忍者ブログ

I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

リヴィングストンの働きかけ

 現地人を改宗させるためにアフリカに渡ったデイヴィッド・リビングストンは,奴隷商人以外でアフリカの奥地にまで分け入った最初のヨーロッパ人だった。彼の報告は奴隷貿易のおぞましさを人びとに認識させる上で大いに役立った。彼は,アラブの奴隷商人が,首枷をされ,足に鎖の輪をはめられ,ロープでつながれた1000人もの奴隷のキャラバンを率いていくのを眼にした。奴隷たちは,象牙などの重い荷物をかつがされ,よたよたと足を引きずって,ジャングルを踏み分け海岸へと歩いて行った。リヴィングストンが本国に送った記事の中でも,ナイル川の源流を探しているときにコンゴのニャングウェで偶然に出会った奴隷商人による虐殺の報告は最も人びとに強烈な記憶として残った。原稿用紙を使いきってしまった彼は,手当たりしだいに近くにあった紙切れに書きつけた。「私がこれを書いているとき,左岸の方角から,虐殺された人たち,ルアラバ川の底に沈められて姿を消した多くの友だちを探して大声で泣き叫ぶ声が聞こえた。おお,汝,神の王国の来たらんことを!」
 この報告を出版のためにイギリスに送るにあたって,リヴィングストンは言った。「もし私の書いたものがウジジャンの恐るべき奴隷貿易を止めさせることにつながれば,それはナイル川の源流を発見するよりはるかにすばらしいことだ」。議会はこの問題を取り上げ,1873年,リヴィングストンの死からほぼ1ヵ月後に,イギリスはザンジバルのスルタンに,軍艦による海上封鎖の脅しをちらつかせながら,強引に奴隷市を閉鎖させた。
 リヴィングストンは南アフリカのボーア人の政権にも痛烈な非難を浴びせ,その影響でイギリスの世論はボーア人政権のアパルトヘイト政策反対にまわった。彼はこう警告した。「黒人の間にもこれら白人の泥棒どもを真似する者が出るだろう。いま,ボーア人は,カッフル[南アフリカの黒人に対する侮蔑的呼称]を狒々の血ほどの値打ちしかないと思っているが,彼らボーア人の血も,同じように安っぽいとみなされる日も遠くはあるまい。その日が来たら,われわれはあえてこの大変化は不当でもなければ謂れなきものでもない,と言わなければならないだろう」。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(上) NTT出版 pp.266-267
PR

普遍化への衝動

 キリスト教もイスラム教も,普遍化に向かう衝動を秘めている。その根底にあるのは,彼らの信仰が人類の唯一の宗教になるべきだ,という考え方だ。しかし,キリスト教徒イスラム教には大きな違いがある。イスラム教にあってはいかなる種類の聖職者も,また布教を担う聖職者の組織も存在しないことだ。
 交易商人に付き添ってイスラム教の法学者と説教者も海外に出て行ったが,布教のための組織,あるいは海外での布教の拠点は,カリフ制とは無関係の,まったく独立した存在だった。最初の数百年間のイスラム教の普及は,主として地中海世界と中央アジアにおける軍事的征服によるものだった。他方,アフリカと東南アジアでイスラム教が信者を獲得したのは,まわりを異教徒に囲まれた普通のイスラム教徒の布教活動によってであった。トマス・アーノルドがその古典的な研究で述べているように,イスラム教を最初に東ヨーロッパに持ち込んだのは,ビザンチン帝国に囚われていたイスラム法学者だった。
 だが多くの場合,この信仰を遠くの地へ,より広範な地域へと伝えたのは交易商人だった。イスラム教の教義が単純であった——アッラー以外に神はなく,ムハンマドはその預言者である——こと,また信者が情熱をこめて信仰を実践したことは,イスラム教徒以外の人びとを感動させた。その教義は単純で神学的な複雑さを持たなかっただけでなく,イスラム教徒に課せられた義務もまた単純だった。すなわち,信仰告白をし,日に5回の祈りを捧げ,喜捨[ザカート。所有財産に対して一定率の支払いが課せられる。宗教的義務行為の一つ]をし,ラマダン月に断食をし,メッカに巡礼する,というものだ。14世紀の有名なモロッコの旅行家イブン・バトゥータは,メッカが「イスラム世界の年次総会」の場になった,と書いている。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(上) NTT出版 pp.251-252

