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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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消えた小人たち

 プロレスのリングだけでなく一時はテレビのバラエティーでも彼らの姿を見ることが出来た。
 ドリフの『8時だヨ!全員集合』のコントの中に突如として現れる小さな男。
 子供心に最高にインパクトがあった!ときにはドリフの笑いよりも,会場のちびっ子達の笑いをとっていた。

 しかし,いつの日からか,ドリフのコントからあの人達が消えていった。
 先日,加藤茶さんとテレビの収録の合間にお話をしたとき,当時の全員集合の笑いのコードについて加藤さんは言った。
 「あのころはさ,面白かったんだよ。うちの番組でも小人レスラー使ってたの,海坊主。もう,出てきただけでみんな爆笑でさ,それが出られなくなっちゃったんだよ。もったいないよなぁ。本人達も客席が沸くから喜んで出てたんだよ。だけど事情があって出れなくなった。もう見れなくなっちゃったんだよな」
 どういう事情かはここで書く必要もないが,とにかくきえちゃったんだよな,あの人達。

玉袋筋太郎 (2010). 絶滅危惧種見聞録 廣済堂出版 pp.157-158
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連帯感によるミラーニューロンの活性化

 スキャンの当日,被験者はただ顔を見ることだけを求められ,そのあいだの脳活動がfMRIで測定された。結果は,私が自分の仮説から予測していたとおりのものだった。被験者の脳内のミラーリングが表すものの1つに,人間社会全体という大きなコミュニティの内部にある特定のコミュニティへの連帯感や帰属感があるだろうという仮説である。政治通の被験者のミラーニューロン領域は,政治家でない有名人や知らない人物を見ているときよりも,政治家を見ているときに最も活性が高まっていた政治初心者のミラーニューロン領域は,政治家を見ているときも政治家でない人物を見ているときも,なんら活性に変化がなかった。この政治通の被験者から得られた結果を,第4章ので述べた,感情的な表情の観察と模倣に関する以前の調査結果を比べてみたところ,活性化している場所が驚くほど一致していることがわかった。この解剖学的一致から言えるのは,私がこれらの活性化の基盤として仮定していた抽象度の高いミラーリング——特定のコミュニティへの帰属感——においても,ミラーニューロンシステムは基本的な神経機構,つまり,もっと日常的なミラーリング課題でも活性化する神経機構を使っているということだ。

マルコ・イアコボーニ 塩原通緒(訳) (2009). ミラーニューロンの発見:「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 早川書房 pp.305-306

言語報告と知覚の断絶

 最近の研究でも,言葉による報告と知覚とのあいだに劇的な断絶があることが実証された。2つの女性の顔の魅力度を査定するよう求められた男性被験者が,写真だけを基準にして,より魅力的な方の顔を選ぶ。選択が終わると,すぐに写真は回収される。数秒後,被験者は2枚の写真のうちの1枚を見せられ,なぜこの顔のほうが魅力的なのかを説明させられる。この実験のトリックは,ときどきこの質問のときに,被験者が選ばなかったほうの写真を見せられることだ。つまり,魅力度が低いと見なされた女性の写真が提示されるのである。選ばなかった写真を見せられた被験者はすぐに自分がだまされていることに気づくだろうと思うかもしれないが,驚くべきことに,操作されたテストに気づくのはたった10パーセントなのである。つまり10人に1人!いまではこの現象に選択盲という名称がつけられている。ことほどさように,私たち人間は自分で選択したものが見えなくなってしまうらしい。この実験結果は,人間が完全に自分の決定をコントロールできる合理的な意思決定者であるという考えと明らかに食い違う。そしてどう言っていいかわからないことに,被験者はトリックに気がづかないと,その選ばなかった顔がどうして魅力度が高いかについて,いかにももっともらしい理由を説明しだす。実際,彼らが本当に選んだ顔についての説明と,取り替えられた顔についての説明に,実質的な違いはほとんどないのだ。あるいは被験者が自分の間違いに気づいていながら,恥ずかしいから黙っていることにしたという可能性はあるだろうか?おそらくない。実際,被験者は自分がだまされたと気づいたとたん,実験全体を疑うようになるので,次のテストは分析から外さなければならなくなる。
 こうした事実をつきつけられては,私たちの意思決定についての言葉による報告をどうしてうのみにできようか?そこで出てきたのがニューロマーケティングといって,人間の行動をもっと正しく理解し,予測するのに,神経科学を使おうという考えである。脳撮像を社会の様々な局面に適用する時機がいよいよ熟したということだ。行動に関連した神経機構についての知識はたいへんな勢いで増えている。脳スキャナーも以前よりずっと利用しやすくなっている。これを使って脳の活動を調べれば,人間が決断を下すとき,何を買うかを決めるとき,実際に何が起こっているかをずっと正確に把握できる。

