忍者ブログ

I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

命令的規範と記述的規範

 心理学者は命令的規範と記述的規範とを区別する。命令的規範は,より公的な社会のルールであり,広く知られ,おおむね遵守されている。妊娠中にタバコを吸わないことや,野生生物保護区でゴミを捨てないこと,上品なレストランで鼻をほじらないこと—これらは命令的規範の例である。記述的規範はもっとあいまいなものだ。私たちはそれを周囲の人々の行動から学びとる。記述的規範の例を見たいのなら,野球場へ行って,国歌が流れているあいだに観客のようすを観察すればいい。だれもが立ちあがる(これは命令的規範だ)が,帽子を脱いで胸に手を当てるかどうかは周囲の座席にいる人々しだいだ。ひとりのファンが帽子を脱げば,周囲の人々もつぎつぎに脱ぐ。片手を胸にあてた人が集まっている場所もあれば,両手を背後でぎゅっと握っている人が集まっている場所もある。記述的規範の働きは微妙だが,近くにいる—物理的にも比喩的にも—人々の行動がもたらすその力は見過ごすべきではない。
 さらに,命令的規範と記述的規範はたがいに反することもありうる。たとえば,妊娠している女性が,喫煙者が多いラマーズ法の教室へ行くような場合だ。命令的規範はひとつの行動をうながし,記述的規範はちがう行動をうながしている。
 裏切りを理解しようとする人がだれもみな驚くのは,不倫に関する記述的規範は命令的規範よりも強力だと,研究から立証されていることだ。不貞を働いた人を知っている人は,自分自身も不貞を働く可能性が高いことがあきらかになっている。野球場で国歌斉唱の場面で人々に帽子を脱がせるのと同じ要素が,人々にパートナーを裏切らせるのだろうか。

ロバート・フェルドマン 古草秀子(訳) (2010). なぜ人は10分間に3回嘘をつくのか:嘘とだましの心理学 講談社 pp.123
PR

嘘がつけるようになった

 さらに,子どもの嘘について評価するときに忘れてならないのは,道徳的な問題はさておき,一定の段階に到達したということである。道徳という概念,すなわち正邪の概念は,「心の理論」を超えたあらゆる思考にからんでおり,多くの子どもはまだ習得していない。子どもは「悪いこと」を理解するための認知的スキルよりも先に,嘘をつくための認知的スキルを獲得する。彼らの多くにとって,嘘をつくことは,「心の理論」の発達をうながす活動である「ごっこ遊び」と非常によく似ている。嘘をつくことは「ごっこ遊び」とはちがって非難されるのだと,彼らはすぐに学ぶ。だが,すでに見たように,彼らはまた,嘘をつくことはいけないことだが,それが必要とされる場合もあるのだとも学ぶ。
 それどころか,ある種の発達障害を抱えている子どもにとっては,嘘をつけないのはその障害の症状のひとつだとみなされる。典型的な例は,言葉の遅れがあったり他人の感情を認識して対応することが困難だったりする,自閉症の場合である。
 自閉症の子をもつ親は,うちの子はぜんぜん嘘がつけませんということが多い。完全なる正直というのはすばらしいことのように思えるかもしれないが,じつは自閉症の子どもにとっては,それが対人関係を困難にする重大要素となっている。たとえば,「ふり」をする遊びを必要とするゲームができないのだ。自閉症の子どもは,他人には他人の考えや感情があるのだと理解する「心の理論」が欠けていると考えられている。嘘をつくためには,2つの異なる見方が同時に存在しうることを理解しなければならない。事実(たとえば,「ぼくがランプを壊した」)と,まちがった見方(たとえば,「だれかがランプを壊した」)だ。自閉症の子どもは間違った見方を理解できないばかりでなく,他人の見方が自分の見方とちがうのだということを理解できないかもしれない。複数の見方があることを理解できないことから,自分の心にある考え(「ぼくがランプを壊した」)はすべての人にとって明白なのだと,彼らには感じられる。
 これはじつに皮肉な状況だ。自閉症の子どもが嘘をつかないのは,障害がもたらす症状とみなされている。その結果,もともとは正直そのものだった自閉症の子どもが,うまく嘘をつけるようになると,それは症状が改善したからだと考えられる。正直は善であり嘘は悪であるという考えは,ここでも否定されているのだ。

