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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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McAdams理論

 もちろん,そんなことはありえない。その200人は,ランダムにサンプルにしたイギリス人たちにくらべて,私の生活と似た生活を送り,似た対人関係をもっていることだろう。だが,彼らは私と同じではない。このことは,心理学者のダン・マカダムズの考えた理論に従って説明することができる。個々の人間のもつ特異性について,彼は3つの異なるレベルから考える。第1の層は,ビッグファイブ・パーソナリティ特性スコアである。すでに見てきたように,これらは初期の生物学的メカニズムによっておおむね固定されており,おおよその予測性を与える。第2のレベルは,特徴的行動パターンである。これはビッグファイブ・パーソナリティ特性の結果から生じるのもだが,1対1の対応ではない。たとえば,外向性のスコアの高い人のなかで,1人は北極探検家になり,別の1人はスカイダイビングに挑戦するかもしれない。さらにもう1人は,北極探検もスカイダイビングも試みるチャンスはなかったが,社会の中で活気ある顔(ペルソナ)を作り上げたかもしれない。要するに外向性ひとつとっても,多くの可能な行動表現の手段があるということであり,どれを採用するかは,個人個人の歴史,チャンス,そして選択によるということなのである。ただはっきり言えるのは,もしあなたの外向性のスコアが高ければ,少なくともそのうちのひとつを採用するだろうということだ。したがってイギリス国内に存在する200人のダニエル・ネトル・パーソナリティは,まず間違いなくもって生まれた正確のはけ口として,私とは違った特徴的行動パターンを採用しているだろう。そしておそらく,彼らがやっていることは私にも魅力的に映るであろう。だが多くの場合,私自身はけっしてしないか,考えすらしないことばかりだろう。
 第3のレベルはなかでも最も特異なものであり,パーソナル・ライフストーリーと呼ばれる。これは,レベル2に関わる人生の客観的出来事ではなく,本人が自分がだれであるか,何をしているのか,なぜそれをやっているのかについて,自らに語る主観的ストーリーである。人間が物語を語る生物だというのは,疑う余地がない。私たちは全員,自らの物語を組み立てる。そしてどんな場合でも,それらの物語はたんなる客観的な行動を超えて,解釈,目的,意味,価値,そして目標へと入り込む。ここでもまた,1対多の対応がある。まったく同じ客観的出来事が無数の異なる物語へと解釈されうるのだ。キャリアでは成功しなかったものの,さまざまな経験をしてきた人間は,自分の物語を失敗と欠陥のそれとして語ることもあるだろうし,あるいはまた勝ち残り競争からの心楽しき逃走のそれとして語ることもありうる。結婚したことがない人は,自分の物語を悲劇として語ることもあれば,逆に喜劇として語ることもあるだろう。結婚というものをどのように見るかによって,すべては違ってくるのだ。例の200人のダニエル・ネトルたちもまた,たとえ全員が私と同じようなことをしてきたとしても,それぞれが独自のやり方で自分のなし遂げてきたことを語るだろう。そしてこの独自の物語こそが,彼らのアイデンティティに少なからぬ影響をもつのである。

ダニエル・ネトル 竹内和世(訳) (2009). パーソナリティを科学する 白揚社 pp.249-251
(Nettle, D. (2007). Personality: What makes you the way you are. Oxford: Oxford University Press.)
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出生順に関して

 おおむね人が自分ときょうだいのパーソナリティを評価するとき,年上のきょうだいは自分より少々まじめだと見なし,年下のきょうだいは自分よりも反抗的で遊び好きだと見なすものだ。だが「まじめ」というのは「成熟した」という表現とやや似ており,「反抗的で遊び好き」というのはどちらかといえば「子供っぽい」に類似している。私たちが年上のきょうだいのパーソナリティについてふりかえるときはいつも,「自分より先に生まれた存在」として彼らを思い出している——一緒に過ごした子供時代,つねに自分より年上だった相手として。そしてまた,年下のきょうだいと言われて私たちが思い出すのは,一緒に暮らしていた間じゅうずっと,自分より若かった相手なのだ。したがって,評価者が年下のきょうだいを反抗的だと見たり,年上のきょうだいをまじめだと見なすのは,あたりまえすぎる結果なのである。その評価が意味あるものとなるには,相手のきょうだい本人による自己評定や,家族以外の第三者による評価によって,第一子の誠実性や,末っ子の開放性の大きさが確認されなくてはならない。だが,この種の無関係の評価者を使って評価をした場合,おおむね影響は見出されない。どうやら意味がありそうな影響は唯一,第一子の調和性がいささか低いということだが,これさえもきわめてわずかである。
 このように,生まれ順がパーソナリティに及ぼす重要性については,真に説得力のある科学的裏づけはない。生まれ順効果を進化論的に論じようとする試みもいくつかはなされている。年下のきょうだいは年上のきょうだいと資源をめぐって競争するため,自分自身を差別化しなくてはならないというのである。生まれ順が家族内部での相互作用を予測するという意味では,この考えはいくぶんうなづけるものの,全体としてのパーソナリティの調整という点から見ると,何ら実際の意味をなさない。

ダニエル・ネトル 竹内和世(訳) (2009). パーソナリティを科学する 白揚社 pp.237-238
(Nettle, D. (2007). Personality: What makes you the way you are. Oxford: Oxford University Press.)

