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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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機能の副産物

 それにしても『ファイナルファンタジーXI』で,痴話げんかが多いというのは,何が原因だったのだろうか。
 初期の頃から,ネットゲームに詳しい人の話である。
 「米国製のネットゲームは,ゲーム内で友だちが,今どのへんで何をしているかが,わからない。ところが日本のゲームは検索機能が付いていて,ゲーム内のどこにいても,誰と一緒にいるかが発見できる。『ファイナルファンタジーXI』では特に,どのエリアで,どのレベルで誰が何をしているか全部わかるようにできている。推測ですが,ゲームクリエーターは親切心で,友人がどこで遊んでいるかわかるような機能を作ったのでしょう。ところが,実際の使われ方は,そうじゃない。相手がどこで何をしているのかを監視するために使われていた」
 ユーザーに,ネット恋愛中のカップルやリアルの恋人同士,現実の主婦,恋愛目的にゲームに参加するファンが多かったせいで,よくこんなチャットが飛び交っていたという。
 「俺の彼女に,手を出すな」
 「私が仲良くしているAさんと一緒にいるなんて許せない」
 「おまえ,他の男と何している!早く帰って来い」
 キャラクターはゲームの中で動き回っている。だが,キャラクターを操作しているのは,所詮,生身の人間同士だ。ネット恋愛だけでは飽き足らず,リアルで不倫に走るケースも稀ではなかった。

芦崎 治 (2009). ネトゲ廃人 リーダーズノート pp.142-143
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ネトゲは出会い系

 ネット上で知り合い恋愛感情が芽生える。これは自然なことなのだろう。ただ,山本奈菜の話を聞いて,こんなイメージがわいた。リアルで直接会って,お互いが気に入る。すると,ゲーム画面を「ビューッ!」と移動するキャラクターのように,相手の家に入ってしまう。個人の領域や境界線のようなものがない,そんな感じがしたのだ。お互いに段階をふんで接近してゆくコミュニケーションが希薄なような,そんな感触が残った。
 そして欠けていると思ったのは,動物のような警戒心だ。動物は本能のまま研ぎ澄まされた感覚で注意深く相手を見極めようとする。そうした他者への緊迫感を感じさせない。
 ある千葉のハードゲーマーが語ったこんな言葉が印象的だ。
 「ゲーマーは,恋愛に関して奥手なんですよ。ゲームサークルの知り合いで28歳まで女性と付き合ったことのない男性がいます。恋愛経験がないから,一度火がついちゃうと,もうどうしていいかわかんなくなっちゃう。ネットゲームは主婦が多いじゃないですか。それで,まずい恋愛をしている人も多いですね。ある種の出会い系サイトのようなものですよ」
 視点を変えると,ネットゲームは出会い系なのだ。

芦崎 治 (2009). ネトゲ廃人 リーダーズノート pp.61

ゲーム内と現実の価値の不均衡

 ネットゲームはドラマチックに出来ている。ところどころで,感動的なシーンに遭遇する。複数の参加者が連帯感をバーチャルに共有できる。
 「あなたがいないとだめだった!」「君に救ってもらえた!」「ありがとう!」
 現実には友だちのいない引きこもりの男の子でも,人助けができる。女性ゲーマーを救えば,王子さまのような扱いを受ける。実生活ではありえない憧れの対象になれるのだ。だからオフ会で人の目を見られない内気な人でも,ゲームに入れば水を得た魚になる。
 「ゲーム上だと,強くなればみんなモテる。強くなるにはどうすればいいのか。実は,より引きこもりになると,強くなれるんですね。1日中,敵を打っているとゲームに強くなる。でも寝ないで戦っていると,会社の仕事に支障が出る。私がいたIT企業でも社員の遅刻がひどかった。仕事をしているかと思えば,ゲームで遊んでいる。それでクビになった社員もいます。実生活では信用を失いモテなくなる。なんだよ,こっちの側(リアル)の女はみんな冷たくしやがって。でも,俺はそっちの側(ゲーム)ではモテモテなんだぜ!みたいな引きこもりサイクルが働く。モテるには引きこもるしかない。そうなるとゲームに居場所を求める悪循環に入っていくわけです」
 ゲーム内の自己(キャラクター)に依存すると,現実の価値はどんどん意味を失っていくのだ。