ロバート・フェルドマン 古草秀子(訳) (2010). なぜ人は10分間に3回嘘をつくのか:嘘とだましの心理学 講談社 pp.83-84

子どもを嘘つきにする大人の指示

 子どもが嘘へと導かれるもひとつの道筋は,大人が見本を示し,明白な指示をすることによるものだ。それがどのようにして起こるのかを理解するために,あんたが前述の作者の前で絵の評価を求められた子どもの親であると想像してみてほしい。目の前で,幼稚園児のわが子が何枚かの絵を評価するように指示される。絵の作者がその場に同席する場合もある。絵を描いた本人を目の前にして,わが子がその絵を気に入らないのが見てとれるとき,あなたはわが子に正直に感想を述べてほしいだろうか?それとも,礼儀をわきまえ,本心を隠してお世辞をいってほしいだろうか?
 わが子には正直かつ礼儀正しくふるまってほしいので,これはむずかしい問題だ。だが,この2つの美徳はしばしば衝突する。幼い子どもにとって,嘘をつくことが「求められる」状況の微妙なニュアンスを理解するのは容易ではない。就学前の子どもは,祖母が焼いたばかりのクッキーを食べてしまったのに,食べていないと嘘をついて怒られ,その後で,祖母からもらった手編みのセーターが気に入らないと正直に答えて,またしても怒られれば,どうしていいかわからなくなるだろう。そんな場合,たいていの子どもは両親の助けをかりて,「ささいな罪のない嘘」のつき方を習得するわけだが,これはつまり,他人を欺く方法を身につけたということだ。すなわち実際には,私たちが子どもに教えていることとはうらはらに,「怒られる嘘」とそれとは逆に「求められる嘘」があるのだ。

ロバート・フェルドマン 古草秀子(訳) (2010). なぜ人は10分間に3回嘘をつくのか:嘘とだましの心理学 講談社 pp.79-80

子どもの嘘の発達

 子どもの嘘はとてもありふれているので,じつのところ,心理学者は子どもが年齢を重ねるにつれてどんな嘘をつくか,はっきりとしたパターンを発見した。言葉による嘘はたいていの子どもで3歳くらいにはじまるが,なかには2歳で早くも嘘をつく子もいる。両親がルールを定めていてそれを破ると罰を与えられるのだと理解し,それと連動して嘘をつくようになる,というのが典型的だ。たいていの場合,最初はそうした罰を逃れようとして反射的に嘘をつく。重要なのは,それらの嘘はごく単純で,それは使われる言葉からもわかる。3歳の子どもは自分が花瓶を壊したり,兄弟をぶったり,最後の1枚のクッキーを食べてしまった明白な証拠が目の前にあっても,「ぼく(わたし)じゃない」と主張するだろう。3歳児は自分のしわざではないふりをする能力はあるものの,それを信用できる言葉にすることはわからないし,そうするための洞察力もない。
 4,5歳になると,子どもの嘘には,もっと微妙なニュアンスがつくようになる。やみくもに「ぼく(わたし)じゃない」と主張するのではなく,もっと計算して「犬がやった」などというようになる(なぜ子どもがこの段階に進めるかについては,この章の後半で説明する)。また,この本の1章で検討したような社会的な嘘をつくようになるのは,4歳くらいからだ。幼稚園に入るころには,子どもどうしの交流がさかんになって,傷つきやすい自我に迎合したりそれを強化したりするために,嘘の必要性が増大する。ここでも,はじめのころの嘘は未熟だが,心理学的には大人が嘘をつくときと同じような働きをする。大人なら仕事での成功を自慢するだろうが,子どもはネス湖の恐竜をさがしに旅行へ行ったと自慢するだろう。