双生児研究から

 一緒に育てられる一卵性双生児は,100パーセントの遺伝的影響を分かちもち,共有環境による影響のすべてを受け取る。もちろん,非共有環境の影響は何ひとつ分かちもつことはない。別々に育てられた一卵性双生児は100パーセントの遺伝的形質を分かちもつが,共有環境は何ひとつ(胎内での9カ月を除いて)もたず,さらに当然ながら非共有環境はまったくない。そうなると,別々に育てられた一卵性双生児の似通い方と,一緒に育てられた一卵性双生児のパーソナリティの似通い方の差は,誕生後の共有環境による影響の直接の評価値となる。研究では,その影響のサイズはゼロと出た。養子に出された子供についても同じことができる。養い親のもとで育った子供は,生物学的きょうだいとの間では遺伝的形質の50パーセントを分かちもつが,共有環境の影響は何ひとつもたない。一方,養子家庭のきょうだいとの間では,遺伝的影響はまったく分かちもたないが,共有環境の影響は100パーセント同じである。ここから共有環境の影響が直接に評価できるわけだが,ここでもまた,結果はゼロであった。おそらく最も直接的で説得力のある証拠は,同じ家庭で育った義理のきょうだい同士のパーソナリティ特性の似通い方が,同じ集団からランダムに2人選び出したときのそれとくらべてまったく変わらないということだろう。
 これが事実だとすると,導き出される結論はややもすれば心を乱すものとなる——親のパーソナリティは子供のパーソナリティに何ら重要な影響をもちえない(もちろん遺伝子経由は別として)。子育てスタイル(どの子に対しても同じであるかぎり)は,子供のパーソナリティに何ら重要な影響をもちえない。親の摂食,喫煙,家族数,教育,人生哲学,性についての態度,結婚生活の状況,もしくは再婚は,子供のパーソナリティには何ら重要な影響をもちえない。もしこのうちのどれかが一貫した影響をもつとすれば,同じ家庭で育った血のつながらない子供同士は,ランダムに選ばれたペアよりもパーソナリティが似ているはずである。だが実際にはそうはならないのだ。これを信じられないと思う場合にそなえて,「但し書き」が2つ用意されている。第1に,親の行動と家族の状況は,家族という基板の内部では,明らかに子供のパーソナリティに影響を持つ。それらの影響は,ひょっとしたら一生続くものかもしれない。以下に両親が家族を仕切るか——これは当然ながら,その家族のメンバー同士の関係と行動を形づくるだろう。問題はそれが,その子供たちが家庭の外で世界と取り組むときの大人のパーソナリティにまでは及ばないということなのだ。第2に,この結論を出した研究が対象とするのは,おそらくかなりきちんと機能している家庭だろうということだ。極度に暴力的な,あるいは虐待された子供時代の経験は,その子供のパーソナリティに永続的な効果を残すかもしれない。したがって,これらの研究が本当に示しているのは,通常の家庭の範囲内において,共有された家庭の要素が大人のパーソナリティに何の影響ももたないということなのである。

ダニエル・ネトル 竹内和世(訳) (2009). パーソナリティを科学する 白揚社 pp.228-229
(Nettle, D. (2007). Personality: What makes you the way you are. Oxford: Oxford University Press.)

開放性の心理学的基盤

 こう考えると,統合失調型だけでなく開放性パーソナリティにおいても何が起きているか,はっきり説明することができる。概念や知覚された対象がいずれも,広範な連想ラフトを活性化するのだとすれば,なぜ異常な信念が生まれるのかも理解できる。実際には「考え」であるものを聴覚と結びつけることによって,幻聴が生まれる。意味のない出来事が,そこにいない人物についての考えと結びつけば,テレパシー,もしくは超常現象という考えにたどりつく。要するに,開放性が低ければ完全に別個のものとして保たれているはずの異なる領域と処理の流れは,ここではついには相互に作用しあい,関連したものとして知覚されるのだ。幻覚,錯覚,超常的信念はいずれも,この連想の広がりが生み出した潜在的にネガティブな効果であるが,同時にそれらは,言語と視覚の分野での創造性にとって強力なエンジンとなる。詩の本質とはまさしく,異なる領域からの意味が結びついた言葉の印象的で隠喩的な使用である。同じことが非言語活動についても言える。ゆるやかな境界をもった連想は,伝統的な知能のように既製の前提から問題解決を見出すだけではなく,まったく新しいものの見方へと飛躍して,新しい果実を生み,あるいは他者の注目を集める。開放性のスコアの高い人が,美術や文学において複雑で複合的な意味をもった表現をおびただしく使い,異端的なステータスを選び,さまざまな追きゅうに駆り立てられるのもここから説明できる。それゆえもし,開放性の心理学的基礎とは何かと問われれば,私はこう答えるだろう——賭けてもいい,それは(低い開放性の心においては別々に保持されている)さまざまな処理ネットワーク間の相互作用の拡大なのだと。

ダニエル・ネトル 竹内和世(訳) (2009). パーソナリティを科学する 白揚社 pp.213-214
(Nettle, D. (2007). Personality: What makes you the way you are. Oxford: Oxford University Press.)

