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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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スピン

 このような「情報操作」を欧米では「Spin」(スピン)という。そして,このスピンの技術に長けている人間のことを「スピンドクター」と呼ぶ。日本語に訳すと,「情報操作の達人」というところか。アメリカやイギリスでは,隠語などではなく,ごく当たり前に「スピン」という言葉は社会の中に浸透している。たとえば,アメリカ大統領府の記者会見会場は「スピン・ルーム」という。アメリカ社会においては,記者会見とは大統領がメディアを通じて国民に対して情報操作をおこなう場だという認識が浸透しているからだ。
 では,この日本ではどうだろう。峰久氏の言葉を借りるまでもなく,メディアによる報道がスピンで溢れているのは紛れもない事実だし,薄々そんなところだろうと勘づいている人々も大勢いることだろう。だが,首相官邸の記者が「情報操作記者」と揶揄されているという話は寡聞にして聞かない。明らかにスピンは存在しているのに,公には語られることはないという,なんとも理不尽な環境にメディアは置かれているのだ。

窪田順生 (2009). スピンドクター:“モミ消しのプロ”が駆使する「情報操作」の技術 講談社 pp.8
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距離をおく権利

 自由な社会では,攻撃することは許されないが,嫌悪を感じる者とのあいだに距離をとる権利(あるいは生々しいつきあいを拒絶する権利)が保障される。自分にとって醜悪な者が大手を振って生きているのを見ることに耐えなければならないだけで,自分がそのスタイルに巻き込まれる必要はない。この安全保障が,人間社会にたえず自然発生し続ける憎悪と迫害の力を弱め,人が誇りを持ってそれぞれの生を美しく生きるためになくてはならないものであると同時に,多種多様な相容れない生のスタイルを生きる人々が,「仲良く」しなくても共存できるようにする社会の秩序原理でもある。「存在を許す」自由の秩序は,「仲良く」しなくても安心して暮らせるしくみなのだ。

内藤朝雄 (2009). いじめの構造:なぜ人が怪物になるのか 講談社 pp.213-214

自由な社会が都合が悪い人々

 その意味で自由な社会は,次のようなタイプの人には都合が悪い社会だ。たとえば,自分を中心とした勢力の場に他人を巻き込んだりコントロールしたりして,強大なパワーを感じたい人がいるとしよう。こういう権勢欲の人たちは,自分が苦労して牛耳った集団のノリのなかで浮き上がったまま堂々としている個人をみると攻撃せずにはいられない。
 あるいは,人間はかくあるべきだという共通善に関する思い込みを持っていて,その信念に反する人々が存在するのを眼にすること自体が耐えがたいという人がいる。こういう人は,若い人が茶髪で学校や街を歩いていたり,電車のなかでキスしていたり,働かずに好きなことをしていたりするのを見かけるだけで,被害感と憎悪でいっぱいになる。こういう人たちには不快な思いをしてもらうことになる。

内藤朝雄 (2009). いじめの構造:なぜ人が怪物になるのか 講談社 pp.211-212

何を重視しているのか

 学校は本来,学習サポート・サービスを若い市民に提供する組織であり,勉強を教える場であるはずだ。しかし,分数やアルファベットも理解せずに中学を卒業する者がいても,多くの教員は(困ったことではあるにしても)学校(コスモス)が崩壊したとは感じない。しかし,学習サポート。サービスを受けるクライアント(生徒)が,当然の市民的自由として髪を染めたり,ピアスをしたり,制服を着なかったりすると、教員たちは、学校が汚され、壊されたような被害感と憎しみでいっぱいになり,それがとてつもない大罪であるかのように騒ぎ立てる。
 学校は,制服を着せ,靴下の色や髪の長さまで強制し,運動場で「気をつけ」「前へならえ」をさせたりすることで,生徒を「生徒らしく」しようとする。その生徒の「生徒らしい」隷属のかたちによって,単なる学習サポート・サービスを提供するための組織の敷地に,聖なる「学校らしい」学校が顕現する。なぜ生徒が茶髪にしてはいけないのかというと,それは聖なる「学校らしさ」が壊れるからである。
 このように考えると,「生活指導に熱心」な教員たちが示す,あたかも生徒の命よりもスカートの長さや靴下の色(「生徒らしさ」)のほうが大切であるかのような,あの大げさなムードが理解可能になる。学習サポート・サービスを提供する従業員(教員)が,「生徒らしく」ないと感じたサービスの受け手(生徒)に,被害感(恥辱感)を感じて「キレ」て,暴力をふるったり,怪我をさせたりする犯罪が後を絶たないことにも説明がつく。