マルコ・イアコボーニ 塩原通緒(訳) (2009). ミラーニューロンの発見:「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 早川書房 pp.270-271

研究上の限界

 要するに,さまざまなテクノロジーはそれぞれ別種の調査に役立つものであり,どのテクノロジーもそれぞれ独自の要因によって制限を受けている。実施上の要因,管理上の要因,金銭上の要因,あるいは倫理上の要因なのである。サルを使った研究では,細胞単位での研究からアンサンブルでの研究には容易に移行できなかったし,逆に人間を使った研究では,本当に中途半端な状態にとらわれてきたのだ。数々の難問を前に,私たちが壁を打破してすべてをつなぎあわせるには推論しか主たる手段がなく,その推論にしろ,有益で必要なものではあるが決して完璧なツールではない。現存する種の中で最も私たちに近い親戚であるチンパンジーを研究するときでさえ,推論だけでは不十分だ。ましてやマカクは,進化の系統図の中でチンパンジーや人間よりも数段階は下にいる。残念ながら,このギャップを埋めるために私たちにできることはほとんどない。進化のプロセスは変えられないし,また,人間や大型ザルへの過剰に侵襲的な科学調査をさせない配慮について意見を変えるつもりも毛頭ない。この件に関して意見を変えるような社会なら,私はそこに住みたくない。

マルコ・イアコボーニ 塩原通緒(訳) (2009). ミラーニューロンの発見:「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 早川書房 pp.227

顔面フィードバック仮説

 エドガー・アラン・ポーは有名な短編小説「盗まれた手紙」において,主人公の探偵オーギュスト・デュパンの台詞の中にこんな文章を入れている。「僕はある人がどれだけ賢いか,どれほど愚かか,どれほど善人か,どれほど悪人か,あるいはその人がいまなにを考えているかを知りたいとき,自分の表情をできるだけその人の表情とそっくりに作るんだ。そうすると,やがてその表情と釣り合うような,一致するような考えやら感情やらが,頭だか心だかに浮かんでくるから,それが見えるのを待っているのさ」。なんという驚くべき先見性!これは作家としても,自分の作った登場人物の内面に踏み入る最良の方法だったろう。しかし,ポーだけがそれを見抜いていたわけでもない。感情についての科学文献においても,顔の筋肉組織の変化によって感情的な経験が形成されるとする理論——現在で言う「顔面フィードバック仮説」——は長い歴史をもっている。チャールズ・ダーウィンとウィリアム・ジェームズは,それに類する記述を最初に残した人々の一員である(ポーの作品はこの2人の著作より数十年前のものではあるが)。ダーウィンはこう書いている。「感情を表に出すことによる自由な表現は,その感情を増幅する。一方,感情をできるだけ表に出さないよう抑制することで,その感情は和らげられる」。ジェームズに言わせれば,この現象は「最も厳密な意味で,私たちの内面が肉体の枠に結び合わされていること」を意味している。
 多数の実証的証拠が顔面フィードバック仮説を裏づけており,この仮説がまた,私たちのミラーニューロンについての調査と非常によく一致している。ただ見ているだけの別人の表情を,あたかも私たち自身が浮かべているかのようにミラーニューロンが発火することで,シミュレートされた顔面のフィードバックのメカニズムが実現する。このシミュレーション過程は,努力して意図的に他人の身になったふりをするものではない。苦もなく,自動的に,無意識のうちに行われる脳内ミラーリングである。

マルコ・イアコボーニ 塩原通緒(訳) (2009). ミラーニューロンの発見:「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 早川書房 pp.150-152