開放性の核心

 したがって,私の謎解きはこうなる。すなわち,開放性の「真性な」パーソナリティ特性とは,境界のゆるい連想/異常体験の特徴群であり,現在使われている質問紙計測は,知能も引き出してしまう質問項目を含むことによって「汚染」されているのである。たとえば開放性についての質問紙の多くは,「私は豊かな語彙をもっている」に類した項目を含んでいる。回答者がこれを語彙の量についての質問だととれば,答が示すものは,知能と,おそらく教育であろう。だがもし回答者が,その質問を言葉の豊かさを聞いているのだと受け取り,もっている語彙を変わった,あるいは印象的な使い方で駆使できるかどうかを答えるとすれば,その結果はまさに私の言う「真性の」開放性を反映するだろう。同じように,開放性尺度には「私は複雑な考えを把握できる」というような項目が含まれる。もし質問が,「私は各連鎖反応がどのように起こるか理解できる」ならば,答としてたたき出されるのは主として知能だろう(少なくとも自己申告による知能だが)。一方もし質問が,「私は深遠な理念を理解できる」だったら,答が反映するものはまったく違ってくる。世の中には,問題—解決という点で恐るべき知性をもっているが,思索とか,まして神秘などといった非実際的な考えにはまったく関心のない人がいる。そうした人々は,知能は高いが,開放性は低いのである。

ダニエル・ネトル 竹内和世(訳) (2009). パーソナリティを科学する 白揚社 pp.209-210
(Nettle, D. (2007). Personality: What makes you the way you are. Oxford: Oxford University Press.)

地位と人柄

 ここで,ある心乱れる推測が浮かび上がってくる。常日頃から私たちは,現代の巨大な組織——企業,政党,大学等々——がおおむね,サイコパス傾向のある人々にリードされていると感じている。たしかに,もしその地位にたどりつくのに非情さが必要だとしたら,その人たちは私たちがその仕事をやらせたいと思うような人物ではありえない。ありがたいことに,これはたんに統計的傾向であり,いくらかの例外はある。心乱される推測といえば,もうひとる,あまり探られることのないテーマがある。さまざまな文化に共通して見られることだが,女性に対して夫に望むことは何かと聞くと,真っ先に親切さと共感を強調する傾向がある。だが同時に,彼女たちは社会的地位と物質的成功をもかなり高く評価するのだ。両者の間には葛藤がある。親切と共感は高い調和性を意味するが,個人的成功は調和性の低さを意味しがちだからである。女性たちがこの二方向の綱引きをどうやりこなしていけるのか,私にはわからない。だが,これは現実の問題である。あなたに華やかなライフスタイルを与えることのできる人物は,おそらく生活をともにしたいと思うタイプの人物ではないかもしれないのだ。

ダニエル・ネトル 竹内和世(訳) (2009). パーソナリティを科学する 白揚社 pp.191-192
(Nettle, D. (2007). Personality: What makes you the way you are. Oxford: Oxford University Press.)

