読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。
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ここで目的のある練習の特徴を簡潔にまとめてみよう。まず自分のコンフォート・ゾーンから出ること。それに集中力,明確な目標,それを達成するための計画,上達の具合をモニタリングする方法も必要だ。それからやる気を維持する方法も考えておこう。
何かにおいて上達したい場合,これを実践すればすばらしいスタートを切れるのは間違いない。とはいえ,それはあくあでもスタートに過ぎない。
アンダース・エリクソン ロバート・プール 土方奈美(訳) (2016). 超一流になるのは才能か努力か? 文藝春秋 pp.54
自らのコンフォート・ゾーンから飛び出すというのは,それまでできなかったことに挑戦するという意味だ。新しい挑戦で比較的簡単に結果が出ることもあり,その場合は努力を続けるだろう。しかしまったく歯が立たない。いつかできるようになるとも思えないこともあるだろう。そうした壁を乗り越える方法を見つけることが,実は目的のある練習の重要なポイントの一つなのだ。
アンダース・エリクソン ロバート・プール 土方奈美(訳) (2016). 超一流になるのは才能か努力か? 文藝春秋
だが,それは誤りだ。一般的に,何かが「許容できる」パフォーマンスレベルに達し,自然にできるようになってしまうと,そこからさらに何年「練習」を続けても向上につながらないことが研究によって示されている。むしろ20年の経験がある医者,教師,ドライバーは,5年しか経験がない人よりやや技能が劣っている可能性が高い。というのも,自然にできるようになってしまった能力は,改善に向けた意識的な努力をしないと徐々に劣化していくためだ。
アンダース・エリクソン ロバート・プール 土方奈美(訳) (2016). 超一流になるのは才能か努力か? 文藝春秋 pp.42
心理学者が経済学に積極的にかかわろうとしなかった理由はいくつか考えられる。第1に,合理的選択モデルを重要視している人がほとんどいないので,モデルからの逸脱を研究することがそもそもおもしろいと考えられていない。「そんなのサンクコスト効果に決まってるだろ!他に何があるっていうんだ?」となってしまうのだ。第2に,経済学者が取り入れるようになっている心理学は,心理学者にとっては最先端のものとされていない。心理学者が需要供給曲線を自分たちの研究に取り入れ始めても,経済学者がそのアイデアに興奮することはないのと同じだ。そして,心理学の世界では,どういうわけか,「実用的」な問題の研究は伝統的に評価が低い。人が借金をしたり,学校をやめたりする理由を研究していたら,名誉の栄光も手に入れられなくなってしまう。著名な心理学者で,人は何に動かされるかを研究しているロバート・チャルディーニは,例外中の例外なのだ。
リチャード・セイラー 遠藤真美(訳) (2016). 行動経済学の逆襲 早川書房 pp.257
保有効果の実験が示すように,人は自分が持っているものに固執する傾向があり,少なくともその一部は損失回避によって説明がつく。マグカップを渡されたとたん,私はそれを自分のものだと考えるようになるので,マグカップを手放すことは損失になる。それに,保有効果には即効性がある。私たちが行なった実験では,被験者がマグカップを“保有”していたのは,取引が始まるまでの数分間のことだった。ダニエルはこれを「インスタント保有効果」と好んで表現していた。そして,損失回避性が私たちの発見を説明する要因の1つであることはまちがいないが,それと関連する現象がある。惰性だ。物理学では,静止している物体は,外部から力を加えられない限り,静止状態を続ける。人もこれと同じように行動する。別のものに切り替える十分な理由がない限り,というよりおそらくは切り替える十分な理由があるにもかかわらず,人はすでに持っているものに固執するのである。経済学者のウィリアム・サミュエルソンとリチャード・ゼックハウザーは,こうしたふるまえに「現状維持バイアス(status quo bias)」という名前をつけている。
リチャード・セイラー 遠藤真美(訳) (2016). 行動経済学の逆襲 早川書房 pp.223
負けが込むと,損を挽回しようとギャンブルに走る傾向は,プロの投資家の行動にも見られる。ミューチュアルファンドの運用担当者は,ファンドの運用成績がS&P500種などの基準指標を下回っていると,当該年度の最後の四半期により大きなリスクをとりにいく。それどころか,会社に10億ドル単位の大損を負わせたごろつきトレーダーの多くは,どうにかして損失を埋め合わせようとして,リスクをどんどん膨らませていった。この行動は,ごろつきトレーダーの視点からは合理的だったのかもしれない。損を取り戻せなければ,職を失うのは当然だが,それだけではすまなくなってしまうこともありえるからだ。しかしもしそうだとしたら,経営陣は,損を出している社員の行動を注意深く見守らなければいけなくなる(そもそもの問題として,経営陣は,ごろつきトレーダーたちが損失を膨らませる前に,もっと目を光らせておくべきだったのだが)。ふだんはきわめてリスク回避的な人であっても,大きな損失を出しそうになっていて,それを取り戻すチャンスがあるときには,とんでもなく大きなリスクを取りにいこうとする。この人間心理はぜひとも覚えておいたほうがいい。みなさんもご用心あれ!
