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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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自己成就的予言の限界例

 自己成就的予言の限界をよく示す例として,標準的な「囚人のジレンマ」ゲームを多数回繰り返す実験がある。ゲームの説明を聞いた後,参加者はこのゲームにどんな姿勢で望んだら良いかについての意見を述べるよう求められる。「協調者」と呼ばれるタイプの参加者は,このゲームのポイントは,もう1人の参加者と協力して,2人の利益の合計を最大にするよう努めることであると答えるだろう。一方,「競合者」と呼ばれるタイプの参加者は,もう1人の参加者と競い合って,自分の利益が最大になるようにすることがこのゲームの目的であると答えるであろう。
 実際にゲームを始めてみると,それぞれが予想していたゲームに対する態度が正しかったかどうかが,実感できることになる。ところが,協調者と競合者とでは,自分の抱いていた態度が肯定される度合いは大きく異なる。協調者の場合,もう一方も協調者の時は,互いにとって利益が上がる協調的な手が取り続けられることになる。しかし,競合者と組にされたときには,自分の被害を避けるためにも,競合的な手をとらざるをえなくなる。一方,競合者の場合には,常に破壊的な戦いになってしまう。もう一方も競合者の時は,すぐにゲームは血みどろの戦いとなる。そして,もう一方が協調者の時でも,こちら側の行為から,潜在的な協調者を自己防衛のための競合者に変えてしまうことになる。つまり,競合的な行為は,協調的な行為に比べ,相手側も同じ行為を取るようにさせやすいということである。そこで,競合者の持つ人間観「世界は利己主義者で満ちあふれている」は,ほとんど常に肯定されるのに対し,協調者の持つより曖昧な傾向は,肯定されにくいことになる。残念ながら,否定的な予言が当たってしまうことの方が多いのである。

T.ギロビッチ 守 一雄・守 秀子(訳) (1993). 人間この信じやすきもの—迷信・誤信はどうして生まれるか— 新曜社 pp.72-74
(Gilovich, T. (1991). How we know what isn’t so: The fallibility of human reason in everyday life. New York: Free Press.)
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選抜効果

 ところが,こうした比較の重要性を充分に認めたとしても,現実にはそれが不可能なことの方が多い。選択時の成績が合格点に達しなかった人は,その後実際に大学で勉強したり,会社で働いたりできないのだから,そうした不合格者のうちの何割かが,実際に成功者となりえたかは知りようがないのである。面接で悪い印象しか与えなかった者は仕事にありつけず,入試成績が低かった者は有名大学には入れない。研究費申請が受け入れられなかった研究者は,わずかな研究費だけでみじめな研究しか行えない。こうした「不合格」グループが,もし不合格にならなかったとしたときにどの程度成功したか,についての情報が得られないために,選択が正しかったかどうかの評価は,「合格者」グループが実際にどれくらい成功するかだけを基になされることになる。しかし,すでに見たとおり,この方法での比較は,正しい評価方法ではない。もし,もともと成功率が高い場合(つまり,選択時に基準以下の成績であった人々の中にも,多くの成功者が出てくるような場合)には,選択基準がその後の成功の予測にまったく無関係であっても,その選択基準が適切であったと誤った結論が出されることになってしまう。応募者の能力水準が高く,選択時のテスト成績とは無関係に,ほとんど全員が成功するような場合には,こうした誤った結論づけが特に起こりやすくなる。きわめて優秀な人々だけが応募してくる会社や大学や研究助成機関では,採用担当者は,彼らの決定結果がすべて成功に結びつくため,自分たちが用いている人事採用手続きや入学試験方法や研究助成方針が,きわめて効果的なものであると確信するに違いない。しかし,採用されなかった応募者がどういうことになったかを知りえない限り,こうした結論は不確実なものであると言わざるをえないのである。

T.ギロビッチ 守 一雄・守 秀子(訳) (1993). 人間この信じやすきもの—迷信・誤信はどうして生まれるか— 新曜社 pp.63-64
(Gilovich, T. (1991). How we know what isn’t so: The fallibility of human reason in everyday life. New York: Free Press.)