反社会的行為の抑制要因

 調和性の低い人がすべて道徳的に悪いわけではなく,必ずしも敵対的になるわけでもない。サイコパシーは,複雑な布置である。中核となるのは,共感の欠如のようだ。これはきわめて低い調和性のもつ特徴と一致する。だが犯罪性のサイコパスは,同時にまた,誠実性が低いという傾向がある。このことは,熟慮とコントロールがかなり欠けていることを意味する。さらにまた,彼らはしばしば不安とは無縁で,そのため恐れもなく自分の計画を推し進める。実は不道徳な,あるいは反社会的な行動を抑制する原因として,はっきりした3つの心理的要素がある。第1は他者への共感である。ひょっとしたらこれこそ最も重要な要素かもしれない。第2は熟慮である。目先の反応にとびつかず,行動の結果をじっくり考えるならば,とりあえず当面の報酬を見合わせ,先に据え置かれたもっと大きな報酬を手に入れたほうが,長期的にはうまくいきそうだと気づくことが多い。第3の要素は恐怖である。もい他のだれかをぺてんにかけたりだましたりすれば,見つけられて罰を受けるかもしれない。そのことへの恐怖が私たちを思いとどまらせるのである。
 これら3つの抑制要素は,それぞれがいずれかのビッグファイブ・パーソナリティ次元の低極に対応する。調和性がきわめて低い人は共感を欠くが,それでも熟慮もしくは恐怖によって反社会的行動が抑制される。誠実性が低い人は熟慮を欠くが,共感もしくは恐怖が彼を抑制するかもしれない。神経質傾向が低い人は恐怖をもたないかもしれないが,共感と熟慮によって抑制されるかもしれない。この三者構成システムのおかげで,ありがたいことに,向社会的行動の確率が高くなっているのである。本物の冷たく残酷なサイコパス行動が出現するのは,3つの水門がすべて開いているとき——調和性と誠実性と神経質傾向の三者すべてがきわめて低いとき——だけである。たとえば50人に1人が,この3つの「オープン・ゲート」のひとつをもっていたとしても(ほぼ正確な推計である),ビッグファイブのスコアがたがいに独立していることを考えれば,本物の邪悪な人間になる危険があるのは12万5000人にひとりとなる。ありがたいことにこの数字は,現実の私たちの経験と一致している。ある人間が他の人間に責め苦を与えたり残酷に搾取したりすることがこれほどマスコミの関心を煽るのは,まさにそれがきわめて稀で,常軌を逸しているからなのだ。

ダニエル・ネトル 竹内和世(訳) (2009). パーソナリティを科学する 白揚社 pp.181-182
(Nettle, D. (2007). Personality: What makes you the way you are. Oxford: Oxford University Press.)

調和性の高さとは

 そうなると,調和性が高いとは,他者の心の状態に注意を払う傾向があるということであり,また決定的なのは,それを行動の選択要因のなかに含めるということである。これに関連して,最近ある独創的な実験が行われた。被験者の目の前のスクリーンにはさまざまな単語が提示される。このとき被験者が,「誘拐する」,「襲撃する」,「悩ませる」といった言葉とくらべて,「思いやりがある」,「慰める」,「助ける」などの言葉を処理するのにどのくらいの時間をかけたかは,彼らの調和性のスコアによって予測された。それらの言葉を好むということは,向社会的で暖かく,人を信じる行動につながる。調和性のスコアが高い人は,他者を助け,調和的な対人関係をもち,良好な社会的サポートをもつ。人と争ったり,侮辱することもめったにない。何があってもすぐに許し,実際に相手が悪くてもあまり怒ることはないのである。


ダニエル・ネトル 竹内和世(訳) (2009). パーソナリティを科学する 白揚社 pp.175-176
(Nettle, D. (2007). Personality: What makes you the way you are. Oxford: Oxford University Press.)

誠実性はよいことか

 一見すると,誠実性は良いことばかりのようだ。それは,私たちが代償の大きいドラッグなどの依存症に陥るのを防ぎ,法律の内側にとどまるのを助ける。それは仕事の成功を助ける。それはまた長生きするのを助ける。それでは,誠実性が高ければ高いほどいいのだろうか。自然淘汰が誠実性の分布に働くとき,つねにこの特性の高い方向に向けて選択してきたのだろうか。
 もうおわかりかもしれないが,私はこのようには見ない。第1に,誠実性の利点は現代の先進諸国の環境のなかで誇張されすぎているのだ。私たちの職場はきわめて人工的な生態環境となっている。かつて私たちの祖先が生き残って,子孫を残すことができたのは,1日8時間,同じ場所で,明確な規則や基準に従い,前もって計画された仕事なり繰り返しの仕事なりを,静かに続けていたからではなかった。現代の職場や学校で,私たちが長時間それだけをやって過ごすことになったのは,現代の世界における経済の異常な分化と専門家の結果にすぎない。
 すでに見てきたように,誠実性とは,人が内にもっている基準やプランに固執することである。狩猟採集の生活を送っていた祖先たちにとっても,プランを作り,それが続行できるというのは,もちろん役に立ったはずだ。何年先に必要となるかわからないにせよ,注意深く,また慎重に道具作りの技を磨くのは,必要に迫られてその場にあるものをつかんで使うよりも有利だったろう。だが,誠実性がいきすぎた場合はまずいことになる。狩猟採集生活の多くは,予測不可能な出来事のために前もって計画するのは不可能だった。目の前を走り過ぎていくヌーの群れを見送りながら,「実は水曜日は蜂蜜集めの日なんでね」などと言うのは,けっして良い反応とは言えまい。狩猟採集者にとっての生活とは,今この瞬間に刺激に対する一連の緊急の即興演奏だった。それが通り過ぎる獲物の存在だろうと,通り過ぎる獲物がいないことだろうと,他者からの攻撃だろうと,何かが起こったとたん,それまでのプランをかなぐり捨て,すぐさま精力的かつ自発的に身体の反応を動員できた人たちが成功したのだった。

ダニエル・ネトル 竹内和世(訳) (2009). パーソナリティを科学する 白揚社 pp.156-157
(Nettle, D. (2007). Personality: What makes you the way you are. Oxford: Oxford University Press.)

