忍者ブログ

I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

エキスパートの条件

 専門家を専門家たらしめるものは,いったいなんだろうか。
 米軍のエリートの場合,それは「深い思索」であると言えるだろう。チェスの名手などの超一流のプロのように,優秀な軍事パイロットは,ひとつの出来事が5つ6つ先まで及ぼす影響をとっさに把握する能力をもっている。問題を深く掘り下げられ,しかも瞬時にそれをやってのける力。だが,どうすればこの能力を手に入れられるのか?
 「膨大な記憶の集積によるところが大きい」とフロリダ州立大学の心理学教授,K・アンダース・エリクソンは言う。エリクソンは「エキスパート」のエキスパートである。30年以上にわたって,ウエイターからチェスの指し手,パイロットや音楽家にいたるまで,さまざまな分野の専門技能を研究してきた。そして分野にかかわらず,エキスパートにはいくつか共通点があると指摘する。
 第1の共通点は,「幼少期にはじめていること」。世界レベルの専門家は,6歳前からその分野に深くコミットしている。
 第2の共通点は,「身体面でも頭脳面でも,生まれもった能力は人が思うほど重要ではないこと」。たとえばIQ(知能指数)テストでは,芸術や科学や高度な専門職における達成度の個人差をとくには説明できない。また身長を別にすれば,健康な成人がスポーツで優秀な成績をあげるのに,生まれつきの素質が必要だとの証拠はほとんどない。
 重要なのは練習だ。エキスパートはたくさん練習する。分野を問わず,世界レベルの専門家になるには10年間の持続的な努力を要するという点では,おおかたの研究結果が一致している。
 エリクソンと同僚の調べたエキスパート集団のひとつに,バイオリニストがある。若手と中堅で最高レベルのバイオリニストたちは,いずれも20歳までに1万時間を超える練習をこなしていた。これとは対照的に,同年代でさほど成功していないほかの2つのグループは,それぞれ2500〜5000時間しか練習していなかった。

ジョゼフ・T・ハリナン 栗原百代(訳) (2010). しまった!:「失敗の心理」を科学する 講談社 pp.229-230
PR

支配という名の幻想

 自己の能力を信じる力はあまりに強く,私たちはしばしばコイン投げやトランプのゲームといった偶然の出来事まで支配できると思いこんでしまう。
 何年も前におこなわれた有名な一連の実験によって,現在ハーヴァード大学教授のエレン・ランガーは,もっと分別があってしかるべきグループ——イェール大学生でも,この傾向が見られることを示した。
 ランガーは,イェール大学の学部生に,教員とカードを使ってゲームをさせた。単純なゲームだ。各自が1枚ずつカードを引いて,数が大きなほうの勝ちとする。学生は毎回,0〜25セントを賭けることができた。
 だが,このゲームにはしかけがあった。学生の一部は,洒落た服装をした,いかにも有能そうな人物と対戦し,ほかの学生たちは教員らしくない運動着のさえない先生を相手にした。どちらの場合でも,数が大きいカードを引く確率は同じである。カードにはプレイヤーが何者かなど関係ないのだから。だが学生はおおいに気にした。そこが重要な点だ。
 学生は,さえない教官と対戦するときには,自分が大きな数のカードを引くのに自信満々だった。この自信が掛け金に表れたのだ。「さえない教官」が相手のときは「有能そうな教官」と勝負するときよりも賭ける金額がつねに高かったのである。
 学生にコイントスの結果を予測させたときも同様の効果が認められた。このゲームにもしかけがあった。実験の協力者が放り投げたコインが空中にあるうちに学生が表か裏かをコールするのだが,結果はあらかじめ決めてあった。一部の学生にだけ最初の数回を当たったと告げることにしたのだ(学生にはコインが表か裏かは見せない)。
 この最初の連勝は,学生の自信に大きく影響した。しばらくすると,しょっぱなから当たったと信じた学生たちは,自分には表か裏かを当てる能力があって,半分以上の確率で予想を的中させられると確信するようになったのだ。だが,もっと興味深いのは,ゲーム後のコメントである。学生の40%が,「練習をすれば的中率を上げられる」と本気で思っていた。ランガーはこの現象を「支配という名の幻想」と呼んだ。