リチャード・セイラー 遠藤真美(訳) (2016). 行動経済学の逆襲 早川書房 pp.130
ポーカーの観察から,メンタル・アカウントの欠陥がもう1つ浮き彫りになった。勝っているプレーヤーは,獲得した賞金を「本物のお金」と扱っているようには見えなかった。この態度は非常によく見られるもので,カジノのギャンブラーの間には「ハウスマネーを使ったギャンブル」という言葉があるほどだ。「ハウス」とはカジノの意味で,カジノで勝って手に入れたお金を自分のお金とは信じられず,カジノのお金でギャンブルをしているように感じてしまうのである。この態度はどのカジノでも観察することができる。夜の早い時間に200ドル勝つと仮定しよう。この人は300ドルを1つのポケットに入れて,そのお金は自分のお金だと考える。そして,200ドル相当のチップは別のポケットに入れる(それどころか,チップをポケットに入れずにそのままテーブルの上に置いて,すぐにでも賭けるかもしれない)。まさに「悪銭身につかず」というやつだ。お金は代替可能であるという経済学の原則をこれほどまでにあからさまに破る例はそうそうない。どちらのポケットに入っているお金も,等しく使われるはずのものなのだから。
リチャード・セイラー 遠藤真美(訳) (2016). 行動経済学の逆襲 早川書房 pp.126
いまでも,経済学の世界で「調査から得た証拠」という言葉が登場するときには,必ずと言ってよいほど「単なる(mere)」という枕詞がつく。「mere」は「sneer(嘲笑)」と韻を踏んでいるのだ。こんなあしざまな言いようは,まったく非科学的だ。投票行動調査データは,有権者に投票に行くかどうか,誰に投票するか質問し,その結果を集計したものにすぎない。それをネイト・シルバーのようなデータ分析の達人が最新の注意を払って使うと,びっくりするくらい正確な選挙予測がはじき出される。何よりおもしろいのは,経済学者はアンケート調査に否定的なのに,重要なマクロ経済変数は,個人に対するアンケート調査から算出されているものが多いのだ。
リチャード・セイラー 遠藤真美(訳) (2016). 行動経済学の逆襲 早川書房 pp.79-80
経済学者は,仮定に基づく質問の答えを重視していないし,アンケート調査そのものをあまり信用していない。調査の対象者が自分ならこうするだろうと言うことより,人々が実際にしていることのほうが大事だと,経済学者は言う。カーネマンとトヴェルスキーはそうした反論があることをわかっていた。2人がこれまでに出会った懐疑的な経済学者たちに指摘されたのだろうが,選択の余地はなかった。プロスペクト理論の鍵となる予測は,人は利得よりも損失に敏感に反応する,というものである。しかし,被験者が実際に大損をするかもしれない実験をする許可をとるのは,まず不可能だ。実験に参加したいという人がいたとしても,人間を対象とする実験を審査する大学委員会がそれを認めないだろう。
リチャード・セイラー 遠藤真美(訳) (2016). 行動経済学の逆襲 早川書房 pp.67
2人は何カ月もかけて論文を磨き上げた。ほとんどの学者にとって,研究でいちばん楽しいのは,着想を得る瞬間だ。実際に研究を進めるのも,それと同じくらいおもしろい。だが,論文を書くことを楽しんでいる人はまずいない。学者の書いた論文はたしかに堅苦しい。しかし,多くの学者にとって,それはほめ言葉だ。文才をひけらかそうとするような書き方をすると,真剣に書いたと思ってもらえないし,そんなものを読み手がまともに取り合うはずもない。「プロスペクト理論」はけっして読みやすくはないが,論文の内容はきわめて明瞭でわかりやすい。それは2人が何度も繰り返し原稿を書き直したからであり,エイモスが「正しい方法でやろう」と言い続けたからである。
リチャード・セイラー 遠藤真美(訳) (2016). 行動経済学の逆襲 早川書房 pp.66
経済モデルは人間の行動に関する誤った認識に基づいてつくられているが,皮肉にも,そうしたモデルがあるおかげで,経済学は最強の社会科学とされている。経済学が最強と言われる理由は2つある。1つ目の理由に議論の余地はない。公共政策への提言においては,経済学者はどの社会科学者よりも強い影響力を持っているからだ。なるほど政策提言は経済学者の独壇場だと言っていい。ごく最近まで,他の社会科学者が政策について議論する場に呼ばれることはめったになく,たとえ呼ばれたところで,親族が集まる場で子どもの席に座らされるような扱いを受けた。