欲望の赴くままに

 十字軍の時代に聖地奪回というキリスト教徒の試みの背後に物質的な欲望が潜んでいたことは,秘密でもなんでもなかった。この欲望の最もショッキングな例は,1204年の第四次十字軍の兵士たちによるコンスタンチノープルの略奪だ。当時の記録にはこうある。「天地開闢以来,1つの都市でこんなにも大規模な略奪が行われたことはなかった。金,銀,宝石の山や高価な物の入ったたくさんの箱,そうした略奪品を数えることのできた者は,誰一人としていなかっただろう」。
 16世紀,スペインは南アメリカに何度も遠征隊を送った。その目的は,表向きには原住民のインカ族に真の神を受け入れさせることだとされた。だが,征服者フランシスコ・ピサロは,ペルーの原住民の改宗が進まなかった理由を問われて,正直にこう答えている。「私が来たのはそんなことのためではない。彼らから黄金を奪うためだ」。
 あるスペインの遠征隊は,神の祝福のもと,メキシコから胡椒の豊富なフィリピンまで帆走するよう命令を受けた。そのとき,遠征隊の司令官はこう説明した。「この遠征の主な目的は原住民を改宗させることとヌエヴァ・エスパーニャ[メキシコ]への安全な帰路を発見することだ。それによって王国は貿易を増やし,正当な手段で利益を得ることができるのだ」。
 信仰への新たな改宗者を勝ち取るという大義名分のもとに,何万人もの人間が拷問にかけられ,殺され,いくつかの大陸が征服され,たくさんの資源がヨーロッパのそれぞれの本国に移されることになった。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(上) NTT出版 pp.220-221

カプチーノの誕生

 それでもコーヒーの飲み方はイスラム式が踏襲された。濃いブラックコーヒーに砂糖だけを入れて飲むやり方だ。砂糖はクリストファー・コロンブスがカリブ海域に持ち込んだものだが,この地域の植民地での砂糖生産は奴隷の導入によってぐんぐん増え,もはや金持ちだけの贅沢品ではなくなっていた。そして乳糖に慣れ親しんでいたヨーロッパ人は,やがてコーヒーに栄養たっぷりミルクを入れる飲み方を編み出した。
 コーヒーにミルクを入れる飲み方はまたたく間に評判になり,ウィーンに伝わった。1683年,トルコ軍のウィーン包囲を打ち破ったウィーンっ子たちは,トルコ兵が捨てていったコーヒー豆の袋から大量のコーヒー豆を手に入れて,コーヒーハウスの第1号「青い瓶」(ブルーボトル)を開店した。伝説によると,マルコ・ダヴィアノというイタリア人のカプチン会修道士がミルクと蜂蜜をまぜてコーヒーに入れ,その苦さを薄めることを思いついた。ウィーンっ子たちはこの新しい飲み方を気に入り,こうしたコーヒーの色がカプチン会修道士の僧衣の色柄と似ていることから,カプチン会への経緯の標としてこれを「カプチーノ」と名づけたという。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(上) NTT出版 pp.175-176

コーヒーの歴史

 コーヒーの学術名はコフィア・アラビカというが,もともとコーヒーの木はエチオピアの丘陵地に自生していた。その名が知られるようになったのは,15世紀にイエメンで栽培されるようになってからである。伝説によると,昔,エチオピア南西部のカッファ地方に住んでいたカルディという名のヤギ飼いが,コーヒー豆の不思議な力を発見した。ある昼下がり,放し飼いにしていたヤギの群れを集めに行ったカルディは,ヤギが異常に興奮しているのを見て驚いた。ヤギたちは跳ね回り,角をぶつけ合い,家に帰ろうとしなかった。カルディは,ヤギが食べていた赤い木の実を口に入れてみて,すぐさまその理由がわかった。身体がぞくぞくするような快い感覚が舌から全身に広がったのだ。
 コーヒーという名前は,コーヒーが発見されたカッファという地方の名前に由来すると唱える学者もいる。。このヤギ飼いがコーヒーを見つけた場所についても異論がある。ヤギの興奮状態がコーヒー発見につながったとするハインリヒ・エドワルド・ヤコブは,その著書『コーヒー,日用品の壮大な叙事詩』(Coffee: The Epic of a Commodity)で,熟したコーヒー豆の発見はイエメンのイスラムと関係があると主張している。
 イエメンのシェホデト僧院の導師は,ヤギたちが奇妙な行動をしているとヤギ飼いが報告してきたので,さっそくその真偽を調べてみた。導師は,ヤギ飼いが「ヤギを魔法にかけた」という珍しい木の実の芯をあぶって,醸造してみた。ヤコブは書いている。「すると,ほんの少しも経たないうちに,このシェホデト僧院の導師はまるで魔法にかかったような気分になってしまった。導師は,いまだ経験したことのない不思議な陶酔状態に陥った。導師は熱心なイスラム教の信者なので,酒に酔った経験などまったくなかった。……ところがいま,身体の感覚はほとんどなくなり,心はいつになくいきいきと,愉快で,かつ冴えた状態となった。考えも頭に浮かぶだけでなく,はっきりと目に見える形をとった」。やがて導師は,真夜中の礼拝の前に,信心深いスーフィー教徒たちにこの黒くて苦い飲み物を飲ませるようになった。
 一方,フランスの貿易商でコーヒーの仕入れにイエメンに航海したジァン・ド・ラ・ロックは,長い夜の祈祷の前にコーヒーを飲む儀式について,こう描写している。「コーヒーは赤い粘土で作られた器に入っていて,信者たちは導師の手から器を押しいただき,導師は器の中からコーヒーの液体をすくいあげて信者のコップに注ぐのだった」。
 イエメン人たちはこのコーヒーを「クワハ」(k’hawah)——元気づけの飲み物——と呼んでいた。スーフィー教団の信者たちはこの黒ずんだ飲み物からワインを連想し,そしてワインのアラビア語の名前カフワ(qahwa)を,この飲み物にもつけた。トルコ人はコーヒーをカハヴェー(qahveh)と呼んだが,その後カウヴェないしコーヴェと発音されるようになり,それがフランス語のカフェ,英語のコフィー[日本語ではコーヒー]となった。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(上) NTT出版 pp.168-171