ジョゼフ・T・ハリナン 栗原百代(訳) (2010). しまった!:「失敗の心理」を科学する 講談社 pp.216-217

ミスに気づかない理由

 ゴルドフスキーの時代からスキムに関する研究は重ねられ,知見は広げられた。世界的に有名な音楽心理学者ジョン・スロボダは,サンプルの楽譜にある音符をいくつかわざと変えておき,ベテランの音楽家にそれを1度でなく2度,演奏させてみた。初回の演奏では,変更された音符のほぼ38%が見落とされてしまった。
 だが,ほんとうに興味深いのは2度目の演奏で起きたことだ。うっかりミスを見落とす割合は下がらないどころか,むしろ上がったのである!つまり音楽家は,たった1回の演奏で曲を頭に入れてしまい,2回目には音符を見ずに,パターンを探りながら演奏したのだった。簡単に言うと,スキムしていたのだ。
 この傾向は,私たちがなぜ自分のミスに気づかないのかを理解するために大きな意味をもつ。ものを見慣れるにつれて気づくことは増えず,むしろ減りがちである。ものごとをありのままにではなく,あるべき(と思う)ように見るからだ。この深く根ざした行動のせいで,音符のような小さなものばかりか,驚くほど大きなものも見逃しかねない。

ジョゼフ・T・ハリナン 栗原百代(訳) (2010). しまった!:「失敗の心理」を科学する 講談社 pp.157

引用者注:「スキム」は“scheme”だろうか。心理学では「スキーマ」とされることが多いのでは?

不稼働時間

 もうひとつの損失は「不稼働時間」である。ひとつの仕事をしていて,いったん中断をして別の仕事をしたあとで,もとの仕事にまた意識を戻すのには,多少の時間がかかる。職場問題の研究によれば,電話などで気を散らされたあとに深い集中力を取り戻すには,最長で15分ほどかかるという。
 この結果は,マイクロソフト社の職員の仕事ぶりを観察した研究とも符合する。その研究でも同社の社員は,受信メールに返信したあとで,報告書やプログラムの作成といった集中を要する作業に戻るまでに,やはり15分かかった。なぜそんなに長く?たいがい気が散ってしまい,ほかのメールに返信したり,ニュースやスポーツや遊びのサイトを眺めたりしたからだ。

ジョゼフ・T・ハリナン 栗原百代(訳) (2010). しまった!:「失敗の心理」を科学する 講談社 pp.115

後知恵バイアスの影響

 あと知恵によるバイアスは,こんなふうに生じる。結末がどうなったかを知ることは,過去の出来事の認識と記憶のしかたに大きな影響を及ぼす。これは,どんな些細なことにも,あてはまる。1975年のスーパーボールか,おばあちゃんの人工肛門手術か犬を去勢させるかどうかの決断かを問わない。結果を知ることによって,記憶が変わってしまうのだ。
 歴史家でさえも,このミスに陥りやすい。ある出来事が起こったあとならば—それがゲティスバーグの戦いでも,パール・ハーバー(真珠湾)攻撃でも—関連のある要因と関連のない要因とを分けるのはたやすい。これらの史実について書く者は,決まって結果が不可避のものだったように描いてしまう。だが,こうした記述の説得力は,ほかを犠牲にして,ある事実を伏せることで獲得される—「忍び寄る決定論」と呼ばれる過程だ。