ロバート・フェルドマン 古草秀子(訳) (2010). なぜ人は10分間に3回嘘をつくのか:嘘とだましの心理学 講談社 pp.74-75

真実バイアス

 自分はだまされないと決めこむ,このような心理学的現象は「真実バイアス」として知られている。真実バイアスとは,相手の言動にもとづいて客観的に判断するのではなく,その人が真実を語っていると信じこんでしまうことを意味する。説得力のある理由を呈示されないかぎり,私たちは相手が嘘をついているとは思ってもみないのだ。最新の心理学の世界では,真実バイアスはいわゆる「ヒューリスティックな判断」のひとつであるとされる。ヒューリスティックな判断とは,心理学研究者が認識の経験則に関して使う言葉であり,私たちの世界を単純化してくれる。すなわち,与えられたすべての情報をもとに物事を判断するのではなく,潜在意識下で働く心的ルールに従ってすばやい判断をくだすのだ。真実バイアスはそうした精神的ルールのひとつである。ガソリンスタンドで車を誘導する店員の顔色をうかがったり,駅のホームで昨日の晩のアメフトの試合はペイトリオッツが勝ったと話している男が本当はどう思っているのか探ったりする必要をなくしてくれる。大半の人は本心を口にしていると信じて,私たちは日常生活を送っている。

ロバート・フェルドマン 古草秀子(訳) (2010). なぜ人は10分間に3回嘘をつくのか:嘘とだましの心理学 講談社 pp.53-54

嘘つきの優位性

 嘘をつくときにはあきらかにそうとわかるシグナルを発するものだという根本的な仮定は,「嘘つきの優位性」の重要な一要素となっている。人が嘘をつくときに発する明らかなシグナルはいろいろあるとされている。たとえば,視線をそらす。脚を組みかえたり,手の指で机をコツコツたたいたりする。顔が赤らむこともあるだろう。とくに大きな嘘ならば,汗をかいたりもするだろう。そこで,そうしたシグナルが認められないとき,私たちは相手が嘘をついていないと判断することが多い。
 どのようにしてこれらが「うそつきの優位性」の要素として働くのかを知るために,まずは「視線をそらす」という行動について考えてみよう。すでにこの本で紹介したテキサスクリスチャン大学のチャールズ・ボンド教授がこんな実験をした。さまざまな国の2000人以上の人に,嘘をついているかどうか見分けるポイントを尋ねた。もっとも多かった答えは,視線をそらすかどうかだった。嘘をつくと目が泳ぐという考えは,あきらかに国境を越えて広がっている。
 だが,それは事実だろうか?驚いたことに,心理学者がいうところの「視線回避」は実際には嘘と関連していないようだ。数多くの研究者が実験をして,結果として全員が,視線をそらすことは嘘をついていることを知らせるシグナルではないと結論づけた。視線回避は他の意味を示してはいるが—たとえば服従であり,私たちの先祖にまでさかのぼれば,彼らは視線をそらすことで相手への服従を表現した—嘘をつくこととは関連していない。

ロバート・フェルドマン 古草秀子(訳) (2010). なぜ人は10分間に3回嘘をつくのか:嘘とだましの心理学 講談社 pp.45-46

ポリグラフの欠陥とは

 ポリグラフの欠陥は,視線回避がかならずしも嘘つきを見破らないのと同じく,ポリグラフが測定する生理学的反応もまた,かならずしも嘘つきを見破らないという点にある。もし,一階から六階まで階段を駆けのぼってすぐにポリグラフを受ければ,あなたの話はすべてが嘘だという判定が出るだろう。息を切らし,汗をかき,心臓が高鳴っているからだ。激しい運動がもたらす身体的シグナルは,緊張がもたらすシグナルと同じなのだ。さらにいえば,もしあなたがポリグラフを受けるときに極端に緊張していれば—たとえば,3人殺害の犯人として誤認逮捕されるのではないかと不安にかられているせいで—あなたの体が示す反応は,機械上では嘘をついているときと同じように見える。私の同僚の社会不安障害のご主人を思い出してほしい。嘘をついていると示す典型的なしるしがみられるからといって,その人が嘘をついているとはかぎらない。これはポリグラフが抱える根本的な問題点である。NRCはポリグラフに関してつぎのように報告している。「嘘をつくと生じやすい心理状態(たとえば,嘘をついていると判断されるのではないかという恐れ)はポリグラフが測定する生理的反応に影響をおよぼしがちだが,嘘をついていなくても同じような心理状態になりうる。そのうえ,ほかにもたくさんの心理的および生理的要因(たとえば,検査されること自体に対する不安など)が,測定値に影響を及ぼす。これらの理由から,本来的にポリグラフ検査はまちがった結果をもたらしやすい」