芦崎 治 (2009). ネトゲ廃人 リーダーズノート pp.25-26

天然ボケとキャラ

 ただし「天然ボケ」は,孤立した特異な存在なわけではない。「笑い」を誘うものとして,それは1つの理想型であって,そうなりきれない者は,自分の「そのまま」さをどこかで意識して演出しなければならない。それが「キャラ」と呼ばれるものの現在の「笑い」の空間での位相である。人は,とりわけ1990年代以降の「笑い」の空間で誰でも多かれ少なかれ「キャラ」になる。そのかたちは,「ボケキャラ」であったり「キレキャラ」であったり千差万別である。逆にいえば,どんなタイプの「キャラ」であるかというよりも,「キャラ」であること自体が大事なのである。
 この場合「キャラ」は,先に述べたキャラクターの文法を一般化することで,結局キャラクターが希薄化したようなものといえるかもしれない。キャラクターが,「仲間」空間から浮いた位置にある個体をさすものだったのに対し,「キャラ」は,そのような浮いた特性を簡単に模倣できるようなものとしてパターン化した結果,「仲間」空間での軽い差異化の手段として根づいたものである。それは,タイプというほど個体の恒常的性質の表れを示すものではない。それは,その場その場でのポジションの引き受け方であり,したがって「キャラ」を意識するなかで,それになりきろうとするゲームを発動させることが重要なのである。
 つまり「キャラ」とは,付け替え可能な覆面のようなものである。それは「素」が見えないくらい演じられるような場合もあれば,「素」が透けてみえるような場合もある。だがいずれの場合も含めて,「キャラ」のゲームは成立している。言い換えれば,そのゲームの最大の特徴は,「素」と演技をあえて峻別しないことである。個人の「素」をなんらかの配合で織り込むことが,このゲームで抜きん出るためのポイントである。人は誰もが,ある部分ある場面では「天然ボケ」でありうるのだ。

太田省一 (2002). 社会は笑う:ボケとツッコミの人間関係 青弓社 pp.164-165

天然ボケとは

 「天然ボケ」のボケは,意図されたものではない。普通のつもりでまじめにおこなった言動が,周囲からはボケと受け取られるのである。したがって,「天然ボケ」と名ざされた当人には,そこにウケようという気持ちはない。言い換えれば,とりあえずボケることによって自己主張するつもりはないのである。むしろそうした意図が感じられなければ感じられないほど,その人は,完璧な「天然ボケ」として周囲からより好意的に迎えられることになるだろう。
 その意味で,「天然ボケ」は,内輪ウケの空間で,誰もが多かれ少なかれ意識せざるをえないはずの記号的な自己主張のまさに対極の存在である。だがそこにこそ,「天然ボケ」という非記号的存在が記号化される契機がある。
 結局,「天然ボケ」とは,あらゆる言動がボケとして扱われる存在のことである。そうなるとき,「天然ボケ」の自己主張のなさが逆に強い自己主張になるという事態が起こる。本人にその気がなくとも,存在自体が周囲の注目を浴び,また言動が個性の表現として解釈されてしまう。ただしその存在の自己主張は,内輪ウケの空間を突き崩すようなものではない。その主張はすべてボケというかたちをとるからである。したがって「天然ボケ」は,内輪ウケの空間での一種理想的な存在様態という地位を占めることになる。「天然ボケ」は,ボケを創意工夫する労がなくとも「笑い」を引き起こすエリートなのである。

太田省一 (2002). 社会は笑う:ボケとツッコミの人間関係 青弓社 pp.95

漫才と吉本興業

 この万歳の勢いに目をつけたのが,吉本興業である。活動写真の台頭によって寄席経営が苦境に立たされていた吉本は,1926年前後(大正末期から昭和初期)にかけて,落語に代えて万歳を全面に押し出すことで突破口を開こうとする。この策はみごとに当たり,やがて万歳は寄席だけでなく伝統ある劇場にも進出するほどの人気を得るにいたる。そのあいだ,吉本興業は専属の万歳コンビの数を増やし,寄席出演者の勢力図は次第に万歳中心に塗り替えられていった。ただ万歳の手段を選ばないやり方は,すでに述べたように,ともすれば低級とみられ,世間の認知がなかなか得にくいというきらいがあった。そのイメージを一新し,サラリーマンを中心とした中流都市階層を新しく客層に取り込むために,吉本興業は,1933年(昭和8年)に「万歳」から「漫才」へと名称を改めることを決める。おりしもその同じ年,現在のしゃべくり漫才の原点となったエンタツ・アチャコの「早慶戦」が生まれる。彼らはサラリーマンが着るような普通の背広を舞台衣装にした最初のコンビでもあった。そのとき,吉本興業専属の漫才コンビは,すでに150組に達していたという。