教師ゲーム

 こうした現象を見事に示してみせた実験研究がある。この実験は,参加者に教師の役割を演じてもらい,コンピュータが演ずる架空の生徒たちをほめたり,叱ったりするものであった。コンピュータが演ずる生徒は,毎朝8時20分から8時40分までの間に登校し,その登校時刻がディスプレイに表示される。教師は,生徒が8時30分までに登校してくるよう努めなければならない。生徒の登校時刻が表示されるごとに,参加者は,生徒をほめるか,叱るか,何もしないかのどれかを選択できる。そこで,生徒が8時30分より前に登校してきた時には,参加者は生徒をほめ,遅刻してきた時には叱るであろうと予想される。しかし,実際には,生徒の登校時刻は実験前にあらかじめ決められており,実験に参加した被験者がほめたり叱ったりしても,まったくその影響はない。それにもかかわらず,回帰効果があるために,生徒の登校時刻は,遅刻して叱られた後では向上し(つまり,平均の8時30分の方に回帰し),早く登校してほめられた後では悪くなる(つまり,ここでも平均の8時30分の方に回帰する)ことになる。さて,こうした実験の結果,参加者の7割が「叱ることの方が誉めることよりも登校時刻を守らせる効果がある」という結論を出した。回帰によって生じた,ほめることと叱ることの見かけの効果にだまされてしまったのである。

T.ギロビッチ 守 一雄・守 秀子(訳) (1993). 人間この信じやすきもの—迷信・誤信はどうして生まれるか— 新曜社 pp.44
(Gilovich, T. (1991). How we know what isn’t so: The fallibility of human reason in everyday life. New York: Free Press.)

回帰の誤謬

 回帰の概念を本当に理解できていないときに人々が直面する2つの問題点のうちのもうひとつは,「回帰の誤謬」として知られている。回帰の誤謬というのは,単なる統計学的な回帰現象にすぎないものに対して,複雑な因果関係を想定したりして余計な「説明」をしてしまうことを言う。素晴らしい成績の後,成績が落ち込むと怠けたせいであるとされたり,反対に,凶悪犯罪が頻発した後で犯罪件数の減少が見られると,新しい法律の施行が効を奏したためと考えられたりすることである。回帰の誤謬は,偏りの錯誤と似たところがある。どちらも,偶然に生じたできごとに人々が余計な意味づけをしてしまう現象だからである。統計学的な回帰の結果生じたにすぎない現象に,無理な説明づけをしようとするあまり,間違った信念が形成されることにさえなってしまう。

T.ギロビッチ 守 一雄・守 秀子(訳) (1993). 人間この信じやすきもの—迷信・誤信はどうして生まれるか— 新曜社 pp.41-42
(Gilovich, T. (1991). How we know what isn’t so: The fallibility of human reason in everyday life. New York: Free Press.)

波に乗ったように思えるのは

 「波に乗る」という現象が信じられていることの第2の説明は,ハッキリとした先入観を持っていないような場合でさえ,ある種の基本的プロセスによって,データが間違って解釈される可能性があるとするものである。人は,偶然によるできごとがどのようなものであるかについて,間違った直観をもっていることが心理学者によって明らかにされている。たとえば,投げ上げたコインの裏表の出方は,一般に考えられているよりも裏や表が連続しやすい。そこで,裏表が交互に出やすいものだという直観に比べて,真にランダムな系列は,連続が起こりすぎているように見えることになる。コインの表が4回も5回も6回も連続して出ると,コインの裏表がランダムに出ていないように感じてしまう。しかし,コインを20回投げたとき,表が4回連続して出る確率は50%であり,5回連続することも25%の確率で起こりうる。表が6回連続する確率も10%はある。平均的なバスケットボールの選手は,ほぼ50%のショット成功率なので,1試合の間に20本のショットを試みるとすれば(実際,多くの選手はこれくらいショットを試みる),あたかも「波に乗った」かのように,4本連続や,5本連続,あるいは6本連続でショットを決めるようなことは偶然でも十分起こりうることなのである。

T.ギロビッチ 守 一雄・守 秀子(訳) (1993). 人間この信じやすきもの—迷信・誤信はどうして生まれるか— 新曜社 pp.23-24
(Gilovich, T. (1991). How we know what isn’t so: The fallibility of human reason in everyday life. New York: Free Press.)