内藤朝雄 (2009). いじめの構造:なぜ人が怪物になるのか 講談社 pp.206-207

囲い込みの廃止を

 学級や学校への囲い込みを廃止し,出会いに関する広い選択肢と十分なアクセス可能性を有する生活圏で,若い人たちが自由に交友関係を試行錯誤できるのであれば,「しかと」で他人を苦しませるということ自体が存在できなくなる。
 たとえば,大学の教室では,だれかが「しかと」をしようとしても,それが行為として成立しない。何やら自分を苦しめたらしい疎遠なふるまいをする者には魅力を感じないので,他の友ともっと美しいつきあいをする,という単純明快な選択を行うだけですべてが解決する。「しかと」をしようとする者は,相手を苦しめるどころか,単純明快に「つきあってもらえなくなる」だけである。
 市民的な自由が確保された生活環境であればあるほど,コミュニケーション操作で人を苦しめようとする者は,コミュニケーションがじわじわ効いて相手が被害者になる前に,単純明快につきあってもらえなくなる。被害者の候補は,邪悪な意志をただよわせた者たちから遠ざかり,より美しいスタイルの友人関係に親密さの重点を移していく。たったそれだけのことで,コミュニケーション操作系のいじめは効果を無化されてしまうのである。

内藤朝雄 (2009). いじめの構造:なぜ人が怪物になるのか 講談社 pp.203

囲い込みの弊害

 学校のクラスに朝から夕方まで囲い込むことは,酷い「友だち」に悩む者に対して,次の二者択一を迫ることを意味する。この苦しさは,友を選択できる自由な人間には理解しがたい苦しさである。
 すなわち,ひとつめの選択肢は,過剰接触的対人世界にきずながまったく存在しない状態で数年間,毎日朝から夕方まで過ごす,というものだ。迫害してくる「友だち」とつきあうのをやめる。そして,数年間,朝から夕方まで,人間がベタベタ密集した狭い空間で,人との関係がまったく遮断された状態で生きる。声,表情,身振り,その他,さまざまなコミュニケーションが過密に共振し接触する狭い空間で,ひとりだけ,朝から夕方まで,石のように感覚遮断をしてうずくまっている状態を,少なくとも1年,長ければ数年間続けるのだ。これは,心理学の感覚遮断実験と同じぐらいの耐え難い状態だ。
 もうひとつの選択肢は,ひどいことをする「友だち」に,魂の深いところからの精神的な売春とでもいうべき屈従をして,「仲良く」してもらえるように自分の「こころ」を変える,というものだ。つまり,過酷な集団生活を生き延びるために,自己が自己として生きることをあきらめ,魂を「友だち」に売り渡す。そして,残酷で薄情な「友だち」のきずなにしがみつく。
 大部分の生徒は,後者を選ぶしかない。
 学校に限らず,人間にとって閉鎖的な生活空間が残酷なのは,このような二者択一を強いるからだ。
 また,しかとや悪口(ぐらいのこと!)で自殺する生徒がいるのは,このような生活空間で生きているからだ。市民的な空間で自由に友を選択して生きている人にとっては痛くもかゆくもないしかとや悪口が,狭い空間で心理的な距離をとる自由を奪われ,集団生活のなかで自分を見失った人には,地獄に突き落とされるような苦しみになる。

内藤朝雄 (2009). いじめの構造:なぜ人が怪物になるのか 講談社 pp.178-179

仲良くできなくてごめんなさい

 自分がいじめグループの標的になるや,今まで仲の良かった「友だち」が見て見ぬふりをしたとか,手のひらを返したようになったとか,攻撃の先鋒に転じたといったことは,よくあることだ。学校共同体では見て見ぬふりが普通で,助けるほうが珍しい。また多かれ少なかれ他人がそういう目にあっているのを目撃することになる。「かかわりあい」が強制され,いじめグループと縁を切ることができない学校では,被害者を助けようとすると後でどんな「かかわりあい」が待っているかわからない。
 こういう残酷で薄情な共生の現場で,いじめ被害者はよく,「仲良くできなくてごめんなさい」と泣く。そして,裏切り迫害する「友だち」に「仲良くしてもらおう」と必死になる。学校の弱者は「みんなとうまくやっていけるように自分の性格を変えなければ」と思う。