誠実性の高低

 そうなると,誠実性がきわめて低い人というのは,たとえそれがどんなに有害でもやめることができない依存症パーソナリティを意味する。彼らの大部分は,依存症や反社会的障害に陥るほど極端とはならない。それでも誠実性のスコアの比較的低い人全員が,軽くはあるがこの種の衝動のコントロールで苦労している様子が見られる。私の通信員のうちで誠実性のスコアの低い人の書いてくるもののなかには,野心はあるけれども「怠け癖が邪魔をして……」とか,経済的な理由でキャリアアップする必要があるのだが「本音はやりたくない」とかいった文章が散見される。というのは,本来彼らには「集中力が欠如」しており,ぶらぶらしているほうが好きだからである。実は誠実性のスコアが低めの人が不利となる主な領域が,「仕事」なのだ。全般的に見て職業上の成功を予測するうえで最も信頼できる要因は,誠実性である(特定のタイプの仕事に必要なパーソナリティとは別)。おおむね他の条件が同じであれば,誠実性のスコアが高ければ高いほど,成功の可能性も大きくなるだろう。
 職業的成功と誠実性との相関はとくに強いわけではない。およそ0.2という相関値は,他に多くの要素が影響していることを示している。ただ印象的なのは,さまざまな調査結果が一貫してこれを示していることだ。数十にものぼる研究で,多かれ少なかれ同じように相関が現れている。職業的成功の基準が,仕事の熟達度評価だろうと,昇進のスピードだろうと,収入だろうと,あるいはまた訓練完遂度評定だろうと同じである。さらにまた,専門職,マネージャー,セールスマン,警官,そしてルーチンワーク的な仕事においても,相関は等しく見出される。したがって,これを特定のタイプの職種においてのみ帰するわけにはいかない。要するに,誠実性が高ければ高いほど,職場で成功する公算が高いということなのだ——成功の定義や職場の種類とは関係なしに。

ダニエル・ネトル 竹内和世(訳) (2009). パーソナリティを科学する 白揚社 pp.153-154
(Nettle, D. (2007). Personality: What makes you the way you are. Oxford: Oxford University Press.)

神経症傾向の高低の欠点

 人類の祖先の環境において,あまりにも低すぎる神経質傾向は死亡率を増大させる原因となり,そのために淘汰されたと見るのは理にかなっている。状況が厳しく,グループ間での,またグループ内での競争による現実の脅威があるとき,最もうまくやれたのは神経質傾向がきわめて高い人々だったかもしれない。イスラエルのゴルダ・メイア首相はこう言ったと伝えられる——「私が被害妄想だからといって,彼らが私を捕らえないということにはならないでしょう。」逆に,状況が穏やかなときには,スコアの高い人は行き過ぎた不安の代償を支払ったことだろう。くよくよせずに人生を過ごすのんきな連中にくらべて,警戒しすぎるのは不利になったはずだ。ここでもまた,閾値の最適レベルは,局地的状況と集団の構成によって変動したことだろう。

ダニエル・ネトル 竹内和世(訳) (2009). パーソナリティを科学する 白揚社 pp.136
(Nettle, D. (2007). Personality: What makes you the way you are. Oxford: Oxford University Press.)

ネガティブな情動とは

 ネガティブな情動とは何だろうか。このグループには恐怖,不安,恥,罪悪感,嫌悪感,悲哀がたがいに関連しあって含まれるが,どれも経験する者にとってきわめて不快である。思うにそうした不快感は,私たちにそれらの経験を避けるよう教えるためのデザイン特性なのであろう。ポジティブな情動が,私たちにとって良い事柄を探し出し,それを目指すためにデザインされているのだとすれば,ネガティブな情動は,祖先の環境で悪かったであろう事柄を感知し,それを避けるためにデザインされている。こうして私たちは恐怖を感じると,潜在的な危険を警戒し,その恐れのもととなった事柄に対して用心する。不安を感じれば,起こりうる問題や危険がないかと周囲の状況や自分の心を探る。嫌悪の感情は,私たちを有害なものや感染性のものから遠ざける。恥と罪悪感は複雑な情動だが,本質的には,ネガティブな結果を伴う行動へと向かう私たちを押しとどめる。では,最後の悲哀はどうか。悲しみというのは奇妙な情動であり,その機能はいまだに完全にはわかっていない。これを社会的信号と考える人々もいる。つまり自分にとって重要な他者に対して,「私はもうやっていけません。支えをください」と言っているというのである。その一方で,悲哀とはプランが失敗したときの省エネの退却だと見る一派もある。さらにまた,悲哀には認知の役割があるとする考えもある。暗く,ごまかしのない心との対話のなかで,私たちは挫かれた目標と過去の間違いを再評価し,未来のためによりよきプランを作るというのである。これらの説はいずれも正しいのかもしれない。確実に言えるのは,悲哀というネガティブな情動が,不安のように喚起されやすい別の感情と,多くの心理的機構を共有しているということである。

ダニエル・ネトル 竹内和世(訳) (2009). パーソナリティを科学する 白揚社 pp.119-120
(Nettle, D. (2007). Personality: What makes you the way you are. Oxford: Oxford University Press.)