犯罪を犯すためにその専門家になったのではない

 公正さの法的追及に関係する様々なグループの利害を考える際に,ほとんどの専門家は不法行為や犯罪に関係するためにその仕事を選んだのではない,ということを覚えておくべきである。ずさんな仕事をするために働くことなどない。彼らの行為は,その時点で受けていたプレッシャーと目標の下でこそ,道理に適っている。彼らの行為は複雑な技術システムによって,その只中で生まれた通常業務そのものである。専門職の人々はなすべき仕事をしよう,よい仕事をしようといている。生命を奪おう,障害を与えようといった動機は持っていない。全く逆である。

シドニー・デッカー 芳賀 繁(監訳) (2009). ヒューマンエラーは裁けるか—安全で公正な文化を築くには— 東京大学出版会 pp.200
(Dekker, S. (2008). Just Culture: Balancing Safety and Accountability. Farnham, UK: Ashgate Publishing.)

自白の重視

 ほとんどの国で容疑者の宣誓証言は法廷で証拠として採用される。興味深いことに,裁判所は自白に対してかなりの程度,あるいは全面的な関心を示す。否認は概して説得力がないようだが,容疑者が「罪」を告白すると,それは有罪判決に十分な証拠となり得る。他の証拠は必要とされないくらいである。
 それによって何が起きるかというと,警察あるいは調査機関が時として容疑者がある特定の事柄を思い出す「手伝い」をしようとし,あるいはある特定の言い回しでそれを証言させようとすることである。加えて,国によっては,裁判所は尋問記録の要約のみを検討する。それは検察が被疑者を実際に取り調べてから難か月も後に作成された可能性があり,被疑者が言いたかったことと,裁判官もしくは陪審団が記録から読み取ったものとの隔たりは極めて大きくなる。
 このために,被疑者が自分はカフカ的不条理のプロセスに捕らえられていると感じても不思議はない。彼らは自分が知らないか理解していないことで告発されている。なぜならば,彼らは自分の世界,自分の専門知識を作りあげている言語とは全く異なる言語の中に放り込まれたのだから。

シドニー・デッカー 芳賀 繁(監訳) (2009). ヒューマンエラーは裁けるか—安全で公正な文化を築くには— 東京大学出版会 pp.187-188
(Dekker, S. (2008). Just Culture: Balancing Safety and Accountability. Farnham, UK: Ashgate Publishing.)

エラーの犯罪化がもたらすもの

 専門家集団の内外にいる多くの人は,ヒューマンエラーが犯罪として扱われる傾向をやっかいなことであるとみなしている。もし,裁判が社会に奉仕するために存在するなら,ヒューマンエラーを訴追することは,極めて根本的な部分でその足かせになるだろう。長期にわたって,エラーを犯罪,あるいは有責の過失として扱った場合,安全の仕組みは脆弱になるだろう。エラーを犯罪化したり,民事賠償を求めたりすると、次のようなことを生み出す。

・安全に関わる調査の独立性を損なう。
・安全と危険が紙一重である業務に就いている人々に、注意深く仕事をする意識よりもおそれを植えつける。
・組織は、業務そのものに注意深くなるよりも、文書記録を残すことに対して注意深くなる。
・当事者からの証言が得られにくくなることによって、安全監査官の仕事がやりづらくなるし,報告書には検察官の関心を惹かないように配慮された文章が並ぶことになる。
・公正や安全に寄与しない司法手続きに費用がかかることによって、税金が浪費される。
・金銭的な賠償よりも、当事者の謝罪や、人が傷ついたことについての認識を求める被害者の願いを無視することになる。
・真実を語ることをためらわせ,その代わりに,専門家仲間のかばい合いや言い逃れ,自己防衛を助長する。

シドニー・デッカー 芳賀 繁(監訳) (2009). ヒューマンエラーは裁けるか—安全で公正な文化を築くには— 東京大学出版会 pp.176-177
(Dekker, S. (2008). Just Culture: Balancing Safety and Accountability. Farnham, UK: Ashgate Publishing.)

