現地人を改宗させるためにアフリカに渡ったデイヴィッド・リビングストンは,奴隷商人以外でアフリカの奥地にまで分け入った最初のヨーロッパ人だった。彼の報告は奴隷貿易のおぞましさを人びとに認識させる上で大いに役立った。彼は,アラブの奴隷商人が,首枷をされ,足に鎖の輪をはめられ,ロープでつながれた1000人もの奴隷のキャラバンを率いていくのを眼にした。奴隷たちは,象牙などの重い荷物をかつがされ,よたよたと足を引きずって,ジャングルを踏み分け海岸へと歩いて行った。リヴィングストンが本国に送った記事の中でも,ナイル川の源流を探しているときにコンゴのニャングウェで偶然に出会った奴隷商人による虐殺の報告は最も人びとに強烈な記憶として残った。原稿用紙を使いきってしまった彼は,手当たりしだいに近くにあった紙切れに書きつけた。「私がこれを書いているとき,左岸の方角から,虐殺された人たち,ルアラバ川の底に沈められて姿を消した多くの友だちを探して大声で泣き叫ぶ声が聞こえた。おお,汝,神の王国の来たらんことを!」
この報告を出版のためにイギリスに送るにあたって,リヴィングストンは言った。「もし私の書いたものがウジジャンの恐るべき奴隷貿易を止めさせることにつながれば,それはナイル川の源流を発見するよりはるかにすばらしいことだ」。議会はこの問題を取り上げ,1873年,リヴィングストンの死からほぼ1ヵ月後に,イギリスはザンジバルのスルタンに,軍艦による海上封鎖の脅しをちらつかせながら,強引に奴隷市を閉鎖させた。
リヴィングストンは南アフリカのボーア人の政権にも痛烈な非難を浴びせ,その影響でイギリスの世論はボーア人政権のアパルトヘイト政策反対にまわった。彼はこう警告した。「黒人の間にもこれら白人の泥棒どもを真似する者が出るだろう。いま,ボーア人は,カッフル[南アフリカの黒人に対する侮蔑的呼称]を狒々の血ほどの値打ちしかないと思っているが,彼らボーア人の血も,同じように安っぽいとみなされる日も遠くはあるまい。その日が来たら,われわれはあえてこの大変化は不当でもなければ謂れなきものでもない,と言わなければならないだろう」。
ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(上) NTT出版 pp.266-267
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