アメリカへ

 やがて世界の繊維製造業の王冠は,綿花の豊富な供給,相次ぐ発明,経営の優秀さのゆえに,アメリカの頭上へと移った。布地の政策が機械化されたのに続いて,仕立てと縫製も機械化されていった。1755年,イギリス政府は機械縫製に使う針に最初の特許を発行したが,アメリカで最初の縫製機械,いわゆるミシンが商品として売り出されたのは,それから100年後のことだ。ミシンを製造し商品化したのはアイザック・シンガーという実業家で,彼はエリアス・ハウという人物が開発した技術を利用した。ハウがこの技術に関する特許を出願したのは,1846年のことだ。
 これより先にフランスでもミシンの特許をとろうという試みがなされたが,これは大きなトラブルを引き起こした。フランスでミシンを発明したのはバルテレミー・ティモニエという裁縫職人だったが,ミシンの出現で職を失うことを恐れた裁縫職人たちが彼の裁縫工場を襲撃し,火をつけたため,もう少しで命を落とすところだった。ティモニエはこの放火事件のあと一文無しになったが,アメリカの同業者たちは運がよく,ハウとシンガーは百万長者になった。19世紀の中頃までに,船乗りの制服の縫製がきっかけとなって,レディメード,つまり既製服の生産が始まった。
 アメリカは,水力や石炭といったエネルギーの一次資源の利用の段階から,もっと効率のよい加工エネルギー,たとえば内燃エンジンや電力といったエネルギーの使用に移行していった。その結果,紡績や機織りの工程のスピードが加速された。だが,衣料製作の技術は基本的には同じ状態にとどまっていた。手回しや足でペダルを踏んで動かすミシンは複数のステッチ機能を備えた電動ミシンに取って代わられたが,衣服に仕立て上げる段階では,手で縫わなければならない部分も依然として多かった。したがって,衣料生産が現代の経済にあって最も労働集約度の高い,つまり労働力の雇用の大きな分野として発展してきたことは不思議ではない。そして衣料生産は開発途上国に,紡績からボタンつけにいたるさまざまな工程のそれぞれの段階で,世界的な供給チェーンに参加する機会を与えた。2000年に繊維・縫製部門での雇用労働力は,中国で600万人,インドでは150万人,アメリカでも80万人だった。
 アメリカの繊維産業は安い労働力を求めて,絶えず南へ南へ——ニューイングランドからノースカロライナへ,さらにカリブ海諸島へ——と移動していった。そしてついには太平洋を渡り,貧しく飢えている途上国に根を下ろした。1時間当たりの労働はアメリカの10ドルに比べて中国やヴェトナムでは20セントと大きな差があった。しかもこれら低賃金の国の中でも,さらに奥地の目を覆いたくなるような極貧の地域では,賃金水準は一段と低かった。西側世界の人権団体や労働運動のグループ,それにシアトルでのデモ参加者は,「大企業主導のグローバリゼーションがアメリカのショッピングセンターを途上国のタコ部屋で生産された製品で埋め尽くしている」と非難した。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(上) NTT出版 pp.162-163