ロバート・フェルドマン 古草秀子(訳) (2010). なぜ人は10分間に3回嘘をつくのか:嘘とだましの心理学 講談社 pp.49

嘘を見抜く練習は可能か

 では,嘘の話に戻ろう。嘘を見抜くのが,ある種の技術だとしよう。技術を習得し,向上させるのは練習である。私はゴルフをしたかったので,練習をした。とはいえ,日常生活において,どうしたら嘘を見抜く練習ができるだろう?会話の一言一句に注意を払って,それが真実かどうか見きわめるというのは,ひとつのやり方かもしれない。だが,あなたの判断が正しいかどうかは別問題だ。会話を交わした相手に,嘘をついたかどうかいちいち尋ねることもできないではないが,相手はさらに嘘を重ねるかもしれないし,第一,そんなことをしていれば,友人ができなくなるにちがいない。要するに,相手が嘘をついていると疑うことはできるが,その疑いを確かめることは,まず絶対にできない。それは,暗闇でゴルフの練習をするようなものだ。いくらボールを打ったところで,どこへ飛んでいったのか見えないから,うまく打てているのかどうかまるでわからない。嘘つきを見つけようとして,いくら疑ってみたところで,自分が正しいかどうか知ることは,まず例外なく不可能だ。したがって,私たちは嘘を見抜く技術を向上させることはできない。念のためにいえば,FBI捜査官や刑事といった嘘を発見することについてそれなりの情報を持っているとされる人々でさえ,みごとな手腕を発揮しているとはいえないのだ。

ロバート・フェルドマン 古草秀子(訳) (2010). なぜ人は10分間に3回嘘をつくのか:嘘とだましの心理学 講談社 pp.43-44

嘘は損失をもたらす

 残念ながら,「罪のない嘘」という神話は本質的にはおとぎ話だ。「罪のない嘘」は「本物の嘘」よりも悪質度は低いかもしれないが,それでも他のすべての嘘と同じく,ある程度の被害をもたらす。ウソがうまく通れば,だれかをだますことになるのはちがいない。しかも,決定的なのは,たとえだまされた人が嘘とわからなくても,だました本人はそれを知っている。
 カリフォルニア大学サンタバーバラ校の研究者ベラ・デパウロと彼女の学生たちは,数多くの実験をくりかえした結果として,嘘はたとえ「罪のない嘘」であっても嘘をついた人に損失をもたらすことを発見した。デパウロによれば,嘘は「心の痛み」をもたらし,嘘をついた人は多少なりと気分が悪くなる。さらには,この気分の変化は,会話が嘘から離れてもまだ続きうる。それが積み重なれば,対人関係に感情的な「染み」がつく。嘘が混じっている会話は正直な会話とくらべて,温かみや親しみや心地よさが劣ると,デパウロはいう。