太田省一 (2002). 社会は笑う:ボケとツッコミの人間関係 青弓社 pp.26-27

漫才の歴史

 漫才の祖とされるのは,玉子屋円辰である。鶏卵の行商をしていた円辰は,趣味の河内音頭が高じてプロに転じる。そのさい,行商でたびたび出向いて見知っていた三河万歳の太夫と才蔵の掛け合いの形態をかりて,名古屋漫才として鉱業を始めたのが現在の漫才の出発点になった。ところが,最初は音頭の単調さを救うための彩りにすぎなかった漫才の部分が次第に前面に出てくるようになり,ついには音頭そのものをやめて,太夫役と才蔵役による掛け合いの漫才だけを演じるものが増えてくる。また,そのあいだにも同じく当意即妙の会話による掛け合いを旨とする大阪仁輪加から転向してくる者や,まったく異なる種類の職業から転身してくる者が続々と現れ,名古屋漫才は,1904年ごろの発足から十年あまりのあいだで,各地に巡業がおこなわれるほどになるほどの発展ぶりだったという。
 つまり万歳の世界は,くろうとかしろうとかを問わず,さまざまなジャンルから,どんどん流れ込むように人が集まってできあがったものである。そのことは,一定の形式にこだわるのではなく,笑いをとることがひたすら優先されるという万歳特有の自由さにつうじている。そのときどきの観客の好みに合わせて,内容も臨機応変に変わって当然なのが万歳なのである。笑いをとるためなら,下品なことでも暴力的なことでもなんでも取り込むのがその特徴となる。それに対して猥雑さや下品さを非難する声もあがったが,他方でそういった自由闊達な形態が新鮮な魅力をもつものと受け取られ,大きな支持を獲得する原因になったのである。

太田省一 (2002). 社会は笑う:ボケとツッコミの人間関係 青弓社 pp.25-26

考えを改めるのは困難

 一般に,こう言われるかもしれない。青年たちの社会的な遊びに関して,子供時代の遊びの本性について,かつて抱いたことのある偏見と類似した偏見は,そう容易に克服できるものではない,と。われわれはこのような行動を,無関係で,不必要で不合理なものとみなし,純粋の退行的で神経症的な意味をもつものとみなしてしまう。過去において子どもたち同士の自発的なゲームの研究より一人遊びの研究の方が好まれたために,前者が無視されてしまったのと同じように,今や,青年の徒党を組んだ行動による相互的な「結びつき」は,個々の青年に対するわれわれの関心のために適切に評価され損ってしまっている。それぞれの前社会 presociety における子どもたちや青年たちは,お互いに認め合った猶予期間を提供し合い,内外の危険(おとなの世界から向けられる危険を含む)に対する自由な実態を共同して支持しあっている。特定の青年の新たに獲得された能力が幼児的な葛藤にまき込まれるかどうかは,彼が属する徒党,仲間の中で自分に利用できる概念や参加への移行を,社会が一般にどんなふうに導くか,その形式的なやり方の如何によって,かなりの程度左右される。そしてこれらのすべては,個人と社会との間の暗黙の相互的契約にその基礎をおかねばらならい。

エリク・H・エリクソン 小此木啓吾(訳編) (1982). 「自我同一性」アイデンティティとライフサイクル 誠信書房 p.155
(Erikson, E.H. (1959).Identity and the Life Cycle. New York: International Universities Press.)