18世紀のネットショップ

 ヨーロッパのさまざまな港には大量の通信文書が残されているが,なかでもイタリアのリヴォルノの港で発見された,成功したダイヤモンド商人のユダヤ人の手紙が興味深い。このユダヤ人の名はエルガス=シルヴェラ貿易商会のアイザック・エルガスといい,彼は得意先から,インドの有名なゴルゴンダ鉱山のダイヤの注文を受けた。18世紀のリヴォルノのユダヤ人貿易商について研究したイタリアの学者フランチェスカ・トリヴェラートによると,こうした顧客の注文は,「かくかくしかじかのダイヤを」というように,きわめて具体的だった。
 私がiPodをアップル社に注文したように,ダイヤを手に入れたいイタリアの顧客は,エルガス=シルヴェラ商会に現金で前金を支払った。インドのダイヤ商人たちはイタリアの通過リラには関心がなかったため,エルガス=シルヴェラ商会は,現金の代わりに地中海産の珊瑚のネックレスを船でインドへ送りつけた。イタリアの顧客の中でも幸運な者は,モンスーンが終わる前に注文を出すことができた。代金替わりの珊瑚のネックレスは,まずイギリスやオランダの船でリスボンに送られ,そこから厚い鋼板で覆われた大型の帆船に積み替えられて,まる1年かけてゴアに辿り着いた。ゴアにあるインド人の貿易商社は,珊瑚の市場価格を見定めてそれに見合うさまざまなサイズと品質のダイヤを送り返した。すべてが順調に運べば,つまり船が嵐で沈没するようなことがなければ,イタリアの注文主は1年か2年後に確実にダイヤを受け取ることができたのである。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(上) NTT出版 pp.115-116

グローバリゼーションのスタート

 いまから1万年前,人類は南極大陸以外の地球上のすべての大陸に到達し,新しい時代の幕開けに備えることになった。新しい時代の幕開けとは,諸々の社会や共同体が再び結ばれることになる長い道程の始まりを告げるものだった。紀元前2万年のすぐあとに,地球の温暖化が始まった。その後,何度も揺り戻しがあり,短期間だが極度の寒冷や簡抜の時期もあって,本格的に氷河期が終わったのは紀元前1万年のことである。それがきっかけとなったかのように地球上のあらゆる所で氷の層が溶け出し,次いで農業が盛んになり,さらに農民が定住する集落が出現した。その農民社会を基板にして,職人や僧侶,そして首長が生まれていった。狩猟・採集を続けたほとんどの者が遊牧生活を営むようになり,さまざまな定住社会をつなぎ合わせる「歩く連結器」の役割を演じることになる。
 農業が生産余剰になると,町が出現し,新しい工芸技術が発達し,日用品の生産が始まった。それ以前に必要に応じて行われていた物々交換は,交易のネットワークを形成するようになった。狩猟・採集社会の人びとは戦いに明け暮れていたが,国家が出現すると,戦争はもっと組織化されたものになった。やがて帝国が次々に建設されていった。紀元前6000年頃には,人間を相互に結びつけることになる基本的な動機——交易によって利を得ようという欲求,信仰を広げたいという宗教的な衝動,新しい土地を手に入れたいという欲望,武力によって他人を支配しようという野望——これらすべてがそろって,今日私たちがグローバリゼーションと呼ぶものをスタートさせたのである。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(上) NTT出版 pp.59-60

日本移住へ

 中国と東南アジアが,ヒトが日本に移動するための「待機場」であったことが明らかになった。海面の水位が下がって日本と大陸本土とが陸続きであった2万年前から1万2000年前にかけてのある時期に,中央アジアからやってきた狩猟・採集民が北日本に移り住んだ。チベットと中国北部アルタイ山脈との間の地域から推定3000人の人びとが日本に歩いて辿り着き,縄文文化を発展させた。やがて海面の水位が上昇すると,日本はほぼ1万年間,大陸から切り離された。この間,東南アジアと中国南部の河流地域に住む人びとは農業を発達させていき,稲作農業は朝鮮半島にも広がり,そこで冷淡な気候に強い種が発達した。
 およそ2300年前,東南アジアや朝鮮の住民と同じマーカーを持つ人びとが日本南部の島々に船で渡ってきた。これら農耕民族の移住者たちは,水稲文化を日本に持ち込み,水稲文化は日本全土に広まり,やがて日本は,これを自らのアイデンティティを示す証とみなすようになった。20世紀の日本はコメの市場開放に抵抗する理由として「日本で育ったコメは他に比類のない独自のものだ」と主張している[日本への稲作伝来は中国の長江流域からであるとの説が最近では有力だ]。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(上) NTT出版 pp.49