ロバート・フェルドマン 古草秀子(訳) (2010). なぜ人は10分間に3回嘘をつくのか:嘘とだましの心理学 講談社 pp.31-32

ありのままとは

 「ありのままでいる」とは,どんなことなのかを検討すれば,そうした疑問の答えが得られる。多くの場合,「ありのままでいなさい」という助言は,対人関係でもっともシンプルなアプローチを取りなさいという意味だ。だが実際は,綿密に検討してみれば「ありのままでいる」ことは,数多くの要素の微妙なバランスを必要とする,非常に複雑なプロセスなのだとわかる。
 まず,対人関係では,他人との出会いの舞台となる状況がさまざまに変化する。たとえば,パーティで友人と出会えば,オフィスの小部屋へ訪ねていくときとはちがう話し方をするだろう。異なる状況での異なる行動基準は,相手に提示する「自己」をも考慮に入れなければならない。さらに,その「自己」は,感情を含めた出会いの状況によって形成される。たとえば,もし相手が可愛がっていた猫を亡くしたばかりだったら,思いやりを示さなければ友人としてふさわしくない。もし相手が婚約したといえば,喜んで祝福しなければ友人としてふさわしくない。いかにふるまうべきかを左右するそうした社会的な基準は,私たちの「本当の」感情を表現することよりも重要視される。

ロバート・フェルドマン 古草秀子(訳) (2010). なぜ人は10分間に3回嘘をつくのか:嘘とだましの心理学 講談社 pp.26-27

経度のナルシシズムの利点

 一方,準臨床的なナルシシストは,ストレスを楽々と切り抜ける幸運な人々であることがしばしばである。「サイコロジー・トゥデイ」誌のライター,カール・ヴォーゲルは書いている。「経度のナルシシズムは自己やその他のトラウマから回復するのにも役立っているようだ。自分自身は不死身であるという非現実的な感覚を与え,彼らは人生において投げかけられるものになんであれ対処できると信じる。ある研究者によると,いくらかナルシシズム的であることは,大型のスポーツ車に乗っているようなものだ。おおいに楽しみ,堂々と道路の真ん中を通り,気ままにふるまい,他のドライバーを高いリスクにさらす」

バーバラ・オークレイ 酒井武志(訳) (2009). 悪の遺伝子:ヒトはいつ天使から悪魔に変わるのか イースト・プレス pp.269

異常なナルシシズム

 ナルシシズムは,境界性パーソナリティ障害と反社会性パーソナリティ障害にしばしば見られる。しかし毛沢東のナルシシズムはあまりに異常で,宗教の域にまで達し,自らの指導者としての役割にほとんど神秘的な信仰を抱いていた。彼は自らのリーダーシップを疑ったことはなく,自分のリーダーシップだけが変わりゆく中国を救い,変えることができると信じ,毛沢東が国家の救世主であるという社会通念を自分でも信じていたのだ。毛沢東に対する個人崇拝は彼が陰から強く促しており,1940年代にはすでに表に現れ,共産党綱領の新たな前文には,最終的にはこう書かれている。「中国共産党は毛沢東の思想を……すべての仕事を導くものとして採択し,独断的,あるいは経験論的な逸脱はいっさい認めない」。毛沢東自身がこう述べている。「問題は,個人崇拝をするべきかどうかではなく,その人物が真実を表しているかどうかだ。もし表しているなら,彼は崇拝されるべきだ」

バーバラ・オークレイ 酒井武志(訳) (2009). 悪の遺伝子:ヒトはいつ天使から悪魔に変わるのか イースト・プレス pp.264-265

マスコミ操作

 さらに毛沢東は,影響力のあるアメリカ人ジャーナリストで「サタデー・イブニング・ポスト」紙や「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」紙に寄稿しているエドガー・スノーに目をつけ,西側諸国を魅了しようとした。スノーは毛沢東のでっち上げをそっくり信じ込み,毛沢東と党の指導者らを「率直で,純粋で,信用できる」と評していた。
 ジャーナリストを取り込もうとする毛沢東のキャンペーンは,スノーと毛沢東に長期にわたって利益をもたらした。他の著名人らも毛沢東と彼の政権をたたえた。ハーヴァード大学教授,ジョン・K・フェアバンクは中国から戻るとこう述べた。「毛沢東主義の革命は,概して,中国の長い歴史の中でも人民にとって最高のできごとである」。女権拡張運動の哲学者,シモーヌ・ド・ボーボワールは,毛沢東政権の殺人を養護した。「彼が行使する権力は,たとえばローズヴェルトの政権より独裁的ということはない」。その配偶者であるジャン=ポール・サルトルは毛沢東の「革命的暴力」を賛美し,「きわめて教訓的である」とい断言した。
 しかし毛沢東と共産党はますます巧みに新聞を騙すようになり,自体は予想もしない方向へ進んだ。国民党は共産党よりはるかに自由な報道を許していたため,公然と不満を述べ議論することが可能で,民衆の目には国民党の残虐行為と失敗が拡大されて見えた。共産党陣営からの,注意深くコントロールされた肯定的な報道との対比に,多くの人々は,どちらも悪いにせよ共産党がましであるという結論を出したのだ。ある国民党の幹部は,共産党支配の恐怖を目の当たりにして強固な半共産主義者となった1人だったが,上海の近くの寧波に行ったとき,人びとは彼を拒絶し,意見を聞こうとはしなかった。「わたしは訪問者すべてと話をした。舌が乾き唇がひび割れるまで……共産党の無法者の無慈悲で獣のような行いについて語った……しかし彼らを目覚めさせることはできず,敵意をかき立てただけだった」