ジョゼフ・T・ハリナン 栗原百代(訳) (2010). しまった!:「失敗の心理」を科学する 講談社 pp.94

人格判断すると顔を覚えやすい

 また,複数の人間を見分けるには身体的特徴だけを頼りにするわけではないが,いざ,どうやって見分けるかと問われれば,通常は身体的特徴をあげるものだ。さて,あなたならどこを見るだろう?多くの研究がこの答えを求めてきた。もっとも一致した発見はというと,唯一重要な特徴は……毛髪だという。ほかのどの身体的特徴より簡単に変えられることを考えると,じつに興味深い選択である。切ったり染めたり伸ばしたり,失うことすらあるのに。それでも髪なのだ。
 ところが,研究者がやや異なる質問をしたところ,顔の記憶にかんして驚くべき答えが得られた。正直さ,好ましさ,といった主観的な判断によろ特性を与えた場合のほうが,髪や目などの身体的特徴で区別した場合よりも,その人の顔がよく覚えられるというのだ。特性の方が造作よりも記憶に残るのはなぜか?特性のほうが脳に要求する情報処理が高度になるからだ。この顔は正直かどうかと考えるほうが,縮れ毛かどうかを決めるよりも頭を使う。苦労したほうが,記憶に残るらしい。
 この効果はてきめんなので,顔認識の研究の第一人者はこんな助言もしている。
 「人の顔を覚えていたければ,はじめて会ったときに『この人は善良そうだ』とか『くせ者らしい』などと人格判断を下してみるといい」

ジョゼフ・T・ハリナン 栗原百代(訳) (2010). しまった!:「失敗の心理」を科学する 講談社 pp.61-62

名前はあまり重要ではない

 名前がほかの要素と比べて重要でないことは,数年前にイギリスの研究で証明された。にせの人物のプロフィールを暗記させるという実験だ。各プロフィールには架空の名前のほか,その人物ゆかりの地名(出身地など)や職業,趣味といった,にせの情報が記されている。にせのプロフィールは,たとえばこんな感じだ。<アン・コリンズ。有名なアマチュア写真家。ブリストル近郊在住。地元で訪問看護師として働いている>
 では,実在する被験者たちは,実在しない人物の何を覚えていたか?
 「職業」だと思ったあなた,正解だ。職業は全被験者の69%が記憶していた。タッチの差で2位だったのは「趣味」の68%,次いで,62%の「出身地」。ぶっちぎりで最下位だったのが「名前」である。ファーストネーム(名)は31%,ラストネーム(姓)は30%しか覚えてもらえなかった。どういうわけか,その人がパン屋(ベイカー)を営んでいることは姓がベイカーであることより覚えやすいのだ。

ジョゼフ・T・ハリナン 栗原百代(訳) (2010). しまった!:「失敗の心理」を科学する 講談社 pp.49

目が見えるとは

 第二次世界大戦の開戦前のこと,ドイツ人研究者マリウス・フォン・ゼンデンは,白内障でいったん目が見えなくなって,のちに手術で障害を克服した100人近い患者の例を広く西側世界から集めて発表した。
 多くの患者にとって,見ることを学ぶことは苦痛をともなう経験だった。ある男性は,思い切ってロンドンの街に出かけたが「視覚が混乱して,もう何も見えなくなった」。別の男性は距離の判断がつかなかった。「そこでブーツを脱ぎ,前方に投げ,落下地点までの距離を測ろうとした。ブーツに向かって数歩踏み出し,つかみかかった。手が届かなければ1,2歩進んで手さぐりし,やっとブーツをつかめた」。ある少年は,視力の回復があまりに困難なせいで,目をえぐり出してしまいたいと言いだした。ほかの多くの患者はもっぱら落ちこんで,見るためのリハビリをすっぱりやめてしまった。

ジョゼフ・T・ハリナン 栗原百代(訳) (2010). しまった!:「失敗の心理」を科学する 講談社 pp.40

それは本当に会社の権限か

 配置転換,懲戒といった権限は会社の権限というが,よく考えてみてほしい。なぜ,使用者にはこのような権限があるのか。労働者と使用者というのは,労働契約の当事者としては対等である。懲戒というのは罰を与えることだ。契約の一方当事者である使用者が,対等の相手方当事者である労働者に対して,なぜ罰を与えることができるのか?
 この疑問に対する労働法学の回答は「契約」である。つまり,労働者が,自分の一鼎の非違行為に対しては,異聞に×が下されても仕方がないということに同意しているからできる,という理屈である。
 これによれば,使用者に懲戒権があるのは,労働者が同意を与えることによるのだ。ということは,労働者の集合体である労働組合が,懲戒に同意権があるとすることは,それほどおかしな話ではないし,使用者にもともと存在する権限を奪うものではない。
 配置転換についてもまったく同じことがいえる。
 このように,使用者に人事権があるのは,労働者の同意があるからなのだ。組合が口を挟むべきことではない,では説明になっていないのだ。