結婚しようか悩んだ時は

 もし「結婚相手は彼でいいのかな……」と悩んでいる女の人がいたら,ベッドで「人間って牛は殺すのに,なんで犬は殺さないの?」と聞いてみたらいい。
 おそらく,学歴や肩書きなんかより,はるかに相手の人間的レベルがわかるだろう。哲学に教養,やさしさに表現力,すべてがあからさまにわかってしまうのだ。この人の子供なら膿んでもいいと思える答えが返ってくれば合格でいいだろう。
 「何言ってんの,バカだろ。フツーそんなこと考えねえよ」ときたら,その男は自分の子供にも同じことを言う。子どもが将来大きく羽ばたく可能性も低いので,そんな彼なら捨ててしまってもいいかもしれない。

山田玲司 (2009). キラークエスチョン:会話は「何を聞くか」で決まる 光文社 pp.130-131

受験後遺症では?

 クイズ番組を見るたびに,「ああ,日本も終わりだな」と思う。
 特にあきれるのは,そのクイズが単純な「漢字問題」だったり,「地名当て」だったりと,ただ「知っているだけ」で正解とされる問題の場合だ。
 言うまでもなく,クイズには正解がある。しかし,人生に正解なんていない。いや,ありとあらゆることに正解なんてないのだ。だからこそ人生は面白いし,新しい何かが生まれるのだと思う。
 正解のある問題を解くいわゆる「勉強」は,学生の一時期にやらされる儀式みたいなもので,問題はそのあとなのだ。それをいい大人が必死にやって,バカだの賢いだのと騒いでいる。僕にはこの状況が「頭が悪い」としか思えない。
 これはどう考えても日本中が受験後遺症という病にかかっている証拠だろう。

山田玲司 (2009). キラークエスチョン:会話は「何を聞くか」で決まる 光文社 pp.120-121

違いがあるから面白い

 人には違いがあるから面白い。明らかに自分には「どうかしている」ように見える髪型やファッションをしている人にあっても恐れることはない。相手の「かっこいいこと」を聞いて,その異文化を感じてみればいい。
 けっして,「こいつバカか?」とか「俺よりセンス下だな」などという排除や評価をしてはいけない。
 そんなときは,森で知らない動物に出会ったような気持ちで純粋に受け止めればいいと思う。キリンに「何だその首は!おかしいだろ!」とか,鳥に「なんで飛ぶんかねー?」と突っ込んでも彼らは困るだけだろう。
 「こういう人も(動物も)いるんだ……」と素直に感じよう。

山田玲司 (2009). キラークエスチョン:会話は「何を聞くか」で決まる 光文社 pp.74-75

知らないから見下せる

 今の日本には人を見下している人が大勢いるけど,おそらくは相手のことを何も知らないで見下しているのだろう。
 深く相手を知れば,必ず馬鹿にはできない「何か」があるはずなのだ。
 やたらと人を見下すことは,その人に想像力がなくて経験不足だということの証明になってしまう。人を見下すことはみっともないことだと自覚してほしい。
 まずは相手に対する本心のリスペクトが第一だ。最低でも一定以上の敬意がなくてはいけない。それがあってのキラークエスチョンなら効果は絶大だろう。
 人は「心のない言葉(質問)」には想像以上に敏感なのだ。

山田玲司 (2009). キラークエスチョン:会話は「何を聞くか」で決まる 光文社 pp.65-66

人生の危機と生活の危機は違う

 人間,生きていたらさまざまな問題とぶつかります。なかにはやっかいな問題もある。そんなときに出てくるのが,こんな台詞です。
 「今度ばかりは人生の危機だ。どうやって乗り越えたらいいのか……」
 人生の危機とは尋常ではありません。
 いったいどんな状況が人生の危機なんでしょうね。
 「ついにリストラされてしまった。次の仕事のあてもないし,まさに人生の危機だよ」
 「離婚問題が持ち上がっている。これまで順調にきたのに,いまになって人生の危機が,突然,訪れるなんて……」
 リストラや離婚が人生の危機というわけですが,わたしには到底,そうは思えません。危機という言葉を使うとしても,それらはせいぜい生活の危機です。人生の危機とはまったく違います。
 どうやら,日本人は人生の危機と生活の危機を混同してしまっているらしい。これこそ,かなりやっかいな問題です。