アフリカ発

 アンダマン海の島々に暮らす原住民たちは,長い間外界から隔絶されてきたが,研究者がこの人びとのミトコンドリアDNAを検査したところ,それはおよそ6万5000年前にアフリカからやってきて居ついた人びとのものと合致していることがわかった。驚くべきことに,アンダマン諸島の原住民は南アジアや東南アジアの人びとには見られない遺伝子マーカーを持っている。現代人の解剖学上の祖先が,アフリカからインド洋の北部沿岸地域に初めて移住してきたのは5万年前から7万年前のことだ。しかし,これらの原住民の遺伝子マーカーが南インドや東南アジアに存在しないということは,彼らが5万年から7万年もの間,隔絶された生活を送っていたことを示している。同じように長い間孤立して暮らしてきたマレーシアの原住民オラン・アスリ(先住民の意)族の調査結果も,アフリカに遡るDNAの痕跡を明らかにしている。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(上) NTT出版 pp.36

人類の進出

 インドネシアや中国における原人——いわゆるジャワ原人や北京原人——の化石の発見は,解剖学的な現代の人類,すなわちホモ・サピエンスの祖先がおよそ200万年前からアフリカを出て,アジアや旧世界に植民し始めたことを示している。1950年代のルイ・リーキーやマリー・リーキーといった古人類学者,それに続く30年間の多くの研究者たちの献身的な仕事によって,最古の人類が東アフリカのリフト峡谷に住んでいたことがわかった。イスラエルでは10万年前のホモ・サピエンスの骨が発見された。だがこの種のホモ・サピエンスは絶滅した。当時この地域に住んでいたより頑強なネアンデルタール人によって圧倒されたのだ。
 驚くべきことに,ほかに現代の人類の祖先の骨で残っているものといえば,オーストラリアで発見された4万6000年前のものだけである。解剖学的に現代の人類と同じ祖先であるこれらのホモ・サピエンスは,いくつかの複数の起源を持っているのだろうか。それとも,すべてアフリカに住んでいた1つの種から進化してきたのだろうか。これらアフリカで発見された化石が単に最初期の人類のものであるというだけでなく,私たちの直接の祖先であるという証拠は,実は化石そのものではなく,現代の,それも女性の細胞に内包されている履歴にあった。
 この驚くべき発見は,以前のDNAの構造の発見に端を発していた。遺伝学者がいま世界の様々な地域で暮らしている人間のDNAを分析することによって,祖先たちの移動経路を再構築し,先史時代の人間がどのように世界に分散し,定着していったかを辿ることが可能となったのである。およそ6万年前に少人数のグループ——現在の東アフリカにいたとされる150人から2000人ほどの人びと——が異銅を始めたことが今日明らかになっている。それから5万年ないしそれ以上の歳月をかけて,彼らはさまざまな方向に少しずつ,ゆっくりと移動していった。そして肥沃な三日月地帯やアジア,オーストラリア,ヨーロッパ,ついにはベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸へと進出していった。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(上) NTT出版 pp.28-29

なぜ?なぜ?

 ほかにも疑問は数えきれないほどあり,それらはより深いプロセスが進行していることを示している。なぜ何千キロも離れた別の大陸に住む3人の人間に,同じ遺伝子の突然変異が見られるのか。アラビアの砂漠から生まれたイスラム教が世界中で10億人もの信者を獲得できたのは,どういう理由によるのか。ヨーロッパ人はどのようにしてバイオリンを,モンゴルの馬の毛でできた弓の弦で弾くことを覚えたのか。現代の情報の世界を動かしているアルゴリズムという算法は9世紀のアラブの数学者の名前のアル・フワリズミに由来するが,どんな経緯でこの数学者の名前がつけられることになったのか。中国産の蚕は,どのようにしてイタリアの絹産業の発展に役立ったのか。もともと東地中海世界で行われていた奴隷によるサトウキビ栽培は,どのようにしてカリブ海に移っていったのか。クリストファー・コロンブスが新世界で唐辛子を発見するまでは,朝鮮にはキムチは存在しなかった。それはなぜなのか。アメリカの通貨の名称にドイツの銀鉱山の町の名前がつけられたのはなぜか。カリフォルニアで最初にワインを作り出した葡萄の木が「伝道師の葡萄」と呼ばれたのはなぜか。中国の製紙技術はどのようにして西洋に伝わり,あなた方が今読んでいるたくさんの本を生み出したのか。疑問,質問はさまざまあって,しかも数えあげればきりがない。そしていずれもその起源を辿ると,世界的な結びつきという包括的な現象に行き着く。

ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(上) NTT出版 pp.7-8

リベットの自由意志実験

 そこでリベットは,意志がほんとうはいつ現れるかを実験で確かめようとした。最初は,意志の始まりを測定するのは「不可能」だと思われた。だが,いろいろと考えたあげく,リベットは被験者を椅子に座らせ,動かそうという意志を認識した瞬間の時計の秒針の位置を見てもらった。ここで問題になっているのは1秒よりも短い時間だから,ふつうの秒針では役に立たない。もっと速いものが必要だ。彼は秒針の代わりにオシロスコープの光の点の動きを使うことを思いついた。光の点は秒針のように,だが秒針よりも25倍速く回る。オシロスコープの1目盛りは40ミリ秒ということになる。
 こんなに速い光の点の動きを追うのは難しいかと思われたが,リハーサルをしてみるとリベット自身も含め被験者はかなり正確に目盛りを読み取ることができた。被験者に弱い電気ショックを与えて,光の点はどの目盛りを指していたかと尋ねると,50ミリ秒以内の誤差で読み取ることができたのだ。「これで準備は整った」とリベットは言う。
 リベットの指示に従って,5人の被験者が魂か何かの赴くままに手首を動かした。同時に,動かそうという意志を初めて意識したとき,オシロスコープの光の点が目盛りのどこにあったかを報告した。リベットは被験者自身の報告と,同時に測定していた準備電位とを比較した。40回の実験結果の解釈は簡単ではなかったにしても,関連性ははっきりとみられた。準備電位は筋肉の動きのほぼ550ミリ秒前に現れた。行動しようという決断が意識されるのは,運動の100ミリ秒から200ミリ秒前——準備電位が現れてから350ミリ秒あとだった。準備電位(無意識),決断(意志),行動という順序になる。
 こうしてリベットは,リチャード・グレゴリーの有名な「しないという自由意志」にあたる自由意志の存在を初めて実験的に確かめたのだった。ちょっと考えると,動かそうという意志より前に準備電位が検出されれば,自由意志は葬り去られるのではないか,という気がする。動きにつながる脳の活動は,被験者が動かそうという意志的な決断をしたと思う時点より前に始まっているからだ。この実験結果から考えると,ニューロンの信号という列車はほんとうに駅を出てしまっている。自由意志が存在するとしたら,乗り遅れた客のように,「待ってくれ!待ってくれ!」と叫びながら線路の脇を走っている状況だろう。

ジェフリー・M・シュウォーツ 吉田利子(訳) (2004). 心が脳を変える サンマーク出版 pp.334-335
(Schwartz, J. M. (2002). The Mind and The Brain. New York: Harper Collins.)

可塑性と関心

 脳の可塑性の存在とその重要性には,もはや疑問の余地がない。「最近の神経科学の歴史のなかで最も目覚しい発見は,大脳皮質が感覚的インプットの減少あるいは増強に応じて自らを再構成する能力をもつことである」と,カリフォルニア大学デイヴィス校神経科学センターのエドワード・ジョーンズは2000年に言明した。脳への感覚的インプットを増強する多くの実験は,何を教えたか?皮質表現は不変ではない,ということ。それどころかダイナミックで,わたしたちの暮らしによってつねに修正されているということだ。
 ビデオゲーム大好き人間の親指,点字を読む人の人差し指,というぐあいに,脳は一番頻繁な運動に使われる身体部分にスペースを割り当てる。だが,経験が脳をつくり変えるといっても,その経験は関心を集中した経験でなければならない。「受動的で上の空の,あるいは関心が薄い経験は,神経の可塑性を実現するうえで限定した力しかない」と,マーゼニックとジェンキンスは言う。「脳の表現の可塑的変化は,当人がとくに関心を向けているときにだけ表れる」
 ここに,重要なカギがある。脳の物理的変化は心のあり方,つまり「関心」と呼ばれる精神状態に依存している。関心を向けることがたいせつなのだ。それはそこここの身体部分の表面,あるいはあれこれの筋肉を表現する脳の領域の大きさに影響するだけではない。脳の回路そのもののダイナミックな構造に,そして脳が自らをつくり変える能力に影響する。

ジェフリー・M・シュウォーツ 吉田利子(訳) (2004). 心が脳を変える サンマーク出版 pp.
(Schwartz, J. M. (2002). The Mind and The Brain. New York: Harper Collins.)