内藤朝雄 (2009). いじめの構造:なぜ人が怪物になるのか 講談社 pp.176

「こころ」の秩序空間

 「こころ」の秩序空間においては,他人に咎を突きつけたり,言いわけをしたりする政治闘争は,行為が法や正義にかなっているかどうかではなく,もっぱら「こころ」を問題にすることによってなされる。たとえば,「あいつはムカツク」とか「ジコチュウ(自己中心的)」といった告発は,行為ではなく「こころ」を主題とした告発である。
 「こころ」を秩序化の原理とした生活空間では,いつも他人から「こころ」をあげつらわれ,たがいの「こころ」を過度に気にし,不安定な気分で同調しなければならない。普遍的なルールや正義ではなく,「こころ」や「気持ち」に準拠してクレームをつける場合,攻撃する側は,あらゆる方向から「こころ」を見られ,自分の「こころ」に反応する他人がどういう悪意を持つかわからず,それにより自分の運命がどう転ぶかわからない不安を全方位的に生きる。そして弱者は「友だち」に対してひたすらビクビクと「反省」の身振りをするのだが,それが強者にはめっぽうおもしろいのである。

内藤朝雄 (2009). いじめの構造:なぜ人が怪物になるのか 講談社 pp.175

他者コントロールによる全能

 それに対して他者は,自己とは別の意思を有しており,独自の世界を生きている他者である。だからこそ,いじめ加害者は,他者の運命あるいは人間存在そのものを,自己の手のうちで思い通りにコントロールすることによって,全能のパワーを求める。思いどおりにならないはずの他者を,だからこそ,思いどおりにするのである。これを,他者コントロールによる全能と呼ぼう。
 他者コントロールによる全能には,さまざまなタイプがある。いじめによるものは,そのうちのひとつだ。他者コントロールによる全能にふける人は,いじめと境界が曖昧な,近接したジャンルの他者コントロールに血道をあげていることもある。
 たとえば,世話をする。教育をする。しつける。ケアをする。修復する。和解させる。蘇生させる。
 こうしたケア・教育系の「する」「させる」情熱でもって,思いどおりにならないはずの他者を思いどおりに「する」ことが,好きでたまらない人たちがいる。
 このタイプの情熱は,容易に,いじめに転化する。というよりも,しばしばいじめと区別がつかないようなしかたで存在している。いろいろ細かく世話をしたがる情熱を周囲にぷんぷん発散している人は,他人を思いどおりに世話するお好みの筋書きを外されると,悪口を言ったり,嫌がらせをしたりする側にまわるものである。
 他人を自分が思い描いたイメージどおりに無理矢理変化させようと情熱を傾け,それを当人に拒否されたり,周囲から妨げられたりすると、「おまえが思いどおりにならないせいで,わたしの世界が壊れてしまったではないか」という憎しみでいっぱいになる。「わたしの世界を台無しにしたお前が悪い。そういうお前を,台なしにしてやる」というわけである。この思いどおりにならない者への復習もまた、しばしば教育や世話の名のもとに行われる。

内藤朝雄 (2009). いじめの構造:なぜ人が怪物になるのか 講談社 pp.76-77

むかつく!

 少年たちは,何に対しても「むかつく」と言う。しかしじつのところ,当の本人たちも,自分が何に「むかついて」いるのかわかっていない。
 この「むかつき」は,「おなかがすいた」「歯が痛い」「あいつに嫌なことをされたけど,仕返しをすることができないからくやしい」といったものではない。また,何をしたら解消するといったものでもない。親とけんかしても/しなくても,男子と女子が仲良くしていても/していなくても,理科室のにおいがしても/しなくても,彼らは「むかつき」続けるだろう。
 この「むかつき」は,何かに対する,輪郭のはっきりした怒りや不満ではない。そうではなくて,「存在していること自体がおちつかない」,「世界ができそこなってしまっている」ような,漠然とした,いらだち,むかつき,おちつかなさ,である。こういう,いわば存在論的な不全感に直面したときの,かけ声が,「むかつく!」なのである。

内藤朝雄 (2009). いじめの構造:なぜ人が怪物になるのか 講談社 pp.67-68

ノリの秩序

 彼らの小社会では,ノリながらやるのであれば,何でも許されるが,「みんなから浮いて」しまったら,何をやっても許されない。中学生たちはその場その場のみんなのノリをおそれ,かしこみ,うやまい,大騒ぎをしながら生きている。
 いじめで人が死んだり自殺したときですら,生徒たちは「かっこいい」と拍手喝采したり,堂々と「遊んだだけよ」と言うことがある。「どうしていじめたのか」と尋ねられて,加害生徒が,「おもしろかったから」とか「遊んでいた」といったふうに答えることもある。このようなとき,彼らは「自分たちなり」の遊びとノリの秩序にしたがって,文字通り「おもしろい」からいじめている。
 ここで「遊んだだけ」というときの遊びは,「自分たちなり」のノリの秩序に従いながら,ノリを次々と生み出す。このような秩序状態のもとでは,「みんな」の遊びに逆らうことは強烈なタブーである。また,遊びであればすべてが許される。