音声知覚に必要なもの

 数年前,エール大学ハスキンス研究所のアルヴィン・リバーマンらが,テキストを音声に変換する装置を開発しようと試みた。戦争で視力を失った退役軍人が本や雑誌を「読める」ようにするのが目的だったが,残念なことに,できあがった装置から発せられる音を退役軍人たちはなかなか聞き取れなかった。その知覚の遅さは耐えがたいほどで,人間の生の音声をゆがめたものを聞き取るよりずっと遅いぐらいだった。この観察結果から,エール大学のチームは発話の音声知覚に関する1つの仮説を提出した。発話音は音として理解されるというよりも,むしろ「調音ジェスチャー」として理解される——つまり,話すのに必要な意図された運動計画として理解されるというのである。この「音声知覚の運動指令説」が言っていることは要するに,私たちの脳は話をしている自分自身をシミュレートする(!)ことによって他人の発する音声を知覚している,ということである。

マルコ・イアコボーニ 塩原通緒(訳) (2009). ミラーニューロンの発見:「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 早川書房 pp.131-132

模倣と相互作用による調整

 面と向かっての会話には,また別のかたちの模倣と相互作用による調整がある。言葉の意味も話す順番も自動的に了解されるが,ここでは同時に起こる身ぶり,視線の方向,体の回転などが,話されていることを理解するするのにとても重要な助けとなる。これらの言葉によらないコミュニケーションは,あっというまに様式化する。対話の中では互いが互いを終始見つめているように感じるかもしれないが,自然発生的な会話を録画したテープを詳細に分析してみると,じつは話し手が話し出したときに,聞き手が話し手の目を見ていることはほとんどない。その直後,聞き手はちらりと話し手の目を見る。この互いに目が合った瞬間に,たいてい話し手は言いかけていた文章を中断して,新たな文章を話しはじめる。それはあたかも,聞き手が相手の目をまっすぐ見ることにより,こう保証しているかのようである。「どうぞお先に。あなたが話す番だから邪魔はしないよ(とりあえず数秒は……)」
 簡単に言えば,会話の中の言葉と行動はどちらも共通の目標をもった組織的な協調活動の一部であり,この対話のダンスは私たちにとって自然でもあり容易でもある。だが,どちらについても伝統的な言語学ではほとんど研究されていない。さらに言うなら,こうしたダンスはまさしく,ミラーニューロンが模倣を通じて促進する社会的相互作用の一種でもある。

マルコ・イアコボーニ 塩原通緒(訳) (2009). ミラーニューロンの発見:「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 早川書房 pp.125-126

手と口の連動

 この手と口は,発達初期に「対等」な関係で連動するのだろうか。それともなんらかの証拠から,発達上どちらかが主で,どちらかが従だと言えるのだろうか(さらに個体発生が系統発生を繰り返すとの説にならえば進化上においても)。いつは,その証拠らしきものはすでに見ている。幼い子供が言葉と身ぶりに食い違いを示すとき,一般には言葉よりも身ぶりの方が進んだ概念を表しているのである。発達のもっと早い段階で見ると,片言しゃべりの75パーセントがリズミカルな手の活動と同時発生しているのに対し,リズミカルな手の運動は約40パーセントが片言しゃべりと同時発生している。この数字は,口よりも手のほうが早く自立することを示している。そしてなにより重要なのは,赤ん坊が最初の言葉を発する前から意思伝達のための身ぶりを用いていることだ。指をさすのもこの早熟な身ぶりの1つだし,両手をバタバタさせて鳥を示す「アイコン」としての身ぶりさえ見受けられる。前に述べたようなミラーニューロンとアイコンとしての身ぶりとの関係を考えれば,発達の非常に早い段階からアイコンとしての身ぶりが用いられるということは,ミラーニューロンが言語の発達と言語の進化にとってきわめて重要な脳細胞であるという仮説にもいっそうの信憑性が出てくると言えよう。

マルコ・イアコボーニ 塩原通緒(訳) (2009). ミラーニューロンの発見:「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 早川書房 pp.111-112