複雑な原因には対応できない

 司法手続きの核心は,責任を1人または少数の人が取った2,3の行為に絞り込むことにある。しかし,それゆえに,複雑でダイナミックな今日のシステムにおける事故原因にたどり着くことができなくなる。基本的に安全なシステムを崩壊へと突き落とすためには,必要条件ではあるが十分条件ではない。複雑な出来事に関する司法手続きは論理上「公正」にはなり得ない。

シドニー・デッカー 芳賀 繁(監訳) (2009). ヒューマンエラーは裁けるか—安全で公正な文化を築くには— 東京大学出版会 pp.169
(Dekker, S. (2008). Just Culture: Balancing Safety and Accountability. Farnham, UK: Ashgate Publishing.)

ヒューマンエラーと犯罪

 しかし,ヒューマンエラーを犯罪として扱うことによって司法制度の根本的な目的が促進されるという根拠は何もない。そもそも裁判の根本的な目的とは,犯罪予防や懲罰を科すこと,更生させることであって,何が起こったかに対する「真実」を説明することでもなければ,「公正」を提供することでもない。

・実務者を逮捕し,判決を言い渡すことで,他の実務者がより注意深くなるという考え方は,おそらく見当違いである。実務者は,自分が何をしたかということを公にすることにより慎重になるだけである。
・犯人を更生させるという司法の目的は,この問題には適用できない。なぜならば,パイロットや看護師,航空管制官などはそもそも自分の仕事をただ行っていただけであるため,更生させられる余地はほとんどないと言えるからである。
・そもそも,その行動(調剤や離陸の許可)によって有罪判決を受けた専門家を更生させるためのプログラムがない。

 裁判によるヒューマンエラーの犯罪化は税金の無駄使いであるばかりでなく(その税金は安全性向上のために使えたはず),司法システムが守ろうとしている社会の利益を損なうことになる。実際に,再発防止のためには別のアプローチのほうが,はるかに効果的である。

シドニー・デッカー 芳賀 繁(監訳) (2009). ヒューマンエラーは裁けるか—安全で公正な文化を築くには— 東京大学出版会 pp.166-167
(Dekker, S. (2008). Just Culture: Balancing Safety and Accountability. Farnham, UK: Ashgate Publishing.)

相手の目を通して見よ

 ジャン・ラスムッセンは,私たちが自分自身(もしくは検察官)に「どうして彼らはあんなにも不注意で無謀で,無責任になり得たのか?」と尋ねるのは,当該の人々が奇妙な振る舞いをしたためではないと指摘する。それは,彼らの行動を理解する際に,誤った枠組みを適用しているからである。人々の行動を理解し,その行動が適切だったかどうかを判断するために必要な枠組みとは,彼ら自身の通常の業務文脈である。なぜなら,その文脈の中に彼らははめ込まれているからだ。その視点から見れば,意思決定や判断は適切であり,正常で,日常的で,当たり前で,想定内のものとなる。もし人々がリスクを正しく見越していたかどうかを本当に知りたいならば,結果の知識や,後で重大であったことがはっきりとわかった一片のデータなしで,当時の彼らの目を通して世界を見るべきである。しかし,それはなかなか難しい。

シドニー・デッカー 芳賀 繁(監訳) (2009). ヒューマンエラーは裁けるか—安全で公正な文化を築くには— 東京大学出版会 pp.125
(Dekker, S. (2008). Just Culture: Balancing Safety and Accountability. Farnham, UK: Ashgate Publishing.)

後知恵が生み出すバイアス

 後知恵は次のようなバイアスを生む。

・因果関係を簡略化しすぎる(「これがあれにつながった」と)。なぜなら,私たちは結果と理由からさかのぼって,一見それらしい原因を推定することができるからである。
・結果の見込み(とそれを予見する能力)を過大評価する。なぜなら,私たちはすでに自分の手の中に結果をつかんでいるからである。
・規則や手続きに対する「違反」を過大評価する。マニュアルと実際の活動の間には,常にギャップがある(そしてこれはめったにトラブルにつながらない)のだが,私たちが悪い結果を見てから振り返って理由を考えると,そのギャップは重大な原因とみなされる。
・当事者に与えられた情報の,その時点での重要性,関連性を誤判断する。
・結果の前に行った行動と結果とをつり合わせる。もし結果が悪ければ,それをもたらした行動も悪いものだったに違いないと考える。すなわち,チャンスを逃した,見通しが悪かった,判断ミスや見真違いをした,などと。

シドニー・デッカー 芳賀 繁(監訳) (2009). ヒューマンエラーは裁けるか—安全で公正な文化を築くには— 東京大学出版会 pp.116
(Dekker, S. (2008). Just Culture: Balancing Safety and Accountability. Farnham, UK: Ashgate Publishing.)