内藤朝雄 (2009). いじめの構造:なぜ人が怪物になるのか 講談社 pp.41

独自の「良し悪し」

 このような小社会では独特の「よい」と「悪い」が成立している。彼らは,自分たちなりの独自の「よい」「悪い」に,大きな自信と自負を持っている。それは,きわめて首尾一貫したものだ。
 この倫理秩序に従えば,「よい」とは,「みんな」のノリにかなっている,と感じられることだ。
 いじめは,そのときそのときの「みんな」の気持ちが動いて生じた「よい」ことだ。いじめは,われわれが「いま・ここ」でつながっているかぎり,おおいにやるべき「よい」行為である。いじめで人を死に追い込む者は,「自分たちなり」の秩序に従ったまでのことだ。
 大勢への同調は「よい」。ノリがいいことは「よい」。周囲のノリにうまく調子を合わせるのは「よい」。ノリの中心にいる強者(身分が上の者)は「よい」。強者に対してすなおなのは「よい」。
 「悪い」とは,規範の準拠点としてのみんなのノリの側から「浮いている」とかムカツクといったふうに位置づけられることだ。自分達のノリを外した,あるいは踏みにじったと感じられ,「みんな」の反感と憎しみの対象になるといったことが,「悪い」ことである。
 「みんなから浮いて」いる者は「悪い」。「みんな」と同じ感情連鎖にまじわって表情や身振りを生きない者は「悪い」。「みんなから浮いて」いるにもかかわらず自信を持っている者は,とても「悪い」。弱者(身分が下の者)が身の程知らずにも人並みの自尊感情を持つのは,ものすごく「悪い」。
 それに比べれば,「結果として人が死んじゃうぐらいのこと」はそんなに「悪い」ことではない。他人を「自殺に追い込む」ことは,ときに拍手喝采に値する「善行」である。

内藤朝雄 (2009). いじめの構造:なぜ人が怪物になるのか 講談社 pp.39-40

「学校的」秩序

 現行の学校制度のもとでは,市民社会の秩序が衰退し,独特の「学校的な」秩序が蔓延している。それは世の識者らが言うように,無秩序なのでも秩序過重なのでもなく,人間関係が希薄なのでも濃密なのでもなく,人間が「幼児化」したわけでも「大人びた」わけでもない。ただ,「学校的」な秩序が蔓延し,そのなかで生徒も教員も「学校的」な現実感覚を生きているのである。人々が北朝鮮で北朝鮮らしく,大日本帝国で大日本帝国らしく生きるように,学校で生徒も教員も「学校らしく」生きているだけのことだ。この人道に反する「学校らしさ」が,問題なのである。
 いじめの事例は,人間を変えてしまう有害環境としての「学校らしい」学校と,そのなかで蔓延する「学校的」な秩序をくっきりと描き出す。

内藤朝雄 (2009). いじめの構造:なぜ人が怪物になるのか 講談社 pp.26

徹底しては

 最近はコーポレイト・アイデンティティ(C.I.)を行う企業も多いが,その会社名を姓名判断で付けるところがあるという。こんなものに,全社員の生活と運命を委ねざるを得ない無能な経営者がいるのだ。ならば社内の各部署も,「人事部」「宣伝部」「営業部」では画数が悪いので,「ニュー人事部」「宣伝省」「営業の衆」に換えよう。所在地も,画数のいい住所に引っ越せ。そして社長本人も名前の画数が悪いので更迭だ。是非,徹底していただきたい。
 デジタル化が進んで,液晶画面に並ぶ,ただの小さな光の集積が文字に見えているだけの時代になっても,画数が問題にされつづける。これからは,画数よりも画素数で占うようになるのかもしれない。これは文化である。もちろん,阿呆文化だけれども。

松尾貴史 (2009). なぜ宇宙人は地球に来ない?—笑う超常現象入門— PHP研究所 pp.192

晴れ男・雨男

 自分を「晴れ男」「晴れ女」であると思っているグループと「雨男」「雨女」であると思っているグループでは,性格が分かれるような気がする。前者は「晴れていて楽しかった思い出」が強く記憶に残り,後者は「雨が降って残念な思い」を記憶し続けるタイプなのではないか。つまりは,性格がポジティブかネガティブか,ということに起因する問題かもしれない。