『心を読む』こと

 私はつねづね,この他人の心を理解する仕組みのモデルはあまりに複雑にすぎると思っていた。それに,まあ当然ではあるだろうが,この説を提唱する人々(もちろん学者のこと)の一般的な思考様式に,この説明自体が瓜二つなのもいただけない。私が理論説に疑念を抱くのは,わたしたちが他人の心理状態をほとんど淀みなく,とくに深く考える必要もなしに理解しているのをこの目で観察してきているからだ。私たちがもっとずっと単純な,はるかに労力の少ない方法で仲間の心理状態を理解できるようにと,自然はそう取り計らってきたのではないか——こんな考えをセミナーなどで紹介したいときに私がよく使うのは,<ハリー・ポッター>シリーズの第5巻,『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』に出てくるハリーとセブルス・スネイプ教授の会話である。(おそらくほとんどの親と同じく,私のこのシリーズを娘の命令で読みはじめたものの,すぐに自ら夢中になってしまった)。この場面では,じつにいやらしい魔法使いであるヴォルデモート卿が,自分の悪の計画に利用するための重要な情報を得ようとして,ハリーの心の中に入り込まんとしている。一方,スネイプ教授はハリーに「閉心術」なるものを教えることになっている。読んで字のごとく,他人が自分の心の中に入り込むのを阻止できるようにする術だ。
 「闇の帝王は……他人の心の中から感情や記憶を引き出す技術に非常に長けている」
 ハリーはびっくりして,興奮した声で言う。「彼は心が読めるのですか?」
 「きみには機微というものがないのかね,ポッター……『心を読む』なんて言うのはマグルだけだよ。心は本ではないのだ」
 私は決してスネイプが好きではないが,彼のハリーへの返答は,他人の心の理解についての私の見解をみごとにまとめてくれていると言わざるを得ない。そう,心は本ではないのだ。私たちは他人の心を「読んで」いるのではないと思うし,こういうプロセスをどう捉えるかについての先入観がすでに含まれているような言葉を使うのはやめるべきだと思う。たしかに私たちは世界を読み解いているが,決して他人の心を——この言葉が使われる通常の意味では——読んでいない。

マルコ・イアコボーニ 塩原通緒(訳) (2009). ミラーニューロンの発見:「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 早川書房 pp.94-96

模倣の影響の大きさ

 模倣は人間の行動形成にとても強い影響を及ぼす。私たちは全員それを肝に銘じておくべきだ——とくに,まだ幼い子供がいる身なら。私の知るかぎり,人はたいてい自分の子供に正しいことを言う。かんしゃくを起こしてはいけない,つねに他人の身になって考えよ,等々。だが,はたして私たちは自分の言うことを実行しているだろうか?私はときに,自分の娘にしてはいけないと言っている行動をそっくり娘にしてみせていたりするのだ!そのような場合,私はふと怖くなる。私がしなさいと言っていることではなく,私が実際にしていることばかりを娘が取り入れてしまうのではないかと思うからだ。なにしろ子供の脳は,模倣を通じて他人から行動を取り入れることに非常に長けているのである(子どもが成長するにつれ,そうした模倣はしだいに複雑になり,前に述べたような乳幼児に見られる基本的な物真似とはまったく比較にならなくなる。さらに,このあと述べる少し大きくなった幼児の模倣行動に比べても,やはりずっと複雑である。こうした「高度」で複雑なかたちの模倣については,追って詳しく述べることにする)。

マルコ・イアコボーニ 塩原通緒(訳) (2009). ミラーニューロンの発見:「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 早川書房 pp.83-84

赤ん坊の模倣

 1970年代,アメリカの心理学者アンドルー・メルツォフは発達心理学に一種の革命を起こした。生まれたばかりの赤ん坊がごく簡単な手ぶりや顔の表情を本能的に模倣することを実証したのである。メルツォフがテストした新生児の中で最も幼かったのは,生後わずか41分の赤ん坊だった。生まれてから絶えず記録をとっていたので,メルツォフがこの実験で演じてみせた身振りを赤ん坊が事前に見ていないことは確実だった。それでも赤ん坊は身ぶりを模倣できたのである。したがって,新生児の脳にはこうした初歩的な模倣行動をやらせることのできる生まれつきのメカニズムが存在しているに違いない,とメルツォフは結論した。この実験結果が革命的だったのは,それまで赤ん坊は生後2年目から模倣を学習するようになるとの見方が支配的だったためである。この考えはもともとジャン・ピアジェの研究から広まったもので,ピアジェといえば,発達心理学の分野で史上最も影響力のある人物と目される存在だった。要するに,ピアジェ派は赤ん坊が「模倣を学習する」と暗に言っていたわけだが,メルツォフのデータを解釈すれば,赤ん坊は逆に「模倣によって学習する」ことになるのだ。