もう1つの理由は,経済学は知性の面でも最強の社会科学だと考えられているからである。経済学には核となる統一理論があり,それ以外のほとんどすべてのことがその理論から導かれる。それが最強とされるゆえんだ。あなたが「経済理論」という言葉を使うと,それが何を意味するのか,周りの人にはわかる。そのような土台を持っている社会科学は他にない。他の社会科学の場合はむしろ,理論の目的が特定の分野に限られる傾向がある。特定の環境下で何が起こるかを説明するためのものだ。実際,経済学者はよく,経済学を物理学になぞらえる。物理学と同じように,経済学ではいくつかの核となる前提が設定され,その前提の下で理論が展開されている。
リチャード・セイラー 遠藤真美(訳) (2016). 行動経済学の逆襲 早川書房 pp.22-23
良い質問とは,正しい答えを求めるものではない。
良い質問とは,すぐに答えが見つからない。
良い質問とは,現在の答えに挑むものだ。
良い質問とは,ひとたび聞くとすぐに答えが知りたくなるが,その質問を聞くまでそれについて考えてもみなかったようなものだ。
良い質問とは,思考の新しい領域を創り出すものだ。
良い質問とは,その答えの枠組み自体を変えてしまうものだ。
良い質問とは,科学やテクノロジーやアートや政治やビジネスにおけるイノベーションの種になるものだ。
良い質問とは,探針であり,「もし~だったら」というシナリオを調べるものだ。
良い質問とは,ばかげたものでも答えが明白なものでもなく,知られていることと知られていないことの狭間にあるものだ。
良い質問とは,予想もしない質問だ。
良い質問とは,教養のある人の証だ。
良い質問とは,さらに他の良い質問をたくさん生み出すものだ。
良い質問とは,マシンが最後までできないかもしれないものだ。
良い質問とは,人間だからこそできるものだ。
ケヴィン・ケリー 服部 桂(訳) (2016). <インターネット>の次に来るもの:未来を決める12の法則 NHK出版 pp.380-381
ではこうした選択がスライダーで調整できると考えてみよう。その左端は<パーソナル/透明>で右端は<プライベート/一般>になっている。スライダーは左右の間のどこにでも移動できる。そのどこに移動するかがわれわれにとって重要な選択となる。驚いたことに,テクノロジーのおかげで選択が可能になると(選択の余地があることが重要だ),人々はスライダーをパーソナル/透明とある左の方へと動かしていくのだ。彼らは透明でパーソナライズされたシェアをする。20年前には心理学者は誰もそんなことを予想しなかっただろう。現在のソーシャルメディアが教えてくれるのは,シェアしたいという人類の衝動が,プライバシーを守りたいという気持ちを上回っているということだ。これは専門家をも驚かせた。今までのところ,選択ができる分岐点に来るたびに,われわれは平均的にはよりシェアし,よりオープンで透明な方向へと向かう傾向にある。それを一言で表すならこうだ――虚栄がプライバシーを凌駕している。
ケヴィン・ケリー 服部 桂(訳) (2016). <インターネット>の次に来るもの:未来を決める12の法則 NHK出版 pp.347
コンピューターに限ったわけではない。すべてのデバイスでインタラクションが必要だ。もしインタラクションしていないものがあれば,それは壊れていると見なされるだろう。ここ数年にわたって,私はデジタル時代に子どもが成長するとはどういうことかについて,いろいろな話を集めてきた。たとえば,私の友人の一人に5歳にもならない女の子がいた。最近の多くの家庭がそうであるように,テレビはなく,コンピューターのスクリーンしかなかった。あるとき誰かの家に行って,そこにあったテレビに彼女は興味を持った。その大きなスクリーンに近づいて,周囲を探索し,下側や背面まで見て回った。「マウスはどこに付いているの?」と尋ねた。それとインタラクションをする方法があるはずだ,というわけだ。もう一人の知り合いの息子は,2歳からコンピューターを使い始めた。ある日,母親と一緒に食料品店に行ったとき,母親が商品ラベルの表示を解読しようとじっとしているのを見て,息子は「クリックすればいいじゃない」と言った。シリアルの箱だってもちろんインタラクティブでなくてはならないのだ!別の若い友人はテーマパークで働いていた。ある日,その友人の写真を撮った小さな女の子が,その後でこう言った。「でもこれは本当のカメラじゃないのよ。後ろに写真が映らないもん」。またある友人の子どもはよちよち歩きで言葉も喋れない頃から父親のアイパッドを横取りして使いだした。彼女はまだ歩きだす前から,絵を描いたり複雑なアプリを簡単に使いこなしたりするようになった。ある日,父親が高解像度の画像を写真用の紙に印刷して,コーヒーテーブルの上に置いた。するとよちよち歩きのそれに近付いて,指を置くと拡げてその写真を大きくしようとしているのに彼は気づいた。彼女はその動作を何回か繰り返して上手くいかないと,困ったような顔をして,「パパ,こわれてるよ」と言った。そう,インタラクティブでないものは故障しているのだ。