後知恵バイアスの影響

 結果が悪かったと知ることは,私たちがその結果をもたらした行動をどのように見るかに影響する。私たちは失敗を探そうとする傾向を強める。あるいは過失責任までも探そうとする。私たちは「許されるもの」として行動を見ようとしなくなる。結果が悪くなればなるほど,多くの失敗が目につき,関係者が説明しなければならない様々な事柄を発見する。それは以下の理由による。

・事故後,特に(患者の死亡や滑走路上での大破を伴うような)大事故後には,当事者がいつどこで失敗したのか,何をすべきであったのか,何を避けるべきであったのかを見つけるのは簡単である。
・後知恵を使って,重大だと判明したデータについて,当事者が「これに気づくべきであった」と判断することは容易である。
・後知恵を使って,人々が予見し防ぐべき被害をはっきりと見つけることは容易である。その被害はすでに起きているのだから。このため,人の行動は容易に「過失」の基準に到達する。
・後知恵で責任追及することは非生産的である。外科医同様,他の専門職も組織も悪い結果の説明を可能にする方法に力を入れるだろう。より官僚的になり,こまごました文書を作成し,防衛医療に走るだろう。このような対応は,実際に業務を安全にすることにはほとんど何も寄与しない。
・後知恵バイアスは心理学の定説であるにもかかわらず,インシデント・レポートも司法の手続きも(ともに説明責任に関係のあるシステムなのだが),後知恵バイアスに対して基本的には全く無防備である。

シドニー・デッカー 芳賀 繁(監訳) (2009). ヒューマンエラーは裁けるか—安全で公正な文化を築くには— 東京大学出版会 pp.114-115
(Dekker, S. (2008). Just Culture: Balancing Safety and Accountability. Farnham, UK: Ashgate Publishing.)

失敗が姿を変えると

 ナンシー・ベリンジャーは,医学教育の「隠れたカリキュラム」がどのように働いているかについて述べている。隠れたカリキュラムとは,公式のプログラムと平行して必ず自然発生的に生じる,非公式の徒弟教育である。そこで学生や研修医は,多くは実例を通して,自分自身や同僚の失敗についてどのように考え,人に話すかということを教わる。たとえば,「失敗」に対してどのように記述すると,それがもはや「失敗」ではなくなるかを学ぶ。失敗は以下のようなものに姿を変える。

・「合併症」
・「指示を守らない」患者のせいで
・「明らかに回避不可能な事故」
・「稀に発生する,不可避かつ遺憾な出来事」
・「通常は害のない手順がもたらした,不運な合併症」


シドニー・デッカー 芳賀 繁(監訳) (2009). ヒューマンエラーは裁けるか—安全で公正な文化を築くには— 東京大学出版会 pp.91-92
(Dekker, S. (2008). Just Culture: Balancing Safety and Accountability. Farnham, UK: Ashgate Publishing.)

被害者が出にくい詐欺

 学位商法は,オレオレ詐欺など他の悪徳商法と違って,被害者が出にくい詐欺である。まずは,被害者が学位を取得し受益者になるので,騙されていることに気づかない。どこか変だと思っても,「日本とアメリカは違う」,「アメリカの大学ではそうなっている」,「アメリカでは通じる」,と言われ,そう信じてしまう。たとえ,黙されたことに気づいても,自分の学歴が偽物であることが周囲にわかってしまうので,人には言えないので沈黙し続けるしかない。