松尾貴史 (2009). なぜ宇宙人は地球に来ない?—笑う超常現象入門— PHP研究所 pp.99

種明かし

 超能力とうそぶいてデモンストレーションをやってみせる彼らの所業は,ことごとく暴かれるべきであり,アメリカのジェイムズ・ランディ氏や日本のナポレオンズの「超能力者」との対決姿勢は,職業的デメリットも多いだろうに,その勇気と義憤に頭の下がる思いであって常習的に同業者の営業妨害を続けているマスクド・マジシャン(元々の芸名はヴァレンティノ。覆面で顔を隠さなければできない行為の為で,プロレスラーのマスクとは事情が違うようだ)の日本での荒稼ぎ等,暴かれるべき「超能力者」のイカサマは暴かず,立場が弱くテレビ局に抵抗の意思表示すらできない手品師達の食べていく手段を興味本位で奪ってしまう風潮は,政治家の犯罪は追わずに芸人の私生活の暴露に明け暮れるスキャンダル誌の精神とも似て,哀しすぎるではないか。それらの暴露マジシャン達が,自分達の得意ネタの種明かしを一切しないことが,すべてを表している。

松尾貴史 (2009). なぜ宇宙人は地球に来ない?—笑う超常現象入門— PHP研究所 pp.70-71

能力とは

 「だからといって,すべての念写がイカサマだという証拠はないではないか」という常套句がビリーバーから聞こえてきそうだが,可能性を否定するために否定しているわけではない。何度も何度もイカサマが暴かれたものを信じろというほうが無理ではないか。ならばなぜ,拉致被害者等,行方不明になっている人の様子や場所を,その家族のために「念写」してやらないのか。政治家や官僚の不正,癒着,背任行為の現場を,世田谷一家惨殺等の迷宮入り事件の犯人を,徳川や武田の埋蔵金の場所を「念写」しないのか。「超能力者」を名乗るのなら,社会の役に立つことをしなさい。ゲームのように隠した文字や,歪んだビルの写真や,首がブレて透けている漫画家の写真等,何の役にも立たないではないか。役に立ってこそ,「能力」ではないのか。

松尾貴史 (2009). なぜ宇宙人は地球に来ない?—笑う超常現象入門— PHP研究所 pp.63-64

見たいものだけ

 自分が見たいものだけ見る。
 自分が信じたいものだけ信じる。
 統計的な事実はそこで,まったくの無力だった。政府も,企業も,民衆も,そんなグラフは見たくないから。

伊藤計劃 (2010). 虐殺器官 早川書房 pp.230-231

信じることの効用

 自信(獲得したものにしろ想像の産物にしろ)と実績とのつながりについては,多くの科学的な裏づけがある。長年にわたる数多くの研究から,成功すると信じればいろいろな形で実際の成功を導くことがあきらかにされてきた。このため,テストを受けるときに自分の学力に自信を持ったり,仕事の採用面接で自分の有能さに自信を持ったりすることは,実際に利益をもたらしうる。現実がどうであれ,自分が人並み以上であると信じることは,人並み以上の結果を獲得するうえで役立ちうのだ。

ロバート・フェルドマン 古草秀子(訳) (2010). なぜ人は10分間に3回嘘をつくのか:嘘とだましの心理学 講談社 pp.147-148

生物は貞淑か?

 じつのところ,貞淑さという価値観を裏づける例を自然界に求めようとすれば,きっと失望するにちがいない。地球に棲むほぼすべての動物は,たとえ仔を育てるためにつがいになるものでさえも,複数のセックスパートナーを求める。DNAを調べたところ,ペアをつくっている動物の仔の10パーセントから70パーセントが,つがいの相手以外との出会いから生まれていることがわかった。<ニューヨークタイムズ>の記事に引用されたワシントン大学の心理学者デヴィッド・P・バラシュの話によれば,自然界で唯一の「貞淑な」生き物は淡水魚に寄生する扁形動物だという。「雄と雌は人間でいえば青年期に出会います。そして,たがいの体を文字どおり融合させ,そのままで死ぬまで過ごします。彼らは私が知るかぎり唯一,完全なる単婚を実践していると思われます」とバラシュは語った。

ロバート・フェルドマン 古草秀子(訳) (2010). なぜ人は10分間に3回嘘をつくのか:嘘とだましの心理学 講談社 pp.126-127

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