ケヴィン・ケリー 服部 桂(訳) (2016). <インターネット>の次に来るもの:未来を決める12の法則 NHK出版 pp.295-296
音楽で起こったことは,デジタル化できるものならすべてに起こる。われわれが生きているうちに,すべての本,すべてのゲーム,すべての映画,すべての印刷された文書は,同一のスクリーンや同一のクラウドを通して365日いつでも利用できるようになるだろう。そして毎日のようにこのライブラリーは膨張している。われわれが対峙する可能性の数は,人口の増加とともに増大し,続いてテクノロジーが創造性を容易にしたことでさらに拡大してきた。現在の世界の人口は私が生まれたとき(1952年)と比べて3倍になっている。これから10年のうちにまた10億人が増えるだろう。私より蹟に生まれた50億から60億人は,現代の発展によって余剰や余暇を手にして解放されたことで,新しいアイデアや芸術やプロダクトを創造してきた。いまなら簡単な映像を作るのは,10年前と比べて10倍簡単になっている。100年前と比べたら,小さな機械部品で何かを作ることは100倍は簡単だ。1000年前と比べて,本を書いて出版することは,1000倍簡単になっている。
その結果,無限の選択肢が生まれている。どんな分野でも,数え切れないほどの選択肢が山積みになっている。馬車用の鞭を作るといった仕事が廃れる一方で,選択できる職業は拡大の一途をたどっている。休みに旅行に行ける場所,食事に行く場所,食べ物の種類ですら毎年のように積み上がっていく。投資機会も爆発的に増えている。進むべき方向,勉強できる分野,自分を楽しませる方法がものすごい勢いで拡大していく。そうした選択肢を一つひとつ試していたら,一生あっても時間が足りない。過去24時間に発明されたものや作られたものを全部チェックするだけで1年はかかってしまう。
ケヴィン・ケリー 服部 桂(訳) (2016). <インターネット>の次に来るもの:未来を決める12の法則 NHK出版 pp.220-221
私はもう,個々のURLや難しい言葉のスペルさえ覚えることはなく,答えの詰まったクラウドにグーグルで検索をかけることにしている。自分の過去のメール(クラウドに蓄積されている)を検索して自分がなにを言ったかを(たまに)調べたり,自分の記憶をクラウドに頼るとき,私の中の自分はどこまでで,どこからがクラウドになっているのだろう?私の人生のすべての画像,私の興味のすべての断片,私の書いたすべての文章,友人とのおしゃべりのすべて,自分で選んだもののすべて,勧めたもののすべて,考えたことのすべて,望んだことのすべて,それらすべてがもしどこかにあって特定の場所にないとしたら,自分というものの捉え方が変わるだろう。以前より大きくなり,また薄くもなる。より速くなるが,浅くもなる。クラウドのように思考して境界をどんどんなくし,変化や多くの矛盾に対してオープンになる。つまり私自身が多数性なのだ!すべてが混ぜ合わさり,さらにマシンの知性やAIで強化されていく。私は「私以上」になるばかりか,「われわれ以上」になっていく。
ケヴィン・ケリー 服部 桂(訳) (2016). <インターネット>の次に来るもの:未来を決める12の法則 NHK出版 pp.169
デジタルテクノロジーは,製品からサービスへの移行を促すことで非物質化を加速する。サービスはそもそも流動的なので,物質に縛られる必要がないのだ。しかし非物質化はただのデジタル商品を指しているのではない。たとえばソーダ缶のような堅い物理的な製品が,より少ない材料を使うほど便利になるのは,その重いアトムが重さのないビットで置き換えられているからだ。手に触れられるものが,手に触れられないものへ置き換わっていく――より良いデザイン,革新的なプロセス,スマートなチップ,オンライン接続といった手に触れられないものが,以前はアルミが行なっていたこと以上のことを代行していく。知能といったソフトがアルミ缶のような固い物の中に組みこまれ,固い物がソフトのように動くようになる。ビットが吹き込まれた物質的な商品が,まるで手に触れられないサービスのように振る舞いだす。名詞は動詞へと変容する。シリコンバレーではこれを,「ソフトウェアがすべてを食べつくす」という言い方をする。