マルコ・イアコボーニ 塩原通緒(訳) (2009). ミラーニューロンの発見:「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 早川書房 pp.66-67

イモ洗いは模倣ではない

 「イモ洗い」をするニホンザルの例を考えてみよう。この行動はある早熟の個体から始まって,やがて群れ全体に広まったと見られている。当初,これはサルが新しい行動を模倣できる証拠であると見なされたが,ついで,この行動は模倣学習の厳密な定義にあわないのではないかという反論が出された。より厳しい基準にしたがえば,模倣学習には自分の運動レパートリーになかった新しい動きを実行している他者を観察し,その観察によって新しい動きを学習することが必要になる。一方,サルの「イモ洗い」行動はこのような説明も可能となる。最初のサルがイモを洗っているあいだ,それを観察しているサルの注意は水に向けられる(この場合の水を強化刺激という)。そして次回,観察していたサルがイモを手にして水に近づき,水中でイモをいじくっているあいだに働いた単純な試行錯誤メカニズムが,サルにイモの洗い方を学習させたのではあるまいか。それなら模倣学習とは見なされない。模倣学習はもっと高位の学習方法なのである。イモ洗いの習慣が一般に予想されるほど急速に広まらなかったことを考えると,むしろこちらの保守的な説明のほうが正しいようにも思える。この事例や,類似のいくつかの事例から,動物の行動を研究する科学者のあいだではさまざまな意見が出されたが,いまのところ科学者の大多数はイモ洗いをニホンザルにおける模倣学習の強力な証拠だとは見なしていないと言っていいだろう。

マルコ・イアコボーニ 塩原通緒(訳) (2009). ミラーニューロンの発見:「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 早川書房 pp.55-56

科学の進展は葬式をひとつ経るごとになされる

 たしかに多くの脳細胞は,限定的な働きにきわめて特化されているように見える。しかしながら,ニューロンを単純に類別できる——知覚と行動と認知それぞれの境界が越えられることはない——と思っている神経科学者は,もっとはるかに複雑なことをコードするニューロン活動,あるいはあえて大胆な言い方をすれば,脳がこれまで考えられていたよりもずっと「全体論的」に世界とかかわっていることを示唆するニューロン活動を,完全に見落としている(あるいは単なる偶然と切り捨てている)のかもしれない。ミラーニューロンはまさにそういう事例だった。パルマの研究者もみなそれぞれ優秀な科学者だったが,それでもやはり,運動ニューロンが同時に知覚ニューロンでもあるとは考えもしていなかった。これをよく言い表した古い名言がある——「科学の進展は葬式をひとつ経るごとになされる」。あまり縁起のよろしくない,かなり大げさな表現だが,誰でもご承知のとおり,古いパラダイムを捨て,まったく違った観点からものを見て,考え方を変えるのはとてもたいへんなことだ。これはなにも科学に限った話ではない。実際,パルマ大学の研究室で記録された「複雑な視覚反応」を理解するには当初,科学者たちはその世界で何十年も前から受け継がれてきた前提に異議を申し立てる心構えができていなかった。それらの前提をもとにして多くの生産的な研究がなされてきたのだし,これまでなされた発見はどれひとつとして,その前提に矛盾していなかったのである。

マルコ・イアコボーニ 塩原通緒(訳) (2009). ミラーニューロンの発見:「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 早川書房 pp.23-24