バーバラ・オークレイ 酒井武志(訳) (2009). 悪の遺伝子:ヒトはいつ天使から悪魔に変わるのか イースト・プレス pp.263-264

邪悪なリーダー

 毛沢東は,20世紀に数多くいる邪悪な成功者らしいリーダーの中で,もっとも邪悪な成功者らしいリーダーであった。彼は30年間にわたり,世界人口の4分の1に対し絶対的な権力を行使していたのである。歴史家のR・J・ラメルがこう書いている。「毛沢東のひどく血なまぐさい統治を概観してみよう。1900年から1987年までのすべての戦争で,戦闘によって3402万1千人が死んだ。これは2度の世界大戦,ヴェトナム戦争,朝鮮戦争,メキシコとロシアでの革命を含めた数だ。毛沢東は1人でその2倍の人間を殺しているのだ」。これは,アラブ,東洋,新世界の市場でのアフリカ人奴隷貿易が行われていた400年間の死者の4倍近くになる。
 こうなると,毛沢東の行動の原因が重大な精神疾患であるという可能性を,彼と同時代に,さらには現在に至るまで,心理学者や精神分析医や精神科医が真剣に考察した例がまれであったことは驚きと言ってもいいだろう。しかし,マサチューセッツ工科大学の政治学者,ルシアン・パイは,毛沢東が死去した1976年という早い時期にその伝記を書き,さらにはこうした考察が少ない理由に明快な説明を与えている。「ほとんど聖人となった毛沢東に対し心理学的な分析を行うだけでも,すでにかなり危ない橋を渡っているのだから,専門用語を使うことは分別のあることとは言えまいし,実のところ非生産的でもあっただろう。だから,わたしは,毛沢東がおそらく自己愛性パーソナリティ障害と境界性パーソナリティ障害を併発していたであろうことは公言しなかった。珍しくない組み合わせの症例ではあるが,病名を口にすれば多くの人々を激怒させていただろう」

バーバラ・オークレイ 酒井武志(訳) (2009). 悪の遺伝子:ヒトはいつ天使から悪魔に変わるのか イースト・プレス pp.224-225

ガスライティング

 「ガスライティング」では,あるできごとが起きた,またはある発言があったという事実を否定する。境界性パーソナリティ障害であるか,意識的または無意識的に他者を操作しコントロールしたいという欲求を持つその他の人間に見られる行動である。他者の認識,記憶,正気であるという事実そのものを否定することもある。以下は大学のルームメイトに対するガスライティングの例だ。
 「ルームメイトにあることを尋ねると,彼女は推測で答えたが,正しいかどうかは自信がないと言った。そこでわたしが母にメールで尋ね,ルームメイトが正しいことがわかった。ルームメイトにそのメールを見せたのは『ほら,あなたの言うとおりだったわ!』という意味だった。ところがどういうわけか彼女はそれから15分間にわたってどなり,叫び,悪口雑言を並べ,罵倒し,最後にこうわめいた。『母親からのメールなんか見せて,わたしがまちがってると言うなんて!』。わたしが言ったこととまったく逆だった。わたしは彼女に向かってメールを見てと言い,『彼女が正しかった』と教えたいのだとわからせようとしたが,彼女は見ることさえ拒否し,顔までそむけ,1語たりとも読もうとはしなかった。理由はわからないが,彼女には,『彼女がまちがっていて愚かだとわたしが言おうとしている』と信じる“必要”があったのだ」