ケヴィン・ケリー 服部 桂(訳) (2016). <インターネット>の次に来るもの:未来を決める12の法則 NHK出版 pp.148-149
これからの将来,ロボットとの関係はいままでになく複雑化するだろう。だが,そこで繰り返されるはずのあるパターンはすでに現れている。今の仕事や給与と関係なく,あなたは否定に否定を重ねていくという予想可能なサイクルを経て進歩していくのだ。ここに「ロボットに代替されるまでの七つの段階」を挙げておく。
1.ロボットやコンピューターに僕の仕事などできはしない。
↓
2.OK,かなりいろいろとできるようだけど,僕ならなんでもこなせる。
↓
3.OK,僕にできることはなんでもできるようだけど,故障したら僕が必要だし,しょっちゅうそうなる。
↓
4.OK,お決まりの仕事はミスなくやっているが,新しい仕事は教えてやらなきゃいけない。
↓
5.OKわかった。僕の退屈な仕事は全部やってくれ。そもそも最初から,人間がやるべき仕事じゃなかったんだ。
↓
6.すごいな,以前の仕事はロボットがやっているけれど,僕の新しい仕事はもっと面白いし給料もいい!
↓
7.僕の今の仕事はロボットもコンピューターもできないなんて,すごくうれしい。
[以上を繰り返す]
これはマシンとの競争ではない。もし競争したらわれわれは負けてしまう。これはマシンと共同して行なう競争なのだ。あなたの将来の給料は,ロボットといかに協調して働けるかにかかっている。あなたの同僚の9割方は,見えないマシンとなるだろう。それら抜きでは,あなたはほとんど何もできなくなるだろう。そして,あなたが行なうこととマシンが行なうことの境界線がぼやけてくる。あなたはもはや,少なくとも最初のうちは,それを仕事だとは思えないかもしれない。なぜなら退屈で面倒な仕事は管理者がロボットに割り振ってしまうからだ。
ケヴィン・ケリー 服部 桂(訳) (2016). <インターネット>の次に来るもの:未来を決める12の法則 NHK出版 pp.79-81
われわれはウェブがどうなるかを想像できなかったのと同様,今日の姿もきちんと把握してはいない。そこに花開いた奇跡についてすでに忘れている。生まれてから20年経ったウェブの規模は想像を絶する。ウェブのページの総数は,一時的に作られたものも含めて60兆を超える。これは今生きている人ひとりにつき約1万ページ分の量だ。そしてこの肥沃な世界全体は,創造されてからまだ8000日も経っていない。
ケヴィン・ケリー 服部 桂(訳) (2016). <インターネット>の次に来るもの:未来を決める12の法則 NHK出版 pp.30-31
どんなに将来を有望視される新しい発明にも異を唱える人はいるし,期待が大きければ大きいほど反対の声も大きくなる。インターネットやウェブが誕生したばかりの頃に,頭脳明晰な人たちが愚かなことを言った例を探すのは難しくない。1994年の暮れにはタイム誌が,インターネットはなぜ主流になれないかを説明する記事を掲載した。「それは商売をするためにデザインされたものではなく,新参者を素直に受け入れてはくれない」。なんということだ!ニューズウィーク誌は1995年2月号の見出しで,そうした疑念をもっとあからさまに謳っている。「インターネット?なんだそれ!」。この記事では,天文物理学者でネットワーク専門家のクリフ・ストールが,オンラインのショッピングやコミュニティーというのは常識に反する非現実的な妄想だと述べている。「本当のところ,オンラインのデータベースがあなたの新聞になり代わるなんてことはない」と彼は主張した。「しかしMITメディアラボの所長ニコラス・ネグロポンテは,われわれはすぐにでも本やインターネットで購入するようになると予想している。本当に?」。ストールは「インタラクティブな図書館,バーチャル・コミュニティー,電子コマース」といった言葉に満ち溢れたデジタル世界に対する懐疑が広がりつつあることを踏まえ,それらを「タワゴト」の一言で片付けたのだ。
ケヴィン・ケリー 服部 桂(訳) (2016). <インターネット>の次に来るもの:未来を決める12の法則 NHK出版 pp.24-25