神経症傾向の核心

 外向性がポジティブな情動と関わるように,神経質傾向はネガティブな情動に関わっている。前に述べた実験で,面白い映画の一場面を見たり,自分の素晴らしい経験について書いたあとなどに,外向性のスコアの高い人は,気分が大きく高揚した。それと同じように,恐ろしい場面を見たり,ひどい経験について書いたあとなどに,どれほどネガティブな気分になるかを予測するのが,神経質傾向のスコアなのだ。日常生活の苦労や厄介事についても,神経質傾向のスコアの高い人は,スコアの低い人よりも,強い影響を受ける。つまり神経質傾向のスコアは,ネガティブな情動システムの反応性を測るもののようである。

ダニエル・ネトル 竹内和世(訳) (2009). パーソナリティを科学する 白揚社 pp.119
(Nettle, D. (2007). Personality: What makes you the way you are. Oxford: Oxford University Press.)
引用者注:ここでの「神経質傾向」は,いわゆる「神経症傾向(neuroticism)」のことである

外向性の核心

 ここでようやく私たちは,外向性とは何かということの核心をつきとめたことになる。すなわち外向性とは,ポジティブな情動の反応に見られる個人差である。外向性のスコアが高い人は反応性が高く,仲間,興奮,達成,賛美,ロマンスなどの快感を手に入れるために必死になる。一方,スコアの低い人はポジティブな情動システムの反応性が低いため,こうしたものを手に入れることの心理的利益も少ない。両者にとってそれらを手に入れるためのコストが同じだとすれば,内向的な人は外向的な人ほどその獲得に心をそそられないのである。

ダニエル・ネトル 竹内和世(訳) (2009). パーソナリティを科学する 白揚社 pp.104
(Nettle, D. (2007). Personality: What makes you the way you are. Oxford: Oxford University Press.)

外向性と社交性は異なる

 世間一般の意識では,そして初期の心理学理論のいくつかでも,外向性の中心は社交性と見なされている。外向性で高いスコアを取る人が低いスコアを取る人よりも社交に多くの時間を費やし,話し好きで,パーティが好きであり,関心の的になるのを好むというのは事実である。彼らはやすやすと新しい社会的関係を形成する。たとえば,大学に進んだ学生たちについての調査で,外向的な若者たちは内向的な若者たちよりも,友だちを作るのが早かった。
 ただし,外向性と社交性を同一視することには,慎重であるべきだ。第1に,人が内気なのは,外向性が低いためというよりむしろ,不安と神経症傾向が高いことによる場合がきわめて多い。外向性のスコアが低い人は必ずしもシャイではない。たんに社交に価値をおかないだけで,社会的なつきあいがなくてもたいして気にしない。外向性の低い人々がしばしば人づきあいが悪いと見られるのはそのためである。もうひとつ気をつけるべきなのは,外向性の高さと,良好な社会的関係を混同してはならないことだ。外向性とは,人がどのくらいパーティに行くのが好きか,どのくらいの時間を社会的活動で過ごすか,新しい友だちを作る才能があるかを予測するだけで,その友人関係がどのくらい良好であるかを予測するものではない。大学生を対象にした調査で,他の学生たちとの協調性を予測できたのはビッグファイブのもうひとつの次元,調和性であって,けっして外向性ではなかった。実際のところ,外向的で同時に調和性の低い人物は,社会的にきわめて問題になることがある。彼らはパーティに行き,酒を飲んで酔っぱらい,果ては初めて会った人と大喧嘩するといった行為に非常な快感を覚えるのだ。外向的で調和性の低い人間は,ためらうことなく他の人々の前で完全に相手を無視できるし,それで自分が有利になると思えば,むしろ楽しんでその行為をするかもしれない。

ダニエル・ネトル 竹内和世(訳) (2009). パーソナリティを科学する 白揚社 pp.92-93
(Nettle, D. (2007). Personality: What makes you the way you are. Oxford: Oxford University Press.)