食糧安保は自給の問題ではない

 つまり,自給率という指標は外部に大きく依存しており,それ自体で自己完結できないのだ。そのため,それを何パーセント上げようという向上目標は成立し得ないのである。たとえば英国は産業革命以来,食料自給率を目標に掲げたことも,達成したこともなく,これからもすることがないだろう。英国は食料を多くの安定した国から調達している。多様性が安全保障を強化するのである。
 国内生産は当然必要だが,自給のために全国民が農業をしたからといって,100パーセントの自給率が達成できるわけではない。様々な手段で自分の能力を発揮し,必要な収入を得て,食料を始めとした多くの資源を手にできるのが先進国の証でもある。
 食糧安保とはリスク・マネジメントの課題であって,自給の問題ではない。国内農業の次元を完全に超えている。それは食料の問題ですらなく,一国の問題という次元でもとらえられないのだ。

浅川芳裕 (2010). 日本は世界5位の農業大国:大嘘だらけの食料自給率 講談社 pp.168-169

日本の農業生産量は増加している

 まず,日本の農産物総生産量は着実に増えている。1960年の4700万トンから,2005年には5000万トンへと300万トンの増産を実現しているのだ。ちなみにカロリーベースの自給率のほうは,1960年には79パーセントであったが,2005年には40パーセントに半減。多くの人は自給率半減と聞いて,生産量が半減したと勘違いしているはず。だが,実際は増産している。
 それぞれの品目で見ても,生産量が世界トップレベルのものが少なくない。ネギの世界一を筆頭に,ホウレンソウは3位,ミカン類は4位,キャベツは5位,イチゴ,キュウリは6位などと,世界のトップテン入りを果たしている農産物も多い。意外に思われるかもしれないが,キウイフルーツも世界6位であり,米国の生産量を上回っている。
 生産能力の4割を減反しているコメは10位だが,減反開始前の1960年代には3位だった。また果物の王様リンゴが14位,欧米のメジャー作物ジャガイモでさえ22位と健闘している。
 これだけの生産量を誇っている理由としては,日本が世界10位の人口大国だということもある。また,食文化の違いもある。さらに,下がったとはいえ国民所得も高い。昔は生きていくために,コメやイモ類などカロリーの高いものを大量に消費していたが,現在がイチゴやキウイフルーツをデザートとして,楽しむようになった。このように多様な果物や野菜を食べる食文化が根付いたことも背景にある。
 しかし,果物や野菜は総じてカロリーが低いため,どれだけ国産が増えてもなかなか自給率向上にはつながらない。それならば自給率などという曖昧な指標より,国内生産量のほうが国民にも農家にも圧倒的に重要ではないか。「日本の農家は食糧の増産に成功している」というシンプルな事実だけでも,食糧危機に対する漠然とした不安は払拭され,頼もしい産業であると農家への認識が改められるだろう。

浅川芳裕 (2010). 日本は世界5位の農業大国:大嘘だらけの食料自給率 講談社 pp.114-116

世界中で耕作地は減少している

 日本農業の問題点の1つとして,「農家数が減り,耕作放棄地が増えているから日本農業はこれから衰退する」という主張が,正論のようにまかり通っている点がある。確かに全国の耕作放棄地は,合計すると埼玉県の面積に匹敵するほどの規模にまで膨れ上がっている。
 しかし,放棄された農地はそもそも需要のない農地であり,実は放棄されたところで何ら問題はない。土地の条件が悪く無理して作付けしても儲からない。また農業以外の産業に従事するようになったという合理的な理由で,所有者が耕作をやめただけである。
 この現象は世界中で起こっている。過去10年間で日本の農地は70万ヘクタール減少したが,フランスでも54万ヘクタール,イタリアでは146万ヘクタール,米国に至っては373万ヘクタールも減少。それでも各国の生産量が増えているのは,生産技術が向上し,同じ面積で何倍もの収穫が得られるようになったためである。
 むしろ,耕作放棄地の増加にはメリットがある。成長農場が需要増に対応して,耕作放棄地を安く借りられる,また買える機会が増えるからだ。農場の収益も国の税収も地域の雇用も増える。まさに宝の山である。だから,耕作放棄地の増加は放っておけばいい。赤字の擬似農家を保護し放棄地を減らそうという政策は,税金の無駄使いでしかない。