笹山尚人 (2008). 人が壊れてゆく職場:自分を守るために何が必要か 光文社 pp.186

派遣先のユーザー感覚

 労働者派遣の事例を扱っていてよく感じるのは,派遣先の「ユーザー感覚」である。つまり,派遣先は,人間を受け入れて仕事をしてもらっているというのではなく,商品や機械を納入してもらってニーズを満たしている,という感覚を持つのである。この感覚は,派遣労働者が自らの思い通りにならないとき「不良品」「バグ」(瑕疵)といった感覚を持つことにつながる。だから「不良品」や「バグ」をなんとかしろ,と派遣元に文句を言うようになる。それは,不良品を与えられたときに正常な商品との交換を求めるように,思い通りになる派遣社員を派遣し直せという要求になっていく。思い通りにならない派遣社員を人間扱いしないのである。

笹山尚人 (2008). 人が壊れてゆく職場:自分を守るために何が必要か 光文社 pp.154

パワハラと法律

 ここで,いじめ,パワハラ(パワーハラスメント)に対して法がどのような考え方を持っているのかを説明しておこう。
 法律上,これがいじめであるとか,これがパワハラであるとか,そういった定義は存在しない。したがって,いじめやパワハラの問題が起きたとき,こうすればいいというものは,直接の法律規定ということでは決まりがない。
 社会的には,パワハラについては例えば次のように定義されている。「職場において,地位や人間関係で弱い立場の労働者に対して,精神的又は身体的な苦痛を与えることにより,結果として労働者の働く権利を侵害し,職場環境を悪化させる行為」である,と(東京都の定義)。
 これを法の考え方に即して考えてみると,いじめ,パワハラというのは結局,法律上は,ある種の法益を侵害する場合に許されないということになる。人格権とは,名誉とか,自由とか,人格と切り離すことができない利益のことだ。人格権については,例えば,肖像権やプライバシー権といった形で裁判所の判例でも認められている。
 つまり,職場において,人格上の攻撃を行うことでその人を人格的な傷を負った状態にすることは法的には許されないということになる。これについては,攻撃を行う本人に対して,そのような攻撃を行うことは許さないと中止を求めること,傷を負った点について,不法行為だからということで損害賠償を求めることができる(民法第709条)。この加害行為が刑法に定める犯罪行為に該当する場合は,刑事責任が発生するのは当然である。
 また,企業は,労働者の心身を健全に保つことができるように,職場環境をそれにふさわしく整える義務があると考えられている。安全配慮義務といわれる義務である。ここからさらに,使用者には「労務を遂行するに当たり,人格的尊厳を侵し,その労務提供に重大な支障を来す事由が発生することを防ぎ,またはこれに適切に対処して,職場が労働者にとって働きやすい環境を保つように配慮する注意義務」があると考えられている。これは,職場環境整備義務とか,職場環境調整保持義務などといわれている。これらの義務は,仮に使用者が個々の労働者との労働契約においてとくに約束していなくても,労働契約を締結した以上,使用者が労働者に対して当然負う義務であると考えられている。

笹山尚人 (2008). 人が壊れてゆく職場:自分を守るために何が必要か 光文社 pp.78-80

年俸制の誤解

 年俸制については広く誤解されているので注意が必要だ。世間では,年俸制とは1年単位で出される賃金が固定してしまう制度だ,という誤解がまかり通っている。年俸制というと,プロ野球などプロスポーツの選手を思い浮かべるせいであろうか。
 しかし,年俸制は基本となる賃金を1年単位で決定するという合意にすぎない。多くの場合,月給いくらと約束するところを,年でいくらと約束するだけのことである。月給いくらと約束すれば,残業代はその範囲外のことであるから出る扱いになるのとまったく同じで,,年でいくらと契約しても,残業代はその約束の範囲外のことになる。したがって,年俸制であるということと,残業代が支給されるということは両立する関係にある。一方があるからといって,他方が存在しないということにはならない。