ユングと外向性

 外向性と内向性という用語は,1921年にユングによって導入された。彼は,世界に向かう心の指向性として,外向性—内向性という二者択一を見ようとした。ユングの外向型では,焦点は外に向かっている。内省よりも行動,ひとりで考えるよりも他の人々と一緒にいるほうを好む。したがって社交的で活動的である。内向型のほうは,焦点は自分自身の思考と感情に向かう。したがって,まわりからはいくぶん孤高と見られ,省察のための孤高と平穏を求める。こうした外向型の概念は,長い年月の間に変わってきており,同じ用語ではあるものの,ユングの心理学的類型も,さまざまな理由から,本書に述べるパーソナリティ特性と完全に一致してはいない。しかしながら,5因子モデルだけでなくあらゆるパーソナリティ理論に,ここに述べた「外向性」ときわめてよく似た——そして知的祖先のどこかにユングをもつ——次元がある。

ダニエル・ネトル 竹内和世(訳) (2009). パーソナリティを科学する 白揚社 pp.91-92
(Nettle, D. (2007). Personality: What makes you the way you are. Oxford: Oxford University Press.)

連続的な多様体

 そうなると,繁殖の面で適合するためには,単一の集団に類型の異なる個体が含まれてはならないことになる。人々を別個の「類型」に分類するパーソナリティ理論が,生物学的に妥当とは言えない理由のひとつがこれである。だが,現実に見出される個人差はどういうことなのだろう。身長,パーソナリティ,知能など,これまでに挙げたいくつかの例を見れば,これらが基本的に連続的な次元だということは明らかである。身長には遺伝的な違いがある。それは,遺伝子変異体が成長プログラムを少しだけ速く,あるいは少しだけ長く作動させる(そのシステムの総合的な調整を妨げることなしに)のに,多くの方法があるからだ。そうなると重要な遺伝的な違いの大部分は,すべての人が共有する何らかのシステムの機能もしくは発達に,違いをプラスする変異体から成り立っていることになる。だれもが同じ基本的なボディプランからなる身体を持つ。だが,そのサイズは人によって異なる。だれもが同じネガティブ情動をもっている。だが,その情動が換気される度合は人によって違っている。神経質傾向の強い人の情動は比較的簡単に喚起される。だれもが同じ認知器官をもっている。だが人によってそれは,少しばかりすばやく,あるいは効率的に働く。個々人の違いについて研究する際に,つねに心に留めておく必要があるのはこのことだ——私たちが扱っているのは,一連の共通のメカニズムに沿った連続的な多様体なのである。

ダニエル・ネトル 竹内和世(訳) (2009). パーソナリティを科学する 白揚社 pp.69-70
(Nettle, D. (2007). Personality: What makes you the way you are. Oxford: Oxford University Press.)

機能と遺伝

 実はこれに関連して,トゥービイとコスミデスがいくつかの主張を展開している。第1に,人間をはじめどの生物集団においても,質の異なる心的メカニズムをもった個体が含まれることは考えられない。なぜならメカニズムは,最終的に複雑なデザインを作り出すために協力して働く何ダースもの遺伝子の組み合わせからできているからだ。たとえば,あなたがネガティブ情動システムをひとつしかもたず,それを環境のなかのあらゆる種類の脅威を避けるのに使っていたとする。一方,私のほうはそのシステムを2つもっている。ひとつは人々からの脅威を検知するためにデザインされ,もうひとつは完全に別個の脳の領域を使って,無生物環境からの脅威を検知するためにデザインされたシステムである。ひとつのシステムからなるデザインも,2つのシステムからなるデザインも,ともにきわめて理にかなっており,どちらかが他のものよりよりよいというアプリオリな理由はない。ここで,この2つのタイプが両方含まれている集団を考えてみよう。私たちは赤ん坊を作るたびに,父親と母親の遺伝子パックを混ぜあわせる。だが,前述の集団の中の不運な子供たちは,2つの別個の脅威検知システムを作るのに必要な遺伝子材料のおよそ半分と,単一の統一システムを作るのに必要な材料のおよそ半分をもつことになるかもしれない。おいしいスフレを作る食材の半分と,おいしいチキンカレーを作る食材の半分を用意して,出来上がるのはおいしいスフレでもなければおいしいカレーでもない。どうしようもないごちゃ混ぜである。このことがもっとはっきりするのは,情動回路を作るための2つの完全な遺伝子体系を半分ずつもった場合である。どちらの遺伝子体系にしても,50パーセントだけでは100パーセントの場合ほどは働かないし,おそらく50パーセントほども機能しないだろう。いや,それどころかまったく役に立たないだろう。そうなると繁殖の際の選択は当然,種特異的な基本デザインに強く向かうことになる。つまり,自分と同じ基本的なタイプの青写真をもつ相手を選ぶのである。そうすれば,両親の2つのゲノムが赤ん坊のゲノムの中に複製されるとき,結果として出来上がる混合物はスフレでもカレーでもなく,機能をまるごと備えた統一体となるからだ。

ダニエル・ネトル 竹内和世(訳) (2009). パーソナリティを科学する 白揚社 pp.68-69
(Nettle, D. (2007). Personality: What makes you the way you are. Oxford: Oxford University Press.)