ひろさちや (2010). 「ずぼら」人生論 三笠書房 pp.164-165

善悪ともう一つ,必要・不必要の軸を

 「嘘が悪だ」と言うときに,その判断基準になっているのは善悪の物差しです。
 一方,物差しはもう1つある。必要か不必要か,というものがそれです。前者は宗教的な物差し,後者は政治的な物差しだ,と言えます。
 この2つの物差しは,まったく違う次元にあります。
 ところが,日本人は両者を混同しているんですね。ほんとうは善には必要な善と不必要な善があるわけだし,悪にも必要な悪と不必要な悪があるわけです。宗教が根づいているキリスト教国などでは,ものごとを判断する際,この4つの価値観が基準になっています。
 日本人はそれができないんですね。
 つまり,必要なものは善であり,不必要なものは悪である,という価値観でものごとが判断されるんです。必要悪(不必要善)という価値観が抜けています。
 いちばんいい例が暴力です。
 暴力はいかなる場合も悪です。しかし,学級崩壊の危機に瀕死他養育現場では,体罰やむなしという状況があるかもしれません。あるいは,家庭でも拳固の一発が親子間の絆を深めるといったことがないとは言えません。悪である暴力も必要か,不必要かという原理で考えたら,ときには必要なこともあるんですね。じゃあ,必要性は認めよう。必要ならいいことのはず。体罰は善だ——ということになるのが日本人なんです。必要だけれども,悪だという発想ができないんですね。
 その結果,体罰が野放しになってしまう。

ひろさちや (2010). 「ずぼら」人生論 三笠書房 pp.27-28

気づくことが重要

 人が情報を誰かに伝えようとする時,自分が有利になるよう,作為的に情報の内容を変えようとするのは当然である。「客観報道」などということを標榜する報道機関ほど,主観と独断に満ちている。まったく操作をおこなわず,加工なしの情報を伝達できるのは,感情のない神のような存在しかない。
 では,本当に恐ろしいのはなにか。それは,スピンの存在すら知らず,それが中立公平な情報だと信じ込まされることである。恐ろしいことに,日本には,
 「世の中に溢れている情報は誰かが意図的に流したものだ」
 ということに気づかない,疑うことを知らない人が大勢いるのではないだろうか。

窪田順生 (2009). スピンドクター:“モミ消しのプロ”が駆使する「情報操作」の技術 講談社 pp.203

ネットの影響力

 たとえば,誰かがある企業の悪口を書き込む。根も葉もない噂話や,誹謗中傷である。しかし,それに呼応するようにして,また別の誰かが別の悪口を書き込む。その誰かのなかには,取引先やライバル社の人間がいるかもしれない。そのうち,内部の人間にしかわからないような書き込みもあらわれる。つまり,社員からの“内部告発”である。これだけでも,企業にとっては悪夢のようだが,それだけでは済まない。個人ブログや情報サイトに引用され,書き込みの情報はまたたく間に広まっていく。もはや新聞や週刊誌の部数など目ではない。テレビの視聴者だって軽く超える。そして,その悪口はサイバー世界の場合,読めば捨てられる紙媒体やテレビと違って,残るのだ。
 いまや多くの人々が情報をネットで検索する。なにかの商品を購入しようと思ったら,ネットで調べる。そして,一部上場企業にとってさらに頭が痛いのが,個人投資家である。彼らの多くがネットで取引をする。投資しようと思ったら,まずネットで企業の情報を得るのは当然だろう。そこで,検索をしたら様々なネガティブな書き込みがあるとする。投資意欲に暗い影を落とすのは間違いない。

窪田順生 (2009). スピンドクター:“モミ消しのプロ”が駆使する「情報操作」の技術 講談社 pp.191

どうスピンを掛ける?

 よく「客観報道」という言葉があるように,マスコミとは感情を排除して,すべてを公平に見る存在だと思われるかもしれないが,そんなことはない。記者も人間である。「怪しいな」と思う相手には,自然と厳しい論調になるし,「いい人だな」と思えば好意的に扱う。神様ではないのだから,どうしても「感情」に左右されるのだ。
 このケースで言えば,記者というのは基本的に「猟犬」なのだ。逃げるものは追う。牙をむいてくるものには吼える。だからこそ,すべてを曝け出して「全面降伏」されると,もはや追うものがなくなってしまう。
 ひとりの客が騒ぐ。それを握りつぶした大企業という構図をマスコミは求める。これを防ぐにはどうスピンを仕掛けるか。
 簡単である。
 この構図を打ち消す逆の構図をつくればいい。
 客の訴えに対して,ただただ平身低頭するしかない無力な企業。マスコミはとたんに興味を失う。もし,それを計算したうえで,このような対応をしたとしたら,広報担当者はなかなかの「スピンドクター」だといえる。