バーバラ・オークレイ 酒井武志(訳) (2009). 悪の遺伝子:ヒトはいつ天使から悪魔に変わるのか イースト・プレス pp.212

スプリッティング

 境界性パーソナリティ障害のさまざまな「対処行動」は,周囲の人間に災難をもたらすことがある。姉の行動が数十年にわたって両親の生活を荒廃させたように。
 たとえば,対処行動の1つである「スプリッティング」は,周囲の人々を理想化したり低く評価したりして揺れ動く状態である。彼らにとって人間は良いか悪いかの2つに1つで中間がなく,1人の中に善悪が共存しうることを受け入れられないのだ。さらに大きなスケールになると,患者が人々をたがいに争わせ,1つのグループを善玉,もう一方を悪玉に分類する。しかし,だれが良くだれが悪いかはその日によって変わるし,1時間ごとに変わることさえある。

バーバラ・オークレイ 酒井武志(訳) (2009). 悪の遺伝子:ヒトはいつ天使から悪魔に変わるのか イースト・プレス pp.207-208

こういう子どもの場合は…

 法心理学者のJ・リード・メロイが,反社会的人格を備えた子供を持つ母親のたいへん悲しい話を伝えている。この病気の初期に現れる本質的な病情である。
 「『(母親によると)1歳半で何かのスイッチが切れたかのようで,ひどいかんしゃくを起こすようになり,良心のかけらもなく,他人への共感をほとんど示しませんでした。生き物を見ればとにかく殺し,ひどく不機嫌で,悪意に満ちていました』。この母親は,感情的<かつ>捕食性の息子の行動に続けて以下のように証言している。家の中でものを燃やしたり,ナイフで脅したり,鏡台の前のカーペットや枕からピンの先が突き出すようにしておいたり,着るときにひっかき傷ができるように服にピンを隠したりした……。大きくなると,サディスティックな行為はさらに目立つようになった。あるとき裏庭に猫をつるし,帰宅した母親の反応を見ていたことがあった。おびえる母親を見てよろこび,おびえるようすをまねて見せたのを,母親は覚えている」

バーバラ・オークレイ 酒井武志(訳) (2009). 悪の遺伝子:ヒトはいつ天使から悪魔に変わるのか イースト・プレス pp.176-177

ウィリアムズ症候群

 ウィリアムズ症候群は,「反サイコパシー」とでも呼ぶべきもので,たぶんもっとも人に愛される病気であろう。患者はたいへん礼儀正しく社交的で,強い共感能力を示し,見知らぬ人を恐れない。顔には,経験を積んだ遺伝学者ならすぐに気づく特徴がある。すなわち,上を向いた鼻,大きな口,ふっくらした唇,そして鼻と上唇のあいだが離れていることである。こうした子供たちはしばしば心臓や血管,さらには歯や腎臓に異常が見つかる。
 この病気は,社会的行動をあつかう神経回路の異常に関係があると考えられ,21個ほどの遺伝子を含む小片が7番染色体に欠けていることが原因である。患者の扁桃体,つまり攻撃・闘争反応を引き起こすアーモンド大の神経組織が,人の顔が与える脅威に対して異常にのんびりした反応を示す一方,人の姿のない恐ろしい場面,たとえばビル火災や飛行機事故には過剰な反応を示す。つまり,ウィリアムズ症候群は社交的である一方,数えきれないほど多くの恐怖症をかかえ,クモや高い場所など,ありとあらゆるものにおびえているのだ。また,内側全頭皮質が絶え間なく活性化されている。この領域は額のすぐ裏側にあり,共感能力と,社会的にどう行動すべきかという知識にかかわっており,患者がこれらの点で高い能力を示すことに関係があるのだろう。