大人でも練習すれば

 右利きのバイオリニストが演奏するとき,左手の4本の指はつねに弦をいじっている(左手親指はバイオリンのネックを支えているので,位置やかける力はあまり変化しない)。弓を操る右手は,1本1本の指の個別の動きは少ない。このパターンは大脳皮質に痕跡を残しているだろうか?
 研究者たちは,演奏歴7年から17年のバイオリニスト6人,チェリスト2人,ギタリスト1人と,弦楽器の経験がなくて音楽家でもない6人を集めた。この被験者たちに静かに座っていてもらい,指先に軽い空気圧をかける。頭蓋につけた脳磁気図検査機器が体性感覚野のニューロンの活動を記録する。
 右手については弦楽器奏者と一般被験者で指に対するニューロンの活動に違いはなかったと,1995年に研究者たちは発表した。しかし左手の指については体性感覚野にそうとうの皮質再構成がみられた。研究者たちはこう述べている。「弦楽器奏者の左手の指の表現が占める皮質領域は,一般の人に比べて増大していた」
 脳の画像記録によると,12歳以前に楽器を始めた奏者の指のほうが,その後に始めた奏者よりも皮質再構成の程度が大きかった。結果を発表するときに,広報担当者はこれを新事実として強調した——これは要点を取り違えている,とタウブは不満だった。そんなことよりもっと大きな発見は,すべての弦楽器奏者に皮質の再構成がみられたことだった。意外なのは,未成熟の神経システムに可塑性があることではなく(そんなことは「誰でも知っていた」とタウブは言う),可塑性が成人後も存続していることだ。「40歳でバイオリンを始めても,運動依存性の再構成が起こる」とタウブは言う。

ジェフリー・M・シュウォーツ 吉田利子(訳) (2004). 心が脳を変える サンマーク出版 pp.229-230
(Schwartz, J. M. (2002). The Mind and The Brain. New York: Harper Collins.)

別の機能を

 「同じ脳なんだから」という考え方を支持する研究は,1996年にNIHのマーク・ハレットの研究所でも行われていた。はレットらは幼いころから盲目だった人々を調べていた。この人たちの場合,一次視覚野は予想するインプット,つまり視覚神経を通じて網膜から送られる信号を受け取らないかわりに,点字を「読む」細かな作業に反応していた。もちろん点字を「読む」とは,盛り上がった点の上を指でたどることを意味する。ふつうは体性感覚野がつかさどる作業だ。だが,視覚野はすぐに目からの信号が入ってこないことに気づくらしい。そこで仕事を変えて触覚を処理することにしたのだ。その結果,ふつうは視覚をつかさどる領域が触覚を担当するようになる。生まれつき盲目の人たちの優れた触覚はこれで説明できるのかもしれない。これは,「異種感覚間の機能可塑性」と呼ばれている。ある機能用に遺伝的に「配線が決まっている」と思われていた脳の領域が,まったくべつの機能を遂行するようになるのである。

ジェフリー・M・シュウォーツ 吉田利子(訳) (2004). 心が脳を変える サンマーク出版 pp.211
(Schwartz, J. M. (2002). The Mind and The Brain. New York: Harper Collins.)

幻肢と脳

 幻の感覚は可塑性をもつ脳の神経の変化から生じている。いまはなくなった身体部分からの刺激に反応して発火していた部位のニューロンは,新しい仕事を探し,まだ活動している末梢神経に反応するようになったのだ。大晦日にタイムズスクエアに集まった群衆が,空間ができるとどっとそこに押し寄せるように,周辺のニューロンが皮質の沈黙部位に押し寄せる。そしてこれも大晦日の群衆と同じように,空いた場所のすぐそばのニューロンがまっさきに空間を占拠する。
 したがって,身体の上部4分の1のどの部分が切断された四肢のゾーンに侵入するかは,どちらかというと偶然の結果である。手が切断されたあと,顔も胴体部分も手の表現ゾーンである体性感覚野に入り込む可能性がある。足と性器の表現ゾーンは隣り合っているから,足を失った人の中には性行為の最中に幻の足の感触を感じる人がいる。足の体性感覚マップは本来のインプットを失って感覚に飢えており,そこに性器からの神経が入り込むのだろう。同様にガンでペニスを切除した人は,足を刺激されると失ったペニスの感覚がよみがえるかもしれない。足をエロチックだと感じるのも,フロイトが示唆したように無意識のうちに足からペニスを連想するというだけではなく,足の体性感覚の表現ゾーンが性器のゾーンと隣り合っているためもあるのではないか。

ジェフリー・M・シュウォーツ 吉田利子(訳) (2004). 心が脳を変える サンマーク出版 pp.198-199
(Schwartz, J. M. (2002). The Mind and The Brain. New York: Harper Collins.)