窪田順生 (2009). スピンドクター:“モミ消しのプロ”が駆使する「情報操作」の技術 講談社 pp.182

名誉毀損と戦うとき

 さて,このようなマスコミ訴訟はほとんどの場合,「名誉毀損」という問題をめぐって争われることになる。そこで,マスコミ側はどのように戦わなければいけないのか。まず大前提としてクリアしなければならない3つのハードルがある。
 ひとつ目は,その記事や放送内容に「公共性」があるか。このケースでは,有名人のスキャンダルが,果たして公共性があるのかという問題だ。アイドルの男女関係がどうしたとかというプライバシー的な話題は,この「公共性」という点において非常に苦しい。
 ふたつ目に,「公益目的」があるか。読者や視聴者がそれを知ることによって,どのような利益があるのか。おわかりかと思うが,「楽しい」とか「面白い」という次元の話ではない。「国民の知る権利」を十分に満たすような目的なのかということだ。
 そして最後に,「真実性」があるか。その有名人のスキャンダルがデタラメではなく,真実であればいいわけだ。これらの3つの要件を満たせば,法律上,報道した側は罰せられることはない。
 正直なところ,「公共性」や「公益目的」というのは,ものは言いような部分もあるのでどうにか主張を通せることもあるのだが,多くのマスコミが苦しむのが「真実性」の証明である。たとえば,このケースでは友人や部下らに聞いたのだから,それを伝えて「真実だ」と証明したいところだが,その情報源の実名は口が裂けても明かせない。彼らはリスクをとって,こちらに情報を提供してくれた。「情報源の秘匿」は,マスコミにとって絶対に守らねばならないモラルであり,鉄則だからだ。 

窪田順生 (2009). スピンドクター:“モミ消しのプロ”が駆使する「情報操作」の技術 講談社 pp.155-156

日本はスピンしやすい

 では,わが国ではどうか。残念ながら,官邸から流される情報に対してあまりにも盲従的で,ほとんどのマスコミが,自らが「駒」として利用されるということに対する危機意識が欠けている。権力を操る者たちにとって,これほど扱いやすい存在はいない。
 たしかに,官邸や中央政治を担当している記者は,各社のなかでも特に優秀で勤勉なエリート揃い。そうやすやすとスピンの「駒」になるような人間はいない。しかし,その一方で,前章で説明したように,彼らは「情報談合」や「自主規制」というルールに縛られている。だから,日本の権力者たちは欧米の権力者たちよりもはるかにスピンがしやすいのだ。

窪田順生 (2009). スピンドクター:“モミ消しのプロ”が駆使する「情報操作」の技術 講談社 pp.84

報道しない自由もある

 社会の一般常識として,マスコミとは「国民の知る権利」に奉仕する「公」のもので,権力者や企業からコントロールされない中立な言論機関である,と学校で習う。だが,それは教科書的な理想論であって,現実には国民の知る権利を阻害する場合もあるし,権力者や企業にコントロールされている場合も多々ある。
 いや,なにもここでマスコミ批判をしようというわけではない。政治家に「国民の代表」という理想の姿があって,それとはかけ離れた現実の姿があるように,マスコミにも現実の姿があるというだけの話なのだ。
 たとえば,マスコミがよく声高に叫ぶ「報道の自由」というものがある。法律で保障されているのだから,どんな強大な権力に対しても「ペンでの攻撃を緩めないぞ」と鼻息荒く訴えているが,「自由」ということは裏を返せば,「報道しない自由」もある。それもまた,保障されているのだ。
 先ほど「氷山の一角」と形容したように,マスコミは取材したことをすべてみなさんにお伝えしているわけではない。たとえば新聞記者などは,紙面に出している情報など彼らの知っていることからすると1割にも満たない。取材したものを「報道の自由」だとすべて世の中にぶちまけていたら社会は混乱してしまうだろう。彼らはその目で見た事実を,その耳でたしかに聞いた発言を,あえて心の奥にしまい込んでいる。そんなマスコミの真ちゅうを察して,背中をそっと優しく押してやるのが,「情報」でメシを食う人々だ。

窪田順生 (2009). スピンドクター:“モミ消しのプロ”が駆使する「情報操作」の技術 講談社 pp.35-36

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