浅川芳裕 (2010). 日本は世界5位の農業大国:大嘘だらけの食料自給率 講談社 pp.84-85

輸出競争力を伸ばすべき

 他国の政策にケチをつけるくらいなら,農水省は予算の使い道を見直すべきだ。EU全体で約4000億円の輸出助成金が割り当てられているのに対し,日本の輸出促進予算は22億円。意味のない自給率向上キャンペーンなどの情報発信費48億円の半分以下というのが,この国の農業政策の現実である。
 別の視点から見れば,英国やドイツの農家も日本の農家も,与えられた条件のなかで最大の所得機会を求めているにすぎない。英国,ドイツでは北海道より北にある生産条件と,昔と大きく変わらない食文化があるため,小麦やジャガイモ,畜産・酪農といった伝統的な農産物の生産量を上げ,輸出競争力を伸ばして所得を上げてきた。それがたまたまカロリーが高い基本食料だった。
 対する日本の農家は高度経済成長という条件の下,多様な気候条件と変化する消費ニーズに対応し,従来の穀物生産から所得がもっと上がる野菜や果物にシフトしてきたのだ。それが海外の大豆や小麦より競争力のある,カロリーの低い農産物だったのである。輸出が少ないのは,国内で売ったほうが儲かったからにすぎない。

浅川芳裕 (2010). 日本は世界5位の農業大国:大嘘だらけの食料自給率 講談社 pp.40-41

輸入量が減れば自給率は上がる

 ほとんどの国民が,「自給率が上がる=国内総生産が増える」ものだと解釈しているのではないか。ところが実際は,国産が増えようが減ろうがほとんど関係ない。自給率を上げようと思えば,分母に占める割合の大きい輸入が減れば済む。国産が増えなくても,毒ギョーザ事件などの外的要因によって輸入が減少すれば,自給率は自然と高まるのである。
 もしも日本の国際的な経済力が弱まり,海外での食料調達に買い負けすればするほど,何もしなくても自給率だけがどんどん高まっていく。だが本当にそのような地体が訪れれば,国民が入手できる食料は減り,摂取できるカロリーは減少する。
 発展途上国は軒並み自給率が高いが,それは海外から食料を買うお金がないからだ。貧困にあえぎ,栄養失調に苦しむ国民が多いにもかかわらず,自給率だけが高い。

浅川芳裕 (2010). 日本は世界5位の農業大国:大嘘だらけの食料自給率 講談社 pp.32

カロリーベース自給率の問題点

 カロリーベースの指標は生活実感にも即していない。たとえばスーパーに並ぶ野菜を見てもらいたい。自給率が41パーセントだというのなら,半分以上が外国産ということになる。しかし,実際は大半が国産品だ。このギャップは何なんだと疑問をお持ちの方も多いだろう。
 まさにその通りで,野菜の重量換算の自給率は80パーセントを超えている。2008年に,毒ギョーザ事件を始めとする中国産食品の危険性がクローズアップされたため,多くの野菜が中国からも輸入されているという印象が強いと思うが,中国産は10パーセント程度にすぎない。だが,野菜は全般的にカロリーが低いため,全供給量に占める国産カロリー比率は3パーセント,摂取カロリーでは1パーセントを占めるのみ。中国産野菜への依存率に至っては,0.1パーセントだ

浅川芳裕 (2010). 日本は世界5位の農業大国:大嘘だらけの食料自給率 講談社 p.31

日本は世界一の輸入国ではない

 日本の農業を語るとき,「零細な家族経営」であり,「高齢化が進み後継者がいない」「生産量が減っているから輸入せざるを得ない」,だから「衰退産業だ」という認識から出発している論調が多い。農水省や政治家が一様に自給率向上を叫ぶ根拠としても,「日本は世界最大の食料輸入国」であり,「海外に食料の大半を依存している」という前提がある。日本は世界でもっとも食料を買いあさっている国というわけだが,実はその認識からして誤っている。
 数字を見れば一目瞭然だ。日本,米国,英国,ドイツ,フランス5カ国の農産物輸入額(2007年)を比べると,1位が米国の747億ドル,2位がドイツの703億ドル,次いで英国535億ドル,日本460億ドル,フランス445億ドルという順になる。
 日本は世界最大の食料輸入国ではないのだ!


浅川芳裕 (2010). 日本は世界5位の農業大国:大嘘だらけの食料自給率 講談社 p.20

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