笹山尚人 (2008). 人が壊れてゆく職場:自分を守るために何が必要か 光文社 pp.23

全体論的健康法

 自分の健康に自分が責任を持つべきであるという全体論的健康法の主張は,いろいろに解釈できる面を持っており,その結果,良い面ばかりでなく悪い面もでてくる。すでに述べたように,この主張は,自分の健康を医者よりも患者自身がもっと健康に配慮した生活をし,医療サービスに対するより賢い「消費者」になるよう促すものであると言えるだろう。一方,個人個人が自分の健康に責任を持つべきであるという全体論の主張は,健全なる精神を持っていれば健康は増進されるはずだという信念を意味することもある。しかしながら,こうした信念の悪い面は,健全なる精神を持っていれば病気になるはずはないのであるから,必然的に,病気になるのはそうした健全なる精神を持たないからであるということになってしまうことである。そこで,病人や障害者は,病気や障害という不幸を背負った原因が本人にあると他人から責められることになり,自分自身をも責めることになってしまうのである。


T.ギロビッチ 守 一雄・守 秀子(訳) (1993). 人間この信じやすきもの—迷信・誤信はどうして生まれるか— 新曜社 pp.238-239
(Gilovich, T. (1991). How we know what isn’t so: The fallibility of human reason in everyday life. New York: Free Press.)

総意誤認効果

 こうした話題についての最近の研究の多くは,「総意誤認効果」と呼ばれる現象に焦点を合わせたものである。「総意誤認効果」というのは,ある種の信念(や価値観や習慣)がどの程度人々に共有されているかを推定する際に,そうした信念を自分自身が持っていると,そうした推定が過大になりがちになる傾向を言う。たとえば,フランスびいきの人は,フランス嫌いの人が考えるよりも,フランス文化やフランス料理が多くの人に好まれていると考えている。酒飲みは,酒を飲まない人が考えているよりも,多くの人が飲酒を好むと考えている。こうした現象についての最もよく引用される実験として,大学生に,「悔い改めよ」と書かれた大きなプラカードを持ってキャンパス内を歩き回ってもらえるかどうかを尋ねてみた実験がある。かなりの数の大学生が,そうしてもよいと答え,同様にかなりの数の大学生がいやだと答えた。そうした回答が得られた後で,同じ大学生に,やるという学生とやらないという学生とが仲間の大学生の中にどのくらいずついると思うかを推定してもらった。その結果,これらの大学生の推測は,自分自身がどちらを選択したかに大きく影響されることがわかった。自分がやると答えた学生は,他の学生でも60%はやるだろうと推測したのに対し,自分がやらないと答えた学生は,そんなことをやるのは27%ぐらいだろうと推測したのである。

T.ギロビッチ 守 一雄・守 秀子(訳) (1993). 人間この信じやすきもの—迷信・誤信はどうして生まれるか— 新曜社 pp.188-189
(Gilovich, T. (1991). How we know what isn’t so: The fallibility of human reason in everyday life. New York: Free Press.)

ペンシルバニア・ダッチ

 誇張と省略という比較的単純なプロセスが,こうして,科学的な実験結果の報告から他人についての噂まで,私たちが人づてで「知る」ことの多くを歪めていることになる。こうした人づての話は,次々に語り継がれていくたびに,元々の事実からの隔たりも大きくなりがちである。そして,語り継がれていく過程で紛れ込んだ誤りが修正されることは稀である。実害のないちょっと愉快な例として,「ペンシルバニア・ダッチ」という誤った命名が生じ,定着してしまった背景にも,ある種の誇張と省略が関わっていると思われる。実は,ペンシルバニア州に大量に移民してきたのはオランダ人[ダッチ]ではなく,ドイツ人[ドイッチ]であった。初め,彼らは「ペンシルバニア・ドイッチ」と呼ばれていた。ところが,アメリカ人の多くには,この「ドイッチ」という発音が難しかったため,長い年月を経る間に,より発音の容易な「ダッチ」に次第に変化してしまった。その結果,現在ではアメリカ合衆国の人々の多数が,ペンシルバニア州の人々の祖先はオランダ移民であると思っている。実際,ペンシルバニア州の観光みやげの多くには,ペンシルバニア「ダッチ」産であることの証として,「風車」のマークが付けられているほどである。

