食住足りて,優しい夫や素直な子どもがいて,経済的にも時間的にも余裕がある。幸せな状況があるからこそ,思う存分ネトゲが出来るというのはその通りだろう。
 だが一方,人は幸せに飽きるのだ。平凡な毎日,穏やかな日々,そういう恵まれた状況を「つまらない」と感じる主婦は少なくない。ふつうの奥さんとしての生活に飽きたらなくなったとき,ネトゲという世界を覗いてみれば,実生活では体験できないような遊びが楽しめたり,現実には知り合えない人たちと仲良くなれたり,恋愛や結婚,出産,子育てだって「自分の思い通りに」できる。
 本当は,つまらないと感じるその日々こそかけがえのない大切なものなのだが,目の前に展開される刺激的な世界やドラマチックなストーリーのほうが心の支えのように感じてしまう。平凡な主婦としての日常より,ゲーム世界で注目され,一目置かれ,尊敬を集めることのほうが「自分の居場所を得た」と錯覚してしまうのだろう。

石川結貴 (2010). ネトゲ廃女 リーダーズノート pp.217-218

称賛される世界

 毎日2〜3時間の睡眠で,食事もろくにとらず,必死にキャラクターを強化してきた。経験値を上げ,レアアイテムを揃え,ゲームマネーを貯めた。努力を重ねた結果,周囲のゲーマーから一目置かれ,「強い」,「すごい」と称賛される。自分が「憧れの存在」と見られる世界から抜け出すことは,簡単にはできなかったというのだ。

石川結貴 (2010). ネトゲ廃女 リーダーズノート pp.155

ゲームでは可能だが…

 リアルではできないこと,むずかしいことが,ゲームでは可能になる。確かにそれはゲームの楽しさでありすばらしさでもあるだろう。
 だがゲームに費やした10年という時間で,たとえば子どもを産む,という選択は考えられなかったのか。
 「確かに,主人の親は『子どもはどうした?』みたいなことを口にしてましたよ。それに私自身,27歳で結婚したときは30歳くらいまでに子どもを産もうかなって考えてましたけど…」
 実際は,「それどころじゃない」気持ちになったのだという。ネトゲをはじめ,生活がゲーム中心になってしまうと,子どもなんて冗談じゃない,そんなふうに出産や育児への気持ちが冷めてしまった。さらに,ネトゲにのめり込むほど子育てへの忌避感は募った。

石川結貴 (2010). ネトゲ廃女 リーダーズノート pp.86

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