長期予測研究

 予測するという証拠を示した研究成果はふえているが,ここでは2,3の例を挙げるにとどめよう。ひとつは,E・ローウェル・ケリーとジェイムズ・コンリーによる研究である。ケリーがこの研究に注いだ努力には,頭が下がるばかりだ。最初の時点でのデータ収集から論文の発表に至るまで,経過した時間はなんと52年だった。これほどの時間的奥行きをもったデータは,人生の長期的パターンに関心をもつ私たちにとって,きわめて貴重な資源である。1935年から1938年までに,ケリーは主としてアメリカのコネティカット州から婚約中の300カップルを調査対象として募集した。ケリーは彼らと接触しつづけ,その結婚の状態について——結婚生活が破綻なく続いてるか,結婚生活が幸せか——追跡調査を行った。データは,結婚直後と1954〜5年の時期,そして最後に1980年〜1年の3回にわたって集められた。1930年代には,1人1人の被験者につきそれぞれ5人の知り合いに依頼して,パーソナリティ尺度評定を行っている(このパーソナリティ尺度は,今日私たちが使っている尺度のさきがけであり,基本的に,外向性,神経質傾向,誠実性そして調和性からなる)。集められた評定の結果から,ケリーはこの4つの次元について平均的パーソナリティ・スコアを引き出した。
 結果として,このパーソナリティ・スコア——1930年代に被験者の友人たちによってなされた単純な評定——は,現実に彼らの結婚の成り行きをかなり強く予測するものだった。カップルのどちらか(男女を問わず)の神経質傾向が高ければ,離婚の確率は平均よりはるかに高かった。別れなかった場合には,その結婚生活は,40年後になされた各自別々の評定平均が示すように,あまり幸福なものではなかった。神経質傾向の高い人々が陥りやすいネガティブな情動は,現実の生活のなかで,また長い期間にわたって,確実に違いをもたらしたのである。ほかにもまた興味深いパターンがいくつかある。男性の誠実性スコアは,離婚を予測していた(誠実性のスコアが低ければ低いほど,離婚の可能性は高くなる)。ケリーとコンリーが集めた離婚理由からは,誠実性の低い男性は基本的に家長として落第だという傾向が見てとれる。ある者は大酒飲みであり,ある者は金銭的にだらしなく,またある者はその両方だったりする。ここで注意すべきなのは,彼らが戦前に結婚したカップルであり,当時は伝統的な性役割分担意識があったことである。女性の場合にこの効果が見られないのは,この時代の女性がおおむね家計の担い手としての役割を果たしていなかったことによる。


ダニエル・ネトル 竹内和世(訳) (2009). パーソナリティを科学する 白揚社 pp.40-41
(Nettle, D. (2007). Personality: What makes you the way you are. Oxford: Oxford University Press.)

ゴールトンと測定

 最後にもう1つ,ゴールトンに注目する理由は,彼が測定についてきわめて現代的な関心をもっていたことである。ゴールトンは,曖昧でとらえがたい行動を測るための現実的な測定法を見出すことに熱中した。1885年,彼は「ネイチャー」誌に,「落ち着きのなさの測定法」と題する論文を発表した。このなかで彼は,長期にわたる観察から得た結論を紹介している。講演のような大きな集まりにおいて,聴衆は1分につき平均1回身動きする。講演者が聴衆の注意をひき始めると,その段階でこの率は半分ほどに減少し,同時に身動きする様子も変化する。動きの時間は短くなり(関心をもった聴衆はすぐに体を動かすのをやめる。退屈していると動きが長びく),そして上体の振れの角度(船乗り用語でヨー[船首を左右に振ること])もまた減少する。したがってどの時点においても,聴衆がどれほど退屈しているかを手っ取り早く知るには,まっすぐな姿勢からどれほど身体が傾いているかが指標となるだろう。ゴールトンはこれを,「何らかの回顧録を読むようなときに,聞き手の退屈度を数値に表す」ための有望な手段になりうるとして,読者に推薦している。
 一風変わってはいるものの,この論文はきわめて現代的である。ゴールトン以前にも多くの哲学者が,人間の特性について思いめぐらせてきた。だがその特性も,測定できなければ何一つ(少なくとも科学的には)意味をなさないことに気づいた人は,ほとんどいなかった。科学としての心理学の仕事の大部分は,すぐれた測定を考え出すことと,その測定の優秀さを示すことの2つの柱からなっている。事実,「学問として尊敬される」心理学をそれ以外の心理学から区別するのは,この測定への関心なのだ。ゴールトンは売春婦と貴族の体重,反応速度,頭のサイズ,指紋の形態,そのほか多くの特徴を計測している。ゴールトンが人格理論に対して行った特別な貢献は,パーソナリティがどのように測定されうるかをはじめて考え,それを科学的に研究できる領域に持ちこんだことであった。

ダニエル・ネトル 竹内和世(訳) (2009). パーソナリティを科学する 白揚社 pp.24-25
(Nettle, D. (2007). Personality: What makes you the way you are. Oxford: Oxford University Press.)

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