T.ギロビッチ 守 一雄・守 秀子(訳) (1993). 人間この信じやすきもの—迷信・誤信はどうして生まれるか— 新曜社 pp.152-153
(Gilovich, T. (1991). How we know what isn’t so: The fallibility of human reason in everyday life. New York: Free Press.)

Pennsylvania Dutch:http://en.wikipedia.org/wiki/Pennsylvania_Dutch

アルバート坊やの真実

 こうしたアルバート坊やの話は,人間の情動的な行動の獲得や変容についての重要な考えを伝えたいときに大変便利な例となるが,極めて重大な問題を抱えてもいる。実は,この話を引用している説明に述べられていることの多くは,作りごとで実際には起こっていないのである。実験者は確かに,ネズミを見せるたびに大きな音を出し,実験開始後7回目の音をたてるころまでに,アルバートちゃんがネズミを怖がるようにすることに成功した。また,5日後にテストをしても,その恐怖は強く残っていることが確認された。そしてそのとき,アルバートちゃんは,ウサギやイヌやアザラシの毛皮のコートにも強い恐怖を示したほか,サンタクロースのお面やワトソン博士の髪にもかなりの「否定的反応」を示し,弱いながらも綿の玉にも反応を示した。そして,積木や実験助手の髪に対しては,むしろ好意的な反応を示したのであった。
 しかしながら,さらに5日後には,アルバートちゃんはネズミにほとんど反応を示さなくなったため,実験者たちは「反応を再形成」しようと,ネズミと大きな音とを再びいっしょに提示することにしたのであった。そして,今度はウサギやイヌに対しても,大きな音を対提示したのである。(その結果,その後の般化のテストには,ウサギやイヌは使えないことになった。)最後に,さらに31日後にテストをしてみると,アルバートちゃんは,ネズミ,ウサギ,イヌ,アザラシのコート,サンタクロースのお面のそれぞれに触ると恐怖を示すことが確認された。ところが,アルバートちゃんは,その同じウサギやコートに自分から触ろうともしたのである。この最終テストの後は,実験を行った病院をアルバートちゃんが退院してしまったため,観察やテストは一切なされることがなかった。

T.ギロビッチ 守 一雄・守 秀子(訳) (1993). 人間この信じやすきもの—迷信・誤信はどうして生まれるか— 新曜社 pp.144-145
(Gilovich, T. (1991). How we know what isn’t so: The fallibility of human reason in everyday life. New York: Free Press.)

容易く正当化できる

 つまり,私たちの動機は,多くの証拠の中から都合の良いものを選ぶという気づかれにくいやり方をとおして,私たちの信念に影響を及ぼしているのである。そうしたやり方の中で,最も単純ではあるが,最も強力なもののひとつに,どんな証拠を捜すべきかについての質問そのものを利用する方法がある。私たちが何かを信じたいと考えたとき,関連する証拠にあたってみるわけであるが,その際,「どんな証拠がこの信念を支持するだろうか」と自問することになる。たとえば,「ケネディ大統領の暗殺はオズワルドの単独犯行ではない」という考えを信じたいと考えている場合には,「どんな証拠がCIAの陰謀説を支持するだろうか」と自問することになる。ここで,こうした質問それ自体が歪みを含んだものであることに注意していただきたい。こうした質問は,私たちの注意を肯定的な証拠に向けさせると同時に,自分が望む結論に反するような情報からは遠ざけるように働くからである。そしてほとんどの場合,質問を肯定する証拠が,少なくともいくつかは見つけられるものであるため,こうした質問を一方の側からだけすることによって,真実であって欲しいと思うことがらをたやすく正当化することができるのである。

T.ギロビッチ 守 一雄・守 秀子(訳) (1993). 人間この信じやすきもの—迷信・誤信はどうして生まれるか— 新曜社 pp.131-132
(Gilovich, T. (1991). How we know what isn’t so: The fallibility of human reason in everyday life. New York: Free Press.)