生涯修正は続く

 環境からのメッセージに対する脳の反応は,経験によってかたちづくられる。それも神経科学者の大半が思い込んでいるように胎児期および嬰児期の経験だけではなく,生涯にわたる経験によって形成される。言い換えれば,わたしたちがどう人生を生きるかが脳を発達させ,つくりあげる。マーゼニックにとってこの発見の真の意義は,一般に考えられている行動と精神の障害の原因と関係していた。「わたしたちが脳と呼ぶマシンは,生涯修正が続く」と彼は20年近くのちに語った。「それを有効活用するためには,まったく違った考え方が必要だった。脳をパーツも能力も決まっているマシンと考えるのではなく,生涯にわたって変化する能力をもつ器官とみる考え方だ。わたしはこのことが正常な行動と異常な行動の両方に関係すると,口を酸っぱくして説明した。だが聞く耳をもつ人は少なかったし,意味を理解する人はほとんどいなかった」

ジェフリー・M・シュウォーツ 吉田利子(訳) (2004). 心が脳を変える サンマーク出版 pp.190-191
(Schwartz, J. M. (2002). The Mind and The Brain. New York: Harper Collins.)

成熟は続く

 「成熟は10歳では終わらず,10代から20代に入っても続いている」と国立精神衛生研究所のジェイ・ギードは言う。4歳から21歳までの145人の健康な脳をMRIで調べたギードは,前頭葉の灰白質が11歳から12歳の頃に増大していることを発見した。「いちばん驚くのは,灰白質の過剰生産の第二の波がやってくることです。これは生後18か月で終わると考えられていたもので,そのあとは目立って低下します。思春期に第二の創造の波が押し寄せるようだが,これは新しい枝が伸びて結合し,その後に刈り込まれることと関係しているのでしょう」
 胎児期の発達と同じで,10代においても,認知やその他の能力を支えるシナプスは使われれば残り,使われなければ消える。使われない回路を組織的に廃棄していくからこそ,刺激を受ける神経ネットワークの効率が上昇するのだろう。言い換えれば,若者が積極的に取り組む行動を支えるネットワークが効率化するということだ。

ジェフリー・M・シュウォーツ 吉田利子(訳) (2004). 心が脳を変える サンマーク出版 pp.135-136
(Schwartz, J. M. (2002). The Mind and The Brain. New York: Harper Collins.)

「刺激」は何を指す?

 新生児の脳が正しい回路パターンを形成するには刺激が必要だということには異論がない。しかしこの「刺激」が何を意味するかについては,辛らつな,少々政治的な議論がある。
 多くの神経科学者にとって刺激とは,ふつうの知覚をもった赤ちゃんが毎日の暮らしのなかで受け取る刺激以上のことを意味してはいない。見て,聞いて,味わい,触れ,嗅ぐということだ。
 深刻な育児放棄で生後1年以上もベビーベッドに寝かされっぱなしという子どもには発達異常が起こるという報告はたくさんある。3歳になっても歩けない子どもも多いし,21か月でお座りができない子もいる。
 だが刺激,とくに認知機能に訴える刺激を増やせば脳の回線が改善されるかということになると,議論は白熱する。まだハイハイもしていない赤ちゃんをミニ・アインシュタインに育てると約束して,教育熱心な親にビデオを売りつけ,いつもモーツァルトの音楽を流しておきなさいと勧め,食事の時には必ずフォークとスプーンで算数をやらせないとチャンスを逃すと脅す。こういうやり方では,「刺激」という言葉が泣くだろう。
 ヒトの脳の発達には,ある程度の刺激が欠かせないことは明らかだ。だが,たぶん赤ちゃんが積極的にまわりの世界を探求し,いないいないばあやかくれんぼをし,話したり聞いたりして親と交流していれば充分なはずだ。

ジェフリー・M・シュウォーツ 吉田利子(訳) (2004). 心が脳を変える サンマーク出版 pp.134
(Schwartz, J. M. (2002). The Mind and The Brain. New York: Harper Collins.)

bitFlyer ビットコインを始めるなら安心・安全な取引所で

Copyright ©  -- I'm Standing on the Shoulders of Giants. --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]