バーバラ・オークレイ 酒井武志(訳) (2009). 悪の遺伝子:ヒトはいつ天使から悪魔に変わるのか イースト・プレス pp.170-171

創発

 ここで無視することのできない,とくに重要な概念が「創発」である。
 この用語が指す遺伝的形質は,驚いたことに家族には共通でない。例としては,リーダーシップ,さまざまなタイプの天才,ソシオパシーや境界性パーソナリティ障害といった精神病理学的症状などであろう。
 こうしたことが起きる理由を理解することはそれほどむずかしくない。たとえば,優れたリーダーシップとビジョンをそなえた優秀なCEOと,10代の頃体操選手としてオリンピックで金メダルを取ったかわいらしい妻が,10人の子供がいる大家族を作ったとしよう。われわれは何を想像するだろうか?
 子供たちは両親からそれぞれ半分ずつ遺伝子を受け継ぐが,どのような組み合わせになるかを前もって知ることはできない。
 父親のビジネスの才とリーダーシップの一部が,VAL/VAL型のBDNF対立遺伝子がもたらす並外れた記憶力と,長い方のSERT遺伝子を2つ持ったLONG/LONG型の冷静さのおかげだとしよう(もちろん,他にも多くの遺伝子がかかわっているが,ここでは議論を簡単にするためにこうしたい)。幸運なBDNFとSERTの組み合わせのおかげもあって,彼は頭の回転が早く,何が起きても冷静でいられる。
 一方,体操選手の妻は,短いSERTを2つ持っている(SHORT/SHORT型としよう)ために心配症で,しかしMET/MET型のBDNFのおかげで意外におっとりしたところもある性格でいられるとしよう。それでも彼女の記憶力が夫に遠くおよばないことは確実である。
 これらの遺伝子に関して,父からVALとLONG,母からMETとSHORTを受け継ぐため,10人の子供たちが両親とまったく同じ組み合わせをもつ可能性はない。こうしたわずかなちがいだけで,両親の成功を,あるいは,別の状況であれば失敗を,再現しなくなる可能性は十分ある。しかも,ここで考えたのはたった4つの遺伝子だけなのにである!
 人格に本質的な差をもたらす,まだ知られていない多くの遺伝子数は,200だろうか?2000だろうか?さらには,まだほとんど解明されていないが,ジャンクDNAに隠された制御情報も忘れてはいけない。人格に関係するゲノムをまったく同じ組み合わせで両親から子どもへわたすことはまずできない。

バーバラ・オークレイ 酒井武志(訳) (2009). 悪の遺伝子:ヒトはいつ天使から悪魔に変わるのか イースト・プレス pp.146-147

サイコパス,ソシオパス

 反社会的な人物もソシオパスも,後悔やその他の道徳的感情を覚える能力がない,したがって反社会的・犯罪的行為に良心の呵責を覚えない人間を指す言葉である。
 社会学者は,一般にソシオパスという言葉を使い,ソシオパシーとは後天的な行動,たとえばギャングのように「反社会的なサブカルチャーによって社会化された」人間の行動だと考えている。生物学者は,反社会的な人物という言葉を使い,その行動は先天的で変えられないものだと考えている。心理学の専門家のあいだではどちらを用いるか合意ができていない。
 サイコパスには正邪の区別がついている。ただ,そのように行動しないだけなのだ。傑出した神経学者であるジョルジ・モルは言っている。
 「反社会的な人物のきわめて驚くべき点は,正邪を区別する能力があることだ。しかし,適切な行動とは何かという知識に中身が伴っておらず,生活の行動指針としての影響は仮にあったとしてもわずかである。反社会的な人物は,善を知ることと善を行うことが別であるという,もっともよい例だ」

バーバラ・オークレイ 酒井武志(訳) (2009). 悪の遺伝子:ヒトはいつ天使から悪魔に変わるのか イースト・プレス pp.94

bitFlyer ビットコインを始めるなら安心・安全な取引所で

Copyright ©  -- I'm Standing on the Shoulders of Giants. --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]