合致情報のみ印象に残る

 合致情報と非合致情報との違いには,重要な要因が関わっている。それは,ある信念や仮説を持っているとき,その信念や仮説に合致するできごとだけが印象に残りやすいということである。というのは,そうした合致情報は,そうした信念や仮説を思い起こさせるからである。占い師に見てもらった人が,あなたは双子の親になるだろうと言われたとしよう。何年も経ってから実際に双子が生まれたとすれば,その人の記憶から長い間忘れられていた予言が思い出されることはまちがいない。さらには,予言が現実のものとなったという事実は,その後も決して忘れられることはないであろう。これに対し,ふつうに単児が生まれた場合には,過去の予言が思い起こされる可能性はずっと少ないに違いない。出産はひとつの立派な「生起」事例であるが,単児の出産は予言との関わりからは「非生起」事例であり,予言が実現しなかったことが改めて思い起こされることにはなりにくい。しかも,単児の出産は予言が正しくなかったことの反証事例ではなく,予言の正しさが確認されなかったというだけのことにすぎない。なぜなら,予言された双子の出産は,次の妊娠でまだ起こる可能性があるからである。

T.ギロビッチ 守 一雄・守 秀子(訳) (1993). 人間この信じやすきもの—迷信・誤信はどうして生まれるか— 新曜社 pp.104-105
(Gilovich, T. (1991). How we know what isn’t so: The fallibility of human reason in everyday life. New York: Free Press.)

仮説生成と検証とは別

 しかし,だからといって,科学のすべてがそうした厳密な硬直した手続きで成り立っているわけではもちろんない。アイディア(仮説)を生み出す過程とアイディアを検証する仮定とは別ものであることに注意する必要がある。この区別は,科学哲学者が「発見のコンテキスト」と「正当化のコンテキスト」と呼び分けるものである。発見のコンテキストにおいては,日常生活と同様に,科学も「なんでもござれ」でよい。しかし,正当化のコンテキストにおいては,科学者はより慎重でなければならない。

T.ギロビッチ 守 一雄・守 秀子(訳) (1993). 人間この信じやすきもの—迷信・誤信はどうして生まれるか— 新曜社 pp.94
(Gilovich, T. (1991). How we know what isn’t so: The fallibility of human reason in everyday life. New York: Free Press.)

重要度を低下させる

 死刑の犯罪抑止効果についての研究や,ギャンブラーの心理についての研究から,自分自身の信念にとって都合の悪い情報を,私たちは思ったほど軽んじているわけではないことが示された。そうした情報は,自分自身の信念にできるだけ影響を及ぼさないように,巧みに取り扱われているのである。既存の考えに反する情報を単に無視するのではなく,私たちは,そうした情報を特に厳密に吟味するのである。そして,その結果,既存の考えに反する情報は,欠陥の多い考慮に値しないものと見なされたり,既存の考えにあまり影響を与えない種類の情報に変換されたりするのである。死刑廃止論者たちは,死刑の犯罪抑止効果を支持する調査例を,結局は欠陥だらけの意味のないものとみなした。また,ギャンブラーたちは,予想が外れたのは予想が困難だったからとするのではなく,もう少しうまい戦略をとりさえすれば当たったはずだと結論づけるのであった。

T.ギロビッチ 守 一雄・守 秀子(訳) (1993). 人間この信じやすきもの—迷信・誤信はどうして生まれるか— 新曜社 pp.90
(Gilovich, T. (1991). How we know what isn’t so: The fallibility of human reason in everyday life. New York: Free Press.)

bitFlyer ビットコインを始めるなら安心・安全な取引所で

Copyright ©  -- I'm Standing on the Shoulders of Giants. --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]