小島 茂 (2007). 学歴汚染:日本型学位商法の衝撃 展望社 pp.195-196

ディプロマ・ミルがよく使う手

 すでに述べたように,アメリカの大学は,州の認可を受け,同時に,高等教育基準認定協議会のお墨付きの認定団体からアクレディテーションを受けないと非認定大学となる。
 ディプロマ・ミルは,もちろんそうした認定団体から基準認定を受けることができないため,代わりに,以下の手口をよく使う。

 (1)偽の認定団体(アクレディテーション・ミル)を作って認定を偽装する
 (2)アメリカでは基準認定されていると偽証する
 (3)accreditation(基準認定)以外の,incorporation(設置認可),approval(学位授与),authorization(設置認可),certification(資格認定)など似た言葉を巧みに使って認定されているように思い込ませる

小島 茂 (2007). 学歴汚染:日本型学位商法の衝撃 展望社 p.109

信用があるように見せる

 ディプロマ・ミルの生命線はいかに信用があるように見せられるかという点にある。そのための手口の1つが,名の知られた諸機関とあたかも関係があるように見せかけることである。
 ところが,国際諸機関の中には,応募すれば,だれでもどの機関でも,受け入れるところが少なくない。くだんのユネスコも申し込めばだれも自由に参加でき,資格のチェックもない。非認定大学やディプロマ・ミルも会員になっている。こうしたことを知らない人は,ユネスコと関係があるのだからと,ついつい信用してしまう可能性がある。しかし。オレゴン州はユネスコの大学リストを信頼できないと述べている。

小島 茂 (2007). 学歴汚染:日本型学位商法の衝撃 展望社 p.74

ディプロマ・ミルの条件

 ディプロマ・ミルは非認定大学であるが,非認定大学がすべてディプロマ・ミルというわけではない。ディプロマ・ミルを見分ける方法として,「インターネットでMBA・博士号を取る」(日経BP社)で,著者の笠木恵司氏は,以下の2点をあげている。

 (1)その大学の取得単位数が他の大学で互換できるか?
 (2)その学士号で他の大学院に進学できるか?

 私は大学教員であることもあって,さらに,

 (3)その博士号で他のアメリカの大学(認定大学)に教員として採用されるか?


小島 茂 (2007). 学歴汚染:日本型学位商法の衝撃 展望社 pp.22-23

いじめとネットワーク現象

 「ぼくは,自分自身がハブだということにもう気づいたかな?」
 「僕が,ハブ?」食べかけのコアラが喉に詰まってケンタはむせた。
 「わしが教えたネットワークの3つの性質を思い出してごらん」
 「えーと,大きくて小さい,中国の蝶がアメリカで竜巻を起こす。モテる者がますますモテるようになる……」
 「それはそのまま学校にも当てはまるじゃろう」博士は言った「学校では,ささいなウソがすぐに広まる。ちょっとした出来事が大きな騒動につながる。そしていちどいじめの標的に選ばれると,フィードバック効果によって,クラス全員の憎悪と暴力を1人で受け止めることになる。これはまさに,ぼくが体験したことではないのかね?」
 ネットワーク理論におけるフィードバックは,成功した企業や大富豪など,常にポジティブな事例でしか語られない。だがフィードバックは,あらゆる方向に作用する。いじめが典型的なネットワーク現象なのは,ひとたびマイナスのレッテルを貼られると,憎悪のリンクがまたたくまに増殖していくことからも明らかだ。いじめの標的はクラスに1人しかいらない。なんらかの偶然でその1人に選ばれれば,もはやそこから逃れる術はない。

橘玲 (2007). 亜玖夢博士の経済入門 文藝春秋 p.113

スナックの始まり

 とりあえずやったわけ。それで,上野広小路で「宝石」っていうスナックを作ったの。ただ,当時はスナックって言葉がなかったの。『小さなスナック』ってのは,そのちょっとあとに流行ったのね。なぜそうなったかというと,昭和39年に東京オリンピックをやるにあたって,それまでの東京はバーでも喫茶店でも24時間営業してよかったんだけど,深夜営業を禁止するという禁止条例が出て,食事を出してるレストラン系統だけ夜中やっていいということになったの。そうすると,(夜中)やるにあたっては,お茶漬けだとかなにか出さないといけない。それがスナックの走りだったの。

玉袋筋太郎 (2010). 絶滅危惧種見聞録 廣済堂出版 pp.225

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